ひぐらしのなく頃に~神楽舞   作:晃晃

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第106話 渡る世間は謎ばかり

休日の診療所には、監督も鷹野さんもいなかった。

 

レナの見舞いに来たというと、当直の看護婦さんがどうぞどうぞとあげてくれた。

 

これだけオープンなのは秘密の研究所としてはどうかと思うけど、なにかとお世話になってるから表のスタッフともそれなりに顔見知りだし、こんなものかもしれない。

 

まだ引っ越して一年ちょっとなのに、ちょくちょく医者の世話になっているほうが異常な気もする。

 

「行くわよ、圭一」

 

「……おう、わかってる」

 

梨花に腕を引っ張られて、二階の奥へ向かう。

 

レナの病室だ。

 

「あ……みんな、来てくれたんだ」

 

病室に入ると、レナはベッドの上で座っていた。

 

……思っていたより、顔色がいいので安心した。

 

「あぅ、レナ! 起きていて大丈夫なのですか?」

 

羽入が心配そうな様子で駆け寄ると、レナは小さく笑う。

 

「うん、平気だよ。もうだいぶ痛みもひいてきたから」

 

まだ満開の笑顔とは言えないが、それでも羽入は安堵した様子でレナの手を握り締める。

 

「レナが元気になってくれると、僕も嬉しいのです」

 

「羽入ちゃん……」

 

「レナ、レナがいないと、僕だけでは圭一と梨花の暴走を止めようがないのです……あぅあぅあぅあぅ」

 

なにその魂の叫び。

 

「く、苦労してるんだね……」

 

痛ましげに羽入を撫でるレナ。

 

「羽入、暴走とは失礼ね。私たちは大好きなレナのいない寂しさを、家族で分かち合おうとしてるだけじゃない」

 

梨花が憮然として言うが、

 

「あぅあぅ、梨花! レナの存在は特殊なプレイなんかで埋められるほど軽くはないのです!」

 

「とっ……とくしゅなぷっ……!?」

 

「待てレナ、アレだ。三人麻雀とかだ」

 

思わず怪我した頭に血が昇りそうなレナを止めるべくそう言ったのだが、

 

「三人麻雀どころではないのです! 恥ずかしい単語限定しりとりでは僕の乙女回路が爆発寸前だったのです!」

 

涙目で激白する羽入であった。

 

「あぁ、あれはザマミロ&スカッと爽やかの笑いが止まらなかったわね。羽入さんの耳年増っぷりは異常」

 

それには同感だが、梨花も互角に戦ってただろ……。

 

「いらないのです……僕の人生には、人生ゲームの借金を身体で清算しろと迫られた記憶など必要ないのです……」

 

おや、なにか羽入が精神に傷を負っているようだ。

 

「梨花という夫がいながら飼い犬の圭一に飼われる新妻・羽入なんて悪趣味なおままごとはしてないのです……」

 

「じ、地味に嫌な思い出がいっぱいだね……」

 

羽入に貰い泣きしそうなレナの優しさが愛おしい。

 

などと思っていたら、

 

「レナがいないからってはっちゃけ過ぎだよ、二人とも」

 

あ、久々にめってされた☆

 

叱られているのに思わずほわんとなってしまう俺と梨花。

 

「そうね……はやく退院して戻ってきてよ、レナ」

 

「一緒に羽入をいじり倒せる日を楽しみにしてるぜ!」

 

「うん!」

 

俺と梨花の言葉に、嬉しそうに頷くレナだった。

 

「あぅあぅ……レナ、そこで頷かれると僕は悲しみの向こう側に辿り着いてしまいそうなのですが……」

 

泣き笑いになってる……やばい、さすがにそろそろ羽入の精神崩壊フラグが立ちそうだな。

 

「まあ羽入に救いの手を差し伸べるためにも、レナが元気になってくれないとな!」

 

明るく言いながらレナの肩を抱き寄せる。

 

「って圭一、どうしてそんなナチュラルにレナの隣に潜り込んでいるのですか!?」

 

羽入のツッコミに、レナも振り向いて目を丸くする。

 

「ぜ、全然気がつかなかったよ……圭一くん、いつの間に気配を消せるようになったの!?」

 

「こんなの簡単さ。レナの隣は、俺にとってきわめて自然なポジションだからな☆」

 

はぅう……と真っ赤になるレナ。

 

「では僕は、レナの逆隣をお願いしますのです……」

 

