1:聖域へのハッキング
ニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジの一角。
煤けた煉瓦造りの古風な建物が、午後の物憂げな陽光を浴びて佇んでいた。周囲の喧騒から隔絶されたかのようなその空間は、魔術の聖域『サンクタム・サントラム』。地球を異次元の脅威から保護するための、神秘の結界の要石である。
しかし今、その聖域の「理」が、極めて暴力的かつ合理的なアプローチによって内側から書き換えられようとしていた。
「――観測値の同期。空間位相の歪み、周期三・八サイクル。ノイズの発生源は……この奥か」
静謐な廊下に、カケル・レイメイの高級な革靴の音だけが冷酷に響いていた。
三十五歳となった黎明駆は、仕立ての良いスーツの上に、いつもの白い研究衣を羽織り、白衣のポケットに両手を突っ込んだまま淡々と歩を進めていた。その端正な顔立ちには感情の起伏が一切なく、ただその瞳の奥で、知性の極致たる青い量子光――『ソロモンの知恵』を中核とする魂のOS――が静かに明滅している。
カケルには、この世界のヒーローたちが共有するような「原作知識」というチートシートは存在しない。しかし、彼にはそれを遥かに凌駕する『生存のロジック』があった。ウルトロンの残骸、チタウリのエネルギー結晶、そして世界各地で観測される「未知の特異点エネルギー」のログを逆算した結果、カケルは地球、否、宇宙規模のシステムに致命的な「バグ」が接近しつつあることを完全に看破していたのだ。
ガガガ、と空間がきしみ声を上げる。
サンクタムの防衛システムが起動したのだ。廊下の壁が突如として幾何学的に歪み、万華鏡のように回転を始める。無限に続く空間の迷路。通常の人間であれば、精神を狂わせられて永久に彷徨うことになる魔術の檻。
だが、カケルは歩みを止めない。
彼は左手で白衣のポケットから、手のひらサイズの奇妙な端末を取り出した。イージス重工業が総力を挙げて開発した『高周波量子位相ジェネレーター』である。
「インターフェースがオカルトなだけで、空間の連続性を書き換えているという点において、量子力学の数式と一ミリの差異もない。プログラムの記述言語が古すぎるんだよ。お粗末なコーディングだ」
カケルが端末のエンターキーを叩くと同時に、彼の脳内OSに組み込まれた『プロトコル・シャザム』の余波が、物理的な高周波波動へと翻訳されて放射された。キィィィン、という鼓膜を刺すような高音が響く。空間の歪みの周期を逆算し、その「逆位相」の波動をぶつけることで、魔術の防衛コマンドを物理的に強制終了(フリーズ)させたのだ。
万華鏡のように回転していた壁が、一瞬にして元の煤けた煉瓦の壁へと固定される。
「科学者が迷い込むには、ここは少々オカルトが過ぎる場所だぞ、黎明駆」
階段の上から、厳かだが警戒に満ちた声が降ってきた。
赤い浮遊マントを羽織り、胸元に『アガモットの目』を光らせた男――神秘魔術の最高峰(ソーサラー・スプリーム)、ドクター・ストレンジが、両手にオレンジ色の魔術の円陣を構えてカケルを見下ろしていた。
「お前たちがいくら顕微鏡を覗き込もうと、ここにある『理』は観測できない。帰れ。ここは物理法則の通用する世界ではない」
カケルは階段の下で立ち止まり、白衣のポケットに手を戻した。そして、傲慢極まる態度でストレンジを見上げた。
「傲慢だな、魔術師。お前たちが『神秘』と呼んでありがたがっているものは、単に規格が古いだけのエラーコードだ。現象が観測可能である以上、そこには必ず法則(アルゴリズム)が存在する。――挨拶は省こう。お前が首から下げているその骨董品の『時間演算機能』を私に貸せ。宇宙規模のバグチェックを実行する」
