「おはよう、魅音。昨日は災難だったね」
僕の席までやってきた魅音に、そう声をかける。
そうしたら彼女は、慌てて取り繕うように大笑いをしてみせた。
「あ、うん。……あはは、まぁあのくらい、ホントはおじさんにとっちゃちょろいもんなんだけどね~! こう、空気投げですぽぽぽーん☆って!」
調子よく笑いながら、でたらめに構えをとっているけど……。
すこしだけ、奇妙な違和感があった。
『魅音のことだから、何だか珍妙な拳法でも使って、瞬く間に撃退しちゃうんじゃないかって期待してたね』
昨日、僕が言った冗談。
……魅音が、そのとおりにおどけてみせたのが、どこかちぐはぐな印象を受けてしまう。まるで昨日の会話を忘れたみたいな……いや、気のせいだろう。
「そうだね、そのほうが魅音らしいかな」
そう言って調子を合わせた。
確かに、昨日のどこかしおらしい魅音はこうして教室で話す魅音とは別人のようにも思えるから不思議だった。
と、僕がからかっているのに気づいたのか、魅音は口を尖らせる。
「ったく、そーゆー態度はよくないよ。こっちはそれなりに恩義も感じて、バイト先見つけて来てあげたんだからさ」
そう言って鞄から出したアルバイトの予定表を手渡してくれる。
「ホント?……ありがとう、魅音」
もうじきホームルーム。魅音が「じゃね」と軽く手を振って席に戻るのを見送って、沙都子がレナと話しているのを確認してから僕は予定表にざっと目を通した。
「……凄いなぁ」
魅音の紹介してくれたアルバイトは、どれも割のいいものだった。中学生の短期バイトということで、足元を見られるというか、安いところが中心になるんじゃないかと予想していただけに嬉しい誤算だ。
それに、なによりも有り難いのは彼女がずいぶん気を遣って予定を組んでくれたらしいということだ。平日は短時間で終わるものが中心で、これは沙都子を長時間放置できない僕の事情を酌んでくれているのだろう。僕のバイトがある日は部活はできないけど、沙都子は梨花ちゃんと羽入ちゃんに任せれば僕が帰る頃まではきっと大丈夫。
土日には集中して働けるようにしてくれているけど、これも僕の予定を慮ってか、野球の練習や試合がある日を避けてくれている。
渡された予定表の最後には、『バイトもいいけど自分の身体も気遣うこと。倒れたりしたら即クビにしてもらうから、無理なときはちゃんと休め! どうしてもお金が足りないときは、おトクなおじさんローンをよろしく☆魅』と、泣けてしまいそうなメッセージまで添えられていた。
園崎には、どうしたって複雑な思いもあるけど……魅音は本当に優しくて良い子だと思う。
だからこそ魅音が部活を立ち上げてくれたこともへんに勘繰ったりせずにいられるし、必要なときには安心して沙都子を任せることができる。
……沙都子のほうも、親友の梨花ちゃんほどではないけれど魅音に対して確執のようなものはないはずだ。部活でも対等の友人のように振る舞っているし、それなりに信頼しているのだと思う。
むしろ、情けないのは僕のほうだ。
魅音には何の咎もないとわかっているのに、園崎の次期頭首という彼女の立場に対してもどかしさを覚えてしまうことも多い。実際には彼女は彼女にできる精一杯で僕たちを守ってくれていると信じているのに……、どうしても。
何故助けてくれないのか、と。
気を緩めれば、そんな疑問が浮かび上がってくることはしょっちゅうなのだ。
こうしてアルバイトまで紹介してもらっているのに、身勝手な自分がつくづく嫌になる。
……だから、正直に言えば、昨日魅音の窮地に飛び込んでいくのには躊躇いがあった。
僕たちがいくら泣いていても助けてくれない魅音が泣いているからといって、助けにいくことはないと心のどこかで悪魔が囁いた。魅音のために怖い思いをするのも痛い思いをするのも割に合わないと、疲れ切った心と体が叫んでいた。
迷いながら、それでも飛び込んで行けたのは、結局のところ……そういう自分が心の底から厭らしい人間に思えてしまったからだ。割に合うかどうかで泣いている誰かを見捨てられるような、そんな自分にはなりたくなかった。
なってしまったら、なにもかも終わりだ。
「にー……に……」
まるで時間が飛んだような錯覚。急激に意識が明瞭になる。
目の前には泣き腫らした目を閉じて、布団の中で胎児のように丸くなる沙都子の姿。
粗末なカーテンのかかった窓の外の景色はもう夜だった。
学校の教室で魅音と話していたのがついさっきのようにも、懐かしくなるほどに遠い昔のようにも感じられる。
原因はわかっている。
僕が身につけた、無意識の処世術……唾棄すべき悪癖。
嫌なこと、痛いこと、苦しいこと……そんなことがあると、僕は意識を閉ざしてしまう。
その間のことを記憶はしているし、まわりからみればほとんどいつもどおりの行動をしているように見えるらしい。でも、その時間に何があろうとも……僕は、『感じない』。
