知恵先生にすこし具合が悪いと言って、保健室に逃げ込んだ。
横になっても気分は晴れない。
圭ちゃんのあの言葉。
『お前、……ほんとに魅音か?』
本人にすればなにげない、ちょっとしたからかいのつもりだったのかもしれないけど……私にとっては、クリティカルに心をえぐる言葉だった。
短いスカートのほうが似合う、なんて言った理由は今にして思えば明白で、彼が言っているのは詩音のほうなのだ。圭ちゃんはあれも魅音、私だと思っているから、詩音のイメージならそちらのほうが似合うと思ってそう言ってくれただけなのだ。
それだけのくだらない理由だとわかっているのに……胸が痛い。
私が魅音にふさわしくない、その事実を突きつけられたようで。
やっぱり、詩音にこの鬼を返してしまいたいという思いに駆られる。
……あれ?
いままで考えたことはなかったが……できないことはないかもしれない。
私の背中の鬼を写真にとって、詩音はどこか別の土地で彫り物をしてくればいい。
あとは私が詩音として学園に戻って……あぁ、全寮制のお嬢様学校で背中に彫り物があるのはさすがにまずいかな。どこかでいったん火傷でもするのはどうだろう。
……いっそ、そのまま焼け死んでしまえばいい。
そんな結論に辿り着いてしまって、深々と息をついた。
どこまでいっても、私は甘ったれの詩音。いらないほうの詩音。
悟史や沙都子を助けたいと思っているのは本心だけど、そのための行動だって詩音に指示されるまま動いているだけで、それすら役に立っているかどうか怪しいものだ。
「悟史……」
ふと口をついて出た名前に、しまったと思う。
心が弱くなっている私にとって、それは強力な誘惑だった。
私があの日、園崎魅音にならず、園崎詩音のままだったなら……なにもかも、全てがうまくいっていたのではないか?
詩音なら、私よりもよほどうまく魅音をやって、沙都子たちを救ってくれたに違いない。
そして私は魅音ではないのだから、日陰者の詩音なのだから、悟史と付き合うことだってできたのかもしれない。
いまさらになって、詩音が悟史に向ける好意を腹立たしく思わなければいけない現状に比べたら、なんて幸せな世界だろう。
……そうだ。
私には、その逃げ道があるじゃないか。
間接的にではあっても、そのことを私に教えてくれた圭ちゃんには感謝してもいいかもしれない。
そう思うと、気持ちが一気に軽くなった。
頃合いを見計らって、保健室を出る。
それから授業に復帰して、放課後までをいつもどおりに過ごした。
これからは詩音のバイトのために姿を隠す時間。
魅音である必要がなくなる時間だ。
公衆電話から詩音に連絡を入れて、そのまま興宮に向かう。
詩音が出かけているのを確認して、合い鍵を貰ってある詩音の部屋に入った。
「……さすがにルチーアの制服はまずいよね。脱走中の身なんだからさ」
詩音の私服を漁って、適当に身につける。
……ったく、あいつはどうしてこう裾の短い服ばっかり。圭ちゃんのセンスは詩音に対しては的確だといっていいだろう。詩音が聞いたら、喜ぶだろうか、悩むだろうか?
それを想像したら、すこし笑える。
着替えを終えると部屋を出て……足が重いことに気づく。
これは、怯え。
詩音として園崎に捕まれば、どうなるかわからない。爪の一枚や二枚では済まないに違いない。次期頭首である私だからこそ、そのさじ加減はわかってしまう。
……いいさ。
どうせもうじき返すのだから、好き勝手やらせてもらおうじゃない。
無理矢理に足を前に進めて、悟史に渡した予定表を頭の中から呼び出す。
「……今日は、セブンスマートだったかな」
私自身もレジ係などで手伝うことのある大型スーパーへと足を運ぶ。
持ってきた伊達眼鏡をかけて、慎重にその姿を探した。
……いた。
先に見つけたのは、悟史じゃなくて圭ちゃんのほうだった。
意外と似合うエプロンをつけて、大きな台車に乗せたダンボールから缶詰を出して安売りのワゴンに積んでいる。全部積み終わったところで一度見渡して、すこし位置を組み替えたり……適当でいいっしょ、そんなん。完璧主義者はこれだから。
と思っていたら、完成前に横から主婦がいくつか籠に入れていってしまった。
……がっくりしてる。くすくすくす。
圭ちゃんは正直、最初の印象よりは面白い奴だと思う。
