ひぐらしのなく頃に~神楽舞   作:晃晃

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第104話 ●REC

外の空気を吸いたくなって、部屋を出る。

 

ちゃんと空調は動いているはずなのに、地下という圧迫感のためか、息苦しさを覚えることは珍しくない。

 

「ふぅ……」

 

屋上のドアを開けて頬を撫でる夜の風を感じると、ようやくひと心地つけた気がした。

 

ここなら地上の鬱陶しい虫たちの声もそうは聞こえない。

 

屋上を囲うフェンスに背中を預けて座り込んだ。

 

「ふふふ……、あまり人には見せられないわね」

 

大の大人が膝を抱えてうずくまる姿というのは、他人にはきっと滑稽に映るはずだ。

 

……雨でも降ればいいのに。

 

そうすれば、嫌な記憶を洗い流せるかもしれない。

 

いや……、駄目か。

 

あの日も雨が降っていたから……余計に重ねてしまう。

 

ぼろぼろに擦り切れて、絶望の色を瞳に映しながら逃げる彼女の姿を……あの日の自分に、重ねてしまう。

 

でも……違うことが、ひとつだけ。

 

あの子には、本気で庇ってくれる仲間がいた。

 

村の中では孤立しているように見えても……信頼する兄がいつもそばにいて、その身を盾にして護ってくれる。

 

女王感染者や同級生たちも、何の得にもならない、いや、彼女の不幸を放置したからといって自分が損をするわけでもないのに全力で手を差し伸べる。

 

そんな人、わたしにはおじいちゃんしかいなかったのに。

 

どうしてあの子は、あんなにも愛されているんだろう?

 

……子供じみた嫉妬だと、笑って切り捨てる。

 

喉の奥で聞こえた笑い声は自分のものながら不快だった。

 

「……沙都子ちゃんは、もう駄目ね」

 

北条沙都子は、研究対象としては貴重な存在だ。

 

二年前の白川公園の事件では、完全にL5相当の症状を見せながらも入江の涙ぐましい努力の甲斐もあって回復。

 

小康状態を保ちながら、表面的には日常生活を送れるまでになっている。

 

だがそれも、引き取り先の家庭環境が劣悪に過ぎた。

 

彼女の幼い心身にかかる負荷は、検査数値の悪化という形で着実に限界を訴えていた。

 

「今度発症すれば……間違いなく検体行き、ね」

 

あの子の脳は貴重なデータの宝庫だ。

 

できることなら生きたまま確保して、病原体まみれの脳をこの手で切り開いてみたい。

 

それを思うだけで、身体の奥がぞくぞくと疼く。

 

……けれど、その一方で。

 

奇跡に期待してしまう自分がいることを否定できない。

 

一度戻ってきたのが奇跡だとするならば、それがもう一度起こらないという保証はない。

 

すでに発症寸前の彼女に、あの愛くるしい笑顔を戻せるのであれば……それはそれで、研究の大きな成果となる。

 

解剖によるさらなる進展か、それとも治療法の確立による前進か……相反する二つの命題に心が揺れる。

 

「……どうすればいいの、おじいちゃん」

 

膝の間に顔を埋めて、呟く。

 

縋りたくなるのは……どちらも、鬼と呼ばれる道だから。

 

絶望の淵に堕ちた北条沙都子を切り刻むことも。

 

……彼女を救うために、叔父と叔母を殺すことも。

 

去年の綿流しの夜に神主夫妻を手にかけたときは、もっと単純な二択だった。

 

女王感染者の研究を継続するか、諦めるか。

 

おじいちゃんの研究を引き継いだ私に後者を選べるわけがないから、どんな葛藤も呑みこんで鬼になってみせた。

 

あっけないくらいに簡単だった。

 

笑うしかなかった。

 

ただ小此木に一言命じただけで、神主は急死し、その妻は地下の研究室送りになった。偽装工作は、全部部下たちがやってくれた。

 

たった一夜で、女王感染者とその妹は……わたしと同じ、両親を失った子供になっていた。

 

「…………ッ、……」

 

皮膚に立てた爪の先に、かすかな痛みが走る。

 

必死に涙をこらえて妹を抱きしめる古手羽入と、その腕の中で無表情にわたしを見る古手梨花が思い出される。

 

わたしは神か、何者かの気まぐれで両親を奪われ……、

 

わたしは強い意志であの子たちから両親を奪った。

 

罪の意識が、全くないかといえば嘘になる。

 

あの姉妹が涙を流さないことに苛立ち、あの姉妹が以前のように笑顔を浮かべるたびに痛みを覚えていた。

 

