冷蔵庫の扉を開ける。
……ぜんぶ昨日のまま、ラップのかかった晩ご飯はそこにおさまっていた。
お父さんは、一晩中家に帰っていないということ。
こっちで仕事を探すといって毎日のように出かけるけど、昔の仕事仲間に会ったとかで飲み歩いているらしくて、帰ってこない日がすこしずつ多くなっている。
もうお父さんがいないと何も出来ない子供ではないけど、……でも、寂しいと思ってしまうのはいけないことなんだろうか。
駄目……、こんな漠然とした不安は、私に必要ない。
レナはもうお父さんを困らせたりしない、いい子でなければいけない。
れいなの“い”、“いらないもの”の“い”を捨ててレナになったんだから。
ひとつ深呼吸、鏡の前で上機嫌な顔を作る。エプロンをして、昨日のうちに下ごしらえをすませておいたお弁当を仕上げることにした。
お料理は、人の喜ぶ顔を見られるからいい。役に立っている、必要とされているという実感をもたらしてくれる。自分ひとりで食べることになるだろうこのお弁当に関して言えば……多少、憂鬱な味わいになってしまうことは否めないけど。
「でーきたっ♪」
お弁当が完成すると、いくつかの荷物と一緒にバッグに詰め込んで家を出た。
鼻歌交じりに自転車のペダルを漕いで、のんびりと目的地を目指す。
途中、近所のおばさんに会って、ちょっとだけ楽しい話を聞かされた。
「あぁそうそう、レナちゃん、“萌え”ってなぁんね? 圭一さん、夜中に“俺は、羽入萌えだぁあーッ!”ゆぅてねぇ……都会の言葉かい?」
よほど印象が強かったのか、圭一くんの口真似はよく似ていた。
「うーん……簡単に言うと羽入ちゃん大好きーっていう意味です」
本当のところは私も正確な意味は知らない。ただ、監督がメイドさん萌えって言ってるのを聞いたことがあって……たぶん、間違ってないよね?
「なぁん、告白ねぇ! わっきゃあモンは、えぇんねー!」
「あははは、そうかもしれないですねー!」
と二人で笑い合う。
圭一くんは、村の人たちの信仰の中心になっている羽入ちゃんの家に住んでいることでそれなりに注目を集めている。圭一“くん”じゃなくて、“さん”と呼ばれているのも……たぶん期待の現れなんだろう。
誰も口に出したがらないけど、去年、神主さんが死んじゃってオヤシロ様の信仰はいくぶん揺らいでいる。多少ダム戦争のことで不満があったとはいえ、村の人たちから尊敬もされていたし一番祟りに縁遠いはずの神主さんが祟られてしまった。
そこへ、予言の力を持つと噂される梨花ちゃんが東京で見つけてきた居候の圭一くんが登場。村の人たちとすれば圭一くんに将来の神主さん……要するに、羽入ちゃんか梨花ちゃんのお相手としての役割を期待するのは至極当然の成り行きなのだ。
梨花ちゃんはよくわからないけど、羽入ちゃんはまんざらでもなさそうだし……案外、そんな未来は本当に訪れるものなのかもしれない。
とりとめもなくそんなことをぼんやりと考えながら自転車を漕いでいたら、いつの間にかダム現場に着いていた。
「んしょっ……」
荷物を抱えて自転車を降りると、粗大ゴミの上を飛び移りながら奥へ奥へ。
魅ぃちゃんにこの場所を教えられてからしばらくここで宝探しをするうちに、容易には辿り着けない一番奥に、廃棄された古いワゴンを見つけたのだ。
内装もそんなに傷んでないし、ドアの開閉もスムーズに行える。もちろんもう一度走ることなんかできないけれど、私の目的にはどうでもいいことだった。
持ってきたバッグの中から出した掃除用具で車内を隅々まで綺麗にする。
それから使わなくなったシーツやお気に入りのクッションを持ち込んで、秘密のお部屋一丁あがり。
新しいお部屋の中を見渡す。……もうすこし可愛いものが欲しいかな。それに、お菓子とか……うん、暇を潰せるような本も持ってこようかな。
ここはレナのお部屋。
誰にも邪魔されない、誰も必要のない場所。
だからここにいる間は寂しくない、悲しくない……。
誰にも……“いらない”なんて、言われなくてすむんだ。
「……おべんと、食べよっと」
すこし疲れたのだろうか、楽しいフリさえするのも億劫で……無言のまま、味も素っ気もない食事をすませる。
お弁当箱を片づけた私は、クッションに頭を埋めて、身体を丸める。
手足を伸ばせるほどには広くないけれど、誰の気配もしない、かすかな風の音しかしないこの場所は快適だった。家にいるときの静寂とは違う。時計の針の音もしない。あの苛々する音がしない。誰かのため息も聞こえない。誰かに嫌われる、そんな心配をしなくてもいい。
安らかな気持ちで目を閉じて、しばらくまどろんでいた。
でも、……心がざわついてしまって目が醒める。
