「らぁあぁああッ!」
先制は、圭ちゃんだった。
対峙した小此木めがけ、拳を振りかざしてまっすぐに地面を蹴り、駆け抜ける。
そしていささか早過ぎるかという場所で地面を踏み切り、空中で回転しながら拳を叩きつけにいく。
「無駄ッ!」
それを小此木は、一言で切って捨てた。
一瞬早く踏み込み、圭ちゃんの脇腹めかけて必殺の正拳を放っている。
が……、まるでそれを予測していたかのように、圭ちゃんは脇腹をもう片方の腕で固めていた。
「ちぃ!」
舌打ちしつつも、小此木の正拳の威力は減じない。
空中の圭ちゃんを突き飛ばし、ガード越しに亀裂くらいは入っているであろう肋骨を軋ませて、その身体を境内の地面へとたたき落とす。
「がっ……!」
そして一瞬で間合いを詰めて、倒れた圭ちゃんの背中へとつま先蹴りを放つが……、圭ちゃんはすでに横へ転がり、地面を押し出すようにして身体を起こしていた。
「まだだッ!」
追撃の蹴りをかわされたものの、瞬時に立て直して軸足を切り換え、中段への回し蹴りに出る小此木。
やはり狙いは、腹だ。
「へへっ!」
だが、圭ちゃんも黙って見ていたわけではない。
それどころか、その小此木の狙いを知っていたとでも言いたげに、蹴りと同じ高さで拳を振るっている。
両者がぶつかり、骨と骨とが軋み合う。
「グ……!」
こうなれば、蹴りのほうが威力は高くともダメージは五分と五分。いや、骨に直接響くぶん、蹴りを出した小此木のほうが痛手だったかもしれない。
「……こいつ……!」
「まだまだぁッ!」
小此木は一昨日の夜、ダム現場ですでに一度、圭ちゃんとやり合っている。
でも、そのときと今の圭ちゃんは違う。
たった一日かそこらの間に何度も山狗とやり合い、実際に敵を何人も殴り倒してきているのだ。
その違いは、意外と大きい。
前の戦いで圭ちゃんはひたすらに突撃し、ダメージと引き換えに殴りつけるという戦法をとっていたという。
それはそれで、かわせない、防げないという前提のもとに戦うのなら正しい戦法なのかもしれない。
でも、今の圭ちゃんはダメージを軽減し小此木と一合でも長く立ち合うことを選んでいる。
畳みかけられる前にまぐれでもクリーンヒットさせようとする短期決戦よりも、長期戦を望んだ。
圭ちゃんの意識の中で、小此木が『絶対に勝てない相手』ではなくなっていることの、明白な証明。
すくなくとも喧嘩においては、勝てないと決めた相手には結局勝てないものなのだ。
いまの圭ちゃんは、勝つべくして戦っているということ。
「いけるかも……!」
お姉が両拳を握って呟く。
「いけますよ……!」
わたしも、しっかりと両の拳を握りしめた。
圭ちゃんは拳を固め、積極的に間合いを詰めにいく。
「……圭ちゃん……」
出会ったあの日、助けたかったのはわたしじゃなかった。
自分を助けたくて、最初の一歩を踏み出したんだ、と。
そう話してくれたあなたの横顔が、忘れられない。
粋がって、強がって、いつだって最短距離の我が道を往く。
でも二人きりになると優しくて、たまに繊細に微笑う。
そういうアンバランスなあなたから、目が離せなくなった。
泣きたいのは自分のくせに、誰かの涙を止めることにばかり必死で。
あなたが空を見上げるたびに、胸の奥が苦しくなった。
あなたが弱音を呑み込むたびに、わたしのほうが泣きたくなった。
……その痛みに、わたしは恋と名をつけた。
本当は、もう戦わなくていいと言ってあげたい。
強がらないで、甘えてほしいと言ってあげたい。
でも、それは言うなといつもあなたの背中が言ってる。
なら、言わない。
どうせわたしの言葉では止まらないと知っているから。
なにより、そういうあなたを好きになったから。
だから、願うのはひとつだけ。
帰ってきて。
勝って、生きて、帰ってきて。
そしていつものように頭を撫でて、笑ってほしい。
おかえりなさいって、言わせてほしい。
願うのは、……ただそれだけ。
* * *
やけに身体が軽い。
それに頭が冴え渡っている。
昨夜もう一度隅々まで手当てを受け、たっぷり眠ったのがよかったのだろうか。
小此木の動きが、『見える』。
どう踏み出して、どの軌道で拳を、あるいは蹴りを出してくるのかが予測できる。
「……沈めっ!」
ほら、そこで小さく息を吸って……軸足を反転、リーチを半歩分伸ばした蹴りだ!
