ひぐらしのなく頃に~神楽舞   作:晃晃

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第94話 約束された勝利の拳

「僕は先に帰って支度をしますのです!」

 

「おう、楽しみにしてるぜ!」

 

ほわほわと上機嫌の羽入と別荘地の前で別れて歩き出す。

 

半年ぶりの隠し湯でまったりと過ごしたあとは村に戻って商店街で一緒に買い出しをした。

 

若夫婦みたいだとからかわれて真っ赤になっていた羽入がかぁいかったな、うむ。

 

俺も上機嫌になりつつ、好物づくしになるであろう今夜の夕食を思いながらダム現場までやってきた。

 

レナか悟史が来ていればちょっと身体を動かそうと思っていたのだが、残念ながら誰もいない。

 

「ちぇっ」

 

舌打ちしながら夕焼けに染まるゴミの上を飛び移り、近くにあった廃車の屋根で寝転がったときだった。

 

「……ん?」

 

この場所には珍しく、自動車の近づいてくる音がした。

 

最初は例の不法業者のトラックかと思ったのだが、音からすれば普通の乗用車のようだし、あれはもっと夜中にこっそりやってくるはずだ。

 

さてはたまにしか来ない観光客が道に迷ってこんな村はずれにつっこんだのかな、と思って身体をひねってみたら、車から中年くらいの男女が下りてくるところだった。

 

声をかけるタイミングをはかる間もなく、後部座席からふたりがかりで引っ張り出してきたのは、毛布にくるまれた大荷物……なんだ、業者じゃないけど不法投棄か。

 

二人はなにごとか話しつつ、慣れない足場にふらつきながらゴミ山をこちらにやってくる。

 

「……?」

 

なにか違和感があった。

 

単に不法投棄をしにきたのなら、入り口付近でゴミを捨ててそのまま立ち去ればよさそうなものだ。

 

なんでわざわざ、こんな奥に捨てに来る……?

 

不審なものを感じて、身を低くしたまま様子を窺う。

 

「このへんでいいわね」

 

「……あ、あぁ」

 

毛布に包まれたものを、ゴミの積まれた山の間に転がす。

 

「もうすこしそっちね。その山を崩すから……」

 

言いながら女の方が毛布を引っ張り、その奥から出てきたものを見て……思わず声をあげそうになった。

 

「……ッ!」

 

いつもの白いワンピースを着たレナ。

 

衝撃に息が詰まる。

 

壊れた人形のようにうち捨てられ、ぴくりとも動く気配がない。

 

いったいどうしてレナがあんな姿に?

 

俺はいま、……いったい何を見ているんだ?

 

「ほら、もうすこしそっちへ……なに?」

 

男のほうがもの言いたげな様子だった。

 

「……その、やっぱり、やめにしないか。いまからでも、救急車を呼ぼう。君が悪くないことは、証言するから」

 

二人の会話の内容がわからない。

 

目の前の光景に、混乱している自分を自覚する。

 

「は?……いまさら何言っちゃってるの? ここまで運んできた時点で、そんなの無理に決まってるでしょ!」

 

すこし怒りを含ませた、でも嘲るような女の声。

 

「え……?」

 

男の方はうろたえている様子だった。

 

「なんて説明するのよ。家で頭をぶつけた娘を、どうしてこんなゴミ山に運んできたか、聞かれたらどうするの?」

 

「……それは」

 

動揺が走る。

 

「その場合、あなたも共犯よ? それに話し合って決めたことでしょ? 礼奈ちゃんは事故で、この場所で足を滑らせて死んだの。遊んでるときにゴミの下敷きになってね」

 

死ん、だ……?

 

レナが?

 

なに、言ってんだよ……?

 

「しかし……」

 

「あなただって、正直言えば邪魔だったんじゃないの? 別れた女に頭のおかしい娘を押しつけられて。それが事故でいなくなる上、保険金まで入ってくるのよ?」

 

底冷えのするような笑みが、夕闇を透けて見えた。

 

「……万々歳、じゃないの?」

 

胸の悪くなる含み笑いに、男のほうが顔を歪める。

 

……ようやくわかってきた。

 

この場にいるキャストと、目の前で起きている事実が。

 

男の方は、話を聞いてから俺がいつか殴ってやろうと思っていたレナの親父さんだろう。女の方は知らないが、二人の関係はだいたい想像がつく。

 

そしてこの場で起きているのは、最悪の事態だった。

 

 

レナは……こいつらに、殺された、のか?

