思わず受話器を取り落としそうになったのは内緒。
「り、梨花が、撃たれたのですかっ!?」
病院の人から連絡を受けるなり、僕は家を飛び出して入江診療所に向かった。
「入江、鷹野! お願いです、東京に行かせてほしいのです!」
入江はただのお医者さんではなく、ここもただの診療所ではない。会議や研究のために二人がほとんど毎日この時間まで残っているのを、僕はよく知っている。
「東京、ですか?……羽入ちゃん、いったい何がどうしたんです?」
「あぅあぅあぅ、梨花が、梨花が!」
しどろもどろになりながら、今朝ひとりで旅行に行くといって出かけた梨花が旅先で通り魔におもちゃのピストルで撃たれて目を怪我したらしいと伝えると、鷹野はすぐに山狗に連絡をとってその情報の裏をとってくれた。
「安心していいわ、梨花ちゃんの怪我は軽いそうよ。全治一週間ですって」
鷹野の報告で、すこし気持ちが軽くなる。
「それはよかった。眼球まで傷ついていたら、おおごとになるところです」
入江も胸をなでおろしたようにそう言った。
「そ、それであの、梨花のお見舞いに行きたいのですが……」
「残念だけど、それは無理ね。理由は……わかるでしょう?」
なだめる調子で言われて、僕はなにも言えなくなる。
「あぅ……」
雛見沢症候群。
数年前に父様から聞かされたときは正直よくわからなくて、村の皆がそんな得体の知れない病気にかかっているのかと怯えた。僕がその病気に重要な女王感染者で、研究に協力を求められているという話を聞けば、余計に怖くなった。
でも、入江たちの研究が皆を治療するためのもので、梨花や村の皆を助けるにはどうしても必要なんだと説得されて、泣く泣く承諾した。
「わかっているのです……無茶を言って、ごめんなさいです」
鷹野の説明によると、女王感染者である僕が死んでしまったり、遠くへ離れてしまうと雛見沢の皆が急激に発症して疑心暗鬼に陥り、最悪の場合村人同士で殺し合う可能性があるらしい。昔に比べれば皆の症状は弱くなっているとはいえ、用心するに越したことはないからと、長期の外出、遠方への外出などは控えるように言い渡されていたのだ。
父様や母様がいれば地団駄を踏んで我が儘のひとつも言うところだけど、二人は去年の綿流しで僕と梨花を置いて死んでしまった。だから僕には、オヤシロ様の巫女として、古手家の当主として……村を守る責任がある。
……我が儘は、言えない。
「こちらこそごめんなさいね。帰りは小此木に送らせるわ」
「ありがとう、鷹野さん。羽入ちゃん、心配でしょうがどうか気をつけて」
山狗の長、小此木をつけてくれたのは鷹野のせめてもの侘びの気持ちだろう。
造園会社の名前が入ったワゴンで僕を石段の下まで送ってくれた小此木も、
「向こうの病院には部下を張り付かせてます。梨花さんになにかあれば、すぐに報告します。安心してお休みになってください」
真面目な口調でそう請け合ってくれた。
「おやすみなさいです……」
梨花のことは心配だけど、怪我は軽いそうだし駆けつけることができないなら僕にできることはないのも本当のことだ。仕方なく電話を枕元に引き寄せて寝るのが、せいいっぱいだった。
翌日のお昼近くになって、梨花から電話がかかってきた。
「り、梨花ぁ~! 大丈夫なのですか、怪我は痛くないのですかっ!?」
『羽入は心配しすぎなのです。ボクは強い子なのでへいきですよ☆』
勢いこんで尋ねたというのに、梨花の返事はあまりにもけろっとした様子だったので思いきり力が抜けてしまった……、あぅあぅ。
『病院は退院しましたが、いちおう様子をみるので明日も来るようにと言われたのです。たぶん帰るのは明後日になりますので、知恵にはそう伝えてくださいです』
「明後日って……梨花、泊まる場所や、お金は大丈夫なのですか?」
鷹野に言えば、ホテルなどを手配してくれるかもしれないと思ったけど、
『大丈夫なのです。通り魔さんに撃たれたボクのために救急車を呼んでくれた親切な男の子がいるのです。その子のお家が泊めてくれるそうなのです』
「そ、そうですか。あぅ……梨花から、よくお礼を言っておいてください」
都会の人は冷たいなんてよく言うけれど、やっぱり親切な人はいるものだと思う。
連絡先をとりあえず聞いたところで、梨花が真面目な声で言い出した。
『……羽入、それでひとつお願いがあるのです』
「お願い、ですか?」
梨花が僕にお願いなんて珍しい。いつも、なんの相談もなく動いては『にぱ~☆』で誤魔化すのが梨花の得意技なのに。
『その男の子が、雛見沢に引っ越してくることになったのですが……お家はこれから建てるので完成までの間、ボクたちのお家に居候させてあげてほしいのです』
「あぅっ!?……い、居候ですか?」
改めてお部屋を見回す。
台所やおトイレ、お風呂はかろうじてついているものの、残りの茶の間と居間と応接室と勉強部屋と遊び部屋と寝室を兼ねたオールラウンドな六畳一間の我が家。ちなみに1階は消防団の倉庫で、隅っこのほうをちょっとだけ物置として使わせてもらってはいるけど基本的にはスコップやら一輪車やらバケツやらがひしめく、有り体に言って防災倉庫そのもの。
梨花と僕の二人だけで古手本家の広いお屋敷に住んでいてもお部屋は余るくせにお掃除は大変で、かといって両親が亡くなってから後見人を買って出てくれた喜一郎の公由本家は神社から自転車で二十分もかかる。お務めとして毎朝毎夕境内をお掃除しなければならない僕たちは仕方なくこの部屋で暮らすことにしたのだけれど……姉妹二人だけだからどうにか暮らせているのであって、この上さらに一人というのはかなり窮屈な気がした。
その上、男の子!?
