ひぐらしのなく頃に~神楽舞   作:晃晃

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第116話 オヤシロ様は歯が命

夜が明けても、圭一は帰ってこなかった。

 

 

……眠い。

 

さすがに心配のあまり、よく眠れなかったのだ。

 

普段からお寝坊さんなのは、この際忘れてほしい。

 

「梨花、羽入さん。そろそろ朝ごはんですわよ」

 

「あぅ……あぅあぅあぅ」

 

沙都子に揺り起こされ、糊したように開かない瞼をこすりながら妹を引きずって食卓へ向かう。

 

ドアの段差とかに引っかかるたびにごつんごつんとよくない音が響いているけど、梨花と圭一に関してはこれ以上アホになるとも思えないので無視することにしている。

 

「おふぁようございますのです……あぅあふぅ……」

 

「おはようございます。眠そうね……わたしも人のことは言えないけど」

 

朝食を用意してくれたエプロン姿の鷹野も、いつもよりも疲れた笑みを浮かべていた。

 

きっと彼女は、山狗を使って秘密裏に圭一を捜索してくれていたのだろう。

 

青年団に入りこんでいる数人を除けば、村人と鉢合わせるのはまずい。が夜間行動のための装備もあると聞いたから、村人の捜索の手が入らない場所も調べることができるはずだ。

 

「鷹野……お手数をおかけしますのです」

 

そう言ってぺこりと頭を下げたらすこし間があって、

 

「……いえいえ。困ったときはお互い様でしょう?」

 

顔を上げた僕に微笑みながらそう言ってくれた。

 

鷹野はこんなにも良い人なのに……僕のこの不安は、本当にどこから来ているのだろうと訝しく思う。

 

「すぐ食べられるようにしておくから、お顔を洗ってらっしゃい。凄い顔してるわよ」

 

けっこう泣いたので凄い顔になっているのは想像がついたけど、女の子にそれはちょっと酷い……。

 

「さぁ梨花、いいかげんに起きて……梨花!?」

 

引きずってきた梨花を振り返ったものの、そこにいたのは長い黒髪を床の上に散らした妖怪雑巾女だった!

 

雑巾女といえば雛見沢に古くから伝わる地方妖怪だ。

 

人家の廊下を這いずってその長い髪と起伏のない異様な胸板で埃や頑固な汚れを綺麗に拭き取ってくれるという善良な妖怪なので見かけたら優しくしてあげてほしいのです。

 

ところで僕の可愛い妹はいったいどこに!?

 

「……だれが妖怪よ、失礼ね」

 

もさもさと雑巾女が身体を起こし、不機嫌そうに唸る。

 

雑巾女が、まな板女に進化した。まな板女と言えば、

 

「まな板って言うなぁああぁああッ!」

 

……よく見れば、僕のだらしなくも可愛い妹だった。

 

「姉の心無い言葉責めが私の小さな胸を突き刺すわ……、って、自分で小さいって言っちゃったッ!? ああああ、いますぐ死ね自分! 氏ねじゃなくて死ね!」

 

長い髪を振り乱して泣きながら、壁に向かってがすがすとヘッドバンキングする今日もオモシロ可愛い妹を、華麗にスルーして洗面台に立つ僕。

 

「あぅ……本当に凄い顔なのです」

 

去年までの梨花はあそこまで面白い子じゃなかったけど、圭一の影響が大きいのだろう。

 

……圭一は、今どこでどうしているのだろう。

 

どうして突然いなくなってしまったのか。

 

ちゃんとご飯は食べているのだろうか。

 

どこかで怪我をして泣いていないだろうか。

 

いつになったら帰ってきて……、ごぼぼぼ。

 

「あぶあぶあぶあぶ、ぶはッ!」

 

いきなり水の中に頭を突っ込まれて、どうにか振り払う。

 

見れば鏡の中、僕の背後にはむっつりと不機嫌そうな梨花が立っていた。

 

「いつまで顔洗ってるのよ、はやくどきなさいよ。あんたのせいで髪も顔も埃だらけなんだから」

 

「あぅあぅ……朝っぱらから掌にためた水で溺れ死ぬとこだったのです! いくらなんでも世界初過ぎますのです! 梨花は姉の命をなんだと思ってるのですか!?」

 

「今週号のドラゴンボールの続きを読むことの次くらいに大事に思ってるわよ」

 

「な……!?」

 

愕然とする。

 

「梨花、あなたという子はそこまで僕のことを……!」

 

まさかそれほど大事にされているとは思いの外だった。

 

父様、母様、愛情は通じ合っているのです……!