 

 

冷たい汗が背中を流れ落ちていくのを感じる。

 

暖かい笑顔を、柔らかな肌を、まっすぐな瞳を思い出す。

 

レナと、もう二度と……会えないのか?

 

浮かびかけた恐怖と絶望を、即座に否定した。

 

レナの父親はなんと言った?

 

いまからでも救急車を呼ぼう、そう言ったはずだ。

 

なら……レナは、まだ、生きてる。

 

そのはずだ。

 

どうしようもなく、完全に……その、死んでいるのなら、

 

呼ぶのは警察だけでいいはずだ。

 

それを信じるしかない。

 

なら、……今から、殺されようとしているのか?

 

そう思うと、胸が張り裂けそうに痛かった。

 

いやだ。いやだ、いやだいやだ……!

 

レナを失えない。

 

絶対に失くせない。

 

レナはもう、俺の一部なんだから。

 

それは未知の恐怖だった。

 

俺の胸の中にはもう、とっくにレナが住んでいる。

 

比喩でもなんでもなく、レナを失うことはきっと、生きたまま手足を引きちぎられるよりも激しい痛みを伴う。

 

恐怖に震える唇を、きゅっと噛みしめる。

 

口の中に広がる血の味が、身体の芯にゆっくりと火を入れていくのを感じる。

 

ふざけるな……。

 

なんの権利があって、お前らは俺からレナを奪うんだ。

 

動けよ、俺の身体。今すぐに……。

 

叫んで、走って、殴り飛ばせ!

 

心は必死で疾走しているのに、身体はまだ震えていた。

 

……ちくしょう。

 

修羅場を超えてきたといっても、俺はただの中学生だ。

 

かかっているのが自分の命だけなら、それでも前に進めたかもしれない。

 

でも、この先は……戦場だ。

 

レナを助けるためには、あの二人を殺さなければいけないかもしれない。それだけやっても、レナは助からなくて、このまま死んでしまうかもしれない。

 

その冷酷な事実に、単純に、震えている。

 

必要なのは、覚悟だ。

 

嘘でいいから、俺には戦場に立つ覚悟が必要だった。

 

涙がにじむ。

 

握りしめた拳には血が滲む。

 

噛み切った唇を吹き抜けていく、やけに冷たい風。

 

恐れを振り切って、膝に指を食い込ませながら立ち上がろうとしたとき……その声が、聞こえてきた。

 

 

「だ、駄目だっ」

 

 

すこしだけ上擦って、震えと怯えを隠しきれていない……いい年をした男が出すには、情けない声だった。

 

「……はあ?」

 

それでも、この瞬間の俺にとっては……、

 

「駄目だよ……。どれほどわかり合えていなくても、すれ違っていても、礼奈は、……私の、娘なんだ」

 

百万の援軍を得たような気分だった。

 

「…………」

 

女のほうの顔から、温度がなくなっていくのが遠目からもはっきりとわかる。

 

「礼奈を苦しめて、追い詰めて、おかしくさせてしまったのは私たちだ。それでもこの子は、裏切った妻よりも、傷ついた私を選んでついてきてくれた……!」

 

レナの親父さんは、両の拳を握りしめて、必死でその場に立っていた。倒れたままのレナをその女の悪意から守るように、その場所を動かなかった。

 

「情けない私を責めもせずに、この村で一緒にやり直そうと手をとってくれた。なのに……小さなその手を、礼奈の信頼を、投げ出したのは私のほうだったっ!」

 

涙と鼻水でべとべとになった顔をぬぐいもせずに、両手を広げてレナの前に立ちはだかるその姿は……、

 

「家出したなら、手を引いて連れ戻せばよかった! 一晩中かかっても、話を聞いてやればよかった! 私は……、私は……、この子の、父親なんだから……っ!」

 

 

父親、だった。

 

 

そうだ、そうだよ。

 

“いらない”と言われて、あの気丈なレナが膝を抱えて泣くほどに悲しまなければいけなかったのは何故なのか。

 

決まってるじゃないか。

 

……親父さんのことが、大好きだったからだろ?

