MCU転生チート主人公の思考実験   作:鳥ささみ

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第1話

 

 

人間が靴を選ぶとき、そこに「運命」を感じる者はいない。

サイズが合うか。デザインが好みか。歩く目的に適しているか。条件が合致すれば、棚にあるどの靴でも構わないはずだ。もしその靴が破れれば、別の似たような靴を買い直すだけ。そこに感傷の余地などなく、あるのは純粋な「機能の代替」だけである。

 

――世界もまた、それと同じだ。

 

(……なるほど。そういうことか)

 

一九八〇年、十月。

ニューヨーク市クイーンズ区にある、これ以上ないほど平均的な中産階級の家庭。その二階の子供部屋で、一人の赤ん坊――カケル・レイメイは、生後わずか数ヶ月の、まだ思い通りに動かない自分の小さな手のひらを見つめながら、明晰極まる意識でそう結論づけていた。

 

カケルには、前世の記憶があった。

といっても、どこかの誰かとして生きた具体的な人生のドラマ(名前や、愛した者たちの顔、あるいはどのような死を迎えたか)は、驚くほど綺麗に削ぎ落とされている。残されていたのは、ある種の思想的な「核」と、膨大という言葉すら生ぬるい、人類の未来に至るまでの『医療・科学技術の知識』。それだけだった。

 

普通なら、己の異常性に混乱するか、あるいは万能感に酔いしれるところだろう。

だが、カケルの精神の根底には、二つの絶対的な鉄理が楔(くわな)のように打ち込まれていた。前世の彼が、あるいは彼という存在の元となった概念が拠って立っていた、冷徹極まる二大理論。

 

一つ。**『ジェイルオルタナティブ(すべての事物は代替が可能である)』**。

英雄も、悪党も、あるいは神と呼ばれる存在も、カケル自身すらも、その場にカチリと嵌まる「機能」さえ満たしていれば、誰がその役割を担っても構わない。世界という巨大な檻(ジェイル)において、唯一無二のスペアなしなど存在しない。私がいなくても世界は別の誰かを立てて回るし、私という存在もまた、何かの代わりとしてここに配置されたに過ぎない。

 

もう一つ。**『バックノズル(すべての物語は同じ場所に行き着く)』**。

歴史という奔流がどれほど激しく蛇行しようとも、川が最終的に海へと注ぐように、すべての事象が向かう「終着点」はあらかじめ決まっている。過程で誰が死に、誰が生き残り、どのような奇跡や悲劇が起きようとも、最終的な世界の結末、あるいは宇宙の調和と滅びという決定項(バックノズル)は微塵も揺らがない。

 

(ならば、過程(プロセス)で私が何をしようが、世界の自由であり、私の自由だ)

 

生後数ヶ月の赤ん坊の口から、声にならない吐息が漏れる。

カケルは、己の脳内に詰まった知識を整理し始めた。

それは、彼が今生きている一九八〇年という時代を、遥かに、気の遠くなるほど凌駕した未来のテクノロジーだった。量子力学の極致、ナノテクノロジー、遺伝子工学の最終解答、宇宙のあらゆる元素を均一に再構成するエネルギー理論、精度を極めた究極の医療技術。

それらの情報が、脳細胞の一粒一粒に整然とインデックスされ、いつでも引き出せる状態で格納されている。

 

(……だが、この世界は少し『おかしい』な)

 

ゆりかごの中から、部屋の窓越しに見えるニューヨークの空を睨む。

カケルには、この世界に関する先入観(コミックや映画のようなフィクションの知識)は一切ない。ここがどのようなタイムラインを辿り、未来にどんな危機が訪れるのかも知らない。

しかし、赤ん坊としての脆弱な肉体が発する微弱な生体電気、解剖学的な知見、および五感から得られる大気の振動や重力定数を、脳内の超未来科学知識で逆算したとき、どうしても数式の辻褄が合わない「歪み」が検出されたのだ。

 

この世界の大気には、通常の物理法則では説明のつかない、未知のエネルギー粒子が希薄に、だが確実に混入している。

それは、熱力学第二法則を無視して空間から直接引き出される「魔術的」あるいは「神話的」としか表現できない、異常な力場(フィールド)だった。

 

(科学とは異なる体系の、しかし確実に実在するエネルギー……。いや、これもまた『代替(ジェイル)』か。物理法則の代わりに機能する、別の世界のOS。面白い。この世界がどのような終着点(バックノズル)へ向かっているのかは知らないが、その過程を観察し、検証するだけの価値はある)

