鷹野さんから聞かされた話は、突拍子もないものだった。
だが……同じ突拍子もない話であっても、笑い捨てられる話とそうでない話というのがある。
入江診療所が実は政府の秘密研究所であり、雛見沢特有の風土病を研究している。
ここまでなら、笑い話で済ませられるレベルだ。
だが、その秘密が漏れた場合、機密保持とパニック防止、そしておそらくは病原排除のために雛見沢の住人が皆殺しにされるかもしれない……となれば、全く笑えない。
たとえば俺は、宇宙人なんていてもいなくてもどっちでもいいと思ってる。信じたいやつは信じればいい、とも。
ただ、その宇宙人が雛見沢を侵略してくるって言うなら、与太話のように見えても一応話を聞く価値はあると思う。
調べられるだけ調べて、反証が出揃ってそれが与太話だと納得できたらその時点で笑い捨てればいい話だ。
それが、何かを『守る』ってことだ。
鷹野さんの話は聞いた限りでは充分に具体的で、現時点でそれが与太話だと断ずる材料を俺は持っていない。
詳しく調べたいのはやまやまだが、調べることそのものが危険を招くというのだから厄介な話だ。
「それじゃ、くれぐれもよろしくね。おやすみなさい」
「……はい。おやすみなさい」
盗聴器を警戒してのことか、鷹野さんはなにをよろしくとは言わずに微笑んでみせるだけだった。
車が走り去ると、俺は別荘地の入り口に取り残される。
目の前には、先月から建築中の赤坂さんの家。
敷地も家の大きさもせいぜいうちの四分の一だけど、この分譲地で売れた記念すべき2つめの土地だ、村のみんなは歓迎ムードで完成を楽しみにしている。
もちろん俺だって、ご近所さんができるのは大歓迎だ。
でも……、あの話を聞いた後では胸に痞える苦さがある。
赤坂さんの一家も雛見沢に越してくれば俺たちと同じく、雛見沢症候群に感染するのだろう。
せっかく希望を抱いて新天地にやってくるっていうのに、自動的にいざというときの抹殺対象にもなってしまう。
それを思えば、犠牲者がこれ以上増えないように追い出すくらいでもいいのではないかと思うほどだ。
いや、まだ『いざというとき』が来ると決まったわけじゃない。この家に住むことになるだろう家族を守るためにも俺は……戦わなくちゃいけない。
「……くそっ」
握り締めた拳にずきずきと痛みが走る。
鉄平戦のダメージも、そう軽いわけではなかった。
レナでさえ、油断すればあんなことになる……腕っぷしで大幅に劣る俺は、もっと普段から備えをしておかなければと反省させられるばかりだ。
これから先は……きっと、孤独な戦いになる。
秘密を『暴く』ほうなら話は簡単だ、思いつく限りの方法で調べ上げ、それをあらゆる手段で広めるだけでいい。
でも、俺がしなければならないのは逆なんだ。
秘密を秘密のままにしておくためには、それを知る人間は一人でも少ないほうがいい。
つまり、誰かに協力を仰ぐわけにはいかないということ。
仲間たちの助力も、雛見沢の団結もあてにできない。
それどころか、大事な仲間である詩音たちがやろうとしていることをなんとかして妨害しなければならないのだ。
「……重すぎる」
思わず弱音も出てしまう。
俺が迂闊な真似をして失敗すれば、雛見沢二千人の生命が脅かされるのだ。
一介の中学二年生の肩には、重すぎる事実だ。
気を抜けば崩れ落ちそうになる膝を前に出して、ゆっくりと歩を進める。
……鷹野さんは、俺にこの荷を託した。
それは、俺が嘘をつき続けて、理想の前原圭一であろうとしてきた代償なのだ。
俺の演じる“前原圭一”は、確かに村の中心にいる。
園崎の本来の後継者である魅音がここにいないのだから、村を、みんなを守らなければいけないのは、俺なのだ。
だから……人選は間違っちゃいない。
そう言い聞かせなければ、……一歩も前には進めない。
「梨花……、羽入……、レナ……、詩音……」
守るべき名前を、まるで呪文のように唱える。
「沙都子、悟史、鷹野さん、……それに、魅音」
