昔の恨みも、割れた鏡も、飲み食いのツケも。
そして今日もまた、算盤を片手に勘定を始める。
逃げ場を失った哀れな息子を前にして。
「嫌だ!許してくれ!!」
いい年こいてアレスは自立できない。稼いだ分はそのまま使い、挙句、借金まで。
「赤犬様、お母上様がお待ちです」
赤い犬様の召使はモンゴル平原の寒さを知っている。ベトナムの熱帯雨林を知っている。男は自らを厳しい環境に身を置いてこそ。立派に成長する。それが赤犬の女王の教育方針さ。
「来たか、アレス。話がある」
ブナの椅子に腰かけた、恰幅のいいこの女性こそ「赤犬の女王」である。
「俺はないよ!!」
「願いましては?一円なーり、二円なーり、あんたがバザールで飲み食いした代金の支払いがまだだね、その指輪、いい石だね、もらうよ。三円なーり、四円なーり、あたしの店の立派な鏡!!粉々に砕いちまったね。修理代はその甲冑で!!」
赤犬の女王は算盤の女王、算盤をはじき、ツケを支払わせる。口癖は忘れんぞ。アレスから次々と高価なものがむしり取られていく。抵抗は無駄だ。ここ香港、この魔都で取り立てを行うのは無慈悲な赤犬の傭兵たちだ。AK-47を突き付けられれば、おとなしくもなろう。
今日も今日とて赤犬の女王ヘラは美しい。その美しい声でいつの間にか歌うようになった。大赤字のうたを。
「おのれチンギス何をした?ペルシャの都でなにした?忘れんぞ。忘れんぞ。おのれアメリカ何をする?ベトナムに何をする?鬼畜ルメイがB-52で、森も畑もめちゃくちゃだ。忘れんぞ。忘れんぞ。ヒットラーがしたことも、スターリンがしたことも、忘れんぞ。忘れんぞ。歴史の算盤覚えてる。さあ、さあ、さあ、たまったツケを支払ってもらうぞ。願いましては?」
そうそれはやってやられてやり返しての報復の連鎖の歴史だ、報復の連鎖を断ち切れ?きれいごとだな。
忘れないことで救われるのだ。痛みを覚えているから。過ちを繰り返さずに済むのだ。
「それで、足りない分はあんたのお賃金から天引きな」
赤犬の女王「ヘラ」はそう言うと、素っ裸で立ち尽くすアレスに言った。
「へ?」
「なんだい、あんたは今日からあたしのレストラン「アッシア」の厨房に入って皿洗いをするんだよ!!ほら連れておいき」
「Давай!」
「いやだ!!母さん!!許して!!」
シベリアで木を切り倒していた、屈強なロシア兵たちにアレスは引きずられていく。
「誰も勘定からは逃げられんのさ、へっへっへ」
ここは赤犬の主の、料理店『アッシア』である。
ヘラは算盤をたたくのが何よりも好きになってしまった。だって夫のゼウスは浮気性、愛人に貢ぎオリュンポスの宝物庫は空っぽ。アレスも右に同じになっちまった。ヘーパイストスは自分の倉を持ったみたいだけどね。
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