 

カケルは、自分の小さな、頼りない未発達の拳を握りしめた。

まずは、この不自由な肉体を成長させることだ。知識がどれほどあろうとも、それをアウトプットするためのインフラも、自分自身の肉体的強度も足りていない。

 

彼は、泣き叫ぶこともなく、ただ静かに、世界の観測者としての第一歩を踏み出した。

 

 

一九八六年。カケル・レイメイは六歳になった。

 

彼が生まれ育った環境は、驚くほど凡庸だった。父親は地元の小さな会計事務所に勤める真面目だけが取り柄の男で、母親は近所のスーパーマーケットでパートタイムとして働く、家族思いの優しい女性。どこにでもある、アメリカのありふれた核家族。

カケルはその中で、周囲に怪しまれない程度に「少し早熟で、手のかからない大人しい子供」を演じていた。

 

六歳になった彼は、すでに脳内での思考実験を終え、実質的な行動へと移っていた。

彼の目的は、脳内にある未来科学知識を、この世界の「歪んだ物理法則」に適合させるためのダウングレード、および最適化である。

 

「カケル、また本を読んでいるの? 本当にお勉強が好きなのね」

 

母親が、クッキーの載った皿を置きながら微笑む。

カケルが広げているのは、地域の図書館から借りてきた高校生レベルの物理学と化学の教科書だ。もちろん、中身など一瞬で理解している。彼がやっているのは、この時代(一九八六年)の人類がどこまで世界の真実に近づいているかという「境界線の確認」だった。

 

「うん、ママ。世界の仕組みを知るのは、とても効率的だから」

「効率的、ねえ。相変わらず難しい言葉を使う子」

 

頭を撫でて去っていく母親の背中を見送りながら、カケルは手元のノートに、常人にはただの幾何学的な模様にしか見えない「数式」を書き殴っていく。

 

この時代の地球の科学水準は、カケルの知識からすれば原始時代の火起こしにも等しい。

だが、奇妙なことに、いくつかの分野において、部分的な「技術の突沸」が見られた。例えば、軍事技術や通信技術の基礎理論において、一般には秘匿されているが、明らかにこの時代の人間が自力で到達できるはずのない、異質なテクノロジーの残滓(ざんし)が世界の裏側で稼働している気配があった。

 

(ハワード・スターク。そして、数十年前に強制送還されたアントン・ヴァンコ……。なるほど、この時代にも『代替品』はいるわけだ。人類の進化の歩みを無理やり引き上げるための、システムが用意した歯車たちが)

 

カケルは、一般に手に入る科学雑誌や経済紙のわずかな記述から、その「世界の不自然な歪み」を正確に読み取っていた。

世界が特定の終着点(バックノズル)へ向かうためには、文明のレベルを一定以上に保つ必要がある。そのために、世界は定期的に「天才」という名のパーツを供給する。彼らが死ねば、また別のパーツがその穴を埋める(ジェイルオルタナティブ)。

 

(ならば、私もまた、そのパーツの一つとして機能し得るか? いや、私の持つ知識は、この世界のシステムが用意したものではない。私の知識は、この世界そのものを外側から侵食しかねない異物だ)

 

カケルはペンを置き、自分の胸元にそっと手を当てた。

実は、彼がこの世界に転生した際、脳内の知識とは別に、魂の最深部に刻み込まれていた「もう一つの最大最高のバグ(あるいは究極の代替システム)」があった。

それは、言葉。

たった一言で、世界のあらゆる物理法則を激変させ、己の肉体を神の領域へと引き上げる魔術的な変身システム。

 

そのトリガーとなる呪文は、彼の本能に刻まれていた。

 

――『S・H・A・Z・A・M(シャザム)』。

 

ソロモンの知恵(**S**)、ヘラクレスの剛力(**H**)、アトラスのスタミナ(**A**)、ゼウスの神雷(**Z**)、アキレスの勇気(**A**)、マーキュリーの神速(**M**)。

変身を遂げれば、これらギリシャ神話および伝承に名を残す六柱の神々の権能が、一瞬にして完璧なる超人の肉体として置換(スイッチ)される仕組み。

ソロモンの知恵は世界の全言語と超並列計算能力を脳に満たし、ヘラクレスの剛力は大陸の質量すら物理的に動かし、アトラスのスタミナは一切の疲労と損傷を拒絶する。さらにゼウスの神雷は空間の位相を強制的に書き換えて莫大なエネルギーを無から発生させ、アキレスの勇気は絶対的な理性を維持させ、マーキュリーの神速は思考と移動の速度を光速の領域へと跳ね上げる。

