機動戦士ガンダムSEED DESTINY ~空白の少女~ 作:割戸三葉
マナド泊地の朝は、湿った風から始まった。
海から吹き込む空気には塩の匂いが混じり、格納庫の壁には薄く水気が張りついている。夜勤明けの整備兵が、首にかけたタオルで汗を拭いながら通路を歩いていた。
港湾側では、民間船の汽笛が遠く聞こえる。
戦争は近い。それは、この基地にいる誰もが知っていることだった。だが、それが今すぐここへ来るとは、まだ誰も思っていなかった。
待機室の片隅では、数人の駐屯兵が古い長机を囲んでいた。机の上には、角の擦り切れたカードが並んでいる。
「またそれかよ」
「読まれやすい顔をしてる方が悪い」
「顔でカード見るなよ」
「顔に書いてある」
缶入りの飲料を開ける音がした。
「お前、戦闘中もその顔するなよ。敵に全部読まれるぞ」
「戦闘中にカード持ってないだろ」
「そういう意味じゃない」
気の抜けた会話だった。
壁面モニターには周辺海域図が表示されている。マニラ方面、スラバヤ方面、セレベス海、モルッカ海。基地勤務の兵士たちにとっては見慣れた地図だった。
「ザフト、来ると思うか」
「来るならとっくに来てる」
「でも、カーペンタリアから艦隊が動いたって話があるだろ」
「噂だろ」
「警戒情報は出てる」
「警戒情報なんて毎週出てる」
カードが1枚、机に置かれる。
「ここは前線じゃない。前線になるかもしれない場所だ」
「それ、安心していいのか」
「少なくとも今、カードをやるくらいの余裕はある」
その時、待機室の照明が一段赤く落ちた。壁の警報灯が回転を始める。
『警戒態勢。全員、所定配置へ。繰り返す。警戒態勢。全員、所定配置へ』
カードが机の上でばらけた。
「何だ」
「哨戒線か」
さっきまでの笑い声が消える。
通信室の方から声が飛んだ。
「南方海域に多数の熱源! 艦隊規模です!」
「識別照合急げ!」
「航空反応もあります。高度を取っています!」
待機室の扉が開き、通信兵が駆け込んでくる。
「パイロットは格納庫へ! 全機、出撃準備!」
「敵か」
「ザフトです!」
その一言で、空気が変わった。
兵士たちは、手札も飲みかけの缶もそのままにして走り出す。廊下には、すでに人の流れができていた。整備班、誘導員、通信兵、基地防衛隊。誰もが自分の持ち場へ向かっている。
司令室では、基地指揮官が大型モニターを睨んでいた。南方海域に、複数の反応が並んでいる。輸送艦、護衛艦、戦闘艦、MS運用艦らしき反応。そこへさらに、高高度の航空反応が重なっていた。
「数は」
「艦艇反応、現在確認できるだけで20以上。MS運用反応も複数」
「マニラへ緊急通報。ザフト部隊、マナド方面へ進出中。増援を要請」
「了解」
「港湾管制へ避難勧告を出せ。民間船を退避させろ」
「はい」
別の幕僚が声を上げる。
「第1中隊、基地側防衛配置へ移行」
「第2中隊、港湾部へ展開中」
「沿岸砲座、起動確認」
「敵主力までの距離は」
「まだあります。ですが、航空反応が速い」
「先行部隊か」
「高度を取っています。雲上です」
その瞬間、別の警報が鳴った。
「高高度より複数機、急速降下!」
「上空です! 雲の上から来ます!」
「対空砲、上だ!」
命令が終わるより早く、空が裂けた。
雲を割って、ザフトの航空MSが現れる。濃い影が太陽を横切り、次の瞬間、港湾管制塔の外壁に火花が走った。
『上だ!』
『速い、砲が追いつかない!』
『アンテナを守れ、撃ち落と――』
通信が途切れる。
外部アンテナ群が撃ち抜かれた。白い破片が空中に散り、管制室の窓が内側から弾ける。低空で機首を引き起こしたバビが、対地兵装を切り離した。爆発が連続し、格納庫へ向かう車両通路がえぐれ、搬出中だったM1の列が止まる。
