嵐の山中を、何時間走っただろう。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
髪はずぶ濡れ、服はどろどろでひどい有様だ。
年頃の乙女として、とても人様には見せられない姿。
下見のときにつけた最後の目印を見つけて、息をつく。
どうやら道は間違えずに済んだらしい。
「やれやれだよ……」
私は予定通りの廃屋に辿り着くと、身体を拭いて用意しておいた服に着替え、しばしの休息をとることにした。
休息といっても、万が一追っ手がここまで辿り着いたときのことを考えれば、眠るわけにはいかない。
「手当もしなきゃ……」
雨ですっかり流されてはいたが、殴られたこめかみからは血が流れていたらしい。髪の生え際にできた傷を丁寧に消毒して、小さく切った絆創膏でどうにかごまかす。
脇腹も痣になっていて、触るとじんじんと激痛が走る。
衣類の圧迫がつらい位置だ。
背中は自分では見えないが……これだけ走れたのだから、背骨は無事なのだろう。とりあえず、我慢我慢。
「はあ……、結構やられたなあ」
疲れきった身体に鞭打って小屋の片隅に陣取り、小さな覗き窓から外の様子を窺いながら膝を抱える。
背中が痛むからよりかかれないのもつらい。
「あはは……もう夏だってのに、寒いなあ……」
身体の芯から来る震えが、雨の冷たさによるものだけではないことは自分でもわかっていた。
暖かい居場所、居心地の良い雛見沢を喪った。
ようやく自分が魅音でありえるのだと理解できた瞬間に、その場所から追われてしまった。
「さて……どーしよっかね」
最初は県外の親戚筋にでも無理を言って身を寄せるつもりでいたけど、相手が組織だとすればそれはまずい。
園崎とつながりのある場所ならば、まず確実に突き止めて追ってくるに違いない。
「いっそ、外国にでも行っちゃうかあ……?」
確実なのはそれだが、現実的ではなかった。
あいにくパスポートは本家に置きっぱなしだし、出国記録が残るのはまずい。かといって、園崎のパイプ抜きでただの小娘が偽造パスポートを手に入れるのも無理だ。
さすがに文書偽造の訓練までは受けていない。
「国内……、となれば」
木を隠すなら森の中。
人の多い場所に逃げるのが一番確実だ。
その裏をついて地方に逃げる手もあるにはあるが、相手の組織力、規模が読めない現時点でそれは危険だった。
雛見沢でもそうだが、異邦人はそれだけ注目を受ける。
田舎では余所者に関する情報はどうしても突出してしまうのが常なのだ。
ほとぼりをさますのに何年かかるかもわからない状態で、それを選ぶのはあまりにも危険だった。
「やっぱり、東京かあ……」
分母が大きければ大きいほど、その中のたったひとりを捜し出し調べ上げるのには時間も予算もかかるのが当然。
都会なら、異分子が隣に入り込んでもさして他人の関心をひかないというのも大きいだろう。
結局のところ、それが最善の選択肢だった。
「……晴れたねぇ」
翌朝、眠い目をこすりながら廃屋を出た私は、その日のうちに徒歩でもう一山越えて、県外へと脱出した。
前夜の激しい雨で増水した沢に何度か行く手を阻まれはしたものの、回り道による時間の消費は気にならない。
園崎組絡みで夜逃げした人間の足取りを追いかける手伝いをした経験上、追う者の思考はトレースできる。
ある場所から逃げるとき、犯しやすい間違いはスピードを求めるあまり交通機関や車を使うことだ。
交通機関を使えばどうしたって人目につくことになるし、車は、それ自体が特定しやすい情報の塊だ。
しかも道路という形で、追っ手がたどるべき“線”を残してしまうことになる。
“線”とは方向。
方向がわかることで、どちらに逃げたか、目的地がどこかをおおむね絞り込まれてしまう。
「重要なのは、スピードじゃない……」
足跡を残さないことが最優先だ。
私が選んだのは徒歩と、交通機関をこまめに乗り継ぐこと。