カケルが右手を軽く振ると、彼のスマートウォッチからホログラムの三次元数式モデルが空間に展開された。ウルトロンの核から逆算した『神殺しの計算式』の最新コード。それは、魔術の領域であるはずの「インフィニティ・ストーン」のエネルギー指向性を、完全に物理的な関数として定義してみせたものだった。
その数式の圧倒的な美しさと、神の権能すらもただの「デバッグ対象」として見下ろす冷徹な知性を前に、ストレンジの眉が大きく跳ね上がった。数世紀にわたり魔術師たちが守り続けてきた世界の秘密が、目の前の三十五歳の若者によって、完全に「言語化」されていたからだ。
「……お前は、自分が何を相手にしようとしているのか分かっているのか?」
「分かっているからここへ来た」
カケルの青い瞳が、ストレンジの魔術の輝きを冷たく射抜いた。
二大理性が衝突し、サンクタムの空気が一瞬で張り詰める。ストレンジは構えを解き、静かに階段を降りてきた。胸元のアガモットの目が、まるでカケルの知性を歓迎するかのように、怪しく緑色の光を放ち始めていた。
2:一四、〇〇〇、六〇五の演算地獄
サンクタムの最深部、瞑想の間。
そこは、現実の物理空間から完全に切り離された、無限の虚空だった。周囲には無数の時間の断層が鏡のように浮かび、過去、現在、未来の光景が目まぐるしく流転している。
「これより『アガモットの目』を開放する。タイム・ストーンのエネルギーをお前の脳(意識)へと直接同期させるが……正気を保てると思うなよ、黎明」
ストレンジが複雑な結印を結ぶと、胸元の装飾が開き、その奥から燃えるような緑色の結晶――タイム・ストーンが姿を現した。凄まじい時間の奔流が、部屋全体に渦巻く。
カケルは瞑想の間の中心に、あらかじめ持ち込んでいたイージス重工業製の量子力学コンバーターを設置し、自身の脳内OS(ソロモンの知恵)をストーンのエネルギーへと直結させた。
「私のシステム(知性)を舐めるな。エミュレートを開始しろ」
次の瞬間、カケルの視界は完全に吹き飛んだ。
脳内OSが激しくスパークし、カケルの瞳が青い量子光とストーンの緑の光が混ざり合った、不気味なシアン(青緑)の暴走光を放ち始める。一秒間に数万通り、いや数百万通りという桁外れの『未来の因果律(ログ)』が、カケルの脳内へ濁流のように流れ込み、並列高速演算のプロセスが起動した。
ストレンジがただ未来の映像を「視る」のに対し、カケルはその未来の因果律の構造そのものをプログラムのソースコードとして展開し、片っ端から「バグ・チェック(デバッグ)」を試みていった。サノスという宇宙の覇者が地球に襲来し、世界を蹂躙する未来。そのすべてのルートにおいて、カケルは勝利の方程式を探して、力尽くでコードの書き換え(ハッキング)を繰り返す。
だが。
*ログ〇〇〇〇〇〇五:*
トニー・スタークの攻性ナノテク(マーク50)が、タイタン星にてサノスの首を完璧に撥ねる。サノス、完全死亡。――勝った。アベンジャーズが歓喜の声を上げた直後、突如として地球の、いや宇宙全土の大気が一瞬にして「石化」を始める。全生命体が息の根を止められ、世界が灰色に染まって沈黙した。
『エラーコード:バックノズル発動。処理を中断します』
「チッ、別ルートだ。演算速度を上げろ!」
カケルの脳内で、思考のギアがさらに一段速くなる。彼の鼻から、精神の過負荷による一筋の鮮血が流れ落ちる。
*ログ〇〇〇〇五一二:*