これからの付き合い方さえ間違えなければ、親友と呼べるような関係になれるかもしれない……。
でも、そんな未来は、もうきっとこない。
と、そこへやっぱりエプロン姿の悟史が、新しい台車を押しながらやってきた。
圭ちゃんがなにか話しかけている……あぁ、せっかくの苦労が台無しになったと文句を言っているらしい。
悟史は穏やかに笑って受け流し、隣のワゴンに新しい山を作ろうと缶詰を取り出して……ああ、落としてばらまいちゃった。とろいなぁ、もう。
転がっていった缶を慌てて拾い集める二人。
全部集まったかと数を確認して、ふたりで笑い合う。
そして、ほかの店員がやってくる前に素早く並べてしまうことにしたらしい。
すこし前ならちょっと考えられないような、悟史の幸せそうな様子を見つめていたら、涙がでそうになってしまう。
何年も一緒にいて私がしてあげられなかったことを、ここへ来て一ヶ月にもならない圭ちゃんがあっさりとやってくれている。きっと……何も心配はない。
その幸せな雰囲気を、すこしだけ分けてもらいたくて……二人からは見えない、反対側の棚の裏へ移動した。
二人の話す声が聞こえてくる。
「俺、計算したんだけどさ。10日くらいには目標金額に届くんだよ。そしたら、給料日までは沙都子と一緒にいてやれよ」
「え……、でもさ、圭一。僕はぎりぎりまで働くつもりだから、圭一はすこしだけ出してくれたっていいんだよ?」
悟史がなにか遠慮している。
そういえば、前にこんなような話を報告したら悟史の買いたいものを二人で買うんだろうって推理してたっけ。……なんだろ?
「またそれかよ、半分出させろって言ったろ。そのかわり、沙都子にはダブルにーにーからのプレゼントだぞって渡してもらうからな!」
「うん……あはは、圭一はほんと、変わってるなぁ」
……ああ、そうか。
沙都子の誕生日って、もうすぐなんだ。
それで悟史はプレゼントのお金が必要だった……圭ちゃんが、悟史の負担を減らすためにバイトに参加して……なんだ、あいつ。思ったよりずっと、良い奴じゃん。
「ぬいぐるみもいいけどさ、いまの沙都子にはお前がそばにいてやることが一番のプレゼントだと思うぜ?」
「むぅ……わかってはいるんだよ。圭一には感謝してる」
悟史、いい友達に恵まれたね。
私は……出会いからやり直すことにするから、仲良くしてやってよね。
「いいや、わかってない、全然わかってない! お前とは一度、腹を割って話さないといけないと思ってたんだよ、悟史!」
突然変なテンションになる圭ちゃんの声。
……感動台無しの予感。
「な、なに……?」
「いいか、そもそもお前は恵まれすぎてる! スタイル抜群の幼馴染みな委員長に、ツノ付きラブリー巫女さん、にぱ~☆なプリティ巫女さん、さらにはさわやか美少女転校生、とどめにツンデレ系の守ってあげたいブラコン妹だと!? それなんてギャルゲ?としか思えない男のパラダイスを独占しておきながらその自覚もなく、節操なしにフラグを立てまくり、ナチュラルに心を盗んでいく怪盗紳士っぷり……許せねえ、お前はもてない男の、いいや全世界の男の敵だッ!」
「む、むぅ……そんなこと言われても困るよ」
な、なにを言ってるんだあいつは……。
なんでだろう、後楽園球場に詰めかけた大観衆が満場一致で『おまえが言うな』と書いたプラカードを掲げるイメージが頭に浮かんでしまった。
う~ん……いい奴だけど変態なのか、変態だけどいい奴なのか、ちょっと判断に迷うところかもしれない。
まぁ、最初の頃の無愛想なノリに比べればどっちでも好印象かな。
……これでいいや、もうじゅうぶん。
二人に見つからないうちに、私はその場を離れた。
いったん詩音のマンションに戻って服を着替えると、書き置きを残して雛見沢へと帰ることにした。
……楽しかった。
この何年か、つらかったし苦しかったけど、とても楽しかった。
それはたぶん、悟史や沙都子、羽入や梨花ちゃんがそばにいてくれたから。
本当に……ありがとう。
私にできることは全部しよう、もう魅音という立場を守ることなんて必要ない。
「……あ、魅ぃちゃん」
はっとして顔をあげたら、レナがいた。
「レナ……ど、どうしたの、その顔」
レナの可愛らしい顔の下半分が、白いガーゼで覆われていた。
この道はレナの家とは正反対だし、商店街との通り道でもない……診療所?