 

「……完璧すぎる。完璧すぎて、反吐が出るな」

 

六歳のカケルは、自分の小さな手のひらを見つめながら呟いた。

 

「この力は、エネルギーの保存則を根底から無視している。無から神々のエネルギーを引きずり出し、私の肉体を代替(ジェイル)しているんだ。これは科学ではない。この世界というシステムがあらかじめ用意した、あまりにも安直な『主役のためのチートコード』だ」

 

原作知識のない彼にとって、この力は「世界の意思が自分に与えた、舞台を壊さないための拘束衣」のように思えた。あまりにも強大で、あまりにも全能。だからこそ、彼はこの力に頼ることを極限まで嫌悪した。変身すればすべてが解決する。そんな退屈な結末に向かうのは、彼の知性が許さなかった。

 

能力の全貌は、まだ試していない。なぜなら、六歳の子供の肉体でそれを発動させた場合、周囲に及ぼすエネルギーの余波(落雷、電磁パルス、空間の歪み)を隠蔽する手段が、今のカケルにはないからだ。

もし今それを使って目立てば、世界というシステムがカケルを「不具合(バグ)」と見なし、強力な排除あるいは修正(バックノズルによる強制収束)を仕掛けてくる可能性がある。

 

「神が用意したシステム(シャザム)に、私の人生を代替されてたまるか。私は、この六つの権能を『私の科学』で解体し、いつか人間の手で完全にハッキングしてみせる。検証には、ふさわしい舞台が必要だ。誰にも見られず、誰にも邪魔されず、世界のルールを書き換えるための実験場が」

 

カケルは静かに立ち上がり、窓の外を見た。

ニューヨークの喧騒が遠く聞こえる。この街のどこかに、世界の裏側を管理する者たちが潜んでいる。それを肌で感じながら、六歳の天才児は、完璧な隠蔽計画を脳内で組み立て始めた。

 

 

一九八七年、冬。カケルは七歳になった。

 

彼がこの一年間で進めたのは、資金の確保と、完全なプライベート空間の構築だった。

七歳の子供がどうやって資金を得るのか。答えは簡単だ。カケルは、当時の黎明期にあったコンピュータ・ネットワーク(ARPANETからインターネットへの過渡期)に、自作のバックドアを通じて介入した。

この時代の最高峰のメインフレームですら、カケルにとっては穴だらけのザルに過ぎない。彼は、世界中の休眠口座や、不正な金融取引のデータから、足のつかない「端数(パーセンテージ)」を数百万ドル単位で削り出し、暗号化された複数の架空口座へと分散して流し込んだ。

 

そして、ニューヨーク郊外、かつて産業革命の時代に栄え、今は完全に放棄された広大な廃工場地帯の地下に、一つの「シェルター」を確保した。

表向きは、どこの馬の骨とも知れぬペーパーカンパニーが買い取った資材置き場。だがその実態は、カケルがこの時代のジャンクパーツや、裏ルートで買い集めた医療機器・電子部品を自らリビルドして作り上げた、『未来基準の秘密研究所』である。

 

「……ふぅ」

 

十二月のある夜。

カケルは、両親が深い眠りについていることを確認し、あらかじめ仕掛けておいた睡眠導入ガスの残響を感知しながら、窓から抜け出した。

事前にハッキングしてあった無人タクシー(自動運転などない時代だが、カケルが物理的に制御回路を遠隔操作した車両)に乗り込み、郊外の廃工場へと向かう。

 

地下研究所の重い鉄扉が開き、自家発電機の鈍い重低音が響く。

中央の広いスペースには、カケルが自作した「エネルギー観測・吸収シールド」が展開されていた。部屋の壁全体に張り巡らされた特殊なコイルは、突発的な高エネルギー反応を、外部の電力網や電磁波観測衛星から完全に「隔離」するためのものだ。

 

「準備は整った」

 

カケルは、部屋の中央にぽつんと立った。

まだ七歳の、背の低い、頼りない子供の姿。

だが、その瞳には凍てつくような知的興奮が宿っていた。

 