カケル自身が開発した『アイアンマン・マーク63:ゴッドキラー』がワカンダに降臨。絶対論理フィールドによってサノスを無力化し、すべてのストーンを奪取。サノスを拘束。――完璧な勝利のはずだった。だがその瞬間、地球の地殻が突如として歪み、太平洋の海底からあり得ない規模の超重力崩壊(ブラックホール現象)が発生。地球は自らの質量に耐えかねて内側にへし折られ、塵となって消滅した。
『エラーコード:バックノズル発動。処理を中断します』
*ログ〇一二〇_四〇五:*
雷神ソーが怒りのままにストームブレイカーを放ち、サノスの胸を貫く。サノス即死。ガントレットは機能しない。――だが、サノスの巨体が地面に倒れた瞬間、未知の遺伝子ウイルスが全宇宙の全惑星で同時多発的に発生。数ヶ月かけて、地球の生命の正確に「半分」が無秩序な嘔吐と狂気の中で肉体を腐らせて死滅。さらに数年後、残された半分も精神の崩壊と生態系の拒絶反応によって全滅した。
『エラーコード:例外処理の失敗』
「なぜだ……! なぜ何を書き換えても結末(海の底)が変わらない!」
精神世界の中で、カケルの理性というキーボードが猛烈な速度で叩かれ続ける。
サノスを事前に暗殺する未来、ストーンをすべて太陽に放り込む未来、アベンジャーズが最初から分裂せずに一致団結してサノスを宇宙の果てで迎え撃つ未来――。
一〇〇万、五〇〇万、一〇〇〇万。
演算数が桁違いに跳ね上がっていく。だが、映し出されるすべてのタイムラインの終着点は、例外なく「世界の半分、あるいは全土の完全な死滅とクラッシュ」へと収束していく。サノスを倒せば倒すほど、宇宙そのものがより凄惨な、無秩序な物理の暴威(大災害やウイルス)をもって、生命を強制的に間引きに来るのだ。
精神世界の片隅で同期していたストレンジは、カケルの脳が受けている狂気的な情報量と、そこに映し出される圧倒的な「全滅の連続」に、正気を失いかけていた。ストレンジの顔が恐怖に歪む。
「止めろ、黎明! これ以上は脳が、お前の精神が焼き切れる! 見ただろう、勝てるルートなど存在しないんだ! サノスを殺そうが、ストーンを隠そうが、未来そのものが『地球の崩壊』という結末へ向かって狂ったように蛇行している! これが神の、宇宙の決定した絶対の運命だ! 人間には変えられない!」
「黙れ、魔術師……! 計算を止めるな! 完璧なプログラム(世界)に、デバッグできないバグなど存在しない!」
カケルの魂のOSが悲鳴を上げる。ゼウスの神雷、ヘラクレスの剛力、すべての神権のエネルギーを思考の加速へと注ぎ込み、因果律の壁をロジックで殴り続ける。
一四、〇〇〇、六〇五通り。
その最後の演算ログが赤く弾け飛んだ瞬間、カケルは量子力学コンバーターの接続を力尽くで引き剥がした。
3:二大概念の看破――『バグの言語化』
「ハァ、ハァ、ハァ……!」
瞑想の間の床に、ドクター・ストレンジが激しく膝をつき、呼吸を荒立てていた。魔術の最高峰たる男の額からは、冷や汗が滝のように流れ落ちている。一四〇〇万通りの絶望の未来を同時に「視た」代償は、彼の精神をズタズタに引き裂いていた。
しかし。
「――なるほど。そういう仕様(コード)か」
カケルは、白衣の袖で鼻から流れ落ちた血を無造作に拭い、何事もなかったかのようにすっくと立ち上がった。その瞳のシアンの暴走光は消え、元の冷徹な、しかし底知れない青い量子光へと戻っていた。彼の端正な顔に絶望の色は一ミリもない。むしろ、難解な暗号のバグの正体を完全に突き止めたエンジニア特有の、冷酷な歓喜すら漂っていた。
「黎明……お前、正気なのか? あの中に見ただろう……地球が、全宇宙が、どうあがいても滅びへ向かうあの地獄を……」
