沙都子の限界はすでにその背に忍び寄っている。
僕たちがすぐにでも沙都子を見つけだせなければ最悪の場合、見つけるのは物言わぬ沙都子ということさえもありえると僕は承知している。
「レナ、僕は診療所と神社周辺を探しますのです!」
「うん! 魅ぃちゃんは商店街で聞き込みをしてくれてるから、なにか連絡があったらそこへお願い!」
それだけ言うと、レナはダム現場のほうへ駆け出していった。
おそらく沙都子以外に唯一あの場所のトラップを知り尽くしている梨花は裏山を探しているだろうし、圭一と悟史は自転車で村を回っているというところだろうか。
村の者たちの協力は得られない。
確実に行方不明というなら魅音が青年団でも動員して探す口実になるだろうが、まだ姿を消してから1~2時間といういまの状況では、誰もが沙都子に関わりたがらないのは目に見えていること。
手が足りない。仲間たちだけでは、とても広い雛見沢全体を探し尽くすことはできない。
沙都子の命の重さを考えれば、とても運任せなどにできるはずがなかった。
だから僕は、すぐに踵を返していま出てきたばかりの診療所へ向かった。
「入江、鷹野! 大変なのです!」
「どうしました!?」
僕がレナから聞いた事情を説明すると、鷹野は入江の指示を受けるまでもなく頷いて内線電話を手にとった。
「鷹野よ。小此木に連絡、至急動ける全要員を雛見沢村内に緊急展開、失踪中の北条沙都子を捜索。発見次第、こちらに連絡しなさい。なお、対象はL4以上で発症の可能性あり、自傷行為が認められる場合や、身体の危険が迫っている場合は山狗による確保もやむなし。いい、対象の安全確保が最優先よ!」
鷹野の声と口調から事の緊急性と沙都子の無事を重視してくれていることはよくわかった。
「ありがとうです、鷹野」
そう言うと、鷹野は受話器を置きながらわずかに微笑んで、
「私も沙都子ちゃんとはぬいぐるみ仲間ですもの。当然よ」
「それにしても、あんな状態で姿を消すなんて。無事だといいんですが……」
入江が心配そうに眉を寄せる。
「所長、しばらく指揮所の連絡はお任せしてもいいですか? 私はC108を携行して沙都子ちゃんの捜索にあたります。すぐに投与できれば、症状の緩和が期待できます」
ナースキャップを外しながら申し出た鷹野に頷き、入江も席を立った。
「ええ、お願いします。こちらで万一の場合の緊急措置の準備は整えておきますので、症状が深刻なときはすぐに搬送してください!」
入江は地下へ、鷹野は更衣室へと足早に向かう。
僕も黙ってここで座っている余裕はない、二人の背中に頭を下げてから再び診療所を飛び出した。
山狗が本格的な捜索にとりかかるまで、多少時間はかかってしまうだろう。
その間に沙都子が危険な状態に陥らないという保証はどこにもないのだ。
走るのはあまり得意ではないけれど、それでも必死に神社を目指した。地を蹴る、というよりも地を掻くような不様な遅さ、それを気にしていられる余裕はない。
重力の存在が煩わしい。呼吸器官の非効率的な構造も、感覚器の限定された機能も、神経系の情報処理速度も、なにもかもが煩わしい。現し身であることの不便をいまさら嘆くのは間違っている、そうわかっていても苛立ちが止められない。
もはや自分が何を考えているかさえよくわからないけれど、それらと引き換えにこの僕が得たものだってあるはずだ。沙都子の名を呼ぶことができる、それが聞こえたなら沙都子はきっと答えてくれる。そういう希望を手に入れたのだ。
それに、いつだったか鷹野に聞いたことがある。女王感染者である僕がそばにいれば、わずかなりと疑心暗鬼などの症状を緩和できるのだと。その原因物質を注射で直接投与するほどの効果はなくとも、なにもしないよりはずっとましなはずだ。
だから沙都子を見つけなくては。
僕が、あの子のそばにいかなくては。その思いが、僕を遮二無二走らせる。
息を切らしながら石段を駆け上がり、境内を見渡す。……人影はない。
すこし考えてから、本殿の裏、祭具殿へと向かった。
誰もいる気配はないが、沙都子の状態によっては息を殺している可能性もある。
