2094年4月中旬
黒羽文弥が父、貢の指令によって司波兄弟を狙う暗殺者についての
調査を開始したのは何もただ父に命令されたからという理由だけではなかった。
姉である亞夜子は達也に極致拡散の手解きを受けてから、達也に好意を寄せている。
弟である文弥は固有魔法であるダイレクト・ペインについて
同じ精神干渉系魔法の使い手として、和也に相談に乗ってもらった過去があったからだ。
黒羽家の双子が敬愛する司波兄弟、
そして間接的にではあるがその妹である深雪を狙う輩について
初めから文弥は容赦するつもりなどなかった。
「……亜貿社か。」
資料を整理しながら文弥は呟く。
「若、確認ですが、今回は若が直接動くことは、ご当主様より禁止されております。
あくまで手勢を采配して、指揮に務めるのが今回の任務です。」
文弥の側近であり教育係でもある彼は憮然と告げる。
黒川白羽(芸名か?)
黒羽家の家人としては中堅だが、次代の黒羽家幹部候補の最先鋒である。
忍術使いであり、奇術の方の空蝉の名人。
照陰鏡のエキスパートで、殺気を読む能力では黒羽家でも一・二を争う。
「分かっている。」
どこか恨めしげに文弥は応じた。
「若、感情を優先させてはいけません。あくまで指揮に徹してください。」
黒川の声音には、確かな警告が込められていた。
「黒川、僕は動けなくてもヤミは動ける。そういうことだな。」
黒川は一瞬、目を丸くしかけ、無言のまま主の表情をうかがった。
女装、いや変装はできればしたくないが、
司波兄弟のためであればやぶさかではないと物語っていた。
文弥はまだ少年だが、将来は亞夜子に似た美女(?)になるだろう。
その想像だけで、黒川は笑いを堪えるのに苦労していた。
訝しげに黒川を見る文弥は、すぐに資料に目を戻した。
黒羽家の家人は諜報に関わる者としては、
どこか抜けている(?)人間が多いのも事実だった。
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司波家
その夜、司波家のビジフォンには文弥の姿があった。
あいにく深雪は不在だった。もちろん達也の目は彼女を常に守護しているのだが。
「和也兄さん、達也兄さん。今回の件は僕に任せてください。
相手が襲ってこない限りは、手を出さないで欲しいんです。」
画面の向こうの文弥の表情は、
普段の雰囲気とは一転、真剣そのものだった。
「……そうか。文弥に任せる。」
達也はいつも通り静かに答えた。
「……ありがとう、文弥。でも、気を付けてくれ。
君は俺達の大事な弟分なんだから。」
和也はいつもに増して真剣な表情の文弥に優しく告げる。
画面の向こうで文弥が一瞬、目を輝かせた。
「はい。ご期待に添えるように頑張ります。
それでは、深雪姉さんにもよろしくお伝えください。」
ビジフォンの画面が暗くなる。
司波家のリビングには、静寂が戻った。
達也と和也は顔を見合わせた。
どうやら今回の案件、一筋縄ではいかないようだ。
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2094年4月下旬
文弥の命令により亜貿社への襲撃の準備がされていたが、
敵ものこのこと待ってはくれない。
「お嬢様、榛有希が御二人の近くに現れました。」
ヤミに変装している文弥に黒川は声をかける。
「こちらから仕掛けましょう。」
間髪入れず、ヤミは応じる。敵に時間を与えることは悪手だと
黒川に有無を言わせず、部下を付けるように指示をした。
既にヤミは榛有希と数度、刃を交えていた。
身体強化により足の早い有希を捉えられず、後手に回ってしまっていた。
有希と鰐塚のコンビは、司波兄弟を乗せた自走車を尾行していた。
彼らは妹をマナースクールまで送り届け、近くのカフェで時間を潰している。
有希と鰐塚も近くの時間貸しの駐車場に車を止め、位置に着いた。
度重なる失敗により、今回は社長が立案した作戦のもと、
人員を増加して仕事にあたっている。
亜貿社の社長である両角は、先天的な異能を持つBS魔法師であり、忍者である。
彼は千里眼と呼ばれる先天的な異能を持つ。
