「は……、んくっ」
喉の奥から出かかった吐息を呑み込む。
……あぶないあぶない。
いまの私に、ため息をつく権利などあるはずがない。
一年前までと比べれば……、いや、日本全体で同年代の女の子全員を対象に統計をとってくれても構わない。
それでも余裕の上位を気取ってもいいくらいに、
私、北条沙都子は幸福な女の子だと断言できる。
にーにーと三四さんというかけがえのない家族がいて、梨花と羽入さんという気の置けない親友がいて、魅音さんとレナさんという素敵なねーねーたちがいる。
あと、圭一さんという類稀なる変態……、いえいえ諸悪の根源……ええとより迷惑なほうのにーにー、じゃなかった世紀の変人……、ああもう!
とにかくなんと表現していいかわからないような人も、一応いる。いえ感謝とかしてますけど。してるんですのよ?
……こほん。
その上に村の皆さんもなにかと私たち家族を気にかけてくれるのだから、文句のつけどころなどあるはずもない。
これほど優しい人たちに囲まれて何不自由の無い毎日を暮らす私が不平不満を態度に出すなんて、たぶん違法だ。
「人様に見られたら、現行犯逮捕間違いなしですわ……」
思わず怖くなってあたりを見回すけど、休日の裏山に誰がいるわけもない。
ほっと安堵の息をつくと、止まっていた手を動かして再び新しいトラップ作りに専念することにした。
「それにしても……静かですわね」
そう、あやうくため息をつきそうになってしまった原因は、いまの状況にあった。
家族にも友人にも恵まれていながら、せっかくの休日にさしたる予定もなく、お弁当持参で独りトラップ設置にいそしんでいるのは年頃の娘としてどうなのだろう?
……以前なら、トラップ設置は純然たる趣味であり気晴らしだったのでそんなことに不満も疑問ももたなかった。
梨花やにーにーや魅音さん、たまに羽入さんあたりが助手として手伝ってくれることもあった。
でも、あいにく今日はみんな予定が入っているらしい。
にーにーは野球の試合で、魅音さんはメイド兼マネージャーとしてその応援らしい。監督には是非私もと言われたけど、メイド服は嫌なので丁重にお断りした。
梨花と羽入さん、それに圭一さんはレナさんのお見舞いだというので、誘われはしたものの久しぶりに家族水入らずで過ごさせてあげたいとこちらから遠慮した。
三四さんは今日も今日とて休日出勤……かと思いきや監督がたまには休みをとるように言ったらしく、東京から来るという富竹さんを迎えに街に出掛けた。
……これも一緒に行きましょうと誘われたけど、さすがの私もそこでお邪魔をするほどお子様でも野暮でもない。
というわけで、珍しく独りぼっちでこうしてトラップと向き合っている私がいるのだけれど……ええと。
「なんだか、ちっともワクワクしませんわね……」
これまた贅沢な話になるけれども、工夫を凝らしたトラップに誰かが引っかかることを想像しても、以前ほど胸躍るものがない。
いわゆる村八分のような立場に置かれていた頃の私なら、村の誰かが引っかかっても陰でこっそり笑っていられた。
でも……いまはなんだか後ろめたい。
叱られることが怖いんじゃない、たいていのことは笑って許してくれるような気もする。
でも、もしもそれでひどい迷惑をかけたり、怪我でもさせてしまったらと思うと……なんだか悲しくなる。
そういうもやもやした気分で、話す相手もないまま黙々と作業をしていると……幸福だとわかっているのに、またため息が出てしまいそうになるのだ。
こんなことなら、にーにーたちか梨花たちについていけばよかったかしら……?
