朝の空気の中、頬には冷たいコンクリの感触。
身体が、どうしようもなく重かった。
雛見沢に来てからというもの死を覚悟するのは日常茶飯事だが、今回はやばいかもしれない……。
「け、圭一ッ!? どうしたの、大丈夫!?」
回覧板を取りにきて玄関先で倒れる俺を見つけた梨花は、慌ててがくがくと揺さぶったのだが……その愛らしい声に応える気力は、今の俺にはまるでなかった。
「ひぃっ……衛生兵、衛生兵ッ! 早く来てッ、こいつ、死んじゃうわッ!」
泣きそうな声で奥へと叫び、それに応えあぅあぅばたばたと我が家の衛生兵たる羽入が駆けてくる。
「こ、これは!? 圭一、しっかり、傷は浅いのです!」
ひと目で俺の状態が手遅れだと気づきながらもそんな気休めを言ってくれる羽入の心遣いが嬉しかった。
「く、故郷の……親父と、お袋に……」
かすれた声で必死に伝えようとする俺の頬を音高く張る。
痛ぇ……。
「喋るな、なのです! 余計な体力を使ったら、助かる者だって助からないのですよ!」
嘘だろ……俺、まだ、助かる目があるのかよ……?
「羽入、大丈夫よね!? 圭一は絶対助かるわよね!?」
泣き声になっている梨花の胸倉を掴んで、羽入は怒鳴る。
「梨花、圭一は絶対に助けてみせますのです! だから、これ以上情けない声を出すんじゃあないのですよ!」
「う、うん……!」
それから梨花と羽入は協力して俺を家の中へと運び込み、必死の看護でどうにか俺が口のきけるところまで回復させてくれた。
「圭一、よかった、圭一ぃぃっ……!」
泣きながらすがりつく梨花と、額の汗を拭う羽入。
「……やれやれなのです。圭一、何があったのですか」
俺はつと視線を伏せて答えるしかなかった。
「ごめん……何があったかは、言えない。心配かけて……すまなかった」
俺と詩音の二人しかいない園崎家での一夜。
おぼろげながら記憶はあったが……とても話せない。
確かなことは……二つ。
それでも俺の頼みの代償としては安すぎるってこと。
それに……詩音は可愛いやつだ、ってことだけだ。
「……そうですか。なら、僕はなにも聞かないのですよ」
羽入は半分呆れ、半分慈しむ様な笑顔で首を横に振った。
ありがとう、羽入……。
「ところがどっこい私は聞くぜ! いきなり今日は園崎家に泊まることになったから帰れないとか電話してきて、何があったのよ圭一! きりきり白状しなさい!」
さっきまで泣いていた梨花がソファに横になったままの俺にまたがり鳩尾をぽこぽことリズミカルに殴る。
非力な梨花の拳だが、地味に息苦しくて嫌な攻撃である。
「どうせお魎か茜に夕飯を食べていくように言われた上、お酒でも飲まされてもうあかんとかそんなんでしょ?」
二日酔いだったらまだよかったんだけどな……。
っていきなり何をする!?
「むぐぐ?……それにしちゃあ息が酒臭くないわね」
わざわざ口移しで息を吸い込むあたりが意味不明な奴だ。
御馳走様と言いたげに唇を舐めるのも小学生として問題があるからやめろ。
「梨花は相変わらずその存在自体が児童ポルノなのです。むしろポルノ児童と言っても過言ではないのですよ!」
羽入、お前の言い分はもっともだが……いま揉めてるんだから危険な発言は控えようぜ。
梨花は俺にまたがったままでがーっと羽入に牙を剥き、
「人の身体的特徴をバカにするんじゃないわよう!」
……ええと、それって梨花の身体的特徴だったんだな。
「あぅ……ごめんなさい梨花。年長者の僕としたことが、バカにバカっていうことの罪深さを忘れていました」
「そうよ、反省しなさいよ。バーカバーカ」
梨花……お前……、もう駄目なのか……?
