ひぐらしのなく頃に~神楽舞   作:晃晃

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第88話 桜吹雪が舞う頃に

「あ……!」

 

 

春休み最後の日。

 

いつものように境内をお掃除しようと朝から古手神社に出掛けた僕は、石段を登りきった途端に絶句してしまった。

 

先週の雨でわずかに残っていた雪が消えたと思ったら、暖かい日が続いて……一昨日来たときはまだ固い蕾だったはずなのに、境内の桜がほとんど開花していた。

 

いきいきと色づいた桜に目を奪われて、心には浮き立つ気持ちと同時に懐かしさ、それに……えもいわれぬ哀切がじわりと滲む。

 

小さな頃からそうだった。

 

僕は桜の優しい色が大好きで、この時期の古手神社と雛見沢を待ち焦がれていて……それなのに、桜を見つめていると胸の奥から泣きたい気持ちが沸きあがってくる。

 

 

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。

 

 

理由もわからずに形をなさない思い出の中の誰かに謝りながら、桜を見上げたまま両手を水平に広げる。

 

忘れたくなかった誰か。

 

きっと忘れないと誓ったはずの誰か。

 

その誓いと引き換えにしても守りたいなにかがあって。

 

忘れることを選んだのは、きっと僕の罪だから。

 

ふわふわとしたステップで回りながら、三百六十度の視界を埋める薄紅色を心に焼き付けていく。

 

 

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。

 

 

空の蒼と薄紅色の混じりあう記憶の向こう。

 

そこで、“誰か”と“誰か”が微笑んでいる気がした。

 

くるり、くるり、くるり。

 

ゆっくりと回りながら、咎の苦味を呑み込んでいく。

 

いまの家族への想いを胸に満たす。

 

梨花、圭一、レナ、……それに雛見沢の仲間たち。

 

やわらかな愛しさで、消せない痛みをこの身に溶かす。

 

 

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。

 

 

繰り返す謝罪など、きっと誰も望まない。

 

それでも謝り続けたのは、僕自身のためだった。

 

歳月という名の雪が降り続けるとこしえの冬を抜けて、僕はこの暖かなひだまりの春へと駆け出した。

 

冬の記憶を置き去りにして、移ろう季節を望んだのだ。

 

その座に二度と戻らぬという、罪深い決意とともに。

 

 

「あぅ!?」

 

 

木の根に足をとられて、一瞬身体が浮いた。

 

地面に尻餅をついて……視線を静かに落とす。

 

じんじんと疼く胸を押さえて、甘い空気を吸い込んだ。

 

「羽入ちゃん、大丈夫!?」

 

と、石段のほうから声がかかる。

 

軽やかな足音とともに駆け寄ってくるのは、春物の私服に身を包んだ鷹野三四だった。

 

「転んじゃったの? 怪我はないかしら」

 

その優しげなまなざしを見上げて、形を成しかけていた遠い記憶が霧散していくのを感じる。

 

あれは、父様と母様?

 

それとも別の誰かだったのか?

 

……わからない。

 

「あぅ……、へいきです」

 

鷹野の差し出した手をとって、引き起こしてもらう。

 

彼女の後ろから、カメラを手にした富竹もやってきた。

 

「大事がなさそうでよかったよ、羽入ちゃん」

 

「うふふ、桜にみとれて転んじゃったのかしら?」

 

くすくすと温かみのある笑みをこぼしながら、鷹野はしゃがみこんで、僕のスカートについた汚れを払ってくれる。

 

「無理もないよ。相変わらずここの桜は見事だね」

 

富竹も笑いながら、ファインダーを覗き込む。

 

遠くなってしまった面影のかわりに、浮き立つ気持ちが戻ってくるのを感じた。

 

「……富竹、鷹野。圭一を見ませんでしたか?」

 

そわそわしながら尋ねるけれど、二人は顔を見合わせてからすこし肩をすくめるような仕草を返した。

 

「いや、見てないなぁ」

 

「ごめんなさい、私も会ってないわね」

 

「そうですか」

 

心がはやるのを鎮める理由はない。

 

いまの僕は中学生という肩書きを手に入れたばかり、思春期のいち少女に過ぎないのだから。

 

「……ゆっくりしていってくださいです。二人とも」

 

鷹野と富竹にぺこりとお辞儀をして、駆け出した。

 

「また転ばないように気をつけるのよ!」

 

「わかってますので、あぅっ!?」

 

心配性の鷹野の声に振り返って手を振ったら、石畳であやうく転びそうになったけどどうにか立ち直って、石段を降りる。

 

呆れぎみの笑い声が聞こえたけど、気にならなかった。

 

 

何故だろう。

 