たしか祭具殿の天窓には、子供なら入り込める程度の隙間があったはず……。どこで記憶したかわからない事実を思い出して見上げるが、この場所からは死角になっていて天窓はよく見えない。
「沙都子、沙都子! そこにいませんですか!?」
祭具殿の扉の前で呼んでみても、何の反応もなかった。ポケットに錠前の鍵は入っているけれど、頑強に閉ざされている扉を開けるには僕一人では非力すぎる。いつも梨花と二人がかりでやっと開け閉めしているのだ。
今度もっと簡単な南京錠にでも変えようかと無駄なことを考えてしまう。
「沙都子、いたら返事をしてください、あぅ!」
木登りが得意でない僕は梨花や沙都子のように屋根に飛びついて侵入するなんてことはもちろんできない。壁を抜けられれば早いけど、そんなありえないことを素で考えてしまう僕はどこかおかしくなっているのではないかと本気で思う。
祭具殿の中は静まりかえっていて、どんなに耳を澄ませても沙都子の息遣いや泣き声は聞こえてこなかった。ここにはいない、そう判断してその場を離れる。
一応防災倉庫に回って、誰もいないことを確かめた。
「あぅう……いったいどこに」
と、まるで僕がここにいることを知っているみたいに黒電話が鳴り出した。
慌てて飛びついて受話器を耳にあてる。
「も、もしもし。古手なのです」
『羽入ちゃん、よかった。入江です。いま山狗から連絡が入りました。沙都子ちゃんが裏山から玉子川の方向へ向かっているとのことです。そこからなら、5分もかからない』
「ほ、本当ですか!」
境内から出ている林道を通っていけば、すぐに追いつける場所だった。
『ただ、遠目にも憔悴した様子だというので気をつけてください。現場には山狗は一人しかいないので、いざというときには間に合わない可能性があります。後続と、鷹野さんがそちらに向かっていますので、説得が難しい場合はとにかく時間を稼いでください』
「わ、わかりましたのです!」
急いで受話器を置いて、僕は防災倉庫を飛び出した。
入江が危険を訴えるのも無理はない。
玉子川にかかる吊り橋は落ちればただではすまないだけの高さがあるし、沙都子が疑心暗鬼に陥っているなら山狗の不用意な接近は逆効果になる可能性がある。見知らぬ人間が迫ってくれば、沙都子は取り乱して暴れるか、悪くすれば逃げようとして転落してしまいかねない。また、黙って見過ごせば吊り橋の向こうは村の外、ろくに人も通わぬ森の中を通る道だ。どんな危険があるかわからないし、沙都子が道を外れれば再び発見するのは極めて困難になる。
強硬手段として数人がかりでなら取り押さえることはできるかもしれないが、逃げ場のない場所でそんなことをするのも分の悪い賭けになってしまうし、何よりもただでさえ他人に恐怖を覚えている沙都子が可哀想だ。
ベストなのは、僕か鷹野がその場に辿り着いて説得すること。
それなら女王感染者の力や注射で沙都子を落ち着かせて、安全に保護することができる。
だから走った。
この幼く不自由な身体に許される全力を振り絞って、沙都子のもとへと走った。
途中何度かつまずきそうになったが、これがいまの僕にできる精一杯だった。
緑の中を走り抜けた僕は、転がるような勢いで吊り橋の前に飛び出した。
「沙都子ぉっ!」
その叫びは、僕のものではなかった。
吊り橋の前で声をあげているのは……圭一だった。
全身に泥が跳ねたり、服が裂けているところから見て、沙都子のトラップにかかりながらもその全てをはねのけて必死で追いついてきたのだろう。
「来ないで! 来ないでくださいましっ!」
沙都子は吊り橋の真ん中で、いやいやをするように首を振りながら叫んでいた。
追い詰められた獣のように身を縮め、足を震わせている。
「圭一さんや皆さんに、これ以上迷惑はかけられませんわ! 私なんか、私なんかいないほうが……っ!」
沙都子の叫びに、僕は一瞬立ちすくむ。
疑心暗鬼が心に巣食っているはずの沙都子が怯え竦みながらも選ぼうとしている道は、自分を消してしまうという選択肢。自分をそこまで追い詰めた世界を憎むのではなく、それでも仲間を信じようと勇気を振り絞り、悪いのは自分だけだと思いこもうとしている。
葛藤の中でそれを選んだ幼子の強さは、病という名の鬼に抗っている。
でも……、でも!