「私の魂に刻まれた『SHAZAM』という文字列をトリガーとするシステム。これが、ジェイルオルタナティブの証明となるか、あるいはバックノズルの奴隷となるための鎖か。……検証を始める」

 

カケルは深く息を吸い、その小さな喉から、世界の理を揺るがす『言葉』を放った。

 

「――シャザム(SHAZAM)!」

 

**ドガアアアアアアアアアアアアアアアンッ!!!**

 

地下室の天井を突き破るかのように(実際にはカケルのシールドによって空間内部に閉じ込められたが)、虚空から一条の、文字通り「神の雷」がカケルの身体に直撃した。

まばゆい白銀の光が部屋を埋め尽くし、超高圧の電流が空間を焼き、狂ったような電磁の嵐が吹き荒れる。普通の人間なら、細胞の一粒も残さず蒸発しているであろうエネルギーの奔流。

 

だが、その光の渦の中心で、カケルの肉体は「再構成」されていた。

 

光が収まり、もうもうと立ち込めるオゾン臭の煙の中から、一人の男が歩み出た。

身長は百九十センチメートルを優に超える、完璧な黄金比率で構築された屈強な大人の肉体。胸元に巨大な稲妻の紋章が輝く、真紅のスーツと白銀のマント。

それは、いかなる時代の、いかなる人類の遺伝子工学を以てしても到達し得ない、『異質なる超人の肉体』だった。

 

「……これが」

 

声が変わっていた。

深く、朗々と響き、空間そのものを震わせる、絶対的な支配者の声。

カケルは、自分の大きくなった両手を見つめ、ゆっくりと握りしめた。

 

**ゴキ、キ、キ……!**

 

ただ拳を握っただけで、周囲の空気が圧縮され、衝撃波(ソニックブーム)の小さな渦が生まれた。

肉体のスペックを脳内で瞬時に演算する。

 

(……質量保存の法則を完全に無視している。この大人の肉体を構成する質量は、どこから引き出された? 空間の裏側、あるいは別次元(ディメンション)か。さらに、細胞の一つ一つが無限に近いクリーンエネルギーを自給足している。重力制御、飛行能力、絶対的な物理耐性……なるほど、これがこの世界の大気に混ざり合う、非科学的エネルギーの結晶か)

 

だが、カケルにとって、肉体的な超パワーなど副産物に過ぎなかった。

最も彼を驚嘆させ、視界をクリアにしたのは、変身と同時に脳内に満ち溢れた『圧倒的な知性の覚醒(ソロモンの知恵)』だった。

 

「――アハハ、素晴らしいな。これは本当に、素晴らしい」

 

大人の姿となったカケルは、誰もいない地下室で、低く、愉悦に満ちた笑い声を漏らした。

 

その超知性が発動した瞬間、カケルの元々の脳内知識(未来科学・医療技術)と、この世界の「歪んだ物理法則」の境界線が、一瞬にして完全に融合したのだ。

それまで、数式の辻褄が合わなかった「魔術的エネルギー」の正体が、この新たな超知性というフィルターを通すことで、『記述可能な物理学』へと変貌した。

カケル自身の未来科学知識と、世界を構成する魔術的OSが、ソロモンの特権アカウントによってカチリと噛み合った瞬間だった。

 

(いわゆる魔術や超常現象とは、量子力学のさらに奥底にある、宇宙の根源的なコード(記述言語)の書き換えに過ぎない。そしてこの変身は、そのコードをトップダウンで強制執行するための、最上位特権アカウント(ルート権限)の行使だ)

 

カケルは、指先からパチパチと弾ける高密度のプラズマ(ゼウスの神雷)を見つめた。

この雷は、単なる高電圧の電気ではない。空間の位相を歪め、物質の結合を分子レベルで組み替える、一種の「事象改変のエネルギー」だ。

 

「検証結果を出そう」

 

カケル(変身した姿)は、自作の制御パネルに向かい、大人の指先でキーボードを超高速で叩いた。残像すら残らない、マーキュリーの神速によるタイピング。

 

「この力を使えば、私はこの世界の神になることも、悪魔になることも、あるいはすべての社会構造を私の望む形に書き換えることも可能だ。……だが」

 

カケルの表情から、アキレスの勇気による冷徹な絶対理性が働き、笑みが消え、元の虚無的な色へと戻る。

 