どういう経緯があって雛見沢に引っ越してくるのかよくわからないけど、一応僕も梨花もそろそろお年頃の女の子なわけで、いくらなんでもまずいような……。
だいいち、その子のご両親はどうしているのですか?
『圭一の両親は東京でのお仕事が多いので、引っ越してくるのはお家が建ってからになるそうです。……羽入、ボクがちゃんとお世話するので許してほしいのです』
いやそんな、犬や猫を拾ってくるみたいなことを言われても困りますです。
……とはいえ、梨花の恩人とあっては無碍に断るわけにもいかないのは確かなわけで……。
御三家の会合では魅音や喜一郎も村に若い人を増やしたいと話していたし、家が建つまでの仮住まいということならそう問題はないかもしれない。……と思いたいのですが。
「……わかったのです、梨花。支度はしておくので、そちらの皆さんにご迷惑にならないようにするのですよ」
『任せてなのです、羽入。……ありがとうです』
というわけで、なにやらあぅあぅなことになってしまった。
それから診療所や公由の家に行って事の経緯を報告したり、翌日には学校で知恵に梨花の欠席を伝えなければいけなかった。知恵に例の男の子のことも話したら、
「ええ、さっき東京の学校から連絡がありました。……えぇと、前原圭一くんですね。羽入さんのひとつ上、中学1年生です」
急な転校話なので、書類はまだ届いていないらしい。
中学生男子といえば、そういう方面の興味に特化したパーフェクトソルジャーなだけに、いやな予感がしてしまう。
この雛見沢分校にはもともと中学生が少ない。村の子でも中学生になるとほとんどは興宮の中学へ通っているから、自然と興宮まで毎日自転車で往復するのが体力的にきつい小学校低学年の子供達が多くなる。中学生といえば2年生の魅音と悟史、それにこの前転校してきた1年生のレナ、3人しかいない。
「羽入さん、なにぼやーっとしてますの。そんなに梨花が心配なんですの?」
隣の席の沙都子が顔を覗き込んでくる。
「あぅ、なんでもないのです。沙都子、どこかわからないところはありませんですか?」
先生が小さい子の勉強を見ている率が高いので自然、年長組である悟史やレナ、年少組でも最高学年の僕は知恵の手が回らない下の学年の子たちの勉強を見るのが分校の習わしとなっている。……え、魅音ですか? 推して知るべし、なのです。あぅ。
「えぇ、大丈夫ですわ。さっきにーにーに教わりましたから!」
……にっこりと微笑む沙都子は本当に可愛い。
「沙都子は真面目な良い子なのです」
なでなでしてあげたら途端に真っ赤になって狼狽えて、
「なっ! は、羽入さん、一つしか違いませんのに、子供扱いはよしてほしいですわ!」
「あぅあぅ、僕も沙都子も子供なのですよー?」
学校にいるときの、この沙都子が本来の姿なのだと信じたい。
沙都子は複雑な家庭事情のせいで心を病んでいた。
病んでいた、というのはちっとも比喩ではなく、入江の診断によれば雛見沢症候群の、現在のところ唯一、重度発症の疑いのある患者ということになる。
2年前、旅先で両親を失った事故も……入江は語りたがらないが、被害妄想に取り憑かれた沙都子自身の手で引き起こされた疑いもあるらしい。
疑心に駆られて、両親を突き落とす沙都子の姿。
その想像は容易で……、まるで僕自身がその場面を見ていたかのように、はっきりと思い描くことができる。
あの事故からしばらくは入院生活を送っていた沙都子だけど、今は叔父夫婦に引き取られて家に戻り、……そこでも、叔母に意地悪をされているらしい。
悟史が間に立ってかばってくれるから大事には至っていないようだけれど、沙都子の症状を知っている身としては綱渡りのような危うい日々に見えてしまう。
園崎が北条へ圧力をかけていることを気に病んで学校では一切のいじめを許さないと睨みをきかせている魅音はもちろん、なにも知らないはずの梨花さえも沙都子をなにかと気遣っているから、いまの沙都子があやうく見えているのは僕だけではないと思う。
いざというとき、僕になにができるかわからないけれど、沙都子がまた凶行に及ぶような事態だけは避けたいと……心から思う。
見ているだけしかできないなんて嘆いているのは、オヤシロ様だけで十分なのだから。
……というのは巫女として不敬の極みかもしれないけど、お年寄りの皆によれば僕はそのオヤシロ様の生まれ変わりらしいので、特にさし許すと自己完結してみる。