こんなことをしている間にも、悟史くんや沙都子ちゃんの限界は迫っているんじゃないかって落ち着かない気分になる。心が追い詰められる苦しさやつらさは、不幸なことに嫌と言うほど思い知っている私だから、二人になにかしてあげたくなる。
……でも、考えれば考えるほど、何も出来ないことに苛立つ。
日々の中で、友達として気遣ってあげることがせいいっぱいで、二人の境遇を改善するようなことは何もしてあげられない。
それができる力を持っているはずの魅ぃちゃんは、あれこれと言い訳を重ねるばかりで動かずにいる。立場が立場だからいろいろなしがらみがあるのはわからないでもないけど、そもそも二人を追い詰めるのに一役買っているのは魅ぃちゃんの園崎家だと知って呆れてしまった。その状況で何も手を打たないなら、生半可な同情を向ける魅ぃちゃんこそが二人を傷つけているのだということがなんでわからないのか。
……わかってる。
私たちは子供だ、まだ未熟で無力な存在。
村ぐるみの北条家への風当たりをひっくり返すようなことはできるはずがない。
児童相談所だって、私たちが何を言ったって手遅れになるまでは動いてくれないだろう。
そんな中で、魅ぃちゃんにだけ多くを要求するのは酷だとちゃんとわかっている。
だからあんな意地悪以上のことを言い募るつもりもない。
こうして今、時間を無駄にしている私に、魅ぃちゃんを責める資格があるわけない。
村に帰ってきてもう一ヶ月。
それだけの時間、私たちにできたのは部活や沙都子ちゃんと一緒にいることで周囲の冷たい視線から守る程度のことだけ。
魔法みたいな解決手段なんて、誰も持ち合わせてはいない……。
どれくらい時間が経ったのだろう、なにか予感がして私はごそごそと起き出した。音がしないようにそっとドアを開けて外に出ると、気配を殺しながらその場を離れる。
かすかな風の中に、誰かの声と……匂い、とでも言うのか。そんなものを感じた気がする。
せっかくできたばかりの隠れ家を誰かに知られるわけにはいかない。ゴミの陰を回り込んで、相手が誰かを確認しようと顔を出す。背格好で、すぐにそれが誰なのかわかった。
……圭一くん。
重たかった気持ちが、すこしだけ軽くなる。
クラスメイトであり、部活の仲間であるというだけの関係だけど、私は、彼には最初からどこか好感を覚えていたような気がする。自分でも彼のどこを気に入っているのかわかりかねているけど、それは大した問題じゃない。
一緒にいて楽しい気分になれる人、というだけでいまの私にとっては十分だった。
だからちょっとだけ浮ついた気分で、声をかけた。
「あーっ、圭一くーんっ!」
ぶんぶん、せいいっぱい手を振った。
レナは明るくて元気な女の子、そう言い聞かせながら。
こちらに気づいたらしい圭一くんは、同じように元気に手を振り返してくれた。
「おーう、レナ!」
親しみをこめた呼び方に、浮き立つ気持ちが大きくなる。
転校してきたばかりの頃に比べると、圭一くんはずいぶん明るい声を出すようになったと思う。たぶん、これが本来の彼なんだ。
ひらひらとゴミ山の足場を辿って彼のところへ向かう。
いちいち演技をしなくても、本当に気分がよくなる、だから彼のそばは好き。
ちょっと気取ったポーズで両足を揃えて圭一くんの前に着地したら、彼はなぜか顔を赤くして目をそらしていた。
どうしたんだろ?
すこし疑問に思ったけど、それよりも知りたいことがあったから質問した。
「圭一くん、羽入ちゃん萌えってホント!?」
「なんで知ってるんだっ!?」
こっちがびっくりするくらいの勢いで狼狽える圭一くんがちょっぴり可愛い。
「やっぱりホントなんだね! 今朝からみんな噂してたんだよ。だよ☆」
圭一くんの困った顔。別に困らせるのが好きなわけではないけど、素直な反応を返してくれることが嬉しかった。
……そう、圭一くんは素直なんだ。
だからレナって呼んでって言ったら、そう呼んでくれた。自分ではどれくらいひねくれているつもりなのか知らないけど、彼のくるくる変わる表情を見ているだけで内心まで見えてしまいそうなくらい。そういうところも、とても可愛い。
「レナもね、羽入ちゃん萌えだよ~。仲間だね、だね!」
そう言ったら、圭一くんは一瞬難しい顔をして、次に自分で自分にツッコミを入れた。それからちょっと目を閉じてなにかを思い浮かべる仕草。……あ、ちょっと顔が緩んできた。可愛い羽入ちゃんを思い出してるのかな。でも次の瞬間には深刻そうな、それでいてきりっとした顔つきになって、変なことを言い出した。
「すまん……俺は、レナと仲間にはなれないんだ」
ずきり。
そういう意味じゃないとわかっていても、胸の奥で軋むものがある。
「え……、どうしてかな、どうしてかな」
圭一くんは、レナがいらないの?