瞳にハイライトがないのが傷の深さをにじませる羽入。

 

「私は言うまでもなく圭一の上がポジションよね」

 

相変わらず生物界の頂点を目指しているらしい梨花。

 

やっぱり四人揃えば会話が弾むだろ、前原家的に考えて。

 

去年から始まった、俺たちの共同生活。

 

最初はやっぱり、家族ごっこに過ぎなかったと思う。

 

子供だけの暮らしはどう言い訳したって不自然で、だけど梨花や羽入ともそうだったように、一緒に過ごしてるうちにその愛情は本物に変わっていった。

 

レナが入院して、離れて暮らせばそれがよくわかった。

 

梨花と羽入と俺。

 

防災倉庫にいた頃と同じ組み合わせなのに、レナが一緒に住む前と同じには戻れなかった。

 

レナはもう俺たちにとって本物の家族で、俺たちの生活の中にレナの笑顔がないと落ち着かない。

 

そういう絆が、確実にできている。

 

「はぅ……ありがとう、みんな」

 

嬉しそうに顔を綻ばせているレナも、きっと俺と同じことを思っているんだろう。

 

はやくレナに戻ってきてほしい。

 

そして出来る限り長い間、この幸せな生活を続けたい。

 

でもそのために……潜り抜けなければいけない試練があることを、俺はもう知っている。

 

ずきずきと拳が痛む。

 

いまにも壊れそうな……そんな痛み。

 

「……あぅ、そういえば今日はシュークリームを持ってきたのです。お茶をいれさせてもらってきますので、みんなで食べましょう!」

 

話の一区切りを見計らったように、羽入が立ち上がる。

 

「うん、レナも久しぶりに甘いの食べたいかな☆」

 

頷くレナに羽入は笑顔を返し、梨花のほうに向き直る。

 

「梨花、手伝ってください」

 

「やだ。レナにもふもふするの」

 

「僕にもふもふしていいですから」

 

「お呼びじゃないのよあんたは。はっはー♪」

 

「では梨花のお茶は特製オヤシロブレンドで」

 

「お手伝い大好き! お手伝い大好き!!」

 

虚ろな目を虚空に向けながらお手伝い大好き!を連呼する梨花を引っ張って羽入が病室を出て行く。

 

え……オヤシロブレンドって……何……?

 

「……良い子だよね、羽入ちゃん」

 

ほうと息をついて、俺の肩にこつんとこめかみをあてるように寄りかかりながらレナが言った。

 

「うん」

 

不思議だった。

 

胸の奥で渦巻いていた黒いナニカが、触れ合った場所から伝わる体温と心地よい重みを感じて……やさしい眠りに落ちていくのがわかる。

 

ああ、そういえば……。

 

入院してからというもの、レナとふたりきりになるのは、これがはじめてになるのかもしれない。

 

「あのね、圭一くん……」

 

レナがそっと目を閉じ、頬をかすかに緩ませて呟く。

 

「圭一くんは、レナがつらいとき、苦しいとき……ピンチになると、必ず助けに来てくれてるよ」

 

その言葉に、思わず目頭が熱くなる。

 

俺は、守れなかったのに。

 

レナの痛みを、引き受けてあげられなかったのに。

 

「ううん。間に合ってる。ちゃんと守ってくれてる」

 

なにも言ってないのに、俺の否定を否定して、

 

 

レナは、俺を肯定する。

 

 

その率直さこそが、レナなのかもしれない。

 

俺がどうしようもなく間違えたときは、ちゃんと間違ってると教えてくれるし、叱ってくれる。

 

だからこそ……、俺が間違っていないとまっすぐにレナが言ってくれるなら、それを信じられるんだと思う。

 

もっと自分を信じていいと、教えてくれるレナ。

 

だから俺も、素直に思えた。

 

 

……あのとき、レナを失わなくて良かった。

 

 

俺が間に合わず、レナが死んでいたら……俺も、俺の中の偶像も、もう二度と立ち上がれないほどの傷を負った。

 

重い後悔に押し潰されて、この先に待ちかまえる惨劇に屈する他なかった。

 

挑む前から、敗北していたはずだった。

 

でも、レナはいる。

 

ここに、俺の隣に、いる。

 

「レナ……」

 

耳をくすぐるレナの穏やかな息遣いが、小さいけど力強い心臓の鼓動が、俺に奇跡を信じさせてくれる。

 

竜宮レナは生きてるんだから、前原圭一もまだ戦える。

 