「それすらも、決定された終着点へ至るための『過程』でしかない。私がどれほど強大になろうとも、世界は私を『強大な歯車』として組み込むだけだ。これから先、世界を揺るがすような災厄が訪れるにせよ、誰かがそれを代替し、物語は同じ結末へと収束する。結末が同じなら、私がここで全能感を振りかざすことほど、無意味で、退屈な戯言(ざれごと)はない」

 

カケルは息を吐き、再び「シャザム」という解除のトリガーを呟いた。

落雷と共に、肉体は元の、七歳の小さな子供へと戻る。

衣服は元の子供服のままだ。変身時の質量と衣服の構造すらも、空間の位相幾何学(トポロジー)によって保存されていた。

 

「しかし、だからこそ『思考実験』としての価値がある。私はこの力を誇示しない。世界を救う正義の味方にも、世界を滅ぼす破壊者にもならない。私は、この六つの神の権能を私の科学でハッキングし、いつか完全に代替(ジェイル)してみせる。この世界がどれほど頑強に『終着点』を守ろうとするのかを、限界まで突っついて確かめるだけだ」

 

子供に戻ったカケルは、満足そうに頷いた。

戦闘力はアトラスの耐久とヘラクレスの剛力、マーキュリーの速度により地球の既存の軍隊を単体で無力化できるレベル。

頭脳は未来の科学とソロモンの知恵が融合した、全宇宙でもトップクラスの天才。

 

これだけの力を持ちながら、彼は「普通の子供」として、再びニューヨークの平穏な日常へと、何食わぬ顔で戻っていくのだった。

 

 

一九九一年、十二月。カケルは十一歳になっていた。

 

この数年間で、カケルの「実験」は着実に、かつ誰にも気づかれないように進行していた。

彼は、十一歳という年齢でありながら、すでに複数の大学の学位を通信教育や匿名の論文提出だけで取得していた。もちろん、実態を表に出すような愚は犯さない。彼はインターネットの暗黒街(ダークウェブの黎明期)において、アメリカのネットワークにはあまりにも不釣り合いで、それでいてひどくありふれた偽名――『タカシ・サイトウ(Takashi Saito)』という名を選び、情報と技術の最高峰のブローカーとなっていた。

 

自身に宿る、あのあまりにも大仰でドラマチックな神の力(シャザム)。それに対するささやかな反抗として、彼は最もありふれていて、記号的で、誰にでも代替可能な名前を己の電脳の仮面に選んだのだ。

 

彼が裏社会や一部の先進的な研究機関に提供したのは、この時代の技術水準を「ほんの数ミリだけ」浮かせた、絶妙な医療技術や材料工学の理論だ。

例えば、ガンの画期的な初期抑制治療法や、リチウムイオンバッテリーの効率を劇的に向上させる分子配置。これらは、世界をひっくり返すほどのパラダイムシフトは起こさないが、確実に「数年後の未来を前倒しにする」効果を持っていた。

 

(世界の反応速度は……今のところ、極めて緩慢だな)

 

地下の秘密基地で、カケルは複数のモニターに映し出される、世界中のニュースや株価の動きを監視していた。

彼が技術を小出しに提供しても、歴史の大枠は変わらない。世界はカケルの提供した技術を貪り食い、それを「当然の進化」として吸収していく。まさに**ジェイルオルタナティブ**だ。カケルが技術を与えなくとも、あと数年もすれば別の天才が同じものを見つけていただろう。システムは常に、不足を埋めるように動く。

 

そんなある日。

一本の国際ニュースが、カケルのモニターに飛び込んできた。

 

『スターク・インダストリーズ会長、ハワード・スターク夫妻、自動車事故で急逝』

 

カケルは、その画面をじっと見つめた。

ハワード・スターク。この世界の技術進歩の機関車であり、裏で巨大な権力組織に関わっていた大物。

 

(自動車事故、か。……いや、違うな。生体データの流出推移、および事故現場の周辺検問データの不自然な空白。これは『暗殺』だ。それも、極めて高度な訓練を受けた、国家規模、あるいはそれを超越した暗殺者によるもの)

 

カケルは、瞬時にハワード・スタークの死亡前後のデータをハッキングし、その真相を見抜いた。

普通の人間なら、世界の巨頭の死に動揺し、あるいはその裏にある巨大な陰謀に恐怖するだろう。

 

だが、カケルの感想は、どこまでも平坦だった。

 

「予定通りの退場、か」

 

カケルは椅子に深く背を預けた。

 

