梨花の指示で、僕たちは慎重にトラップ地帯を進んだ。
山狗に見つからないことが最優先。
ひとつでも罠にかかれば、それで全てが終わりになってしまいかねない。
でも、沙都子が稼げる時間だって無限ではない。
焦りを覚えながら、それでも決して急がず、林の中を潜り抜ける。
「……羽入、そこ、危ないわよ」
「あぅ! は、はやく言ってほしいのです梨花」
「ごめん」
小さく息をついて、ぐっと地面を睨みつける。
言い返してくるどころか、素直に謝るなんて平時の梨花からでは考えもつかないような反応。
梨花が失血で朦朧としているのは誰が見ても明らかだ。
でも沙都子がいない今、トラップをそこそこ見分けられる能力をもっているのは梨花だけ。
だから、いまはこの子に負担をかけるしかない。
「……あぅう……」
自分の無力が情けない。
赤坂のように山狗を蹴散らせるわけでも、梨花や悟史や沙都子がそうしたように、誰かをかばって知略を尽くす戦いができるわけでもない。
いまの僕にできることは、美雪と同じかそれ以下。
「はぬーよ。かんがえるな、かんじるんだ」
……それが励ましの言葉なのかどうか不明だけど、そうだとすれば美雪にも負けているかもしれない。
女王感染者だといっても、なにができるわけでもない。
むしろ、その身を守っていたはずの山狗に狙われて逃げ惑うことしかできないこの身が厭わしい。
僕が捕まってしまえば、それでゲームオーバー。
守られる立場だからこそ、前には出られない。
梨花のように、あるいは圭一のようには戦えない。
「……梨花ちゃん、このロープは?」
悟史の言葉に、わずかに黙考した梨花が首を横に振る。
「フェイクね。それをまたぐと、落とし穴があるわ」
「むぅ……タチ悪いなあ」
沙都子のそれに比べればまだ可愛いのかもしれないけど、山狗の仕掛け直したトラップもまた手強い。
「左から回って……草の間になにかないか気をつけて」
とはいえ、時間をかけて観察さえすれば抜けられないほどでもなかった。
いつだか沙都子も言っていた。
充分に調べて考える時間があれば避けられないトラップは存在しない。
だからこそトラップ使いは相手を挑発し、時間を制限し、あるいは裏をかくことで、相手から『安全第一』でいこうという思考を奪い取る。
ただそこにあるだけの罠では、相手を絡め取れないのだ。
……だとすれば、今の状況は楽観できない。
僕たちはすでに、山狗による包囲網に『嵌まっている』。
前原屋敷で危地を切り抜けたとはいっても、その行く先々に山狗が待ち構えているところからみてこちらの思考はほとんど読まれているということになる。
この配置の冴えは、鷹野のものだろう。
部活で何度も彼女とゲームをしているから、その独特の手筋には心当たりがあった。
鷹野に奇策はない。
当たり前の手を重ね、布陣を積み上げる。
そして万全の態勢を固めたうえで、圧倒的な優位をもって相手を追い詰め、逃げ場を奪い去る。
だから戦う前に勝ちを決めてしまう魅音の戦略や、追い詰められた状況から一点突破で逆転を狙う圭一とはやや相性が悪いが、布陣を固めてからの勝率は極めて高い。
いまの鷹野が数において有利な山狗側として布石を打ってきたのなら、僕たちが逃げ切れる確率は低いのだ。
「おそらくですが、逃げ回っていては勝てないのです。鷹野の想定を越える行動をとらなければ……」
そう説明すると、赤坂は難しい顔をした。
「……それはリスクの高い行動を、ということになるね」
正攻法を得意とする鷹野にとっては、危険度が高い行動はそのまま悪手となる。
この包囲網は、僕たちにとって危険度の低い順にその穴を埋めているということ。
つまり鷹野の包囲を打ち破れるとしたら、危険が大きすぎてここは通らない、と鷹野が見過ごしたその穴を突くしかないのだ。
「私がここにいることも組み込んだ上での計算なら……、それを見つけるのは容易なことじゃない」
単体で山狗3~4人を相手にできる赤坂の戦力は僕たちにとって大きく頼もしいけれど、赤坂の存在による力押しを鷹野が作戦に組み込んでいるとしたら話は別だ。
その場合鷹野は、赤坂でも打ち破れない布陣を用意する。
たとえば銃器によるゴリ押し、待ち伏せて狙撃、あるいは小此木という山狗最大の戦力を要所に配置する。
赤坂と小此木、どちらが強いかはわからない。
仮に赤坂に分があるとしても、それは一対一の条件でだ。
小此木を含む多勢の山狗が相手となれば、赤坂がどれほど強くても対応に限度はあるだろう。
赤坂がいるからと危険な道を選んだとして、それを鷹野が予測済みだったなら……僕たちは確実に敗北する。
「危険な賭けになるが、配当は大きい……か」
読み違えて僕が捕まればほぼ詰み切られる。
が、ここを抜けて園崎家に辿り着ければまだ希望がある。
その意味でここは勝負の分水嶺だ。
「……私には土地勘がない。判断は任せるよ」
赤坂に言われるまでもない、選ぶのは僕たちだ。
すでに何通りもの逃走経路を思い描いては、鷹野の配置した山狗の幻影によってその道を塞がれていた。
まだだ。
もっとあるはず。
一人で、いや、圭一と一緒に雛見沢のあらゆる道という道を巡ってきた僕にしか見えない、そんな道が……!