心の奥にこびりついた違和感が拭えない。

 

あんなに優しくて、僕によくしてくれている鷹野が……、僕は以前からとても苦手だった。嫌いだといってもいい。

 

はっきりとそう感じていたのは彼女の猟奇趣味、オヤシロさまやこの村に対する偏った蘊蓄を披露されたからだ。

 

けど、去年あたりからはあまりそんなことを言い出さなくなっている。沙都子の看護やお世話のためにそれどころではなくなっているのかもしれないけれど、根本的に彼女のなにかが変わってしまったようにも感じる。

 

まるで本能か前世の宿縁でもあるかのように彼女への反発を抱く自分が、とても矮小で嫌な人間に思えてくる。

 

神ならぬこの身に、なにもかもを好きになれというほうが無理なのだろうけれど……。

 

この違和感、いや、もっと有り体に言ってしまえば鷹野へのあまりにも不当な“疑念”が……昭和58年6月が近づくにつれて大きくなっていくのは、何故?

 

 

心に浮かぶ一抹の暗雲を振り払って、駆ける。

 

楽しいことだけ考えよう。

 

いったん家に帰ろうと小走りで別荘地に向かう途中、魅音と沙都子が手に手になにやら荷物を持ってやってくるのが見えた。

 

「羽入さん、ごきげんようですわー!」

 

「はろろ~ん☆ 奇遇だねぇ~」

 

同じ笑顔で声をかけてくる。

 

「あぅ、こんにちはです。おでかけですか?」

 

小首をかしげてそう尋ねたら、沙都子がよくぞ聞いてくれたと言いたげな満面の笑顔を返してくる。

 

「を~っほっほ! 雪もとけたことですし、裏山の華麗なるトラップ郡のメンテナンスですわ。魅音さんは、梨花の都合が悪いので調達した臨時助手ですのよ!」

 

「私が助手? なんだか不満だねぇ~」

 

魅音が口を尖らせると、沙都子は勝ち誇ったように腰に手をあてて胸を張った。

 

「わたくしにトラップの基礎を教えてくださったのは魅音さんですけれど、いまは精進を重ねたわたくしの技量が上だと自負しておりますわ! 悔しかったらわたくしを唸らせるようなトラップを仕掛けておみせなさいな!」

 

「ほほぅ……、言うねぇ沙都子。元祖トラップマスターの私を本気にさせようっての?」

 

ぎらり、魅音が鋭く目を光らせれば、沙都子も余裕の笑みで応じて、可愛い八重歯を牙のようにむき出す。

 

「無謀にも本家トラップマスターたるわたくしとやり合おうとおっしゃるなら、死に物狂いになることをお勧めしますわ、魅音さん!」

 

互いの不敵な笑いが火花を散らす。

 

「あ、あぅあぅあぅ……な、なんという無駄な緊張感!」

 

びっ、と魅音が沙都子に指をつきつけた。

 

「予告しようッ!」

 

魅音、なぜ今、ジョジョ立ちを……ッ!?

 

「あんたは我が奥義、“緊縛の圭ちゃん地獄落とし~終わらない走馬灯”で息の根を止めると!」

 

「あぅ!? なにやら、圭一が大変なことにっ!?」

 

突然魅音の口から恐ろしいフレーズを聞かされ、僕はがくぶると身を震わせる。

 

だけど、沙都子も負けてなどいなかった。

 

小さな肩に覚悟を背負って、堂々たる態度で魅音のプレッシャーに立ち向かう!

 

「ならば魅音さん、あなたをわたくしの新必殺トラップ、“戦慄のロケットにーにー地獄変・改~妹への愛に殉じた男”で見事に迎え撃ってさしあげますわッ!」

 

「どんなトラップなのか凄く気になるのです!?」

 

睨み合う魅音と沙都子。

 

両者一歩も譲らず、得体の知れないオーラをまとってその場の空気をゴゴゴゴゴゴゴと震わせている。

 

「……くっくっく、それじゃいこうかね!」

 

「……ええ。わたくしたちの決戦の地へ!」

 

元祖と本家、二人のトラップマスターは低い笑いを響かせつつ裏山へと向かって歩み去っていった。

 

「あ、あぅあぅあぅ……」

 

呆然と見送るしかなかった僕だけど、本来の役割を思い出してオヤシロさまに祈る。

 

「どうか圭一と悟史に、幸せな来世がありますように」

 

祈ることしかできない無力な僕を許してください。

 

見上げた青空に、圭一と悟史の笑顔を幻視した。

 

「無茶しやがって、なのです……」

 

あぅ、二人の運命を思うと思わず涙が……。

 

気を取り直して、再び小走りに家に向かう。

 

