小此木の動きが、加速する。
それはまるで、圭ちゃんが自分の攻撃を先読みするなら、読むよりも速く殴り倒してしまおうというかのように。
間合いの外からの前蹴り、とみせかけてその足を素早く降ろして距離を詰め、腹への蹴りを意識して下がったガードを回避するかのような顔面へのフック。
「おおッ!」
が、圭ちゃんはその狙いが見えている。
上段のガードを固めてそのフックを防ぎ、さらに叩きつけられる逆の拳をも受け止める。
火花が散るような連撃を浴びせて、小此木はなおも詰める。
ガードの上から重い肘、さらにその腕を伸ばして大振りの裏拳に変え、ガードを回り込むように圭ちゃんのこめかみを襲う。
「おぉお……ッ!」
でも、肘の次にそれが来ることは読めていたのだろう、圭ちゃんは肘を受けきった直後に腰を落としたので裏拳はその頭上を抜ける。
が、小此木も甘くない。
その二段攻撃の逆で構えていた拳はすでに腰だめに構えられ、身を低くした圭ちゃんの顔面へと襲いかかる。
「グッ……!」
それでも圭ちゃんは鉄壁のガードを崩さぬままその威力を浴びて体が浮いた。
瞬間、小此木の顔にしてやったりという笑みが浮かび、逆に圭ちゃんの表情にかすかな焦りが混じる。
連撃は、圭ちゃんを浮かせるその一瞬のためのものだった。
レナほどのボディコントロールがあればともかく、圭ちゃんに空中で守りを固めろというのはあまりに無理な注文だ。
もちろん空中といっても、その滞空時間は半秒にも満たないし、わずか数cm地面から足が離れただけのこと。
でも、小此木ほどの猛者ならばその半秒で次の攻撃を放つことは可能だし、圭ちゃんにそれに対する回避動作を行うための足場がないのはあまりにも不利……!
「破ぁッ!」
踏み込みざまにガードをくぐり抜けて顔面を撃つ、神速の順突。
逆突に比べれば威力は落ちるが、顔面への直撃は大きな痛手。
さらにその手を横に払ってガードを弾き、もう一歩踏み込みながら再度肘を叩きつける。
「ぐぅうッ……!」
鳩尾には決まらなかったが、胸を打たれて圭ちゃんが大きくのけぞる。
そこへさらに、逆の拳を振りかぶってがら空きとなったボディを打ちに行く小此木……だが、やっぱり読んでる。
残った片腕のガードを下げ、ボディへの直撃を防ぐ。
「ち……こいつはどうだ!」
その場で地面を蹴り、跳びながらの強烈な蹴り。
それは顔面に突き刺さるかに見えた、が。
「うぉおッ!」
さっき弾かれたガードを無理矢理顔の前にかざし、これも直撃を阻んでいた。
身体ごと後に吹き飛び、地面を転がるが……すぐに身体を起こし、小此木の追撃を許さない……!
