機動戦士ガンダムSEED DESTINY ~空白の少女~   作:割戸三葉

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95.血と痛みと歪み

ミネルバがコロニー群を出港してから、数時間が過ぎていた。

 

月周辺を離れた艦は、L5へ向かう航路に乗っている。

戦闘配備は解除されていたが、艦内には作戦直後の慌ただしさとは違う、低く抑えられた忙しさが残っていた。

 

補給物資の確認、応急修理箇所の再点検、次の目的地へ向けた航路調整。

誰も走ってはいない。

けれど、誰も完全には気を抜いていない。

 

その中で、セラは医務室から共同病室へ移されていた。

 

数日分の処置と安静の効果は出ている。

血圧も脈拍も危険域から離れ、激しい頭痛も収まっていた。

点滴も外され、医師からは短時間であれば起き上がることも許可されている。

 

ただし、出撃は禁止。

格納庫への立ち入りも禁止。

単独行動も、原則禁止。

 

セラに与えられた命令は、待機だった。

 

共同病室は広かった。

壁際にはいくつものベッドが並び、仕切り用のカーテンが整えられている。

本来なら、複数の負傷兵をまとめて収容するための部屋だった。

 

けれど今、この部屋で使われているベッドは、入り口に一番近い一床だけだった。

白いシーツ。

低く抑えられた照明。

壁面に並ぶ医療端末の表示音。

 

セラは、その一床に横になっていた。

 

眠っているわけではない。

目は開いている。

呼吸は落ち着いている。

ただ、体を動かす必要がないため、動かしていないだけだった。

 

艦の振動は小さい。

航行中のミネルバは、戦闘中とは違う音を立てる。

床下を伝う低い駆動音。

遠くで閉じる隔壁の音。

どこかで誰かが歩く足音。

 

そのどれもが、研究施設にはなかった音だった。

 

けれど、広い部屋。

並ぶベッド。

ひとりだけが残されている空間。

 

それは、セラの中にある別の記憶を、ゆっくりと押し上げていた。

 

まだセラではなかった頃。

まだ名前を与えられていなかった頃。

L-31と呼ばれていた頃。

 

いつも、こんな大部屋にいた。

 

*****

 

大部屋の朝は、照明が点く音から始まった。

 

明るくなる前に、天井の端で小さく機械音が鳴る。

次に、白い光が壁と床を満たす。

それから、番号が呼ばれた。

 

呼ばれた個体は起き上がり、検査用の列に並ぶ。

呼ばれなかった個体は、その日の実験対象ではないか、もうそこにはいない個体だった。

 

L-31は、番号が呼ばれるたびに起き上がった。

 

部屋には、いくつものベッドが並んでいた。

白い壁。

白いシーツ。

消毒液の匂い。

 

そこにいた個体は、すべて番号で呼ばれていた。

 

起床、検査、投薬、接続、記録、休止、再接続。

その繰り返しの中で、L-31は生きていた。

 

神経接続の実験は、いつも同じ手順で進む。

 

固定具が閉じる。

首の後ろに冷たい端子が当てられる。

投薬のあと、研究者が数値を読み上げる。

 

開発者は、いつもガラスの向こうでデータの変化を見ていた。

実験対象が何を感じているかよりも、信号がどこまで届いたかが重要だった。

 

機体は、まだMSと呼べるものではなかった。

制御信号を受け取るだけの、ただの機械の塊。

 

接続が始まると、自分の体ではないものが神経の先に現れる。

自分の腕ではない腕。

自分の脚ではない脚。

自分の身体ではない身体。

 

痛みを受け入れられなかった個体は、すぐに反応を崩した。

 

呼吸が乱れる個体がいた。

固定具の中で暴れる個体がいた。

叫ぶ個体もいた。

声が出ないまま、口だけを開く個体もいた。

 

実験は止まり、記録が取られ、個体は運び出される。

 

翌朝から、その番号は呼ばれなくなった。

 

L-31がそちらを見ると、ベッドはすでに整えられていた。

シーツは新しく、番号札は外されている。

前の日までそこにあった姿も、眠る前に小さく身じろぎする音も、何も残っていなかった。

 

誰も何も言わない。

 

消えた個体は、失敗として処理された。

どの出力で耐えられなかったか。

どの接続数で停止したか。

どの信号に拒絶反応を示したか。

どの条件で生命活動が停止したか。

 

それだけが記録された。

 