「ハワード・スタークが死んだ。だが、スターク・インダストリーズの株価は一時的に暴落しても、会社そのものが崩壊することはない。なぜなら、彼の息子であるトニー・スタークという『より優秀な代替品(ジェイル)』が、すでに牙を研いで待っているからだ。ハワードの死は、トニーを真の表舞台へと引っ張り出すための、システムによる強制的なパーツ交換(シフト)に過ぎない」

 

物語は、トニー・スタークを軸とした終着点へ向かって、冷酷に、そして確実に収束している。ハワードの死はそのための「過程」として、最初から決定されていたのだ。

 

「悲劇も、陰謀も、すべては予定調和のレールの上。……本当につまらないな、この世界は」

 

カケルは、ハワードの死によって生じるであろう、世界の金融市場の歪みを冷徹に計算し始めた。

スターク・インダストリーズの株価暴落。それに伴う軍事産業のパワーバランスの変動。

カケルはその激流の裏側に潜り込み、数億ドル規模の資金を、自身のフロント企業(表向きは最先端の医療機器を開発するベンチャー企業『レイメイ・メディカル』)へと還流させた。

 

「歴史は止めない。だが、その激流が残す『泡(あぶく)』は、私の実験費用としてすべて回収させてもらう」

 

十一歳の少年は、世界の巨頭の死をただの「資金調達のチャンス」として処理し、自らの研究をさらに加速させていくのだった。

 

 

一九九二年、春。カケル・レイメイ、十二歳。

彼は、小学校の卒業を控えた時期でありながら、すでに実質的な「世界の脅威」の一端に触れようとしていた。

 

事の発端は、カケルが自身の医療研究の一環として、裏ネットワークに流した一本の論文だった。

それは『神経細胞の不可逆的壊死における、量子もつれを利用したナノマシンによる代替修復理論』という、当時の地球の科学からは完全に浮き上がった、しかし理論的には一分の隙もない、あまりにも美しすぎる論文だった。

 

カケルとしては、自分のフロント企業『レイメイ・メディカル』の技術的ハブ(中心点)を作るための撒き餌のつもりだった。だが、その餌が優秀すぎた。

 

「……おや」

 

地下研究所のセキュリティアラートが、静かに赤く点滅した。

カケルが構築した、ニューヨーク市内の主要な通信網を監視するシステムが、特定の「キーワード」と「暗号化されたプロトコル」を検知したのだ。

 

『対象のIP、および発信源の特定を急げ。これは、SSR(戦略科学予備軍)の遺産、あるいはそれ以上のオーバーテクノロジーである可能性が高い。――ディレクター・フューリー』

 

カケルの瞳が、僅かに細められた。

 

「ディレクター・フューリー……。そして、S.H.I.E.L.D.(シールド)、か」

 

カケルは、通信の逆探知を瞬時に行い、その発信源がニューヨークの市街地に偽装された、ある「国際防衛安全保障組織」の秘密データセンターであることを突き止めた。彼らの組織名が『S.H.I.E.L.D.』であることも、この時のハッキングで初めて電子の海から引きずり出した。

彼らは、カケルの論文に強い危機感を抱いていた。なぜなら、その技術は、彼らが極秘裏に管理しているはずの、過去の未解決の超常技術データを、一般の人間が(それも、どこの組織にも属さない個人が)独自に超越してしまったことを意味していたからだ。

 

「私の存在に気づいたか、世界の番人ども」

 

モニターには、カケルの自宅周辺を遠隔監視し始めた、複数の不審な車両のデータが映し出されている。

エージェントたちが、カケル・レイメイという「飛び級を繰り返す天才少年」と、ネット上の「タカシ・サイトウ」の同一性を疑い、外堀を埋め始めていた。

 

このままでは、あと数日で自宅に突入されるか、あるいは拘束され、どこかの地下施設へと連行されるだろう。

十二歳の子供の肉体のままでは、国家規模の組織(しかも超法規的な力を持つ組織)を相手に、合法的に立ち回ることは難しい。

 

だが、カケルは一切の動揺を見せなかった。

むしろ、彼の唇は、愉悦に満ちた弧を描いていた。

 

「思考実験の、最初の関門だな。世界が私という不具合(バグ)を排除し、システムの内側(ジェイル)へ閉じ込めようとしてくる。……いいだろう。ならば、こちらも『代替品』を用意してやろうじゃないか」

 