徒歩は道に縛られずにある地点からある地点へと移動できるから、“点”しか残らない。
加えて、交通機関を使うたびに服装や髪型を変えることで同一の特徴をもつ少女が移動したという“線”を消す。
それを繰り返すことで、私は北陸から関東へ迂回し、足跡をほとんど残さぬままに東京へと踏み込んでいた。
「……さて、これからどうするか」
東京に来るのは、もちろんはじめてではなかった。
叔母を説得する材料にするつもりだった秘密口座のお金はほぼ丸ごと残っているから、しばしの間潜伏するのはそう難しくはない。
とはいえ、問題になるのは私の容姿だ。
とりあえず背丈や体つきは順調に発育しているほうだと思うので、服装と化粧しだいでは成人女性を装うこともできなくはない。
だが日常的にそれを徹底するのは疲れる話だし、どこかでぼろが出てしまう可能性もあるからできれば避けたい。
なんだかんだいって雛見沢を離れれば私はまだ子供でしかなく、社会的には誰かの庇護下になければ不自然な年齢に過ぎない、というわけだ。
今の私に必要なのは、園崎の人脈とは無関係であり、なおかつ私を手元に置いてくれる理由がある大人。
なりふり構わないなら理由はカネでもカラダでもいいが、まだまだ夢見るお年頃としては、もうすこしマシな理由であってほしいところだ。
さらに、もうひとつ条件を加えるなら……。
そう、祟りの裏側にいたあの連中について調べるにあたり利用できそうな人間ならなおいい、というところか。
これらの条件に全てあてはまりそうな人間に、私はひとりだけ心当たりがあった。
次期党首として膨大な人間の資料にあたってきたが、その全てを覚えているわけではもちろんない。
けれど、印象深いエピソードがあり、追跡調査まで必要とした人間ならば……思い出せないこともなかった。
「……おねーちゃん、だれ?」
幼い声をかけられて顔をあげる。
東京のとあるマンション、とある一室のドアの前。
どうやら私は膝に荷物を抱えたまま、疲労困憊のあまりに眠りこんでしまっていたらしい。
目の前には幼稚園の制服らしきものを着た小さな女の子が私を見て可愛らしく小首を傾げている。
私にそんな趣味はないけど、レナに見せたら瞬時にお持ち帰りしそうなハイクォリティ幼女だ。
そして、その子を背後にかばうようにそびえた人影。
長い足をたどって見上げた先には、たよりがいのありそうな引き締まった体格と、誠実さに溢れた精悍な顔。
「……君は?」
自宅の玄関先に座り込んでいた見知らぬ人間に対して当然の警戒を見せながらも、こちらの憔悴を見抜いてか声音は深く優しげなものだった。
ちなみに今の私はオーソドックスなセーラー服に長い三つ編みのおさげ髪、本のページでも食べてみせれば文学少女で通じそうなくらいのおとなしげな風情だ。
「……お初にお目にかかります」
私は膝のバッグを横に置くと、急な動きは余計に警戒させるのでことさらにゆっくりと立ち上がってスカートを軽く払い、その男に頭を下げた。
「雛見沢御三家が筆頭、園崎家頭首代行。園崎魅音」
そこで顔を上げて、すこし冗談めかして微笑む。
「……と、名乗っていた者です」
「雛見沢、だって……?」
男は、私の顔をまじまじと見つめながら記憶を呼び起こしていた。おそらくは四年前……雛見沢での記憶を。
「園崎……、まさか、園崎家の!?」
警視庁公安部、……赤坂衛。
この男が、私にとっては唯一の希望の灯だった。
ダム戦争の真っ只中に起きた建設大臣の孫の誘拐事件。
その容疑をかけられた鬼ヶ淵死守同盟の調査のためにかつて雛見沢を訪れ、大石とともに誘拐犯のアジトに踏み込みながらも犯人に銃撃されて重傷を負った新米刑事。
事件当時、園崎の情報網はこの男のプロフィールを早々に掴んでおり、あえて自由に泳がせていた。
負傷した彼は入江診療所に収容され手当を受けたが、東京から駆けつけた応援の同僚から妻の急死という悲報を受け取り、決して軽くない怪我をおして東京へ帰った。
その後の調査では公安部に復帰したと聞いている。