鷹野が優しいことも、あの二人が仲良しでいることも、僕にとっていいことであることは間違いない。

 

未来に不安など、あるはずがない。

 

だから吹き飛ばしてしまわなければ、この暗雲を。

 

その方法はもうわかっている。

 

圭一といっしょに、あの古手神社の桜を見たい。

 

そうしたら……あの遠い記憶の中の“誰か”が、笑ってくれる気がする。

 

いまの僕がしあわせであることを教えてあげたい。

 

すこし息を切らしながらたどりついた別荘地の入り口に、見覚えのある車が停まっていた。

 

「おやぁ~、古手さんじゃないですか」

 

開いた運転席のドアで、シートに横座りしながら煙草をふかしているのは大石だった。

 

「大石……、なにかあったのですか?」

 

はずして手に持っている車に備え付けの灰皿に吸いさしを押し付けながら大石は気楽そうに笑う。

 

「あーいえいえ、今日のところは平和なもんですよ。こうやって赤坂さんの足をさせてもらってるくらいです」

 

顎をしゃくってみせた先では、先日エンジェルモートで見かけた大柄な青年がなにやら図面を手にした建設業者らしい男性と話し合っていた。

 

ときおり目の前の土地を指差したり、図面に修正を入れている様子からするとなにかの打ち合わせらしい。

 

「いやぁ~、なっはっは。彼、本気でこっちに住むみたいですねぇ……東京の仕事、どうするんだろうなぁ~」

 

「そうですか……」

 

ご近所になるなら改めて挨拶をしておいたほうがいいだろうかと思ったけど、見るからに忙しそうなのを邪魔しても悪いので今日はやめておこうか。

 

その場を離れようとして、ひとつ思いついた。

 

「大石、時間があったら赤坂を神社に案内してあげてくださいです。今年の桜は、とても見事なのです」

 

それを聞くと大石はほお!と破顔して、

 

「そいつはいいですねぇ。是非そうさせてもらいます」

 

「はい。それでは、さようならです」

 

大石に会釈をして、その場を離れる。

 

「えぇ、前原さんや皆さんによろしく」

 

最後にちらりと赤坂のほうを見るけど、熱心に打ち合わせをしているようだった。

 

……この前の様子だと梨花と知り合いのようだけど、どういう縁なのか見当もつかない。あのときの梨花はどう振舞っていいいのか戸惑っているように見えた。

 

これは凄いことだ。

 

傍若無人かつアホの子で、さらに猫かぶりのスキルまで持ち合わせる我が妹にとって対人コミュニケーションこそはホームグラウンド。その梨花をあぅあぅさせる人の子などそんじょそこらに転がっているはずがない。

 

……そういえば東京に仕事があるようなことを言っていたけど、去年東京にいったときの知り合いとかだろうか?

 

いくら考えてもわからないので、今度梨花に直接聞いてみることにしよう。

 

赤坂の存在も不可解だけれど、大石もよくわからない。

 

沙都子の周囲や両親の死を嗅ぎ回っていた彼に僕は決して良い印象を持っていなかった。彼の怪死事件に対する執念は不穏なものを引きずり出してしまう気がして、不安要素のひとつだった。

 

でも運動会の頃以来だろうか、圭一や悟史との趣味のつながりからか、たびたび僕たちの前に現れるようになり、部活メンバーともそれなりに友好的な関係を築いている。

 

彼をどこかで邪魔者だと感じてしまうのも、鷹野に対するものと同じく、まったく理由のない感情だった。

 

「……巫女失格なのです」

 

縁結びの神であるオヤシロさまの巫女が、人と人との縁をいまひとつ信じ切れずにいるのは、修行不足故なのか。

 

と考えている間に僕は我が家に着いていた。

 

……この前原屋敷に引っ越してきて約半年、もうすっかりここを自分の家だと感じてしまっているのがちょっとだけ可笑しい。

 

狭い防災倉庫での三人での生活もそれはそれで楽しかったけれど、この家で過ごす四人での暮らしは素敵だと思う。

 

去年の冬は梨花と二人だったからいろいろと大変だったけど、今年は圭一とレナがいてくれたから、とても賑やかな冬になった。

 

願わくは、来年も、再来年も、その先もずっと。

 

僕たちがにぎやかに暮らせますように。

 

「ただいまです! 圭一、けいいちー!」

 

呼びかけながら居間に入ると、こたつに入ってけだるそうにしているレナがいた。働きもののレナにしては珍しい。

 

「レナ……どうしたのです? 元気がなさそうなのです」

 

すこし心配になってそう尋ねると、レナはこたつの上に顎をのせてだるそうな表情で僕を見る。

 

「えとね……その、暇だから、たれてたの」

 

『たれる』……!?