その時間を薄めてしまって、曖昧なまま過ごしてしまう。
いくら痛みや苦しみに慣れてしまった、慣れるしかない生活を続けているからといってもこれは結局卑怯な逃げでしかないのではないか、そう思う。
沙都子が泣いていても、その悲しみを分かち合ってあげられない。
何も感じない薄っぺらな僕は、表面では沙都子をかばい、あやしながら、煩い妹をどうやって黙らせようか、そればかり考えているのだ。
それは自分じゃない、僕はそんな人間じゃない、と僕は必死で言い聞かせる。
泣いている沙都子を、泣いている魅音を、放って見捨てていけるような、そんな人間じゃないんだ……絶対に。
「……ん……」
沙都子が小さく声をたてて寝返りをうつ。
泣き疲れて眠ったあとさえも悪夢の中で誰かに追い立てられ、うなされることも多い沙都子だけど……今はどうやら、安らかに眠れているらしかった。
そのきゅっと握りしめられた小さな拳が、どこか痛々しい。
本来なら沙都子がその手に掴めるものを、いったいどれだけ取りこぼしているんだろう。僕たちは、大それた願いなんて抱いてやしない。いつだってその小さな手に見合うだけのささやかな幸せしか求めていないのに……。
外の空気が吸いたい。
……そう思って窓を見たけど、たてつけの悪い窓のせいで沙都子を起こしてしまうのは可哀想だ。
それに、……すこし歩いて、この陰鬱な気分を払い落としたかった。
部屋を出て、叔母さんが見ているのだろうテレビの音がする廊下を横切り、靴を履くと音を立てないように玄関を出た。
玄関を閉めて数歩、林の中の小径まで来たところでふっと息をつく。
「……むぅ」
あの家から出て、開放感なんて感じてはいけないのに……すくなくとも、そこに沙都子がいる限り、僕の帰る場所はそこしかないのに。
罪深い自分の背中を押すようにして、ひとときの自由を得た囚人の気分で僕は小径を歩いていく。このままどこまでも歩いていけたら、と想像してしまう浅ましい自分がいる。
暗い足元を見つめながら、どのくらい歩いただろう。
いつの間にか、視界は開けていた。
村はずれといってもいい場所、その分かれ道にぽつんと光を放つ電話ボックス。
あの道を行けばやがて道路は舗装路に変わり、興宮へと続いている。
その先は?
……歩いていくのは無理があるかもしれない。
なら、興宮から電車に乗ればいい。そうすれば日本中、どこにだって行ける。
切符を買うお金は……、と考えたとき、ポケットの中でがさりと音を立てたものがある。
魅音のくれた、アルバイトの予定表。
……何を考えているんだ。
首を軽く振って、馬鹿げた考えを頭から追い出す。
アルバイトのお金は、来月の沙都子の誕生日に、欲しがっていたぬいぐるみを買ってあげるためのものだ。そのお金で、大切な妹を見捨てて村から逃げ出すなんて……、絶対に、あっちゃいけない。
「くそぅ……!」
思考は堂々巡りしていた。
閉鎖的なこの村では、どうあがいても僕らを取り巻く環境を変えられない。
変えられないから、閉塞したその場所からの解放を求めてしまう。
変わらない、変えられない、誰にも……変えることなんて、できない!
衝動的に拳を振り上げて、電話ボックスを殴りつける寸前で……、
「悟史?」
柔らかい、澄んだ声がその衝動を押しとどめた。
拳にこめられていた異常な力が不意にその集束を失い、緩んだ筋肉は重力に抗えず、僕の腕の先は地面を向いていた。
ゆっくりと視線をめぐらせると、声のしたほうには特徴的なシルエットを持つ小さな人影があった。
「……羽入、ちゃん」
僕の声に引かれるように、街灯の明かりの下に羽入ちゃんが現れる。銀とも紫ともつかない不思議な光沢のある髪、見慣れてはいてもやはりどこか浮世離れした印象を受ける二本の角。こうして夜の空気の中で見る彼女はなるほど、村の人たちが言うようにオヤシロさまの生まれ変わりかもしれないと思わせるだけの神秘的な姿だった。
「こんな時間に、どうしたんだ……?」
と、いままで気づかなかったが羽入ちゃんの隣にもう一人、転校生の圭一が現れる。
圭一の発した疑問はもっともだけど、こっちも同じ事を思ってしまい……僕のそれがくだらない邪推になってしまうことに気づいた。圭一は羽入ちゃんの家に居候しているんだからこの時間に二人が一緒にいても、なにも不思議なことはない。
「ちょっと……散歩だよ。外の空気が、吸いたくて」
本当のことを言った。うまく笑えているかどうかわからない。
それを聞いた羽入ちゃんと圭一は一瞬顔を見合わせて……、くすくすと笑った。
悪意のある笑い方ではなくて、まるで悪戯を見つかった子供のように。
「それなら、僕たちとおんなじです」
……ということは、二人も夜の散歩をしていたということか。
「といっても、俺たちは毎日なんだけどな」
そういえば、いつだったか教室で聞いたことがあるような気がする。羽入ちゃんが夜中に一人で歩いているのを見た、という話を。
