2092年8月11日
津久葉家研究室
女中を伴って入室した夕歌さんの顔が険しい。
窓の外では夏の蝉が鳴いていたが、研究室内の空気は冷たく、静まり返っていた。
蛍光灯の白い光が、机の上のCADやモニターに反射し、無機質な光を放っていた。
叔母上からの突然の呼び出しは、俺が魔法の実験を行っている最中にあった。
平時でも叔母上からの呼び出しは定期的にあるが、どうやら今回はいつもと様子が異なるらしい。
夕歌さんの服の袖が、微かに揺れていた。彼女は普段よりも明らかに緊張していた。
「……沖縄に敵対勢力、おそらく大亜連合の侵攻があったみたいなの。
和也さんにはご当主様から本家に至急戻るよう連絡があったわ。」
俺はイデア(情報次元)に投射したサイオン(想子)が
エイドス(情報体)を改変する前に、魔法式を定義破綻させた。
魔法陣が淡く光り、それから静かに崩れていった。
空気中に漂っていた微かなオゾンの匂いが、少しずつ晴れていった。
津久葉家配下の研究員であり、和也の先輩たちにあたる魔法師達に告げる。
「皆さん、今回の実験は中止とします。」
「あぁ、やむを得ないだろう」
「……承知しました。」
年配の研究員はどこか残念そうに、
若年の研究員は若き俊英の内面を慮るように展開された起動式を待機状態に戻す。
CADへ接続されいてるモニターには魔法式が途中終了したことが表示されていた。
画面の青い光が、研究員の顔に映っていた。
その裏では複数の人間が機材のステータスを確認している。
キーボードを叩く音、機械のブザー、低い声でのやり取り。
研究室内は一瞬にして別の空気に包まれた。
実験は、精神とは物理次元・情報次元とは
また異なる次元に存在するのではないかという推測の元、精神次元を観測するものであった。
4系統8種(系統魔法)に体系化された現代魔法においてすら、
精神とは何なのか、心とは脳に宿るのか、未だ解明されていない。
精神に関する魔法は系統外魔法として扱われていた。
俺の頭の中では、無数の数式と魔法式が走っていた。
精神次元——それは、まだ俺以外の誰も見たことのない領域だ。
幼い頃、兄である達也が戦闘訓練を開始した時期を同じく、
俺は育成のために津久葉家にて預けられている。
母、深夜が和也と同じく特異な精神干渉魔法の使い手ではあるが、
病弱のため、床に臥せっている期間が長かったためだ。
分家の中では津久葉家が精神干渉魔法の使い手が多く、
深夜の研究を継ぐ者として、俺はここで育ってきた。
津久葉夕歌
津久葉家長女であり、俺の姉代わりでもある。
夕歌さんは、俺が5歳の時から面倒を見てくれた。
彼女の優しい声が、幼い頃の俺の記憶に刻まれている。
「夕歌さん、すぐに本家に戻ります。沖縄には母上、そして深雪と兄さんが居る。」
俺が母と兄妹の異変を察知できなかったのは研究室の結界のせいだ。
現代魔法においては物理的な距離は魔法発動の制約とはなり得ないが、
術者が認識できていない位置に存在する情報体を改変することはできない。
同様に察知することも通常は有り得ない。
また、情報次元を認識することができる
エレメンタル・サイト(精霊の目)は常時発動可能な異能ではないのだ。
兄(達也)が妹(深雪)を守護るために展開している異能はごく一部の例外だ。
俺の精霊の目は、常時発動しているわけではない。
だから、沖縄の母と兄妹の姿を、俺は見ることはできなかった。
内心の焦りを見透かされたのか夕歌さんが即答した。
「えぇ、車を用意させているわ。」
今は気心の知れた彼女の冷静さが俺の動揺を押さえつけた。
彼女の存在が、俺の心を支えてくれた。
「さぁ、行って。」
夕歌さんが俺の肩に手を置き、毅然とした口調で告げる。
14歳の俺には19歳の夕歌さんが以前より少し大人に見えた。
彼女の手の温もりが、俺の肩を通り抜けていった。
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四葉家本家
本家の玄関に足を踏み入れた瞬間、空気中の緊張感が肌で伝わってきた。
普段なら静寂が漂う廊下も、今では端で働く従者の足音が忙しく、
あちらこちらで囁き声が飛んでいる。
「和也様がお越しになられました。」
従者の声に、執事が俺に近づく。
執事の顔には、普段とは違う緊張が浮かんでいた。
「和也様、ご当主様がお部屋でお待ちでございます。さぁ、こちらへ」
本家の奥深く、書斎に通された俺は四葉家当主と相対した。
書斎の窓からは、庭の木々が見えた。
風が通り抜け、カーテンが揺れていた。
四葉真夜
四葉家現当主であり、極東の魔王の異名を持つ、現代最強魔法師の一角。
魔法研究者でもある彼女は俺に目を合わせると普段とは幾分か優しい口調で話しかけた。
「来てくれたのね、和也さん」
手で座るように促された俺は目礼してから、テーブルを挟んで対面に着席する。