「……まず、君にひとつ聞きたい」
招き入れられた部屋の中、鋭さを帯びた声で彼が言った。
彼の娘である美雪ちゃんはなにかと面倒を見てくれているらしい近所のおばさんに預けられて二人きりだ。
「奥様の御不幸についてであれば……、園崎にそのような工作をする理由も必然性もないとしかお答えできません」
「ッ……!」
私が先回りして答えたので、言葉に詰まる。
「誘拐事件発生の事実は園崎本家でも掴んでいましたが、私の知る限り園崎家内部にあの事件に関わっていた人間は一人もいません」
実際、婆っちゃに命じられて仔細な調査を行ったのだ。
あのときの婆っちゃは、自分たちの戦いに罪もない幼子を巻き込んだ誘拐犯たちに怒りを隠さなかった。
そんな不心得者がいれば必ず見つけ出し、爪の数枚は献上させるつもりでいたはずだ。
もちろん、それで園崎全体がシロだとは私も思わない。
園崎のブラフは、結局のところ自分でもシロかクロかわからないからこそ通じる代物なのだから。
「……なるほど。しかし我々の捜査では、死守同盟の組織では不可能という結論が出ている」
当然だ。死守同盟は村の団結のための旗印であって、組織としての諜報活動や工作などは園崎が担当していた。
疑うならばまず園崎という理屈はわかる。
「ええ。私も、園崎が能力的に不足とは申し上げません」
そうした工作を担当する実行部隊がいたのかどうかさえも私には知らされていない以上、できるともできないとも明言できないのがつらいところだ。
「どちらにせよ、誘拐事件の捜査のために訪れた一捜査官の関係者を秘密裏に殺害するというのは園崎にメリットがないでしょう?」
「それはそうだが……」
彼が脅迫でも受けていたというなら話は別だ。
捜査を中止しなければ妻を殺す、そんな稚拙な脅迫が行われていたと仮定すれば、誘拐事件の犯人の一味が彼の妻を殺したとも考えられる。
しかし、だ。
その場合、彼は脅迫に屈さず捜査を強行したことになる。
ならば当然、公安部に脅迫の事実を連絡し、妻には相応のガードが敷かれていたことだろう。
が、あくまでも事故として処理された妻の死に不審なものはなく、ガードされていたという事実もない。
つまり脅迫はなかった、ということだ。
「誘拐を阻止されたことへの報復……という線は?」
「少なくとも園崎なら、そんな無益なことはしませんね」
そう、それは全く無益だ。
実際、建設大臣はダム計画の中止へと動いており、誘拐事件は示威行為という名の圧力としては目的を達している。
報復する意味などない、ということになる。
これは園崎でなくとも、ある程度以上合理性をもって行動する組織であれば同じ結論に達するだろう。
「く……」
苦りきった顔をする。
彼とて、調べられることはとうに調べているのだろうし、無邪気に園崎や死守同盟が妻を殺したなどとは信じていなかったのだろう。
十中八九は偶然の事故に過ぎないと結論していたはずだ。
それでも、できることなら明確な敵が欲しかった。
その心境はよくわかる。
私もまた、悟史と沙都子を苦しめる形のない因習に対して責めるべき敵がいたのならずいぶんと楽だっただろう。
そして今、雛見沢の裏で暗躍する正体不明の集団を相手にしようとしているのだから、わからないはずがない。
「……その件についてはお力になれず申し訳ありません。ですが、誘拐事件の黒幕とおぼしき者たちについては多少の情報を提供できるかもしれません」
「と、言うと……?」
私が切り出すと、赤坂は未練を引きずることなく顔を上げて私を見た。私怨から公務へと意識を切り換えたのだ。
よし。私は心の中で喝采をあげた。
彼はもう新米ではない、有能な捜査官に成長している。
「詳しいことをお話し申し上げる前に、約束していただきたいことがあります」
「……安易に約束はできないな」
慎重な答えだった。
むしろ彼が一定の誠実さをもって話を聞いてくれることの証明でもあるから、私としては望ましい反応だ。