「……まあいいわ。お酒だったら私も呼べよって言いたいところだったんだけど」
俺が酒を飲んできたんじゃないとわかると、原因への興味を失ったようだった。
追及されないのはありがたいけど、それでいいのか梨花。
「あぅあぅ、梨花。お酒は二十歳になってからです」
反省した羽入がいつもどおりに梨花をたしなめる。
俺のほうも、すこし休めばなんとか学校には行けそうだ。
「大丈夫? 無理しないほうがいいわよ」
「ん……大丈夫だ。ひと眠りして自力で歩けるようになったらちゃんと行くよ」
手を伸ばし、さすがに心配そうな梨花の頭を撫でてやる。
「わかりました、圭一。知恵にはお休みするかもしれないと伝えておきますので、ゆっくり休んでください」
微笑む羽入は逆に俺の頭をよしよしと撫でて、濡れタオルを額にかけてくれた。
「それじゃ、行ってくるから……本当に無理しないでね」
羽入に促されて玄関に向かう梨花の声に、片手をあげてみせると、俺はやたらと重い瞼を閉じた。
ほとんど眠らせてもらえなかったから、睡眠不足だ。
でもまあ……それもしょうがない。
詩音には、この一年無理をさせ過ぎていたからな。
考えてみれば、大変な生活だっただろう。
魅音のふりをして沙都子や俺たちの支えとなる一方で本物の魅音を探すために裏であれやこれやと飛び回り、それを気づかれぬようにずっと気を張り続けていたのだ。
たまの大暴れくらい大目にみてやろう。
明け方になる頃に疲れ果て、やっと眠りについた詩音の寝顔は、天使のようにやすらかなものだった。
……学校、あいつも遅刻するかもな。
そう思いながら……俺の意識は眠りの底へ落ちていった。
不意に目覚めて時計を見ると、もう十時を過ぎていた。
軽く頭を振って、混濁した意識を無理矢理に覚醒させる。
「学校、行かないとな……」
ソファから立ち上がり、キッチンで水分を補給してから、二階の自分の部屋で着替えをすませた。
洗面所で身だしなみを整えると、鏡の中の自分がやたらとしょぼくれた顔をしているのに気がついた。
……やれやれ。
あいつらは、こんなシケた小僧の何を信じてるのかね。
東京にいた頃の俺の、冷笑めいた声が聞こえた気がして、拳を鏡に叩きつけていた。
「……ッ……!」
なにを馬鹿なことやってんだろうな。
鏡を殴ってみるとかどこの中二病だよ。
自分で自分に呆れながら、ぎちぎちと軋む拳を引いた。
玄関を出ると、むっとした外気に包まれて一瞬立ちくらみを起こしそうな感覚があった。
6月の上旬。
初夏の日差しは、寝不足の頭には毒だった。
通り過ぎる木立から蝉たちの声が遠く近く響き渡り、いま洗ったばかりの顔には、早くも汗がにじむ。
……なんだろうか、この感覚は。
まだここで暮らして二年目だというのに、この季節の雛見沢の空気をいやというほど知っているような気がする。
何回も……何十回も……この通いなれた道を、言い知れぬ絶望を引き連れて足取り重く歩いていたような……不愉快な記憶の残滓。
その残滓が……、俺に警告したのかもしれない。
鈴の音。
いや……、『足音』?