「もちろん雨が降った日や、冬の間はお休みですが」
羽入ちゃんは、とても楽しそうにそんなことを言う。
僕の外出は思いつきの逃避行動に過ぎないけど、彼女にとっては本当に楽しい時間なのだろう。
……すこし、羨ましくなった。
彼女は昼であろうが夜であろうが、この雛見沢という場所を心から愛している。
僕だって生まれた村に愛着がないわけじゃないけど、ここ数年で鬱積した感情は重く澱んでいて、彼女のような純粋な愛情はもうどこにも残っていなかった。
それができるなら、許されるなら……すぐにでも離れたい。
「圭一は……どうして?」
ついそう聞いてしまって、失言だと思った。
二人は散歩だと答えたばかりなのだ。
でも、圭一は、ん、とすこし首をすくめるような仕草をしただけでぽんと羽入ちゃんの頭に手を乗せていた。
「最初は、羽入がちょっと心配だったんだけどさ。羽入から村のこととかあれこれ聞きながら歩くのもなかなか楽しいんだ」
ふわふわの髪を無遠慮に撫でるものだから手の下で羽入ちゃんが迷惑そうにあぅあぅ言っているのも知らないふりをしながら、圭一はそう言って笑う。
教室で見る圭一はあまり笑わない。
梨花ちゃんや羽入に話しかけられて苦笑めいた笑みを浮かべたり、魅音の茶々を受け流して小馬鹿にしたような笑い方をするのがせいぜいだ。
でも目の前の圭一は、まるで羽入ちゃんと同じくらいこの村を気に入っているような……そんな屈託のない笑い方で、なんだか落ち着かなくなる。
どうしてだろう。
圭一はあまり人付き合いがよくなくて、この村に来てからそんなに友達ができたとも思えない。部活にも入ってないからいつも一人で、教室でもたいてい参考書に向かっている。
僕とそう変わらないはずなのに、圭一はどうして……。
そんな考えが顔に出ていたのかもしれない。
「向こうでは……東京では、もっと酷かったんだ。それだけさ」
その一瞬、圭一の目が疲れたような色をみせた。
……ああ、と納得してしまう。
きっと圭一は、状況は違っても本質的には僕と同じ状態だったんだろう。
逃げたくて叫びたくて、なにもかも壊したくて。
でも逃げることは自分が許せなくて、叫んでもどうにもならないことを知っていて、壊してしまったら取り返しがつかないことに気づいていたから、その生活に甘んじていた。
錆びた刃物でゆっくりと傷口をえぐられるような……緩慢な苦痛に耐えていた。
なにかのきっかけで、その葛藤から解放されてこの村へ来た。
なら……彼の笑顔は、僕の願う未来そのものなのかもしれない。
そう思えば、圭一がやけにまぶしく見える。
「……悟史」
と、圭一が僕をそう呼んだ。不躾にそう呼ばれても気にならない。
年の差はどうでもいい。
彼はすでに葛藤を越えていて、僕はまだ越えていない。
いわば経験者なのだから……と思えば腹も立たない。
「うまく言えないけどさ。俺は正直、悟史や沙都子が羨ましいんだ」
……え?
まるで固く閉ざされていた扉の隙間から、風が滑り込んだみたいな感触だった。
彼を羨ましいと思うのは僕のほうだと思っていた。
でも、……彼の目に、嘘の曇りは見あたらない。
お世辞でもなんでもない、圭一は心底僕を羨ましがっている。
「……ま、詳しいことは省くけどさ。俺は向こうで、どうしようもない奴だった。どうにもならなくなる寸前で、ぎりぎり普通を装ってた。それを気づいてくれるような奴はいなかったし、一番近くにいる家族だって薄々感づいてはいても向き合おうとしなかった。俺のほうでも、そんな状態のくせに助けを求めなかった」
夜の魔力だろうか、圭一はいつになく饒舌に語る。その隣で、羽入ちゃんが一言一句聞き逃すまいと、じっと彼を見上げていた。
「糸が完全に張り詰める前にちょっとしたことで切れて……ようやくそのことに気づけたんだ。急にがんじがらめの糸の中から放り出されて、まだどうしていいかわからずにいるけど、……でも、これだけは言える」
圭一はまっすぐに僕を見つめた。
「悟史と沙都子には、マジで心配してくれる仲間が何人もいる。梨花ちゃんも羽入も、たぶんレナや魅音だってそうだ。いまはまだ遠すぎて、みんなの伸ばした手が見えないかもしれないけど……耳を澄ませば声は届く。必死で呼び合えば、きっとたぐり寄せられる……だから、羨ましいんだ」
がつんと後頭部を殴られたような衝撃。
どうしてだろう、圭一の言葉でとうに見失ったはずの何かが動き出す。
それは、胸の奥に立ちこめていた重い雲を吹き飛ばす風。
雲の向こうに確かに広がっている澄み切った青空を信じさせてくれるような、そんな力強さがある。
「……ありがとう、圭一。それに羽入ちゃん」
もしもこの夜、この場所で二人に会えなければ……僕は、みんなにも沙都子にも背中を向けてしまっていたかもしれない。
でも、いまはまだ、信じよう……空は遠くても、見上げればそこにある。