奪われるより、奪うほうが“痛い”なんて知らなかった。

 

自分の遺した研究のためにわたしが人殺しになったと知れば……おじいちゃんは、悲しむかもしれない。

 

でも、それはわたしが選んだ道だ。

 

この地の神さえも曲げられない、絶対の意志で選んだ。

 

罪悪感も後悔も、甘んじて受け容れよう。

 

奪った痛みも、一生引き摺っていこう。

 

わたしは何があっても、……わたしの決意を裏切らない。

 

胸に詰まらせていた息を、殊更にゆっくりと吐き出す。

 

顔にかかった髪をかきあげて、夜空へと視線を投げた。

 

「……罪滅ぼしなんかじゃない。そんな甘えはいらない」

 

すこし前、古手神社の境内で……女王感染者の妹、古手梨花とした会話を思い出していた。

 

口にこそ出さなかったが、彼女の表情は雄弁に物語った。

 

北条沙都子とその兄を苦しめている叔父夫妻が、四年目の祟りでこの世から消えてしまえばいい、と。

 

慈悲深いオヤシロさまの巫女が、残酷な死を願った。

 

大切な親友のために、人の死を願ったのだ。

 

その事実で、理由には充分過ぎる。

 

彼女の穢れた願いを叶えることが、犯した罪の償いになるなどと思うのは……自己欺瞞でしかない。

 

神とは悪戯に人の運命を弄び、理不尽な試練を課し、戯れに命を奪う災厄でなければならない。

 

だからこれは、古手梨花への償いではない。

 

北条沙都子に対する救いでさえない。

 

罪深きあの夫妻と、その死を願った古手梨花への審判。

 

「……ふふふ。うっふふふ」

 

こみあげてきたのは、二つ。

 

愉悦と、嗚咽。

 

立ち上がり、白衣をマントのようになびかせ、両手で顔を覆いながら……わたしは血を吐くように哄笑っていた。

 

「ふふふ……あっははははははははは!」

 

無力な神にかわってこのわたしが起こす、四年目の祟り。

 

 

 

「せいぜい楽しみにしてらっしゃい……!」

 

 

 

「……あの、三佐」

 

ふと気がつくと、階段室のドアが半開きになって保安要員の山狗がぽかんとした顔でわたしを見つめていた。

 

「……なによ」

 

羞恥に顔が火照るのを感じながら低い声で尋ねる。

 

「あ、いえ……東京から外線でして。お早めに」

 

気まずそうに用件だけ告げてドアを閉める。

 

その気遣いに感謝しつつ、わたしはその場にがっくりと膝をついて肩を震わせるしかなかった。

 

べ、別の意味で、泣きたい……。

 

 

 

 

刺すような痛みで、我に返った。

 

爪の端を噛み切っていることに気づき、歯ぎしりする。

 

「白鷺より報告、目標確認できず!」

 

「鶯より報告、尾行対象Dを別人と確認、撤収します!」

 

とんだ失態だ。

 

山狗独自の判断による行動で北条鉄平とその妻を排除し、発症中と推定される北条沙都子の身柄を確保しようとする作戦だった。

 

入江には事後報告になるがあの青二才を煙に巻くのは難しくないし、彼自身北条夫妻の所業は目に余ると常々漏らしていたから、感謝されこそすれ非難される道理はない。

 

計画では夫妻の一人を死体で発見させ、残る一人を研究材料として拉致するはずだった。

 

結果的にそれは四年目のオヤシロさまの崇りとして雛見沢の人々に認知されるという目算もあった。

 

 

だが、たったひとりの少女がそれをひっくりかえした。

 

 

わたしと山狗の視界の外から現れたのは、園崎魅音だ。

 

任務遂行中の山狗たちと交戦、瞬く間に数人を行動不能に陥れて妨害。

 

一度は包囲され、追い詰められながらも山中へ逃走した。

 

折り悪く接近した台風の影響による豪雨の中の追跡は困難を極め、ついに目標を見失ったのがもう随分前。

 

各交通機関や偽装情報を用いた周辺警察による検問。

 

当然、園崎家関連の各施設への監視も行っている。

 

なのに、……見つからない。

 

それどころか、ふざけたことに消えたはずの現場で彼女が北条鉄平のスクーターにはねられて診療所に運ばれたという情報まで飛び込んでくる始末だった。

 

「園崎の双子……いつの間に入れ替わっていたのよ」

 

趣味と実益を兼ねて、近年の園崎家については調査の手を入れていた。

 

興味を引いたのは、本来園崎家では禁忌とされていながら抹殺されることなく産まれたという双子の話。

 

