「……すまんが、よろしく頼むよ」
受話器を置きながら、電話ボックスのガラスに映りこんだ興宮の街路を見渡してもういちど尾行確認。
とはいっても本職の山狗がその気になれば、僕ごときの警戒がどこまで通じるかは怪しいものなのだが。
とりあえず興宮で調べられることは八割がた調べてある。山狗がやけに慌しい様子だったおかげで、かなり自由に動けるのは幸いだった。
が、油断はできない。
こう言ってはなんだが、たかが田舎の土豪と暴力団組織に過ぎないと侮っていた園崎家が入江機関についてあそこまで調査していたのだから、その道の専門家である山狗を調べるとなれば警戒はしすぎるくらいでちょうどいい。
調査部の内部にも山狗側の諜報員がいるかもしれないと、定時連絡のときに予め決めてあった合図で調査部の同僚がもっともらしい理由をつけて外出してくれた。
その外出先に連絡をつけ、入江機関の予算まわりを大至急で内々に洗うように依頼はすませた。
なんらかの不審な点があれば、遅くとも一両日中には折り返しの連絡が入るはずだ。
それまではホテルに待機するしかない。
「気が進まないな……」
それが本音だ。
定期監査も含めた入江機関の業務監視が僕の本来の役割とはいえ、入江先生や鷹野さんとは設立当時からの浅からぬ親交もある。
むしろ彼らの研究に余計な横槍が入らないよう守ることに意義を見出してもいたのだ。
実際、年末年始の時期に起きた政変絡みでアルファベットプロジェクト全体の見直しが囁かれるようになったときには昼夜となく奔走し、即時撤退さえ有り得た中で三年間という期限付きではあったものの存続を勝ち取った経緯もある。
……もっとも、それについては私の手柄というよりも綺麗な落としどころを探していたお偉方にうまく乗せられたという印象は拭えなかったのだが。
「再度打ち切りもありえる……、だろうな」
政界の大物のバックアップがあった頃とは違うのだ。
山狗の動きに問題が見つかれば、研究の進展など関係なく切られかねないという微妙な位置まで来ている。
そうなれば鷹野さんや入江先生にとっても無念だろうし、村の人たちにとっても根治の見込みはなくなるわけだ。
だが……、
「本当の話なら、それどころではない……か」
魅音、いや、詩音ちゃんたちの示唆が本当だとすれば、まったく問題のレベルが違ってくる。
山狗が、よりにもよって護衛対象である女王感染者の殺害を計画しているというのだから、大問題だ。
鷹野さんに聞かされた故・高野一二三氏の説によれば女王感染者の死亡から四十八時間以内に感染者の大半が発症、疑心暗鬼と狂気の果てに互いに殺し合い、場合によっては周辺地域にまで事態が拡大する怖れもあるという。
あくまでも仮説であり、確実な話ではないが……取り返しのつかない事態が起こってしまってから対処するのでは遅すぎるのもまた事実。
羽入ちゃんが不慮の事故などで死亡した場合には、自然災害を装って雛見沢の全住民を、文字通り抹殺するという緊急マニュアルまで用意されているのだ。
ひとりの少女の死によって、千人以上もの守るべき国民を国家の手によって殺害しなければならないという理不尽。
そのような最悪の事態を未然に防ぐこともまた、入江機関の使命だといってもいい。
だが入江機関の秘匿を任務とする山狗が自らその禁を犯そうとしているという情報が本当なら……悟史くんの言うとおり、その意志は別のところにあるに違いないのだ。
たとえそれが本当に自然災害だったとしても、千人単位の被災者を出し一地域が全滅……という事態になったときに現政権やアルファベットプロジェクトの関係者が受けるダメージ、そして蔓延するであろう社会不安の規模ははかりしれない。
それを利して政争の具とし、もの言わぬ犠牲者の怨嗟を都合のいいように代弁することで自らが利権を奪い得ようとする勢力など、それこそ内外に掃いて捨てるほどいる。
そういう者たちが悪意をもって利用するならば、雛見沢はまさに爆弾のような存在だと言えるだろう。
信管はたった一人の少女。
