あの綿流しの夜から数日が経っていた。
叔母は発見された時点で既に死亡しており、司法解剖も行われたが死因は転落時に負った脳挫傷で、多少水を飲んではいるがそれは沢に突っ込んでからわずかの間はまだ息があったというだけのことなのだそうだ。
転落死、というのは警察にとってはとても厄介な玉虫色の死因。
ただ単に自分で足を滑らせたものか、それとも誰かに背を押されたものだったのか、死体からではわかりようがない。こういうときにたよりになるはずの現場の地面も、あの夜の暴風雨ですっかり足跡やら痕跡やらを洗い流されてしまい、意味をなさない。
しかも、叔母の血液中からはアルコールも検出されており、酔った人間を突き落とすことなど誰でにでもできるのだ。……そう、たった十歳の女の子にでも。
当然ながら、大石はじめ警察は口の重い雛見沢の住人から沙都子が叔父夫妻に手酷い虐待を受けていたことを聞き出しているし、そんなことは周知の事実でもあった。
もちろん、あのいやらしい大石のことだから“二年目の祟り”……北条夫妻の白川公園での転落事故と結びつけているのも間違いあるまい。あのときも沙都子は夫妻とともに公園におり、本人は車の中でずっと寝ていたと証言したが、最初に公園の職員が沙都子を見つけたとき、沙都子は泣きながら両親が川に落ちたと言っていたらしい。その矛盾した証言を大石がどう考え、今回の事件でも沙都子が現場で発見されたことをどう解釈したか……想像に難くない。
が、沙都子本人への事情聴取は入院先の入江診療所長、つまり監督が頑なに拒否。
沙都子は発見時激しい錯乱状態にあり、収容されてからも泣きながら意味不明のことを口走る。泣き疲れて眠っても、すぐに悪夢にうなされて跳ね起き、叫び、取り乱す。監督はやむをえず薬で眠らせるという処置をとらざるを得なかった。そんな状態で事情聴取など不可能だし、たとえ話を聞いたところで、悪夢や妄想と現実の区別がついておらず、へたをすればやってもいないことをやったと言いかねない……というのが監督の言い分で、大石もそこまで言われては不承不承ながら従うしかなかったと見える。彼女が話を聞けるくらいになったら必ず声をかけてくださいよ、と言い置いて事情聴取は諦めたらしい。
そのかわりに大石のやつに質問責めにあったのはこの私だ。
「園崎さん、なんでもいいから思い出してくださいよぅ」
いい年したおっさんが出す猫なで声というのは薄気味の悪いものだ。
私が話せることも、あまり多くはなかった。
私と沙都子は、中止になったお祭りから一緒に帰った。
北条家に近い林の小径に入ったあたりで雨が降り出したことに気づき、持っていた折り畳み傘を開こうとしたところで急に沙都子が駆け出し、自分で用意したのか、ロープを使って沢の上をまるでターザンのように飛び移りショートカットしたものだから、私は遠回りで走って追いかけるしかない状況だった。
再び沙都子を北条家の前、つまり現場で発見するまでに数分。
沙都子は沢の方を見下ろして茫然自失といった様子で突っ立っており、そこへ北条家の方角からスクーターのエンジン音が響いてきた。北条家からの出口はT字路になっており、そこで減速しなければ曲がりきれないことは明白なのにそのスクーターはまっすぐに沙都子に向かって突っ込んできた。私はとっさに駆け寄って、背中を向けたまま一歩も動かない沙都子を守ろうとその間に立ちはだかり……まばゆい光が目にとびこんでくると同時に衝撃があったところで、意識は途切れてしまっている。
「う~ん、どうもはっきりしないなぁ。沙都子さんは、どうしてあなたから逃げたんだと思いますかね?」
「そんなの、沙都子に聞いてみなきゃわかりませんよ。ただふざけたかっただけなのか、雨が降ったから急いで家に帰りたかったのか。あの子が自宅付近や裏山で、普段から悪戯用にその手の仕掛けを作っているのは、大石さんだってご存じでしょ?」
「そりゃ~、そうなんですがねぇ……」
大石によれば、叔父のスクーターはブレーキが故障しており、それが悪質な故意によるものか、それとも不幸な偶然が重なってたまたま部品になにかの破片が噛んでしまったものか断定ができないのだという。当然大石は前者の作為的なものであると考え、同じ家に住んでいる沙都子たちにその機会があったことから疑いを強くしている。