レナの言うのが本当だとすれば、圭ちゃんの思考速度というのは確かに大きな武器、いや防具になっている。
たった数秒の間に驚異的な速度であれだけの打撃を立て続けに叩き込んだ小此木もただ者ではないが、それを受けてなお、まだ立ち上がれる程度のダメージで凌ぎきった圭ちゃんを称賛すべき場面だろう。
「……倒れねぇなぁ、おい。いまのは、絶対に決まったと思ったんだがな……」
すこしばかり自信を喪失した、と言いたげに汗を拭う。
「へっ……息が、上がってるぜ、オッサン……!」
圭ちゃんの言うとおり、小此木のほうもだいぶ動きに粗がでて来ている。
小此木は圭ちゃんからろくな直撃を浴びていないのに、予想以上にしぶとい圭ちゃんを倒そうと多くの手数を使わせられ、疲労がもう限界近くに達している。
このまま、蓄積したダメージが圭ちゃんの限界を超えれば小此木の勝ち。
レナの言うとおり、圭ちゃんがそれをしのいで逆転の策を思いつき、実行に移せるなら圭ちゃんの勝ちもあり得る。
……この戦いが始まる前なら、それは一対百でもまだ足りないほどのごくわずかな勝機だっただろう。
でも、今は……五分とは言わないまでも、三対七くらいで圭ちゃんにも勝ち目がでてきたんじゃないだろうか。
「いいえ、お姉。圭ちゃんは勝つんです。それは確率とかそんなんじゃなく……圭ちゃんだから、勝ちます」
私の考えていることがわかったのか、詩音が戦いから目をそらさないままでそう言った。
でも、詩音の手はかすかに震えていて……絶対というほどには自分の言葉を信じきれないのがわかる。
「……そうだね。詩音。圭ちゃんは、勝つよ」
詩音が圭ちゃんと過ごした一年という時間を、私は一緒にいられなかった。
だから知るはずもないけれど、何故か納得できる気がした。
三割の勝機がたとえその十分の一だったとしても、圭ちゃんはそれを躊躇い無くもぎ取りに行く男だ。
根性で勝ってるとかカビの生えた精神論じゃなくて、勝たなきゃいけない勝負なら、味方を増やし、ズルとイカサマを駆使して、なにがなんでも勝ちにいく……そういう種類の諦めの悪さ。
まったく、こんなに面白いヤツなら最初に言ってほしい。
そうすりゃわたしも、最初から歓迎しただろうに。
……まぁ、それは言うまい。
圭ちゃんを好きになったのはわたしじゃなくて詩音。
わたしが好きになったのは圭ちゃんじゃなくて衛さん。
IFとしては面白いかもしれないが、それはもう動かせない真実で、詩音に詩音の未来があるように、わたしには衛さんや美雪ちゃんと過ごす大切な未来が待っている。
それは何ものにも換えられないし、誰に換えろと言われてもお断りする。
だからわたしにできるのは、可愛い妹を応援することだけ。
その恋が、詩音にとってしあわせなものであるように。
「圭ちゃん……っ」
無意識に震えている詩音の手に、自分の手をそっと重ねた。
「……絶対、大丈夫。部長、園崎魅音が保証する!」
詩音の手を握りしめて、私は祈る。
いつかどこかで世界が違っていたら、ひょっとすると私が好きになっていたのかもしれない男の子の勝利を。
* * *
「っぐ……」
俺は蹴りのダメージを相殺するフリをしながら、それに必要な分よりも二歩ほど多く後退する。
小此木も、たび重なる疲労と全力で動いたことによる一時的な酸欠状態が酷くて、追いかけてはこなかった。
「……倒れねぇなぁ、おい。いまのは、絶対に決まったと思ったんだがな……」
汗を拭いながら息を調えるが、疲労は明らか。
「へっ……息が、上がってるぜ、オッサン……!」
へらず口を叩きながら、助走距離を眼で計る。
……ひとつ、思いついた手がある。
それを最後までやりきるには大きな困難と、少々の犠牲が必要になるとはわかっていた。
でも、犠牲などいまさらだ。
この命は、削れるだけ削ると決めている。
あとは俺に、それをキッチリやりきるだけの体力が残っているかどうかだけ、か……。
……考えるまでもねぇ。
「ああ、そうさ。そうだよな。やるしかねぇよなッ!」
身を切るように咆哮し、両の拳を固めて……駆ける。
一歩、二歩、三歩……地面が流れるたびに、小此木の野郎が近くなっていき、迎撃の構えをとるのが見える。
俺のそれが、もう何度も仕掛けられた『馬鹿の一つ覚え』の特攻であることを見抜くと、よりリーチのある拳でカウンターを返すべく拳を振りかぶった。
ああ、そうだよな。そう来ると思ったぜ……!