両腕でのガードでそれを防ぎ、後に飛ばされたものの地面を蹴って横に逃れる。
予測通り。
俺が吹き飛ぶことまで見越した上で、小此木はそのまま前に出て、素早い前蹴りで俺を仕留めようとしていた。
横に逃げたことでその狙いをかわされ、小此木がこちらに背中を向けたまま一瞬動きを止めていた。
その間に体勢を立て直して、拳を振りかぶる。
「らぁあッ!」
叫びとともに後頭部を狙い撃つが、小此木は素早く反応し振り向きざまの裏拳を放ってくる。
拳の攻撃を中断してなんとかガード、再び拳を腰に引いて第二撃を放とうとするが……、小此木は逆へ回転して後ろ回し蹴りを放ってきた。
「……が……!」
わずかな油断があったのか、腹に喰らって動きが止まる。
その隙に小此木は俺の腕をとり、ひねるようにして地面に投げ落とそうとした。
一瞬前にそれに気づいていたから、とっさに拳を振るって俺の腕を押さえた小此木の腕を打つ。
「く……」
たまらず手を放したものの、それで俺を解放したつもりはないらしい。
低い姿勢になっていたのが災いして膝を叩きつけられ、脳天に火花が散った。
「ぎっ……!」
そうなると、頭を押さえての膝の連打に移行する。
すぐにそれが読めたから、頭を押さえられた瞬間に小此木の指をでたらめに引っ掻いた。
「うがぁ……ッ!?」
それはダム現場でレナにやられた傷口を直撃したらしく、俺が跳び離れるだけの時間は充分に与えられた。
「……っ痛ぇな!」
忌々しそうに言いながら、ステップから蹴りに出てくる。
「舐めんなッ!」
見え見えのハイキックの下を潜り、拳を振りかぶろうとしたが、頭上に影がさすのを感じて両腕をかざす。
ごっ、と重い衝撃が両腕のガードから頭、背骨まで突き抜けていくのを感じた。
どうやらハイキックのフェイントから踵落としにつないで一気に勝負を決めるつもりだったらしい。
だが、ガードしたとはいえダメージは重い。
すこし動きが鈍ったところへ、容赦なく小此木の拳が顔面をえぐっていく。
「ぐぅう……っ!」
頬と鼻孔に痛みが突き抜けるが、逆の拳による第二撃は腕でガードすることができた。
コンビネーションの三撃目が腹を襲うが、そのときには地面を蹴って後に跳んでいたため、内臓はどうにか無事だ。
「……しぶてぇな……!」
鬱陶しいと言わんばかりの声に、俺は構えなおして笑う。
「どうしたぁオッサン! ガキに舐められてるぜ!?」
殴られ真っ赤に染まった顔面で、それでも笑う。
* * *
圭一は傷つき血を流しながら、それでも笑っていた。
小此木が一撃を放つたびに、怖くなって目を閉じそうになるけど、それは許されないとも知っている。
だってこの最後の世界で、圭一を一年も前に雛見沢に呼び出して、あれだけの重荷を背負わせたのは結局、私だ。
その私が、圭一が勝つと決めて始めた喧嘩から目をそらしてどうするというのか。
「行っくぜぇえ!」
突撃する圭一、迎え撃つ小此木。
一年前、悟史と戦ったときとは全てが違う。
見守るのは私たちだけではないし、一年鍛え上げて実戦でさらに磨かれたであろう圭一の力量も違っている。
そしてそれ以上に、敵としての小此木が強大だった。
「がはあ……ッ!」
鋭く重いローキックで突撃を止められて、動けない圭一を捕まえようと前に出る小此木。
圭一はそれを知りながら、半ば転ぶような勢いで身体を前に倒して、逆に小此木へ激突していく。
「ぐあっ! 野郎……!」
やや浅いが、顔面に頭突きを受けて小此木がよろめく。
そしてよろめきながらも、頭上で両手を組んで目の前の圭一の背中めがけて振り下ろした!