「管制塔に被弾!」
「外部アンテナ、損傷!」
「第2対空砲、沈黙!」
「MS格納区画、搬出路に着弾!」
対空砲が応射する。曳光弾が空へ伸びるが、ザフトの航空MSは一撃離脱で雲の中へ逃げ込む。遅れて別方向からディンが入り、砲座管制用の外部センサーを撃ち抜いた。
司令室の照明が一瞬落ちる。
「予備回線へ!」
「マニラへの送信、途切れました!」
「再送しろ!」
「港湾側、第2中隊が出ます!」
答えは、別のモニターに映った。港湾側の海面に、遠くから迫る艦影が並んでいる。
ザフト艦隊。
それはもう、ただの警戒情報ではなかった。
指揮官は歯を食いしばる。
「全隊へ通達。これは威力偵察ではない」
港湾奥で、また爆発が起きた。
「本格攻撃だ」
*****
ミネルバは、第2戦闘配備のままマナド沖にいた。
正面モニターの向こうでは、海岸線の一部から黒煙が上がっている。雲の切れ間を抜けた航空MS部隊の初撃は通り、管制塔と外部アンテナ群は沈黙しかけていた。
だが、泊地そのものはまだ落ちていない。
「第一群、港湾外縁へ接近」
「敵MS反応、二方向に分離。基地側に一個中隊、港湾側に一個中隊です」
「沿岸部の大型砲座群、起動継続。第一群の前進速度が落ちています」
メイリンの報告に、アーサーが顔をしかめる。
「まだ砲座が生きているのか」
「初撃で管制塔の一部は叩いています。ただ、予備系統に切り替わった可能性があります」
「港を使うなら、艦砲で吹き飛ばすわけにもいかないわね」
タリアは戦術表示を見ていた。第一群の進路が、港湾入口の手前で鈍っている。前へ出たい本隊と、そこへ火線を重ねる沿岸施設。さらに、その隙間をオーブのMSが埋めていた。
「主攻旗艦より通信。ミネルバ宛です」
「回して」
ブリッジに低い男の声が入った。
『こちら主攻旗艦。港湾側の制圧に遅れが出ている。大型砲座群がまだ動いているうえ、敵MSが射線へ誘導してくる。戦艦砲で潰せなくはないが、港湾施設を巻き込む』
「こちらのMS隊を使え、ということですね」
『頼めるか。砲座の管制と護衛を剥がしてくれれば、第一群を入れられる』
「受けます。ミネルバ隊を出します」
『助かる。こちらも合わせる。第一群、ミネルバ隊が開けた線を使え』
『了解。進入準備、できています』
カーペンタリア側の声が、短く応じた。
タリアは頷く。
「MS隊、発進準備。インパルス、セイバー、ザク2機を出します」
「了解。MS隊、発進準備!」
メイリンが格納庫へ回線を開く。
『インパルス、セイバー、ザク、発進準備。目標、港湾外縁の砲座管制および護衛MS』
『了解』
『レギナントは』
セラの短い確認が入った。
「セラは待機。レギナントは出しません」
『了解しました』
それ以上の問い返しはなかった。
発進警告灯が走る。インパルスの固定アームが外れ、続いてセイバーがカタパルト位置へ移動する。ルナマリアとレイのザクも、それぞれ武装チェックを終えていた。
「シン・アスカ、インパルス、行きます!」
「アスラン・ザラ、セイバー、出る」
「ルナマリア・ホーク、ザク、出ます」
「レイ・ザ・バレル、ザク、出る」
4機が次々と海上へ飛び出した。
*****
港湾部では、第一群がコンテナ群の手前で足を止められていた。大型砲座の一撃で海面が跳ね上がり、倉庫の壁が吹き飛ぶ。ザフトの陸戦MSが前へ出ようとすると、オーブのM1とムラサメが横から撃ち込み、下がったところへ砲身が向いた。
『前へ出られません!』
『砲座がこちらの動きに合わせてきます!』
『右、敵MS! 誘導されてるぞ!』
通信が荒れる中、上空を赤い機体が横切った。
セイバーが港の上へ出る。