カケルは、椅子の背もたれを叩き、静かに立ち上がった。

彼が選んだ解決策は、逃走でも、全面戦争でもない。

「彼らの認知を、私の都合の良い形へとハッキングする(書き換える)」ことだった。

 

――その夜。

カケルの自宅周辺は、不気味な静寂に包まれていた。

街灯の光が届かない路地の影に、三台の黒いバンが停車している。車内には、高度なタクティカルギアに身を包んだS.H.I.E.L.D.のエージェントたちが、無線を交わしていた。

 

「ターゲット(カケル・レイメイ)は自室で就寝中。バイタル、安定。……よし、突入して身柄を確保する。表向きは『特別特待生としての政府保護』だ。荒立てるなよ」

 

リーダー格の男が指示を出し、車のドアに手をかけた、その瞬間だった。

 

**――ピカッ!!!**

 

前触れもなく、雲一つない夜空から、眩いばかりの『青白い雷』が、カケルの自宅の庭へと垂直に激突した。

ドォン!! という、鼓膜を破らんばかりの爆音が響き渡り、周辺の電子機器が一斉にショート(ゼウスの神雷に伴う副産物的なEMP効果)を起こして沈黙する。バンのモニターも砂嵐に変わり、エージェントたちの無線には「ジーッ」という激しいノイズだけが残された。

 

「な、なんだ!? 落雷か!? 機器が死んだぞ!」

「待て、庭を見ろ! 何かいる!」

 

暗視ゴーグルを無理やり剥ぎ取ったエージェントたちが、車の窓越しに目撃したのは、この世の現実とは思えない光景だった。

 

落雷のクレーターの中心。

そこに立っていたのは、真紅のスーツに身を包み、白銀のマントを夜風になびかせた、『巨大な超人』だった。

その胸元の稲妻の紋章が、淡い光を放ちながら周囲の闇を照らしている。

 

「……そこまでだ、世界の猟犬ども」

 

超人に変身したカケルは、低く、重厚な声で言い放った。

変身時のソロモンの知恵による精神的威圧だけで、歴戦のエージェントたちの身体が硬直する。本能が、目の前にいる存在を「生物としての格が違う」と告げていた。

 

「な、何者だ……! 手を上げろ!」

 

一人のエージェントが、恐怖に駆られて銃を構え、引き金を引いた。

放たれた九ミリ弾が、超人の胸元へと一直線に向かう。

だが、カケルは避ける動作すら起こさなかった。

 

**カンッ!**

 

銃弾は、アトラスのスタミナに守られた彼の皮膚に触れた瞬間、まるで豆腐にぶつかったブリキの玩具のように、ぐにゃりとひしゃげて地面へと落ちた。傷一つ、掠り傷すらついていない。

 

「物理的な干渉は無意味だ。お前たちの持つ武器では、私の皮膚を分子一つ分も震わせることはできない」

 

カケルはマーキュリーの神速を発動した。

エージェントたちの視点からは、次の瞬間、超人が「消えた」ように見えた。

 

「――がはっ!?」

 

次の瞬間には、三台のバンの周囲にいたエージェントたち全員が、それぞれの腹部に軽い衝撃を受け、地面へと転がっていた。ヘラクレスの剛力を極限まで制御し、指先で軽く小突いたに過ぎない衝撃。それだけで、彼らの戦闘能力は完全に奪われた。

 

カケルは、リーダー格の男の前にゆっくりと歩み寄り、その巨体で見下ろした。

 

「ニック・フューリーに伝えろ」

 

カケルは、冷酷な、しかしどこか哀れむような笑みを浮かべた。

 

「カケル・レイメイという少年は、私の『知恵の代行者(プロキシ)』だ。彼は私がもたらす知識を、この世界の未熟な科学へと翻訳する役割を担っている。彼に手を出せば、私はお前たちの組織(シールド)、およびその裏に潜り込んでいる『別の歪み』ごと、このニューヨークの地から消し去ることになる」

 

「っ……!? なぜ、それを……!」

 

リーダーの男が、驚愕に目を見開く。自分たちの組織のトップの名前だけでなく、組織の最深部に何かが潜んでいるという事実の片鱗すら、この超人は見抜いている。

(※カケルは前世の知識ではなく、先ほどの数日間のハッキングによるデータ分析と、変身時のソロモンの知恵による『組織の不自然な二重構造の推論』だけで、シールドの内部に別系統の巨大な寄生組織が潜伏していることを完全に看破していた)

 