混濁した意識の深層から思考を無理矢理引きずり上げ、脳髄に緊急事態への対処を命じる。
咄嗟に体を前傾させて急加速できたのは、多分レナとの戦闘訓練の賜物だったのだろう。
爆発的なダッシュを維持できた時間は、数秒だった。
なんのためにこんな無理な動きをしなければならないのかと疑問をもった身体が勝手にストライキを起こし、それ以上の運動を拒否する。
仕方なく俺は地面を削るようにしてブレーキをかけ、進行方向に対して直角に身体を向け背後を確認する。
そこにはタイミングを外されてたたらを踏んでいる作業服姿の男が立っていた。
それでようやく、愚鈍な俺の脳が事態の一端を理解する。
小此木造園、つまり“山狗”。
鷹野さんの情報にあった特殊部隊の構成員だ。
そいつが登校中の俺の背後に音もなく忍び寄り、タックルを仕掛けようとしていた。
なるほど、こいつは緊急事態だ。
たったいま仕掛けようとした一人のすぐ背後にももう一人の男が控えている。とりあえず目視できるのはその二人。
なんのつもりだ、なんて問う意味もない。
鷹野さんと俺のつながりがバレたか、それとも昨日の園崎家への接触で俺を危険因子と判断したのか。
とにかく、奴等はこれ以上俺を自由に泳がせておくつもりがなくなったということだ。
「クッ……」
状況を分析すればするほど、絶望的だとわかる。
北条鉄平を撃退したとはいってもあれはホームグラウンドのダム現場で、油断したちんぴら風情をかろうじて倒した……という程度のこと。
明らかに格闘訓練を積んでいるであろう目の前の大人二人に武器もなしに一人で対抗できると思うほど、俺は自分の実力を評価してはいない。
“最強圭一”なんて称号は犬にでも食わせてやれ。
相手の意図や目的すらわからない、情報が不足し過ぎているこの状況を口先の交渉でどうにかするのも無謀。
降伏しても命の保証はないし、なんの手がかりもなく俺が捕まって失踪したことになれば、詩音や梨花たちの状況を余計に悪くするだけだ。
となれば……、残る選択肢は、逃走しかない!
「……前原、圭一くんだね?」
男の一人が低い声でわかりきったことを聞いてくる。
おいおい、たったいまタックルして拘束しようとしていたのに、いまさらそんなことを聞いてどうするよ。
「え、前原……? 誰ですか?」
首をかしげてみせて、相手が『人違いか、いやそんなはずはない』と判断するまでの一瞬だけ時間を稼ぐ。
その一瞬で確認すべきは、背後だ。
振り向いた先、俺の進もうとしていた方向からやってくる同じような作業服の二人組。
そう、仕掛けてきた以上は俺を拉致するための包囲はすでに完成しているとみていい。
レナから何度も聞かされた戦いの思考法を呼び起こす。
なにかの紛れでどちらかの二人組を突破しても、敵はその向こうにも備え、バックアップを用意している。
とすればそれぞれの方向に最低でも4~5人は配置されているということ。それだけの大人が迅速に移動するために必要なのは車が2~3台と見ていいだろう。
少なく見積もっても大人十人が俺を包囲している!
その事実だけで、もう足がすくんで喉がからからになるのを感じるが……いまは震える時間じゃない。
道の片側はコンクリの急斜面、これを登って逃げるのはほぼ不可能。
もう片方は木立ちになっていて、その向こうには田んぼが広がっている。伏兵が陣取っている可能性はあるが……、ほかに道はなさそうだ。
いちかばちかに賭けるしかない、と覚悟を決める。
俺が踵を返すと、先頭の男が飛び掛ってきた。
「く、来るなぁあッ!」
怯えた声を出して見せるのは難しくなかった。
なにしろいまの俺は、本気で怯えているのだから。
肩にかけていた鞄を振り回して男を牽制するが、男は余裕の笑みをこぼしながらそれを掴んでみせた。
「うわっ……!」
掴まれたことに慌てて、鞄を取り戻そうとぐいぐい引っ張りながら俺は距離をはかっていた。
もう一人と、行く手の二人の足音が近くなっている。
……今しかない!
