苛々としながら、次の報告を待つ。
自分の指先が刻んでいる単調なリズムすら不愉快だった。
素人の中学生相手に、いつまで手こずっているのか。
「……間違いありません、別人です! 目標K、ロストしました!」
その報告に、一年前の苦い経験が重なる。
あの嵐の夜に見失った少女、園崎魅音。
鳳全員に包囲されながら、数名を病院送りにしてまんまと逃走してみせた彼女は格が違うとしても……、だ。
「チッ……逃がしたのはいいが、まさか見失うとはな」
隣で小此木が舌打ちするが……口調とは裏腹に楽しそうな表情を浮かべていた。
ろくな任務を与えられない山狗の隊長としては、半分訓練に近いようなこんな捕り物でも、相手が活きのいい獲物であれば多少の鬱憤晴らしになるのだろう。
「包囲が甘かったんじゃない?」
一応意見はしてみるが、私自身も作戦行動については素人に過ぎない。小此木は大袈裟な仕草で肩をすくめて、
「まあ、作戦可能範囲に余裕がない上に、不自然でない程度に追い詰めて逃がすのが目的ってぇ話でしたからね……」
くくく、と喉の奥で可笑しそうに笑う。
人目のない時間と場所の確保、単純に捕まえることを目的としない作戦。注文が多すぎると言いたいのか。
「それにしても、車をぶつけたのはやり過ぎよ」
報告を受けたときに思わず息を呑んでしまった。
「はは、ありゃあミスですな。いったん挟んで足止めしてる間に配置するはずだったんですが……坊主が意外に健闘しすぎたもんで、道を塞ぐつもりがドカン、……ってね」
止まる寸前だったから、はね飛ばしはしても目標の身体的ダメージはそう大きくなかったというわけか。
落ちた先が運良く水中だったのも、その後彼が動き回るだけの余力を残した一因だろう。
「既に発症しているということはないかしら?」
「そりゃあ我々にはわかりませんな。確かにそこらの小僧よりゃ多少いい動きをしてましたがね」
雛見沢症候群の発症には、奇妙な副産物がある。
その多くは、急激な危機感の高揚による心理的な躊躇いの欠如や脳内麻薬の異常分泌で説明できる範囲だ。
痛覚の鈍化や、異常なまでの思考の鋭敏化。
ときには、筋力や反射速度さえ上昇するのかもしれない。
症状のあらわれ方には個人差があるから一概には言えないがおじいちゃんも雛見沢出身の兵士の起こした凶行を研究した結果、可能性として指摘していた。
「鶯は引き続き捜索にあたりなさい! 見つけても身柄を押さえる必要はないわ。遠巻きに監視、いいわね」
鶯の面々は『了解っす』『うぃっす』『ちゅーっす』などとやたらとだるそうに返事をしてくるが、これは見失った自分たちの自業自得というものだ。
時間は刻々と過ぎていく。
今回の作戦の目的は、目標K……前原圭一に強い危機感を与えることにあった。
だから単純な捕獲ではなく、わざと包囲にも穴を開けた。
逃走しながら彼が生命の危機を感じてくれれば、こちらの目的は達せられたのだ。
“H132”。
約一ヶ月前、私自身が彼に投与した薬が効果を発揮する。
あれは初期の研究の産物だ。
兵器としては完成したとはいえないものの短期間で急性発症状態を引き起こすまでに改良されたH170に比べれば緩慢な効果しかない。
投与された被験者が雛見沢に継続して定住していれば病原体を緩やかに活性化させていくが、発症を引き起こすにはさらに決定的な一押し、戦闘状態や生命の危機による興奮状態に置く必要がある。
その限定的過ぎる効果は失敗作と言うしかないが、止むを得なかったのだ。
H170は研究中止の時に入江所長が全て廃棄したから、沙都子ちゃんのために長い間治療薬の開発に専念していた私が製法を再現できたのは、あれだけだった。
“東京”のエージェント、野村と名乗るあの女が、報酬を提示して私と山狗に下した命令のひとつがこれだった。
入江所長や調査部の疑惑をそらし、この時期に山狗が自然に動き回る条件を整えるため、雛見沢で十分な注目を集められる人物を発症させ、泳がせること。
その条件に適合する人物が、前原圭一だった。
一年前、梨花ちゃんに導かれて雛見沢に現れた風雲児。
女王感染者の羽入ちゃんが一緒にいたとはいえ、かつて急性発症に陥った沙都子ちゃんの衝動的な自殺未遂を食い止めてみせた件は感謝すると同時に驚きもした。
そして疑心暗鬼で病室に閉じこもった沙都子ちゃんを救うために町会を説き伏せ、私たちにとって想像の埒外だった突拍子もない方法でその不信を打ち崩した。