それを護衛する山狗が牙を剥くのでは、起爆を防ぐすべなどこの世のどこにもあるはずがない。
「だが、本当に有り得るのか……?」
入江先生たち研究スタッフはその事実をよく知っている。
予算の都合で兵器開発にも携わっているとはいえ、仮にも医の道を志した人間だ。下手をすれば数千人の命にかかわる事態、そう容易く買収に応じるとは考えにくい。
そもそも、研究者を買収したところで山狗を寝返らせることができなければ意味がない。
買収されるとすれば、山狗のほうか……山狗によるなんらかの脅迫を前提とすれば研究スタッフの一部を取り込むのも容易だろう。
たとえば沙都子ちゃんを盾にとられたら、鷹野さんは一も二もなく首を縦に振らざるを得ない。
山狗も一応は自衛隊員の身分とはいえ、不正規部隊だけに出自の怪しい人間もそれなりに混ざっている。
そういう人間でなければできない種類の汚れ仕事というものがあるからだ。
といっても、現場の雛見沢・興宮に数十名の実働部隊、園崎組や東京方面への関係各団体への潜入工作員まで含めれば二百名以上という規模だ。
買収するにしても、前渡しの見せ金だけでも億単位の資金が必要になるだろう。そこに何の痕跡も残さないなど、有り得ない。
「事実なら……、必ず」
その気になれば調べられる。そういうものだ。
問題は、それが遅すぎないかどうか。
事が起きてしまえば、むしろ買収の事実は隠蔽される。
最悪の事態が起きてしまったとき、誰よりも早くアクションを起こして責任を追及するのは、買収した勢力になるのだから、それは当然の話だ。
その場合、もしものときの備えである番犬部隊はむしろ雛見沢を包囲する側にさえ回りかねない……。
つまり未然に事態の全容を突き止め、中断させることがこの場合唯一無二の対処方法だと言えるだろう。
これが事実かどうかは、まだわからない。
鷹野さんを信じたいという気持ちは変わらない。
できるなら彼女を問いつめ、もし脅迫されているなら彼女からの情報で入江機関造反を上層部に報告したい。
それならある程度の責任追及はあっても、彼女に危険が及ぶことは避けられるはず。
だが万が一、詩音ちゃんたちの言うことが事実で、彼女が自分の意志でその計画に荷担し、番犬部隊を動かすことのできる僕の命を狙っているのだとしたら……?
匂わすようなことを彼女に言うだけでもアウト。
それこそ山狗の十八番により、僕は即日行方不明になる。
そうなったらいま連絡をつけた同僚がうまくやってくれればいいが、手をこまねいている間に事態は手遅れになってしまうだろう。
「……参ったな……」
首を振って、恐ろしい想像をため息とともに吐き出す。
それらの事態ひとつひとつを、もはや笑い捨てることができないだけの山狗の不審さを一昼夜の調査で嫌というほど思い知らされてしまっていた。
そのどれもが明白な証拠はなく、確信には至らない。
しかし、信頼するにはあまりにも疑わしすぎる……。
そういう気怠い気分があった。
「おやぁ、これはこれは! 富竹さんじゃないですか!」
いきなりの胴間声に視線を向けると、
車道の車のウィンドウが開き、大石刑事が笑顔を浮かべてこちらに手を振っていた。
彼とは以前は村に訪れたときに多少の面識がある程度だったが、意外なところで趣味が合うものだから、入江先生や圭一くん、悟史くんと同様に友人の一人といっていい関係だった。
「やあ、大石さん! お仕事ですか?」
「なっはっは、それがもう大変で。昨日の不審火騒ぎで、一晩中駆り出されてまして。ようやく交代でひと眠りするところでしてねぇ」
言われてみれば、目の下にクマができている。
彼の歳で徹夜はつらいところだろう。
「それは大変でしたね……ええと、ダム現場でしたっけ。僕も撮影であのへんは歩いたことがありますが、あんなひと気のなさそうな場所で火事なんて、おかしな話ですね」
地方紙で一応その事件の記事は目にしていたが、あんな場所に寄りつくのはそれこそ圭一くんとレナちゃんくらいのものだろう。
……ん?