頭首候補の魅音とは引き離され興宮で暮らしていた上に、昨年からは関東にある全寮制の学校に押し込められていたから重要視はしていなかった。

 

その双子の妹、詩音について調べさせ、彼女がしばらく前に学園を脱走していたらしいという情報が入ってきたのがついさきほどのこと。

 

それで園崎魅音が二人いるという怪情報に一応の決着はついたが、虚仮にされたという苛立ちは拭えなかった。

 

「へっへ、一杯食わされましたな。全く大したタマだ」

 

小此木はどういうつもりか小気味よさそうに笑っていたがわたしはとてもそんな気分にはなれそうもない。

 

隠密工作のプロが中学生の少女に出し抜かれた上、天候や土地勘というハンデがあるとはいえ、まんまと逃げられるなどあってはならないミスだ。

 

いや……ことはそれだけにおさまらない。

 

昨年の綿流しの夜に神主夫妻を私の意志で消したことで、わたしはこの雛見沢における超越者、運命をコントロールする“神”としての役割を負っているはずなのだ。

 

なのに今夜は、園崎魅音に翻弄された。

 

あの小娘は、崇りを起こそうとした我が手の指の間をするりと潜り抜けて、北条沙都子の救い主としての役目を全うして、見事に姿を晦ませたのだ。

 

ここまで来ると、ちっぽけな少女本人ではなく超自然的な意思の介入を疑いたくなる。

 

この地の“神”……オヤシロさまは、よほどわたしに勝利の確信を与えたくないらしい。

 

「いいかお前ら、草の根わけても探しだせ! 見つけても手を出すなよ、あのお嬢は俺の獲物だ……!」

 

獰猛な笑みを浮かべる小此木だったが、

 

「おいおい、ロリコンがいるよ」

 

「まさか所長と同類とはな……」

 

「たまにはロリコンもいいね!」

 

部下たちは別の意味にとったようだった。

 

「ろろろ、ロリコンちゃうわ!」

 

……小此木。

 

そこで動揺するとか、本物なの?しぬの?

 

 

 

 

 

……結局警察の介入により、北条鉄平、北条沙都子、園崎魅音(の双子の妹)の三人は山狗に手を出しようのない形で診療所に収容され、そのまま入院することになった。

 

当然、入江には発症の疑いがある北条沙都子の監視のために山狗がそこに居合わせたと虚偽の報告をするしかない。

 

「一人が死亡する結果になったのは残念ですが……山狗は最善を尽くしたと思います。リサさんも同じ見解ですから悪いことにはなりません。私が保証します」

 

北条沙都子の状態は悪いものの、想定していた最悪の事態に至らなかったことを喜び、能天気にそう言い放つ入江の態度が癪に障る。

 

「いや、それにしても沙都子ちゃんが心配で山狗を動かし自主的に彼女を見守ってくれていたとは……鷹野さんには頭が下がりますよ、本当に」

 

「……とんでもありませんわ、所長」

 

「ははは、ご謙遜ご謙遜」

 

あまりのお人よしな笑顔に、眩暈がしそうだった。

 

それから数日は山狗を総動員して園崎魅音の捜索にあたらせたが、芳しい結果は得られなかった。

 

 

園崎魅音は、あの嵐の夜に忽然と消失した。

 

 

ひょっとしたら、それこそ本物の“鬼隠し”なのではないかと疑ってしまいそうになるほど見事に消えてしまった。

 

入院しているのが魅音で、消えたほうが双子の妹の詩音という可能性もあるが、それは考えたくない。

 

園崎家に潜入している工作員から伝え聞いたところによれば姉の魅音と妹の詩音の実力差は歴然で、妹のほうは姉にいいところを全部とられたとさえ言われているらしい。

 

わたしと山狗をたった一人で出し抜いたのが、無能な妹のほうだなどと、いくらなんでも認めるわけにはいかない。

 

いずれにせよ、捜索の規模は縮小せざるを得なかった。

 

数日なら各方面への隠蔽工作が必要だといって誤魔化しもきくが、それ以上となれば調査部への言い訳が必要だ。

 

してやられた、という訳だ。

 

可能な範囲で園崎に探りは入れていくものの、あとは相手が下手を打って出てくるのを待つしかない。

 

「お手上げですな……たいしたヤツだ」

 

片目を閉じて肩をすくめる小此木は、言葉とは裏腹に残念という様子ではなかった。

 

好敵手の手強さを喜んでいるのか、それとも……。

 

「念のため、小此木のアパートも捜索しておきなさい」

 

「ちょ、三佐!?」

 

「冗談よ。……どうしてそんなに必死なのかしら」

 

「勘弁してくださいよ……」

 