 

それはもしかして、たまに圭一と梨花がやってるあの不思議な遊びのことでしょうかッ!?

 

「……でもレナのは、『たれる』というよりも『だれる』なのですよ」

 

「や、やっぱり……?」

 

自分でもなにかちがうと思っていたらしい。

 

レナはむーとかうーとか言いながら、身体を起こした。

 

たれ梨花に追いつくにはもっと修練が必要なようです。

 

……そんな価値があるのかと言われると疑問ですが。

 

「羽入ちゃん、おかえりなさい。早かったね」

 

気をとりなおしてにっこり笑いかけてくれるレナはときどき母様と重なって見えてしまう。

 

ままごとみたいな共同生活の中の母様ポジションは僕が占めたいと思っているので、ちょっぴり悔しい。

 

「レナ、圭一はいませんですか?」

 

尋ねるとレナはすこし困り顔で、

 

「圭一くんならさっき出掛けちゃったけど……」

 

「あぅあぅあぅあぅ……」

 

なんという間の悪さ、思わずがっくり肩を落とす。

 

「圭一くんになにか御用だったの?」

 

「……あ、レナにも見せたいのです。桜なのです!」

 

「さくら?」

 

きょとんとしたレナだけど、すぐにはぅ~☆とかぁいいモードの構えになる。

 

「いいよねいいよね。さくらちゃん、かぁいいよね☆」

 

「あぅあぅ……いえ、そっちではなくてですね」

 

圭一と一緒に熱心に見ている魔法少女アニメの話だと気づいてぶんぶんと首を横に振る。

 

「古手神社の桜がとっても綺麗に咲きましたのです!」

 

レナも去年のこの時期にはまだ茨城にいたから、雛見沢の桜を見るのは何年かぶりになるはず。

 

「へぇ~! いいねいいね、うん! レナも見たい!」

 

今度はちゃんと伝わったらしく、きらきらと目を輝かせてくれた。

 

「僕も圭一を捜していきますので、あとで境内で合流しましょうです」

 

「うん、わかったよ!」

 

「それで梨花は、まだお部屋ですか?」

 

休みの日はお部屋かおこたでごろごろしていることも多い怠惰な我が妹だ。

 

「梨花ちゃんもさっき出掛けちゃったけど……たしか、学校にいくって言ってたかな。かな?」

 

「学校、ですか?」

 

きょとんとしてしまう事実だ。

 

いったいあの子が学校になんの用事があるというのか。

 

「なにしに行くかまでは言ってなかったけど……」

 

「あぅあぅ……わかりましたのです」

 

なにはともあれ、所在がわかっているなら問題ない。

 

「梨花が圭一の所在を知っているかもしれませんし、僕は学校に行ってみるのです!」

 

「うん、それじゃまたあとでね!」

 

レナに手を振ってまた家を飛び出す。

 

 

竜宮レナ。

 

彼女もまた、その暖かな笑顔の向こうにどこか不安定なものを抱えている気がする。

 

レナ自身に非があるのではない。

 

まっすぐな彼女を追い詰めていく“何か”がある。

 

圭一や僕たちと暮らしているいまの彼女はその不安定さを露わにはしていないけれど、全てがうまくいっているわけではないはずだ。

 

なぜか僕は、どんなに謝り続けても彼女を救えないもどかしさを知っている気がする。

 

……でも、大丈夫。

 

きっと大丈夫。圭一は彼女の支えになっている。

 

だから僕が、不安に思うことなんてなにもない……!

 

 

いつもの通学路を駆けていると、後ろからやってきた白いワゴン車がゆっくりと併走しながら短くクラクションを鳴らす。

 

開いた運転席の窓から小此木が苦笑ぎみの顔を見せた。

 

「羽入さん、今日はずいぶんあちこち移動されますんね」

 

「あぅ、ごめんなさいです」

 

そういえば、神社にいったらすぐに引き返してきたことになるし、家に帰ってもまた直後に出たわけだから、僕を監視している山狗も右往左往しているのだろう。

 

「実は、圭一を捜しているのです」

 

「あぁ、なるほど。前原の坊主なら、さっきダム現場のほうにいったようですがね」

 

ダム現場といえば最近圭一とレナはあの場所でのトレーニングを再開しはじめているらしい。レナは家にいたけど、ひとりで鍛えているのかもしれない。

 

「そうですか、ありがとうです!」

 

なぁんも、と小此木が苦笑いのままで窓を閉めて、ワゴンはそのまま走り去っていく。

 

 

小此木と山狗たちは、僕を守ってくれる存在。

 

監視される生活に不自由を感じないわけでもないけれど、そのへんは鷹野が気を遣ってくれているからごく緩やかなものだし、彼らを警戒しなくてはならない理由などない。

 

僕が何者かに害されたとして、一番困るのは彼らだ。

 

それなのに何故、彼らがいることに対して僕が感じるのは安堵ではなく不安なのか。

 

彼らが一昨年、父様と母様を守ってくれなかったから?