かけがえのない部活メンバーの名前が、俺に力をくれる。
失えない。
誰一人として、絶対に失くしたくない。
いつの間にか濡れていた頬を拭って、俺は歩き続けた。
たったの十数メートルが……なんて遠いんだ。
数時間前のダム現場で、レナを失うかもしれないと思ったときにあれほどの恐怖を覚えたというのに。
いまは、レナだけじゃない。
みんなを失うかもしれないと、心が竦み上がっている。
「ちくしょう……、なんで……どうして」
その先は、言葉にならない。
……どうして、俺なんだ、と。
言ってしまえば、なにもかも投げ出すのと同じだから。
俺が“前原圭一”ではなく、ただの無力な小僧だと認めてしまうことになるから。
“前原圭一”でなくなった俺に、価値なんかない。
みんなが慕ってくれたのは、必要としてくれたのはそんな弱っちい小僧なんかじゃなく……どんなときも先頭きって立ち向かう“前原圭一”だ。
だから、演じ続けろ。この役割を。
それをやめたら、俺はみんなを仲間と呼ぶ資格を失う。
一年前までの、大嫌いな自分に戻ってしまう。
「嫌だ……、それだけは、ダメだ」
拭っているのに、あとからあとから涙があふれてくる。
この一年間で得たものは、大きすぎる。
でも、それを得たのは俺じゃない。
俺が演じ続ける架空の“前原圭一”という偶像だ。
本当の俺には……、なにもない。
雛見沢に来てはじめて……俺は、空洞のような孤独という感情を思い出していた。
「進め、進め、進め……」
いつの間にか動かなくなっていた足を必死で鞭打つ。
からっぽだ。
本物の俺には、前に進むためのどんな燃料も入ってない。
心が軋むような悲鳴を上げ続ける。
助けてくれ。
みんなに助けてほしいのは俺のほうなんだ、と。
でも……助けを求める資格など俺にあるわけがなく、その声に応える者など、ひとりとしているはずがない。
ずきり、と胸に……えぐられるような痛み。
「こんな、痛み。屁でもねぇ……っ!」
切れ切れに……胸にたまっていたものを強い言葉とともに吐き出す。
そうだ、前原圭一。
お前には傷ついている暇も、立ち止まっている暇もない。
なにもできない俺とは違う。
お前にならできる、お前なら背負える。
だって、それが“雛見沢の前原圭一”なんだから……!
奥歯を痛いくらいに噛み締めて、ようやく歩き出す。
「そうだ、進め……、止まるな……前へ、前へ……」
内から搾り出す言葉、それだけをたよりに歩く。
自分を騙しきれない嘘じゃ、仲間を騙せるわけがない。
「はあ、はぁっ、はぁ……はっ……」
ようやく家の前にたどりついた俺はガレージの前の水道で顔を洗い、しばらくその場に立ち尽くしていた。
乾くのを待つだけが理由じゃない。
このまま玄関を開ければ、梨花や羽入の前で泣いてしまいそうだったからだ。
見上げるのは、遠い星空。
思い出せ、目指す高みはその先にある。
煌く星ははるかに遠く、いま目にしている星はもうとっくの昔に砕けてしまっているかもしれない。
仲間たちは……いつか気づいてくれるだろうか。
みんなの目に見えている“前原圭一”は虚像で、本当の俺はとっくに壊れてしまっていることを……。
「……望むところだ、ってな」
強がりだけではない、笑みを浮かべる。
仲間を……みんなを守れるなら、壊れても構わない。
それだけは、前原圭一の真実。
心の底からそう思う。
あいつらが笑っていられるなら……それでいい。
その笑顔には、俺が心を削り、命を削って、それでも嘘をつき続けるだけの価値がある。
だから、逃げない。
俺も“前原圭一”も、あいつらが……大好きなんだ。
玄関を開けると、奥でどたばたと走り出す音。
壁やらドアやらに激突する音がして、羽入と梨花が廊下に姿を見せる。物凄い勢いで駆け寄ってきた二人は、
「あぅあぅあぅあぅ、圭一、あぅあぅあぅあぅうっ!」
「みーみーみーみー、圭一、みーみーみーみぃいっ!」