年齢は60代前後で、羽織袴姿の老人。
九重八雲が懇意にしている少年たちに並々ならぬ一方的な私怨を募らせていた。
魔法を使えない忍者が
忍びを自称する忍術使いに後塵を拝するなどあってはならぬことだ。
彼はそう思い込んでいた。
「ナッツ、聞こえていますか?」
有希の通信機に、コールしてきたのは鰐塚ではなく、本社のスタッフだった。
有希は一瞬、眉をひそめた。
「どうした?」
「どうやら敵が動いたようです。」
「社長の眼か?了解した、クロコには動くと伝えてくれ。」
「ナッツ、グッドラック」
スタッフが通信を着ると同時に有希は先手を取ろうとワゴン車を降りた。
ヤミを乗せたセダンはカフェのあるブロックを不規則に周遊していた。
ヤミは、ダイレクト・ペインで有希を狙撃するつもりだった。
「気付かれた!?」
身体強化で駆け出した有希に不意を付かれ、照準を逸らされた。
いや、諦めるのにはまだ早い。ヤミは再度の有希の背中に狙いを付ける。
通常の魔法師は想子(サイオン)への感受性が高くとも、
活性が低い霊子(プシオン)は知覚できないことが通説だ。
精神干渉系に適正のある文弥は微量の霊子(プシオン)を感じ取り、
魔法の発動の痕跡と情動の残滓から敵の位置を把握する術を和也から聞かされていた。
和也によると仮説ではあるが、
精神とは情報次元(イデア)と異なる精神次元(プシュケー)に存在するという。
事象に付随する情報体(エイドス)を改変し、現実を書き換えるのが現代魔法だ。
物質世界は情報次元(イデア)と表裏一体。辻褄を合わせるように補完される。
精霊の目を持たない文弥は情報次元(イデア)を直接観測することはできない。
しかし、霊子(プシオン)は情動にまとわりつき、無機物には希薄となる。
霊子(プシオン)により、おおよその対象の位置を特定できるというカラクリだ。
普段は想子(サイオン)にばかり目が行く文弥も、
和也の助言により霊子(プシオン)の濃淡に意識を向けていた。
「くっ、逃げられる。」
ヤミの顔に苦悶が広がる。
事前に聞かされていたとはいえ、実戦での運用はどうやら時期尚早だったらしい。
文弥は誘い込まれるように廃ビルに有希の痕跡を追った。
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文弥が誘い込まれたビルの対面にあるアパートの屋上には亜貿社のスナイパーが潜んでいた。
彼女のコードネームは「ジェーン」。遠距離からの狙撃を得意とする暗殺者だ。
彼女の任務はまんまと釣り出されたヤミを暗殺すること。
多少、段取りは狂ったが、有希には後から感謝の連絡を入れておこう。
(……仕留める)
彼女は引き金に、手をかけ
「……は?」
手応えが軽くなったと同時にライフルが崩壊する。
それと同時に彼女は意識を失った。
そして、鬼火が迸り、彼女は消失した。
残されたのは崩壊した砂のような何か。
彼女の裏手、屋上の扉の向こうには司波兄弟が立っていた。
達也の「分解」で銃をバラバラにし
和也の「◯◯」で意識を刈り取り、
そして達也の「分解」で肉体を原子レベルに分解した。
敵が魔法師の場合、領域干渉により魔法の発動を阻害される可能性があった。
そのため、敵の意表を付くためにまずライフルを分解し、
次に精神を刈り取り、そして肉体を分解した。
達也一人の場合、トライデントがあれば、
第1段階で対象の領域干渉を分解、
第2段階で対象の情報強化を分解、
第3段階で対象を原子レベルに分解することができる。
ただし、トライデントは国防軍の管理物であり、持ち出すことはできない。
第1,2段階を和也に任せれば、効率よく敵を消去できるというわけだ。
敵は忍術使いであり、達也だけの干渉力でも十分だったかもしれないが、
今回は魔法の実地テストのため、和也も同行していた。
「さぁ、深雪を迎えに行こう。」
後のことは文弥に任せ、兄弟は踵を返した。
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結局、榛有希は文弥の軍門に下り、亜貿社は黒羽家の傘下に収まった
「あの化け物たちと戦って、我ながらよく命が残ったもんだ。」
