「あら~、沙都子ちゃん! にんじんが安いわよ~!」
こちらに気づくなり八百屋のおばさんが声をかけてくる。
私は笑顔を返して、にんじんの棚を覗き込む。
「ごきげんようですわ。ほんとお安いですわね……。わたくし、にんじんはあまり好きではないですけれど」
「なに言うてんのも~、好き嫌いしないでしっかり食べないと大きくなれないよ~。おまけするから、ね!」
おばさんは大きな紙袋を手に取ると、ろくに数えもせずに豪快ににんじんを放り込んで私の手に押し付ける。
「あ、ありがとうございますわ」
ずっしりとした重みのそれを、お買い物袋に押し込んだ。
お野菜は苦手といってもお料理する上で避けては通れないから買うのはいいのだけれど、さすがにこの量を食べるのかと思うと……うぅう。
「そぉそ、圭一さん、まだ見つかってないの?」
ほかのお野菜もいくらか見繕ってくれたおばさんは興宮にある大手のスーパーでならこの半分も買えないような金額を口にしたので、すこし申し訳ない気持ちになりながらもお財布を開いたところでそう尋ねられた。
「そうみたいですわ。あの方のやることときたら、予想のつかないことばかりですもの。困ったものですわ」
「若いから元気が余ってるのも、考えものね~……羽入様も、さぞご心配でしょうにね~」
やれやれとため息をつくおばさん。
羽入さんと近しい友人としてお付き合いをさせてもらっている私としては村の皆さんの『羽入様』に対する崇拝っぷりに違和感を覚えることもまだまだ多い。
オヤシロさまの生まれ変わりだから、というのはわからないこともないけど……普段の羽入さんのたたずまいというのは、決して……その、威厳あるものではない。
あぅあぅ言ってる姿や、圭一さんや梨花と毒入りっぽいコントを繰り広げている印象が強すぎるのかもしれない。
「梨花もちょっと荒れてましたわ。窓辺でやけっぱちなブルースを歌いだしたときは、とうとう気がふれたのかと」
「あっはははは、梨花ちゃんったら相変わらずね~!」
対して同じ古手神社の巫女でありながら、梨花のイメージには落差があるようだった。
たまに予言とか不思議なことも言い出すけど、それ以上におかしな言動で大暴れしては周囲を振り回すきかんぼうのお姫様、という印象だろうか。
……おおむね間違ってはいないけど。
「梨花ちゃんも、圭一さんに懐いてるものね~……」
その姉妹二人に想われていると評判の圭一さんの立場も、村ではすこし特殊な存在だった。
みんな口には出さないけどいずれは圭一さんが、羽入さんか梨花を娶って血筋の絶えかかった古手のお家を継いでくれるんじゃないかと期待しているらしい。
園崎家もお嬢(魅音さん)の婿にとろうと狙ってるんじゃないかとか、いやいや本命はお父さんに捨てられたところを屋敷に囲った竜宮さんとこのレナちゃんだとか、とかく噂にのぼりやすい人だ。
その全員と親しい私としてはところどころツッコミたくはなるけど、なにからなにまで間違ってるわけでもないのでツッコミきれない。
ちなみに以前こっそり梨花にそのあたりのところを聞いてみたところ、たいへんやさぐれた顔をしつつ、
『もうハーレムルートでよくね? あ、一番は私だけど』
などと不埒なことを言ったので、ちょっぴり成敗した。
お布団で簀巻きになって古手神社の石段を転がり落ちても何かに目覚めそうな様子だった梨花は全く反省していないようだけど。
確かに親友や姉とも慕う皆さんが圭一さんを巡って険悪になられても困るのだけれど、この国は一夫多妻制を認めていないのだから、どうにかけじめをつけるべきだと思う。
いま皆さんがそれどころではない様子なのもなんとなくはわかっているから、声を大にしては言わないが……。
「それでは、そろそろお暇しますわ」
ほかのお客さんもお店の前にやってきたところだったので邪魔にならないようお話を切り上げる。
「そうねぇ。沙都子ちゃんも元気出すのよ~!」
笑顔で手を振りながら商店街の出口へ向かい、やっぱり私も元気がないように見えるのだろうかと首をかしげる。
圭一さんの普段の無軌道さや変人っぷりに辟易としつつも何度も私を救ってくれた人だから感謝や尊敬の念は強い。
それが梨花たちのような好意に至らなかったことは、ある意味では幸運だとも思っていた。
「あの人を好きになったら、一筋縄ではいきませんわね」
私から見ても理解できるのに、まるで望んでその苦労を受け容れているかのような梨花たちをどこか遠くも感じるしそれでいて羨ましく思うのも確かだった。
「素敵な殿方さえいれば、わたくしだって……」
すこし前までなら、理想の男性はにーにーのような人だと胸を張って言えたのだけれど……いまのにーにーはその、とても親しみやすくはあるけど理想形ではないというか。
……ちょっと微妙なお人柄を身につけてしまっていた。
『むぅ……微妙かな』
ええと、……も、もちろんいい意味での微妙ですわー!