ともかくその日は無事に過ぎて、夜にはもう一度梨花から電話があった。
手続きも万事順調に進んでいて、明日梨花と一緒にその男の子もこちらへやって来るのだそうで……あぅあぅ、もうすこし心の準備をする時間が欲しかったのです。
次の日は早起きして、とりあえず新しい住人を迎えられるように家を隅々までお掃除することにした。
「……と、とりあえず、こんなところなのです」
納得がいくというのにはほど遠いけれど、これ以上は時間的にも体力的にも無理だった。
そして大急ぎで梨花と共用の自転車に乗って商店街へ行き、いろいろとおまけしてもらいながら夕飯のお買い物を済ませたところで、レナとばったり会った。
「羽入ちゃん、こんにちは。梨花ちゃんは一緒じゃないんだね」
「レナ、こんにちはです。夕方には東京から戻るはずなのですよ」
この子、竜宮レナは僕のひとつ年上の女の子で、先々週に茨城から転校してきたばかり。
でも実のところ数年前まではこの雛見沢の住人だった。お互いに小学校に上がる前の知り合いなので一緒に遊んだ記憶はおぼろげだけれど、まったくの初対面でもないのでずいぶんと早く村に馴染んでいる気がする。
「魅ぃちゃんに聞いたよ。梨花ちゃん、旅行先で怪我しちゃったんだってね」
雛見沢における噂の伝播速度は侮れない。新参者のレナもその例に漏れないようだ。
「そうなのです。目を怪我したと聞いて僕もびっくりしましたが、本人はけろっとしてるのでたいしたことないみたいです」
「そっか……明日は学校、出てこられるのかな。かな?」
「梨花のことですからさぼりたがるかもしれませんが、そうはいかないのです。あぅ!」
僕がガッツポーズをしてみせると、レナは朗らかに笑った。
「あはは、羽入ちゃんは厳しいお姉さんなんだね。だね!」
それから他愛もない話をしながら途中まで一緒に歩き、また明日学校でと手を振って別れた。彼女には独特の、……清浄な空気のようなものがある。その正体がなんなのかはわからずじまいだけど、仲良くなれそうだと僕は勝手に思っていた。
「あぅ、もうこんな時間なのです!」
レナとのお喋りでゆっくりしすぎたのか、家に帰り着いた頃にはもう夕方といってもいい時間になっていた。
ささやかな歓迎会くらいはしようとお料理の下ごしらえをしているところに、階下でシャッター脇のドアが開く音と梨花の声がする。どうやら帰ってきたらしい。
階段を上ってくる二人ぶんの足音、僕はいてもたってもいられなくて玄関に向かう。
「羽入~、ただいまなのです!」
姿をみせた梨花はこっちの心配も知らずに元気いっぱいの様子で、片目を眼帯に覆われていてもその笑顔に曇りはなかった。
「梨花ぁ! もう、心配させすぎなのです!」
安堵のあまり抱きしめてしまってから、梨花の後ろで所在なさそうに立っている男の子に気づいてはっとする。
……こ、これではまるで僕が梨花に甘えているみたいな構図です、あぅ。
慌てて梨花を離し、取り繕うように男の子のほうへと向き直る。
すると彼は荷物をいったんその場に置いて、抱えていた紙袋のひとつから白い箱を取り出した。
「え、えーと……前原圭一です、よろしく」
こ……この生クリームのほのかな甘い香りは……ッ!
神の至宝、文化の真髄、甘味の王様、その名はシュークリーム!
やる気と元気を司る謎の栄養素、シュークリーム分を内包した神秘の活力源!
シュークリーム賛歌は人間賛歌ッ!
地球のみんな、オラにシュークリームを分けてくれ!
シュークリームに、栄光あれぇぇぇ!
諸君、私はシュークリームが大好きだ!
……などなど、数多の世界の偉人たちも絶賛!
そのシュークリームが、シュークリームが、いま、我が手に!
思わず踊りだしそうになるところをぐっとこらえてはみたものの、顔が緩んでしまうのは止めようがない。
いきなりこんな素敵なプレゼントを持参だなんて、彼はきっといい人です!
しかも梨花の恩人だし、優しい人に違いないのです。
パーフェクトソルジャーだなんて酷い誤解もあったものです!
居候? 実にウェルカム、未来永劫オールオッケーなのですよ!!
「あぅ、ありがとうです! 僕は古手羽入なのです……妹が、梨花がお世話になりましたのです。狭い家ですけど、自分の家だと思ってくつろいでほしいのです」
そう言って頭を下げたら、彼……圭一も、すこし照れくさそうに笑ってくれた。
このときは、まだ。
その笑顔が僕と雛見沢にとってかけがえのないものになるだなんて、思いもしなかった。