 

「はぁん……あっそう。そりゃよかったわねぇ」

 

醒めた口調で吐き捨てた女が、冷笑を見せる。

 

誰に教えられなくともわかる。

 

……こいつは、どうしようもない下衆だ。

 

「だったら、その大事な大事な娘と墓の下までいっしょに行けばいいさ!」

 

その声と同時に、親父さんの背後のゴミの山が崩れる。

 

「なっ……礼奈っ!」

 

親父さんはとっさに、足元のレナをかばって覆い被さる。

 

家電製品や材木といった粗大ゴミが、容赦なくその背中に転がり落ちていく。

 

ゴミの量は、倒れているレナだけならともかく呻きながらも両腕を突っ張ってレナを守っている親父さんを埋めるにはいささか足りないようだった。

 

「かぁっはははっ! 律子ぉ~、なぁに面倒なことやっとるんね。……ワシがさっさとケリぃつけてやらんとね」

 

いつの間にか忍び寄っていたゴミ山から滑り下りたアロハシャツの男。その姿は……忘れもしない、あの男だ。

 

 

北条鉄平。

 

 

暴力でレナや俺を屈服させ、沙都子や悟史の心と体に深い傷を負わせ、優しい羽入や鷹野さんにさえ手をあげた。

 

忌むべき存在。

 

そして……、雛見沢の、“敵”だった。

 

「うらぁ、どかんかいダラズ!」

 

「がっ!」

 

鉄平の容赦ないつま先が親父さんの脇腹に突き刺さる。

 

その瞬間、

 

「……待てよ、てめぇら」

 

あっさりと、腹の底から低い声が出ていた。

 

さきほどまで震えていた足は、軽々と廃車の屋根を蹴ってゴミの上に着地する。

 

「あぁん?」

 

北条鉄平が、振り向きながらやぶにらみでこちらを見る。

 

「なによ、このガキ……ああ、礼奈ちゃんのお友達ぃ?」

 

女がにやにやとして俺を見る。

 

「ひょっとしてここで宝探しとか言って、礼奈ちゃんが逢い引きしてたお相手だったかしらぁ? きゃははッ!」

 

癇に障る笑い声。

 

腹の中は煮えくり返っているのに、俺の顔に浮かんだのははっきりと……笑み、だった。

 

「……あぁ、そうさ。俺のレナに手を出した以上、十倍にして返させてもらうぜ」

 

ゆっくりと拳を構える。

 

そして解き放つ。

 

これから“本当”に変わる“嘘”を。

 

 

「ブチ貫いてやるから……、覚悟を決めろッ!」

 

 

その咆哮に、鉄平と女は一瞬ぽかんとしたが……、

 

次に返ってきたのは、女のけたたましい笑い声だった。

 

「ぷっ、あはっ、きゃはははははッ! なに!? 何なのこのガキ、バッカじゃねぇのッ!?」

 

笑いたければ笑えばいい。

 

すぐに、笑えなくしてやる……!

 

「らあああッ!」

 

地を蹴って、駆け出す。

 

一直線に。

 

そのベクトルの全てを、拳の一撃にこめるために。

 

視界の先でぐんぐんと大きくなっていく標的、鉄平の顔がぎらりと危険な光を帯びた。

 

「……なんじゃあごらぁあッ!」

 

ごっ、という音とともに、衝撃で身体が浮いていた。

 

蹴りを喰らった、と認識すると同時に身体をひねりながら地面を足でつかまえ、回転する勢いで余計な力を周囲へ散らせ、低く身構える。

 

ダメージは胸、肋骨はたぶん、まだ無事。

 

……すぐに気づいた。

 

一年前と同じパターンでやられた。

 

正面から直進すれば、リーチの差で前蹴りをくらって飛ぶしかないのだ。レナほどのロケットのような爆発的加速は俺にはまだ荷が重いらしい。

 

「なになに、ほんとなんなの!? でけぇ口叩いておいてあんた、弱すぎでしょっ!? 笑えるッ!」

 

腹を抱えて笑う女は正直鬱陶しいが、それで熱くなるどころか頭の芯は氷のように冷静になっていく。

 

そうだ……、思い出せ。

 

俺はあの暴力の権化のような男を相手に、単純な正面突破だけで勝てるほどに強くはない。

 

だけど、いまの俺は一年前なら立ち直れないほどの攻撃をまともに喰らっておいて、怯みも竦みも感じていない。

 

そうだ、クールになれ、前原圭一。

 

このゴミ山でレナと鍛え上げてきたことは無駄じゃない。

 

「なめんなっ、ダラズがぁッ!」

 

今度は逆に鉄平が突進してくる。

 

その激昂に焦りを見た。

 

無意識だろうが、喧嘩慣れした鉄平は出会い頭のいまの一撃で、普通なら勝負が決まっていたことをよくわかっているのだ。

 

見た目はちょろい中学生に過ぎないこの俺が、必殺の一撃で倒れなかったことが、奴の常識外の出来事なのだ。

 

だから、余裕ぶって構えてりゃいいものを一気にたたみかけてこようとする。

 