戦えるってことは、勝てるってことだ。

 

だって“前原圭一”は英雄なんだ。

 

不可能を可能にする、運命さえ覆す掛け値無しの英雄。

 

でも、そのヒーローにもたったひとり救えない奴がいる。

 

それは、俺だ。

 

ここにいる俺、英雄の代役たる俺だけは救われない。

 

英雄の不手際で死にかけて、半端な代役に命運を託すしかなかったレナが、生きていることが奇跡の証明なんだ。

 

「……ありがとう」

 

声が震えるのを必死で隠しながら、そう言った。

 

レナは答えない。

 

まるでその後に続く俺の言葉を待っているように。

 

「レナが……生きててくれて、本当によかった」

 

目を閉じたままで、レナは微笑った。

 

ささやかな奇跡。

 

こんなちっぽけな、ただの中学生の手でも……取りこぼすことなく、守りきれたものがこの世に存在する。

 

 

それだけは、絶対に“嘘”じゃない……!

 

 

英雄の役割は必要だ。

 

全てを吹き飛ばす嵐は、確実にやってくるから。

 

でも嵐が過ぎ去ったあとには、英雄なんかいらない。

 

もし万に一つ、命があったとしても……残るのはきっと、からっぽの前原圭一のほうだ。

 

そのとき、この手の中に何もなかったら?

 

本当に空っぽのままだったら、もうどうしようもない。

 

けど。

 

すくなくとも一つ、俺がいてもいい理由ができた。

 

レナが生きていてくれたから。

 

だから、何度だって。

 

「……ありがとう、レナ」

 

強がりの嘘でなく、押し殺した弱音でなく。

 

本当の真実を伝えよう。

 

「レナね……ここで眠ってる間、夢を見たの」

 

静かに口を開くレナ。

 

そっと、俺の膝の上に置いていた手を、反対の手で握る。

 

なにか大事なものを扱うみたいに、手首を握りしめる。

 

「とても……悲しい夢だった」

 

目を閉じたまま、まるで独り言のように続ける。

 

「それは避けられたはずの惨劇なのに、どこにも選択肢が見あたらなくて、坂道を転げ落ちるみたいに世界は絶望に向かっていって……その中心に、私がいた」

 

痛みを押し殺したような声音。

 

どこが痛いのか?

 

そんなもんは……決まっている。

 

「誰も信じられなくて……いっぱい、酷いことをしたよ。みんなを傷つけた。でも、圭一くんは……どんなにレナが傷つけても、最後までレナを助けようとしてくれた」

 

そいつは俺じゃない。

 

「足掻いて、足掻いて……みんなと一緒になって、レナをあの深い海の底から引き上げてくれた」

 

そんな英雄は、俺を逆さに降っても出てこない。

 

「……でも、その夢は、やっぱり夢で終わってた」

 

でも、構わない。

 

「なにもかもが壊れて、振り出しに戻った」

 

この世のどこにもいない偽物の英雄、鋼の勇者を……俺は俺の嘘でこの世界へと引きずり出す。

 

もう一度、いや、何度でも。

 

レナを救ったのと同じ奇跡を起こすために。

 

「この世界は、目覚めたら消える夢なんかじゃない」

 

拳を握りしめようとしたら、するりとレナの指がそれを阻むように俺の指に絡みついて……握りしめた。

 

「壊させない……、誰にも」

 

レナが開いた目蓋の奥にあったのは……静かに揺れる炎。

 

それは闘志であり、祈りだった。

 

詩音やレナは、祟りに立ち向かうためにこの診療所と戦う決意を固めている。

 

でも、そこに踏み込めば踏み込むほどに危険になる、と。

 

俺の知る真実を隠したままで、どう言えば説得できる?

 

それはどうやっても無理なのだと……目の前の消せない炎を見れば、はっきりと理解できた。

 

「……ああ」

 

頷く。

 

後戻りはもうできない。

 

そんな地点は、とっくに通り過ぎていた。

 

これ以上後手に回り続けることは……できない。

 

「あぅあぅ、お茶がはいりましたのですよー♪」

 

「エロエロトークはそこまでよ、二人とも!」

 

病室に古手姉妹の明るい声が響き、俺とレナはどちらからともなく微笑みを交わす。

 

たとえ今は目指す場所が違っても……俺達は、仲間だ。

 

 

 

 

おやつを平らげた後もおしゃべりを続ける前原家三姉妹を残し、俺はトイレだと言い置いて病室をあとにした。

 