さすがに部下の目もあるし、これ以上いじめるのはやめておこう。

 

……ちょっと気分転換にはなったけど。

 

「鳳1、入江所長が特別会議に参加したいと」

 

「おう。専門外とはいえ、俺たちよりはその分野に見識があるだろう。丁重にお招きしろ」

 

「待って、特別会議ってなんの会議よ?」

 

そんな話は聞いていなかった。

 

「いえ、部下に示しをつけるためにも『巨乳中学生はボーダーラインの上か下か』ってテーマで、夜通し語り尽くす予定でして……」

 

「……仕事しなさいよ」

 

頭痛い……。

 

それにしても巨乳中学せ……園崎魅音とは、いろいろな意味で厄介な子を逃がしてしまったものだ。

 

園崎組の勢力圏そのものはさほど大きくないものの、親戚筋にあたる組織は県外にいくつもあり、純粋な意味での園崎家の人脈もあちこちに点在している。

 

現頭首が高齢なこともあって、後継者の地位を確約されている魅音は年少といってもそれらの人脈につなぎを得ているだろう。

 

どこに匿われているのか、調査部や入江の目を盗みながらしらみ潰しに探すのは相当に骨の折れる作業になる。

 

「オヤシロさまも、意地が悪いわね……」

 

思わずため息まじりにそうぼやいたら、小此木が拳を震わせて天を睨み、

 

「あなたは時空を超えて何度我々の前に立ち塞がるのだ、オヤシロさま……!」

 

とかなんとか小芝居を演じてみせた。

 

なによ、その目は……わたしになにを期待してるのよ。

 

「『なんでMMRなのよ!?』なんて、愛読者のわたしがツッコめるわけないでしょ!?」

 

思わずそう怒鳴りつけたら、部下たちがが生暖かい笑顔をわたしに向けた。

 

「ああ、やっぱ愛読してんだ……」

 

「でもツッコむ三佐マジキュート」

 

「はいはいツンデレ乙ツンデレ乙」

 

な、なによ、仮にも上官に向かって……。

 

助けを求めるように小此木を見たら、

 

「お前ら、私語は慎め。……あと、録画はしたな?」

 

「バッチリです!」

 

ちょっと待って、なんの録画!?

 

 

 

 

それはそれとして、わたしにはもうひとつ懸念もあった。

 

北条沙都子。

 

山狗の報告書と警察内部資料を突き合わせれば、彼女があの夜に叔父と叔母の殺害を計画し、ガス管等に細工をしていた事実が浮き彫りになる。

 

二年前の白川公園のような、衝動的かつ突発的な発作ではなく彼女は極めて計画性の高い殺人を行おうとしていた、ということだ。

 

雛見沢症候群の重度発症による症状として例が多いのは、幻覚や関係妄想、被害妄想による衝動的な殺意の発露。

 

今回のケースでは、北条沙都子は“極めて理性的に”殺人を計画し、同じく入院している園崎詩音や見舞いに訪れる友人たちには心を許しているように見える。

 

「長期間にわたる抑圧的な環境と、そこに庇護者、つまり悟史くんの存在があったのが影響しているのではないかと思います。学習効果による“味方”の獲得ですね」

 

入江の意見は傾聴に値するものだった。

 

「戦中の症例は帰巣性を軸としているため、こういった例はあまりみられなかったのでしょう。女王感染者のお膝元である雛見沢でのみ見られる特異なケースと推測します」

 

つまりこういうことだ。

 

雛見沢には女王感染者、古手羽入がいる。

 

しかも北条沙都子とは同じ分校に通う友人同士で極めて親しい関係にあり、症状緩和効果を無視できない。

 

それでいて家庭環境、及び村からの疎外により心理的抑圧を恒常的に受け続けている彼女は常に発症状態寸前のボーダーライン上をさまよい続けている状況にある。

 

オヤシロさまの教えにより村内の団結を重視し、過去においては外部を敵とみなすことで重度発症を抑え込んできた伝統的な雛見沢では起こりにくかったケースなのだ。

 

村に“敵”とみなされることで彼女も村を“敵”とみなし、兄や古手羽入、自分を庇ってくれる友人たちを“味方”と学習することで心の均衡を保った。

 

そして北条鉄平が前原圭一、古手羽入、北条悟史、竜宮礼奈など自分の味方を攻撃したことで、叔父と叔母に対して“論理的に妥当な”攻撃理由が生まれたのだ。

 

だから今の北条沙都子は、“冷静に狂っている”。

 

味方と認識した人間に対しては正常な感情を向けられるがそれ以外の環境を敵として異常に警戒し、怖れている。

 

