機動戦士ガンダムSEED DESTINY ~空白の少女~ 作:割戸三葉
アークエンジェルのブリッジは、静かだった。
正面モニターには、果ての見えない海が映っている。
波は穏やかで、空は薄く曇っていた。戦場から遠く離れた場所にいるように見える。だが、その静けさが安全を意味しないことを、この艦の誰もが知っていた。
マナドでの戦闘に介入してから、もう10日近くが経とうとしている。
キラはモニターの海を見つめたまま、手を強く握っていた。
表情は硬い。怒りというより、悔しさに近いものがそこにあった。
マナドでの戦いは、順調とは言えなかった。
むしろ、思うようには何1つ運ばなかったと言うべきだった。
オーブ軍を止めたかった。
戦闘を広げたくなかった。
あの場所で、これ以上の犠牲を出したくなかった。
だが、戦場にはミネルバがいた。
ザフトの精鋭艦。
そこから飛び出してきたインパルス。そして、あの白い機体。
2機の乱入によって、戦闘を止めるどころか、アークエンジェルは最後まで追い回されることになった。
フリーダムも無傷では済まなかった。
キラの目がさらに険しくなる。
インパルスは強かった。
シン・アスカというパイロットの動きには、怒りと執念が混じっていた。以前よりも鋭く、迷いなく、こちらを落とすために踏み込んできた。
それでも、アークエンジェルが危機に晒された瞬間、キラは集中を深めた。
守らなければならないものがある。
そう思えば、体は動いた。判断もできた。
結果として、インパルスを退けることはできた。
だが、問題はその後だった。
白い機体。
レギナントと呼ばれていた、あのMS。
フリーダムがそれを無力化しようと迫った瞬間、キラは強烈な違和感を覚えた。
まともに組み合ってはいけない。
直感がそう告げていた。
だが、下がることはできなかった。下がろうとすれば先に入られる。進もうとすれば、もうそこにはいない。こちらのビームサーベルの軌道を読まれたというよりも、動き出す前の選択そのものを先に潰されているようだった。
焦りが募る。
焦りは判断を鈍らせる。
最後に、白い機体は自らを盾にするようにして攻撃を仕掛けてきた。
あれが本当に自己犠牲だったのか、キラには分からない。
ただ、その時のキラには、あの機体に強い覚悟があるように見えた。
自分にも、覚悟はあったはずだった。
守るために戦っている。
そのつもりだった。
それなのに、あの白いMSには届かなかった。
「キラ君」
背後から声がかかる。
キラが振り返ると、マリュー・ラミアスが近づいてきていた。
「先日からずっと深刻な顔をしているけど、大丈夫?」
「すみません。心配をかけて」
「いいのよ。マナドのこと?」
「……はい。また、思い出していました」
マリューはキラの横に立ち、同じようにモニターを見る。
「無理もないわ。フリーダムも、あんな状態になるなんて」
格納庫では、応急修理が続けられている。
フリーダム本体の損傷は致命的ではない。関節、推進系、機体制御は何とか維持できている。だが、兵装の多くは失われた。
ビームライフルとシールドは、艦内の予備で補充できた。
しかし、腰部レール砲はまだ使用不能。背部ウィングの収束ビーム砲も展開できないままだ。フリーダムは動ける。だが、本来の火力を発揮できる状態ではなかった。
「ひとまず、島に戻れば修理も補給も受けられます。それまでの辛抱です」
「そうね」
マリューは頷いた。
だが、その表情から心配は消えなかった。
「あなたも心配だけど……カガリもね」
「……はい」
キラの声が少し沈む。
マナドでの戦闘から戻って以来、カガリは自室に籠もりがちだった。
食事の場に出てきても、ほとんど話さない。出されたものに手をつけることも少なく、ずっと俯いたまま、何かを考え込んでいる。
無理もないと、キラたちは思っていた。
目の前で、愛するオーブの兵たちが戦っていた。
止めようとした言葉は届かなかった。
そのまま戦闘は広がり、最後にはミネルバの主砲によって多くの犠牲者が出た。
カガリが傷つかないはずがない。
だから、マリューもキラも、無理に問い詰めることはしなかった。
けれど、キラにはそれだけではないようにも見えていた。
カガリは、何かを抱えている。
戦場で見た何かを、まだ言葉にできずにいる。