「は……、んくっ」
またまたため息を噛み殺し、作業はろくに進んでないけどすこし休憩しようかと思ったそのときだった。
甲高いロケット花火の音が響く。
あの方向はたしか……、
「……7番ルート?」
すこし首をかしげる。
既にこの裏山そのものが村の人たちにとっては足を踏み入れにくい場所だけど、7番ルートは人家や旧村道から遠く離れた、ほとんど獣道といってもいいくらいの進入路だ。
「猪でも迷い込んだとか……?」
トラップのほとんどは人間に反応するように仕掛けてあるからめったにないけど、ごくたまに山の動物がスイッチを作動させてしまうことがある。
どうせその類だろうと思いながらも、たまたま入り込んだ誰かが難儀してやしないだろうかと心配になって、見に行ってみることにした。
道に迷った観光客とかでなければ……まあ、許してくれるだろう、たぶん。
などという私の楽観的な予測は、いともあっさりと裏切られることになったのだけれど。
「ぬおぉおおおおおおおおッ!」
その人は、吠えていた。
上半身にはネットを被り、右足はバケツに埋まり、左足をロープに絡まれながら、横合いから振り子のように襲いかかる丸太を睨みつけて吠えていた。
「こん畜生ぉっ!」
上半身を大きくそらす予備動作、その意味するところはただひとつ……丸太めがけて、渾身の頭突きを叩きつける!
「なっ……」
思わず物陰から飛び出した。
重力によって加速した丸太を、頭突きなんかで止められるわけがない。
あまりにもわかりきった常識、だというのに。
「どっしゃああああッ!」
真正面からブチ当たる。
その結果は常識の範囲を超えなかった。
あっさり丸太になぎ倒されて地面をごろごろと転がり、しかしその勢いを利用して身体をひねって立ち上がる。
「ぐぎぎぎぎ……、なんなんだこの山はぁあッ!」
絡みつくネットを強引にぶちぶちと引きちぎりながら怒声をあげる。
年のころなら二十そこそこだろうか、泥だらけの作業着に身を包んだ青年。村では見かけたことのない顔だ。
「あ、あぶないっ!」
警告の声を投げたが、ちょっとだけ遅かった。「えっ」と驚いたようにこちらを振り向いた顔のまま、揺りもどしで帰ってきた丸太が青年の背中に直撃する。
「なぬぎょッ!?」
背後からの不意打ちになすすべもなく跳ね飛ばされて顔面から地面に突っ伏し、ぴくぴくと震える……。
あわわ、なにやら大変なことになってますわ……!?
「ちょ、ちょっと、大丈夫ですの!?」
声をかけながら駆け寄ろうとしたものの、青年はがばっと顔をあげて私を見た。
「き、貴様……俺の注意を引き付けておいて背後から一撃とは、なかなかやるじゃねぇか……!」
声を震わせながらぐわっと歯を剥き出す。
あちこち痛いのだろうかと思ったが、どうやら違った。
「だが、この程度の子供騙しのちんけな仕掛けごときで、この俺をどうにかできると思うんじゃねぇええええッ!」
無駄に熱い叫びだった。
その無駄さといい口調といい、とある人を思い出させなくもないのだけれど……、すこしカチンと来た。
「あら、これは失礼しましたわ。でしたら、その子供騙しのちんけな仕掛けとやらでさんざんな目に遭ってらっしゃるあなたは、子供以下ということになりますわねぇ?」
「なにぃぃぃ!?」
挑発に反応してばっと立ち上がったところで、横から再度戻ってきた丸太に向き直って蹴りを放って止める。
なかなかの力強さだ。
身体能力には自信があるらしい。
「……このクソガキが、大人を舐めるんじゃねぇぞ!」
凄んでみせるけど、叔父に比べれば半分の迫力もない。
「をーっほっほ、そんな泥だらけの汚いお顔、誰も舐めたいとは思いませんわよ。お顔を洗って出直されてはいかがかしら?」
高笑いを返してやったら、顔を真っ赤にして身構えた。
「言ったな! 言いやがったな! こんなくだらん悪戯をしやがるチビジャリには、すこしばかりきっついお仕置きが必要だよなあぁあッ!?」
炎のごときオーラをまとって叫ぶ。