「……分校……」
「え?」
悟史が眉をひそめる。
「分校です、悟史。ここから神社に向かう途中、林の中を抜ければまっすぐ分校へ向かう道に出ます」
「分校……でも、もうみんな下校してる時間だよ。ひと気のない場所に逃げ込むのは危険じゃないかな?」
その言葉に、梨花が片目を開けた。
「……悟史、人はいるわ。分校にね」
「あっ……」
そう、分校にはおそらく知恵か海江田が残っている。
生徒を帰らせるにあたって、家についたら保護者が分校に連絡を入れるように言付けていたのを思い出す。
この状況では当然の措置だ。
けど、僕たちはその連絡をしていない。
警察から離れて前原邸に入る直前で山狗に襲われたから、知恵はまだ僕たちの連絡を受けていないことになる。
僕たちが厄介ごとを抱えている張本人だとすでに知っている知恵が、その連絡を受けずに帰宅するだろうか?
もちろん答えは否。
「そのルートでいくわ。分校まで出れば、あとは商店街を抜けて園崎家前まではいける。なんなら、商店街で電話を借りて迎えを回してもらってもいい」
梨花が結論づける。
やっと光が見えた気がした。
分校にさえ辿り着けば、園崎家までの道は開かれる。
陽の落ちかけた紫色の景色の中、分校への道を急ぐ。
どうやら鷹野の読みの裏をかけたのだろう、ここまでの道に山狗は配置されていなかった。
トラップ回避で神経を使った梨花は赤坂に抱えられて意識を失っているけど、園崎家までいけば手当てできる。
「沙都子、大丈夫かな……」
悟史がふと、気遣わしげに呟く。
一人で囮になった沙都子が心配でないはずがない。
「大丈夫です、きっと。あの裏山で沙都子が負けるなんてありえないのです!」
根拠はないのは百も承知。
でも、口に出せばそれが本当に思える。
圭一や皆の助けがあってのこととはいえ、沙都子は雛見沢症候群の闇に堕ちながら現実に立ち戻ってきた強い子だ。
この程度の窮地に、屈するはずがない。
「……うん。そうだね」
悟史もそれを思い出したのか、微笑んで頷く。
あぜ道を抜けて校舎の裏手、体育倉庫のあたりに出る。
職員室の窓から、あたたかい光がさしていた。
ここまで来れば、山狗は手も足も出ないはずだ。
人に目撃される可能性の高い場所では行動できない、それが秘密の部隊である彼らのルール。
昼間のように多少のリスクは犯すにしても、顔や車のナンバーを特定されるのは避けるはずだ。
だからもうここは、安全地帯。
「……待った」
不意に赤坂が足を止める。
「どうしたの、パパ」
美雪の声に、しっと唇に人差し指をあてて腰を落とす。
「皆はここで待っててくれ……どうも様子がおかしい」
低い姿勢のまま、窓の外から職員室へと近づいた。
数秒の沈黙、そしてその表情が険しくなる。
「……気配がない。罠だ!」
鋭い囁き声が終わるか終わらないかのうちに、かんしゃく玉が弾けるような音がその場に響いた。
「ッ、グ!」
とっさに頭をかばうような構えをとった赤坂の身体が二度跳ねて、背中から校舎の壁にぶち当たる。
「パパ!?」
美雪が駆け出そうとするのを慌てて抱きとめたのと同時に赤坂を中心に強烈な光が広がった。
まるでスポットライトのようなそれは、自動車のライト。
その光源を視線で追えば、重機の陰に隠れていたらしい白いワゴン車が低いエンジン音とともに現れる。
その前に立つのは、拳銃を手にした小此木。
「……読んでいたのか」
胸を押さえながら、苦しげに言う赤坂。
「久しいが……あいにくだったな、若造。……先生がたはとっくにお帰りだとよ」
にやりと笑いながら、銃口はそらさない。
赤坂と小此木には、なにか因縁があるらしかった。
「そうか……、鷹野さんが……」
悟史が呻く。
それでようやく気づいた。
鷹野は僕たちが至るであろう突破口、分校に気づいた。
だから連絡したのだ。保護者として。
沙都子や僕たちが無事に帰宅したと、知恵に電話した!