 

去年の祟りから、僕たちを守ってくれなかったから?

 

……違う、と叫ぶ声が僕の中にある。

 

どうして、僕はこんなにも……なにもかもうまくいっているはずのこの世界に対して苛立っているのか?

 

 

とりあえず、ここから近い学校へ先に寄ることにした。

 

下駄箱で感じたのは、不吉な予兆。

 

「あぅぅ……」

 

僕は顔をしかめつつも、靴を履き替えてその予兆の発生源である職員室へと向かう。

 

僕の大事な妹、梨花はたぶんその場所にいるはずだ。

 

職員室の扉の前に立ち、躊躇する。

 

この扉を開けてはいけない。

 

開ければ、僕は必ず後悔する……あってはならない光景、決して信じたくない事実を目にすると理解している。

 

それでも……開けなければならない。

 

僕は、ゆっくりと……職員室の扉を開いた。

 

途端、襲ってきたのは、鼻孔を刺激する強烈な臭気。

 

息苦しさと吐き気を覚えた僕は口に手をあてて、けほけほと咳き込む。目の奥が痛い。涙で視界がかすむ。

 

滲んだ視界の先に……変わり果てた妹の姿があった。

 

「……あら、羽入。どうしたの?」

 

ぐつぐつと音を立てるカレーの入った大きな鍋をかきまぜる梨花は、魔女さながらの異様な姿だった。

 

「り、梨花、これはいったい……なんなのです!?」

 

「なにって、カレーよ。新しいレシピを思いついたから、知恵と試してみようと思ってここへ来たのよ」

 

低く笑う梨花の向こうでカレーの具とおぼしき揚げ物をしているのは、担任の知恵だった。

 

「知恵……! 梨花には、ちゃんとお家でごはんを用意するのです! カレーばかりでは、栄養が偏るのですよ!」

 

姉として当然の抗議をしたのだが、知恵は振り向いて余裕の笑みを浮かべた。

 

「カレーはあらゆる栄養素を含んだ完全なる健康食です、羽入さん。うふふふ……梨花さんはそれを理解し、カレーの探求者としての使命に目覚めた私の同志なんです」

 

……あぅう……。

 

突きつけられた事実に、思わず泣きそうになる。

 

僕の可愛い梨花が、大切な妹が……担任の手によって洗脳されてしまったという恐ろしい現実。

 

「り、梨花……」

 

それでも、呼びかけずにはいられなかった。

 

「なぁに羽入?」

 

たとえ、地獄の臭気(カレー臭)を漂わせていても……梨花は僕にとって、かけがえのない最後の肉親なのだから。

 

「境内に、桜が咲いたのです……レナや圭一と一緒に見にいくことになっているので、その……梨花もどうですか」

 

せいいっぱいの泣き笑い。

 

梨花はそれを聞くと、顔を綻ばせた。

 

「そう、今年も咲いたのね。いまは取り込み中だけど、後で私も合流する。教えてくれてありがと、羽入」

 

にぱ~☆と微笑む梨花は以前と変わらぬ様子に見えるのに……決定的ななにかが違ってしまっている。

 

人間として大切なものを、カレーに捧げてしまった。

 

カレーが憎い。

 

僕から梨花を奪ったカレーが憎い……っ!

 

「……羽入さん、なにかカレーの悪口を考えてませんか」

 

ぎらりと知恵が強烈な眼光を放ってきた。

 

こ、このプレッシャーは……ッ!?

 

「あぅあぅ、気のせいです!」

 

僕は取り繕うようにそう言って、その場を駆け出した。

 

一目散に。

 

妹を地獄の釜の底に置き去りにしたまま、逃げたのだ。

 

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。

 

でも、いつか梨花を取り戻してみせる、必ず……っ!