果たして全ては沙都子の策略によるものなのだろうか、それともほかの何者かの意図が働いた結果か、はたまた……オヤシロ様の祟りだったのか。
「そこなんですよねぇ。オヤシロ様の祟りってのは、あれでしょう。一人が死んで、一人が消える。奥さんが死んだ以上、誰かしら行方不明になっていないとおかしいはずだ。でも今もって、雛見沢から誰かが鬼隠しに遭って消えたということはない。これから消える予定なのか、オヤシロ様が消しそこねたのか、そりゃわかりませんがね。重要なことは、これらの出来事が何者かの意図によるものならば……夫妻のどちらかが、失踪していなければならなかったってことです」
……なるほど。祟りの犯人が人間、ぶっちゃければ園崎家が犯人だと確信している大石にとっては、叔父と叔母の殺し方が不思議でならないというのだ。叔母は沢に落ちて死んでいた。そして、あのまま私に激突しなければ、叔父もまたスクーターごと沢に転落して……十中八九、死んでいただろう。あの状況ではそこに沙都子も巻き込まれた可能性もあるが、とにかく大の大人をあの高さの沢から引き上げて運ぶのは並大抵のことじゃない。
実際に警官隊でも、小径の上に叔母の死体を引き上げるのに数十分を要したであろうことは間違いなく、大人数を園崎が動かしたとしても時間が足りない。
つまり……、夫妻の両方を沢に落としてしまったのでは、祟りの演出としては成りたっていないのだ。それくらいなら、夫妻のどちらかを拉致し、隠してから始末したほうが都合がいい。そんなことは園崎には容易で、それをしないのが腑に落ちないと。
「いやはや、お手上げです。商売柄、誰かさんが消えるのを待つってわけにもいきませんからねぇ」
大石は叔父にも同じ話を聞かせたらしく、誰かがこれから鬼隠しに遭うかもしれないと聞いて祟りを恐れたのか、それとも園崎家に始末されることを恐れたのかは知らないが雛見沢の診療所になんかいたくないといって、強引に興宮の病院へ転院してしまったのだそうだ。壁越しにあの胸糞悪い怒鳴り声を聞かなくてすむから、こっちは大助かりだが。
「まぁ、またなにかお話が聞けそうな頃にでもお邪魔しますよ。……あぁそうそう」
大石の常套手段だ、解放されると思ってこちらが気を緩めたところで本命の質問をぶつけてこちらの反応を見ようといういやらしい駆け引き。
「調べてみて驚いたんですが、園崎さん。あなた双子の妹さんがいらっしゃるとか。……しかも、彼女は先月全寮制の学園を抜け出して以来行方不明になってる。まさか彼女が、鬼隠しに遭ったってわけじゃないですよねぇ~」
この話題を予期していたといえば嘘になるが、私が取り乱すことはなかった。
「……さぁ。詩音が学園を脱走したとは聞いていますが、組関係の知り合いにでもたよれば身を隠すなんて難しくありませんからね。あいつのことだから、そのうちあっけらかんとして出てくるんじゃないですか?」
行方不明の妹をもつ姉としては不自然なくらい冷然とそう言ったのが、逆に大石には自然な反応と映ったのだろう。鬼の名を継ぐ園崎魅音にどんな評価を下しているのか、逆にその態度でよくわかるというものだ。
「それではまた……お大事に。んっふっふ」
病室のドアを閉めて、ぱたぱたとスリッパの音が階段のほうへ向かうのを聞き終えてから私はゆっくりと息をついた。
……彼は、知らない。
オヤシロ様の“四年目の祟り”が、すでに成就してしまっていることを。
祟り殺されたのは、意地悪叔母。
そして、鬼隠しで消えたのは……園崎魅音。
魅音は沙都子たちのために町会とやりあったというその日から、忽然と姿を消してしまった。その数日前に私のマンションに残っていた書き置きには、自分が鬼婆に消されるか、失敗したときは“魅音”をよろしくとだけ書かれていた。
あの不出来な妹にそこまでの覚悟と度胸があったことに驚きながらも、魅音の協力がなければ外に出ることさえ出来ない私は事態が推移するのを待つしかなかった。
町会のあったその夜のことだ、葛西から連絡があった。
魅音が、本家に帰っていないと言う。
来るべきものが来た、と絶望的な気分を味わいながらも私は平静を装うしかなかった。
婆っちゃとこじれて合わす顔がないからってウチに頭を冷やしに来てる、明日のうちには帰らせるから本家には適当に言っておいてほしい……と告げて電話を切った。
