入江は事務机に資料を置いて、小さく息をついてみせた。
「いまのところは小康状態としか言いようがありません。各数値は波があり、減少傾向にはあるもののいまだほとんどがL4の基準値を超えています」
沙都子の状態がよくないのは百も承知だ。そうでなければ、一日の大半を薬で眠らせるという、ある意味非人道的な措置を入江や鷹野が許容しているはずがない。
「でも……、暴れ出すことはほとんどなくなったのですよね?」
誕生日以降の沙都子は、目が覚めてもずいぶん落ち着いていると聞いていた。ベッドでぬいぐるみにしがみついてすすり泣く姿は痛々しいが、何者かの影に怯えて泣き叫び、病室のものを片っ端からたたき壊して回る最初の状態よりはずいぶんましだ。
「ええ……段階を踏もうと、先週、屋上に出てみたときも比較的落ち着いていました。でも診療所に村人の姿があるうちは決して部屋から出てきたがりませんし、夕方になればなったで侵入者がいると言い出してスタッフにトラップを作る材料をねだるんですよ……」
沙都子は自分を傷つけるかもしれない外の世界を恐れている。叔母を祟り殺しながらもまだ誰も消していない、今年の中途半端な祟りの結果がその心に影を落としているのだ。
鬼隠しがもう起きないなんて誰も保証してくれない。
村の人間なのか見知らぬ殺人鬼なのか、それとも祟り神だというのか、今年の祟りの執行者は沙都子の心の中ではいまだその役目を終えることなく闇から闇へと徘徊している。
「工具やロープを貸せない理由はわかるでしょう? 本当に……つらそうだわ、彼女」
横で聞いていた鷹野も腕組みをしながらため息をつく。
けれど入江は首を振って、鷹野にやや力無い笑みを向ける。
「鷹野さんや園崎さんがいなければもっとひどい状態になっていますよ。本当に助かります」
沙都子が心を許しているのは部活メンバー以外では真っ先に鷹野、ついで入江。あとはよく出入りする数人の医療スタッフに対して警戒をあからさまにしない程度らしい。
所長であり患者の診察もしなければならない入江が四六時中ついていられるわけもなく、悟史や魅音が来られない時間に沙都子が目覚めたときは基本的に鷹野の担当だ。そういうときは沙都子のために話相手になってあげたり、社会性を取り戻させるために勉強をみてあげたりしてくれているそうだ。
一度、まるであの夜のような風と雨の強い夜に目が覚めて泣き出した沙都子のもとへ、自宅から鷹野が車で駆けつけ、一晩中抱きしめてあやしてくれていたこともあるのだという。
驚くべきは、それは診療所に残っていたスタッフが連絡したのではなく、こんな夜に沙都子が目覚めたらきっと不安だろうと思い立った鷹野が自ら車を飛ばしてきたのだ。
一応宗教関係者としてはオヤシロさまのお導きとか、もうすこし世俗的に虫の知らせとでも言うべきなのかもしれないが、僕の考えは違う。
それは、ひとえに鷹野の思いやりのなせる業だ。
もしかしたら駆けつけても沙都子は目覚めていなくて、無駄足に終わったかもしれない。でもそれならそれで鷹野は沙都子が不安に震えずに眠っているのを見て安堵しただろう。きっと彼女はそんな無駄足を何度も繰り返していて、たまたまそのときは沙都子の涙を止めるのに役立っただけ。
……結局のところ、人と人のつながりというものはそうして日々の中で互いを思いやることを重ねながら生まれていく。それは一夜で全てを奪い去ってしまおうとする惨劇に比べればとてもとても儚い、ささやかな力だけれど、本当に世界を優しく明るいほうに導こうとすれば、そうしたささやかな想いを根気よく積み重ね、丁寧に紡いでいくしかない。
だから、僕はありったけの笑顔を鷹野に向ける。
「……ありがとうです、鷹野。沙都子の友人として、本当に感謝しますです」
鷹野はそんな僕に優しく目を細めてみせる。