『なんでもいい意味でってつければいいものじゃないよ』
き、傷ついた表情がキュートですわにーにー!
なにやら風向きがあやしくなってきたので、脳内にーにーとの対話を強制遮断して前原家に向かう道を急ぐ。
なんだかどなたかの特技が乗り移っているような気もするけど、そのへんは気にしないあたりがとても賢明な子だとご近所で評判の私だ。
「……あら?」
別荘地前、前原屋敷に続く小道の入り口あたりでなにやら呻き声らしきものが聞こえているような……。
そういえば昨日の夕方に通りがかったとき、なんの気なしにトラップを仕掛けてしまったような気がする。
でも普通に道を通っているぶんには引っかからないようにしてあるはずだから、誰かがトラップにかかっているとすれば道なき道をゆく変人さんか小さな子供くらいだろう。
……そういえば変人さんにはそれなりに心当たりがある。
「まさか、圭一さん……!?」
その可能性に気づいて慌てて角を曲がると……、そこには恐ろしい光景が待っていた。
「ぐ、うぅ……よせ、やめろ……!」
木製の電信柱からさかさまにぶらさがって呻く大の男と、
「らけーてん・はんまぁああ~~!」
ぐるぐる回りつつ棒状の物体を振りかざす小さな女の子。
もうすこしでその先端が、男の人の頭部に直撃するという寸前で駆け寄った私が、その棒、どうやら子供用のゲートボールスティックらしいそれを掴んで止めていた。
「はぅあぅあ~!?」
棒を取り上げられても勢いが止まらなかったらしい女の子はぐるんぐるんと三回転半ひねりで行き過ぎた。
「あ、あるぇ~?」
転んで泣き出すかと思ったけど、そのまま地面にぺたんと座りこんで何が起こったのかと目を回している。
……な、何故か誰かを思い出すリアクションでしたわね。
その誰かがうまく記憶につながらないまま、それよりも気になったことのほうを解決することにした。
「なにを遊んでますの? 十三さん」
不審なまなざしを向けてしまうのもいたしかたない。
「げえっ、HOJO!?」
逆さ吊りの十三さんはまたも失礼な反応をした。
正直、この人が失礼でなかったためしがないのだけれど。
「い、いや……これにはわけがあってな」
「お聞きしますわ」
「話せば長くなるんだ」
「時間は多少とれますわ」
「とても複雑な事情なんだが」
「……どこかで聞いたような会話になってますわよ」
なんだか、北の街で雪が見たい気分になった。
「まあその、なんだ、今日もアーティスティックな造園に挑もうと勢い込んでいた俺なのだが、道なき道を切り拓く男の浪漫に燃えてそこの敷地に踏み込んだらこの有様だ」
……私がほとんど無意識に仕掛けた罠は、対変人トラップとして所期の成果をあげたようだった。
というか、ひと様の敷地に踏み込むのは社会人としてどうなんですの十三さん。
「誰も通りかかりませんでしたの?」
人口密度の低い雛見沢とはいえ、こんな目に遭ってる人を見かければ助けてくれる程度には親切な土地柄だ。
「さっきお前の親友だというバイオレンス幼女が通った」
「梨花が?」
梨花なら私の手伝いをしているからトラップの解除もできるんだし、助けてもらえばいいものを……。
「一度目は『絆ぱーんち!』とか叫びながら金的を狙って拳を繰り出してきやがった。恐ろしいやつだ」
梨花……いくら気に入らないからといって、通りがかりに急所攻撃を仕掛けるのは感心しませんわ。
「二度目は『サイコクラッシャー』と叫びつつ、背後から俺の臀部に痛烈な打撃を加えていきやがった。直撃すればふたつに割れているところだ。危なかったぜ……」