 

というわけで、妹の窮地を置き去りにして、無力な僕は圭一がいるはずのダム現場へ向かった。

 

 

血を分けた姉妹でありながら、梨花も隠し事をしている。

 

赤坂の件もそうだし、祟りについてもなにか思うところがあるらしい。

 

でも、考えてみれば僕のほうも梨花に話せずにいることがある。入江機関や雛見沢症候群のことだ。隠したくて隠しているのではないとはいえ、いい気分ではない。

 

ときどき、梨花は全てを知っているのではないかと思うことがある。オヤシロさまの生まれ変わりと呼ばれる僕よりもよほど神通力めいた予言の才を持つ梨花には、我が妹ながらそういう底知れないところがある。

 

それでも、梨花は妹だから。

 

この身に代えても、守りたい。

 

 

……で、ダム現場なのですが。

 

なにをやってるのでしょうか、この人たちは……。

 

「本当にその距離で続けるのかい、圭一!?」

 

「いいんだよっ! ほら、行くぜ!」

 

ゴミの少ない、すこし開けたあたりで……圭一は下手から硬球をおもむろに投げる。

 

ボールを投げた先には、愛用の金属バットを手にした悟史が立っていて、さほど球速のないボールを手元に引きつけて狙い澄ましたように打ち返す。

 

キィン、という鋭い打撃音と同時に……数メートルの距離に立つ圭一めがけピッチャー返しとなって襲いかかる。

 

「うぉぉらぁああッ!」

 

すでにいつものように拳を構えていた圭一は胸に向かって跳んでくるそれを迎撃すべくバンテージの巻かれた拳を振るった。

 

でも、普通のピッチャーマウンドとバッターボックスの距離に比べたら半分もない距離で飛来する打球は初速とほとんど変わらぬ勢いで圭一を襲った。

 

「ぐがっ!」

 

かろうじて拳をかすめたものの、跳ねたボールは圭一のこめかみを痛烈に撃つ。

 

「……圭一っ!」

 

思わず駆け寄った僕だけど、圭一は頭を押さえながら多少涙目気味の顔をこちらに向けた。

 

「あーいて……羽入、どーしたんだ」

 

よく見ると、顔の何カ所かが軽く腫れているし、袖をまくって露出している右腕には青痣もいくつか見えている。

 

「ど、どうしたは僕の台詞なのです! 男同士で打撲プレイに目覚めるなんて、あぶのーまる過ぎるのですよ!」

 

「いや、プレイじゃないぞっ!?」

 

「ち、違うのですか!?」

 

あまりに意外な答えに思わず目を見開く僕だった。

 

「本気で驚くな! 普段どーゆー目で俺を見てる!?」

 

「雛見沢が世界に誇る、堂々たる変態さんなのです」

 

素直に答えたら、圭一が遠い空を仰いで飛行機雲など眺めるふりをする。……涙がこぼれ落ちないように。

 

「……こ、これはな、悟史の特訓だ」

 

「あぅ?」

 

悟史は苦笑いをして、バットで軽く素振りをする。

 

「うん。僕もいざというときにみんなを守れるようになりたいからね。近距離なら狙ったところに打球を飛ばせるように練習してたんだ。一応、野球の練習にもなるし」

 

なるほど、飛び道具ということか。

 

確かに威力は打球のほうが上だろうけど、素直に手で投げたほうがコントロールはいいような気がするのだけど。

 

「それに協力するついでに、俺のほうでも動いてるものを拳で捉える練習にさせてもらってるってわけだ」

 

さりげなく涙を拭ったのか、笑顔の圭一が腕組みをして笑顔をみせる。

 

「あぅ……それはわかりましたが、もうすこし距離を置いたらどうなのですか。練習で怪我をするのは駄目です」

 

「そうは言うがな羽入。これ以上後ろだと、なかなかまともに返ってこないんだよ」

 

「あはは、そういうこと」

 

悟史の説明によれば、ノックの練 習などである程度の範囲に打球を集めることはできても、常にライナー性の当たりを人間に当てるという条件となるとさらに難しくなるのだそうだ。ああ見えて 野球が得意な沙都子が右と左に打ち分けるのさえ凄いと思ってしまう僕にはまったく理解できないレベルのお話だった。

 

「それより、特訓が終わったらいっしょに神社に行ってほしいのです」

 

「神社? 掃除の手伝いとかか?」

 

「それがですね、……あぅ」

 

言いかけてやめる。

 

圭一をびっくりさせてあげたかった。

 

「それは行ってのお楽しみなのです☆」

 

「ふ~ん……じゃあもう何球かやってからな。羽入、ひまだったら球拾い頼む」

 

「あぅあぅ、おまかせなのです!」

 

さっきはねていったボールを拾いに行く僕。

 

「それじゃ圭一、やっぱりすこし離れるよ」

 

悟史は僕が圭一の身を心配してるのを悟ってか、1~2メートルほど後退した。

 

「いいけど、ちゃんとこっちに返せよな」

 

「むぅ、わかってるって」

 

圭一がバンテージを巻いた手で器用にボールを投げ、悟史がそれを打ち返す。硬球なので身体に当たるとけっこう危険だと思うのだけれど、……その。

 

峰打ちとはいえ普段レナの鉈で殴られ慣れている圭一には大したことがないのかもしれない。

 