個体がいなくなるたび、実験条件は少しずつ修正される。

それでも、実験そのものは終わらなかった。

 

次の朝が来る。

番号が呼ばれる。

固定具が閉じる。

焼けるような痛みが、体の奥へ流し込まれる。

 

L-31は耐えた。

 

接続の中で意識を保ち、他の個体が壊れた負荷で呼吸を続け、他の個体が出せない信号量に反応を返した。

 

研究者たちは、L-31を見るようになった。

同時に、開発者たちは機体に改良を加えていく。

 

耐えられることは、安全を意味しなかった。

耐えられることは、終了を意味しなかった。

ただ、次の負荷を与えられる理由にはなった。

 

時には、大部屋に残っている実験個体が、L-31だけになったこともあった。

ベッドは並んでいるのに、番号を呼ばれる声はひとつだけだった。

 

白い部屋は広く、端末の音だけがやけに大きく聞こえた。

 

その時も、実験は止まらなかった。

 

やがて、開発班は大型の実験機を持ち込んだ。

 

それは、あまりに大きかった。

まだ装甲はない。

色もない。

 

腕部も脚部も剥き出しのフレームで、そこに無数のケーブルが伸びている。

背部には用途の分からない接続端子が並んでいた。

機体というより、巨大な神経の受け皿のように見えた。

 

「開発班は気でも狂ったのか?」

 

研究者の一人が、そう言った。

誰も、その機体を動かせなかったからだった。

 

接続以前に、個体が耐えられない。

端子が刺さった瞬間に体が跳ね、神経信号が乱れ、筋肉が硬直する。

そのまま意識が落ちる個体もいた。

戻ってこない個体もいた。

 

L-31以外は。

 

L-31に神経接続が施された時、その大型実験機は動いた。

 

最初は、指が曲がった。

次に、腕が持ち上がった。

脚部の姿勢が変わった。

巨大な胴体が、わずかに傾きを変えた。

 

それだけで、研究室の空気が変わった。

 

研究者たちは端末を覗き込んだ。

開発者たちは声を上げた。

記録担当が数値を読み上げ、制御班が追加信号を要求する。

 

L-31の視界には、白い天井と計器の光だけがあった。

痛みはあった。

けれど、痛みがあることは、実験を止める理由にはならなかった。

 

その日から、L-31の実験は変わった。

 

大型実験機を動かすための個体。

その条件で、L-31は扱われるようになった。

 

機体の各部を動かすための神経接続が、一つずつ増やされる。

腕部、脚部、背部、姿勢制御、推力補正。

接続は少しずつ深くなっていった。

 

それでも、L-31は耐えた。

 

耐えたから、次の接続が追加された。

 

やがて、すべての主要部位が神経回路に接続された時、大型実験機は初めて機体らしい動きを見せた。

拘束台の中で姿勢を保ち、腕を振り、脚を上げる。

入力された命令を、ほとんど遅延なく処理する。

 

従来のMSの操縦方法とはまったく違う。

搭乗者の神経を、そのまま機体の動作に変えるもの。

 

研究者たちは驚いた。

開発者たちは喜んだ。

 

けれど、開発者たちはそれで満足しなかった。

 

次は、ドラグーンだった。

 

腕や脚とは違い、ドラグーンは体から離れている。

それでも、神経の先にはつながっている。

遠くに浮かぶ小さな機体が、自分の身体の一部のように反応する。

 

最初は1基。

L-31は耐えた。

 

次に2基。

L-31は耐えた。

 

視界は増え、距離感が曖昧になる。

処理すべき情報は、少しずつ膨れ上がっていった。

 

3基、4基、5基。

6基、7基、8基。

 

呼吸が浅くなり、頭痛が始まった。

指先が震え、視界が白く滲み、聴覚にノイズが混ざる。

 

それでも研究者はデータを見ていた。

開発者は、次の限界を求めていた。

 

どれだけ持つのか。

どこまで動かせるのか。

 

9基。

10基。

 

心拍は警告値を越えていた。

その瞬間、L-31は限界を越えた。

 

痛みがどこから来ているのか、分からなかった。

 

脳なのか、身体なのか、機体なのか、自分なのか。

 

信号が重なり、感覚が溢れる。

ドラグーンの位置、機体の姿勢、腕部の角度、脚部の圧力、推力の補正。

そのすべてが、同時に神経へ流れ込んできた。

 

L-31は、反応を返せなくなった。

 