「……それは、もとからふたつに割れてますわ」
十三さん、なんてベタなネタを……。
平静を装っているように見えて内実は動揺しているのか、それとも酸素欠乏症にでもなってしまったのか。
そして梨花……もはやバイオレンス幼女と罵られても、弁護できそうもない不甲斐無い親友を許してくださいませ。
「その直後にそこの幼女が通りかかってな。あっち行けと言ったら『やみのしょのえさにしてやるー!』とか言いながら棒を持ってきて、あとはHOJOの見たとおりだ」
親友の理不尽な暴虐をその身に受けた人を放っていくのも気が咎めるので解除してあげようと近寄ったら、
「そうはさせねぇー!」
背後からの声。
さっきの女の子がゴムボールと如雨露を手に立っていた。
なんとも勇ましい構えだけど、当然のように迫力は皆無。
「ほえろ、ぐらーふあいぜんっ!」
如雨露を振りかざし、その底面でゴムボールをぶっ叩く。
なかなかに狙いは正確、吊り下がったままの十三さんめがけてすっ飛んでくるゴムボール。
見かけの幼さにもかかわらず運動神経のいい子だ。
「ですが……まだまだですわね!」
手にしたままのゲートボールスティックを片手で振るう。
その小さな打撃面は正確に飛来するゴムボールをとらえ、すくいあげるように頭上へと打ち上げていた。
「!?」
動きを追いきれなかったのか、大きな目をまんまるにして私を見る謎の少女。
こう見えてもこの北条沙都子、運動神経ならばそれなりに自信がある。素早くスティックを両手に持ち替えて、
「イタズラっ子には……おしおきですわー!」
ちょうど頭上から落ちてきたゴムボールを打ち返した。
快音とともに駆け抜ける原色の軌跡。
「ぴぎゃっ!?」
ばちぃん、と小さな顔の真ん中にゴムボールの直撃を浴びて背中から地面に沈んでいく女の子。
「うわ、自分の半分しか生きてないような子供をおしおきの名を借りていじめるとはHOJO……、鬼め」
助けてもらっておいて、のうのうと無礼なことを言う。
「十三さんにだけは、それを言われたくありませんわね」
初対面のときに、おしりペンペンしてやるとか言いながら私を追い回したことを忘れたのだろうか、この人は。
「うぅう、おのれ~」
顔を押さえた女の子はまたも泣き出さなかった。
意外と強い。
「つんでれやえばめ、とっておきをみせてやるぅう~!」
ばっと立ち上がって、ゴムボールと如雨露を抱え込む。
毅然と睨みつけてくるその目には、自信の色があった。
「とっておき? どうするつもりですの?」
にやりと笑った女の子が、いきなりばっと背中を向けて、
「にげるんだよぉお~~、すもーきーっ!」
……逃走した。
「せんりゃくてきてったい! あいしゃるりたーん! あいるびーばっく! つきよばかりだとおもうなよー!?」
年の割に難しい言葉を知ってますのね……。
ためいきひとつ。
私は軽くダッシュをかけて小さな背中を追い抜き、余裕でターンしてその子の行く手を阻む。
「ひっ!? しかし、まわりこまれてしまった!」
慌てて急ブレーキをかけ、別方向に逃げようとした女の子の首ねっこを捕まえて引きずっていく。
「ひーん、ゆーかいされる! たすけて、パパ、ママ! つんでれにきすされて、つかいまにされちゃうよー!」
人聞きの悪いことを大声で言わないように。
とりあえずハングドマン十三さんの前まで連れていくと、
「いかに変態にしか見えなくても、身動きのできない人にこんなもので殴りかかるのはよくないですわ。十三さんに謝りなさいませ!」