階段を昇り、屋上へ出る扉の前で立ち止まる。

 

一応鍵はかかっていたが、外からの進入を防ぐためのものだから、外へ出る分には問題ない。

 

そして、ロックは外れていた。

 

「………………」

 

かすかに蝶番を軋ませながら、ドアを押し開ける。

 

病院の屋上には、ある意味でおきまりの光景。

 

白いシーツが並んで風に揺れる屋上の風景だった。

 

そのまま歩を進め、フェンスの手前で立ち止まる。

 

そこでぐるりと首をめぐらせて振り向けば、……いた。

 

小さな村の診療所の屋上というこの場のシチュエーションには全くそぐわない……鋭い目をした大人の男。

 

彫りの深い顔立ちに、頭の後ろで束ねた髪。作業服に包まれた身体は、鍛えられたものだと一目でわかる。

 

煙草をくわえた口元を歪め、粘りつくようなぎらぎらした眼光は俺に向けていた。

 

「……シケたツラぁしとんね、坊主」

 

深みのある声での第一声は、小馬鹿にするような言葉。

 

別にこの男に会おうと狙ったわけではない。

 

ただ、予感はあった。

 

表の責任者である監督、裏の責任者である鷹野さんが揃ってここにいない今、第三の地位にある人物がこの診療所に詰めているのは当然のことだ。

 

そして二人ともが研究者である以上、第三の人物はこの診療所の機密を守るための実戦部隊の長であるはずだった。

 

そいつの人物と、強さを見極めたい。

 

そう思ったから一人になる時間を作った。

 

偶然に出会うか、向こうから会いにくるかはわからない。

 

先に屋上に来ていたのが向こうである以上、これは前者、偶然であると信じたい。

 

後者なら……最悪、俺と鷹野さんの協力関係を悟られていることを覚悟しなければならないからだ。

 

「……坊主じゃない。前原圭一だ」

 

向き直りながら、半身で隠した拳を握りしめる。

 

ずきん、一際大きな痛みが走った。

 

フェンスに寄りかかった作業服の男は、くぐもった笑みを漏らしながら煙を吐き出す。

 

風に吹き散らされて流れていく紫煙をつかの間視線で追いながら、俺は考えていた。

 

こいつはある意味では俺の味方であり、同時に敵だ。

 

俺が秘密を守り切っている間は、敵に回らない。

 

だがひとたび詩音やレナの調査が深い部分を探り当てて、彼らの機密が公言されかねない事態になったと判断したのなら……間違いない、こいつはレナたちを殺しにくる。

 

そして最悪の場合、もはや秘密を守りきれないと判断したなら、この村を……丸ごと、皆殺しにするかもしれない。

 

鷹野さんに聞いたときは実感が薄かったが、目の前の男の目を見てそれが事実だと確信した。

 

こいつは、人を殺せる人間だ。

 

それも憎しみや誰かのためなんかじゃなく、ただの仕事と割り切って人を殺せる目。

 

何人でも何人でも、必要なら殺せてしまう。

 

そういう匂いがしたとしか言えない。

 

「身の程ぉ知らんダラズは、坊主で上等やっちゅうんね」

 

おかしそうに笑いながら、うまそうに煙草をふかす。

 

……どうする。

 

拳が軋みをあげていた。

 

ここでこいつを殴り飛ばしても何の解決にもならない。

 

わかっているのに、こいつに勝ち目があるかどうかを目算している自分を止められない。

 

「知ってるさ」

 

そしてどこからどう見ても……勝算は、なかった。

 

レナに鍛えられて一年、半端に力をつけたのが悪かった。

 

実戦を知る前の俺なら、この男と自分の力量差などわかるはずもなかった……でもいまは、はっきりとわかる。

 

この男が本気を出せば、俺では手も足も出ない。

 

それでも無理矢理に勝機を見出すとすれば、一対一。

 

策と天運に恵まれて、俺自身の生存を投げ出せば……最高で腕一本くらいは道連れにできるかもしれない。

 

「……へっ」

 

思わず自分で自分を笑ってしまう。

 

それのどこが勝利なのかさっぱりわからない。

 

でも、本当にどうしようもなくなれば……やっぱり、この男と戦わなければならなくなる。

 

その事実を認めることは、結局のところ……自分が死ぬかもしれないという覚悟が必要であることを意味していた。

 

「坊主……ひとつ、忠告してやる」

 

下手くそな雛見沢弁を引っ込めて、男は煙草を床に投げて踏みにじるとゆっくりとこちらに向かってくる。

 

全身の神経と筋肉とが緊張する。

 

まずい、余計な力はいらない。すぐに反応できるように、力を抜かなくちゃ……。

 

「ッ!!」

 

瞬間、視界が白く染まった。

 

不意に強い風が吹き、男と俺の間で揺れていた白いシーツが広がり、俺の視界を覆い隠したのだと理解する。

 

まずい、“敵”の姿が見えない……!

