エレン・アルターナが見る幻夢は、日々鮮烈になっていった。
そこが何処なのかは判らない。
闇だ。
何も無い虚無だ。
見渡す限り染める暗闇は貪欲に視線を吸い込む。
ただ、霊気漂う閑寂に呑まれた空間という事は把握できた。
矛盾した心理は〈自分〉が
実行動を起こしている〈自分〉と、それを内側から客観視している〈自分〉と……。
だから、エレンは怯えた。
これから起こる展開が予見できればこそ。
目を
何故か?
おそらく、もう一人の〈
眼前にひざまずく
はたして相手は誰であろうか──父のようでもあり、イムリスのようでもあり、または見知らぬ顔のようでも……姉のようにも思えた。
しかし、
認識が働かない。
やがて、右掌をスッと相手の頭へと
恐怖に彩られた瞳が
だから、破裂させた。
必用無い。
何故ならば〈自分〉は
黒と赤のコントラスト!
肉の
それでも感情は湖面と鎮まる。
そして、だからこそ感情は戦慄と絶叫する!
「ひ……ぃ!」
エレンは、わなわなと固まった!
そうするしかなかった!
胃の下から混み上がってくる不快な吐き気を
目を
エレンに許された選択肢は、ひとつ──悲鳴を上げる事だけであった!
「ィ……ィャ……イヤ……イヤァァァーーーーッ!」
絶叫が木霊する!
拒絶が響き渡る!
誰にも聞こえぬ無力が!
それは〈自分〉にも届かぬ
「ッ! ハァ……ハァ……」
詰まる息に叩き起こされ、エレンは目を覚ます。
最近は、こうした夢を見る
その
寝るのが怖くすらなってきていた。
時計を見れば早朝六時台。
父に朝食を用意して、その食後処理をしている内にイムリスが送迎に来る。
「シャワー……浴びないと……」
やるせない
全身を湿らせる脂汗は熱帯には
洗い流さねば日常へと戻る気も失せる。
変わらぬ閉塞の日常が暮れ、やがて現世魔界の夜が下りる。
闇は濃度を深め、曇天を漆黒へと染め上げた。
暗幕に鎮座するは巨大な単眼を据えた黒き月──。
異形の円月は奇怪な事に冷たい白を輪光と発する。夜間ともなれば
これが夜──。
異常な常識────。
とりあえず今日の
進展は無い。
そもそも
ともあれエレンは家路へと着く。
当然ながら付人も一緒だ。
寂しさ漂わす博物館通路を並び歩いた。
コツリコツリと硬い靴音。
蒼の
そんな不安を払拭するかのようにイムリスの方から
「御父様は?」
「また
淡く困惑を
「精が出ますね。いつもの事ながら」
「あの人の頭には常に〈エジプト考古学〉しかない。その
「学者としては
「でも、その結果……」
言い掛けて
総てが瓦解するような気がした。
これまでしがみついてきたものが総て……。
だから、また呑み込む。
そうして
伏せる視線に胸中を察したイムリスは話題転換の
当然だ。
見渡す限り〈エジプト考古学〉に
と、正面玄関を抜けた直後であった──「おや?」──ようやく明るい話題を発見する。
「エレン、あちらを」
「……え?」
それに寄り掛かる黒髪は持て余す
「ヴァレリア姉さん?」
「よぉ」声に気付いて意識を向けると、ヴァレリアはシガレットを踏み消す。「ヘッ……やっぱな。此処に
「嗚呼、ヴァレリア姉さん!」
エレンは思わず駆け寄っていた!
自分を抑えきれないままに愛しい姉へと飛び付く!
「うわっと? 苦しい……苦しいって、エレン!」
「会いたかった!」
「二ヵ月前に会っただろうが」
「それでも! それでも会いたかった!」
「……ったく、相変わらずガキくせぇな」
性分の
再会の
姉が家を飛び出して、もう六年になる。
少なくとも〈領主〉が〝人間〟を尊重した政策体制を敷いていれば……だが。
そうした面からは、此所エジプトは恵まれていたとも言えるだろう。
支配するギリシア勢力は〈怪物〉ではなく〈神話英雄〉であったから、当然ながら考え方は人間寄りが基準になっていた。
ダークエーテルに汚染されていない健常体の
便宜的とはいえ国内通過も流通する。
だから、商売は成り立つ。
飲食店も
夜九時までと断定的ではあっても……。
レストラン〈アスーダ〉も、そうした恩恵下に在った。
自制ながらも
奥の
が──「何でテメェが居るよ?」──隣席の粗暴をヴァレリアが疎む。
「いいじゃねぇか? 俺とオマエの仲だろ?」
豪胆に歯を見せるクリス。
(
不快を舌打ちに返したヴァレリアは無視してメニューを広げた。もっとも、このデリカシー欠落が気にした様子は無い。
「イムリス、オマエ〈宗教〉は?」
「
「じゃあ、ハラールじゃなくてもいいか」
「何だ? その〝ハラール〟って?」
本気で無知なクリスにヴァレリアが
「イスラム教に
「ふぅん?