そういえば、圭一くんが行方不明になって村が大騒ぎになっていたようだけど、なにか関係があるんだろうか。
「……んん、そうなんですよねぇ。これが実際、厄介な話でして。弾痕とか見つかっちゃいまして、誰かがドンパチやったんじゃあないかって話に。んっふっふ!」
「弾痕ですって……!?」
大石さんの言葉は警察官としては守秘義務違反もいいところだが、それでカチリとなにかが噛み合う音がした。
雛見沢界隈で銃火器を扱える集団といえば三種類。
警察、園崎組、……そして、山狗。
圭一くんの失踪が発症によるものか、もしくは発症者として確保されたことによるものかは、正直診療所に顔を出していない僕には不明だった。
しかし、まったく関係のない家出ということもあるまい。
その圭一くんが隠れ家に出来そうな場所であるダム現場で大火災があり、さらにはその現場で発砲の痕跡が見つかったというのは……ただごとではないだろう。
「おんやぁ? なんかピンと来ちゃいましたあ?」
人の悪そうな顔で笑う大石さんにぎくりとしてしまう。
「い、いやぁ、ハハハ……」
「フリーとはいえカメラマンとしては、ジャーナリスト魂に火がついちゃうとか、ですかねぇ……んっふっふ」
いつも使っている肩書きがフリーのカメラマンといっても報道関係者というわけではないので、彼の言葉は的はずれもいいところだったが、正直ホッとした。
「そ、そうなんですよ! 村の人たちや警察の皆さんには悪いですが、燃えてるところをカメラに納めたかったなあ……なんて無体なことを」
「ダメですよぉトミー、人の不幸をメシの種にしちゃあ」
大石さんは口を歪めて笑い、
「でも仲間の誼で個人取材なら受け付けますよぅ、こいつで私に勝ったらですがね!」
牌をツモるような仕草をしてみせる。
「おっと、そりゃあ難儀ですね……はっはっは!」
現場の話を聞きたいのはやまやまだったが、彼はかなりのやり手だと聞いているから勝つのは無理だろう。
……と、そこで大石さんの乗る車を停車させていた信号が青に変わり、最前列の車が動き出す。
「おっと……」
助手席の大石さんもそれに気づいたようで、苦笑いをしながらウィンドウを上げつつひらひらと手を振ってみせた。
「それじゃまたお会いしましょう。火事の件でなにか心当たりがあるようでしたら、大石までお気軽にご連絡をどうぞ……『東京』のカメラマンさん!」
その言葉を最後にウィンドウは閉まり、車はゆっくりと動き出していった。
……『東京』という言葉を妙に強調していた気がする。
まさか彼は、『東京』についてなにがしかの情報を……そして僕がそちら側であることに気づいている?
ありえない、とは言い切れなかった。
詩音ちゃんと悟史くんから、あれほどまでにあっさりと入江機関の名が出るのだ。
僕と同じように彼らと親しい間柄である大石さんにも情報が渡っていてもまったく不思議ではなかった。
「なりふり構わず、か……」
興宮署と園崎家は緩やかではあっても敵対関係にある。
園崎の人間である詩音ちゃんが大石さんにも協力を求めたというなら、それはかなり本気でこれから起こるであろう事態を危惧していることになる。
圭一くんを例にひくまでもなく、彼らがどれほど仲間というつながりを大事にしているかはよく知っている。
失踪した圭一くんや、これから殺されるかも知れないという羽入ちゃんのために余すところ亡く全力を尽くしているのが容易に想像できる。
なら、……僕はどうなんだ?
僕自身の、彼らや……鷹野さんを想う気持ちは?
なりふり構わず救おうと、守ろうとできているのか?
いまのところ、やっていることは仕事の域を出ていない。
誰を信じればいいのか、誰を疑うべきなのか、いまだに結論を保留し続けている。
保留……。
「どこまで保留するんだ、僕は……?」
拳で電柱を叩くが……それは、自分でも情けないほどに力無い一撃でしかなかった。
「K……」
昨年の秋の日、この身に受けた痛烈な一撃。
それは振るわれた拳そのものの威力ではなく、そこにこめられた魂の熱量に打ちのめされたものだった。
若く無謀な、燃えさかる炎。
かつて僕も持っていたもので、こうして大人になって振り返るといつの間にか失われていたものだった。
あのとき圭一くんには、勝負を受ける理由はなかった。
強いていえば、彼が受けたのは僕のためだ。
いや、ひょっとしたら彼には理由なんてどうでもよかったのかもしれないが……それでも、意味もない勝負を受けてくれて、結果として負けた僕よりも大怪我をしたのだから僕は感謝するべきなのかもしれない。
……けれど、感謝してしまうと同時に、僕は『退いた』。
足を止めてしまっていた。
情熱のままにぶつけるべきものを、踏み込むべきところをたぶん無意識のうちに……踏みとどまってしまった。
そう思うのだ。
あの頃から鷹野さんにどこか距離を感じるようになった。