「ぐ、ぎ……!」
ずどんという打撃音とともに背中から胸へ衝撃が突き抜けて呻きながら、それでも圭一は倒れない。
いや、両の拳を同時に小此木の腹へ突き当てて、その反動で組み敷かれる寸前で跳び離れる……!
「なんだぁ……、いまの腑抜けた拳は……!」
効いていないわけではないが、小此木の腹筋に阻まれろくな衝撃にはならなかったらしい。
むしろ、背中を打たれたダメージがまだ抜けていないのか、圭一がぐらりと倒れそうになる。
「貰ったッ!」
それを好機と見て踏み込んだ小此木の、腹への蹴り。
が……、圭一はしっかりと腕でガードして、横へ逃れた。
「……はぁ、はあ、はぁッ……!」
大きく息をつきながら、それでも苦痛の声を呑み込んで、圭一は笑う。
もはやそれがやせ我慢であることは見ている誰もがわかることだが……それでも、笑っていた。
「どうして……、圭一はあんなにも傷ついて、それでも、倒れないのですか……!」
痛ましそうに顔を歪めながら、羽入が呟く。
「羽入も知ってるでしょ、あれが圭一なんだってば」
いまさら何を、と思うのだが、羽入は納得しなかった。
「でも……! あんなにやられているのに……!」
羽入の言うことも、わからなくはない。
どうにかしのいでいるとはいえ、小此木の攻撃はその一撃一撃がとてつもなく重いはずだ。
普通なら一発で戦意喪失、二発で意識消失、三発目では命がない、というところか。
それをあれだけ喰らいながらも、圭一は耐え続けている。
「……だから、それが圭一なのよ」
静かに告げる。
「信じてやんなさい。私やあんたが惚れた男を」
前の世界で、圭一が言った。
運命なんて、金魚すくいの網よりも薄いと。
その前の世界で、圭一が言った。
運命は打ち破れる、未来はきっと掴めると。
だから私は、圭一に賭けた。
私が百年かけても覆せなかった死の運命を横取りした考えなしの馬鹿を救ってほしいと、昭和57年の前原圭一を盤の外から招き寄せた。
雛見沢にやってきたばかりの彼はわたしの知っている圭一とはどこか違っていて、最初はちょっと不安だった。
でも、……圭一はやっぱり圭一だった。
人選は間違ってない、でも自分でも足掻けと私を叱った。
圭一のくせに生意気な。
だから、彼を巻き込んだことを詫びるつもりなんか全くない。
私は私なりに、限界を超えて足掻いてみせた。
だから今度は、あんたの番。
偉そうなことを言っておいて勝手にリタイアしたやつの分まで、責任とって証明してみせろ。
勝てば配当は山分け、いいや全部あんたにくれてやる。
不足だとは言わせない、拒否権なんか与えない。
嫌だと言っても、この先百年の古手梨花は全部。
……前原圭一とともに、あるんだから。
自分がどれだけ想われてるか、たっぷり思い知らせてあげるから……さっさとその狗、叩きのめせ!