ステレオでまくしたてるので、ただでさえずきずきと痛む頭に響くのをこらえて言ってやった。
「日本語でおk」
梨花と羽入はようやく自分たちが人語を解する生物であることを思い出したように顔を見合わせてから、
「圭一!」「レナは」「どうなったの」「ですか?」
と素晴らしいコンビネーションで左右から交互に喋る。
似てないようで似たもの姉妹め。
「……いやいや、台詞を分担しなくていいから」
とりあえず、逸る二人をなだめながらリビングに戻る。
二人の(奇行の)おかげで緊張しっぱなしだった神経が、すこしだけほぐれた気がする。
同時に、自分がいかに疲れきっていたかも思い出される。
「俺は医者じゃないから詳しいことはわからないけど……レナは助かった。意識はまだ、戻ってないけどな」
そう告げると、また二人で顔を見合わせる。
家族が怪我をして運ばれたと聞いてさんざん心配させられたあげく、聞かされた答えがこれでは無理もない。
でも、本当にこれ以上はなんとも言えないのだ。
監督から聞いたのはそれだけだし、慎重な監督がそう言うのだからレナは大丈夫、としか俺には言いようがない。
それでもどうにかして二人を元気付けることができないだろうかと言葉を選んでいたら、梨花が先に口を開いた。
「……圭一、今日はもう休んで。レナが無事だとわかっただけでも、すこし気が楽になったわ」
羽入も俺を労わるような笑顔を見せる。
「そうです、今日は僕もお散歩はやめるのです。圭一も、ゆっくり休むといいのですよ」
自分の不甲斐無さに腹が立つ。
元気付けるどころか、気を遣わせてしまったらしい。
「ん……、そうだな」
立ち上がりながら無意識に嘆息してしまって、失敗したと思う。これは……“前原圭一”には、相応しくない弱さ。
心配そうに見上げるふたりの頭に手を伸ばして、撫でる。
ふわふわした羽入の髪も、さらさらした梨花の髪も、手に心地よくて……愛おしい。
守りたい。
絶対に、こいつらをあんな姿にはさせない。
あんな姿というのが、昼間見た死体のように力なく転がるレナを重ねているのか、それとも別の記憶と重なっているのかは正直自分でもわからない。
ただ、わかるのは。
この暖かなまなざしを……誰にも、奪わせない。
「…………」
これ以上撫でていると、また涙が零れてしまいそうで……俺はゆっくりと両手をひっこめた。
口を開くのもダメだ、きっと声がかすれてしまう。
二人に、泣いてすがるわけにはいかない。
“前原圭一”には、そんな甘えは許されない……!
だから、そのまま踵を返して部屋を出た。
足が、重い。
本当は、ふたりのそばを離れたくない。
が、決壊の予感がある。
一刻も早く自分の部屋に逃げ込まなくてはいけなかった。
そうして重い足を動かして階段に向かいかけたところで、
「圭一!」
梨花の鋭い声が、俺の背中に浴びせられる。
びくりと身体が竦む。
……竦む?
その理由がわからない。
竦むということは、恐れているということ。
だけど……俺にとって梨花は、恐れる対象なんかではないはずだ。彼女をなくすことを恐れるなら話はわかるが……声をかけられてすくみ上がる理由にはならない。
いや……、振り返ることを恐れているのか?
泣き出してしまいそうな自分を知っているから?
ほかに、……思い当たることはなかった。
だって梨花は……俺にとって、温かな居場所のひとつだ。
梨花の小さな足音が聞こえるのと同時に、振り向いた。
「……!」
息を呑んだ。
梨花は一直線に俺に向かってきていた。
それに対して、身体が警戒を訴える理由がわからない。
あいつが無遠慮に抱きついたり飛びついてくるのは日常茶飯事なのに、なにを警戒する必要があるというのか。
しかし、梨花は抱きついてきたわけではなかった。
「シャキっとしろッ!」
ばあん、と振り返りかけていた俺の背中を叩く。
「げっ」
体重を乗せた打撃に、思わずよろめいて壁に手をついた。
戸惑うしかない。
どうして梨花が、俺を……?