そして魅音がいないのだから、と街にでてふらついているところで……玩具屋の前でアホな会話を繰り広げる圭ちゃんと悟史くんに出会ったのだ。
そこで魅音の苦闘を聞き、……二人に撫でてもらったときは、身を切られるようにつらかった。その殊勲を、二人の賞賛を受けるべきは、逃げ隠れするばかりで何も出来なかった私じゃない。自らの無力と向かい合い、勇敢に立ち向かって散った私の大切な妹に贈られるべきものだった。
夜には、私は本家に戻った。……“魅音”の顔で。
それ以来、魅音として学校に通い、魅音として部活を主催し、魅音として沙都子たちと接してきた。公的に失踪中である詩音がいなくなっても心配するのは葛西くらいだが、魅音がいなくなるわけにはいかなかった。
町会の役員としての地位を失っても、魅音は依然として園崎家の次期頭首であることに変わりはないし、雛見沢分校のクラス委員長であり部活の初代部長としての役割もある。
仲間たちのためにも、私は“魅音”を続けなくてはならないんだ。
あの子は、あの子自身の器を越えて頑張った。たぶんそれは、沙都子のためもあるけど、あの子自身諦めていた悟史くんへの淡い想いのためというのも大きいはずだ。
魅音としての立場上、好きになるわけにはいかなかった人。
捨て身で立ち向かったあの子の胸中は、痛いほどにわかる。わかってしまう。
だから私は……、あの子が帰ってくるまで、この“魅音”を、あの子の居場所を守ると決めた。そしてそれは、私の中のふたつの想いの片方……悟史くんへの想いとの決別をも意味していた。
園崎魅音は、北条悟史を好きになるわけにはいかない。好きなそぶりさえ、見せてはいけない。あの子がそう自分を律していたのに、私がそれを破ることはできないのだ。
それに“魅音”はいつかあの子に返すのだから、私が勝手に仲を進めてしまうわけにはいかない。勝負するなら同等の条件ですべきだし、そうなれば私に勝ち目はないことも知っている。
……私の中には、悟史くんへの想いと同じくらいか、それ以上に大きい圭ちゃんへの想いがあるのだから勝ち目も、勝つ資格も最初からあるわけがない。
どうもライバルが多そうだけど、それは仕方ない。吊り橋で沙都子を救った経緯、叔父の暴力に立ち向かった話、嵐の夜の悟史くんとの一騎打ち……瞳を輝かせてそれらを語ってくれる彼女たちと同じくらい、私の胸も躍っていた。
あの夜。
祟りという名の鉄槌は容赦なく振り下ろされ、私たちはあと一歩で敗北するところだった。
それをつなぎとめてくれたのは、どう考えても圭ちゃんの存在があったからだ。
……いいよね、魅音?
圭ちゃんなら、好きになってもいいよね。
あなたが戻ってきたら、“魅音”と悟史くんは返すから。
いままでのは私、詩音でしたってちゃんと言って、けじめもつけるから。
だから私も、圭ちゃんと仲間たちのために……捨て身で頑張っても、いいよね?
と、病室のドアからノックの音が響く。
「魅音ちゃん、いいかしら?」
この診療所の看護婦、鷹野三四さんの声だった。
「はい、どうぞ~」
ドアが開いて鷹野さんが顔を見せ、拝むように片手をかざす。
「沙都子ちゃん、目が覚めたみたいで……悪いけど、お願いできるかしら?」
食事の世話などもあるので、ずっと眠らせ続けるというわけにもいかない。けれど目が覚めたまま放っておけば泣き叫んで手がつけられなくなるので、私が呼ばれることになる。
私の怪我はたいしたことないのにまだ退院させずにいるのは、どうもそのあたりを配慮してのことらしい。
沙都子は私ほどではないにせよ鷹野さんにもある程度心を許しているのだが、鷹野さんにも仕事があるから沙都子が目を覚ましている間ずっとついててあげるわけにはいかない。
「いいですよ、すぐ行きます」
ベッドから降りてスリッパを履くと、私は奥の個室へと向かった。
ノックしてからドアを開くと、怯えたような息を呑む声。沙都子が身体をかばうようにタオルケットを引き寄せるのが見えた。
「はろろ~ん、沙都子☆」
「ぁ……、み、魅音さん……」
目を見開いて警戒心も露わにこちらを見ていた沙都子の顔が、安堵とともに緩んでいく。
かわりに浮かび上がってきたのは、涙だった。
「わ、私……、消え、消えてしまう……ふわぁぁ……」
私は警戒させない程度に急ぎながらも軽い足取りで沙都子のベッドまで歩み寄ると、彼女を抱きしめる。