「……圭一くんは、強いよ」
レナが、静かに言った。
* * *
圭一くんが身体をひねりながら拳を放ち、小此木がそれを弾いて逆に顔面を狙った拳を叩きつける。
そのインパクトの寸前、わずかに圭一くんの顔が横に逃げるのが見えた。
拳の圧力で弾き飛ばされるが、そこを狙った小此木の蹴りは腹に突き刺さる前に、両腕のガードで防いでいた。
ガード越しの威力で身体をくの字に折りながら、それでも圭一くんは拳を握りなおして反撃の機会を狙う。
「圭一くんには、私みたいなスピードも、魅ぃちゃんたちみたいなテクニックも、赤坂さんみたいなパワーもない」
最強どころか、圭一くんには、ほぼありとあらゆる格闘戦に対する才能が、……欠けているか、もしくはあまりにも平凡過ぎる程度にしかない。
「でも、圭ちゃんのタフさは本物ですよ。根性もあるし、レナとの特訓でだいぶ打たれ強くなってるでしょ?」
詩ぃちゃんの言うのも、それはそれで事実だ。
模擬戦で私の拳や鉈をさんざん喰らってきた圭一くんは、ちょっとやそっとの痛みで倒れたりしないだろう。
心が折れるなんてことも、まずないといっていい。
根性があるというより、意地っ張りなだけだけど。
「圭一くんにはひとつだけ、誰にも負けない才能がある」
それは、『目』。
もっと正確に言うと、それは頭脳なのかもしれない。
模擬戦の中で、圭一くんが『たまにものの動きが止まったみたいに見えることがある』と言うときがあった。
ほんの一瞬、動きが止まっているのかと思うほど、全ての動きがスローモーションに見えることがあるのだ、と。
「それってあれ? 強打者がボールの縫い目まで見えたり剣の達人が自分に向かってくる切っ先が見えたりする」
「かもしれないね。でも私は、圭一くんの場合その正体は『思考速度』なんじゃないかって思ってる」
自分の身体の動きも含めて、全ての動きが遅く見えるとすれば……それは、普段よりも高速で周囲の物事を知覚し、認識し、思考しているということだ。
殴り合いで一番怖いのは、思考が止まることだ。
技をつなぎ、相手の攻撃をかわし、次の攻撃を放つ。
自分の思い通りに展開しているときはいい、思考の流れと身体の動きには齟齬がない。
でも、意外な事態が起きてしまった場合や、相手の攻撃で自分の流れが断ち切られたときは、体勢以上に思考を立て直すのに時間がかかる。
殴り飛ばされるときの自分の意志によらない動きは、それだけで思考に軽いパニックを引き起こすのだ。
そこに生まれる意識の空白は、戦いの場にあっては容易く命取りになる。
「ダム現場で、小此木が圭ちゃんにノーガードで殴り飛ばされたのもその類かもしれないね」
私はその場面で気絶してたからなんとも言えないけど、その可能性は高い。
「とにかく圭一くんは、切迫した場面になると思考速度が速くなる……つまり、ダメージからの立ち直りが速い」
そう、『早い』のではなく、『速い』。
普通の人なら、殴られ、吹き飛んで、地面に落ちた衝撃でようやく我に返って殴られたことを認識する。
でも圭一くんは、殴られるとわかったその瞬間にはその威力をどう減らし、どう立ち上がって追撃を防ぐか考え、次にどう身体を動かせばいいかを計画しているのだ。
模擬戦を重ねるうちに、圭一くんはその思考の速さを徐々に自分のものにしていった。
突き詰めれば格闘技はエネルギーを扱う学問のようなものであり、効率よくダメージを与えられる打点をすこしでも外せればその威力は激減する。
だからまともに喰らっているように見えても、圭一くんが実際に受けているダメージはその数割引き。