やっぱり、この無駄さ、間違いなくあの人と同類だ。
本人を連れてきて引き合わせてあげたくなるくらいに。
ともあれ、クソガキに続きチビジャリとまで言われては、雛見沢に名だたるトラップマスターとして捨て置くわけにいかない。きっちりお灸をすえなくては。
「ほほほ、弱い犬ほどよく吠えるとは言いえて妙ですわ。品性お下劣なあなたには無理かもしれませんけど格調高く『トラップ』と仰っていただけませんかしら!?」
まさに売り言葉に買い言葉。
場の空気がどんどんヒートアップしていく慣れ親しんだ感覚はここのところご無沙汰な部活を思い出させた。
「なぁーにがトラップだ、覚悟しろよ小娘……悪い子にゃお尻ペンペンの刑だって決まってるんだからなあ!」
手をわきわきとさせながらにじり寄ってくる。
「ひっ……、セ、セクハラですわ! レディーに向かってなんてことを仰いますのこの野蛮人!」
「ガキにセクハラも何もあるか、そこ動くなぁあ!」
一気に間合いを詰めるべく駆け出してきたので、こちらも素早く後ろ手に握っていた紐を引く。
狙いを外すことなく頭上から飛来したポリバケツが青年の上半身に覆い被さり、怪奇ポリバケツ男(2号)完成。
「なッ!? なんだぁこりゃあぁあ!」
さすがにその状態では走れるわけもなく、歩みが止まったところを狙って私は駆け出していた。
そしてまだ揺れていた丸太の上に飛びつくと、ブランコの要領で一回反動をつけてから突撃!
「滅殺ですわー!」
丸太がまっすぐにポリバケツの真ん中を打ち抜く。
「ごわっ!?」
その姿、まさに除夜の鐘!
108回打ってあげられないのが残念だけど、怪奇ポリバケツ男(2号)は悲鳴をあげながら地面を転がり、さらに斜面をごろごろと転がり落ちていった。
「口ほどにもありませんわね。このわたくし、北条沙都子と本気で遣り合うおつもりなら、死ぬほど精進して出直すことをお勧めしますわよー!」
斜面の上から見下ろしながらの高笑い。
ああ……いまのわたくし、輝いてませんこと!?
「……だと……?」
斜面の下に転がったポリバケツの中から、ぼそりと低い声が聞こえた。
「……?」
ゆらりと立ち上がる、怪奇ポリバケツ男(2号)。
腕を交差させてポリバケツの端を掴み、力任せに真上に投げ飛ばして脱出する。
「お前が……、こんなクソガキが、先輩たちの言っていたこの裏山の主、HOJOだってのか!」
HOJOって!?
「レレ、レディーをつかまえて、そんな数世代にわたって奇妙な冒険をしそうな発音で呼ぶなんて、失礼にもほどがありますわ! 訂正なさいませッ!」
怒りに震える私の文句に聞く耳もたず、謎の青年は両手を振りかざしながら斜面を駆け上がってくる。
「こんなチビジャリに! 俺が負けるわけがねぇッ!」
突進力はなかなかのものだ。
でも、身体能力だけでこの私に勝てるわけがない。
「まだわかっていないようですわね……ここはわたくしのトラップフィールドですわ!」
とん、と軽く地面を踏むだけで、斜面の地中から何枚もの板きれが勢いよく立ち上がり青年の行く手を阻む。
「無駄ァ!」
ばきん、と音を立てて板が真っ二つに叩き割られた。
鉄拳で実力行使……!?
思わず目が点になりそうだったけど、よく考えたらこの程度のバイオレンスなトラップ突破はレナさんや圭一さんで見慣れている。
「貧弱! 貧弱ゥ!」
……とはいえ、目の前に立ち塞がる板をことごとく叩き壊して一直線に斜面を駆け登ってくる姿が脅威であることは間違いない。
「絶望に身をよじれHOJOォオオォオォオオ!」
勝ち誇った叫びとともにほんの数歩先まで肉迫するものの私が慌てることはなかった。
「多少はおできになるようですけど、わたくしは雛見沢分校部活メンバー。ちゃちな絶望や恐怖など、とっくの昔に『克服』してますわ……!」
ふりかぶったのは、お手製のロージンバッグ。
「覚悟なさいませ!」
私の制球力は監督にも褒められるほどだ、この至近距離で目標を外すことなどありえない!