「……り、梨花?」
視線を向けると、梨花はにやりと笑みを浮かべていた。
……不思議と、その笑みには悪意を感じない。
さっき梨花は、なんて言った……?
『シャキっとしろ』……ああ、そうか。
俺がはっきりしない態度をとっているから、元気づけようとしてこんな行動に出たのか。
そうだった。
梨花は前にも、俺が悩んでいるときに……元気をだせって言ってくれたじゃないか。
ありがとう、梨花……。
一瞬その行動の意味がわからずに焦った自分が可笑しくて思わず顔が綻んでしまう。
できるだけ不敵に聞こえるように、梨花の望むような言葉を返すことに集中する。
「言われるまでもないぜ」
そう告げたら、梨花の笑顔の質が変わったように見えた。
ふわりと花が開くように、嬉しそうな笑顔だった。
まったく、こいつは……可愛いのかそうでないのか、わかりにくいやつだ。
「おやすみ」
梨花と羽入にそう告げて、俺は二階へと向かう。
重かったはずの足は、さっきよりも軽くなっていた。
それでも自分の部屋に帰り着いて、押入から引っ張り出した布団をのろのろと広げ終わる頃には……限界だった。
布団の上に倒れ込み、枕に顔を押しつける。
喉の奥から唸り声にも似た嗚咽が溢れてくるのを、留めることが出来なかった。
「うぅぅぉぉぁぁぁ……ッ!」
今日はいろいろなことがありすぎた。
暴れ出したいような激情、すべてを壊してしまいたくなるこの感情を必死で抑えつけて……布団に爪を立てる。
死んでしまえ、役立たずの“前原圭一”……ッ!
レナが許してくれても、梨花や羽入が許してくれても、誰よりもこの俺こそが、俺の無力を許せない。
誓っていた。
みんなが傷つくときには、前に立ちふさがってその痛みを俺が引き受けてやると、そう誓っていたのに。
「……レナ……」
どうしてレナがあんな目に遭わなくちゃいけない。
レナのかわりに俺が死ぬべきだった。
何もできない俺が。
五年目の祟り、雛見沢症候群という名の脅威。
それに立ち向かえるのは、本当は俺なんかじゃない。
俺のかわりにレナがいてくれたほうが、何倍も頼もしい。
なのに五体満足でここにいるのは俺のほうで、レナは病院のベッドで死にかけた身体のまま眠っている。
あまりにも皮肉な現実が憎かった。
時間を戻して今日という日をなかったことにできるなら、どんな代価を支払ってもいい。
謝りたい。
許してくれるまで、俺が俺自身を許せるまで……。
何百回でも、何千回でも。
本当に、……情けない。
「圭ちゃん、今日くらいは任せてくれてもいいですよ?」
レナは目が覚めないままで数日後には入江診療所に転院となり、かつて沙都子がいた病室に運び込まれた。
興宮にも、診療所にも、俺は毎日見舞いに通った。
梨花と羽入も、仲間たちも、何度も病室に足を運んだ。
綺麗な顔で静かに眠るレナに、何度も呼びかけた。
見舞いの顔ぶれは毎日変わったけど、変わらなかったのはただ二人、俺と……詩音だ。
「いや……、レナの怪我は俺のせいだからな」
その答えは本心からだったが、もうひとつ理由があった。
……詩音を一人でレナに会わせるわけにはいかない。
「圭ちゃんのせいじゃないって言ってるのに……」
意識の戻ったレナに、詩音はきっと例の件を筆談か何かで相談するに違いないからだ。そういうそぶりを見せたら、俺がその連絡を阻止しなきゃいけない。
「俺の気分の問題だ」
二人には悪いが、診療所をこれ以上調べれば……雛見沢のみんなの命が危うくなる。だからいまは、これが最善だと信じるしかない。
「はぁ……強情なんだから」
呆れ顔でため息をつく詩音と並んで病室のドアをノックしようとした時、数日ぶりに聞くレナの声が響いた。
「もう……、来ないで」