「もう少し時間を置いて、落ち着いたら話をするわ」
マリューが静かに言う。
「今は無理に聞き出すより、本人が話せる時を待った方がいいと思う」
「そうですね」
キラは頷く。
ラクスはもう、この艦にはいない。宇宙へ上がり、自分たちとは別の場所で動いている。
だからこそ、カガリが抱えているものに気づいていても、すぐに誰かが受け止められるわけではなかった。
「ただ、カガリもこのままでは――」
マリューが言いかけた、その瞬間だった。
艦が大きく揺れた。
床が軋み、ブリッジの照明が一瞬だけ乱れる。
警報音が鳴り、モニターの海面に白い水柱が立ち上がった。
「上空より砲撃、至近弾!」
ミリアリアの声が、ブリッジに響く。
「敵です! 上空に艦影!」
「回避運動!」
マリューが即座に命じる。
「急速潜航、急いで!」
ノイマンの手が操舵盤を叩く。
「了解! 急速潜航!」
アークエンジェルの艦体が海面を割り、深く沈み込もうとする。
その頭上、雲の切れ間から、巨大な影が降りてくる。
ミネルバだった。
キラはモニターを見上げる。
さっきまで見えなかった追跡者が、もうそこにいた。
「ミネルバ……!」
その名を口にした瞬間、次の砲撃が海面を裂いた。
*****
アークエンジェルのブリッジに砲撃の警報が響く、少し前。
「シン・アスカ、インパルス、出撃します!」
「アスラン、セイバー、出る」
「セラ、レギナント、出撃します」
インパルスがカタパルトを蹴り、セイバーがそれに続く。
白いレギナントは、2機の後方から滑るように空へ出た。
さらに、ミネルバの甲板上へザクが2機、展開する。
「ルナマリア、ザク、出ます!」
「レイ・ザ・バレル、ザク、出る」
ルナマリア機とレイ機が、艦上から射線を取る位置へ移動した。
タリアの通信が、各機へ入る。
『インパルス、セイバーが先行。レギナントは2機を援護。ルナマリア、レイはフリーダムに備えて』
「了解!」
シンの返事は勢いがあった。
その声に、だが以前のような飛び出す程ではない。
まだアークエンジェルの姿は見えていない。
だが、その先にいると分かっただけで、戦場の空気は変わっていた。
「レギナント、単機先行での一撃離脱を申請」
『だめよ』
タリアの返答は早かった。
「今なら対象の足止めが可能。2機が到着した状態では使用できない戦術です」
艦橋に短い沈黙が落ちる。
アーサーがタリアを見る。
メイリンも、通信表示に目を向けたまま手を止めた。
タリアはモニター上の距離表示を見る。
推定航跡。アークエンジェルの予測位置。こちらのMS隊の速度。
そして、レギナントの機動力。
数秒後、タリアは口を開いた。
『いいわ。その作戦の成否にかかわらず、必ず離脱すること』
「了解」
レギナントが2機の前へ出る。
『セラ!』
シンの声が通信に割り込む。
『無茶するなよ』
「成否にかかわらず離脱します」
答えは短かった。
シンは一瞬だけ黙り、それから息を吐くように返す。
「……分かった」
続いて、アスランの声が入った。
『こちらは速度を落とす。必要な時間は』
「数秒で足ります」
『了解した。進路を開ける』
インパルスとセイバーが、わずかに速度を落とした。
その前方で、レギナントだけが加速姿勢へ移る。
白い機体のスカート装甲が開き、推進光が細く伸びた。
次の瞬間、加速する。
空気が裂けた。
白い影が、海面すれすれへ向けて落ちていく。
飛ぶというより、滑るというより、射出された刃のように一直線に前へ出る。
「は、速すぎるぞ……!」
「俺たちでも追いつけない!」
シンの声が遠ざかる。
アスランの反応も、通信の向こうへ置き去りになっていく。
レギナントはすでに小さくなっていた。
ミネルバの索敵線の先、アークエンジェルがいると推定される海域へ向かって、単機で突き進んでいく。
「艦長、主砲射程に到達します」
メイリンが振り返る。
タリアは頷いた。
「トリスタン、目標アークエンジェル推定位置」
「トリスタン、目標アークエンジェル推定位置!」
アーサーが復唱する。
青白いビームが海面を裂き、遠方へ突き刺さる。
水柱が立ち上がり、遅れて爆音が空へ広がった。
「命中なし!」
「撃ち続けて」
タリアは冷静に命じる。
ビームの雨が、アークエンジェルの進路上へ落ちていく。