彼女が僕たちの敵となっていることを知らない知恵がその真意を看破できることはありえない。
クラス全員の無事が確認された時点で、知恵は安心して帰路についたのだろう。
そして、山狗は待ち伏せた。
僕たちはまんまとその網の中に飛び込んでしまったのだ。
自分の迂闊さに歯噛みする暇もない、またも破裂音。
「パパぁ!」
赤坂の肩に、黒い孔。
それは刑事もののドラマのように血が噴出すわけではないけれど、じわりと布地が黒くにじむことでその孔が何を意味するのかを物語る。
「……いかんなぁ」
くくっと喉の奥で笑いながら軽く首をかしげた小此木は、なにを思ったか拳銃をホルスターに戻す。
「微妙にブレやがる。余計なモンを着てやがるようだし、こっちが確実だぁな」
拳を固めて、不敵な笑みとともに赤坂へと踏み出す。
そうだ、聞いた覚えがある。
昨夜レナが咄嗟に放った投擲で、小此木は指を傷つけられていたのだ。
手当てをしたとはいえ、引き金を引くのが平常どおりとはいかないのだろう。
専門家であるほどに、紛れを嫌うのはわかる。
それにどうやら赤坂は胴に防弾チョッキかなにかを着ているのだろう。もっとも的の大きい胴ではなく、頭をかばう動作を見せたのがその証拠だ。
「……なるほど。舐めてくれる」
赤坂は眉をしかめながら校舎の壁から背中を離した。
「あいつ……、遊んでるんだ」
僕の隣で、悟史が悔しそうに呻く。
そういえばこれも昨夜、悟史の話を聞いて魅音が言った。
レナに指を傷つけられた小此木が銃を使うのを諦めたのはおかしいのだ。
軍隊などで拳銃を扱う訓練をする際は、どちらの手でも問題なく撃てるようにするのが普通らしい。
片手の指を潰されただけであっさりと拳銃を手放したのは小此木に素手でも悟史やレナを倒せるという自信があったからではないか、と。
いまこの場においても、同じ。
銃撃によってダメージがあるとはいえ、あの赤坂を相手に格闘戦を選ぶのは、小此木が遊んでいるということ。
「……後悔するなよ」
深く吸い込んだ息を吐き出し、構えをとる赤坂。
その構えには、怪我の痛手など微塵も感じられない。
小此木はニヤリと口元を歪めながら応じた。
正対する二人。
まるで「はじめ」の声がかかるのを待つかのような、重い沈黙がその場に立ち込める。
じりじりと間合いをはかりながら、横へずれる小此木。
対して赤坂は、その場でどっしりと構えたまま角度だけを小此木に合わせる。
ふっと身を沈めると同時、小此木が叫ぶ。
「よし、確保ッ!」
「ッ!」
その声に赤坂は反射的に美雪と僕たちが隠れている小屋のほうへと視線を向けてしまう。
悟史も慌てて背後を振り返るが、山狗が忍び寄っているというようなことはなかった。
「ハッハア!」
笑いながらその一瞬の隙に前に飛び出した小此木が地面を蹴り、中段への鋭い蹴りを放つ。
「ム!」
視線をそらされた分、反応がわずかに遅れたものの赤坂は片腕のガードを下げることで対応した。
轟風をともなう蹴りが赤坂の外碗を撃ち、びりびりとその巌のような筋肉を打ち震わせる。
赤坂は反撃すべく踏み出そうとしたが、蹴り足を地面に戻すと同時に小此木が跳ぶ。
真横へ、一歩。
「何……ッ!」