「もちろん、私の提供する情報に相応の価値が認められ、互いの協力が必要だと判断された折に守っていただければいい約束です」
赤坂がそれならばと首肯する。
「事態が解決するまでの間、私の存在及び所在を秘匿していただくこと。これが最低限の協力条件となります」
「……匿名による情報提供としたい、という意味かな?」
苦笑した。内部告発の類であれば、そんな条件を申し出る人間も多いのだろう。残念ながら私は園崎家を内部告発する心算でここにいるわけではない。
「いいえ。文字通り、私の存在を秘匿することについて、あなたがたの力を貸していただきたい、という意味です」
それだけを前置きして、私は本題に入った。
雛見沢側から見たダム戦争の顛末と赤坂が訪れた翌年から毎年綿流しの晩に発生する“オヤシロさまの祟り”。
そして今年の事件の背景と、今年の祟りの裏側で私が対峙することになった正体不明の“執行者”の存在。
全てを聞き終えた赤坂は腕組みをして唸った。
「……驚いたな」
ぽつりと感想を漏らす。
「ひとつ、私の記憶と符合した部分がある。君が嘘をついていて、彼らが園崎の構成員だというのであれば、なんら不思議はないんだが……」
赤坂の言う符合した部分とは、誘拐事件の犯人グループの風体や対峙したときの印象、そして指揮官とおぼしき男の人相が犯人の一人と一致したというのだ。
「さきほどの逆を言えば、君が雛見沢の内情を一捜査官である私にこの場で話すことにも園崎家にとってのメリットが感じられない」
当然、結論はそうなるだろう。
「それに君が存在を秘匿したいといった理由もわかった。たまたま双子のお姉さんがいるから、君は行方不明にさえならず消えることができるというわけか……」
そう言ってから、すこし頬を緩める。
「……裏をとる時間をもらっていいかい?」
「無論です。ついでに、今年……四年目の祟りがどう処理されたかについても調べていただければ助かります」
「ああ、もちろん。二日もいらないと思うが、あさっての同じ時間に来てもらっていいかな」
赤坂の口調がさきほどまでと違っていることに気づく。
彼の中で私が“不審人物”から“不確定情報を持ってきた少女”へと位置づけが変わったということだろう。
こちらも頭首代行としての硬い口調を改めることにする。
「時間についてはどうぞ必要なだけ。ただですねぇ……、こっちも急な予定変更でそれなりに困窮してまして」
通帳のお金があるといっても、長期間ホテル住まいができるほどではありえない。どの程度の期間潜伏することになるのかわからない以上、なるべく倹約しておきたい。
「ああ……、先立つものを、というわけかな?」
財布を出そうとした彼の手を止めて、
「いえいえ。見てのとおり私ときたら家出娘としてそちらのお仲間に補導されかねない状況ですし。当面、こちらのお宅でご厄介になれれば、なんて思うんですけど?」
「こちらって……ええっ!?」
驚く赤坂に、すまし顔で続けてみせる。
「わりと良い取引だと思いますよ? こうみえても家事は万能ですし、美雪ちゃんのお世話もお任せしてもらえば」
「い、いや、そうは言っても……」
そこでしどろもどろになるあたり、まだまだ老獪な大人の男とはいえない部分もあるらしい。
それにむしろ好感を覚えて、もうすこしからかってみる。
「あるぇ~? ひょっとして別のお・世・話までしないと置いてもらえなかったりしますぅ~?」
「なッ……お、大人をからかわないでほしいな」
ごほごほと咳き込んでから憮然とするのが妙に可愛い。
「あっはははは、それは冗談ですって! どうしてもって言うなら、お背中くらいはお流しますけどねぇ~☆」
「……本当に、人の悪さはさすがと言うしかないな」
精一杯の皮肉を言いながら首をすくめてみせた。
「すみませんねぇ、育ちが悪くて。くっくっく!」
そんな訳でとりあえずその晩は泊めてもらった。
あ、もちろんお風呂をご一緒したのは美雪ちゃんだよ?