その子供じみた直感と常識外の行動力は、ときに疎ましく思えるほどにあっさりと私や所長の立てた対策を飛び越えて予想外の結果をもたらしてきた。
英雄と呼ばれた人間は、誰もが少なからず彼のような無鉄砲さと、それが結果としてうまくいってしまう強運を備えていたのではないかと思わされる。
皮肉なものだ。
運命を弄ぶ神と、神に挑む私の戦いに介入してきたのが、まさか“英雄”という名の不確定要素だとは。
神話における英雄とは、神の与えた試練を打ち破る者。
そしてそれは往々にして、神になろうとする努力ではなく運命に弄ばれる誰かを救い、あるいは守るために立つ者。
だからこそ彼らは、死してなお英雄と敬われる。
前原圭一はまさに雛見沢で英雄として扱われてきた。
その英雄が突然姿を消し、次に現れるときはこれまで自分が打ち破ってきた疑心暗鬼に囚われ、惨劇の担い手になるのだから……、これ以上の混乱はあるまい。
……でも。
彼を五年目の生贄に選んだ理由は、それだけではない。
私はどこかで、彼に……圭一さんに、期待しているのだ。
彼ならば、活性化した病原体のもたらす疑心暗鬼の枷にも抗い、打ち破ってみせてくれるのではないかと。
研究者としての私も、神の敵対者としての私も、彼を弟のように思う私も、沙都子ちゃんの保護者である私も。
野村の傀儡としての私以外の全ての私が全身全霊をもって彼の起こす奇跡を待ち焦がれているのだ。
負けるものか。
私たちの信じた英雄が、安い破滅に屈するものか。
見ていればいい、いまに予想は裏切られる。
なにもかも打ち壊して、希望を取り戻しに帰ってくるぞ。
まるで、来たるべき爽快な結末に胸躍らせながら、夢中で冒険小説のページを繰る少女のようだ。
私も、相当に毒されているのだろう。
軽く首を振って余計な思考を追い出すと、
「小此木、ここを預けるわ。私はいったん帰宅するから」
「了解です。お戻りになるまでに成果を……と、言いたいところですが、こりゃあ難しいでしょうな」
悪びれない笑みをみせる。
雛見沢を囲む森は深く、じきに降りる夜の帳もまた深い。
訓練された山狗の隊員たちであっても、広大な捜索範囲に散ってたった一人の少年の足跡を追うのは本来百人単位であたるべき仕事だ。
「せめてイヌが支給されてりゃよかったんですがね」
昨年園崎魅音を逃がした経験から、小此木は訓練を受けた軍用犬の手配を申請していた。
「ただでさえ予算が切られてるんだから仕方ないでしょ。そもそも逃がさないのがあなたたちの仕事でしょう」
「へっへ、そりゃごもっとも!」
自分の額を叩きながら笑う小此木はのんきなものだ。
「とにかく、頼んだわよ」
彼の居場所を一刻も早く特定したいのは、沙都子ちゃんの安全確保という利己的な理由からだ。
……そんな自分に嫌悪感を抱く資格さえも、私には残っていないというのに。
地上のロッカールームで私服に着替え、所長室に寄った。
「ああ、鷹野さん。どうですか、そちらのほうは……」
入江所長の顔色は冴えない。
さきほど、羽入ちゃんから診療所に連絡があったらしい。
圭一さんの不在に気づいて、連絡までは最短だった。
普通ならどこか出掛けているのかとしばらくは待ってみるものだが、もともと古手家は姉妹そろって勘がいい。
彼の不在に不穏の予兆を感じ取ったのだとしても、私にしてみればそれほど不思議なことではなかった。
「ええ、鶯が山中を捜索してくれていますわ。接触時、即座に逃走しようとしたところから見て、発症している疑いは捨て切れません……心配ですね」
「そうですか……、なんてことだ。まさか彼が……」
頭を抱えて圭一さんの身を案じる所長は、何も知らない。
所長に伝えたのは、昨夜からの彼の行動にいくばくかの異常性を認めて念のため鶯を監視に回していたが、彼がそれに気づいて意味不明の逃走をしたという偽情報。
女王感染者である羽入ちゃんの護衛が山狗の主任務である以上、羽入ちゃんと寝食をともにする圭一さんの発症が疑われる状況で山狗を動かすのは不自然ではなかった。
「今は小此木が指揮してます。いったん帰宅させていただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ、そうですね。沙都子ちゃんや悟史くんも心配しているでしょう……山狗の皆さんにも、差し入れを用意したほうがいいかもしれませんね」
所長にとっては、私も山狗も善意の協力者なのだ。
善人は、他者の善意を疑わない。
あらゆる悪意がつけこむのは、結局そこだというのに。