 

気づかれないようにタオルで嬉し涙をそっと拭きながら、梨花に場所を譲ってあげる。

 

「はあ……」

 

大きくため息をついてぞんざいな仕草で髪を洗う梨花。

 

せっかく母様似の綺麗な黒髪なのに、梨花はどうも粗末に扱いすぎるのではないかと思う。

 

圭一という想い人もいるのだから、もうすこし身だしなみに気を遣ってもいい年頃だろうに……。

 

それを指摘すると決まって「明日からちゃんとするわ」と返ってくるのだが……明日はいつまで待っても明日です、梨花。明日っていまだと思うのですよ!

 

「……その視線がムカつく」

 

「あぅ!」

 

顔をあげた梨花に鏡の中からぎろりと睨まれ、後ろ足で蹴られてしまった。やっぱり不機嫌らしい。

 

……当然か。

 

梨花だって圭一のことが心配でないはずがない。

 

こうしていつもどおりの朝を装ってはいても、圭一がいないという事実は心に重く圧し掛かっていた。

 

「さぁさ、早くなさいませ!」

 

食卓に戻り、お弁当を詰めるのをお手伝いしていた沙都子に急かされながら鷹野作の朝食をいただく。

 

それは平時ならば僕のちっぽけな自信を揺るがすくらいに美味しいものだったが、今はきっと何を食べても美味しく感じられないだろう。

 

「かーッ、この一杯のために生きてるーッ!」

 

……力の限り美味しそうにお味噌汁を飲み干す妹は無視。

 

「梨花、椅子の上で胡坐をかくのはおやめなさいませ! お行儀の悪い!」

 

「やれやれ沙都子ときたら、すっかり女房気取りね……。よしわかった、古手家に嫁に来ることを許す!」

 

「わたくしはまだ結婚に夢も希望もございましてよ!?」

 

ああ本当に、この妹と来たら。

 

僕は感傷にひたることも許されないのだろうか……。

 

「羽入ちゃん、美味しくなかったかしら?」

 

鷹野の心配そうな声に、あわててお腕を口に運ぶ。

 

「あ、いえ、鷹野。このアサリなんか最高なのです!」

 

ばりぼりとしたこの歯ごたえがなんとも。

 

「ちょ、殻は食べないで!?」

 

 

 

 

ともかく朝食と身支度を済ませて、沙都子と一緒に学校へ向かうことになった。

 

鷹野は片づけを済ませてから診療所へ出勤するらしい。

 

沙都子といい鷹野といい、お世話になりっぱなしだ。

 

「や、おっはよ」

 

いつもの水車小屋前で待っていた魅音は、制服を着ていなかった。

 

「……おはようございますです。魅音」

 

その浮かない顔を見れば、昨夜の捜索で成果があがっていないことはおのずとわかる。

 

「あの、魅音さん。にーにーは?」

 

悟史からは昨夜、青年団の捜索隊に参加するからと連絡を受けていた。

 

「いまごろ仕事休んだ連中といっしょにうちで寝てるよ。私も一寝入りしたら男どもたたき起こして、明るいうちに山の中を捜索しておくからさ。知恵先生によろしく」

 

そう言う魅音自身は、あまり疲れを見せていなかった。

 

むしろその表情には余裕というのか、覇気が見える。

 

「あーそうだ、梨花ちゃんちょっと」

 

「なに?」

 

魅音は手招きして梨花を呼び寄せると、なにやら耳打ちをしている。内緒話だろうか……魅音と梨花というのはなんとも珍しい組み合わせのような気もするが。

 

「……まだ見つかりませんのね、圭一さん。前々から人騒がせの過ぎるお方ですけど、今回のはさすがに、しゃれになりませんわよ」

 

手持ち無沙汰になった沙都子がぼやく。

 