「羽入ちゃんたちも、夏休みなのに毎日のように顔を出してるじゃないの。……彼女にはこんな素敵なお友達がたくさんいるんですもの、きっとよくなるわ」
僕たちはただ大好きな沙都子に会いたいだけ。だからそれは褒められるようなことではないと思った。
「ええ、我々も出来ることは少ないですが、頑張らないといけませんね。もうじきC110も形になると思います、これは劇的とはいえませんがすこし期待できそうなんですよ」
治療薬も改良に改良を重ねているらしいが、専門的なことは僕にはよくわからない。僕の身体を研究した結果できたお薬が沙都子を救えるかもしれないなら、是非もっと研究してほしいくらいだ。血が必要なら毎日でも抜いてくれていいし、手足の一本くらいで沙都子が助けられるなら喜んで差し出すのだけれど、そう簡単なものでもないらしい。
「……どうでしょう鷹野さん。やはりその溢れる優しさはメイド服を着用することにより少なくとも20%の増大が見込まれると思うのですが」
きらりん☆と眼鏡を輝かせる入江。
「先生……その件でしたら、お断り申し上げたはずです」
呆れ返った顔になってひらひらと手を振る鷹野。
「しかし! しかしですね、鷹野さん。富竹氏にもこの企画を相談してみたところ、彼の返答はこうでした……」
きりっとした表情で、大きく両手を広げて力説する。
「『僕はナース服の内包する優しさの総量がメイド服に劣るとは思いません。ですがご存じのように看護服の原点はエプロンドレス、すなわちメイド服です。ならばメイドさんもまたナースさんだと言っても過言ではないのです。そして鷹野さんが看護のためにメイド服を着用したそのとき、彼女はナースにしてメイドという神にも等しい存在になる可能性を秘めている……。優しさと美しさの化身となった彼女の神々しい姿に撮影許可が下りるのであれば是非、私を呼んでください。必ずや駆けつけ、僕と入江二佐による夢のコラボレーションを余すところなくフィルムにおさめてみせましょう。富竹フラッシュ!』と……!」
やたら長いし、最後のはいったいなんなのですか入江……。
「私はいたく感動しました。彼の純粋で真摯な思いに答えたい。そしてもちろん沙都子ちゃんのためにも、医学の発展のためにも……鷹野さん、あなたは女神になるべきです!」
「ジロウさんが……」
あきれ返ったであろう鷹野が、ぐっと拳を握り締める。腹立ち紛れに暴力はいけませんですよ、鷹野。
「そ、そ、そこまで言われるなら、沙都子ちゃんのために協力することもやぶさかではありませんけれど……!」
「あぅっ!?」
頬を染めてもじもじする鷹野に、思わず驚愕のまなざしを向けてしまう。
き、着るのですか……メイド服!?
「おお、鷹野さん! あなたのような勇気と知性、そして優しさと美しさを兼ね備えたすばらしい女性に出会えたことを心から感謝します! これできっと沙都子ちゃんの容態も快方へ向かうに違いありません!」
圭一に教えたら物凄く喜びそうだけど、なにか腹が立つから教えないことに、
「我が心の師、Kの監修でデザインした鷹野さん専用メイド服はすでに発注済みです。これで我々の研究は新しいステージへと記念すべき一歩を踏み出しますよ、鷹野さん!」
……入江といい富竹といい、僕の知らないところでいつの間にか圭一が独自のネットワークを形成しつつあるらしいことに脅威を感じてみたり。
「ええ、所長! 沙都子ちゃんのために、誠心誠意頑張ってみせます!」
室内なのに心の夕陽に向かって爽やかに夢を馳せる二人をそっとしておくことにして(ついていけないともいいますが)僕はこっそりと所長室を退室すると、沙都子の病室に向かった。病室の前まで来ると、賑やかな声が聞こえてくる。
……どうやら、沙都子が起きたみたいだ。
「あぅあぅ♪」
機嫌良くノックすると、「あ、羽入だよ沙都子」と魅音の明るい声がした。
病室へ入ると、沙都子のベッドの脇には魅音と圭一がいて、楽しげにこの前の部活の様子などを話しているようだった。