この一年で圭一が得たのは、そのタフネスなのかも。

 

「おぉう!?」

 

「うわ、ごめん! へんなとこバウンドした!」

 

「お、俺の大事な玉がぁあッ!」

 

……たぶん。

 

 

圭一は、変わらない。

 

その横顔はいつだって痛々しくて、自分の嘘の大きさに圧し潰されそうになりながら、それでもただ一心に前だけを見つめている。

 

皆に見せるのは自分の背中でいいと決めてしまっている。

 

『それ』を自分の役割と定めてしまっているのだ。

 

だから村の中には、圭一をただの中学生の少年ではなく、“最強”で“無敵”の英雄だと買い被る者もいる。

 

悪い冗談だと思う。因果がひっくり返ってしまっている。

 

圭一は強いから戦うのではない、戦わなければならないから必死で強くあろうとしているだけだ。

 

英雄だから何者にでも打ち勝つのではない、何者にも負けられないからこそ英雄を演じている。

 

でも僕は、……たぶん梨花やレナや魅音も、彼の横顔を垣間見てしまっている。

 

見つめれば見つめるほど、圭一の強さはまがいものであり涙と悲鳴を押し殺したやせ我慢だと気づかされる。

 

気づいてしまえば……余計に目が離せなくなるのだから、どうしようもなく厄介なひとだった。

 

離れない。

 

それが、あぶなっかしい彼にとってなによりの支えになると……僕たちは、信じている。

 

 

「う……うぅぅ、ようやく歩けるようになったぜ」

 

数十分の後、僕たちは古手神社へと向かっていた。

 

悟史に支えられて、ややおぼつかない足取りの圭一。

 

「あぅあぅ、よかったです圭一……一時は古手家存亡の危機かと心配したのですよ」

 

「……むぅ、なにげにすごい事言ってるね羽入ちゃん」

 

「そうだぞ。竜宮家とか園崎家とかも心配してやれ」

 

圭一が真面目な顔で言うので、それもそうかと反省する。

 

「そっちじゃないよ……」

 

ずーん、と影を背負う悟史だった。

 

……?

 

ともあれ僕たちはえっちらおっちらと神社の石段を上がっていき、視界が開けて……その先に、信じられないような光景があった。

 

一面の桜色。

 

……そして、その一隅に集う人々の環。

 

 

魅音が、沙都子が、レナが、梨花がいた。

 

 

鷹野が、富竹が、大石が、赤坂が、知恵がいた。

 

 

それぞれが連絡を入れたのだろうか、入江や葛西、お魎や茜や喜一郎、分校の子供たち、手のあいている村人たち。

 

思い思いに持ち寄った飲み物や食べ物に舌鼓をうち、見事な桜を眺めては楽しげに笑っていた。

 

それに小此木と山狗たちまでが造園会社のツナギ姿で引っ張り込まれ、村人たちに薦められるままお酒やおつまみに手を出しては苦笑しているようだった。

 

 

……それはどこか、一抹の夢を思わせた。

 

儚くて、壊れやすくて、だからこそ美しい。

 

咲いては散りゆく桜のように。

 

圭一と桜を見たい。

 

僕のささやかな願いをきっかけに、これだけの人がこの場に集まったのだ。

 

この村には、一年前にはなかった人と人との縁が育まれている。敵を排除するための団結ではなく、笑い合うために集う、あたたかくて確かな絆が。

 

我知らず、涙が頬を伝う。

 

きっと変えられる。

 

運命は、乗り越えられる……!

 

今度こそ、僕たちは惨劇に立ち向かう資格を得たのだ。

 

「あ、圭一くーん!」

 

「悟史も、羽入も! おいでよー!」

 

「遅れていらした方は、罰ゲームですわよー!」

 

「とりあえず特製カレーをかけつけ三杯かしら?」

 

梨花たちが手を振って僕たちを招き、悟史があわあわしながらそちらに駆けていく。

 

「……いこうぜ、羽入」

 

言われて見上げると、圭一の笑顔があった。

 

差し出された手を握って、ごしごしと涙を拭った。

 

「はい、圭一……!」

 

魅音たちが席をあけて、僕と圭一を招き入れてくれる。

 

この素敵な輪の中に、僕の居場所がある。

 

そのことが、無性に嬉しかった。

 

「あははは、こんな楽しいお花見、はじめて!」

 

レナがはぅはぅと喜びながら、急造したらしいお弁当の具を小皿に取り分けてくれる。

 

「なんの計画も立てずにこれだけ集まるのは凄いわね」

 

微笑む鷹野が、慣れた手つきでお茶をいれてくれた。

 

「さあさあ、究極のカレーを食べなさい羽入!」

 

