機動戦士ガンダムSEED DESTINY ~空白の少女~ 作:割戸三葉
艦長室の扉が閉まった。
重い金属音が、室内に小さく響く。
L-31は警備兵に促されるまま、用意された椅子へ腰を下ろした。
向かい側には、タリア・グラディス。
その隣にアーサー。
少し離れた位置には、アスランが立っている。
室内の空気は静かだった。
作戦会議の前にも似ている。
だが、そこにある緊張の質は少し違っていた。
目の前にいるのは、先日までミネルバ隊と交戦していた敵パイロット。
同時に、医務室で保護された幼い少女でもある。
そのどちらとして扱うべきなのか。
まだ誰も、答えを出せていなかった。
L-31は表情を変えない。
手錠を掛けられた両手を膝の上に置き、ただ静かに座っている。
怯えも、反抗もない。
まるで、次の指示を待っているだけのようだった。
タリアは、机の上に置いていた資料を閉じる。
そして、少しだけ声を柔らかくした。
「医務室での生活はどうだった?」
L-31は一瞬だけ考えた。
「問題ありません」
「そう」
タリアは頷く。
「食事は口に合ったかしら」
今度は、少し長い沈黙があった。
質問の意味を整理しているようにも見える。
やがて、L-31は答えた。
「栄養摂取に支障はありません」
アーサーの眉が、小さく動いた。
タリアは表情を変えない。
「好きな食べ物は?」
再び、沈黙。
「不明です」
「不明?」
「好き嫌いについて、十分な知識がありません」
室内が静かになる。
アスランは黙ったまま、L-31を見ていた。
彼女は、嘘をついているようには見えない。
質問を拒んでいるようにも見えない。
ただ、本当に分からないのだ。
タリアは、少しだけ角度を変えた。
「医務室では退屈だったんじゃない?」
「退屈?」
L-31が、わずかに首を傾げる。
「暇だったか、という意味よ」
また数秒の間。
「待機状態でした」
会話が、わずかに噛み合わない。
だが、本人は真剣に答えている。
からかっているわけでも、反抗しているわけでもない。
アーサーは困ったように口元を引き結んだ。
タリアはその様子を、注意深く観察していた。
訓練された兵士の受け答えにも見える。
命令に従い、必要なことだけを返す。
余計な感情を挟まない。
だが、それとも違う。
兵士なら、命令の奥に感情が残る。
緊張も、不満も、恐怖も、誇りも。
どれほど押し殺しても、人間の揺れは完全には消えない。
目の前の少女からは、その揺れが見えなかった。
「何か欲しいものはある?」
タリアは、試すように聞いた。
L-31は即座には答えなかった。
「質問の意図が理解できません」
「本でもいいし、お菓子でもいい。医務室で必要なものがあれば、という意味よ」
「必要な物資は支給されています」
即答だった。
欲しいもの。
好きなもの。
退屈な時間。
気に入った食事。
そういう概念そのものが、彼女の中ではうまく結びついていないようだった。
タリアは小さく息を吐く。
ここまでで、十分だった。
この少女は警戒しているのではない。
心を閉ざしているのでもない。
そういう会話の前提を、そもそも持っていない。
アスランも、同じ違和感を覚えているようだった。
表情は変えない。
だが、視線だけは動かない。
まるで、機械と会話しているような感覚。
しかし、目の前にいるのは機械ではない。
細い肩をした、幼い少女だった。
タリアは姿勢を正した。
「それじゃ、少し真面目な話をしましょう」
「了解しました」
L-31は、短く答えた。
「所属は?」
「研究所所属です」
即答だった。
アーサーが端末に記録を取る。
「その研究所の名称は?」
L-31は答えた。
タリアにも、アーサーにも、聞き覚えのない名称だった。
隠そうとする様子はない。
むしろ、隠すという発想そのものが存在しないように見える。
タリアは次の質問へ移った。
「あなたの名前は?」
L-31は、まっすぐにタリアを見る。
「ありません」
室内の空気が止まった。
「……名前がないの?」
タリアが問い返す。
「識別番号はL-31です」