小此木の身体が横へずれた瞬間、真正面の白いワゴンの、いつの間にかハイビームとなっていたヘッドライトが赤坂の視界を白く灼いた。
眩惑。
小此木はこれを狙ってワゴンと赤坂の間に位置をすらしたのだと気づくものの、すでに遅い。
ひゅう、という呼気とともに赤坂の死角へと回りこんだ小此木の回し蹴りが赤坂のこめかみを撃ち抜いていた。
「が……!」
ガードもままならないまま衝撃に頭蓋を揺さぶられ、赤坂がよろめくが、小此木は容赦しない。
一瞬も動きを止めることなく高く足を振り上げて、頑丈なブーツの踵を赤坂の額めがけ叩きつけていた。
「ハッ!」
重い衝撃。
でもそれは、赤坂の頭部ではない。
小此木の振り下ろした足首への衝撃だった。
「なにぃ……!」
赤坂は眩惑された目を閉じたまま、両腕を交差させて小此木の踵落としを受け止めていたのだ。
あの鋭利な一撃を、見えぬまま、気配だけで。
驚愕に目を見開きながらも、小此木は素早く軸足を反転させ瞬時に間合いを外す。
「破ぁっ!」
見えないままに踏み込んだ赤坂の拳が、一瞬前まで小此木の頭部があった場所の空気を抉り穿つ。
「……化け物が!」
が、小此木も驚いているばかりではなかった。
剛拳の下をかいくぐり、赤坂の足を横から強く蹴る。
「ぬ……!」
それは常ならば体重の乗った軸足を刈り払うほどの勢いであったが、赤坂の鍛え抜かれた脚はまるで鋼のような堅牢さでその打撃を弾き返す。
「そこっ!」
インパクトで動きの止まったところへ、赤坂の裏拳が空を薙ぎ払う。小此木も身をかわそうとしたが間に合わず、身体ごと吹き飛んで地面を転がった。
「……チ!」
すぐに身体のバネを使って立ち上がったものの、見えないはずの赤坂が正確に間合いの内側に踏み込み、さっきとは逆に蹴りを放ってくる。
空間ごと引き裂くような、高速でありながら重厚な蹴撃。
もっともかわしにくい中段へのそれを、小此木は両腕をかざして受け止める。
「グ……!?」
小此木の身体に激震が走る。
渾身の防御をなお上回り、身体を浮かせようとする打撃に耐えて踏みとどまるのが精一杯だった。
「貰った!」
そこへとどめとばかりに、構え直した赤坂の正拳が襲う。
それをかわす余力もないまま、小此木は身体を捻る!
「破ッ!」
「くっ!」
それはまさに、瞬間の死闘。
赤坂はまっすぐに拳を叩きつけることを選び、小此木は上体をひねりながらその拳を受け流すことを選んだ。
結果は、……痛み分け。
赤坂の拳はわずかに上に流れて小此木の肩を撃ち、そして赤坂の腕からは、赤い線が伸びていた。
「……!?」
眩惑の薄れかけた赤坂の視界に移るのは、鋼刃。
小此木が手にした肉厚のナイフが、血に染まっていた。
自らの腕であの鉄拳をガードすれば撃ち抜かれるだけだと悟った小此木は、身体を捻ると同時に腰から抜いたナイフで赤坂の腕を斬り払ったのだ。
赤坂の分厚い筋肉に邪魔され骨まで砕くには至らなかったものの、拳の威力を減殺するにはそれで充分だった。
「へっへ!」
通り過ぎざまに刃が閃き、赤坂の脇腹を噛み裂いていく。
「う……!」
よく見えないなりに危険を察知して跳び離れるが、小此木はその死角へと回り込みながら、刃を振るう!