「あぅ……まったくなのです。帰ってきたら、みっちりとお説教をしてあげるのですよ」

 

圭一が圭一の意志で姿を消したというなら、どんなに幸せなことだろう。

 

僕や梨花たちのことを忘れられてしまうのは悲しいけど、圭一がどこかで元気に暮らしているならそれでいい。

 

でも……、それだけはあり得ない。

 

 

圭一は、約束した。

 

 

僕たちは、ずっといっしょだと。

 

 

どんな大きな敵にも立ち向かうと。

 

 

最後まで、笑っていると。

 

 

絶対に、勝つ……と。

 

 

前原圭一は嘘つきで、みんなが思っているよりずっと脆弱でたよりなくて、おっちょこちょいのお調子者で、深刻に将来の不安な変態さんのフラグ乱立男だ。

 

でも、約束を破ろうとして破ることはないはずだ。

 

だから彼は、決して逃げない。

 

これから僕たちを襲うであろう嵐の真ん中に飛び込んでいくことはあっても、僕たちを放り出して逃げてしまうような人では絶対にない。

 

彼は、ただ気づいていないだけだ。

 

自分のついた嘘を本当に変えようと全身全霊をかけて戦う人間は、もうその時点で単に嘘つきとは呼ばれない。

 

いまの圭一を呼ぶのに相応しい言葉を僕は知っている。

 

そう。

 

……『馬鹿』、というのがもっとも似合っている。

 

英雄と呼ぶにはまだ烏滸がましい。

 

僕の圭一をそう呼ぶのは、後の世の誰かに任せよう。

 

圭一が、いつか僕に語ってくれた夢のとおり。

 

不可能だと思えることに果敢に挑み、常識や運命を言い訳に諦めようとする誰かにとっての『本当』を嘘に変える。

 

見えない壁を撃ち貫く、膨大な非常識を内包した弾丸。

 

それが、前原圭一という名の『馬鹿』なのだ。

 

弾丸は直進する。

 

馬鹿だからそれ以外を知らない。

 

ならば……圭一はいまでも、前に進んでいるはずだ。

 

だからこそ心配なのだ。

 

命ある限り事態の中心を目指して突き進む彼の性質故に、途中退場は有り得ない。

 

絶望して、傷ついて、砕けてしまいそうなときでさえも、圭一はきっと戻ってきてしまう。

 

彼に待っているのは、常に栄光か死かの二者択一。

 

つくづく好きにならなければよかったと後悔するけれど、そういう彼だからこそ心から好きなのも事実で。

 

結局、堂々巡り。

 

「……圭一を、見つけてあげてください。魅音!」

 

気がつけば、魅音に向かってそう声をあげていた。

 

魅音は一瞬驚いた顔をするけれど、すぐに優しい目をして笑いながら親指を立ててみせた。

 

「この魅音さんに、まっかせなさい!」

 

梨花と沙都子が、互いに顔を見合わせて笑う。

 

それで、僕も笑えた。

 

みんなが笑い合う光景の中に、圭一はきっと帰ってくる。

 

そう信じられるから。

 

澄んだ色の空を見上げて、思いを馳せる。

 

『悟史……みんなは、とても強くなりましたのです』

 

空に映る悟史の笑顔もまた、

 

「羽入さん、にーにーは生きてますわ!?」

 

「あぅ。そういえばそうです」

 

沙都子のもっともな意見に頷く。

 

『助六……みんなは、とても強くなりましたのです』

 

空に映る助六の笑顔もまた、

 

「誰よ助六って!?」

 

妹の不勉強な発言に呆れる。

 

「助六は助六です。最後まで鬼ヶ淵の安寧を信じて陣頭に散った、それは勇敢な若者だったのですよ」

 

三人の胡散くさげな視線が、少しばかり痛かった。

 

「あぅ……勇敢ではありましたが、決して清廉というわけではなくてですね。彼の遺言で古手神社の巫女装束は今も下に何も着ないのがしきたりとなっているのです」

 

人間味あふれるエピソードを付け加えてみた。

 

「おかげで冬は寒くてたまりませんのですよ?」

 

「そんなどうでもいいリアリティはいりませんわよ!?」

 