その極端に過ぎる“線引き”をどうにかして彼女自身が見直さない限り、彼女は病室から出てこれないだろう。

 

「疑心暗鬼とは結局、他者への恐怖に起因しています。沙都子ちゃんのケースで恐怖を克服するプロセスを解明できれば、治療法確立の大きなヒントになりますよ!」

 

「……ええ、そうですわね」

 

これは特殊な要因がいくつも重なって生まれたレアケースであり、現状強い攻撃性を見せていないことを考えれば、観察を継続すべきだという合意に達した。

 

わたしにとっても、おじいちゃんが研究したくてもできなかったこういう症例を分析できるのは意義深いことだ。

 

「……そろそろ、お目覚めの時間ね」

 

時計を一瞥して立ち上がる。

 

「ええ、よろしくお願いしますね」

 

所長室をあとにして、わたしは二階の奥の病室へ向かう。

 

ノックのあと、「入るわよ」と声をかけて入室する。

 

カーテンの隙間から差し込む光で薄暗い部屋の中、小さな寝息の聞こえるベッドの枕元には、巨大な熊のぬいぐるみが鎮座していた。

 

あれは彼女の兄と、その親友からのプレゼントらしい。

 

「高かったでしょうに……ふふ」

 

大きなリボンタイが妙に可愛らしくて笑みを誘う。

 

その声で目が覚めたのか、寝息が止まり、ごそりと布団の中からこの病室の主が顔を出した。

 

「あ、鷹野さん……、おはようございますわ」

 

最初は怯えた目をしていたけど、わたしの姿を見つけると同時に安堵した様子で身体を起こし、穏やかに笑う彼女を見ていると……ふいに暖かい記憶が蘇る。

 

「ええ……、おはよう。沙都子ちゃん。気分はどう?」

 

わたしがおじいちゃんに向けたのと、きっと同じ笑顔。

 

冷たいはずの世界に自分の“味方”がいてくれることを心から喜び、その日々がいつまでも続くことを願っている。

 

「ええ……まだすこし眠いのですけれど。きちんとお勉強しませんと梨花に置いていかれてしまいますわ。お仕事、お忙しくなければ……教えてくださいます?」

 

この世の地獄を知り、そこに誰かが手を差し伸べてくれる奇跡を理解していなければみせられない笑顔だった。

 

だから、わたしも……自然に微笑を返す。

 

目の前のこの笑顔を裏切ることは、きっとおじいちゃんを裏切るのと同じことだから。

 

「ええ、いいわよ……ふふ」

 

あの輝かしく暖かかった日々を、否定することだから。

 

「な、なんですのー?」

 

そっと手を伸ばして、……撫でた。

 

あの頃、おじいちゃんがわたしにしてくれたように。

 

そこにある体温を、確かに感じられるように。

 

「沙都子ちゃんは、えらいわね」

 

くすくすと笑うわたしに、沙都子ちゃんは口を尖らせる。

 

「こ、子供扱いは……恥ずかしいですわー……」

 

耳まで真っ赤に染まった顔の愛らしさに、胸の奥がじわりと熱くなる。

 

素直に、壊したくないと思えてしまう。

 

いつまでも色あせないように、録画しておきたいと思えてしまう。

 

その事実に戸惑いながらも、それさえも心地よく思えて微笑む自分がいることに驚く。

 

「ふふ……ごめんなさいね」

 

同時に……あさましい自分にも気づいていた。

 

これはきっと、代償行為。

 

この子が幸せになる姿を見たい、と思うのは……。

 

幸せでなかった自分、膝を抱えて泣いていた田無美代子を、この子に重ねているからなのだと。

 

でも、それの何が悪いの?

 

自分の外に、救われなかった自分を見つけて。

 

大切な人たちに囲まれて、幸せに笑っている姿を見つめていたいと思うのは、罪?

 

これは“わたし”を幸せにしなかった神への復讐。

 

あの嵐の夜に試練へと立ち向かい、ようやく掴みとった幸福な日々をも悪戯に奪い去った無慈悲な神に、

 

 

わたしは、再び反逆する。

 

 

お前が祟りを下し、幼い心が壊れてしまうまで蹂躙し尽くしたこの子を……力ずくでも救い出す。

 

忌々しい祟り神……。

 

この子が笑顔を取り戻すその日を、指をくわえて見ているがいい……!

 

 

 

 

とりあえず……、

 

 

この病室、隠しカメラ置けるかしら?

神楽舞完結後、次に読みたい作品は?

  • 神楽舞、お疲れ様会もやってほしい
  • ひぐらし短編集
  • ひぐらし連載、長編もの(圭羽、梨圭など)
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