「ちくしょう!」
「っ!」
叫びとともに勢いよく鞄を放し、引っ張っていた余力で男がよろめいたタイミングで木立の間へと飛び込む。
足元の草で靴底がずるりと滑り、ぶざまな姿勢のまま木立の間を滑落する。
「うわっ!」
田んぼの手前、あぜ道に尻餅をつきながら着地。
運の悪いことに、農家の人は近くにはいないらしかった。
……もっとも、山狗のことだからこのあたりに人目がないことを事前に確認してから仕掛けてきているのだろう。
そう考えれば、伏兵がいないだけ運がよかった。
「逃がすな!」
たったいま抜けてきた木立の向こうから鋭い声が飛んで、その声に反応した一人が俺を追いかけるように斜面を駆け下りてくるのが見えた。
「う、くっ!」
衝撃と緊張が合わさってがくがくと震える役立たずの身体に鞭打って立ち上がり、あぜ道を駆け出す。
人のいるほうへ逃げたいのはやまやまだが、商店街に出るにも学校に出るにもさっきの道からでなければ相当遠回りになる。
とにかく山狗の押さえていない範囲、人のいる畑か田んぼに出られることを祈って走るしかない。
「くそっ……、くそ……!」
走りながら浮かんでくるのは、とりとめもない思考だ。
いま追ってきてる一人なら殴り倒せないか?
無理に決まってるし、すぐに後続が来る。自殺行為だ。
飛び道具か、武器でも調達できれば有利じゃないか?
農具くらいなら手に入るけど、勝てるとは限らない。
降参してなにもかも話せば見逃してもらえるだろ?
仲間を裏切るような真似、できるわけがない。
殺されるかもしれないのに、仲間なんて言ってる場合か?
ふざけるな、仲間ってのは単なる言葉じゃない!
仲間だから信じるとか、仲間だから守るとか、そんなこと俺はもうどうだっていいんだ。
仲間ってのは、『あいつら』のことだろうが。
俺の大好きな、『あいつら』のことなんだよ!
こんな急場だって思い出せるさ、『あいつら』の顔なら。
『あいつら』が笑って暮らせるなら……そこは間違いなく最高の場所で、かけがえのない未来なんだよ!
たとえ……、
ぎりっと奥歯を噛みしめる。
たとえ、その場所に俺がいなかったとしてもだ!
「うわぁああぁあああッ!」
走っていた。
怖くて、辛くて、寂しくて。
泣きながら、それでも走るしかなかった。
確実に距離を詰めてくる山狗の足音を背後に感じながら、つまずきそうになって足をもつれさせながら、それでも。
前原圭一は、走ることしかできなかった。
たった一歩でも先へ進めれば、なにか打開策があるかもしれないと、運よく人がいるかもしれないと、盲目の希望にすがりながら、みじめに走り続けるしかなかった。
「そっちだ! 道を塞げ!」
その声に視線を走らせれば、後ろから追ってきているのとは別の男が田んぼの向こうであぜ道を走って、俺の進行方向にまわりこんでいるのがわかった。
「うぅう……!」
切り抜ける手はないかと、唸りながら視線をめぐらせる。
もう玉砕覚悟で殴りかかってしまえとやけっぱちな考えが頭をかすめるが、冷静な部分はやはり勝ち目がないとその判断を却下する。
そんなことを考えている間に、前方の男は完全に道を塞ぐ形で飛び出してきていた。
田んぼに飛び込めば泥にまみれて余計に逃げるすべをなくしてしまう、それがわかっていたからあぜ道を逃げていたが……ここに至っては仕方がないだろう。
「……木村のじいさん、ごめん!」
地面をえぐるように踏み込んで、斜めに飛ぶ。
町会でも血の気が多い一人で、いつだったか北条家の件で俺が怒鳴り込んだときに殴りかかろうとした一人、木村のじいさんの田んぼの中へ飛び込む。
「くっ……!」
空中でばたつかせた足が、都会へ出て行ったという息子さんの古着を着せたかかしを蹴り倒し、かろうじて泥に埋まらずにすんだ。
その倒れたかかしを足場にして、勢いを殺さず斜め向こうのあぜ道へと飛び移る。
「なに……!」
格好のいい方法ではなかったが、どうにか切り抜けた。
俺はそのまま振り返らずに駆け抜け、山狗たちを置き去りに沢沿いの砂利道へと滑り降りる。
まだ足りない、もっと距離をとらなきゃ……。
と、死角になっていた林の向こう側から突然轟音が響く。
「!?」
それは冷静に考えてみれば、轟音なんてほどの音ではなく日常の中で珍しくもなく聞き流していた音だった。
車のエンジン音。
ただ、自分に急激に迫ってきているから、錯覚しただけ。
ぶつん。
と一瞬意識が引きちぎられた気がした。
よけるとか、止まるとか、そんな発想は思い浮かばなかったし、思い浮かんだとしても実行に移す暇はなかった。
ばん、という音を他人事のように聞いた。
目の前が真っ暗になったと思ったら、空が見えた。
次に見えたのは地面で、続いて全身がばらばらになるくらいの衝撃がようやく襲ってきたと思ったら、水の中にいた。
「……ッ!?」
沢に……落ちた?