水柱が並ぶ。
その下を、レギナントはさらに低く潜り込むように抜けていった。
海面の乱れ。
薄い排熱痕。
潜航を始めようとしている大型艦の位置。
セラはそれらを見ていた。
「対象、潜航開始」
アークエンジェルの艦首が、海面を割り始める。
白い飛沫が甲板を覆い、艦体が深く沈もうとする。
その直上を、白い影が横切った。
CIWSが反応する。
光弾が空へばら撒かれ、海面を叩き、白い水柱を細かく跳ね上げた。
だが、レギナントは射線の隙間を滑るように抜ける。
撃たれる前に位置を変える。
撃たれた時には、もうそこにはいない。
「電気ネズミ君、散布」
スカート装甲の内側から、小型の装置が8つ、弾かれるように放たれた。
それらはレギナントの速度を受けたまま、アークエンジェルの甲板と周囲の海面へ散っていく。
爆発ではない。
閃光もない。
ただ、艦を包むように、小さな端末が瞬いた。
「起動」
次の瞬間、アークエンジェルの周辺で、通信帯域が白くざらついた。
*****
アークエンジェルのブリッジに、異常警報が一斉に鳴り響いた。
「潜航制御系に異常!」
「艦外センサー、反応不安定!」
「近接防御火器、照準系ダウン!」
「バラスト制御、一部応答ありません!」
報告が次々と飛ぶ。
そのどれもが、今のアークエンジェルにとっては致命的だった。
艦は潜航に移ろうとしていた。
だが、潜る途中で制御を失えば、姿勢を崩す。バラスト制御が乱れれば、浮上も沈降も思うようにいかなくなる。センサーが死ねば、海中で自分の位置すら正確に掴めない。
マリューは歯を食いしばった。
「潜航中止! 浮上姿勢を維持!」
「了解、潜航中止!」
ノイマンが操舵を切る。
アークエンジェルの艦体が、強引に海面へ戻されていく。
「敵MS、高速で離脱!」
「今のは……何をされたんだ!」
ブリッジに混乱が走る。
ミリアリアが必死にデータを拾うが、表示は乱れたままだった。
「詳細不明! でも、周辺に何かを散布されました!」
「妨害装置か……!」
マリューは状況を飲み込む。
ミネルバは、こちらが潜ることを読んでいた。
そして、潜れなくした。
ならば、次に来るのは追撃だ。
ブリッジの扉が開く。
「僕が出ます」
キラだった。
マリューが振り返る。
「キラ君、フリーダムはまだ万全じゃないわ」
「分かっています。でも、今出ないとアークエンジェルが狙い撃ちにされます」
「でも――」
「時間を稼ぎます。逃げるための時間を」
キラの声は静かだった。
だが、その目はもう決めている。
フリーダムは傷ついている。
腰部レール砲は使えない。
背部ウィングの収束ビーム砲も展開できない。
それでも、この艦を守るために出せる最大戦力は、まだフリーダムだった。
マリューは一瞬だけ目を閉じる。
止める言葉は、見つからなかった。
「……フリーダム、出撃を許可します。無理はしないで」
「はい」
キラが踵を返そうとした時、別の声がした。
「私も出る」
カガリだった。
ブリッジの入口に立つ彼女の顔は、まだ青ざめていた。
けれど、その目だけは、さっきまでの沈黙とは違っていた。
マリューが眉を寄せる。
「カガリ」
「分かってる。ルージュで出る。今のアークエンジェルを守るには、機体が1つでも必要だ」
「でも、あなたは――」
「艦長」
カガリが真剣な眼差しでマリューの目を見る。
「出撃許可を」
マリューは言葉を失う。
今は戦闘中だ。
カガリを止めたい気持ちと、出さなければ艦が危ないという現実がぶつかる。
キラがカガリを見る。
「カガリ、無理はしないで」
「それはお前もだ、キラ」
短いやり取りだった。
だが、それだけで十分だった。
マリューは艦長席へ向き直る。
「ストライクルージュ、出撃を許可します。キラ君、カガリ、アークエンジェルを守って」
「はい」
「ああ!」
格納庫へ向かって、2人が走る。
ブリッジでは、再び警報が鳴った。
「上空、MS接近! インパルス、セイバー、続いてレギナント!」
「ザク2機、ミネルバ甲板上で射撃位置!」
マリューは前方モニターを睨む。
潜ることはできない。
逃げ切るには、時間が必要だった。
「艦を立て直すまで、何としても持ちこたえるわ」
潜れないアークエンジェルを守るため、傷ついたフリーダムと赤いルージュが空へ上がろうとしていた。