その報せを聞いて私がまず思ったのは……、
始まった。
ということだった。
「レナが、レナがぁ……あぅあぅ……」
鷹野からの電話を受けた羽入が泣きながら話してくれた。
レナが父親の愛人に殴られて重傷を負い、その場に現れた北条鉄平と戦った圭一も軽傷。
入江診療所の設備では検査できないということで、レナはそのまま興宮に運ばれた。
そう、……ついに始まったのだ。
この百年間で私が一度たりとも越えられなかった五年目、昭和58年6月という名の最後の舞台が。
これまでレナが入院するような状況は経験していないが、それを言ってしまえば圭一はまだ転校してきていないはずの時期なのだから、今までと同じであるはずがない。
この先の脚本は、飽きるほどに私が見てきた繰り返す惨劇のどのパターンにも当てはまらないだろう。
私の知識は、ほとんど当てにならない。
それは、羽入が私の姉として存在するイレギュラーなこの世界においてさらに昭和57年に圭一を呼び寄せるというありえない“IF”を重ねたことの代償だ。
これまでの世界でほぼ諦めるしかなかった悟史を四年目の祟りから救い出せたのだから、代償としては安いものだ。
彼のかわりに魅音が消えてしまったとはいえ、その意味は途方もなく大きかった。
私の変えられなかった四年目を圭一が変えられるのなら、同じように五年目の私の死、この世界では羽入の死という確定した運命すらも覆せる可能性を示したことになる。
「……もう泣かないで、羽入」
「梨花ぁ……でも、レナが……」
泣き虫の姉の手をとって、そっと握り締める。
「きっと大丈夫よ。レナは強い子だって、羽入も知ってるでしょ?」
「……あぅ、それはそうですが」
そう、レナは強い。
単体で部活メンバー最強の戦闘能力を持ち、その冷静さと洞察力も良い方向に働けば大きな助けになる。
発症経験があることと複雑な家庭環境に起因する不安定さという弱点もあるものの、それさえ回避できれば誰よりも強い味方になってくれる。
私がレナを前原家の一員に引き入れたのは、私たちが家族になることでその不安定さを消してやれるのではないかという希望と、信頼できる羽入のボディガードとしての役割を期待してのことだった。
しかしどうやら今回の事態も、やはり彼女のアキレス腱である父親の問題で負傷する結果になったようだ。
あの深海魚女に負けるとは珍しいこともあったものだが、どうやら最悪の事態は避けられたらしい。
そしてみたび現れた北条鉄平を圭一が撃退してくれたのも不幸中の幸いだったと言えるだろう。
あの男は昭和58年6月におけるサイコロの一、しばしば沙都子やレナを悲劇の底へ突き落としてきた張本人だ。
この世界においては、鷹野と圭一がそれぞれ最悪の出目を見事に潰してくれたことになる。
そして詩音が圭一に想いを寄せている上にそもそも悟史が失踪せず、魅音がいないこの世界では最多の可能性だった園崎の双子にまつわる悲劇はどうやっても起こり得ない。
つまり私が立ち向かうべきは……羽入を殺そうとする鷹野の陰謀、それだけなのだ。
「とはいえ、それが一番厄介か……」
泣き疲れて私の膝で眠ってしまった我が姉を撫でながら、小さくため息をつく。
もっとも楽観的な予測は、いまや沙都子にとって母親同然の存在となり、部活メンバーに加わって仲間となった鷹野が陰謀そのものを諦めてくれることだ。
……が、その可能性に賭けてなにも手を打たないのは理想主義者の戯言だ。
祈りは誰も救わない。
生き残りたければ座して待つべきではないと、私の百年の経験が冷酷に告げている。
思いつく限りの防備を固めて、最善を尽くした上で何事も起きなければ、そのとき無駄な努力だったと笑えばいい。
だから、陰謀は“ある”。
鷹野は裏切るのだと、その前提で考えよう。
「……沙都子のためには、裏切ってほしくないけどね」
嘘だ。
本当は、私自身も……いまの鷹野を失いたくない。
それは私、古手梨花の……おそらくは致命的な甘さだ。
今回はその甘さが命取りにならなければいいのだが。
……とにかく、まずは事態を整理しよう。
仲間たちの誰にも異変が起きなかった場合、最初の凶事は綿流しの夜。富竹ジロウが変死体として発見される。
首をかきむしったその悲惨な死に様はまさに祟り殺されたと呼ぶに相応しく、不穏の予兆として申し分ない。
この死が祭具殿侵入の禁を犯したことへの神罰などであるはずがない。