ここに泊まることで、お金のことももちろんだけど、安全面が保障され、大人のふりをするという余計な手間がかからないのは非常に助かる。
ひさびさに他人と会話したり、まともな食事ができたのもいまの私にはありがたい限りだった。
嬉しいことに、美雪ちゃんもすぐに懐いてくれたしね。
「……裏はとれたよ。君には、より詳細な情報提供と今後入ってくる情報の真偽判断について協力を願いたい」
さすが公安、と言うべきだろうか。
翌日帰宅したときには、彼はかなりの情報を抱えていた。
「ええ、もちろん」
公安部でもあの誘拐事件については、とりあえず事件解決はしたものの犯人確保はならず、背後関係もわからぬまま捜査を打ち切られてしまった、苦い一件だったらしい。
今後同様の事件が起きたとき後手にまわらないためにも、雛見沢の裏側に潜むものを洗い出す方向で捜査を命じられたそうだ。
「……叔母が死亡、叔父は負傷ですか」
今年の祟りの顛末はそういうことになっているようだ。
あの連中の行動を鑑みるに、叔母の死亡はほぼ予定通り。
本来なら叔父を消したかったのだろうが、私との立ち回りに時間をとられたために張り込んでいた警察に邪魔をされて完遂できず、というところか。
あそこで私を消せていればそれでも祟りは成立できたのだろうが、最後まで確保できなかった上に詩音が残った。
結果、四年目の祟りは不完全なものとなったわけだ。
でも……おそらく詩音にとっては、そうじゃない。
詩音は私が姿をくらましたことを知っている。
それが連中に消されたのか、自分で消えたのかなどわかるはずもない。連絡をとりたいが、しばらくは無理だろう。
詩音は必ず、園崎の力を使って私の行方を調べるはず。
むしろそう動いてくれなければ不自然だ。
私の無事を知って詩音が動かなければ、逆に連中はそれを吐かせるために詩音に対してなにか仕掛けるだろう。
奴等の存在を知ってなお逃げ切った私は、奴等にとっては最大のウィークポイントとなるのだから。
「じゃあ……連絡はとらない、と?」
問われて、迷いながらも頷いた。
「うん……反撃の準備が整うまでは、ね」
「反撃って……まさか」
にやりと笑ってみせる。
「当然。私の雛見沢で、あんな連中にいつまでも好き勝手させてるわけにはいかない」
そう、私は園崎魅音だ。
この背の鬼にかけて、雛見沢を守るべき義務がある。
赤坂は呆れたような笑みを返した。
「やれやれ……雛見沢の子は、みんなそうなのかい?」
「どういう意味?」
そりゃ雛見沢に変わり者が多いのは認めるけど。
「梨花ちゃんも、かなり変わった子だったからね」
ここで私の仲間の名前が出るとは思っていなかった。
「……四年前に、梨花ちゃんと会ったの?」
「うん。とても可愛い子だったけど……そういえば彼女、古手神社の子だったかな」
彼の話によれば、捜査のために最初彼はアマチュアカメラマンを名乗って雛見沢に潜入したのだという。
そのときたまたま出会って道案内についてきてくれたのが梨花ちゃんだった。
「彼女には『東京に帰れ』なんて言われちゃったけどね」
「え……?」
すこしおかしい。どこか辻褄が合わない。
「それ、東京から来たって梨花ちゃんに言ったの?」
「いや、それが言ってないはずだから驚いたんだけど……古手家の子なら、知っていてもおかしくないんだろう?」
私は首を横に振った。
「会議に出てたのは長女の羽入だけだよ」
羽入はあぅあぅしているようでも、それなりに口は堅い。