実験は停止された。

記録には、10基まで動かせると残った。

けれど、それ以上の増設は見込めない、とも残された。

 

このままなら、L-31の役目は負荷許容値を測るための試験体に戻るはずだった。

そう判断されかけた時、誰かが言った。

 

「それはもったいないから、数を減らして機体運用に回そう」

 

大型実験機は、L-31でしか動かせない。

L-31が壊れれば、機体も無駄になる。

なら、機体を運用できる水準まで負荷を落とし、別のデータを取るべきだと。

 

L-31は、そうやって生き残った。

 

ドラグーンは減らされ、接続数は調整された。

誰も動かせない機体と共に、L-31は残された。

 

やがて、その実験機には新しい装甲が取り付けられた。

 

白妙に光る装甲。

それは、それまでL-31が見てきた機械とは違っていた。

 

剥き出しのフレームでもない。

拘束台に縛られた試験体でもない。

白く、静かだった。

 

研究者たちは、そのシルエットを見て、女王のようだと言った。

広域制御。

複数のドラグーン。

空間そのものを押さえる戦闘思想。

 

すべての敵の動きを止め、すべての味方に撃破させる。

今後は、女王が戦場を支配する。

 

誰かが、そう言った。

 

機体を見ていたL-31は、その言葉を聞いて小さくつぶやいた。

 

女王が支配する(レギナント)

 

近くにいた開発者が、L-31の声を聞き逃さなかった。

 

「いい名前だな」

 

その日から、機体はそう呼ばれるようになった。

 

レギナント。

 

L-31だけが動かせる機体。

L-31を、まだ使えるものとして残した機体。

 

*****

 

ユアンは、通路を歩いていた。

 

出港作業は一段落している。

次のシフトまで、少しだけ時間があった。

 

特に行く場所があるわけではない。

だが、部屋に戻るには少し落ち着かず、談話室でコーヒーでも飲もうかと考えていた。

 

角を曲がろうとした時、前方から声が聞こえた。

 

「だから駄目だって言ってるだろ!」

「いや、分かるけど! 分かるけど、今は駄目なんだって!」

 

怒鳴り声、というほど強くはない。

むしろ困り果てた声だった。

 

ユアンは足を止める。

 

この先は格納庫へ向かう通路だ。

まだユアンには、自由な立ち入りは許可されていない。

だが、何かトラブルなら、誰かを呼んだ方がいいかもしれない。

 

そう思い、角からそっと首だけを出した。

 

格納庫前の通路に、ヴィーノとヨウランがいた。

二人とも作業服のままで、工具を腰に下げている。

その前に、もう一人。

 

ユアンは、一瞬呼吸を忘れた。

 

セラだった。

 

病衣の上に薄い上着を羽織っている。

顔色は以前より戻っているように見えるが、普段よりもまだ白い。

 

「レギナントの状態確認が必要です」

「必要なのは分かってる! でもお前、医務室から出ていい状態じゃないだろ」

「短時間であれば、起立と歩行は許可されています」

「格納庫まで来ていいとは言われてないだろ」

 

ヴィーノが頭を抱える。

ヨウランも、どうしたものかという顔をしていた。

 

ユアンは迷ったが、声をかけた。

 

「あの……どうかしましたか?」

 

三人の視線が、一斉にこちらを向く。

ヴィーノが、助かったという顔をした。

 

「ユアン! ちょうどいいところに来た!」

「えっ、何ですか?」

「こいつを医務室に連れて戻ってくれ!」

「えっ!」

 

ユアンは思わずセラを見る。

セラも静かにこちらを見返した。

 

「病室から出てきたんだよ。しかも一人で!」

「それって大丈夫なんですか?」

「大丈夫なわけないだろ。まだ少しふらついてるのに」

 

確かに、セラの体はわずかに揺れているように見えた。

このまま一人でいれば、どこかで倒れてしまうかもしれない。

本来なら、ここに来ていいはずがない。

 

それでも、ユアンには少しだけ分かる気がした。

 

戻ってきてから、自分の機体の状態を確認する間もなく病室へ運ばれたのなら、落ち着かないのかもしれない。

無理に戻しても、また一人で来る気がした。

 

本当は、止めるべきなのだろう。

けれど、少しだけでも機体のそばに行ければ、セラは納得するかもしれない。

 

ユアンは、そう考えてしまった。

 

「確認だけなら……」

 

ユアンは言いかけて、ヴィーノとヨウランの視線を浴びた。

 