なにしろ、真犯人はおそらくその祭具殿にともに侵入した鷹野三四と、部下の山狗だからだ。
入江機関は雛見沢症候群の治療を目的としているが、その研究の成果を用いれば逆に富竹を発症させることもできるのだろう。そうでなければ、ありえない死に方だ。
次に、富竹と一緒に消えた鷹野が岐阜の山中で焼死体として発見されるらしいが……当然、これは嘘なのだろう。
前の世界で私は生きた鷹野を確認している。
事件の真相を暴くために協力してくれた大石がそのあたりのことを調べていたが、結局彼は最後の晩に私のもとには辿り着かなかった。山狗に消された可能性もある。
そして翌日以降、数日以内に……私が山狗に拉致されて、最終的には鷹野にお腹を切り刻まれて死ぬことになる。
あの苦痛を一年ぶりに思い出すと、胸がむかむかする。
「ぁぅぅ……れ、なぁ……、けぃぃ……」
ふと視線を落とせば、かすかに眉をしかめた羽入の寝顔。
本人はすっかり忘れているが、こいつは私をその百年の牢獄から救い出すのと引き換えに、自分が鷹野にワタ流しされるつもりでこうして人の姿に身をやつしている。
いや、……あの世界の最後、羽入は自分も奇跡を信じると決意を固めたはずだから、別に自己犠牲を気取るつもりはないのかもしれない。
なんとなく、……わかる。
こいつは、『輪』の中に入りたかったんだ。
ただ仲間として最後の戦いに挑むだけならば、もっと別の簡単そうな方法があってもいい。
同じ実体化するにしても単に転校生として入り込むとか、あるいは姿を現すことなく、仲間たちに陰から助言をすることだってできるはず。
今のように世界全てに嘘をつき、女王感染者として舞台の中心に立つよりは絶対に容易な手段のはずだ。
でも……、羽入はこの世界でそれを選ばなかった。
それらの手段は結局のところ、雛見沢にしろしめすヤシロの神としての助力でしかないのだ。
仮初めの異分子として手を貸して、事が終われば消えればいいなんて上から目線の生半可な覚悟では……“仲間”の輪には入れない。
私に課されていた役目を横からかっさらい、当事者として共に戦い、その先の未来を共に歩むためにこそ……羽入は私の姉だと世界に嘘をついた。
そしてそれは同時に、祟りを起こすことで“神”になろうとした鷹野とは、真逆の選択でもあるのだ。
神など無力。
人と人とが手を重ね合って起こす“奇跡”で、その強固に定められた鋼の真実を打ち砕いてみせる、と。
「そこで、唯一世界の真実を知る私はどう動くか……」
とても簡単な一手がある。
実際、私は去年の綿流しまではそのつもりでいた。
即ち……、五年目の祟りが始まる前に鷹野を殺すこと。
主人公を幕の上がる前に舞台から突き落とすのは、惨劇を起こさないための至極簡単な解だ。
けれど、この方法には致命的な落とし穴がある。
ひとつは鷹野がその役を任じられた唯一無二の役者なのかどうかがわからない、ということ。
鷹野三四を殺害、排除したとして、東京からほかの執行者が派遣されてきたのでは意味がない。
それに、“私を殺す”という意味においては、詩音やレナがその役目を負った世界も確かにあったのだから。
もうひとつ、鷹野を殺した後の“私”が問題だ。
考えが浅かったというしかないのだが、羽入が女王感染者である以上、この世界の私はそうではない。
つまり、発症の危険があるということだ。
考え無しに東京へ二度出たのはすこしまずかった。
この状態で殺人という禁忌を犯せば、おそらく……数多の世界で仲間たちがそうであったように、重度発症のリスクは免れまい。
最悪の場合、古手梨花が仲間たちを片っ端から殺しまくるというのが最後の世界になってしまいかねない。
正直、それは勘弁してほしい。
最後に……認めたくはないが半年以上の間、部活の仲間として親しくしてきた鷹野を殺すなんて嫌だ。
この選択が馬鹿げていると言うなら好きに笑えばいい。
私は喜んでアホ梨花呼ばわりを甘受してやろう。
鷹野はもう、私の仲間だ。
私が古手梨花である限り、仲間を殺すなどというお利口な選択肢とやらには意地でも反逆してやる。
鷹野が裏切ったとしても、私の答えは変わらない。
いままでの世界でだって、仲間たちが私や他の仲間に殺意を向けたことはあった。それでも、詩音やレナを仲間だと思う気持ちは変わらない……それと全く同じこと。