沙都子には不評だったらしい。

 

「……何も着てなかったんだ、あれ」

 

魅音は別なところに感心していた。

 

「やっぱりこの村、昔からそんなやつばっかりか……」

 

梨花はなぜか打ちのめされた様子だった。

 

「ちなみにソースは『絵草紙巫女萌鬼ヶ淵参之巻』という古手家秘蔵の古文書なのです」

 

秘中の秘を明かしたのだけれど、

 

「ねーよ!」

 

「ないです!」

 

「ありませんわ!」

 

何故か信じてくれなかった。

 

『助六……みんなは、強くなりすぎてしまったのです』

 

空に浮かぶ助六の笑顔は、まるで……『ねーよ』と言っているかのようだった。

 

 

 

 

魅音と別れて登校したものの、いつもの賑やかな僕たちのグループが僕と梨花、沙都子の三人しかいないせいか教室はどこか静かで寂しいものに感じられた。

 

「前原くん、どうしたんでしょうね……」

 

知恵やクラスのみんなも心配そうな面持ちだった。

 

「まさか前原くん、先月の冗談を真に受けて幻のスパイス探求の旅に……独り占めする気なの……!?」

 

それはないです、知恵。

 

「前原さん、このまま勝ち逃げなんて許しませんよ……。あなたは、僕たちにとっての壁なんだ……!」

 

きつく拳を握りしめて奮わせる富田。

 

「そんなはずない、そんなはずない、いまどき呪いなんてありえないんだ……僕のせいじゃない……!」

 

蒼い顔をして不穏なことを言っている岡村。

 

「センパイどこいっちゃったのかなあ?」

 

「床下とかに隠れてそうでこわいよね~」

 

年少の女の子たちは……圭一をなんだと思ってるのやら。

 

ともかく学校には圭一の手がかりなんかあるはずもなく、僕たちは捜索がどうなっているかとそわそわしながら授業時間を消化していくしかなかった。

 

「今日は、ここまででいいでしょう。羽入さんも、今日はあがっていいですよ」

 

「ありがとうです、知恵……」

 

現在、この教室には中学生が僕しかいない。

 

中学生は曜日によって一時間長く授業があるのだけれど、どちらにせよこの状況では僕が勉強に集中できないと判断したのだろう、知恵はそう言ってくれた。

 

「それじゃ、号令をお願いします」

 

「あ、あぅ。きりーつ!」

 

魅音がいないので、僕が委員長の代理をすることになる。

 

不慣れな号令で立ち上がった生徒たち。

 

「かまえ!」

 

ざっと一斉に構えて、

 

「撃ーッ!」

 

狙いを定めて引き金を……って、梨花!?

 

「梨花さん、補習授業がしたいんですか?」

 

勝手に号令した梨花に、とても素敵な笑顔を向ける知恵。

 

「さー、のーさっ!(ヤです)」

 

直立不動で叫ぶ僕の妹は、本当に行動の読めないアホの子に仕上がっているらしかった。

 

圭一不在のこんなときでも、いや、こんなときだからこそネタを仕込む心を忘れないその強靱、見習うべきかどうかすこし悩むところだ。

 

「全軍抜刀、全軍突撃!のほうがよかったかしら」

 

「梨花の反省点に疑問を覚えましてよ……」

 

梨花も沙都子も、本当にたくましくなったものだ……。

 

「羽入さん!」

 

知恵の声で我に返って「れい!」と号令するとクラスの子たちが元気よく頭を下げ、すぐにそれぞれ散っていった。

 

「それでは梨花、今日は僕がお見舞いとお買い物にいってきますので、お努めは任せますのです」

 

帰り支度をしながらそう言ったら、

 

「だが断る。私がレナのお見舞いに行くから、羽入は買い物とお掃除をお願いするわ!」

 

勝手に予定を組み替える梨花だった。

 

「あぅ、ずるいのです! 梨花は昨日お見舞いに行ったのです。僕だってレナとお話したいのです!」

 

レナをめぐって火花を散らす僕と梨花だけど、ラッシュの速さ比べに突入する寸前で沙都子が割って入った。

 