アーサーが顔を上げる。
アスランも、わずかに目を細めた。
名前ではない。
コードネームでもない。
識別番号。
資料上では、対象パイロットの識別番号として確認されていた。
それでも、本人の口から「名前はない」と告げられると、重さが違った。
彼女は、自分に名前がないことを疑問に思っていない。
不足だとも、不幸だとも考えていない。
ただ、登録情報を答えているだけだった。
タリアは、少し間を置いてから頷いた。
「……そう」
それ以上、その件を追及しなかった。
今、問い詰めても意味はない。
目の前の少女は、名前がない理由を悲劇として語ることができない。
おそらく、そういうものとして与えられていない。
タリアは、次の質問へ移る。
「輸送艦の任務は?」
「対象物資と機密資料の移送です」
「あなたの任務は?」
「対象艦の防衛、および追跡戦力の阻止です」
「ミネルバを撃破する命令は受けていた?」
「受けていません」
「では、なぜ攻撃したの?」
「接近阻止のためです」
返答は簡潔だった。
余計な言葉はない。
聞かれたことにのみ答え、感情を挟まない。
捕虜としては、理想的ですらあった。
嘘を吐かない。
取り乱さない。
無駄に抵抗しない。
だが、話が進むほど、室内の違和感は大きくなっていった。
これは従順さではない。
忠誠とも違う。
恐怖で口を閉ざしているわけでもない。
彼女は、自分の状況を説明している。
ただそれだけだった。
やがて、タリアは少し声を落とした。
「その研究所では、何をしていたの?」
L-31は、初めて少しだけ考えた。
質問の意図を整理しているように、視線がわずかに下がる。
そして、答えた。
「人格形成研究です」
タリアの手が止まった。
アーサーの端末を打つ音も消える。
アスランが、わずかに眉を寄せた。
「人格形成研究?」
タリアが繰り返す。
「はい」
L-31は頷く。
「私は被験体でした」
その声に、震えはなかった。
恥じる様子もない。
苦しむ様子もない。
ただ、事実を述べている。
アーサーが何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。
被験体。
その言葉を、目の前の少女は自分自身に向けて使った。
まるで所属や役職を答えるように。
何の違和感もなく。
タリアは静かにL-31を見つめた。
医務室での生活は問題ない。
食事は栄養摂取。
退屈は待機状態。
欲しいものはない。
名前はない。
識別番号はL-31。
研究所では、人格形成研究の被験体。
一つ一つの答えが、彼女の輪郭を作っていく。
そしてその輪郭は、普通の少女からどんどん遠ざかっていった。
タリアは、机の上の資料へ視線を落とす。
未知のMS。
ラクス・クラインに酷似した容姿。
感情の乏しい受け答え。
そして、人格形成研究。
材料は揃い始めている。
だが、結論を急ぐには危険すぎた。
「……分かりました」
タリアは静かに言った。
「今日は、ここで一度区切ります」
「了解しました」
L-31は、何の疑問も挟まず頷く。
タリアはアーサーへ視線を送った。
「医務室へ戻して。警備は継続」
「はい」
アーサーが立ち上がる。
警備兵が扉の外から入室し、L-31の横についた。
L-31は促されるまま立ち上がる。
椅子を引く音だけが、やけに大きく聞こえた。
扉へ向かう途中、アスランの視線が彼女に向けられる。
L-31も一度だけ、アスランを見た。
そこに、何の感情も浮かばない。
警戒も、興味も、怯えもない。
ただ、そこにいる人物を確認しただけ。
そしてL-31は、警備兵に連れられて艦長室を出ていった。
扉が閉まる。
残された室内に、重い沈黙が落ちた。
名前がない。
好きなものも、欲しいものも分からない。
自分を被験体だと答える。
それだけで、十分すぎるほど異常だった。
タリアは机の上で手を組み、目を伏せる。
この件は、想像していたよりも深い。
そしておそらく、今聞いたことはまだ入口にすぎない。
そんな予感だけが、艦長室の空気をさらに重くしていた。