 

俺は全神経に命令を下す、距離をとって相手の姿を視界におさめろ。ぐずぐずするな、今すぐだ!

 

が、その命令が実行に移される前に……視界を遮っていたシーツは重力に従ってもとの位置におさまり、男は風が吹く前と変わらない姿でその場に立っていた。

 

男は薄く笑いながら俺を見据える。

 

「負けねぇコツってのを教えてやる」

 

……見透かされている。

 

いまの狼狽を、動揺を、いや……恐怖さえも。

 

そして決定的な事実。

 

俺は結局、一歩も動けなかった。

 

どんな言い訳も通じない。

 

この男の気配に呑まれたまま、対応できずにその場に立ち尽くしていただけ。

 

いま踏み込まれれば、拳の一撃でも叩き込まれていれば、ガードひとつ満足にできず俺は打ち倒されていた。

 

この男に対してそれは、直接的な死をさえ意味する。

 

なのに動けなかった俺は……やはり、まがい物だ。

 

「……勝てねぇ相手とは、戦わねぇってことだ」

 

低い声でそう言って、含み笑いとともに俺の横を通り過ぎた男は階段室のドアへと歩き去っていく。

 

俺は拳を握りしめながら、振り返ることもできない。

 

……できないが、それでも。

 

からからに乾いた喉から、無理に声を絞り出す。

 

「ざ、けんなっ……!」

 

声にも、余計な力が入っていることを認めざるを得ない。

 

それでも……なにも言い返すことさえできなければ、俺はもうひとつの武器である口先さえも捨てたことになる。

 

「……戦う理由なんて、」

 

顎の先から滴り落ちた汗の雫が、コンクリートに黒い染みを作るのを見ながら言った。

 

「勝てるかどうかじゃ、ねぇだろ……!」

 

あえぐような、断末魔のような……決して大きな声じゃなかった。男に届いたかどうかはわからない。

 

男は歩みを止めることなく、ドアを引き開けて屋上を去ろうとする。

 

そして肩越しにたった一言、

 

「……上等だ」

 

低く呟いていった。

 

ドアの閉まる音。

 

男がいなくなったとたん、足ががくがくと震えだした。

 

脂汗が、首筋と背中を伝っていることを意識する。

 

唇を噛みきったのだろうか、口の中に血の味がした。

 

俺がひとつだけ誇れるとすれば……まだ軋み続ける拳。

 

棒立ちで役立たずだった俺の身体の中で、コイツだけは最後の一瞬まで戦闘態勢を崩さずにいた。

 

当たり前だ。

 

そこに握りしめているものは……絶対に、手放せない。

 

 

 

 

それから病室に戻り、面会時間終了まで粘った。

 

「僕の癒しの時間が終わってしまったのです……あぅう」

 

哀しげな目で呟きながら、どなどなと重い足取りで病室を出る羽入は俺と梨花に前後をはさまれながら視線でSOSと主張していた。

 

「羽入ちゃん……レナの退院まで強く生きてね」

 

レナは気遣わしげに笑いながら手を振った。

 

「じゃあな、レナ。ゆっくり休めよ」

 

怪我もよくなってきているとはいえ、長時間話に付き合わせたのは悪かったのでそう告げる。

 

「うん、そうするね。圭一くんも……、ね」

 

レナの言いたいことは、口に出さずともわかった。

 

わかっても、それに従うことはできない。

 

それをレナもわかっているから、強くは言わなかった。

 

俺のまわりの奴らは、揃いも揃って俺自身よりも俺のことをわかっているのかもしれないと思う。

 

すこし自嘲をこめて笑い返し、俺は病室を出た。

 

明日までレナに会えない。

 

その事実だけで、心の奥のどこかが寒々しく感じる。

 

いや、事態は今日明日にでも動き出すかもしれないんだ。

 

そしたら……もう二度と、会えないかも。

 