「いや、その……少しの間くらいだけなら、見せてもいいんじゃないですか?」

「おいおい、お前まで何言ってんだよ」

「でも、ここまで来てますし。戻しても、また来るかもしれません。それなら誰かが付き添ってあげれば納得するかなって」

「それは、まあ……」

 

ヨウランが困ったように頭を掻く。

ヴィーノが肩を落とした。

 

「5分くらいならいいけど、俺たちもついてていいよな」

「はい」

 

セラは、静かに答えた。

ヨウランは小さく息を吐く。

 

「本当に5分だけだぞ!」

「5分」

「あと、走るな。触るな。コクピットに入るな。いいな?」

「はい」

「返事が怖いんだよなあ……」

「いつもはもっと聞き分けがいいんだけどな……」

 

ヴィーノがぼやく。

ヨウランはユアンを見た。

 

「お前はここで待っててくれ。俺たちが連れて入る。戻ってきたら、医務室まで連れて行ってやってくれ」

「僕がですか?」

「頼む。こっちもまだ作業が残ってるんだよ」

「分かりました」

 

セラは一度だけユアンを見た。

それから、ヴィーノとヨウランに連れられて格納庫へ入っていく。

 

隔壁扉が開き、格納庫の光が通路へ漏れた。

その奥に、白い機体の影が見えた気がした。

 

扉が閉じる。

ユアンは通路に一人残された。

 

5分。

たった5分のはずだった。

けれど、その5分が妙に長く感じられた。

 

*****

 

ちょうど5分が経ち、扉が開いた。

 

ヴィーノとヨウランに連れられて、セラが戻ってきた。

二人とも疲れた顔をしていたが、セラの方は表情が変わらない。

 

「待たせたな。じゃあ医務室まで頼む」

「はい」

「セラ、次からは勝手に来るなよ?」

「次回の格納庫立ち入りには、許可を取得します」

「いや、そういうことじゃなくてな……」

 

ヨウランが言葉を失う。

ヴィーノが小さく笑った。

 

「まあ、頼んだぞ、ユアン」

「はい」

 

二人は格納庫へ戻っていった。

通路には、ユアンとセラだけが残る。

 

医務室へ戻るだけ。

ただ、それだけのはずだった。

 

それなのに、ユアンの胸は落ち着かなかった。

セラは病衣の上に薄い上着を羽織っている。

歩けてはいる。

けれど、顔色はまだ白い。

 

一人で歩かせるのは、やはり不安だった。

ユアンは少し迷ってから、手を差し出した。

 

「その……転んだら危ないので」

 

言ってから、顔が熱くなる。

ただ手を貸すだけだ。

それだけなのに、声が少し上ずった気がした。

 

セラは差し出された手を見た。

それから、ユアンを見る。

 

「はい」

 

そう言って、セラはユアンの手を取った。

 

その瞬間、ユアンの心臓が跳ねた。

 

手が小さい。

思っていたよりも、ずっと細い。

力を入れたら痛がるかもしれない。

でも、弱すぎたら支えにならない。

 

どう握ればいいのか分からないまま、ユアンはぎこちなく歩き出した。

 

「えっと……医務室、退屈じゃないですか?」

 

何か話さなければと思って、そんなことを聞いた。

聞いてから、もう少しまともな話題があっただろうと後悔する。

 

セラは前を向いたまま答えた。

 

「待機中です」

「いや、待機なのは分かってますけど、その……ずっと寝てるだけだと、退屈かなって」

「退屈」

 

セラは、小さく繰り返した。

ほんの僅かに

 

「たぶん、少し退屈です」

「たぶんなんですか」

「はい。することが少ないです」

「じゃあ、本とか読むのはどうですか。医務室に何か置いてありませんか」

「健康管理の冊子があります」

「それは……退屈かもしれませんね」

「はい」

 

セラは、少しだけ頷いた。

 

その返事が妙に真面目で、ユアンは少しだけ笑いそうになった。

けれど、隣を歩くセラの顔色を見ると、すぐに笑えなくなる。

 

「その……」

 

ユアンは、手の中にある小さな感触を意識して、少し言葉に詰まった。

 

「退屈だったら、僕でよければ、話し相手くらいにはなれます」

 

言ってから、胸が一気に熱くなる。

何を言っているんだろうと思った。

ただの付き添いのはずなのに、余計なことを言った気もした。

 