「そんな悲しいこと、言わないでほしいのです!」
僕も声をあげていた。
圭一と沙都子が、その場に現れた僕に視線を向ける。
「沙都子、沙都子。沙都子は僕たちの大切な仲間です、大事な友達なのです! みんな、沙都子にいてほしいのですよ!?」
ワイヤーを掴んだままで、沙都子は涙をぼろぼろと流していた。
それが悲しみの涙のかそうでないのか、いまは本人にだってわからないだろう。
「羽入さんや圭一さん、皆さんがそう言ってくださるのは、嬉しいですわ……でも、駄目。駄目……私の中に、あいつらと同じ鬼が棲みついてしまった!」
わなわなと自分の手を見つめる沙都子の表情には鬼気迫るものがあった。
沙都子は自らの中に作り出した妄想や幻覚に囚われてしまっている。
「もう駄目、いつかは誰も信じられなくなる……みんなみんな、私を殺そうとしている、そんなふうに思い始めている。取り返しがつかなくなる前に、大好きなみんなを傷つけてしまう前に、私、私っ……!」
歯を食いしばって、橋の向こうの空中へと身を乗り出そうとする沙都子。
それはあまりにも悲壮な、その小さな身体には見合わない決意。
がくがくと死の恐怖に身体を震わせながら、血の気の引いた顔で谷底を見つめている。
……どうして、だろう。
僕はいつも、こんな顔をした仲間たちの最期をただ見つめていた気がする。
仲間を信じたいのに、信じられなくて。
泣きながら、嘆きながら、望まぬ惨劇へと身を投じていく彼らがそこにいた。
疑心に囚われながらも、自分が間違っていることをどこかで知っていて、それでも世界のほうが狂ってしまったようにしか思えなくて。
生きるために、誰かのために、明日のために、あるいは信じた正義のために、涙に濡れた瞳で凶器を振り上げる。
病に侵されながらも、心を壊されながらも、そこにはいつだって気高い決意と、なくしてしまった日常を思う悲しみがあった。
『どうしてこんな事になっちまったんだよ……!』
『悟史くんの仇を全て討ったよ、褒めてよ悟史くん……』
『みんなを奪ったお前なんかに、絶対負けたりしない……!』
『君がいない世界は、さぞや退屈だろうと思うよ!』
誰もが、これほどまでに世界を愛しているのに……どうして、いつもいつも、運命という名の悪魔が舞い降りてくるのだろう。
誰が、こんな悲しいだけの惨劇を望んでいるというのか。
見ているだけの傍観者なんて、もうやめた。
ごめんなさいだなんて、どれほど謝り続けても無意味。
走り出してしまった悲しみを増幅することはできても、止める事は決して出来ない。
だから、いまは……そんな弱い言葉は、必要ない!
「沙都子は、まだ負けていないのです! 負けては駄目なのです、逃げても駄目です、もういちど立ち向かう勇気を! 僕たちと一緒に未来を掴み取る勇気を持ってください!」
手を差し伸べながら、前に出る。
一歩一歩、沙都子のいる吊り橋へと踏み出す。
「そうだ、沙都子! まだ間に合う、まだお前は戻ってこれる。いいや、戻ってこなきゃ駄目なんだ。俺たちの未来には、お前が必要なんだよ、沙都子ぉっ!」
圭一も叫んでいた。
自分が泣きそうな顔で、必死で沙都子に向かって叫んでいた。
「あきらめないで、沙都子!」
「こっちへ来い、沙都子っ!」
呼びかけながら手を伸ばす僕たちを見つめて、沙都子の顔に迷いの色が濃くなっていく。
信じたい、狂ってしまった世界にも自分の望む明日が残っていることを。
その切ない願いが、沙都子の足を止めていた。
「私は……私は、きっと殺してしまう。生きていたら、あいつらを、皆さんを、いつかきっと殺してしまう。そんなの嫌、そんなの嫌、ぜったい嫌ぁ……!」
頭を抱えて、苦しげな声をあげながら泣きじゃくる。
そう、まだ負けたわけじゃない。沙都子はまだ、壊れきってなんかいない。希望があると信じる。……諦めるということは、信じないということなのだから。
「沙都子、いまからそっちへ行く。お前を助けてやる、絶対だ。だから俺を信じろ!」