「らぁッ!」

 

奴が拳を振りかぶった瞬間、こちらも踏み込んでいた。

 

向こうの狙いは顔面、意気をくじくにはそれがもっとも効果的だからだ。

 

だが、狙いさえわかっていれば、殴りかかってくる腕を横から殴り返すのはわけもない。

 

身体を起こす勢いを利用して、大きく拳を振るう。

 

「あぁッ!?」

 

フックぎみに放った俺の拳を真横から腕に受けて、鉄平がバランスを崩す。

 

そのわずかな隙に横へ回り込もうと動いたが、鉄平の逆腕が視界の外から俺の襟元をつかんでいた。

 

「ダァホがッ!」

 

動きが止まったと思った瞬間、のけぞるように大きく顔をそらしていた。

 

ごっ、となぎ倒すかのように固い拳が俺の頬を打つ。

 

口の中に、新しい血の味が走る。

 

だが俺が頭をそらしたことでインパクトを外された拳には本来の半分の威力もない。

 

「ぬっ……」

 

鉄平が第二撃を加えようとして拳を引くのと同時、身体を振って踏み込み、鉄平の脇から胸へと抜ける一撃を放つ。

 

「……がッ!」

 

肺を肋骨に圧迫される衝撃で鉄平の力が緩み、俺の襟首は解放された。

 

「だら……っ!」

 

それでも髪をつかもうと振り回された手から逃れて、二歩ほど下がる。

 

腰もろくに入ってない、助走もない今の一撃では、鉄平のような屈強な男を打ち倒すにはまったく足りない。

 

多少鍛えたとはいえ、中学生として平均的な体格しか持ち合わせていない俺の拳にそれほどの威力はないのだ。

 

「ガキがぁ……!」

 

唸りながらも、鉄平は間合いをとったまま動かない。

 

特訓のときに、レナに言われたことを思い出す。

 

喧嘩でも戦争でも、肝心なのは第一撃。

 

一撃目を入れたなら、続いて二撃、三撃を加えて、一気にたたみかけるのが常に戦闘の最適解。相手になにもさせず勝つのがベスト。

 

逆に言えば、最初の一撃を入れられても屈しなかったなら相手との力の差は思うほど大きくはない。

 

それは、やり方しだいで勝てる相手だということ……!

 

「鉄っちゃぁ~ん、はやく片づけちゃってよぉ~?」

 

女の声が横から割り込んできた。

 

「じゃあっかぁしい!」

 

怒鳴りつけるために鉄平が女の方を振り向いた瞬間に、俺は地面を蹴っていた。

 

三歩の間を一気に駆け抜けて、振りかざした拳をその顔面に叩きこむ!

 

「らあッ!」

 

「ぶおっ!?」

 

さすがに場慣れているのか、とっさに顔をかばうようにかざした手が不完全なガードとなって、耳の近くを打ったその打撃は鉄平を軽くよろめかせるだけに終わった。

 

「チッ!」

 

舌打ちとともに鉄平が俺の肩をつかみ固定する。

 

その意図を悟ると同時に、俺は頭を振っていた。

 

「ギッ……!」

 

「がぁ……!」

 

この至近距離で、相手の動きを封じた上で飛んでくる攻撃といえば頭突きしかありえない。頭蓋骨の硬さと、安易でありながら相手に与える衝撃が大きすぎるために、多くの格闘技で禁止されているのが頭突きという技だ。

 

常に実戦を頭に置いていたレナと俺にとってはこれも想定のうちであり、返し技もまた頭突きだ。

 

頭骨を相手の顔面にぶつけられれば、それだけで最低でも鼻血くらいは期待できたのだが、ここは痛み分けだった。

 

ひりつくような痛みとともに互いに離れ、頭を押さえる。

 

「……っじゃあ、ガキぁっ」

 

痛みにひきつる口元を歪めて息を吐く鉄平。

 

そうだ、戸惑え。

 

基本的にこういう腕っ節がたよりの喧嘩屋ってのは、自分のペースに引き込んで、相手を一方的に痛めつけることにのみ経験豊富なのだ。

 

相手がどうしようもなく強そうだったり武器を持っている場合や、相手の数が多ければ逃げるか土下座してダメージを減らすことを考える。

 

だからこそ、一対一で、自分よりも弱そうな相手とまともにやり合うなんて経験はむしろ少ないはず。

 

……そこに、俺やレナのような人間の付け入る隙がある。

 

「くっ……」

 

頬の痛みを無視して、俺は笑った。

 