「沙都子、元気そうで嬉しいです!」
「入院中で元気なはずありませんわよ……羽入さんはおかわりなく」
声は弱々しいけど、沙都子は柔らかく笑ってくれる。優しい仲間たちの中では、沙都子は笑顔を見せてくれる。いまだL4相当だと入江は言うけれど、こうしている限りは学校にいたころの沙都子よりもやや元気がない程度にしか見えない。
「いまさ、一昨日の部活の話をしてたんだよ。悟史の艶姿、沙都子にも見せてやりたかったぜぇえ!」
「にーにーがエンジェルモートでウェイトレスをしただなんて……信じられませんわ」
と言いながらも、沙都子はそれを想像してうっとりしたような顔をみせる。
「あれはほんと、素敵な光景だったよねぇ……」
「あぅあぅ、悟史がとても可憐だったのです……」
魅音と僕も目蓋の裏に恥らいながら、声が小さいとみんなに言われて何度も何度も『ご注文繰り返しま~す』を続ける健気な悟史の姿を思い描いてひとときの幸福を満喫する。
いじめみたいですが、罰ゲームです。
「沙都子、お前の席はいつだってあるんだからな。焦らなくてもいいから、いつかは戻ってきてくれよな」
圭一が沙都子の頭をぽふぽふと撫でる。
「ええ……、ありがとうございますわ、圭一さん」
沙都子はまた部活に参加する自分を想像しているのか夢見るような表情で圭一を見て、
「圭一さん、もしもわたくしが祟りに襲われたら……守ってくださいます?」
「あぁ、もちろんだぜ!」
圭一は迷うことなく即答した。
「俺だけじゃない、悟史も部活のみんなも、いざってときはお前を守るぜ。……でもな、沙都子」
「?」
沙都子の小さな手を両手で包み込むように握る。
「俺や、みんながいざってときにはお前の力だって必要になるんだ。そのときは、お前のことをたよりにさせてもらうぜ。ギブアンドテイクってやつさ!」
にこりと笑顔をみせる圭一はなにげなく、だけどとても大切なことを言っていた。
そう、ただ庇われる、気遣われるだけでは皆の負担になるだけ。沙都子はそんなことを望んでいるわけがない。だから対等の仲間として、困ったときはお互いに助け合おう、そのために戻ってきてほしい、圭一はそう言っているのだ。
それはとても大切なこと。
楽しいことも苦しいことも分かち合って助け合えるのが本当の仲間だから。
「あはは、圭ちゃんにそれを言われちゃうなんて、部長の面目つぶれるね~。沙都子、私もたよりにしてるよ~」
にこにこしながら魅音がその上に手を重ね、続いて僕も重ねた。
「あぅあぅ、沙都子のトラップがあれば部活メンバーの防衛力は数倍に跳ね上がるのですよ!」
圭一、魅音、僕の顔を順に見つめた沙都子は、どこか泣きそうな顔で微笑む。
必要とされていること、帰りを待っている仲間がいること。
それが沙都子に伝わってくれたなら、きっと彼女が病と戦う力になると思った。
あとを魅音に任せて診療所を出た僕と圭一は、夕暮れ空の下をゆっくりと歩く。
「沙都子、前よりよく笑うようになったよな」
「あぅ、みんなや鷹野が頑張っているからです。もっともっと頑張れば、きっと沙都子ももっともっと勇気を出してくれるのです」
メイド鷹野がその助けになるかどうかは僕に言わせれば微妙だと思うのだけれど、少なくとも入江と圭一のやる気は上がるかもしれない。
「ああ、そうだよな!」
悟史が、圭一はどんなときでも希望を作り出す天才だと評したことがある。
彼の強さはいったいどこから来るのだろう。僕は……こんなにも、弱いのに。
「……圭一、すこし寄り道してもいいでしょうか」
「ん? ああ、いいぜ」
圭一と僕は村を横切って、園崎家が別荘地として売り出している一角へ足を運ぶ。まだあまり売れていないせいか、街灯なども整備されていなくてひと気がない場所なので、あまり夜の散歩で立ち寄ることはなかった。
「あれ、ここって……」