結果、常人から見れば信じられないほどのタフさで攻撃を受け止めているように見えるということ。
「圭一くんにはその『ロスタイム』、攻撃を防いだときの余った時間で反撃を考える余裕がある。だから、大丈夫。圭一くんは、圭一くん自身が思うよりも、強い……!」
それを信じる。
信じて、私は戦い続ける圭一くんを見つめ続ける。
圭一くんがどれほど強いかは、私が一番よく知ってる。
全部背負って、受け止めて、甘えさせてくれた。
そして、弱い私を守ってくれた。
それはきっと、彼にはとても酷なことだったと思う。
だって私は、恋人と父親を同時に求めてしまったのだから。
でも、今はそれだけじゃない。
私にとっての圭一くんは、もっとずっと大事な人になった。
ときには兄、ときには弟、ときには親友のような……。
ううん、それでも足りない、もっともっと。
……竜宮レナには、圭一くんが必要になっている。
私のココロもカラダも、そういう仕組みで動いている。
まるで半身であるかのように感じるときもある。
たまに遠くて謎めいた人になることもある。
でもひとつだけ確かなのは、圭一くんはこれから永い旅路を往く私の伴侶で、私の帰るべき場所はいつだって彼の胸の中にあるということ。
眼前で繰り広げられる死闘も、私には完全に理解できる。
彼が何を想い、何を願い、何のために戦うのか。
肉よりも骨よりも、心が軋む痛みに喘いでいることも。
ずっと彼を見つめてきた私に、わからないはずがない。
だから泣かない。
彼が望むまま、全てを私に焼き付け、どんな結果も受け容れる。
その上で、断言できるのだ。
圭一くんは、絶対に勝つ。
その果てに、世界は私たちから彼を奪うかもしれない。
でも、この世にたったひとりだけ。
圭一くんがそこに至った理由を、圭一くんが最期に見たものを理解できる人間がここにいる。
竜宮レナの中に、前原圭一は確かに存在している。
だから信じる。信じられる。
……圭一くんは、私の胸に、帰ってくる。
* * *
なんだよ、こりゃあ……。
笑うしかない。
殴っても、蹴っても、手応えがねぇ。
いや、物理的な意味での手応えなら……ある。
よほど勘がいいのか、ベストな間合いや急所を一寸外されちまってはいるものの、打撃は確実に効いている。
そのはずだ。
蓄積したダメージは明らかだ、立ち上がるたびにこいつの動きはわずかながら鈍くなっている。
それは間違いない。
間違いないが……、手応えがないのは、『眼』だ。
人が全力で動ける時間は限られる。
呼吸によってその身に蓄えられた力も重要だが、身体より早く息切れするのは心、集中力のほうなのだ。
メンタルがものを言うのは、言うまでもなく……余裕のない格上との戦いにおいてだ。
かわせない打撃、通じない攻撃、ダメージが積み重なって思うように動かなくなる身体。
そんな中でじっと反撃の機会をうかがうのは、思う以上に精神を消耗する。
当然だ。
認めたくなくとも、本能が生き延びたいと叫ぶ。
諦めたくなくとも、理性が負けてもいい理由を探す。
一撃ごとに、その声は大きくなり……いつかは、折れる。
……ただの喧嘩なら、それで終わり。
自分が相手より弱かったと認めれば終わる。
戦場なら命をなくすかもしれないが楽になれるし、相手が投降を認めてくれるなら儲けものだ。
とにかく格上相手に一方的な戦いを強いられるその責め苦を終わらせられるなら、人は勝手に『負け始める』。
そういう生き物だ。
なら……、こいつは何だ?
目の前にいる、この弱っちい生き物はなんなんだ?