鷹野が羽入のおなかをかっさばく最後の瞬間まで、鷹野と羽入、どっちも生き残らせるために奔走してみせる。
それがどれほど困難でも構わない。
前の世界で圭一に教えられたのは、結局それなのだ。
立ちはだかる運命が金魚すくいの網であろうとも鋼の壁であろうとも……私の意志で、それを打ち破るだけ。
「ふふん……一年前の私では、辿り着けなかった結論ね」
この世界に“死に戻り”した直後の私は仲間たちを皆殺しにした鷹野への、明確な殺意があった。
でも……圭一と羽入を交えて過ごしたこの見知らぬ一年の記憶が、私を変えてくれた。
繰り返す世界に飽いてしまっていたかつての私とは違う。
なにもかもが初めての世界。
悟史や詩音とともに過ごす季節。
沙都子を救うために圭一が起こした逆転劇。
まるで人が変わったような鷹野。
なにより違うのは、圭一に恋する私自身だ。
この世界がたとえ最後の世界でなくとも……ここは決して失うわけにはいかない、私にとっての聖域なのだ。
どんな後悔もしたくない。
だから鷹野を殺すとか、後味の悪そうなのは大却下だ。
……で、私に何ができるかというと。
あらためて言うまでもなく、女王感染者ですらなくなった私は、実に無力な美少女でしかない。
やはり現実的なのは、誰かの力を借りることだろう。
実を言えば、一番相談を持ちかけたかったのはレナだ。
たよりになる人間で、なおかつ私の突拍子もなさすぎる話を信じてくれそうなのは彼女を置いてほかにない。
この、突拍子もないという部分が難関なのだ。
たとえば、詩音には話しにくい。
根っから常識人の魅音ほどではないが、詩音も非常識な話に即座に対応できるほど頭の柔らかい人間ではない。
レナが信じてくれれば橋渡しをしてくれるはずだと思っていたのだが、そのレナは重傷……。
いまは興宮の病院だからいいが、もし入江診療所に入院となれば当然、敵地でその話をするわけにはいかなくなる。
レナは退院するまで頼れないということだ。
私の役割が羽入に移っている以上『東京』に関係する入江や富竹に相談するわけにもいかない。
信じて貰えないだけならまだしも、羽入が情報を漏らしたと思われるのはかなりまずいことになるだろう。
怪しいネタにも飛びついてくれそうな大石は……ちょっと持ち込む時期が早過ぎるか。綿流しが近くなってからなら話を聞いてくれるかもしれない。
そうなると……かろうじて頼りになって、突拍子もない話を信じてくれそうな相手というと……圭一、か?
むむむ。
圭一に恋している分際でこういうことは言いたくないが、レナや詩音に比べると頼っていいものかどうか……。
彼には決定的にクールさというものが欠けているし、良くも悪くも流されやすい性格をしているのが問題だ。
私の話を聞いて、万が一にも入江診療所に殴り込んだり、鷹野を闇討ちしたりしないかとあらぬ心配をしてしまう。
「……みぃ」
ぷにぷにと羽入のほっぺをつつく。
「ぁぅぁぅ……」
このダメ姉に真実を話せれば多少は状況がましになるかもしれないが、一年前、未知の世界に戸惑っていた私の言動に対し、羽入は即座に発症を疑っている様子だった。
そう簡単には信じてくれないうえに、信じたふりをしつつ入江や鷹野に相談されてしまう危険があるから迂闊な真似はできないというわけだ。
……まったく、本気で八方塞がりな状況だ。
思わず天を仰いだところへ、玄関の開く音がした。
圭一が帰ってきたのだろう。
「……、あぅ!」
さっきまで頬をつついても反応しなかったくせに、即座に羽入が跳ね起きる。
げ、現金なやつめ……。
私たちは先を争うように立ち上がり、圭一を迎えに玄関へと殺到した。
「み、みぃぃ……!?」
「あぅあぅ、あぅ!?」
いつの間にか足が痺れていた私がよろけて壁に激突してみたり、羽入は羽入で寝ぼけているのか通り抜けそこなってドアに激突してみたりと大変な騒ぎだ。
それでもどうにか圭一の前に辿り着くと、私たちは一気にまくしたてた。
「あぅあぅあぅあぅ、圭一、あぅあぅあぅあぅうっ!」
「みーみーみーみー、圭一、みーみーみーみぃいっ!」
圭一は目を白黒させて私たちを交互に見つめたあと、頭が割れるように痛いとでも言いたげな顔でこう言った。
「日本語でおk」
すこし慌てすぎたようだ。
羽入と顔を見合わせて反省する。
「圭一!」「レナは」「どうなったの」「ですか?」
「……いやいや、台詞を分担しなくていいから」
どうしろというのかー!?