そのなかのひとつ、一等地に近い場所に『売約済』『前原邸建設予定地』という立て札のある空き地があった。圭一の父様が購入した土地だ。
「今年の終わりには、ここに圭一の家が建つのですよね」
「……ああ、そうだな」
もう圭一がこの雛見沢にやってきて3ヶ月という時間が経っている。
そして同じくらいの時間が流れれば……圭一はこの土地に建つ前原家の住人になるのだ。
「行かないで、というのは……僕の、わがままですよね」
ここに家が建つまでの間の居候、最初からそういう約束だった。それはわかっているけれど、3ヶ月ものあいだ家族としてひとつ屋根の下、いやひとつの部屋で梨花と3人で暮らしてきた彼が、いまさら家を出てしまうという事実さえ僕には耐えられそうにない。
圭一にはいつまでも僕たちと一緒にいてほしい。もう同じ家の中に圭一のいない生活なんて、僕にはきっと耐えられない。
だけど、僕たちはまだ子供だから……圭一の親が越してくれば、圭一が僕たちの家に住んでいられなくなるのは当たり前すぎることだった。
「同じ村の中だし、いつでも会えるとはいってもな……」
圭一も複雑そうな顔で立て札をこつこつと叩く。その彼の傍らに寄り添って、そっとおでこを肩にあてた。僕にとってはもう一日の中で一番大切な時間だといえる圭一とのお散歩の時間も、家族でなければまたひとりぼっちになってしまうだろう。
「僕は、圭一と……離れたくないのです」
彼を困らせるとわかっていても抑えられない僕は、こんなにも弱い。
だから圭一の強さを分けて欲しい、その何事にも怯まない強いまなざしを。
「羽入……」
ぎゅっとTシャツの裾を握り締める僕の手に、圭一の手が添えられる。
「そんなの、俺だって同じだっ……」
それはいつもの圭一とは思えないくらい、弱々しい声だった。
思わず顔をあげたら、彼が慌てて顔を拭っていた。
「俺にとって、この雛見沢に来てからの3ヶ月は本当に楽しかったんだ。そりゃ、痛い目にも遭ったし辛い事もあったけど、それでも楽しかった……その前のくそつまんねえ何年かを蹴り飛ばしちまえるくらいにさ」
まだすこし潤んだ瞳を僕からそらし、つらそうにその土地へと足を踏み入れる。関係者以外立入禁止の看板はあるけど、考えてみるとここは圭一の家の土地なのだから問題はないのだろう。僕は圭一に手を引かれるまま、丈の高い草の中へとついていった。
この先はきっと、圭一にとってはほかの誰にも聞かれたくない話に違いない。
圭一は土地の真ん中あたりまできて、すこし草の短いあたりを見つけると座り込んだ。すこし迷ったあと、僕は圭一の隣に腰を下ろす。
「俺はさ、羽入。前の街では、本当につまらない奴だった。……ほら、ここに来たばかりの頃、学校で魅音たちとどう付き合っていいかわからなくて、そっけなくしてたろ。いつもあんなかんじだったんだ」
圭一の手に、後悔によるものだろうか、かすかな力がこもる。
「嫌な奴だったんだ。自分を優秀だって勘違いして、まわりの奴らを見下してた。仲間に入れてくれって言い出せないから、その寂しさを誤魔化すために、そうせずにいられなかった。俺はあんなやつらと違うって、安っぽいプライドを振りかざしてた」
とりとめなく圭一が語った過去は、とても苦くて灰色の数年間だった。
学校にも塾にも、家庭にすら信頼できる人間がいない毎日。自分の価値が成績にしかないと諦めきって、ただ必死で爆発しそうになる感情を押し殺しながらその日々を過ごすしかなかった。それは圭一にとって、鈍い痛みを伴う記憶だった。
「……やっぱり、どこかおかしくなっていたんだろうな。俺は勉強に疲れるとベランダに出て、玩具の銃を通行人に向けては、引き金をひいたときの破滅を想像して愉悦に浸っているクズだった」
はっとして目を見開く。
「圭一、それは……」
僕の言いたいことはわかっていたのだろう、圭一は目を伏せてうなずいた。
「そうだ。あの日、梨花ちゃんを撃ったのは俺なんだ」