梨花と知恵の手になる地獄の糧食が差し出されるけど、僕の前で圭一がそれを横から奪った。

 

「ぐぐぐ、なんか生命の危機を感じなくもないが、ここでひくわけにゃいかねぇぜ!」

 

その独特の香りにひるみながらもスプーンを受け取って、僕のぶんまで食べてくれるらしい。

 

「ははは、見た目と香りはきつめだけど、いけるよ!」

 

「そうですねぇ……癖になる辛さってやつでしょうか」

 

富竹と大石が紙のお皿に入った自分のカレーを平らげながら笑い合う。

 

「むむむ、雛見沢の新名物に検討しようか?」

 

「ナイスな提案です園崎さん! さらに改良を続け、オヤシロさまカレーとして売り出しましょう!」

 

魅音と知恵は不穏な計画を立てているようだ。

 

巫女として言わせていただきますと、オヤシロさまはカレーが好きではないと思うのです、何故か。

 

 

……ほんとうににぎやかで、

 

 

「さぁさぁ沙都子ちゃん、この新作メイド服を是非ッ!」

 

「脈絡もなくなにを言い出しますの監督!?」

 

「そうだよイリー、どうして僕のサイズはないのさ!?」

 

「同感です所長、私のぶんも用意してくださらないと!」

 

「あぁぁぁ、わたくしの家族がたいへんなことに!」

 

 

……ほんとうにたのしくて、

 

 

「げほっ、ごはっ、気管が、気管が灼けるッ!」

 

「け、圭ちゃん、大丈夫ッ!?」

 

「圭一くん……! ここはレナが45度の角度で!」

 

「レナ、それは対処法が間違ってるわよ!?」

 

 

……どうしても、守りたい風景がそこにある。

 

 

この桜の下で、皆が集まる未来を……一年後の同じ光景を守るために、僕たちは戦わなくてはならない。

 

まだ勝てないかもしれない。

 

力は足りないかもしれない。

 

でも、これはきっと最後の機会。

 

どんな絶望も踏み越えて、諦観をも蹴り飛ばして、僕たちはまっすぐに歩き続けなければならない。

 

今日の思い出は、きっとそのための力になる。

 

僕はそっと席を立つと、石段のほうへゆっくりと歩く。

 

桜を見上げながら、……もう謝罪の言葉は浮かび上がってこなかった。

 

僕の場所は、いまここにある。

 

古い後悔、罪深い記憶はこの胸の一番奥にしまって、鍵をかけてしまおう。

 

いつか彼らのいる場所にたどり着いたなら、幸せな時間を過ごしてきたのだと、両手に余るくらいの思い出と感謝の言葉を、彼らへのお土産にしよう。

 

そう、繰り返す謝罪などもういらない。

 

見つめるのは過去ではなく、現在と未来だけでいい。

 

自由に未来を描くために、全ての力を振り絞って戦おう。

 

目に映るのは、僕の愛しい雛見沢。

 

……この場所を、きっと守り抜くために。

 

 

と、石段の下のほうからクラクションが鳴り響いた。

 

「……あぅ?」

 

タクシーが停まっていた。

 

「ああ、ごめん。私の迎えみたいだ」

 

そう言って大石やまわりの皆に挨拶しながら石段のほうへやってきたのは、この村の住人になる予定の赤坂だ。

 

僕のとなりまでやってきて、笑顔を見せる。

 

その視線に促されるように石段の下を見ると、タクシーからはワンピース姿に三つ編みの女性と小さな女の子がおりてきて、赤坂の姿をみつけると手を振っていた。

 

「妻と娘だよ。……この近くに用事があって、帰りは合流することになっていたんだ」

 

ちらりと腕時計を見る様子からすると、帰りは電車なのだろう。

 

「……そうですか。赤坂、また今度ご挨拶しますのです」

 

「そうだね。ご近所になりそうだから、よろしく頼むよ」

 

赤坂はそう言って軽く頭を下げると、小走りに石段を降りていった。

 

タクシーの前で家族と合流し、高々と女の子を差し上げて笑い合う。その傍らで、三つ編みの女性が僕のほうに小さく手を振っていた。

 

……僕も、手を振り返す。

 

その幸せな家族の姿は、僕たちの辿り着くべき場所であるかのように眩しかったから。

 

やがて三人はタクシーに乗り込み、雛見沢を去っていく。

 

彼らがこの村の住人になるのは、さきほどの打ち合わせの様子からして初夏以降の話だろう。

 

彼らには、平和な雛見沢の姿を見せてあげたい。

 

そう、もうすぐ終わる。

 

全部、僕たちが終わらせる。

 

 

 ひぐらしの、なく頃に……。

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