「ヌゥ!」
瞬間的に反応して叩き落そうとしたけれど、それで十分。
「……チィ!」
爆発的に広がった白い粉塵が視界を覆い尽くす。
「この程度で逃げられると思うか!」
見えないなら見えないなりの戦い方がある、とばかり青年は大きく両腕を振り回した。
至近距離ならば視界など関係ない、捕まえてしまえば力の差で押さえ込めるということか。
「きゃ!」
その策は当たり、あてずっぽうに振るった腕が身を低くしながら青年の脇を抜けようとしていた私にぶつかる。
「そこか!」
覆い被さるようにタックルを仕掛けてくる。
「……かかりましたわね」
私は一手早く、斜面に身を投じていた。
「なに!?」
初歩のロープトラップ。
地面に仕掛けておいたロープの輪でこちらに踏み込んできた足を瞬時に絡め取り、その先は頭上の木の枝を経由して私の手に握られている。
そこで私の全体重とジャンプの勢いを利用してロープに絡まれた足首を吊り上げれば、相手が大の男でも足一本の自由を奪うことは容易!
「……なにィィ!?」
バランスを崩して倒れそうになる青年を見ながら着地し、ロープの先の金具を用意しておいたフックに接続!
これで、複雑な結び目にしてあるロープの輪をほどくまでその場から身動きできない。
ロージンバッグによる煙幕は、最初から逃げるためではなくこのロープを見えなくするための一手だった。
「ぐぅ……!」
白煙の晴れたあとには、みじめに片足を吊り上げられて崩れた姿勢でこちらを睨む青年がその場に残っていた。
これであとはこの場から逃げるもよし、飛び道具で好きに彼を料理してもよし。
どちらにせよ、私の勝利は確定した。
「をーっほっほっほ、なんとも滑稽なお姿ですわね!」
なにはともあれ、とりあえずは口元に手を添えて思い切り笑ってやることにした。
「お子様の浅知恵が……!」
青年は忌々しそうに言いながら、吊られていないほうの足で地面を強く蹴った。
「え!?」
ロープを支えている太い枝に飛びつき、鉄棒のように両手で握り締めると勢いをつけて身体を大きく揺らし、その反動を利用して半回転、枝の上に身体を押し上げた。
「そ、そんな……!」
そのまま枝を飛び越えて反対側に着地したときにはロープは枝から外れ、彼は自由を取り戻していた。
「HOJOォ! お前は俺にとってモンキーなんだよ!」
な、レディをお猿さん呼ばわりだなんて……!
「無礼千万ッ!」
飛びかかってくる青年を、バックステップでかわす。
「逃がすか……ぬあ!?」
私の飛び越えた落とし穴に足を突っ込んで引きずりこまれながらも、両手で周囲の地面を引っ掻くようにして体重を支え、即座に脱出。
な、なんというド根性……!
驚きながらも、その間に私は手の届く範囲から逃げる。
「ふふん、捕まるほど間抜けじゃありませんわー!」
「くそ、待てい!」
吊られていない状態になったとはいっても、足に絡まったロープをほどくのに時間がかかるのは同じこと……。
と余裕綽々で見ていたら、彼は意外に冷静だったらしく、私が置き去りにしてきたフックを掴む。
「ゴルゴのようにクールな俺を舐めるんじゃねえ!」
ぱちんと金具を外し、邪魔にならないようにロープの端をくるくると巻き取って走り出す。
うぬぬぬ……意外にバイタリティがある。
とりあえず踵を返し、駆け出す。