そんな我が儘な言葉が出そうになったけど、喉の奥で押しとどめる。
……レナは良い子だから、そんな我が儘は言わない。礼奈とは……違う。
私の葛藤も知らず、圭一くんはじっと私を見つめて言った。
「俺は……、レナ萌えでもあるからさ!」
思考が一瞬、停止する。
「……はぅ?」
数秒後、ようやく動き出した私の記憶回路は……、とんでもないものを再生した。
『うーん……簡単に言うと羽入ちゃん大好きーっていう意味です』
つまり、なに?
いま、圭一くんは……レナのこと大好きって……、えええええ!?
「は、はぅぅううッ!?……け、圭一くん、何を言ってるのかな、かなッ!?」
さっきとは違う意味で、胸の奥が騒々しくなった。
私が一番求めている言葉、誰かに言って欲しくてしかたなかった言葉。
でも、にわかには信じられない。
こんなに幸せな気持ちが、私の、竜宮礼奈の現実であるはずがない。
「ぅ、嘘だよね、嘘嘘嘘、絶対嘘だッ!」
だから否定する。拒絶する。
でもその裏で、本当であってほしいと思うから……ことさらに激しく、嘘つきな圭一くんを責め立てる。嘘じゃないって、それを言ってほしいから。
圭一くんは、不意に両手を伸ばして私の肩を掴んだ。
意外なくらい圭一くんの手は大きくて広くて……それに、あたたかい。
「嘘じゃない。レナはめちゃめちゃ可愛いぜ!」
破砕音。どこかでガラスでも割れたのかと思ったけど、そうじゃない。
「そ、そんなことないよ!」
必死でぶんぶんと首を振って、彼の言葉を嘘にしようとする。
「レナ、可愛くないよ。変な子だよ!」
窓に鉄格子のある病院で、ベッドに縛り付けられちゃうような変な子。
「俺は変な子、大好きだぞ!」
また、破砕音。記憶の底にしまいこまれた、あの悲鳴混じりの音とは違うことに気づく。
「圭一くんは知らないんだよ! レナ、危険人物だよ!」
仲のよかった同級生を殴って、大怪我させちゃうような危険人物。
「ちょっと危ういその魅力がラブリー!」
この破砕音は……きっと、私の心の奥にあるガラス窓がたてている。
「ほんとのレナを知らないからだよ、嫌いになるよっ!」
体の中で暴れ回る蛆虫を鎮めるために村に戻ってきただなんて、絶対に言えない。
嫌われる。絶対に嫌われる。気持ち悪いって思われるに決まってる。
「……たしかに、知らないな」
突然、圭一くんの表情がこれ以上ないくらい真剣なものになる。
私は魅入られたように、彼を見つめた。
絶対に開けないと決めて心の中に作り出した、嵌め殺しのガラス窓。
その向こうの景色は見えても、誰も私を傷つけられない。
悲しい自己防衛。
「だったら賭けようぜ。これから俺がレナをもっと好きになるか、それとも嫌いになるか」
圭一くんは挑戦的な笑みとともに、親指を立てて片目をつぶってみせる。
破砕音。
何重もの窓をことごとく叩き割って、彼は私の前に立っていた。
そして手を伸ばしてくれた。
外に連れ出してくれようとしている、こんな私を。
私自身が厳重に閉じこめてしまったのに、それを強引に打ち破って踏み込んでくる。
「もちろん俺は、好きになるほうに賭けるぜ!」
どこまで、強引で横暴で独善的で押しつけがましいんだろう。
そして、なんて素敵な男の子なんだろう。
「レナも、嫌われるほうに賭けるなんてイヤかな……」
そう、圭一くんに嫌われるなんて、考えるだけでもイヤだ。
彼に抱きついて泣き出してしまいそうな自分をどうにか抑えこんで、圭一くんからすこしだけ離れる。
忌まわしい蛆虫の巣になっていたはずの心臓が、忘れていた機能を思い出す。全身の隅々までに新鮮な血を行き渡らせ、汚らわしい虫たちと澱んだ気持ちを浄化してくれる。
あぁ、特効薬を見つけてしまった。
あんな気持ちの悪い不愉快な薬なんかもういらない。
雛見沢の澄んだ空気と、懐かしくて大切な友達。
そして、圭一くんの笑顔。
たったそれだけで、私はただの女の子に戻れる。
輝くような優しい気持ちを、取り戻せる。
きっと、圭一くんは……私にとっての魔法使いなんだ。
「あはは……。圭一くんは、やさしいね」
動悸、息切れ、目眩に微熱。その上、身体の奥の奥で見知らぬ甘い痺れが疼く。
そんな症状を引き起こすありふれた病の名を、私は考えるまでもなく知っていた。
恋患い。
降ってわいたその災難を、私はどこかで待ちわびていたのかもしれない。