「ッ!」
月光を反射く刃の軌跡に、赤坂がわずかに後退する。
それを逃す小此木ではなかった。
「オラァッ!」
赤坂の腹に吸い込まれたのは、ナイフではない。
頑丈なブーツの底。
より危険な刃に注意を奪われた赤坂の隙につけこみ、小此木の鋭い蹴りが突き刺さったのだ。
「ぐっうぅ!」
腹筋で防ごうにも、脇腹を斬られていたためにそれは本来の無敵の防御とはなり得なかった。
さすがの赤坂もたまらずに身体をくの字に折るが、小此木の追撃は止まらない。
ナイフを握った手をコンパクトに振りかぶり、目にもとまらぬ速度で赤坂の顔面に回し打ちを叩きつける。
「ぐあ……!」
直撃で体勢が崩れ、返す刃で頬が切れる。
だが、……赤坂もまた、それでは終わらない。
完全にバランスを崩して倒れこむ途中でありながら、大きく身体を振って予期せぬ方向から蹴りを浴びせていた。
「ぐがッ!?」
それによって突き放された小此木は二歩、三歩と後退し、続く連撃を封じられる。
「く……そ……!」
赤坂は蹴りでさらに大きくバランスを崩したまま地面に倒れ、小此木も肩を押さえて歯を食いしばるしかできない。
それで両者の動きがようやく止まる。
その間、僕たちもワゴンの周囲に控える山狗たちも、ただ見ていることしかできなかった。
それほどに、この両者による戦いは高みにあった。
へたに介入しようとして、その攻防に巻き込まれればただではすまないと、誰もがわかりすぎるほどにわかった。
「パパぁあ……!」
美雪が顔をぐしゃぐしゃにして泣き叫び、暴れるが……どうにもならない。
激突の末、受けたダメージはおそらく赤坂が上。
最初の銃撃で二発、おそらくは防弾チョッキの上からとはいえ胴に喰らっていた。そして肩への直撃。
これだけでも普通ならば担架が必要だろうに、赤坂は素手の勝負ではむしろ小此木を圧していた。
だがそれ故に、なりふり構わずナイフを抜いた小此木に逆転され、痛撃をその身に受けることとなった。
完全な致命傷こそ受けてはいないが、敗色は明らか。
小此木は一言命じればいいのだ、山狗に「撃て」と。
これだけの傷を受けていては、赤坂といえども防ぐこともかわすこともできはしないだろう。
最後の気力を振り絞って一矢報いることはできるかもしれないが、それでたとえ小此木を道連れにしたとしても敗北には違いない。
小此木の死は、『山狗』の敗北ではないからだ。
でも赤坂の死は……僕たちにとって『敗北』を意味する。
誰も死なせない。
望むのは奇跡。
あらゆる悲しみを駆逐する、それが僕たちの勝利条件。
それがきっと、僕のたいせつな妹が望んだ世界。
「……そうですよね、梨花」
悟史にもたれ、疲れ果てて青白い顔で眠る梨花。
そっと、その頬を撫でた。
「悟史」
僕は泣きじゃくる美雪を悟史のほうへと押しやる。
そして、わずかに微笑む。
呆然としていた悟史が、僕をみてはっと息を呑んだ。
「……ダメだよ、それは!」
その言葉が終わるか終わらぬかのうちに、僕は踵を返して歩き出していた。
そう、この場でただひとり。
山狗の凶弾、その標的とならない者が存在する。
女王感染者、古手羽入。
そして出て行くのは、この瞬間しかない。
赤坂が止めを刺される前のわずかな時間しか、奇跡を願う僕たちに勝利の望みは残されていないのだから。
「小此木……」
ゆっくりと歩を進める僕に、小此木と山狗の視線が向く。
赤坂も、立ち上がろうと余力をかき集めながら僕を見た。
小此木が肩を押さえたまま、薄く笑う。
「へ……、お姫様のおなりかよ」
その声を聞き流して、赤坂の前に立つ。
僕の役割が囚われの姫君だというのなら、いいだろう。
その運命を甘受しよう。
でも、そこまでだ。
舞台の終幕までに、きっと僕の騎士が駆けつける。
彼のその手に、逃れられぬ死の運命をも貫く槍がある。
……それを信じたからこそ、僕はこの場にいるのだから。
そうですよね、圭一……。
深い呼吸をひとつ、顔をあげた。
小此木を、その肩越しの山狗たちを見る。
そして、静かに……告げる。
「……僕が人質になります。ここは退がりなさい」
それが交換条件。
この場で誰も死なないための、最低条件。
「駄目だ、羽入ちゃ、」
「赤坂」
ぴしゃりとその否定の言葉を封じる。
振り向く必要もない。
いまは相応の代償が必要だ。