「二時間以内に戻ります。その間お願いします、所長」
「ええ。多少遅れても構いませんので、できるだけのことをしてあげてください」
「ありがとうございます」
一礼して、私は所長室を出た。
まったく……阿漕なことをしているわね、私は。
陽が山陰に隠れ、空が茜色から紫へとその色を変える。
北条家の前で車外へ出ると、ひぐらしの合唱が耳につく。
玄関を開けるなり、居間のほうから沙都子ちゃんが泣き出しそうな顔で飛び出してきた。
「三四さん! 圭一さんが、どこにもいないって……」
「ええ、診療所にも連絡があったわ」
めったに弱音を吐かない気丈な沙都子ちゃんには珍しく、その瞳には不安の色が浮かんでいた。
無理もない。
ある意味で、圭一さんの存在は部活メンバーにとって磐石の象徴のようなものだ。
誰が敵に回ろうとも、私たちの中心に圭一さんがいるならきっと大丈夫。
その一枚は決して最強ではないけれど、手の内にある限り奇跡の逆転を約束する、最後の切り札。
それが私たちの、前原圭一という少年への信頼だった。
でも、その彼は最初に脱落した。
H132が期待どおりの効果を発揮すれば、疑心暗鬼の虜となって敵にまわる可能性さえある。
その上に私という裏切り者まで抱えているのだから、勝機なんてどれだけ残っているだろう。
「悟史くんはどうしたの?」
「にーにーは心当たりを探してみるって、さっき……」
「そう……」
このまま騒ぎが大きくなっていけば、村の青年団が捜索にかり出されるだろう。
綿流し前で村中が神経質になっていることもあるし、行方不明なのが圭一さんだから、園崎家も労を惜しむまい。
村側の捜索範囲が広がればいま捜索している鶯たちは村人と出くわさないよう引き下がるしかない。
こういう事態になる前に、圭一さんの所在をはっきりさせておきたかったのだが……今はないものねだりをしていてもしょうがない、か。
「み、三四さん。わたくしも探しに……」
そう言いかけた沙都子ちゃんの唇を人差し指で止める。
「それよりも沙都子ちゃんは、前原屋敷に行ってあげるといいわ。梨花ちゃんや羽入ちゃんも不安でしょうし」
「あ……そ、そうですわね」
沙都子ちゃんが捜索に出かけて、圭一さんと出会うことだけは避けなければならない。
症状の進行度にもよるが、圭一さんが沙都子ちゃんを敵と誤認して傷つける可能性は高い。
前原屋敷には羽入ちゃんがいるから、雲雀の数人を回して護衛・監視にあたらせているので安心できるだろう。
「入り口まで送ってあげるわ。申し訳ないけど、ごはんはあっちでとってもらえるかしら」
「でも……三四さんは、どうするんですの?」
「私も一緒にいてあげたいんだけど……診療所のお仕事が追い込みに入ってるのよ。一段落したら行くから」
「わ、わかりましたわ……お仕事頑張ってくださいませ」
ちくりと胸が痛んだ。
私もいまでは圭一さんたちの部活メンバーの一人。
お仕事は優先させていいと言われてはいるけど、本来ならその部活の仲間が行方不明なんていう事態にいつもどおり仕事をしてる場合ではないと思う。
私自身、真相を知らず、ただ単に圭一さんが行方不明だと聞けば捜索に加わるなり、なにかしら理由をつけて山狗を動かすくらいはしていたかもしれない。
どっちが、本当の私……なのかしらね。
「お待たせしましたわ!」
沙都子ちゃんは着替えなどを詰めたバッグを用意し、悟史くんへの書き置きを残すと玄関に戻ってきた。
「ええ、いきましょう」
車に乗り込んで、前原家に向かう。
「圭一さんったら、どこに雲隠れしたのやら……」
助手席の沙都子ちゃんは、表情を曇らせていた。
「学校で、梨花ちゃんたちは何か言ってなかったの?」
言われてすこし考え込む。
「昨日は圭一さんだけ、魅音さんのお家にお泊まりしたらしいんですの。そこでなにかあったらしくて、朝帰ってきたときにはぐったりだったとか……」
………………ええと。
最近の中学生はなにを考えているのかしら。
そ、園崎家も監視させておくべきだったわね……。
いや、そんな話でどきどきしている場合ではないのだ。
「それで、魅音ちゃんはなんて?」
「魅音さんも魂が抜けたご様子で、お昼になって登校してきましたわ……『生まれてきてごめんなさい』とか仰ってましたけど」
…………えー。
それは、なにかしら。取り返しがつかなかったりとか。
「にーにーが励ましたら立ち直りましたけど。何があったかよりもこれからが重要なんだって張り切ってましたわ」
……こ、これからですか。