「なにも喧嘩することはありませんわよ。今日はふたりでお見舞いをすればよろしいのではありませんの? 買い物でしたら、わたくしがしておいてさしあげますわ」

 

「……あぅ」

 

そういえばそうだった。

 

とりあえず今日も沙都子はお泊りしていくのだろうから、お買い物は沙都子が受け持ってくれればそれで済む。

 

「境内のお掃除は、二人で一緒にやればすぐ終わるのではありませんこと?」

 

「なん……だと……」

 

梨花が苦虫を噛み潰したような顔をする。

 

「妥当な提案だと思うのですが……梨花」

 

神の庭をお掃除するのがそんなにイヤなのですか梨花。

 

あやまるのです、オヤシロさまにあやまるのです!

 

「……わかったわよ。晩御飯のお買い物が沙都子。境内のお掃除が羽入と助六。レナのお見舞いが羽入と私。これで満足なんでしょ?」

 

「あぅ、それなら……」

 

頷きかけて、誤魔化されそうなのに気づく。

 

「助六って誰なのですか梨花!」

 

「捏造だったのー!?」

 

梨花のみならず沙都子まで愕然としつつ叫ぶ。

 

……沙都子も知っている助六とはいったい何者?

 

「……こほん。羽入さんは罰として、境内のお掃除を一人でお願いしますわ」

 

場を取り繕うようにそう指示する沙都子。

 

「あぅ、何故!?」

 

罰を受ける謂れなど、僕にはこれっぽっちもないのに。

 

「自業自得之介(~1783)よ」

 

江戸中期のお侍とお掃除に、いったいどんな関係が……?

 

でも自信たっぷりに歴史上の人物を持ち出されると、僕のような小市民は説得力を感じてしまうものだ。

 

「あぅあぅ……仕方ないのです。本当はよくないのですが急いで終わらせて、僕も診療所にいくのです」

 

「そうしなさい。それじゃ私は急ぐから!」

 

梨花はそれだけ告げて下駄箱で靴を履きかえるなり、世界を縮めかねない勢いでダッシュしていった。

 

速さが足りない僕ではとうてい追いつけそうにないけど、あっちは診療所じゃなくて家の方向だと思う……。

 

「なにかレナさんに頼まれている物でもあるんでしょう。さ、わたくしもお店が閉まる前に行きませんと」

 

自分で立派にお料理して鷹野の負担を減らそうというのか随分とはりきってお買い物に向かう。

 

「沙都子……また後で、なのです」

 

「ええ、レナさんによろしくですわー!」

 

彼女も、一年前とは見違えるように強くなった。

 

かつては心ならずも兄に頼りきり、過酷な運命に流されるまま虚ろな瞳で破滅を待つだけだった沙都子。

 

彼女は自分に向けられる確かな愛情を知り、かつての生き地獄で傷つけられた小さな胸には信頼という名の絆を確実に育んでいる。

 

それは、いつか彼女がその手で抱く誰かへとつなぐ絆だ。

 

沙都子だけではない。

 

一年前、自らの無力と不幸に打ちひしがれていた僕たちは比べものにならないほど強く大きくなっている。

 

圭一の失踪さえ、僕たちの日常を壊しきれずにいる。

 

痛手だと感じていないわけではない。

 

その痛みに屈する弱さを投げ捨てたのだ。

 

それぞれが自分にできることをしようと邁進している。

 

見守る神など、もう必要ない。

 

この一年が、ただのぬるま湯ではなかったという証。

 

圭一がかつて灯したかすかな種火は、互いに寄り添い合い燃え広がって、いまや天をも焦がす炎となった。

 

すっ、と手を空へと差し伸べる。

 

圭一がよくしていた仕草だ。

 

大空を掴もうとする彼のその手が求めたものが、今ならばはっきりと理解できる。

 

「僕たちは……もう、負けないのです!」

 

 

 

 

ようやく境内のお掃除を済ませて診療所についた頃には、今日の面会時間は残り三十分を切っていた。

 

「あぅあぅ、レナ! その泥棒猫から離れるのです!」

 

「は、羽入ちゃん……!?」

 

ベッドの上で梨花にひざまくらをしていたレナが、驚きの表情で振り返る。

 