同時にテーブルの上には、紅茶のカップが置かれた。
しかし、俺は今はそれらに関心がない。
真夜の表情は普段と変わりないが、目元の影が少しだけ濃いように見えた。
後ろには筆頭執事である葉山さんが控えている。
「叔母上、沖縄はどうなっています?母上、深雪と兄さんは……」
本家へ移動する途中で精霊の目で3人の無事は認識しているが確認のために真夜に告げる。
「和也さんが観た通り、あなたの兄妹が、無事であることは確かよ。姉さんもね。」
真夜の言葉に、和也は安堵するが、同時に何かを察する。
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
でも、同時に何か重要なことが起きている気がする。
「……しかし、何か問題があるのでしょう。」
真夜は静かに息を吐き、和也を懐に招き入れるような動作をする。
「そう。あなたに話すべきことがある。」
和也は静かに目を閉じ、真夜の「精神」を観測する。
物理次元、情報次元とは異なる——
俺が推測する「精神次元」に、真夜の心が存在している。
その精神は、確かに複雑に揺れていた。
真夜の心には、複数の感情が重なり合っていた。
復讐心、不安、期待、そして……悲しみ。
「あなたは、達也さんと深雪さんについて、どう思っているの?」
真夜の問いに、和也は瞬時に答えることを避けた。
俺は真夜の精神をさらに深く観測する。
彼女の心には、何か隠された秘密がある。
「……兄さんは、四葉の罪の結晶。深雪は次代の四葉の象徴です。」
「そうね。でも、それは半分しか正しくない。」
真夜は揺れる目を和也に向けた。
「あなたは既に聞いているでしょうが、達也さんの精神には姉さんの手が入っている。」
葉山さんが入れた紅茶に真夜は口を付ける。
紅茶の湯気が、真夜の顔の前で揺れていた。
「著しい喜怒哀楽への高まりが抑制されいているの。
そして、姉さんが一番強い感情として深雪さんへの愛情だけを残した。」
和也は静かに頷く。
「……確かに、兄さんの精神には欠けた部分があります。
でも、それは感情が永久に消えたというわけではありません。」
兄さんの精神には、確かに何かが残っていた。
俺の目が、それを確かに感じ取っていた。
「そう。達也さんは、私が意図した通りに動かない可能性がある。」
真夜の声には、どこか悔しさが混じっていた。
真夜の声には、小さな怒りが含まれていた。
彼女は、達也の制御不能を、悔しがっていた。
「そして、あなたには特別な能力がある。
精神干渉——あなたの力を使えば、達也さんをコントロールできるかもしれない。
深雪さんでは精神を凍結させてしまうだけですもの。」
和也は真夜の言葉に、心の底から嫌悪感を覚える。
実の兄妹を道具扱いするとは・・・
「……叔母上、それは違います。兄さんは、僕たちの兄です。操るべき存在ではありません。」
真夜は和也の反応を静かに見ていた。
真夜の目には、和也の反応への評価が浮かんでいた。
期待、失望、そして……理解。
「あなたはまだ甘い。この一族は、弱いものは切り捨てる。
達也も、深雪も、あなたも……全ては四葉家のためにある。」
和也は真夜の「復讐心」を、確かに感じ取った。
一族を巻き込んだ復讐——
その影に、真夜の過去がある。
真夜の心には、過去のトラウマが深く刻まれていた。
経験が知識として作り変えられたとしても、
そのトラウマが、彼女の復讐心を育てた。
「僕……俺は、一族の大人達の妄執を断ち切ります。
兄さんとも、深雪とも、一緒に居られるはずです。」
和也の言葉に、真夜は静かに微笑んだ。
真夜の微笑みには、複雑な感情が込められていた。
満足、期待、そして……寂しさ。
「そうね。あなたは、まだ若い。そして、あなたにはその力がある。」
真夜は立ち上がり、和也の肩に手を置いた。
「あなたには、深雪さんの切り札になってもらいます。
深雪さんを制御し、達也さんを抑制する——それがあなたの役目」
和也は真夜の手に、自分の意志を込めて応える。
「……わかりました。でも、兄さんを操ることはしません。深雪を護るためにも。」
真夜は和也の目を深く見つめ、静かに頷いた。
「……そうね。あなたなら、できるわ。」
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書斎を後にした和也は、廊下の窓から外を見つめた。
空は暗く、遠くで雷が鳴っていた。
窓の外では、夏の嵐が近づいていた。
空には重い雲が垂れ込め、風が木々を揺らしていた。
「……深雪、兄さん」
和也は心の中で、家族の最愛の兄妹の名を呼んだ。
深雪の笑顔、兄さんの深い愛情。
その記憶が、和也の心を支えていた。
「僕が、護ります。一族の妄執から、二人を解放します。」
和也の精神次元に、確かな決意が宿った。