疲労は、なによりもまず足に来る。
必然、疲れれば疲れるほど、小此木が蹴りを攻撃に交える数が減っている。
だからここで来るのは、絶対に拳だと思っていた。
「……らぁああッ!」
叫びとともに、一歩早くその場に停止して拳を振るう。
「な……!?」
小此木の目が見開かれる。
だが、……もう遅ぇえッ!
一歩早いということは、身体の体勢が左右逆になるということだ。つまり……振りかぶる拳も、逆ッ!
小此木の振るった右拳を、俺の左拳が……迎え撃つ!
狙ったのは拳だ、リーチは関係ない……!
「が、ぁあぁああッ!?」
空中で二つの拳が衝突し、互いが互いを破壊した。
それはもはや、爆発音。
伸ばした腕を通じて、骨の砕ける音が全身を駆けめぐる。
まるで雷に打たれたように、その痛撃に立ち尽くす。
……そして、その痛みを一度経験し、さらにはこの結果を予測していた俺の方が、そこから立ち直るのは早かった。
「……あぁ痛ぇええッ!」
互いに倒れる寸前で踏みとどまった、至近距離。
拳を振りかぶる時間はない。
ならば一動作で、最大の威力を……!
地面を蹴り、再び小此木の顔面に頭突きを叩きつける。
……頭蓋を突き抜ける衝撃!
骨に響くが、それは小此木も同じのはず!
「ぐ……!」
右拳を砕かれ、顔面を打たれ……小此木が一瞬、がくんと膝をつきそうになる、が……!
「おぉおおっ!」
俺を突き放すかのように、ショートレンジの左フックが腹を襲って……文字通りに吹き飛び、石畳を転がる。
そのたびに、砕けた左拳がきりきりと脳を捻り潰すような激痛を伝えてくるが……それも、あえて、無視!
無視して、倒れたままで、笑う。
「く……は、ははは……! ざまぁねぇぜ……!」
小此木の利き腕は右らしい。
右拳を潰されれば、格闘家としては大きな痛手だろう。
俺のほうは左拳だし、知ったこっちゃねぇ。
別に格闘家になるつもりはないし、どうでもいい。
いまの腹への一撃でシェイクされて、口から飛び出そうな内臓もどうでもいい。
あぁ、全部無視だ……!
「ぐ……が……この、ガキがッ……!」
右腕を押さえて震える小此木。
目を血走らせ、いまにも泡を吹きそうな形相だ。
あぁそういや、こっちはバンテージに、しかも指には針金を巻いた簡易ナックルまで仕込んであるんだっけ。
その上でこっちの拳も潰れてるんだ、いくらパンチの威力に差があっても、こりゃ粉砕骨折は免れないか……?
「くっくっく……ガキを、舐めるからそうなる……!」
どうにか、右腕一本で身体を起こす。
そのまま立ち上がろうとしたが、
「あぁそうだなッ!」
脂汗を流していたはずの小此木が、一瞬にして駆け寄ってきて思い切り顔面に蹴りを入れてくれたので、なすすべもなくそのまま後に倒れるしかなかった。
「ぐ、ぐぐ……! やって、くれる……ぜ……!」
走って、蹴ったら、さらに骨に響くだろうに。
いまさらそんな気の抜けた蹴りじゃ、届かねぇ。
俺の命には、全然届いてないぜ……!
転がって距離をとるが、小此木は追わない。
痛みに耐えるだけで必死なのだ。
「顔色悪いぜオッサン……、頭痛持ちか?」
だからこっちは笑ってみせる。
まだまだ戦えると宣言する。
「ぐ、ぅ……そこまでして潰されてぇか、小僧……!」。
小此木は青い顔をして荒い息を吐きながら、それでもこの喧嘩を続行するつもりのようだった。
……そうこなくっちゃなあ……。
最後まで、やりきらなくちゃな……!?
のろのろと、もう一度身体を起こそうとする。
左の拳に限らない。
骨も、肉も、この数日の戦いに悲鳴をあげていた。
うるさい、黙れ。
限界を超えたことなど、もうとっくに知っている。
でも、終わってねぇ……!