「遅かったじゃない、羽入。とっくの昔にレナは身も心も私のものよ……!」

 

勝ち誇った笑みを浮かべながら身体を起こす梨花。

 

「そ、そんなの……僕は信じないのです! 嘘ですよね、『嘘だッ!』と言ってください、レナ!?」

 

「えとえと、レナは圭一くんのものだけど……?」

 

真っ赤になって慌てふためくレナに、僕と梨花は大げさに肩をすくめてみせた。

 

「……空気の読めないレナとは新しいのです」

 

「そこは小芝居で受けてくれないと続かないでしょ!」

 

二人がかりで責められて、レナがしゅんとする。

 

「はぅ……ご、ごめんね。ごめんね」

 

お見舞いにきて病人に元気をなくさせるお見舞いなんて、めったにお目にかかれないかもしれない。

 

「あぅ?」

 

ふと床に視線を投げた先には、盥が転がっていた。

 

「これは……なんのプレイですか?」

 

よいしょと拾い上げながらそう言ったら、レナが赤い顔をしてぶんぶんと首を横に振っていた。

 

「プレイじゃないよっ!? さ、さっき梨花ちゃんが飛びついてくるときに空中で紐にひっかかってね、その……」

 

ありありとその光景が目の奥に浮かび上がってきた。

 

病室に入るなり、スーパーハイテンションでレナの名前を叫びながらフライングボディプレスを敢行するアホな妹。

 

さりげなく吊り下がっていた紐にひっかかって瞬時に沙都子が入院していた頃に仕掛けたトラップが発動。

 

梨花の脳天に盥が直撃し、見事に撃墜。

 

レナがノックアウトされた梨花を介抱してひざまくらしていたところへ、僕が入ってきた……と。

 

「……アホの子プレイ?」

 

僕の的確なまとめに、盥を受け取ったレナがやっぱり首をぶんぶんと振っていた。

 

「だからプレイじゃないよ!?」

 

もう治りかけているとはいえ、頭を怪我している人がそんなに興奮したり頭を振り回すのはどうなのだろう。

 

「なんでもかんでもプレイにするあんたが悪いわ」

 

梨花がもっともらしくそんなことを言うので、

 

「あぅあぅ……梨花こそ、病室でフライングボディプレスはやめなさいと何度言ったらわかるのですか!」

 

「今日はサイコクラッシャーだったわよ!」

 

「!?」

 

なんと高度な技を……僕の妹は日々成長していた。

 

父様母様オヤシロ様、健やかに育つ梨花を見守ってくれてありがとうございますです。

 

できることならその甚だ無意味な成長分を、お脳とお胸に回していただけると本人ももうすこし豊かな人生を送れるのではないかと愚考する僕なのです。

 

「激しく余計なお世話よ!?」

 

思わず真剣に祈る僕と泣きそうな顔で怒鳴りつける梨花。

 

くすくすと笑われて振り返ると、沙都子の盥をもとどおり天井にセットしなおしながらレナが笑っていた。

 

「……あぅ?」

 

「……なによ」

 

なにが可笑しいのかと揃って尋ねてみれば、

 

「ううん、なんかね……嬉しいなあって」

 

レナはベッドの上に座りながら幸せそうにはにかむので、ますます意味がわからず梨花と顔を見合わせた。

 

「圭一くんは信用されてるなあって思ったら……、何だか嬉しくなっちゃったの☆」

 

今度は僕も梨花も合点がいった。

 

そう。

 

結局そういうことだ。

 

突然なにも言わずに姿を消そうとも、このまま圭一と二度と会えないなんて僕たちは思っていない。

 

確かに圭一のことは心配だけど、彼はきっと帰ってくる。

 

無事にとはいえないかもしれない。

 

帰ってきてもまた無茶をするのかもしれない。

 

それでも、これっきりではないとわかっているから。

 

僕たちは笑えるし、嘆くことを一時保留していられる。

 

「それは、圭一ですから」

 

「そうね。圭一だものね」

 

 

たぶん、それが……僕たちの得た答えなのだ。




<雑談>

負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこと信じ抜くこと。
ダメになりそうなとき、それが一番大事。なのです♪
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