それは確かに重要ね。
何があったのかはさっぱりわからないけど、私、なんだか目頭が熱くなってきたわ……がんばって詩音ちゃん。
あ、でも、頑張っても無駄なのよね……。
「何がなんだかわかりませんわよね……」
私が難しい顔をしているのを見て、沙都子ちゃんが同感だと言いたげに力強く頷いていた。
「え、ええ……まったくだわ」
そうこうしているうちに車は別荘地に入っていた。
「……?」
通り過ぎるとき、新築の民家に明かりがついていることにかすかな不審を感じた。
あの家は、確かまだ人は住んでいないはず。
業者の立ち入りとかならいいけど、あとで雲雀にでも調べさせておいたほうがいいかもしれない。
確かこちらの調べでは、家主の赤坂は警視庁公安部の刑事で五年前の誘拐事件のときに小此木たちと対峙している。
そのときにこの土地を気に入って本気で移住しようとしているのならさほど問題はないのだが、こちらの資金源を洗いに来ているのなら厄介だ。
もっとも、調査のために家ひとつ建てるのはいくら何でも非常識すぎるし、いまのところ不審な行動があったという報告も受けていない。
事件のときに接した記憶の限りでは青二才という印象しか受けなかったし、本気で運の悪いのんきな男というだけのことかもしれない。
前原家の前で車を停めると、私たちが降りる前から、家の中でばたばたと音がして玄関が内側から勢いよく開く。
「みーみーみーみー!」
「あぅあぅあぅあぅ!」
飛び出してきたのは、なにか野生っぽい古手姉妹だった。
私と沙都子ちゃんを視認すると、落胆した様子だった。
「あぅ……圭一かと思ったのです」
正気に戻った羽入ちゃんは申し訳なさそうに頭を下げる。
「……二人とも、どうしたの?」
梨花ちゃんに聞かれて、私は微笑んで沙都子ちゃんの背中をそっと押し出した。
「いろいろと忙しくて、沙都子ちゃんの御飯とか用意できなくて……申し訳ないんだけど、今日は沙都子ちゃんをお泊まりさせていただけないかしら?」
「すいませんわね、梨花。羽入さん」
バッグを抱えた沙都子ちゃんがそう言うと、梨花ちゃんはすこし困惑したように私と沙都子ちゃんを見比べた。
「それは、もちろんいいけど……鷹野はどうするの?」
「私は……」
用意した言い訳を口にしようとしたら、
「梨花……、鷹野もお仕事があって忙しいのです。困ったときは助け合うのが仲間です」
羽入ちゃんが割り込んで助け船を出してくれた。
ちらりと期待のこもった視線を投げられてまた胸が痛む。
羽入ちゃんは、私の忙しい理由を『山狗で圭一さんを捜索する指揮のため』と解釈したようだった。
「……大変なときに、ごめんなさいね。また夜中にでも、時間がとれそうなら顔を出すから」
そう言って頭を下げると、梨花ちゃんはすこし考えてから笑顔をみせた。
「わかったわ、お仕事ご苦労様。鷹野」
それはどうみても少女の笑顔だったけど、私の名前を呼ぶその一瞬だけふっと目を細める仕草は大人びていた。
見透かされている……?
ぞくりと全身に痺れのようなものが走る。
……大丈夫。
この子に、私が裏切り者だということを悟る機会はない。
だって私は、『裏切って』いないのだから。
梨花ちゃんとの『約束』は、守っている。守り抜く。
だから恐れることなど何もない。
「それじゃ、お願いね」
逃げるような足取りにならないように注意しながら車へと戻り、運転席に乗り込みながら沙都子ちゃんに振り向く。
「お行儀よくするのよ、沙都子ちゃん」
すると沙都子ちゃんはすこしだけむくれた表情で、
「子供ではありませんもの、当然ですわー!」
と返してきた。
こらえきれなくなってくすくすと笑ってからドアを閉め、もう一度玄関前の三人に軽く頭を下げてから車を出した。
砂利道を走る振動の中、ハンドルを握りしめた。
「……本当に、お願いね」
この世のどんな悪意や狂気や理不尽がやってきても。
全て、あの子の前に立って退けてあげたいのに。
いまは、傍にいられない。
そのことが、無性に悔しかった。
「沙都子ちゃんを……守って」
ふと呟いた言葉は、まるで祈りの言葉のように聞こえて、苦笑するしかなかった。
<雑談>
第2部ラストで出てきたH132、
一応これが真相というわけです。
たかのんが四年目以降、
治療薬のほうに専念していたり
悟史という実験体がいないので、
(魅音も捕まっていませんし)
研究は原作より進んでません。
兵器側はH170どまり(原作はH173)
治療側も原作ほどではないです。