目の前の男をブン殴るまでは、なにも終わってないんだ。
顔面に一発、いいのをくれてやるまでは……!
「圭一ぃぃぃいっ!」
境内に響き渡ったのは、巫女の声。
祀られた社の神の代弁者であり、生まれ変わりでもある、古手の巫女が……泣いていた。
「もういいのです、圭一! あなたはあなたのままで! もう嘘をつく必要なんてない、あなたは前原圭一です!」
叫びが、緩やかに白みはじめた空を切り裂く。
「……奇跡はもう、起きました! 圭一が起こしてくれたのです! これ以上あなたが身体を張っても、その先にはなにもないのですよ!」
悲痛で、切実で、もう取り返しのつかないなにかを、それでも諦めきれずに呼び戻そうとする……そんな声だった。
もう、終わってる……?
奇跡は起きた……?
* * *
「間違ってるぜ、羽入……っ!」
彼が、また立ち上がる。
血にまみれ、全身を軋ませ、肉をひきずり、……立つ。
その瞳は、死んでいない。
死にゆく者の瞳ではなく、だからつまり。
『今』という一瞬を、全力で生きている……!
「 この世に、奇跡なんて『無い』 」
圭一は否定する。
僕が世界に生み出した必然という名の奇跡、何者をも寄せ付けぬただひとつを選び出して、その一を百にする奇跡。
ただひとつのカケラを、全身全霊で、否定する!
「 現実のどこを探しても『無い』……! 」
それは救いなどないという、死の宣告。
運命をどれほどにねじ曲げようとも、救われぬものは救われない、理想の世界など儚く砕け散るという強固な現実。
でも、彼の瞳は死んでいない。
この瞬間、その冷酷にして非情な現実を目前にして、奇跡など起きないと知りながら、それでも彼は足掻くのだ。
「そうさ、どこにも『無い』から……可能性はゼロだからほかの誰かじゃなく、俺が必要なんじゃないか……」
足掻き続ける限り、世界にすら屈しない。
それこそが不屈。
彼の言う、唯一絶対の不屈……!
「 無いなら『創』ってやる、この手で! 」
それが、きっと、彼の役割。
出口のない惨劇の世界、救われる可能性がゼロである世界だからこそ、ゼロから一を生み出すにはペテン師が要る。
臆面もなく途方もない嘘をつき、その嘘を唯一絶対の真実なのだと証明し続けて、世界さえも騙しきる魔術師が。
証明する方法は、たったひとつ。
命を削り続け、それでも決して斃れないという真実。
「 止まらねぇ、終わらねぇ、終わらせねえッ! 」
ここで拳を下ろせば、それは彼の命を救うかもしれない。
でも、彼の『嘘』はそこで死ぬ。
もう二度と蘇らない、今度こそ可能性はゼロになる。
だから死ぬまで、前原圭一はその拳を下げることはない。
死なない人間はいない。
でも、圭一はそれを否定しているのだ。
証明不能の難題を、死なないことで『証明』する。
「 止まれるかよ、死んでもだ……! 」
何度でも言おう。
死なない人間はいない。
その命においても、魂においても、人は必ず『死』ぬ。
宗教家が語る魂の不滅など、神さえも知らない。
死を迎えれば、意識は無へと還るのみ。
冷たい骸は、土へ還るか。煙と消えるか。
残酷なようだが、それだけだ。
人の世において、英雄と呼ばれた者たちも同じ。
彼らの生に、そして死に意味を見出すことこそが無意味。
それはただ降り積もる歴史へと埋もれた無価値な塵芥。
…………でも。
彼らが遺した確かなものが、たったひとつある。
それは彼らの生き様、その生涯が綴る『物語』だ。
物語は、語る。
彼らが自らの旗に宿した、常人の秤を超える大望を。
その夢に追い立てられるように駆け抜けた波乱の軌跡を。
時には輝かしい栄光を、時には無惨な敗走を。
裏切られた悲痛の叫びを、掴めなかったささやかな恋を。
世の人々は語り継ぎ、その物語に心を躍らせる。