殴られても、蹴られても。
みっともなく不様に地面を転がって、追い撃ちから間一髪で逃れては、また立ち上がる。
苦痛と疲労はすでに限界、どうにか意識を保っているのは脳内麻薬がキマってるからに過ぎない。
なのに、折れない。
ここに至ってなお、『眼』が死んでない。
「ってて……よくもまぁ、無駄な抵抗をしやがるぜ」
そう口にしたのは、俺ではなかった。
目は口ほどに、とはよく言うが、目の前のこいつは口先もまだ達者なものだった。
「そんなにブン殴られるのが怖いか? 小此木さんよぉ」
切れた口の端を舐めながら、笑う。
そしてまた……、あの音だ。
ぎりぎりと、引き絞られる弓弦のような音。
ぼろぼろのバンテージと、それに包まれたぼろぼろの筋肉が悲鳴をあげている音だ。
ここまで痛めつけられてなお、その闘志は衰えず。
軽口をたたけるほどに、呼気は乱れていない。
たったこれだけの立ち合いで、両手の指では足りないほどに死線をくぐる羽目になっていながら、まるで楽しいゲームをしているかのような余裕の表情。
「どうしたよ……来ないなら、こっちから行くぜ!?」
こいつが嘘つきで、この余裕がお得意の『嘘』だというのならば、まったくたいした演技力だ。
アカデミー賞でもなんでも獲り放題だろう。
だが……、ありえない。
こいつにとって、この状況はピンチでも何でもない。
余裕なのだ。
それこそ、罰ゲームの執行をしているだけ……!
「らぁあぁああッ!」
「く……!」
斜めに踏み込み、繰り出される稚拙な拳打を横へ流すと同時に無防備な顔面めがけ逆突きを叩き込む。
これだけでも、まともに直撃すれば致命傷は免れない!
……が。
「はっはあ!」
小僧は嗤いながら瞬間的に身を起こし、拳打とは逆の腕を眼前にかざす。
がつん、と骨と肉が激突する鈍い音。
ガードの上からであろうが、そのまま振り抜くことで小僧の軽い体はなすすべもなく宙に浮く。
そこで一歩踏み込み、ドテッ腹に寸打を打ち込めば内臓を砕くのはわけもない……のだが。
まるでその運命を知っているかのように、小僧は吹き飛びながらも足を蹴り出し、踏み込もうとしたこちらの態勢をわずかに崩す。
「チ……!」
まただ。間合いを外された。
もはや偶然などとは全く思わない。
実力差は歴然だが、この小僧は『読んでいる』。
こちらの動きを、全部読んでいるのだ。
それこそゲームの盤上、チェスか何かとと同じように。
転がった小僧が地面を叩いて立ち上がる。
「へっ……タフだな、小僧ぉ……!」
思えば、こいつの攻撃手段が馬鹿の一つ覚えな拳での突撃というのも、それが理由なのかもしれない。
最初の一手を限定することで、こちらの対応もまた限られた数手に限定される。
その攻防のパターンの中、どれで反撃するかを瞬時に読みとって、もっともダメージの少ない受け方をすることでこのタフさを演出しているのだ。
ここまで来れば、そうとしか考えられない。
百の戦場に対応するために千の技を修練しても、この場で生きるのはせいぜい十か二十。
対して小僧は、最初の一を突き詰め、そこから派生する十をもって俺のこの場での全力に対応している。
経験不足、技の未熟をそんな形で補っているのだ。
突き崩す糸口はある。
あるが……納得はいかない。
確かに、腰で飾りとなっているデッドウェイトのどれかを手にしたなら、この小僧を仕留めるのは容易だ。
だが、それでいいのかと自問する。
赤坂相手なら納得もいくが、目の前の小僧相手に『抜く』のは……その時点で、既に『敗北』を意味するように思う。
くだらないプライドだ。
この場は既に、戦場。
どんなに狩りに近くとも、そこに命のやりとりがあるなら俺にとっては戦場だというのに……。
これが、ただの喧嘩であるかのように思い始めている。
「へッ……そろそろ殴り疲れてねぇか、オッサン? 最初の半分も効かないぜ!?」