「うん……、ちょっと」
それだけ言って通り過ぎようとするレナを引き止めた。
「ま、待ってレナ、何があったのか聞かせてよ!」
どう考えてもそれは暴力による傷痕で、レナの身にいったい何が起きたのかという不安に襲われる。レナを殴るような人間は、およそ考えられない……いや、一人だけ。
「まさか、レナ……北条の叔父に?」
無言が……なによりも雄弁に、事実を物語っていた。
頭の中がカッと熱を帯びる。
ぐらぐらと煮え立つ怒りを、私は反射的に押し殺す。そういう訓練を受けているのだ。
「沙都子ちゃんが……蹴られてたから、つい」
ギリッ、とレナの頬から歯の軋む音がした。
痛みに顔をしかめながらも、そうせずにはいられないのだろう。
私だって、その場にいたらどうしていたかわからない。
いや……、私は多分、なにもできない。
後のことを考えたら、手を出さないのが正解だ。
それでも、沙都子のために後先考えずに怒れるレナが……羨ましいと思えた。
「そっか……、沙都子は、大丈夫だった?」
「大丈夫じゃ……ないよ」
ぎらりとした視線、いや、もはや眼光といっていいそれが私に向けられる。
「あんな生活、いつまで続けさせるつもりなの?」
「レ、レナ……」
その気迫に圧されて、すこしだけひるんでしまった自分が疎ましい。
もう怖れるものなんてないけど、急に度胸がつくわけではないのだ。
レナは私の顔を数秒ほど見つめたあと、おおげさに肩を落として息を吐いた。
「……ごめん。魅ぃちゃんにこんなこと言っても、しょうがないんだよね」
暗に、どうせ何もできないんだからと言われているのがわかる。
レナはそのまますっと私の横を通り過ぎて……振り向きもせずに立ち去る。
肩が、膝が、震える。
私は沙都子もレナも守れなかった。
あの虫けらみたいな夫婦に好き勝手させるばかりで、大事な友達を傷つけさせた。
本当に役に立たない園崎魅音。
優しいレナにさえ見限られても仕方のない、情けない園崎魅音。
……でも、それも今日までだ。
私は可能な限り急いで園崎本家に帰ると、足音を響かせて奥の婆っちゃの部屋に向かう。
「なぁんね、魅音。せっからしか」
婆っちゃは私の不作法を咎めるけど、いまはそんなの構っていられない。
私は畳の上に正座して、背筋を伸ばす。
「園崎家頭首にお願いが御座います」
「……あぁん?」
文字通り、人を殺しかねない目つきで婆っちゃが私を見据える。
普段は、私にとってはちょっと気難しいけれど優しい祖母だ。
でも、こちらが頭首としての振る舞いを要求した以上そんなものを期待するのはそれこそ甘えでしかない。
私は震える手を畳の上について、その視線を真っ向から受け止める。
「北条悟史、北条沙都子への敵視を即刻やめること。そして、園崎の名において二人を正式に後見し、あの叔父夫妻から引き離すこと。園崎家頭首、園崎お魎の名前でその号令を発していただきたいのです」
私が言い終わるまできっちり待った上で、婆っちゃは小さく鼻を鳴らした。
「なぁにぬかす、あっほらし。北条の連中が何をしたか、忘れたんかぃね」
完全に馬鹿にしきった口調だった。
ここで怯めば、いままでの私と同じ。だから頭を下げて、言った。
「この話、呑んでいただけないなら……私は、園崎家を継ぐつもりはありません」
「……あぁ?」
なんだろう、空気がぎしりと揺らぐ音がした。
ぶわっと全身から冷たい汗が噴き出す。
顔が上げられない。
目蓋の奥が痛い。涙が溢れ出すぎりぎりで、それに耐える。
一瞬にして枯れてしまった喉から、……どうにか声を振り絞る。
「わ、たしは……っ」
それでも声が、息が……詰まる。
圧倒的な恐怖。目配せひとつで邪魔者の排除を命じられる人間に逆らうことへの、根元的な恐怖だ。
全身がおののく。
いますぐ逃げろ、取り消せと本能が騒ぎ立てる。
できることならそうしてしまいたい……、でも!
お願い、みんな、お姉、いまだけ、いまだけでいいから……私に力を貸して!
「なぁんね、言ってみぃッ!」
鋭い恫喝を叩きつけられ、なにかが切れたのを感じながら顔を上げる。
何年もの間ためこんできたやるせなさと憤りが、出口を得て一気に噴出する。
だから目の前の老婆に、救ってくれたという命を叩き返す。
「大事な友人さえ、救えないような立場なんか……願い下げだって言ってんだッ!」
それくらいしか……この手の中に、残されていなかった。