受け継がれる物語は、人の心に落ちた一滴の雫。
それでも……そのたったひとしずくがときに巌をも穿ち、ときには激流へと変わり、歴史を紡ぐ。
心の堰を破るのは、いつだってそんなひとしずく。
そして激流ははやがて大海へと注ぎ、ほんのすこしだけ海の色を変えるのだ。
……そうやって、人の世は変わってきた。
まだまだ不足だと言う者もいるだろう。
無駄な努力だと誰かが嗤うだろう。
理想にはほど遠いと嘆く声もあるだろう。
しかし……、それでも人はすこしずつ、変わっている。
百年の昔よりも、千年の古えよりも……。
ひとしずくだけ、やさしく。
ひとしずくだけ、つよく。
たったひとしずくの願いが、祈りが、世界を変えていく。
たぶんそれが……『物語を遺す』のが、英雄の役割。
それを圭一は、誰に教わったのでもなく理解している。
自分の演ずる『前原圭一』の物語の結末を。
それは無残で、悲壮で、蒙昧な覚悟。
ここで死すとも……『前原圭一』は不滅となるのだと。
だって、『物語』は……死なない。
それが受け継がれ、人の心を揺さぶり続ける限り、物語は絶対に死なないのだから……!
「でも……」
思わず言葉に出てしまっていた。
「それなら」
わかっている。これはただの我が侭。
「それなら、僕の圭一はどうなるのですか……!」
でもその我が侭こそが……僕の願いなのだから。
圭一の背中は、揺るがない。
振り向かない彼が、笑っているのか、泣いているのか。
英雄でいてほしい。
嘘をつき続けてほしい。
そう言って彼を打ちのめした僕の、身勝手な言い分だ。
今になってただの圭一を望むだなんて、傲慢でしかない。
「僕には、僕たちには……っ!」
「わかってる」
乾いた声だった。
だから直感する。これは、
「 心配するな、羽入。俺は『死なない』 」
……嘘、だ。
喘ぐように伸ばしかけた指先が、空を掴む。
僕の返事を待たずに、圭一は地を蹴っていた。
「……ブチ貫けぇぇええッッ!」
身を切るような咆哮とともに、疾走する背中。
それを見ながら、躓いて……がくんと膝が落ちる。
「あ……ぅ」
言葉にならない、悲痛。
だって。
圭一は……今、『本当に』嘘をついた。
前に進むための嘘ではない。
ただ優しさから出ただけの……狡くて、卑怯な嘘を。
「けぃいち……っ!」
歪んだ視界の中で……、世界の時が、針を止める。
激突した二人が、爆発するような血飛沫の中で静止する。
あまりにも絶望的な一瞬。
圭一の右拳が振り抜かれる前に、小此木の突きだした左の突きが圭一の顔面に届いていた。
それは無慈悲な、そして当然の結果。
……小此木の顔に、返り血が散っていた。
* * *
「……ブチ貫けぇぇええッッ!」
小僧が、何度目かわからない突撃を敢行する。
それが最後の一撃なのだと、直感でわかる。
小僧自身にも、俺にも、それ以上戦う余力はない。
ならば、迎え撃つ。
勝って終わる。
残った左の拳でも、小僧を撃ち抜くには充分。
完膚無きまでにその顔面を破壊して、完全な敗北とともにこの生意気な反逆者を葬ってやるべきだと。
それだけを考え、最後の余力を振り絞りながら……、
俺はどこかで、頭の片隅で、わずかに竦んでいたのかもしれなかった。
さっきの再現だけは、御免だと。
だから、激突すればその悪夢を再び招きかねない全力の拳ではなく、……左の、貫手を放っていた。
小僧の見開いた目、右の瞳にその一本貫手が吸い込まれていき、眼球を押し潰し、眼窩の奥の奥、視神経までを情け容赦なくえぐり、引きちぎる。
返り血を浴びながら、思ったのは。
……これで終われる。
眼を抉られる激痛に、このガキは悲鳴をあげてのたうちまわり、あるいはその痛みに耐えきれず、死ぬ。
戦場でそういう死に方をしたヤツに覚えがある。
だからきっと、このガキも……、
誰が?