「……くくく、くははは! なんだなんだ、冴えねぇな、オッサン! 俺みたいな普通の中学生相手に、なぁに手こずってんだよ。なっさけねぇなぁ!」

 

唇が切れてるし、口の中も痛い。

 

頭だってまだずきずきと痺れてやがる。

 

だから口先の魔術師といわれるほどの鮮やかな口上はできなかったが、暴力がたよりの単純馬鹿相手の挑発としてはこれで十二分だった。

 

なにしろ相手はそれだけが取り柄で、しかも女の見ている前だ。ガキに笑われて、頭にこないはずがない。

 

「おぉおったらぁ、ぶっ殺したらッ!」

 

かかった。

 

笑いながらも醒めた思考でそう思いつつ、俺は鉄平へと駆け出していた。

 

全身の動きに気を配り、最上のタイミングを測る。

 

このまままっすぐぶつかれば、結局リーチの差で負ける。

 

鉄平の拳は今度こそ致命的な威力とともに俺の顔面に突き刺さることになるだろう。

 

……だが。

 

「ぬぁッ!?」

 

がくん、と鉄平の片膝が落ちた。

 

そう、この場所はレナと俺の特訓場だ。

 

地の利は俺にある。

 

当然、ゴミがごろごろしている足場の、どこをどう歩けば危ないか、不用意な奴がどこで足を踏み抜くか、全てわかった上で仕掛け、直線上に置いた上で挑発した。

 

「おおッ!」

 

完全に態勢の崩れた鉄平の顔は、狙いどおりの高さで俺の拳の真正面に飛び込んできた。

 

……お前の姪がよく言ってるぜ。

 

相手の思考を読み切ったとき、そいつはもう術中にあるってな。

 

つまりこいつは、俺とトラップ使いの沙都子が協力してあげたダメージワンってとこだ……!

 

「がぁは……っ!?」

 

骨と骨の激突する音が響き、鉄平の鼻がひしゃげる。

 

さすがにこちらの衝撃も大きく指には軋むような痛みが走るが……この拳を鍛えることだけは、この一年、欠かしたことがなかった。

 

だから、耐えられる。

 

沙都子やレナの負った痛みを思えば、この俺が耐えられないわけがない……!

 

鉄平が、何が起きたかわからないうちに決着をつける。

 

俺は左の掌底を鉄平の喉へとぶつけて気管を圧迫する。同時に腰を回し、振り抜いていた腕を引き戻す。

 

「……ブチ貫けえッ!」

 

呼吸を阻害された人間は、反射的にその状態から抜け出そうとする。鉄平の両腕は喉を圧迫する俺の左手を引き剥がそうと動き……、

 

「……ぐげぇッ!?」

 

無防備な鳩尾に、俺の渾身の一撃が突き刺さっていた。

 

胃と肺を衝撃に貫かれて、鉄平が完全に白目を剥く。

 

レナに繰り返し教えられた急所撃ちのためのガード破りが役に立った。この場所で俺自身が何度も白目を剥いた苦労は無駄ではなかったということだ。

 

「ぅ、ぇ……っ」

 

胃液を散らしながら鉄平が倒れ落ち、俺は女の方を振り返った。

 

「ひッ……ひいぃッ!」

 

リナとかいう女は、既に背中を向けて逃げ出していた。

 

あちこちのゴミにつまずいたり転んだりしながら、必死で這いずるように逃げていく姿を見るとわざわざ追いかけるのも馬鹿馬鹿しい。

 

「はあっ、はあ、はぁっ……」

 

無論、俺のダメージも小さくはない。

 

口の中は何カ所も切れているし、もしかすると歯も一本くらいは折れているかもしれない。頭も切れているのか熱い感覚がある。拳のほうもずきずきと痛みを訴えている。

 

……それでも、どうにか、勝った。

 

俺はまだ、レナを失っていない……!

 

軋む拳を、握りしめた。

 

「き……きみ、お願い、だ……きゅ、救急車、を……!」

 

その声に振り向くと、レナの盾になった上に鉄平の蹴りを腹に受けた親父さんがどうにか背中に覆い被さっていた資材をどけて、這い出してくるところだった。

 

その腕の中には、ぐったりとしたままのレナが大切な宝物であるかのように抱え込まれていた。

 

うつむいた白い顔には血の気がなくて、決して安心できる状態ではないことを如実に物語る。

 

「わかった、……すぐ呼んでくる!」

 

まだダメージの残る全身を引きずるようにして、走った。

 

俺にできることは、それくらいしかないのだ。

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