圭一がまるでクラウチングスタートを切るみたいに身を低くする。
一気に吊り橋を駆け抜けて、沙都子のところまで辿り着くために。
「だめ、駄目、来ちゃだめ! 圭一さん、圭一さんを、殺したくない!」
泣きながら再びワイヤーに手をかける。トラップを駆使する沙都子には、この橋をどう揺らせば人を振り落とせるか理解できてしまっている。この不安定な吊り橋という舞台そのものが、彼女にとっては巨大な凶器なのだ。
その瞳には、鋭利な刃のように剥き出しの殺意がある。
同時に、圭一を信じたいという希望も、まだ砕けることなくそこに残っている。
そのせめぎ合いを制するのが病魔なのか信頼なのか、誰にも読み切れるはずがない。
沙都子自身にさえも。
「沙都子、信じてください。それが今のあなたにはどんなに酷なお願いであるかはわかります。でも、圭一は沙都子を助けに行くのです。ただ、それだけを信じるのです!」
ワイヤーを握りしめる手が震えていた。
沙都子の愛らしい八重歯が、切れそうなくらいに唇を噛みしめていた。
「大丈夫、沙都子は強い子です。信じられるはずです。だから、……沙都子!」
僕の叫びを合図にしたように、意を決した圭一が躍り出る。
吊り橋の上を一直線に駆けて、震える沙都子のもとへと手を伸ばそうとする。
「ぃ……、いやぁぁぁあぁぁぁぁぁああっ!!」
体重をいっぱいにかけて、沙都子がワイヤーを揺らした。
圭一の足元が斜めに傾いで、その疾走が無理矢理にベクトルを曲げられてしまう。
「ぐあっ!?」
手すりに肩から叩きつけられて反対側へと吹き飛ぶ圭一。
よろめいた身体は足場を求めて宙を泳ぎ、つま先が橋の床板を引っ掻くようにしてブレーキをかける。
「お願い、来ないでぇぇえぇえぇえッ!!」
沙都子の第二撃が、その瞬間に襲いかかった。
今度は横揺れではない、縦に大きな揺れ。
着地しようとした不安定な態勢の圭一を、反動で跳ね飛ばすのには充分すぎるほどの力が襲いかかる。
「……くっそぉおぉおお!」
空中へと吹き飛ばされながら、圭一は絶叫する。
それは恐怖でもなければ憎悪でもない、無力な自分へと叩きつけた悔悟の叫び。
彼の身体の下には、もはや足場はない。
あとは落ちるだけしかない。
「圭一ッ!」
だから僕は、空へと身を乗り出しながらいっぱいに手を伸ばしていた。
「……は、羽入さんっ!?」
圭一への第一撃の直後に、僕も走り出していた。第二撃でつまずいて、転げそうになったけれど、自ら手すりに身体を打ち付けてその反動で圭一のほうへと飛んでいた。
「羽入……ッ!」
圭一が伸ばした指先を僕の指がとらえ、たぐり寄せるように互いの手首を握りしめる。
僕は手すりの間に足を絡ませて流れそうになる身体を押しとどめた。
がくん、圭一の体重が腕に、肩にかかる。
それでももう片方の手を伸ばして、その手をしっかりと掴まえた。
身体全体が引き寄せられ、手すりが胸に食い込んで肋骨を軋ませる。衝撃は内臓まで突き抜けそうなくらいだったけど、そんな痛みも苦しみも、ここで圭一を失うことに比べたらずっとましだと思えた。
「……ッ!」
この身の非力さと、吹けば飛んでしまうような軽さが恨めしい。
どんなに身体を固定しても、跳ね飛ばされた圭一を引き戻すには足りなくて、逆にこちらが引きずりこまれそうになる。危うい力の均衡は重力に傾き、僕の身体が手すりを離れようとする。
諦めない、諦めはしない、けれど、このままでは……ッ!
「だ、駄目ぇ……ッ!」
瞬間、蒼白になった沙都子が短い叫びと同時にワイヤーを両手で引き返していた。
それは僕と圭一を、橋の上へと引き戻す強い横揺れを生みだし……同時に、彼女自身を空中へと投げ出す結果を招いていた。
「……沙都子っ!」
沙都子はその刹那、自らの内なる鬼に、その心を蝕む病魔に、打ち克ったのだ。
彼女は後先考えず僕と圭一の命を救おうとした、それがその一瞬に起きた悲劇の全てだった。