実際のところは、僕のほうが距離をとっていた。
沙都子ちゃんと暮らし始め、圭一くんたちの『部活』にも参加するようになった彼女はこれまでになく楽しそうで、これまで以上に優しげな表情を見せるようになって……研究に没頭する彼女にどこか陰のようなものを感じていた僕は、安心すると同時にある種の不安も覚えた。
もう彼女に、僕は必要ないのかもしれない、と。
それがもう一歩、いや半歩だけでも、彼女に踏み込むことをためらう理由になっていた。
本当は、後援してくれていた大切な人を失って悲しみに暮れる彼女のそばにいて抱きしめてあげるのは僕の役目だったはずなのに……それを躊躇った。
彼女には、沙都子ちゃんや悟史くんという家族がいる。
圭一くんたちという部活の仲間がいる。
彼女が落ち込んでいても、それを支える役割は彼らに任せて僕はおおもとの原因を取り除く裏方でいよう、と。
『大人』の判断をしてしまったのだ。
僕が彼女に感じていた微熱を、もしかしたら彼女も共有してくれているかもしれないと少なからず期待していたほのかな情熱を……後回しにした。
その代償だろうか。
奔走の末に取り付けた三年という時間を土産に雛見沢を訪れた僕に彼女が向けてくれた笑顔には、力がなかった。
その痛々しい、でも明らかに気を遣ってくれているとわかる笑顔を見て……ようやく間違いに気づいた。
きっと、大人の配慮では彼女を救えなかったのだ……と。
もう一度電柱を叩く。
「……っ!」
今度は、力がこもっていた。
それは、誰よりも自分への怒りだった。
びりびりと痛む拳を見つめて、奥歯を軋ませる。
詩音ちゃんにあんなことを言われた理由がわかる。
『だってほら、鷹野さんの恋人が殺されるってことなら、自分はもう、安全圏だっていう気がしてきません?』
近くでずっと見ていた彼女にはわかったのだろう。
彼女が一番苦しいとき、つらいときに、そばにいて、彼女を支えていたのはきっと……僕じゃなかった。
沙都子ちゃんと、仲間たちがその場所にいた。
皮肉なことに、だからこそ……僕は、信じられるのだ。
彼女は……、鷹野三四はいま崖っぷちに立っている。
いや、その場所で踏みとどまっている。
彼女が自分の支えだった沙都子ちゃんと仲間たちへに向けた愛情が本物だと信じられるからこそ、彼女が本心から陰謀に加担してはいない、それだけはありえないと推定する。
僕が抱きしめようが慰めようが、おそらくは彼女の研究に対する情熱を凌駕することはできなかったかもしれない。
その果てにどうしようもなく傷ついてしまうであろう彼女の最後の時間に救いとなってあげることしかできなかったかもしれない。
けれどいまの彼女は、違う。
誰が信じなくとも、支えてあげられなかった僕だからこそいまの彼女は祖父の遺した研究だけを生き甲斐に生きているわけではないのだと信じられる。
感傷や自暴自棄では投げ捨てられないほどの弱みを抱え、それ故に絶望にも揺るがない強さを得ていると確信する。
「なら……僕のなすべきことはひとつだ」
顔を上げる。
ダム現場での火災の話、小此木造園の慌ただしさを見るに山狗はもう動き始めている。
いや、なにかの理由で動かざるを得なかったのだ。
この場合、その計画を狂わせた要素は明白。
圭一くんと、あの部活メンバー。
彼らは、羽入ちゃんや鷹野さんをその危機から救うためならば決して立ち止まらない不屈と、子供ながらに理を尽くして危機をはねのけるしたたかさを併せ持っている。
火災現場に銃撃戦の痕跡を残すようなミスを山狗に強いたことは、彼らの強靱さを何よりも雄弁に証明している。
ならば、僕に何ができるのか。
必要なのは、何か。
「取り戻す……!」
悩み苦しみながら、望まぬ陰謀の渦中に投げ込まれたであろう彼女を取り戻す。
鷹野さんの笑顔を、あるべき場所に取り戻す。
あの家族と仲間の真ん中に、彼女の居場所を取り戻す。
「絶対に、取り戻すッ!」
手遅れなんてことは、どこにもない。
願うのはただ、彼女の幸せだけ。
情熱という名の石炭をありったけ機関室の炎に投げ込み、後悔さえも置き去りにするほどの速度で疾走する。
行く手に邪魔するものがあるなら、まっすぐに蹴散らして自らがこれと決めたレールの上を全速力で走り抜ける。
彼女をもう一度、心から笑える場所に送り届けるんだ。
僕が笑うのは、そのあとでいい。
さあ、全力で疾れ、……富竹ジロウ。
そして見せつけてやれ、その身を鎧う黒鉄の覚悟を。
機関車は、笑わない。
<雑談>
本来語り手は部活メンバーのみというセルフ縛りがあったんですが、鬼隠しで特別に部活に参加していたということで、一話だけトミーの話にしてみました。
お話としては短いのでちょっと迷いましたが、そのくらい彼の心情を書きたかったということでひとつ。
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