「にしても〈イスラム教〉にとっては不憫ですね。まるで
「踏み絵?」
「ええ。このエジプトは他国に比べて寛容な社会構図ですが〈宗教〉に関しては
「苦労してんなぁ……」
軽く同情を寄せながらもクリスの態度は呑気な
「ベジタリアンが増えたろう?」と皮肉めいたヴァレリアの
「
ヴァレリアが見解を述べたタイミングで
卓上を
とはいえ、結局は豚肉を避けて鶏肉・牛肉・羊肉を主体とした料理となっていた。そもそもエジプト料理はハラール意識に献立されているのだから当然ではあるが……。
とりあえず
「ところで、エレン? コイツ、
コトンと卓上に置かれたのは、件の〈黄金羽根〉。
「さあ? 初めて見るけど……コレは?」
「
「姉さん、まさかまた〝
「そこは〈トレジャーハンター〉って呼べよ」
「同じよ。そんな事を続けていたら、いつかは〈ギリシア勇軍〉から目をつけられてしまう……そんな事になったら、わたし…………」
「そんなヘマはしねぇ」
「姉さん!」
語気強い
普段のエレンからは想像できない強気であった。
その想いを汲めばこそ姉の
「大好きな姉さんに何かあったら、わたし……」
「……充分に気をつける」
「やめてはくれないの?」
それだけは受け入れる事ができなかった。
例え最愛の妹からの頼みでも……。
自分が
だから──「……無茶はしない」──そう返すだけが
その様を黙って盗み見たクリスは、この妹の存在が
カルカデで沈黙を潤すヴァレリア。ローゼルを煮出した冷茶は仄かな酸味に華香を乗せ、涼やかに鼻腔を抜けていく。加糖の分量も嗜好に丁度いい。
この〝カルカデ〟とは〝ハイビスカス〟を意味する語である。呼称の通り、それの類花である〝ローゼル〟を煮出したお茶で、エジプトではポピュラーな嗜好飲料だ。熱帯気候地域らしく多くは冷やして飲む。好みの分量で砂糖を入れ、この甘味が本来の酸味と調和して意外と飲み易い。
「で? どうだ?」
「……うん」
先刻の意気は消沈と
観察を果たしながらも胸中は静かな痛みを噛む。
おそらく何も変わらない。
これからも姉は続けるのであろう──危険を
それを思えば悲しくさえなる。
不安が
それでも現物観察を働く探究欲は職業病というヤツか。
端くれとはいえ自分が〈考古学研究者〉であるという事実を自覚させられる。
姉妹共々、背負った
「小品とはいえ彫刻や装飾を見る限りかなり凝っている……保管状態も奇跡的ね……何処から?」
「墓号〈KV21〉──つまり〝アンケセナーメンの王墓〟からだ」
「なら、第十八王朝──紀元前一三〇〇年代辺りに間違い無いわね」
エレンの分析を拾い、傍聴していたイムリスが
「という事は、現在エレンが解析研究している
「え……ええ、そうね」
一瞬
正直、あまり触れたくはない話題ではある。
黒い幻夢が射せばこそ……。
しかしながら、ヴァレリアの好奇心は軽く
「
「う……ん、現在研究している発掘品よ。先頃〝ツタンカーメンのピラミッド〟から見つかったの。B2サイズ程度の
「例えば?」
「特定の文字が
そう言って胸ポケットから取り出したのは、数枚のポラロイド写真。
研究室を離れている時にも
手渡されたヴァレリアが、カルカデ
「こりゃ禁忌だな。この写真じゃ粗くて文脈までは断定出来ないが、おそらく人名──それも、たぶん〈
「姉さんも、そう考える?」
「
頓狂な顔を浮かべるクリスへ、ヴァレリアは
「往々にしてあるさ。珍しくはない。例えば〝アクエンアテン〟とかな」
「誰だよ?」
苦虫浮かべる姉の助け船とばかりに、今度はエレンが引き継ぐ。
「第十八王朝の
「その行動理由となったのは、日に日に強くなっていく〈アメン神官〉達の政治
「つまり後々の政権にとっては〝都合の悪い黒歴史〟ってトコか?」
「まぁな。だから、名前が
「彼の場合は〝病症短命〟という薄幸性よりも〝アクエンアテンの息子〟という事実が大きいわよね?」