平地ならともかく、ホームグラウンドのこの場所ならそう簡単に追いつかれるつもりはなかった。
「うおおおおおおおおお! なんぴとたりとも、俺の前は走らせねえええ!」
熱血青年はやかましく叫びながら、枝やら藪やら罠やらを蹴散らしながら突っ走ってくる。
クールが聞いて呆れる風情だ。
「暑苦しい方ですわね……」
走りながらぼやいたところで名案を思いつく。
「……なら、すこし頭を冷やしてさしあげましょうか」
林の中の道を急角度でカーブし、下り坂を駆け下りて沢の多いあたりへと誘導する。
「待っちやがれえええええ!」
距離がすこしずつ詰まるのを感じながらも、焦らず騒がず年季の入った吊り橋を早足で渡って待ち構える。
沢までの高さや橋そのものの長さがそれほどでもないこともあって、手すりの部分がないから、慣れていない人には非常に不安定な足場になる橋だった。
「ふっふっふ……、もう逃げるのはおしまいかあ……?」
威圧しているつもりなのだろうか、ことさらにゆっくりと橋の上を歩いて迫ってくる。
中程まで渡るのを待って、私は藪の中から隠していた物を取り出した。
「なッ、それは……!?」
「をーっほっほっほ! 青ざめましてよ……勘のよろしいあなたは悟ったようですわね……恐ろしい結末になるのを気づきましたわね!?」
大きくふりかぶって、全力で投げる。
「ふんもっふ☆ですわー!」
「野郎なんてことを思いつくんだ……こいつはやばい!」
金色のバレーボールが一直線に飛んでいく。
「うお!」
よけるか受けるかを一瞬迷ってから、パンチで叩き落とすことを選んだらしく腕を振り回す。
たしかにボールは弾いたものの、身体のバランスが崩れてぐらぐらと橋が大きく揺れる。
「お……落ちるッ!」
必死でこらえようとしながらこちらを睨みつけて……その表情に絶望の色が混じる。
「うっふふふ……何発まで、耐えられますかしら~!」
金色のサッカーボール。金色のバスケットボール。金色のラグビーボール。金色のバランスボール。金色のドラゴンボール。金色のRB-79ボール。金色のダンボール。
とにかく金色のいろいろを、矢継ぎ早に投げつける。
戦いは数ですわよ、にーにー!
「待て待て待て、後半なんかおかしいだろ!? 最後のはボールですらねぇだろが!」
金色の嵐が襲いかかるが、いくつかはよけられ、いくつかは弾かれ、いくつかは直撃した。
といっても、そもそも当たる当たらないは問題じゃない。
不安定な橋の上でバランスを崩すのが目的だ。
「落ちる……だと。この俺が……!?」
もはや青年の命運は風前の灯火、斜め45度の角度で奈落へと落ちていくのを待つばかり……計画通り!
「まだだ!」
断末魔の叫びか、謎の青年は咆哮した。
「まだ終わってねぇ……!」
腕を大きく振り回して、余計にバランスを崩す。
「フン、いまさら悪あがきを……って、えええっ!?」
いきなり飛んできたロープが、高みの見物を決め込んでいた私の身体にぐるぐると絡みつく。
これは……さっきのトラップで足に巻き付いたままだったロープを、今度は自分の武器に使うなんて……!?
謎の青年はついに空中に投げ出されながら、驚愕する私に向けていやらしい笑みを浮かべていた。
「俺だけが、落ちるわけがない。貴様も一緒に連れていく……HOJOォオオオ……!」
そんな……馬鹿な……!