パニックになるが、身体は容易に動かない。
濡れた衣服が身体にまとわりついて、ばたつかせた手足に気が狂いそうなほどの痛みが走る。
誰かに助けを求めて叫ぼうとしたが、水の中では無駄な努力だった。
「がば、がぼぼぼっ!」
水が肺に入り込む感覚に意識が遠くなりそうだったが、めちゃくちゃに暴れたおかげか腕と頭が水面の上に出た。
「がはっ、げえっ!」
咳き込みながら、それでも生存本能が働いたのだろう。
手がかりか足場がないかと水面を見回した俺は、またもや息を呑むことになった。
どこまで運が悪いんだ……今日の俺は。
沢の流れは速くて、俺の足がつかない程度には深くて。
そしてその水面すれすれにかけられた小さな木製の橋が、回避する暇すらなく俺の側頭部に激突した。
「がッ……!」
反動で再び水中に沈むが、頭が朦朧としている。
これ以上何にぶつかってもダメージを受けずにすむように身体を丸めて抱え込むのがせいいっぱいだった。
幸い、というべきか、さきほど驚いて息を呑んだおかげで十数秒くらいは持ちこたえられる程度の酸素はあった。
水中で橋の下をくぐりぬけたらしく、水面が一気に明るくなる。そこでようやく、俺は救いの一手を見つけた。
ここを先途と力を振り絞って水をかき、水流に乗って水面へと飛び出す。
「こん……ちくしょう!」
たまにくる釣り人のためのものだろう、粗末な貸しボートに両手ですがりつく。全身の骨という骨、肉という肉が悲鳴をあげていたが、それどころではないので無視だ!
足をばたばたと振り回しながら、どうにかボートの上へと乗り上げて、背中をボートの底板に打ち付ける。
「はあ、はぁ、はあっ……!」
沢の流れのおかげで、山狗たちからは多少距離をとれたと思うが、さすがに車にはねられた身体で走るのは無理だ。
はいずるように身体の姿勢を入れ替えると、ボートの船尾に結ばれていたロープをもどかしい手つきでほどく。
「……死にたくない、死にたく……ちくしょうっ!」
きつく結ばれた結び目は、力の入らない俺の両指をろくに受け付けてくれなかった。
あとすこしだっていうのに……!
さっき通り過ぎた橋のあたりにちらりと人影が見えた。
「いたぞっ!」
やばい、もう追ってきやがったっ!