小さな頭を下げさせようとするが、彼女は抵抗する。
「さげたくないあたまはさげられねぇー!」
私の手の下でじたばたするさまはある意味可愛いけれど、この子がこのまま順調に育ったら梨花のような世界に誇れるアホの子になってしまう気がしてきた。
「ママがいってたもん。かってにひとのおにわにはいってくるやつはてきだ! はいってこねーやつはくんれんされたてきだ! ふぅーはぁーはぁー!って」
「どちらにせよ敵なんですのー!?」
確かに言われてみれば十三さんにも非があるのだけれど、この子のご家庭の教育方針については相当に問題があるような気がする。
「まさか一般のご家庭が侵入者よけのトラップを仕掛けていたとはな……あの裏山といい、この村はいったいどうなってやがる、これが普通だってのか……!?」
十三さんは勝手に戦慄しているようだった。
……ええと。
まあ裏山のもここのも、私が仕掛けたんだけれども。
ついトラップを仕掛けてしまうのは癖だ。
なくて七癖、あって四十八手と言ったかしら?
とにかくレディにもたまにはミステイクがあるのだ。
「わかりましたわ。喧嘩両成敗ということで、仲直りしてくださいませ。ほら、十三さん」
その場を誤魔化してトラップを解除してあげると、
「おわっ……!」
ずるりと落下した十三さんはそのままめきりと音を立てて地面に頭からつっこんでいた。
「あ、あら……?」
そのまま倒れた十三さんを、女の子がつんつんとつつく。
「……し、しんでる」
た、確かに首がヘンなほうに曲がって……っ!?
まさか本当に死、
「いてぇ」
と思ったらいきなりゾンビのように起き上がった。
「ふわぁっ!?」
「ぴぃぃっ!?」
思わず泣きそうになりながら女の子と抱き合ってしまう。
ごきん、と両手で首を元の位置に戻した十三さんは、
「いまのは死ぬかと思ったぜ」
などと言いながら平気な顔で首をごきごきとさせていた。
その姿に少女は大きな目を見開いてきらきらさせ、
「へんたいだ……! へんたいはせーめーりょくがむだにたかくて、いっぴきみつけたらさんじゅっぴきはいるからきをつけなさいってママが……!」
それは頭文字Gな別の生き物のような気が……。
親の顔を見てみたいというのは、こういうときに使うべき言葉だったのかと深く納得するしかない私だった。
「くそう、酷い目にあったぜ……。とりあえず助かったぞHOJO。お前が通りかからなかったらこの電信柱を破壊するしかないかと思案していたところだ」
「公共物破損はおやめなさいませ……それより、お仕事はいいんですの?」
「造園業はフレキシブルでサディスティックだからな」
「前者はともかく後者は意味がわかりませんわ……」
そんな意味不明な会話をかわす私たちを女の子は純真無垢な瞳でかわるがわる見つめて、どうもなにかの結論に辿り着いたようで口を開いた。
「おねーちゃん、このへんたいのあいのどれー?」
なんて恐ろしいことを言うのか、この幼女は。
「断固違いますわ!? 本気であなたのお母様を小一時間問い詰めたい気分になってきましたわよ……!」
思わず歯軋りする私だけど、
「おかーさまじゃなくてママだけど、ママはてごわいのでしろーとにはおすすめできない」
悟ったような顔でうんうんと頷かれてしまった。
いったいどんな母親で……はッ、まさか!?
この子は十五年後の雛見沢からやってきた梨花と圭一さんの娘で、前原家を舞台に雛見沢の愉快な人々を巻き込んだハートフルストーリーが始まるのでは……!?