この、何者にも屈しない反逆者が、痛みに屈する?
終わるわけがないと、自分で叫んでいただろうに……!
瞬間、ぞくりと全身に悪寒が走り抜けた。
……笑っている。
眼を抉られながら、小僧は歯を剥き出して、笑っていた。
それも思い通り。
計算通りに、『逃げ』たな……と!
その笑みで悟る。
右の拳を相討ちで潰すのは、この小僧にとって布石。
本当の狙いは、残り一つの拳を潰されないために、俺が、無意識に『逃げ』を打つことにあった……!?
小僧は自らの拳を代償とし、俺が『逃げる』、いや、『屈する』一瞬を創りだした……!
血を撒き散らしながらの、凄絶な、獣のような笑み。
その笑みに俺が圧倒された一瞬で、小僧は眼窩を抉られる痛みなど笑い飛ばしたまま、踏み込む。
小僧は笑ったままで、唇が動いたわけもないのに。
残った眼と、歪んだ笑みが、……言っていた。
『 か く ご を き め ろ 』
そしてスローモーションの世界で伸びてきた、全身全霊をこめた右の拳が……俺の顔面に叩きつけられる。
直感的な、いや、本能的な確信。
狂ってやがる……!
眼を抉られてなお、一瞬さえスピードを緩めずに振り抜かれた拳の威力に吹き飛ばされながら、それを認識する。
この、たった一撃のために、自分の拳も、眼も捨てた。
それはまさに、……理解の外からくる一撃。
利害も保身も恩讐もなく、眼前の最悪を打ち砕く。
逃げることも屈することもなく、ただ全てを貫く。
かつて誰かが望み、そして得られなかった……、
理想だった。
『あんたはどうだよ? どれだけの笑顔を思い出せる?』
どうして、強くなりたいと願ったのか……?
砕け散る意識が、かすかに苦い。
……馬鹿が。
そんなもん、覚えてねぇっての…………。
* * *
圭一さんの拳が小此木の顔面を捉えて、まるで引き剥がすかのように突き飛ばす。
なにが起きたのか、一瞬わからなくなる。
小此木の攻撃が圭一さんを捉えるほうが、絶対に早かったのに……逆に吹き飛んだのは、小此木のほうだった。
これまでどおりなら、小此木の攻撃が決まれば圭一さんが吹き飛ぶはずだった。
あの人の攻撃には、それだけの威力が、重さがある。
なのに、今回に限ってはその力がなく。
しかも圭一さんの攻撃を受けて、踏みとどまることもなく吹き飛んで倒れ、ぴくりとも動かない。
その鼻はひしゃげ、完全に白目を剥いていて、二度と立ち上がるようには思えない。
痙攣するその左手、指先が真っ赤に染まっていて……。
ぽたりと、同じ赤が、石畳に落ちる。
「……終わった、ぜ……」
大きく息を吐きながら……圭一さんが振り向く。
感情の抜け落ちた顔。
もともと真っ赤に染まっていたその顔の右半分が、黒い。
いや……あれは……、あれは……!?