「あっはは、泣かない泣かない。沙都子は消えないよ。大丈夫」
「ほ、ほんとですの……? だって、だって私……」
「ほんとほんと。そんな不届きな奴がいたら私がふん捕まえてぶっ飛ばしてやるからさ」
「でも、でも……うぅぅ……」
怯えて、震える沙都子をゆっくりと撫でる。ふわふわした髪の感触が愛らしい。
この子は、強い。
よくぞあんな異常な環境に置かれ続けて、それでも学校では笑顔を保っていたものだと思うくらいに強い子だった。
それなのに、壊されてしまった。
その事実は彼女を打ちのめす憎むべき力が、どれほどのものだったかを物語っている。
叔父の理不尽な暴力、叔母の陰湿な虐め、村ぐるみの無視。
このくらいの歳の子供に当然の権利として与えられるべき優しさとぬくもりを供給してくれたのは、兄の悟史くんと数少ない仲間たちだけ。それだけを支えに、あのつらい、終わりの見えない日々を送っていたのだから……この子は、しばらく休んでもいいはずだ。
事件の真相は私にもわからない。
私を振りきって逃げた沙都子は、確かに叔父と叔母の排斥を計画していたのだと思うが、それが果たせたのか、果たせずになにかを見てしまったのか、それとも、何も見なかったからこそおかしくなってしまったのか。
でも、そんなことはどうだっていいのだ。
叔父はあの様子じゃ興宮にいるっていう愛人のところへ入り浸る生活になるのだろうし、叔母はもうこの世にいない。
すこしだけ遅すぎたけれど、この子と悟史くんのつらい試練の日々は終わったのだ。
あとはゆっくり休んで、すこしずつ心の栄養をとっていけば、必ずもとの元気な沙都子に戻ってくれる。私は、そう信じている。
「ねーねー……」
ぎゅっと私の胸に顔を埋めたまま沙都子がぽつりと呟く。
沙都子はときどき気が緩んだときに、私のことをそう呼んでくれるようになっていた。
守りたい。
この子を傷つけようとするあらゆる災いから、この子を連れ去ろうとする心ない悪意から、今度こそ守りたい。
この子の平穏を、安らぎを、ちっぽけな居場所を。
こんなささやかな願いさえも聞き届けてくれないなら、神様に価値などあるものか。
もう二度と……この子を、惨劇の犠牲になどさせるものか。
その想いが伝わるように、彼女の心の温度を逃がさないように、優しく、でもしっかりと包み込む。愛情を形にできるなら、この子の小さな両手では抱えきれないくらいのそれを贈ってあげられるのに。
……でも、そのもどかしさを打ち破ってくれるのは、優しいノックの二重奏だった。
こんどは沙都子も怯えたりしない。
ここには私がいるし、その音の主が自分を決して傷つけたりなどしないことを知っているから。
「沙都子、起きてる?」
「入ってもいいかー?」
悟史くんと圭ちゃんの声が、いつになく弾んでいた。
いつもは沙都子を刺激しないように、穏やかな笑顔で入ってくるのに。
「どうぞー?」
私は沙都子を抱きしめていた腕をほどくと、沙都子のベッドに腰掛けてその小さな頭を肩に引き寄せながら二人を招き入れる。
するとドアが開いて、入ってきたのは……巨大なくまのぬいぐるみだった。
あの日、二人が興宮の玩具屋で見ていた、あれだ。
首のところには、刺繍の入った大きなリボンがついていた。
「じゃーん! どうだよ沙都子!」
「沙都子、お誕生日おめでとう!」
くまの両側から悟史くんと圭ちゃんが顔を出し、病室に入ってくる。
その後ろからは、レナに羽入、梨花ちゃんも手に手にプレゼントらしき箱を抱えて笑顔でぞろぞろと入ってくる。
「あぅあぅ、沙都子~。お誕生日おめでとうです!」
「沙都子ちゃん、今日から11歳だね。おめでとう!」
「先に大人の階段を昇られてしまったのです、にぱー☆」
戸惑ったように大好きな皆の顔を見つめていた沙都子は、途方に暮れて私を見上げる。
私はにっこりと笑いかけてやった。
「沙都子、生まれてきてくれて……ありがとう!」
不意を打たれたみたいにぽかんとした沙都子は、……ほわっと目を細めて、頬を桜色に染め……ひさしぶりに、彼女本来の輝くような笑顔を私たちみんなに投げてくれた。
そして……、仲間たちの真ん中で、
「み、みなさん……、ありがとう、ございますわ……!」
恐怖でも悲しみでも絶望でもない、あたたかな涙を流したのだった。