「ざッ……けんな!」
ロープの結び目に、歯を突き立てた。
がり、と口の中に痛みが走る。
「ぎぃぃぃ……っ!」
渾身の力でロープの半ばまで噛み千切り、血で赤く染まったほつれ目をボートの角にあててがりがりとこする。
ぶつぶつと繊維がほぐれ、寸断されていく。
「ボートで逃げる気だ、行かせるな!」
橋を渡った山狗たちが、こちらを見つけて走ってくる姿が見えた。
焦燥がちりちりと頭を灼くが、まだロープは千切れない。
「ぐぅ……、くそッたれえ!」
苛立ちとともに痛む足を振り上げ、ロープを固定していた杭を蹴った。その反動でボートが岸を離れ、残っていたロープの繊維も限界を超えてぶっつりと切れる。
ボートが流れに乗るのと同時、山狗数人が岸辺に辿り着いて俺のボートが離れるのを悔しそうに睨んでいた。
「くっ……こちら鶯5、目標はボートを盗み逃走!」
がんがんとわめく頭の片隅で安堵感を覚えながらも、俺がやっておかなければいけないいくつかのことだけを意識に乗せ、気を緩めるのはまだだと自分に言い聞かせる。
「くッ……くっはっははははっ! その程度で誰が捕まるかよ、俺を誰だと思ってる! いいか、てめぇら……」
血を吐くような思いで口を動かし、声をあげた。
さぁ解き放て、本当に変わる嘘を……!
「前原圭一の目が黒いうちは、この雛見沢で勝手な真似をできると思うな……! 何度でもテメェらを出し抜いて、そのちんけな陰謀を……!」
急流に乗って、どんどん奴等との距離が開いていく。
意識はほとんど千切れかけていた。
それでも天に向かって突き上げた拳を硬く、血が滲むまで握り締める。
「一撃で……、ブチ貫いてやるッ!」
咆哮だった。
まだ俺は砕け散っていないと、それだけを示すために。
そこが限界だったらしい。
拳は握られたまますとんと落ちて、遠くなっていく山狗たちを見つめる力もなくて倒れ落ちる。
背中から全身に痛みが広がるが、どうでもいい。
やらなきゃいけないのは、あとひとつ……。
「……いってぇ、なあ……」
喘ぎながら、呻きながら、四苦八苦して激痛の走る身体を横に転がす。力の入らない両腕で身体を支え、ボートの上にどうにか身体を起こし膝を立てる。
このまま沢に流されていけばほどなく本流に合流して、運がよければそのまま興宮のどこかに出られるだろう。
だが。
ここで引き下がるなんて選択肢は、俺にはない。
俺は、逃げるためにここにいるんじゃない。
戦うためにここにいるんだ。
だから……まだ、雛見沢を離れるわけにはいかない。
「うおぉお……おおおおおおおおおぁッ!」
全身に走る痛みを振り切るように吠え、死力を振り絞ってボートの上から跳んだ。
不格好な跳躍、それでもどうにか届いた。
受け身もとれずに岸辺の砂利の上を転がり、あちこちに新しい痣を作ったが、……構わない。
「はぁ、はぁ……ぁあ……」
歯を食いしばって這いずるように川辺を離れ、林の中へと進む。すこしでも川から離れる必要がある。
山狗は車で下流にまわりこみ、どの地点でかカラになったボートを発見するはずだ。
俺を捜すための山狩りの人員を、奴等がそう大量に割けるはずがない。
むしろ、人数を割いてくれるなら詩音たちがやりやすくなるだろうから俺としちゃ歓迎したいくらいだ。
だから俺は、そう簡単には見つからない場所まで山の奥へ逃げるしかない。
意識を失うのはそのあとでいい。
1センチでも遠くへ。
1秒でも長く意識を保て。
車にはねられ、沢で溺れかけ、頭を強打し、口の中から喉の奥まで鉄の味が広がっている……誰がどうみたって満身創痍で、地面を這いずるしかできない現状。
この状況で、……それでも笑みが浮かんでくる。
だってそうだろ?
俺は、まだ死んでない。
奴等は、俺を消せなかった。
おいおい、山狗よ。こいつは致命的じゃないか……?
逃がした獲物に、噛み殺されるぜ……!?