有希はあっけからんと、クロコこと鰐塚に告げた。
「ナッツ、よくそんな減らず口が吐けますね……」
ある意味で大物である彼女に長年の付き合いの鰐塚も嘆息した。
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2094年5月
津久葉家のマンション
「ふふ、婚約者を放って、一体どこに行っていたんでしょうね?」
「仕方ないだろ、文弥の動きを邪魔することはできなかったんだ。」
亞貿社の一件が片付くまで、
俺は夕歌さんのマンションに通うことを控えていた。
今日の夕歌は怒気を強めていた。
もちろん、それが彼女のポーズであることは和也も理解していた。
いまさら言っても詮無いことだが、事実として、
逢瀬が途切れたのは和也(達也も含む)の不始末が招いた結果と言えなくもない。
ひとまず彼女の芝居に付き合うことにした和也は、先制攻撃することにした。
「髪短くしたんだ、とても似合っているよ。」
「……え。本当?」
夕歌の声音には、確かな驚きと喜びが込められていた。
どうやら満更でもなさそうだ。
「ああ。本当だよ。夕歌さん、とても似合っている。」
俺はすかさず追加攻撃を仕掛ける。
照れ隠しに目線を逸らされた。
どうやら夕歌さんのお芝居モードは終了らしい。
俺も研究者の顔に戻る。対面の夕歌さんも体勢を整える。
俺は文弥から報告を受けていた件とともに夕歌さんに仮説を共有する。
精神次元(プシュケー)に存在する霊子(プシオン)は情動に纏わりつく。
情報次元(イデア)に存在する情報体(エイドス)に相当する形相として、
これらを便宜的に一時的なパトス(状態)と持続的なエトス(性質)とする。
精神干渉魔法とは霊子(プシオン)が前述のいずれかに作用して、
対象の精神に変容をもたらすのではないかと。
「ダイレクト・ペインはパトス(状態)を変化させ、対象の精神を蝕み苦痛と錯覚させ、
コキュートスはエトス(性質)を白紙化し、対象の精神活動を停止させる。」
精神は肉体に宿る、エトス(性質)を失った肉体はただの箱となるのだ。
「まぁ。筋は通っているわね……」
まるで家庭教師のような夕歌さんには花丸は貰えないようだ。
夕歌の声音には、確かな評価が込められていたが、
満点ではないというニュアンスも含まれていた。
「今のところ、観測する術があなたの眼だけなのよね……」
夕歌さんに顔を覗き込まれた俺は一瞬、たじろぐ。
夕歌の瞳は、相変わらず鮮明だった。
「あぁ、この問題は解決しなければいけない。
兄さんとも相談しているけど、まだ目処は立っていないんだ。」
和也の声音には、確かな悩みが込められていた。
互いに見つめ合うのに耐えきれなくなった夕歌は話題を変える。
「そうそう。この間、勝成さんと会ったわ。」
「新発田家の?」
新発田勝成
四葉家の分家である新発田家の長男。一族内の若年層では一番の年上。防衛省勤務。
「えぇ、一族の現状についてどうお考えですかって。」
「それはまた、随分と直球だね。」
一族の現状を憂えている夕歌は
勝成を同志に引きずり込もうとひっそりと画策していたようだ。
「勝成さんは達也さんを評価しているもの。
何故あんなに冷遇されているのか、私と同じように疑問に思っているのよ。」
それは純粋な疑問だった。
いくら達也が魔性師の定義から外れた存在だとしても、
その貢献度は一族の中でも有数のもの。それを親世代は、黙殺している。
健全な状態とはとてもではないが言い切れなかった。
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2094年8月
司波家
親父が再婚した。母である深夜の死から半年も経っていない。
深雪を宥めるのに苦労したが、
以前のような蟠りを残した状態とまでにはなっていなかった。
「まぁまぁ、慶事には変わりないんだ。親父たちの門出を祝おう。」
和也は達也と深雪にそう告げる。
ビジネスパートナーとして以外は互いに不干渉。
それが今後のスタンスだ。何も互いにいがみ合う必要はない。
兄弟妹が平穏に暮らせれば、今の俺達にはそれで十分だと理解していた。