圭一は逸る私たちを適当にあしらいながらリビングに戻ると、疲れ切った様子でソファに腰を下ろし、項垂れた。
「俺は医者じゃないから詳しいことはわからないけど……レナは助かった。意識はまだ、戻ってないけどな」
「あぅ……」
「みぃ……」
ちらりと横目で羽入を見ると、向こうも私を見ていた。
……その淡々とした語り口が圭一らしくない。
とはいっても、仕方ないのかも知れない。
家族としてともに過ごしていたレナは意識不明の重体。
圭一自身、顔や腕に怪我をしたのか手当を受けているようだし、北条鉄平は現在の圭一の実力で勝てる方がおかしいくらいの相手だったはずだ。
彼が疲れているのは、考えてみれば当然のことだ。
「……圭一、今日はもう休んで。レナが無事だとわかっただけでも、すこし気が楽になったわ」
「そうです、今日は僕もお散歩はやめるのです。圭一も、ゆっくり休むといいのですよ」
私に同調して、羽入もにこにこと笑顔で圭一に勧めた。
「ん……、そうだな」
ひとつ息をついて立ち上がった圭一は、目眩を覚えたように軽く首を振って……心配のあまり見上げている私たちに気づいたのか、手を伸ばして撫でてくれる。
「…………」
どうしてだろう。
嬉しいのに……圭一のみせたまなざしが優しすぎて、何故か不安になってしまう。
今日の圭一になにがあったのか、……気になる。
きっと彼はレナを守って必死に戦ったはずだ。
見た限り、鉄平にもいいのを二、三発喰らっている。
でも……身体以上に心が傷つき、疲れ果てている……と。
私の目にはそう見えた。
最近すっかりアホキャラ認定されつつある私ではあるが、こうみえても百年の経験は伊達ではない。
私の人生経験そのものは限定された時間と場所の繰り返しだが、それだからこそ既知の人間の感情の機微には詳しくなるものだ。
その私が出した結論は……圭一は、おかしい。
「圭一……、あぅあぅ」
二階の自室へ向かう圭一の背中を見送る羽入も、私とそう変わらない感想を抱いているように思える。
「圭一!」
私はその背中に声をかけていた。
一瞬、彼の反応が遅れる。
それは悪い兆候だ。私の知る前原圭一という人間は、日常においてはよく考えずに反応するタイプだ。
そうじゃないのは、考えすぎている証拠……!
即座に、駆け出す。
遅れて振り向いた圭一が、目を見開いて私を見る。
その目にあったのは……困惑。
よし。
疑心でないのなら、まだ……間に合う!
「シャキっとしろッ!」
ずどん、という景気のいい音とともに背中をどつく。
「げっ」
よろめいた圭一が壁に手をついて私を見た。
「……り、梨花?」
ニヤリと笑ってやった、思いっきり不敵に。
それを見て、圭一は……わずかな疲れを滲ませながらも、笑い返してくれた。
「言われるまでもないぜ」
まだ、……大丈夫。
圭一は絶望的なところまでは追い詰められていないのだ。
「おやすみ」
ふっと微笑んで、圭一は二階に上がっていった。
まだ安心できる状態ではない。
でも……、私は信じる。
いや、信じるなんて生半可なことじゃない。
これから先も、不穏の兆しが見えたなら蹴飛ばしてやる。
それが、私の選んだ道だ。
「……梨花」
ふと気がつけば、羽入が私のほうを見つめていた。
……なんだろう?
「たまには、一緒にお風呂に入りませんか?」
ふわっと……柔らかみのある微笑みを向けてくる。
「へ?」
なんと珍しい。
羽入は私や圭一と一緒に入るのは嫌がるというか、消極的な態度をとるんだけど……って、当然か。たいてい羽入が恥ずかしい思いをするようなイタズラに走るからだ。
ということは……、
「とうとう……新しい世界に踏み出したくなったの!?」
「あぅ!?」
「レナがいないからってきゃー、そんな大胆な!?」
両手を頬にあてて、いやんいやんと身をよじって見せる。
「ち、違うのです違うのです~!」
涙目でどっすんばったんと騒ぐ羽入が可愛かった。
わかっている。
羽入の思考は、どこまでも姉なのだ。
レナがこんなことになって、圭一もどこか距離のある態度をとっている今、妹の私が不安になっているのではないかと気遣っているのだ。
「……いいわよ。たまには姉妹水入らず、ね」
くすり、と笑みをこぼしてそう言ったら、
「あぅ……梨花がなにかを企んでいるのです」
気味が悪そうな顔をする。
失礼な奴め。
「ボクはなにも企んでなんかいないのですよ、にぱー☆」
ひさびさの梨花ちゃまモードで天使の笑顔を返してやる。
「あぅあぅあぅあぅう……」
何故そこで震え上がるかな。
……ともかく、事は動き出している。
私の力は小さいが、奇跡は一人で起こすものじゃない。
慎重に機を見て、動くべきときは大胆に動こう。
レナも圭一も鷹野も、もちろん今ここにいない魅音も。
誰ひとり、見捨てはしない。
ろくでもない運命とやらを押しつけてきた祟り神に、今度こそこの古手梨花の見つけた最高の答えを突きつけよう。
馬鹿馬鹿しくなるくらいに、晴れやかな結末を。
さあ、始めよう。
最後の舞いを、ここに。