町会での話ならともかくも、御三家の会議で出た話を妹に話すとは考えにくい。
「……もっとも、梨花ちゃんならありえるかもしれないんだけどさ」
村では梨花ちゃんには予言の才があることになっている。知るはずのないことを知っている不思議な子。
そう説明すると、今度は赤坂のほうが眉をひそめた。
「そういえば……彼女、『帰らなければ、あなたはひどく後悔することになる』……って言ってたな」
赤坂の奥さんが死んだのは、入院していた病院でのこと。
彼が出張中は屋上に出て無事を祈るのが習慣だったそうでその帰りに老朽化していたタイルを踏み外した事故だ。
……つまり、赤坂がその時点で梨花ちゃんの忠告どおりに東京に帰っていれば、起きなかった事故だということ。
「……あの子は、雪絵が死ぬことを知っていた、と?」
「そうじゃないとは誰にも言い切れないね。でも、信じてあげてほしいんだ。あの子は、おかしなところもあるけど本質的には優しい子だから」
梨花ちゃんが『帰れ』と言ったなら、それは彼が悲しむことになるとわかっていたからだ。
そのときに事故についての示唆でもあれば奥さんが助かったかもしれないが、それは結局のところ結果論だ。
彼女の予言がどこまで具体的な内容を知った上でのものかは本人にしかわからないし、仮に帰らなければ妻が事故死すると告げられたとして、赤坂はすぐに信じただろうか?
おそらくは、信じまい。
子供の戯言と切って捨て、いざ事故が現実になったなら、今よりも梨花ちゃんを含めた雛見沢に疑いをもっていたのかもしれない。
「……うん。彼女に悪意があったとは思わないし、君との話でやはりあれは事故だったと確信できた」
どうやら信じてくれたらしい。
「結果として私が役立てることができなかったとはいえ、彼女は私に忠告してくれた。……人の手による祟りとやらが彼女たちを脅かしているなら、そのお礼ができそうだ」
ぐっ、と鍛えられた拳を見せて笑う。
彼は妻を亡くしてから、空手に没頭したのだという。
誘拐犯たちとの立ち回りで彼が無傷のまま勝利を手にしていたなら、きっと奥さんに電話をかけるのが間に合った。
そうしたら、彼女は死ななくて済んだのではないか。
その苦い後悔を胸に刻み、もっと強くなろうと弛まぬ鍛錬を続けてきたらしい。
いまでは公安の荒っぽい現場でも切り込み役を任されるほどの実力を見につけたというから、たのもしい限りだ。
「……ま、残りの話はあとあと。お風呂沸いてるから入ってきちゃって。ご飯、あっためておくからさ」
そう言いながらエプロンを締めてキッチンへ向かおうとしたら、なにやらぽかんとした顔をする。
「ん? どったの」
「あ……、いや……。なんでも」
ほんの一瞬。
とても懐かしそうな、それでいて切なそうな目をして苦しげに笑った。
そのまま背を向けて、奥の部屋へ向かう。
ああ……、そうか。
思い出させちゃった……かな。
いまの私には、すこしだけその気持ちがわかった。
暖かな居場所を喪失した、深い傷痕。
泣いても喚いても、『その時』には決して戻れない。
彼の喪ったものは、もう取り戻せない。
後悔という重荷を負ったまま、歩き出すしかない……。
その深い喪失を埋めることはできないと知っていても……人はまた、求めてしまう。
次の、暖かい居場所を。
<雑談>
魅音編数話は真相を決めた時点で書き貯めてありましたが、
あらためて読み返してみて思ったこと。
赤坂の住所覚えてるとか、魅音の記憶力すげぇ。
あと珍しくシリアス。