ロープに引っ張られた身体が最後の足場を踏み外し、浮遊感が襲いかかる。
急速に、水面が近づいてくるのがわかった。
「ぶぇっぐしっ!」
「ふぇっくしっ!」
ずぶ濡れになるだけでなんとか助かった私たちは、並んで河原に座り込み、くしゃみをしていた。
そろそろ初夏とはいえ、沢で泳ぐにはすこしばかり早い季節だったらしい。
もともとお昼休みはこの河原でとる予定があったから荷物があってよかったけど、着替えの持ち合わせはないので、下に敷く予定だったビニールシートをかぶるはめに。
はやく服が乾いてくれないかしら……。
まあ、謎の青年のほうはツナギを広げてぱんつ一丁だからそれよりはマシなのかもしれない。
「くそう……、どうして俺がこんな目に……」
「どう考えても自業自得ですわ……巻き込まれたわたくしのほうが災難ですわよ」
服が乾くのを待つ時間で話を聞いてみれば、彼はつい最近興宮のとある会社に就職したらしい。
そこの先輩にこの裏山の噂を聞かされ、子供の仕掛けた罠なんかに引っかかるわけがないと馬鹿にしたら、だったらやってみろと先輩が煽ったらしい。
お調子者と言うべきか、その煽りにあっさり乗った彼は、見事に裏山を突破してなにか証拠の品を持ち帰ってやると豪語して、のこのこ乗り込んできたらしい。
「しかしまあ、先輩たちの言うことも半分くらいは認めてやってもいい。ガキの割には大したトラップだったぜ」
「なーにを偉そうに。結局トラップには全部引っかかってらしたのに、負けを認めないおつもりですの?」
「なんだと……このガキ、どうみたってこれは引き分けだろうが! それともお尻ペンペンするまで続けるか!?」
「む……、そうまで言うなら、今日のところはこのくらいで勘弁してさしあげますわ。せいぜい感謝なさいませ!」
さすがにこんな格好でこれ以上走り回ったり暴れ回ったりするのはレディーのすることではないと思うので、ここは私のほうが大人になって引き下がってあげることにした。
「負けん気の強いお子様だな、可愛げのない……」
「素直に負けを認めないとは、大人げのない……」
一瞬、視線が交錯する。
「………………」
でもお互いに、ぷいっとそっぽを向くだけにした。
しばらく黙り込んでいたものの、どうでもよくなったのか向こうが先に口を開いた。
「そういや、あのトラップは一人で全部作ったのか?」
「梨花に手伝ってもらったのも多いですわ」
「なに、友達がいるのか!?」
「失礼な、いるに決まってますわよ!」
「いや、一人で山にこもってるから寂しい奴なのかと」
「ホントに無礼千万ですわ!?」
本当に友達がいない子だったら泣いてますわよ……?
気遣いのできない大人って、これだから。
「梨花はわたくしの親友ですわ。油断すると、言い訳なしで椅子をぶん投げてくるくらいにアホの子ですのよ」
「ははは、通報しろよ。危ないよそいつ」
……朗らかに私の親友を犯罪者扱いしないでほしい。
「梨花は決して、バイオレンス野郎ではありませんのよ。『すこしうるさい』とか、ちゃんと理由がありますの」
「すこしうるさいだけで椅子ぶん投げる奴はどう考えてもバイオレンス野郎だな、うん」
あれ?……私もちょっとそんな気がしてきた。
梨花、やっぱり礼のアレはやり過ぎですわきっと。なんか『夜露死苦』とか言ってたし……。
でもあれはあれで新たなファンを獲得したり、ファンが新たな世界に目覚めたりしてそうでちょっと怖い。
「くそう……腹減ったな」
おなかを抱えて情けなさそうな顔をする。
「大の男が、お昼抜きくらいで情けないお顔ですこと」
「昨日も昼抜きだったんだよ」
「……昨日のことは関係ないと思いますわ」
「一昨日も昼抜きだったんだ」
「……一応お尋ねしますけれど、朝ごはんは?」
「朝は塩を舐めるのが爽やかだな」
「……晩ごはんは……」
「パンの耳って意外にうまいよな。喉渇くけど」
要するに、ろくな食生活ではないようだ。
「仕方ねぇだろ……ここんとこ先輩たちに麻雀で負け続けて来月の給料まで差し押さえられてるんだよ……」
……それなんて地下王国?