「ママは小学6年生ってか、お子様的妄想だ」
「ゆめみるくらいはゆるしてやってください」
「……余計なお世話すぎて、涙でてきましたわ!?」
いつの間にか意気投合して私のセンスをきっぱりすっぱり否定する十三さんと謎の女の子を怒鳴りつけておく。
気を取り直して……こほん、
「ここは自己紹介が必要ですわね。わたくし、北条沙都子と申しますわ。そちらの死相が浮いている殿方が雲雀十三さん、造園業と不法侵入を生業にしてらっしゃいますわ」
「はっはっは、なにひとつ否定できん」
大威張りするようなことではないと思うのだけれど、十三さんはえらそうな態度がデフォルトなので流しておく。
女の子はそれを聞いてびっくりした様子で、
「なんですとー! ではこのへんたいがみゆきのパパで、こっちのおねーちゃんがみゆきのママなのー!?」
とんでもないことを言い出した。
「えええええッ!?」
「なあHOJO、変態は否定したほうがいいかな?」
こ、この人ときたら……いまの超弩級衝撃発言を聞いて、引っかかるのがそこしかないとでも!?
そんな……そんな、バカな。
目の前の得体の知れないアホの子が十五年後の雛見沢からやってきた私の娘で……しかも父親が十三さんだなんて、私ともあろうものが、梨花のでたらめな予言を実現させてしまうというのか……!
「あ、あんまりですわー! やり直しを要求しますわ!」
頭を抱えて叫ぶ私と、
「いや、だからお子様的妄想だってのに」
「おはなばたけはおとめのとっけんです」
またも意気投合する二人。
……あ、あれ? もしかして冗談だった?
顔が紅潮するのがわかるくらい熱を帯びるので慌てて、
「も、もちろん最初からわかっていましてよー!」
口元に手をあてて高笑いを響かせるけど、自分でもさすがにすこし無理があるだろうかと思わなくも無い。
「ありえるみらいだとおもってるらしいのでゴーです」
「うーむ。将来性はありそうだが、がきんちょだぞ?」
「なまいきいうなチョイやく。さとこファンにわびろ」
「痛いとこつくな。良い嫁になりそうなのは認めるが」
目の前で自分についての不本意な密談をされるとか、これなんて羞恥プレイですわー!?
のたうちまわりそうになったところで、まだお買い物袋を抱えていることに気づいた。
「……と、ともかくみゆきさんとやら。あなたはそちらの新築のお宅にお住まいですのね?」
以前エンジェルモートにご一緒した大石さんのご友人、赤坂さんが建てたお宅だとは聞いている。
完成が近いらしいと、時折村の噂にものぼっていた。
「ほう、みゆきのなをしっているか。ゆーめーじんとは、じつにつらいものだなあ」
さもありなんと腕組みをして浸るアホ幼女。
自分で自分をみゆきと呼んでいたことについてはツッコミを入れないほうがいいんだろうか。
「いかにも、このごーてーはみゆきのおうちだ! ことばをつつしみたまえ。しょくんは、ひなみおーのまえにいるのだ!」
なんとも誇らしげに胸を張るみゆきさん。
ひなみおーって何ですの?