「ああ、おそらくな」と、食い終わった鉄串を
「けれど、姉さんが〈
「ああ、ソイツは図象の方だ。冠に胸当てに錫杖──黄金の装身具が過多なのもあるが、こうも名だたる神々が揃い踏みで御出迎えってのはパンピーレベルじゃ考えられない。おそらく同格と見積もられている……って事は〈
長々と脱線した喉の熱を冷茶で潤し、ヴァレリアは本題の〈黄金羽根〉へと関心を戻す。
「で、過去に
「無いわ。初めて見る」
「初見……か」
予想していた結果だが少々肩透かしも覚えた。
「あくまでも、わたしの主観なんだけど……
「それは、つまり〈死者の審判〉にて〈死の裁神アヌビス〉の天秤に掛かる?」
イムリスの質問に、エレンは「ええ」と見解を続ける。
「古代エジプトの死生観ね。死者の魂は〈死の裁神アヌビス〉の天秤によって裁判される。その際に基準と
「で、逆に見合わなければ不純として〈怪物アンムト〉の餌という罰を受ける」
妹の補足をしつつ、ケバーブ最後の
と、唐突にイムリスが妙案を
「エレン、
「え? え……ええ、そうね! そうだわ! あそこなら資料も設備も潤沢……きっと何か解ると思うわ!」
従者の真意を嗅ぎ取り、エレンの声音は喜色を帯びる。
それはつまり〝姉と会える回数が増える〟という事だ。
「もちろん進展があり次第、
「手掛かり……ねぇ?」ナプキンで
「姉さん?」
「アタシが持っておく。何かヒントがあったら、また頼まァ」
「……そう」
そして、ゆったりと長身を起こした。
「さて、それではボチボチ私は
ヴァレリアが時計を見れば、二時間
「んだよ? イムリス? オマエ、エレンの送迎は?」
「いえ、エレンには話しておきましたが──」
「──今日は、これから外せない私用があるみたいなの」
「ふぅん?」
「それにしても、さすがですね。エレンから話は聞いていましたが」
「あ? 何がだ? イムリス?」
「いえ、
「どれもこれも仮説だよ」
「ええ。ですが、
「……フン、そりゃ嬉しい事だ」
「また同席しても?」
「構わねぇよ。アタシにしてみりゃ
「ところでヴァレリア、
「あん?」
寒気
熱帯気候のエジプトとはいえ夜は一転に冷え込む。
それは
言うまでもないが
とはいえ、エレン自身は運転する気が無い。
黒革ライダーの腰へ、しっかりと腕を回す。
一応、アスファルト舗装されているとはいえ、路面の質は良くない。悪路とは言わないまでも、それ相応に不規則な跳ね上がりを踊る羽目になる。
フルフェイスヘルメットから
「ねえ! 姉さん!」
正面を見据えるバイザーメットからは返事が無い。
聞こえていないのかもしれない。
後部シートからの呼び掛けはヘルメットの密閉と向かい風の暴圧によって
だから、エレンは
「姉さんってば!」
「何だよ?」
「ごめんね? ハイヤー代わりに使っちゃって」
何事かと思えば拍子抜けである。
「ンな事かよ!
「……うん」
イムリスの申し出は、ヴァレリアにしても承諾するしかないものであった。
早い話、エレンを送り届けて欲しいというワケだ。
この配慮が計算なのか本当に私用なのかは知らないが。
「ま、いいんじゃねぇか? たまには姉妹水入らずもよ?」と、
誰と誰が共謀しているかは推察できなかったが、とりあえず、どちらにせよ、クリスの末路は定めた。
あのヤロウは後で
(とはいえ……寂しい想いはさせちまったよな)
ふと
背中に伝わる温もりは心地好い安らぎを与えると同時に、ヴァレリアにとって自責の
──姉さん! 行かないで!
家を出た時の哀しそうな
いや、頭から消えた事は無い。
(不出来な姉だ……酷い姉だよ……アタシは。
だが……そういう選択でしか生きられない性分でもあった。
(だから、せめて、これまで満たされなかった関係を埋めていかないとな……コイツと一緒の時間を。考古学だの親子不和だのは別件だ。アタシは
真っ向から殴る風は寒く、そして痛い。