「そういえばお弁当がまだでしたわ。慈悲深いわたくしを崇めるなら、半分分けて差し上げてもよろしくてよ?」
「おお……お前は俺の女神かもしれん!」
……物凄く安いプライドらしかった。
約束は約束なので分けてあげると、
「おお美味い! 自然の中で食べる弁当は格別だな!」
私の分がなくなりそうな勢いで綺麗に並んだサンドイッチが瞬く間にその数を減らしていく。
今日のは自作なので、美味しいと言ってもらえるのは嬉しいけど……もうすこし味わって食べてほしいところだ。
「喉に詰まらせますわよ……それに、自然よりなにより、美女が隣にいることを喜んで欲しいものですわね!」
「十年早いだろ幼女」
「では、残りは全部わたくしの分ということで」
「あまりの美しさに、恋に落ちてしまいそうです女神よ。むしろ愛してます。結婚してください」
……彼のプライドはこの日、最安値を更新した。
食事が終わると、服が乾くまでほかにやることもないのでとめどもなく話し込んだ。
ずいぶん年上の男の人なのに、圭一さんと似ているせいか不思議と話しやすくて助かった。
さんざんな目に遭ったけど、ひとりでため息をつきながらトラップを作っているよりは楽しい休日になったかも。
気がつくと、日は傾き始めていた。
「……おっといかん、夜勤に間に合うように帰らんとな」
「あら、たしか造園業と仰いませんでした? お庭のお手入れに夜勤なんかありますの?」
「あるよ、24時間戦ってるよ! 造園屋なめんな!」
よくわからないけど『庭園は地獄だぜフハハァー』とでも言いたげな無駄な必死さだった。
「お、お仕事って大変ですのね……」
「フッ……お子様にゃわかるまい」
「お子様お子様言うなでございますー! わたくしには、北条沙都子という立派なお名前がありますのよ!」
「そうだった、HOJOだったな」
「だから、その発音はどうにかなりませんの!?」
「ならん」
ならないらしい。
むぅ、それなら仕方ありませんわね……。
……って、あやうく納得しかけましたわー!?
「そういえば、あなたのお名前を伺ってませんわね」
「そんなに知りたいか……そうかそうか!」
「いえ、特には」
「ならば教えてやろう、俺の名を!」
「興味ございませんわ」
「俺の名はッ!…………いや、その、雲雀十三、か?」
あまりにも唐突すぎるテンションの急落をツッコめばいいのか、『じゅうぞう』という時代劇にでも出てきそうな響きにツッコむべきか。
それとも自分の名前を疑問形なところがツッコみどころ?
いえ、私は人格者を自負していることですし。
「雲雀とは、顔に似合わず雅な名字をお持ちですわね」
「か、顔と名字は関係ないだろ……!?」
「単なる乙女の気遣いですわ」
「顔を貶された気がするが、それって気遣いなのか?」
「疑問の余地などありませんわ」
しばしの沈黙。
「…………」
立ち尽くす十三さんはなにやら心の葛藤を乗り越えている様子だったけど、どうにか顔を上げた。
「と、とにかく俺は行かねばならん……家まで送ってやれなくてすまんが、遅くならないうちに帰れよHOJO!」
「え、ええ。十三さんもお気をつけてお帰りあそばせ」
やや生乾きのツナギを無理矢理身につけると、無駄に絶叫しつつ夕陽に向かって駆け去っていく。
「俺は……、俺の名は、雲雀十三だあぁああああああ!」
……本当にわけのわからない人だった。
まあ、どうも雛見沢でのお仕事も多い人のようだから今日の決着はいずれ次の機会につけるとしよう。
似たもの同士だから、一度は圭一さんと死合わせてみたい気もする。大人だから十三さんが有利だろうけど圭一さんもあれで爆発力は結構侮れないし……。
「さて、わたくしもそろそろ帰りませんと……、あら?」
かぶっていたビニールシートを片付けて、そろそろ乾いただろうかと干しておいた衣服をあらためようとして、風に飛ばないよう石で止められたメモ用紙を見つけた。
そこにはあまり達筆とはいえない字で、
『証拠があれば負け分チャラなんだ
来月分の給料が出ないと間違いなく死ぬ
心は痛むが命には代えられん
すまん許せHOJO愛してるさらば』
意味不明なことが書かれていた。
「……は?」
首をかしげながらも、いつまでもこんな格好ではいられないと衣服を身につけようとしたところで、気がついた。
「ない……ない、ない! ありませんわ!?」
それでようやく、メモの意味がわかった。
あ……、あのド変態……ッ!
「今度会ったときは……タダじゃおきませんわぁあッ!」
<雑談>
いや、なんかあの人、圭一と似てません?
1シーンの登場だから、あのブチ切れた語り以外、
ろくに情報がないんですけどね。
好きに書いてみました。沙都子。がんば。