「ともかく自己紹介は終わったことだし、ガキはそれぞれ自分の家に帰るがいいぜ……俺の目が黒いうちにな」
フッと意味不明の笑みを浮かべる十三さんだけど、
「……それだと、まもなく餓死すると言われているようでとっても気になりますわよ」
「はっはっは、まったく否定できん」
どうやら今日もろくに食べていないらしい。
本当にどうしてこう、私のまわりにはダメ人間と形容するのが相応しい殿方しか現れないのか本気で疑問になる。
「はあ……それでしたら今日のお仕事のあとにでもあちらに見えるお屋敷にお立ち寄りなさいませ。簡単なものでもよろしかったら、お夕飯をご馳走しますわよ」
前原屋敷を示しながらそう言うと、
「おとこには、せわやきさんはポイントたかいのでは?」
「お、おう……恥ずかしながら、いまのはグッときたぜ」
妙なところで意気投合するのは本当にやめてほしい。
「と、ともかく……わたくしは失礼しますわ!」
これ以上この二人に付き合いきれないと前原家に向かって歩き出した、そのときだった。
「あぶねぇッ!」
突然の声と、私の目前に飛び込んでくる影。
「!?」
一瞬の衝撃音のあと、私の視界にそびえていたのは作業着の大きな背中だった。
「いきなり何だよ、こりゃあ……?」
その背中の主、十三さんが呻くような声をあげる。
わずかに立ち位置をずらすと彼の正面、対峙しているらしい相手の正体がようやくわかった。
土色に汚れたワイシャツを身につけた少年。
「圭一さん!?」
わずか二日ぶりに見るその姿は、変わり果てていた。
脂汗にまみれて露出した肌には真新しい痣や引っ掻き傷が無数に浮かび、服にもあちこちにかぎ裂きができている。
土気色といってもいいほど憔悴し、乾いた血がこびりついた顔の中で二つの目だけがギラギラと光を放っていた。
「……じゃねぇ……、……を、……りだ……!」
切れた唇から、唸りとも呪詛ともつかない低い声に続いて
ぎしり、とその場に響いたのはなんの音だろう。
憤怒と焦燥に食いしばった奥歯が立てた音なのか。
それとも、振りかざした拳の骨があげた咆哮だろうか。
「……かよ……、……か……って……る……!」
いや……それはまるで、撃鉄のようだった。
圭一さんは、拳を固めてこちらへと一直線に駆け出す。
「お前らはどいてろ!」
十三さんが叫び、圭一さんを取り押さえるべく走る。
「ッらぁあぁあああッ!」
「!」
けれど、十三さんは途中で足を止めざるを得なかった。
低い姿勢から身体をひねりながら地面を力強く蹴った圭一さんは普段の部活でも見せないほどの瞬発力で宙を駆け、瞬時に間合いを詰めてしまっていた。
「やべっ……!」
空中で横回転を加えた圭一さんの拳が、零距離で炸裂!
骨と骨との衝突音。
まるでそれこそ火薬でも仕込まれていたかのように、咄嗟にガードした十三さんの両腕をただ一撃で弾き飛ばした。
この一撃の威力と速度に限っていえば……もしかしたら、一年前に見たレナさんのそれに匹敵するかもしれない。
「……ってぇな!」
一歩下がりながら吠えるものの、圭一さんは着地の瞬間に逆の拳を振りかぶり、踏み込むと同時に身体をひねる。
死角となる肩の背後から突然眼前に出現した鉄拳は奇襲そのものだったが十三さんは驚異的な反射速度で突き出した掌をぶつけて方向をそらし、顔面への直撃を避けていた。
甲高い音とともに弾かれた掌を押さえてまた一歩下がり、苦痛と混乱の入り混じった笑みを口元に浮かべる。
「ちぃっ……なんだよ、こいつは」
「そ、その方は圭一さんですわ! わ、わたくしのお友達で、あの、行方不明で……だから!」
だから傷つけないでほしい、と言いたかった。
目の前の圭一さんはどうみても異常だ。
全身傷だらけで、およそ正気とは思えない鬼気迫る表情。
そして有効打こそないものの、その手加減抜きの攻撃ときたら体格でひとまわりも違う大の男を圧倒している。
「知ってんだよ……、そんなことはッ!」
十三さんは叫びながら飛び込み、圭一さんの目の前で踏み切っていた。
「落ちろッ!」
悲鳴をあげそうになった。
まるで竜巻のように繰り出された太い脚が、空を引き裂くほどの威力で圭一さんに叩きつけられる。
飛び回し蹴り!