セラは、少しだけユアンを見る。

 

「話し相手」

「はい。えっと、医務室にいる間だけでも。何か必要なら、呼んでくれていいので」

 

セラはしばらく考えているようだった。

 

「ユアンを呼ぶ」

「はい」

 

返事をしてから、ユアンはますます顔が熱くなるのを感じた。

 

セラは前を向き直る。

 

「確認しました」

 

それだけだった。

けれど、拒否ではなかった。

 

ユアンは、握っている手に力を入れすぎないように気をつけながら、小さく息を吐いた。

歩調は乱れていない。

でも、普段より少し遅い。

手の中の指も、力が強いわけではなかった。

 

「無理してませんか」

「通常歩行に支障はありません」

「そうじゃなくて、辛かったら言ってください」

「強い苦痛はありません」

「強い、じゃなくても」

 

ユアンは思わず言った。

声が少し強くなったことに、自分で気づく。

 

「少しでもつらいなら、休んだ方がいいです」

 

セラは横を向いた。

ユアンは目が合いそうになって、慌てて前を見る。

 

「休む」

「はい。今は、その方がいいと思います」

「シンにも同じことを言われました」

「なら、ちゃんと聞いた方がいいです」

「はい」

 

言ってから、ユアンは少しだけ焦った。

自分が言うようなことではない。

セラはミネルバ隊のパイロットで、自分はまだこの艦に慣れてもいない。

 

けれど、黙っていることもできなかった。

 

「すみません。偉そうに」

「偉そう」

「今のは、僕が言うことじゃなかったかもしれません」

「いいえ」

 

セラは短く答えた。

 

「ユアンは、医務室へ連れて行くよう依頼されています」

「えっ」

「だから、言うことです」

 

ユアンは一瞬、返事に困った。

たぶん、そういう意味ではない。

けれど、セラが真面目にそう考えているのは分かった。

 

「じゃあ、言います」

 

ユアンは、手を握る力をほんの少しだけ強めた。

 

「医務室に戻るまで、ちゃんと歩いてください。途中で格納庫に戻るのもなしです」

「確認しました」

「本当にですよ」

「はい」

 

短いやり取りだった。

それだけなのに、ユアンの胸はまた少しうるさくなる。

 

手を繋いでいる。

ただ医務室へ戻っているだけ。

それなのに、通路の距離がいつもよりずっと長く感じられた。

 

その時だった。

 

艦内に、甲高い警報音が鳴り響いた。

通常航行の静けさが、一瞬で破られる。

 

同時に、メイリンの声が艦内に響いた。

 

『第一戦闘配備。第一戦闘配備。パイロットは搭乗機へ。各員、所定の配置についてください』

 

その瞬間、セラの手が動いた。

 

ユアンの手から離れようとする。

進行方向が変わる。

医務室ではない。

 

格納庫の方へ。

 

ユアンは、とっさにその手を握り直した。

 

「待って!」

 

自分でも驚くほど、大きな声が出た。

 

セラが足を止める。

ユアンは、息を呑んだ。

 

細い手だった。

さっきまで、どう握ればいいのかも分からなかった手だ。

強く握ったら痛いかもしれない。

そう思って、ずっと力を抜いていた。

 

けれど今は、離せなかった。

 

「君は出撃してはいけない」

 

声が震えていた。

それでも、言わなければいけないと思った。

 

セラは、静かにユアンを見る。

 

「第一戦闘配備です」

「分かってる。でも、駄目だ」

 

ユアンは首を振った。

 

「倒れたばかりなんだろ。まだ顔色だって悪い。歩くのだって、本当は危ないのに」

 

警報音が鳴っている。

通路の向こうを、乗員たちが走っていく。

隔壁が動く音がする。

 

それでも、ユアンは手を離さなかった。

 

「ミネルバには、頼りになるパイロットがいっぱいいる」

 

ユアンは、息を吸った。

 

「だから今は、皆を頼って」

 

セラは何も言わなかった。

 

その表情から、何を考えているのかは分からない。

分からないけれど、今はそれでよかった。

 

ユアンは、ただセラを行かせたくなかった。

 

やがて、セラはゆっくりと目を伏せた。

 

「はい」

 

短い返事だった。

 

ユアンは、まだ手を離せなかった。

離したら、また格納庫へ向かってしまう気がした。

 

セラは、もう格納庫の方を見なかった。

ただ、医務室へ戻る通路の先へ、静かに向き直った。

 

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