異世界冒険譚〜俺が世界地図を作るまで〜 作:異世界転生厨
プロローグ 山脈の向こうへ
メルカトルが前世を思い出したのは、十五歳の誕生日を迎えた朝のことだった。
それは、雷に打たれるような衝撃ではなかった。神の声が聞こえたわけでも、視界が白く焼き切れたわけでもない。ただ、目を覚ました瞬間、自分の中に知らない疲労が沈んでいた。長い通勤路。狭い部屋。夜更けまで消えない画面の光。冷えた弁当。眠っても取れない重さ。誰かに明確に殴られたわけではないのに、毎日少しずつ削られていくような感覚。
そして、最後に思い出したのは、天井だった。
安い賃貸の、何の特徴もない白い天井。そこに滲む蛍光灯の明かりを見ながら、もう起き上がれないと分かった時の、あの奇妙な静けさ。
メルカトルは寝台の上でしばらく動けなかった。
窓の外では、鶏が鳴いている。下の階からは母の声が聞こえ、誰かが薪を割る音がした。台所では鍋の蓋が軽く鳴り、焼いたパンの匂いが階段の方から薄く漂ってくる。
そのすべてが、知っているものだった。
メルカトルとして生きてきた十五年の生活。カルタリア公国の端にある小さな町。山と森と湖に囲まれた家。父と母と兄と妹。春には山菜を採り、夏には湖で泳ぎ、秋には薪を積み、冬には雪に閉ざされる。そんな当たり前の日々。
けれど、その朝だけは違って見えた。
「メル、起きてる? 今日は主役なんだから、寝坊は駄目よ」
扉の向こうから母の声がした。
「……起きてる。すぐ行くよ」
返事をした声は、思ったより普通だった。
自分でも不思議なくらいだった。胸の奥には、まだ前世の記憶がべったりと貼りついている。あの息苦しさも、焦燥も、諦めも消えていない。けれど同時に、ここで暮らしてきた十五年も確かに自分のものだった。
メルカトルは顔を洗い、服を着替えた。鏡の中には、少し寝癖のついた黒髪の少年がいる。前世の男とは似ても似つかない、若く、まだ何者にもなっていない顔だった。
階下へ降りると、家族がいつもより少し豪華な朝食を用意してくれていた。十五歳は、この国では成人を迎える年齢である。家を継ぐ長男ほど大仰に祝われるわけではないが、それでも今日は、メルカトルにとって一つの節目だった。
「誕生日おめでとう、メル」
「おめでとう。これでお前も大人の仲間入りだな」
父がそう言って、少し照れたように笑った。母は焼きたてのパンを皿に乗せ、兄は「まだまだ子供だろ」と茶化し、妹は不満そうに頬を膨らませた。
「メル兄が大人なら、わたしもすぐ大人だもん」
「お前はまず好き嫌いを減らせ。昨日も豆を残しただろ」
「それは豆が悪いの!」
家族の笑い声が食卓に広がった。
メルカトルは、その光景を見ていた。
木の机。湯気の立つスープ。焼き目のついたパン。父の大きな手。母の忙しない足音。兄の呆れた顔。妹の不満そうな声。何でもない朝だった。どこにでもある、ありふれた家族の食卓だった。
それなのに、胸が詰まった。
前世の自分は、こんな朝をいつから失くしていたのだろう。
誰かと同じ食卓につくこと。温かいものを温かいうちに食べること。朝の光を浴びて、今日が始まるのだと思えること。そんな当たり前のことが、どうしてあんなにも遠くなっていたのだろう。
「メル? どうした。具合でも悪いのか?」
父が眉をひそめた。
「いや、大丈夫。ちょっと、外の空気を吸ってくる」
「朝飯の途中だぞ?」
「すぐ戻るよ」
メルカトルは椅子を引き、玄関から外へ出た。
冷たい空気が頬に触れた。
家の前には、いつもの山脈が広がっていた。
白い雪を戴いた峰々が、朝日に照らされて淡く輝いている。低い雲が山肌に引っかかり、森の梢からは薄い霧が立ち上っていた。遠くの谷間では川が銀色に光り、鳥の群れが小さな点になって空を横切っていく。山は何も言わない。ただ、そこにある。昨日も、一昨日も、きっとずっと昔からそうしてきたように、今日も変わらずそこにある。
メルカトルは、息を吸った。
肺の奥まで、冷たい空気が入ってくる。草と土と薪の煙と、雪解け水の匂いが混ざっていた。胸の内側に溜まっていた黒いものが、その息と一緒にほんの少しだけ外へ出ていった気がした。
実際に何かが消えたわけではないのだろう。
前世の記憶は残っている。あの息苦しさも、疲れも、死の間際に見上げた天井も、自分の中にある。だが、目の前の山脈はあまりにも大きかった。人ひとりの悩みなど知らぬ顔で、朝の光を受けて立っている。風が吹き、雲が流れ、雪は溶け、川になり、森を潤し、また季節が巡る。
強かだと思った。
世界は、自分が思っていたよりずっと強かだった。
会社の机と、家の寝台と、画面の中だけが世界ではなかった。息が詰まるほど狭い場所で終わったと思っていた人生の外側に、こんなにも広い空があり、山があり、森があった。
メルカトルは、もう一度息を吸った。
今度は少しだけ、うまく吸えた。
「……見たいな」
小さく呟いた声は、風に紛れて消えた。
けれど、確かに自分の言葉だった。
この山の向こうを見たい。谷の先を見たい。湖の向こう、森の奥、街道の果てを見たい。カルタリア公国の外にはどんな国があり、どんな迷宮があり、どんな海があり、どんな空が広がっているのかを、自分の目で見たい。
長男は家を継ぐ。父も母も、それを当然のこととして考えている。兄も嫌がってはいない。なら、次男である自分には、別の道がある。
危険なのは分かっている。
冒険者は、物語の中の英雄ではない。迷宮に潜り、魔物を相手にし、素材を運び、時には帰ってこない職業だ。町の掲示板に貼られる未帰還者の名前を、メルカトルも何度か見たことがある。
それでも、行きたいと思った。
死に場所を探すためではない。強くなって誰かを見返すためでもない。世界がこんなにも広いのなら、自分はもっと見てみたい。
ただ、それだけだった。
玄関の扉が開き、兄が顔を出した。
「おい、メル。母さんが冷める前に食えってさ」
「うん。今戻る」
振り返ると、家の中から温かな匂いがした。食卓にはまだ、自分の席が残っている。
メルカトルは山脈をもう一度見上げた。
いつか、あの向こうへ行く。
そう思った瞬間、足元の土がほんの少しだけ柔らかく感じられた。まるで道が、まだ見ぬ場所へ続いていることを教えるように。
その日、メルカトルは十五歳になった。
そして初めて、自分の足で世界を歩きたいと思った。