「圭一くん……!」
レナさんが、
「圭ちゃんっ……!」
詩音さんが、
「……けいいちっ……!」
梨花が、
「あぁぁあああっ……!」
羽入さんが、
「圭一さん……っ!」
そして三四さんも、傷めた足を引きずり駆け寄っていく。
その誰もが辿り着く前に、圭一さんは、ぐらりと倒れる。
固めた右拳を空に伸ばしたまま、地面に落ちた。
それはまるで……いままで決して手の届かなかった何かを、たったいま掴み取ったとでも言うように。
「け、圭一さん……!」
よろめき、へたりこみそうになった私を、隣のにーにーが支えてくれた。
「に、にーにー……圭一さんが、圭一さんの……眼が!」
そう、あれは、『孔』だ。
眼球を抉られた、その痕が……黒い孔になっていたのだ。
失われた。
もう、二度と戻らない。
それは、いまの圭一さんを象徴しているような……大きすぎる損失だった。
「……圭一は、勝ったんだ。それだけだよ」
にーにーは、ただそれだけのことだと言いながら、それでも泣いていた。
涙を拭うこともせず、泣いていた。
圭一さんが勝利のために支払わねばならなかった代償に、それを助ける力がなかった自分の無力に、泣いていた。
「こんな……、こんなのって……!」
魅音さんも、くずおれて泣く。
たぶん、これが……奇跡などない、ということ。
なんの犠牲も、代償もなく迎えられる、誰もが笑える理想のハッピーエンドなど、この世にはない。
誰かが身を削り、心を削って、それでようやく、いくつかの笑顔を守ることができる。
それでも……、完璧ではないからといって、それに価値がないわけじゃない。
いや、誰かが犠牲を払ったからこそ、より美しく、そしてこれからも守り続けていく価値があるのだと……。
ようやくその役目を終えて地面に落ちた圭一さんの拳が、そう語っているように思えた。
やっとその場に辿り着いた羽入さんたちが圭一さんを囲んで揺さぶり、それを制止した三四さんがお医者様らしい手際で怪我の状態を確かめてゆく。
鳥居の向こう、山あいに白い朝日が顔を出して、古手神社の境内が黄金の輝きに包まれてゆく。
……それがきっと、夜の終わり。
そして、新しい朝の始まりなのだと……言葉にしてみればあまりにも当たり前のことを思う。
「……あぁ……」
気が付けばもう、ひぐらしはないていなかった。
* * *
圭一さんの状態は、あまりよくなかった。
詩音ちゃんたちにはすぐに治療すれば大丈夫と請け合ったものの、この数日の間山狗に追われて度重なる負傷を負いながらたいした治療も受けられず、とどめにあの小此木と死闘を演じて、何度も臓器まで届く衝撃を受けている。
可能ならばすぐにいくつかの傷に施術して、集中治療室に隔離して絶対安静を勧めたいところだ。
もっとも、このぼろぼろの身体では長時間の手術に耐えられるかどうかさえも怪しい……。
自分の身体がとっくに限界を迎えていることを、彼自身はきっと気づいていたのだと思う。
そうでなければ、人間にとって大きな意味を持つ『手』や『眼』をあんなにもあっさりと投げ出せるわけがない。
でも……絶対に助けてみせる……!