彼には守るべき人がいるのだから、ここで立ち止まる選択はありえない。ならば代償を支払うのは、彼ではない。
赤坂がここで命を捨てるのは、選択とは言わない。
選択の放棄でしかないのだ。
「貴方にまだ余力があるなら、いまは逃げるためにそれを振るいなさい。梨花を、皆を……お願いします」
背後の赤坂が、沈黙する。
聡明な彼ならば、それ以外に手がないことは理解できる。
だから信じる。
彼がその身に残された全力をもって、守るべきものたちを守ってくれることを、信じられる。
強固な信頼は、望む未来を確定する。
信じるものは救われる、なんてあやふやな話ではない。
受け取ってくれると信じて視界の外へパスを出すからこそ逆転のシュートが成立する、ただそれだけの単純な因果。
「……そいつを逃がすと、お思いで?」
わざとらしい下卑た笑みをみせる小此木だが、
「貴方には、何もできない」
冷ややかな声に、ぐっと押し黙った。
僕が前に立ち塞がっている限り、銃器は使えない。
然るべき時にしか、僕は殺せない。
いまがその時ではないのは、僕がこの瞬間に撃たれていない時点で明白だった。
彼にこの場で僕の命を奪う権限は、『無い』。
悟史や梨花ならまだしも、僕の命は手違いではすまない。
明白な事実を突きつけられて、小此木は迷う。
それが袋小路だと気づいていても、動けない。
「神を畏れぬ人の子よ、身の程を知りなさい」
深い紫に染まる空の下に、ただ風だけが舞っていた。
数秒、いや数十秒か、……誰も動かず、言葉を発しない。
まるで世界が静止したようだった。
出口のない思考は、あっけなく人を縛る。
そして指揮官の命令がなければ、山狗たちも動けない。
いまこの場で自由に次の一手を打つ資格を持つのは一人、
この僕だけ。
それはつまり、世界を支配しているということ。
目に見える世界を支配するのは、これほどに容易い。
「……行きなさい!」
僕の叫びとともに、世界が動き出す。
背後で立ち上がった赤坂が、全力で美雪たちのいる物陰へ駆け出していく。
「撃て!」
同時に、小此木の指示で山狗たちがテイザーを構え、次々に引き金を引く。
火薬の弾ける射出音とともに、それらがまっすぐに赤坂の背中を目指して殺到する。
僕はただ、一歩前へ。
「……蒙昧な!」
それだけで、すべての電極の進路に立ち塞がる。
「なに!?」
テイザーの射程距離はわずか数メートル。
ならば赤坂の背中に向けて放たれたその軌道は、ごく狭い空間内に限定される。
それを読みきってしまえば、阻止するのはあまりに容易。
そう、これは必然。
自らの身を晒す一握りの勇気、たった一歩の前進によって生まれる、必然という名のささやかな奇跡だ。
ただ、覚悟なき者には、それができないだけ。
自らに対して殺到する脅威、それに立ち向かえないだけ。
「……ふっ……」
この世に万能があるならば、このわずか一歩こそが万能。
必然を自在とし、場を支配する者こそが神と成る……!
次々と電極が僕の身体へと突き刺さり、電流が走る。
視界と意識が白く焼けるのを感じながら、それでも小此木と山狗たちの行く手をはばむように両手を広げて嗤う。
「な……」
嗤う標的を前に、山狗たちは目を見開く。
僕にとって、これは敗北を意味しない。
ただ、完璧なる勝利を創り出す工程の一つに過ぎない。
だから嗤う。
自らの意思で自らの世界を支配できず、また世界に正しく立ち向かうすべさえも知らぬ人の子を嗤う。
扉は開かれているのに、それに気づけない皮肉を嗤う。
もう、動き始めている。
たった一歩の前進が、千里を駆け抜ける道の始まり。
それを彼と彼女が踏み出したときから、始まっている。
意識が……千切れる。
それでも、膝をつくつもりはなかった。
奇跡は我が手に在り、導き手はここに在る。
神ならぬこの身をもって、世界を取り戻す。
その決意があればこそ、儚き願いは必然と成る……!
<雑談>
こともあろうに! あの山狗の指揮官が……、
我が「神の世界」に、入門してくるとは……!
神楽舞完結後、次に読みたい作品は?
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神楽舞、お疲れ様会もやってほしい
-
ひぐらし短編集
-
ひぐらし連載、長編もの(圭羽、梨圭など)