「すべては同じ場所へ行く。だが、その過程をお前たちの安っぽい陰謀で汚されるのは不愉快だ。少年(カケル)には、これまで通り、ただの『天才児』として、自由な研究を続けさせてもらう。……異論はないな?」

 

カケルが、右手を軽く上げる。

その指先から、バチバチと青いゼウスの雷が這い回り、周囲の空間が目に見えて歪み始めた。

 

「……了解、した。上に、そう報告する……」

 

リーダーの男は、屈服せざるを得なかった。

目の前にいるのは、人間の善悪など遥かに超越した、冷徹で、圧倒的な『超常の存在』だ。関われば、組織そのものが一瞬で瓦解する。

 

「アキレスの勇気」に裏打ちされた無慈悲な眼差しで、超人は最後に冷たく告げた。

 

「賢明な判断だ。代わりのきかない命を、大切にするがいい」

 

カケルが再び心の中でトリガーとなる言葉を唱えた瞬間、爆発的な落雷が彼を包み、光が消えたときには、そこには誰もいなかった。

壊滅した電子機器と、地面に残された焦げ跡だけが、その圧倒的な現実を証明していた。

 

 

翌朝。カケル・レイメイの自宅。

 

昨夜の騒ぎは、近隣住民には「局所的な異常気象によるトランスの爆発」として処理されていた。S.H.I.E.L.L.E.D.の隠蔽工作(情報操作)は、流石に素早かった。

 

カケルは、自分の部屋のベッドから起き上がり、鏡の前で自分の顔を見た。

十二歳の、どこにでもいる、少し線の細い少年の顔。

 

「……フゥ」

 

彼は、手元の端末(昨夜のEMPからあらかじめ保護しておいた自作の特殊デバイス)を開いた。

S.H.I.E.L.D.の内部データベースへ再度ハッキングを仕掛けると、カケル・レイメイのファイルステータスが、劇的に書き換えられているのが確認できた。

 

『対象名:カケル・レイメイ(タカシ・サイトウ)』

『危険度:不確定(物理적接触は厳禁)』

『特記事項:未確認の最上位能力者(便宜上、識別名を【ライトニング(Lightning)】とする)の庇護下にあり、その知恵の代行者として機能している可能性が高い。対象への接触は、ディレクター・フューリーの直接許可がない限り、全面禁止とする。組織内への情報流出も徹底的に警戒せよ』

 

カケルは、それを見て、満足そうにフッと鼻で笑った。

 

「便宜上の識別名が【ライトニング】、か。安直だが、悪くない。完璧な代替(ジェイル)の成立だ」

 

彼は、椅子に座り、冷たいミルクを口に含んだ。

 

「彼らは『ライトニング』という巨大な謎の超人を恐れ、私はその庇護下にある無力な天才少年に過ぎないと誤認した。これにより、私はS.H.I.E.L.D.やその内部の不穏分子からの物理的な干渉をシャットアウトしつつ、表の社会で『レイメイ・メディカル』としての研究を、合法的に、かつ最大限の安全を確保した状態で進めることができる」

 

彼らが「ライトニング」という巨大な偽のパーツ(代替品)に目を奪われている間に、本体であるカケルは、世界の裏側でさらに深く、強固に根を張る。

 

「さて、第一段階(小学生編)の思考実験は、これで終了か」

 

カケルは、窓の外の青空を見上げた。

一九九二年。彼が生まれてから、十二年が経過した。

世界はまだ、彼が知る限りの静けさを保っている。だが、カケルのソロモンの知恵をベースとした超知性は、数年後の未来――一九九五年前後に、この世界の物理的・エネルギー的な均衡が大きく崩れる「巨大なパラダイムシフトの予兆」を、すでに大気の揺らぎから感知し始めていた。それが、どこから来る何なのかは、まだ知る由もない。

 

「どんな激流が来ようとも、終着点(バックノズル)は変わらない。だが……」

 

十二歳の少年は、自らの脳内に眠る無限の科学と、魂に宿る神の雷を、静かに、深く研ぎ澄ませていく。

 

「その結末に至るまでの『物語の過程』を、どこまで私の手で、私の理論で、面白おかしくハッキングできるか。……世界という名の巨大な檻(ジェイル)よ、せいぜい私を楽しませてくれ」

 

黎明駆――カケル・レイメイの、冷徹で、虚無的で、しかし絶対的な『世界への挑戦』は、まだ始まったばかりだった。

 

 

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