そう決意して、町内会の人たちに担架を持ってくるようにお願いしようとしたけど、赤坂刑事に呼び止められた。
「鷹野三佐。……いますぐでなくていいです、あとで今回の件についてお話を聞かせていただいてもいいですか?」
彼の後には、すでに投降して手錠をかけられた山狗たちと気を失ったままの小此木がいる。
……当然だろう。
最後で裏切ったとはいっても、私は実質的な山狗の指揮官だったのだから、罪に問われるのは自然なことだ。
話次第では、沙都子ちゃんや皆と何年か離ればなれになることも覚悟しなくてはいけないかもしれない。
でも、それはきっと必要な時間なのだろう……。
自分を無理矢理に納得させて頷こうとしたとき、すっ、と私の前に……遮るように立つ影があった。
「圭一っ!」
梨花ちゃんたちの悲鳴で、その背中が圭一さんのものだと気づく。
「……行かせ、ないぜ」
明らかに意識が混濁しているとわかる、朦朧とした声。
「な……」
満身創痍で立った圭一さんに、赤坂刑事がすこし慌てる。
「ま、待ってくれ。別にいますぐ彼女をどうこうしようというわけじゃない」
赤坂刑事の言葉は、届いていないようだった。
「鷹野さん、は……俺、たちの……仲間、だ」
目の前で、右の拳が握りしめられ、それがゆっくりと肩の高さに押し上げられる。
そしてぎりぎりと、引き絞るような音……。
「邪魔、するなら……誰で、あろうが……ッ!」
こんなになってまでも、ただ仲間を守ろうと立ち上がる。
それはきっと、彼が彼自身に課した呪いのようなもの。
『前原圭一はこうあらねばならない』、という誓約。
……終わっては、いないのだ。
すくなくとも彼の中では、終わっていない。
仲間と決めた誰かに降りかかる困難や災厄があるのなら、彼はまたその拳を振るい、どんな代償でも支払うのだ。
そうあり続け、それを証明することが、彼の『嘘』であり『本当』に変えるということだから。
わたしは立ち上がり、彼を背中から抱きしめる。
「……もういいのよ。圭一さん」
彼は答えない。
もう意識がないのかもしれない。
「わたしは、大丈夫だから。……本当よ?」
肩越しに、ゆっくりと振り向く。
……彼の残った左目が、力無いまま私を見つめていた。
そしてわたしの顔に、笑みを見つけて。
……『あぁ』、『よかった』と。
とても幸せそうな笑顔を浮かべて、眼を閉じた。
それで意識が途切れたのだろう、糸が切れるように彼の身体から力が抜け、一気に重みがのしかかる。
あやうくもろともに倒れそうになるけど、レナちゃんや詩音ちゃんたちが二人まとめて支え、抱き留めてくれた。
しばらくその場には、小さな嗚咽だけが響く。
困り果てた様子の赤坂刑事に、ジロウさんが歩み寄った。
「彼女は、僕の協力者です。山狗の造反の可能性を伝えてくれて、事の黒幕を探るために内部情報の提供をお願いしていたんです。……ねっ、鷹野さん」
そう言って、不器用なウィンクを投げてくる。
泣き笑いのような、微妙な表情しか返せない自分が辛い。
「……そうでしたか。では、そのあたりは魅音と相談してもらっていいでしょうか。報告書を書くにあたって、彼女に情報の分析を頼んでいるので」
赤坂刑事がそう言って頷く。
魅音ちゃんに相談しろ、ということはつまり、たったいまジロウさんが思いついたばかりのカバーストーリーを魅音ちゃんと一緒にリアリティのあるものに仕上げろ、という意味なのだろう。
「私も協力しますよ。……もっとも私は、最初から最後までろくに裏を知らなかったわけですがね。ハッハッハ!」
入江所長もそう言いながら、わたしのかわりに町内会の人たちに担架の準備や車の手配をお願いしてくれる。
……まったく、嘘の下手な大人たちだ。私も含めて。
ここに、こんなに見事な『嘘』を描いて見せた子供たちがいるというのに……。
そっと、疲れ切って私の膝で眠る圭一さんの顔を覗く。
彼を助けよう。
絶対に助けよう。
そしてお祖父ちゃんの研究のためにわたしが殺した全ての人たちに、わたしが傷つけた全てのひとたちに償うためにも、これからを精一杯生きてみよう。
わたし自身が、しあわせだと思えるように。
代償などいらない、犠牲などいらない、ほんとうにみんなが楽しく笑って生きられる、そんな世界を探してみよう。
理想は、追い続けることに意義があるのだから。
そんな世界があることを、今度は私が証明しよう。
ちょっとした悪戯心とともに、彼の頬をちょんとつつく。
圭一さん。これでわたしが、負けたと思わないでね?
<雑談>
おしまい。
神楽舞完結後、次に読みたい作品は?
-
神楽舞、お疲れ様会もやってほしい
-
ひぐらし短編集
-
ひぐらし連載、長編もの(圭羽、梨圭など)