嫌だ、と悲鳴をあげそうになるのをこらえて……しかし顔には出さずに梨花や羽入と騒ぎながら診療所を後にする。

 

病室の窓からレナの視線が背中に突き刺さるような錯覚を黙殺しながら……あくまでも楽しげに、賑やかに。

 

ごめん……、レナ。

 

レナは俺を信じてくれるのに……俺はその信頼に、応えられないかもしれない。

 

「僕はちょっぴり本家に寄っていきますので、圭一と梨花はお夕飯のお買い物をお願いしますのです」

 

神社のほうに向かう分かれ道で羽入がそう言い出した。

 

「羽入……、本家でいったいどんなプレイを?」

 

「あぅあぅ……梨花。なんでもかんでも特殊なプレイに結び付けないでください」

 

妹の感性に情けなさそうな顔をする羽入だった。

 

「定期的にしておかなければいけないことがあるのです」

 

それを聞いた梨花がはっと息を呑んで期待半分、恐れ半分という微妙な表情で羽入に問う。

 

「ツノね? ツノに秘密があるのね?」

 

「……………………ないですよ?」

 

おい待て羽入、今の間はなんだ。

 

しかもいま、目が一瞬赤く光らなかったか!?

 

畏怖のまなざしを向ける俺と梨花に羽入は小首を傾げた。

 

「なのです☆」

 

え、いまの『なのです☆』はどーゆー意味……?

 

脈絡がなさ過ぎて怖いぞ!?

 

かちかちと歯の根の噛み合わない様子で梨花はぎゅっと俺の服の裾を握り締め、見上げてきた。

 

「きっと……次元世界の魔王(nano)よ来たれ、この者に慈悲深き死(death)を与えん。放て、スターライトブレイカー!……を意味する略式呪文よ、圭一!」

 

え、なにその中二病。

 

震え上がりながら言うなよ、俺まで怖くなってくるよ!

 

「ちなみに沙都子もたまに『死告帳にその名を記さん』という意味の『ですの(deathnote)』という略式呪文をさりげなく語尾に混ぜてくることがあるから要注意よ!」

 

「いや、さすがにそれは考えすぎだろ!?」

 

梨花のアホさに全力でツッコんでいたら、当の羽入がいつの間にか道をずんずんと進んで神社のほうへ消えていく。

 

肩越しに振り返ってにやりと笑ったようにも見えたけど、気のせいだよな。気のせいだよな!?

 

オヤシロブレンドといい、まだまだ古手家、ひいては雛見沢には謎が多いぜ……108くらいあるんじゃないか?

 

人知を超えた秘密がご近所どころか家族にさえ潜む村。

 

ありえないなんてことはありえない。

 

それがこの……雛見沢村。

 

一斉に鳴き始めたひぐらしたちの合唱さえ、いまはひどく不気味なものに聞こえてしまう。

 

「い、行きましょう圭一……謎はもうこりごりよ」

 

さすがに姉に潜む怪異を知って怖くなったのか、梨花が震える手を伸ばして俺の手を握り締めてきた。

 

「お、おう……商店街までいけば、大丈夫だろ」

 

それは俺たちの偽らざる心境であり切なる願いだったが、手をつないで商店街のほうに向かおうと歩き出したところでまたひとつ、新たな謎にめぐりあってしまった。

 

まったくの不意打ちで、

 

「ぁ……」

 

ばったりと、出くわした。

 

道の両側に広がる林の一方から一方へと、素早く横切ろうとしたその小さな影が愕然とした様子で足を止める。

 

信じられない。

 

ああ、なんてこった。

 

それは……まさに、常識外の存在。

 

全裸の上にビニールシートをまるでローブのようにすっぽりとかぶった地方妖怪、ツンデレ八重歯(仮称)だった。

 

「きぃやぁあああああ!?」

 

「にゃあぁああぁああ!?」

 

「うわあぁあああああ!?」

 

恐怖と衝撃の余り絶叫する俺たち。

 

あれ? どうして妖怪も真っ赤になって悲鳴を……?

 

わからない。わからない。なにもわからない。

 

誰か、俺たちを連れ出してくれ……この異常な世界から。

 

 

黄昏に包まれた逢魔が刻、人の通わぬ雛見沢の小径で。

 

次の謎と出会うのは、あなたかもしれない……。

神楽舞完結後、次に読みたい作品は?

  • 神楽舞、お疲れ様会もやってほしい
  • ひぐらし短編集
  • ひぐらし連載、長編もの(圭羽、梨圭など)
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