満身創痍の子供が、まだ嗤っている。
ああ、疲れたさ。
そんなことは自分でもわかってる。
動きが鈍くなっているのは、小僧ばかりじゃない。
連続して動けば動くほど、迎撃を強いられれば強いられるほど、こちらの呼吸もまた乱れ、体力を消耗する。
追い撃ちらしい追い撃ちを仕掛けられなくなっているのはとっくに気づいている。
大きなダメージは当然、受けていない。
あの馬鹿の一つ覚えの特攻が直撃すればそれなりにデカいのは実体験済みだったが、今回はせいぜいガードの上から喰らったのが二、三発。
それでも疲労が身体を蝕むのにはわけがあった。
まず一つ、徒手格闘というのは長期戦に向かない。
動きの激しさはもちろんだが、『殴り続ける』というのがどういうことかわからないほど俺も素人ではない。
一撃ごとに、反動は我が身に返ってくる。
だからこそ拳を鍛え、技を練ることでより深く相手に衝撃を伝えようとするのだが、反動をゼロにはできない。
素拳で肉や骨を殴れば、少なからぬダメージがある。
威力の大きい足技は、重心を支える軸足の負担が大きい。
接近戦で武器を使って戦うほうが合理的なのは、リーチや威力だけではなく、そういう理由もあるのだ。
その点では、バンテージで拳を保護している小僧の選択は正しいといえば正しいだろう。
さらに忌々しいことに……筋肉というのは、重い。
鍛えることで得た筋力は、蓄えられたエネルギーが減れば減るほどに威力を失い、余計なウェイトへと変じる。
結果、消耗は徐々に激しくなる……ということだ。
そしてもう一つ、事実上大局では負けているということ。
これは本来、意義のない……無駄な喧嘩なのだ。
勝っても益はない。
目の前の小僧を殴り殺したところで、罪状がひとつ追加されるだけで、なにも報われることがない。
その膨大な徒労感が、身体を重く感じさせている。
「けっ……」
……なんのことはない。
負けてもいい理由を探してるのは、俺だ。
心が折れかけているのは、こっちのほうだということ。
今こそわかった。
鷹野が言った、ここ一番で怖いのは前原圭一だという言葉の真意が。
こいつは、常識が通じない。
さらには、道理が通じない。
俺が小僧に、いや、ここにいる全員に見せてやろうとした説教くさい『現実』など、あまりにも無力だった。
この男は、屈服しないのだ。
厳しい現実の前に膝をつくほどに、賢くないのだ。
かつてそれに立ち向かい屈服した小利口な誰かのように、現実のモノサシに自分を合わせることをしない。
気に入らない現実なら、屈しないことで『嘘』に変える。
そして自分がこうと決めた『嘘』に、世界をも従わせる。
自分が折れないことで、世界のほうを曲げてしまう。
ならばそれは、唯一にして絶対の『真実』……!
「……認めねぇよ。認めてたまるかよ……」
否定を口にしながら、それでもこらえきれない。
あとからあとから、喉の奥にあふれてくるなにかを。
吐き気がするのも間違いないが、そのなにかが『笑い』だと知って、余計に可笑しくなる。
そうだ、認めるな。
確かに俺は負け犬で、現実ってやつに屈服した。
だが、そいつが自分の無力だったと認めるな。
証明するのは簡単だ。
嘘よりも現実のほうが強固だと示すだけでいい。
いまならば、神さえもこちら側につくだろう。
なにしろ相手は、世界を敵に回した反逆者なのだ。
だから叫べ、冷厳な現実を宣告しろ。
「ブチ殺してやるぜ、『前原圭一』!」
そして小僧の受け手は決まっている、ただひとつ。
「やってみろッ!」
そう、反逆を叫ぶことしか知らないのだから。
<雑談>
嗚呼、もはや何も言うまい。
語るべき言葉、ここにあらz(ry
神楽舞完結後、次に読みたい作品は?
-
神楽舞、お疲れ様会もやってほしい
-
ひぐらし短編集
-
ひぐらし連載、長編もの(圭羽、梨圭など)