「上は抑える。シン、正面から砲座に突っ込むな」
『分かってますよ!』
インパルスは砲身の真正面には入らず、倉庫とコンテナの隙間へ滑り込んだ。護衛に出ていたM1が迎撃する。
『白と青の機体、来るぞ!』
『砲座の前へ押し込め!』
『抜けられた!』
シンはシールドで一射を受け、機体を低く沈めて横へ抜けた。
「そこをどけ!」
ビームライフルの一撃が、M1の脚部を撃ち抜く。敵機が崩れたところへ第一群の陸戦MSが射撃を重ね、別のM1が牽制に動いた。
『今だ、左を使う!』
『煙幕を前へ。砲座の首を押さえろ!』
カーペンタリア側の陸戦MSが、コンテナの陰から前進を始める。
ルナマリアのザクは、倉庫屋根の影を使って前へ出た。
「管制塔、見えた。外部センサーが残ってる」
『こちらでも確認した。上部右側、まだ動いている』
レイの声に合わせ、ルナマリアは砲座そのものではなく、塔の外壁へ照準を寄せた。
「落とす!」
ザクの射撃が、管制塔の側面を削る。装甲板が剥がれ、外部センサーの1つが火花を散らして吹き飛んだ。
「第1砲座、火線が途切れました!」
「第一群、左側の射線が薄くなっています!」
ミネルバのブリッジでメイリンが声を上げる。
「主攻旗艦へ送って。左側を使える」
「了解!」
第一群が動き出す。陸戦MS数機が煙幕を張り、別の機体が砲座の側面へ回る。前に出た部隊を守るように、インパルスが護衛MSを押し返した。
『シン、下がれ』
レイの声と同時に、彼のザクが別角度から撃った。砲座の基部を覆う外装が焼け、旋回部の一部から黒煙が噴き出す。
「今だ。第一群、前へ」
アスランの声に、主攻旗艦の通信が重なった。
『第一群、前進! 開いた線を閉じさせるな!』
陸戦MSがコンテナの陰から走り出す。ミネルバ隊が先に踏み込んだ場所へ、第一群の機体が続いた。
「敵第2中隊、後退を開始!」
「第1砲座、発砲停止!」
「第2砲座、砲身旋回が止まりました!」
「揚陸隊、前進準備に入ります!」
報告が重なり、ブリッジの空気がわずかに動いた。
だが、タリアは表情を変えない。
「まだ終わっていません。敵を港湾奥へ押し込みすぎないで」
「はい」
その直後、ルナマリアのモニター端に、MSではない影が映った。倉庫区画の北側、コンテナの間を数台の車両が走っている。その後ろに、作業服らしき人影が続いていた。
「港湾奥、非戦闘員らしき反応あり。位置を送ります」
『確認した』
ミネルバからタリアの声が返る。
『全機、港湾奥への射線に注意。砲座と管制施設を優先。市街地方向へ火線を伸ばさないで』
「了解」
インパルスの前にいたM1が、倉庫区画の奥へ逃げようとした。シンは追いかけかけたが、ルナマリアの声が割り込む。
『シン、そっちはだめ』
『分かってる!』
返事は荒かったが、インパルスは敵機を追い切らず、機体を反転させた。逃げたM1は倉庫の影へ消える。その背中を撃つ者はいなかった。
『港湾奥に人影がある。火線を伸ばすな』
『了解。砲座だけ潰す』
『前へ出るぞ。止まるな!』
第一群の通信が短く交差する。
レイのザクが再び射線を合わせ、残っていた外部センサーを撃ち抜いた。塔の上部が弾け、海側へ向いていた砲身の動きがさらに鈍る。
「第2砲座、追尾が遅れています!」
「第一群、港湾外縁へ進入!」
「敵MS、北側へ後退!」
第一群の機体が前へ出た。砲座の側面へ回り込んだ陸戦MSが、給弾口と外部配線を狙って撃つ。派手な爆発は起きない。ただ、砲身が止まり、そこへ向かっていた火線が途切れた。
「第3砲座、発砲停止!」
「進路、開きました!」
アーサーが息を吐く。
「抜けた……」
「第一群へ。進入路を確保したと伝えて」