圭一さんがとっさに両腕で頭をかばう。
「が……ッ!」
テレビのプロレス中継で見る延髄斬りほどの派手さはないものの、その強烈な一撃は両腕によるガードに受けられながらも圭一さんの身体を数メートルも先へ吹き飛ばす威力があった。
「な、なんてことをするんですの!」
「うるせぇ、さっさとそのガキ連れて逃げろ!」
その言葉で、はっとしてみゆきさんのほうを振り向く。
小学校にもあがっていない年頃の彼女は、この突発事態が理解できず硬直したように立ち尽くしていた。
……たしかに、この場に彼女がいては明らかに危険だ。
見れば圭一さんは転がりながらも地面を拳で叩き、強引に身体を起こして体勢を整えようとしていた。
異常な光をたたえた瞳がこちらに向けられる。
「わ、わかりましたわ……でも、できれば手荒な真似は」
「んなこたぁ、このクソガキに言え!」
完全に体勢を立て直す前にというのか、掴みかかっていく十三さんの背中を見ながら、私も駆け出していた。
「みゆきさん、逃げますわよ!」
「ぉ、おー!?」
私に手を引かれてようやく硬直が解けたように頷く。
赤坂さんのお宅ではこの場から近すぎると判断して、私はそのまま前原屋敷へと走っていた。
「へ、へんたいはどーするの!?」
「いいから!」
百メートルにも満たない距離とはいえ、小さな子を引っ張りながらだから何度か足がもつれそうになった。
それでもどうにか、前原屋敷の玄関に転がりこみ、ドアを叩きつけるように閉める。
「……どう、なってますの……?」
わけがわからない。
昨日から行方不明になっていたはずの圭一さんが、唐突に現れて目を血走らせながら私たちに襲いかかってきた。
まず、その襲いかかってくるという点がありえない。
圭一さんは、言ってしまえばこの村の守り手だ。
その人が守るべき私たちに牙を剥くなんて、完全に想像の外にある事態。
みんなが探している圭一さんがようやく見つかったのに、嬉しいとか安心したとか、そんな感情が一切なかった。
あの狂暴な光をたたえた眼を思い出すと寒気がする。
「どうして……、いったい、なにが……!?」
熱に浮かされたように呟くことしかできない私へと、唇を引き結んだ少女が視線を投げる。
「だいじょうぶだよ」
理解不能な言葉が、その口から吐き出される。
何が大丈夫?
こんなありえない事態の連続で、何を安心できる?
「だいじょうぶだよ、おねーちゃん」
彼女は、赤坂みゆきさんは……あろうことか、微笑んだ。
ついさっき、あんな暴力と暴力の激突を見せつけられておきながら、たった五歳かそこらの彼女が笑っていた。
「パパのほうが、つよいもん」
それは、信頼。
あの場にいた誰よりも自分の父親が強いと信じているからなにも怖れる必要はないのだと、その笑顔が語っていた。
教えられた気がした。
そう……怖れることなんて、なかったんだ。
私は、圭一さんがとても強い人だと知っている。
その強さで、何度も何度も私を助けてくれたのだから。
私を引き上げてくれたその手の強さを。
最後まで硬く握り締めていた拳を。
声を届かせてくれたあの日の不敵な笑みを。
北条沙都子は、全部……知っている。
前原圭一という人が奇跡を起こせることを、信じている。
あの人がいなければ、私は今ここにいなかった。
それは紛れもない真実。
だから、顔を上げよう。
目の前で見たものは事実、だけどそれがどうした?
あれは圭一さんだ。
なにかに飲み込まれ、負けそうになっていたのも事実。
でも、それこそが間違ってる。
負けるわけがない、彼は勝つためにそこにいる。
その道程で負けそうになろうが、最後は必ず逆転する。
窮地や見せ場のひとつもあるのは、当然だ。
だって、そのたびに乗り越えるのがあの人なんだ。
乾ききっていた喉がごくりと鳴った。
いろいろなものを呑みこんで……なかば意地になっていることを自覚しながらも、みゆきさんに笑い返す。
不敵に笑え、北条沙都子。
彼女に父親というヒーローがいるように、私にだって。
「……圭一さんだって、負けませんわよ!」
誇るべき無敵のヒーローは、いるのだから。
<雑談>
新キャラ二人と絡むはめになるあたりが不幸な沙都子。
そしてなんかひさびさに登場した気がする圭一。
なお、基本スペック的には圭一よりは十三のが強いです。
大人だし自衛隊員だし、高慢になる程度の裏付けはあるので。