タリアは短く命じた。
「ミネルバ隊は深追い禁止。砲座周辺の警戒を継続。敵残存機を市街地側へ追い立てないで」
「了解。全機へ通達します」
通信が飛ぶ。
『ミネルバより各機。深追い禁止。砲座周辺の警戒を継続。第一群の進入を支援』
『了解』
『了解』
『了解』
シンの返事だけが、ほんの少し遅れた。
『……了解』
タリアはその間を聞き逃さなかったが、何も言わなかった。
*****
マナド泊地の司令室では、報告が途切れなくなっていた。
「港湾管制塔、損傷拡大!」
「第1砲座、応答ありません! 第2砲座、旋回機構に異常!」
「第2中隊、港湾外縁から後退しています!」
「基地南側、第1中隊は再編中。搬出路の復旧、間に合いません!」
「外部通信、断続。マニラへの送信は継続中!」
基地指揮官は拳を握った。
「港湾奥の退避は」
「一部車両が北側へ移動中。ただ、全体は把握できていません」
「使える車両を回せ。港の職員を市街地側へ逃がせ」
「防衛線が崩れます」
「基地が残っても人が死ねば意味がない。やれ」
「了解!」
司令室の外で爆発が起き、天井から粉塵が落ちた。照明が揺れ、モニターの1つが砂嵐に変わる。
「敵部隊、港湾外縁へ進入!」
「南側倉庫区画、突破されます!」
「第2中隊より後退許可を求めています!」
指揮官はモニターを見た。
赤い機体が上空を押さえ、青と白の機体が前へ出ようとするMSを押し返している。砲座の周囲では、ザフトの機体が次々と射点を潰していた。その後ろから、主力の陸戦MSが流れ込んでくる。
単独の機体に敗れたわけではない。戦線を押し込まれたのだ。
「戦闘継続不能な部隊は北側退避路へ下がれ。機体を捨てても構わん」
「司令」
「ここで全滅しても、次の部隊に何も伝えられない。敵の規模、進入経路、ミネルバの位置。持ち帰れるものは全部持ち帰れ」
「了解!」
黒煙の向こうで、オーブの機体が1機、片膝をつく。その横を、ザフトの機体群が越えていった。
*****
ミネルバの正面モニターでは、戦術表示が少しずつ塗り替わっていた。
「第一群、港湾外縁へ進入」
「第1から第3砲座、火線消失。発砲は確認されません」
「敵第2中隊、北側へ後退」
「揚陸隊、前進準備」
「主攻旗艦より通信。支援に感謝、とのことです」
アーサーが肩の力を抜く。
「突破口は開きましたね」
「ええ。でも制圧はこれからよ」
タリアはモニターを見つめたまま言った。
進入路はできた。だが、港湾施設はまだ混乱している。倉庫、管制、補給設備、残存機、退避中の人影。すべてを確認しながら進まなければならない。
『こちらインパルス。港湾外縁、抜けた』
「シン、深追いはしないで」
『分かってます』
「分かっているだけでは足りないわ」
『……了解』
タリアは次にメイリンを見た。
「非戦闘員反応は」
「移動中です。第一群にも位置情報を共有済み」
「引き続き監視。港湾奥へ火線が伸びそうなら即時警告」
「はい」
「レギナントは」
「待機のままです」
「セラにも伝えて」
「了解」
通信が格納庫へ入る。
『セラ、レギナントは待機継続』
『了解しました』
セラの声は短かった。
タリアは正面へ視線を戻す。黒煙が海風に流され、遠くに市街地の輪郭が見えた。第一群は港へ入る。揚陸隊も続く。マナド泊地は、すでに最初の防御線を失っている。
だが、戦闘は終わらない。
この場所を奪うだけでは足りない。使える状態で残し、後続を迎え、反撃に備えなければならない。その向こうから、まだ見えない増援が来る。
「ミネルバ隊は第一群の進入支援を継続。艦は現位置を維持」
「了解」
ミネルバは海上で進路を保った。
黒煙の奥へ、カーペンタリアから来た部隊が踏み込んでいく。