ストレンジが信じられないものを見る目でカケルを見上げる。カケルは白衣のポケットに両手を突き戻し、サンクタムの埃っぽい床を冷たく見下ろしながら、脳内のログを反芻するように語り始めた。その声には、恐怖も、悲しみも、焦燥も一切なかった。
「お前たち魔術師やヒーローは、これを『神の運命』と呼んで諦め、エモーショナルな犠牲を美化するのだろうな。だが私の知性は、この一四〇〇万のエラー構造を完璧に理解した。これは運命などという高尚な代物ではない。宇宙という巨大な計算機(檻)に、最初から組み込まれている、ただのお粗末な仕様不具合(バグ)だ」
カケルが指をパチンと鳴らすと、空中にホログラムの3D数式モデルが展開された。それは一本の巨大な川のモデルだった。どれほど岩にぶつかり、どれほど激しく蛇行しようとも、すべての水流が最終的に同じ「海の底」へと吸い込まれていく構造。
「一つ。『バックノズル(結末の決定項)』だ」
カケルの冷徹な声が、サンクタムの静寂を支配する。
「宇宙のOSは、増えすぎた生命の総量(質量)と、宇宙の資源の比率を一定に保つために、あらかじめ【半減期(マイナス50%)】と【復元期(プラス100%)】という、巨大な収支決算の周期関数を起動させている。歴史という奔流がどれほど激しく蛇行しようとも、この決算という決定項(バックノズル)は微塵も揺らがない。だから、サノスというバグを力尽くで排除して引き算を拒絶しても、宇宙のシステム自体が強制仕様として、直接、新種のウイルスや時空の超重力崩壊という物理現象(大災害)を起こして、生命を間引きに来る。サノスは破壊の神などではない。宇宙の減少プログラムの実行キー(スイッチ)として、その場に嵌まるために本能的に動かされていた、ただの過程のパーツに過ぎない」
ストレンジは息を呑んだ。アベンジャーズがあれほど恐れ、宇宙の脅威と呼んでいたサノスという存在を、この男はただの「自動実行マクロのスイッチ」として定義したのだ。
「そして、もう一つ。**『ジェイルオルタナティブ(機能の代替性)』**」
カケルは数式モデルを切り替え、今度は無数の同一の規格パーツが並ぶ工場のラインのようなホログラムを提示した。
「世界という巨大な檻(ジェイル)において、唯一無二のスペアなしなど存在しない。宇宙のシステムが求めているのは、生命の総量を半分にするという【結果(機能)】だけだ。そこにサノスという固有名詞の存在理由はない。誰がその役割を担っても、あるいは何が原因で半分になっても、数式さえ合っていれば宇宙はそれを『正常終了』として承認(パス)する。……問題は、サノスという不確定でノイズの多いスイッチにその実行キーを押させた場合、地球のすべての社会インフラが物理的に破壊され、残された人類は数年間、精神的な生き地獄を味わうという点だ。さらに悪いことに、サノスが撒き散らすノイズのせいで、数年後に必ず訪れる『復元フェーズ(足し算)』の際、質量が急激に倍化した世界は対応できずにシステムクラッシュ(全滅)を起こす。サノスが書くコードは、あまりにもスパゲッティ(不細工)すぎるんだよ」
カケルは窓の外、夕暮れに染まるニューヨークの街並みを見つめた。その横顔に、五条悟すらも震え上がるような、圧倒的で傲慢な「絶対理性の笑み」が浮かぶ。
「変えられない運命(数式)だというなら、わざわざそのクソゲーに正面から付き合ってやる必要はない。宇宙のシステムが数値の帳尻(バックノズル)しか見ていないなら、中身(過程)をハッキングして、私のロジックで『最も美しく、最も被害のないストーリー』に仕様を書き換えてやる」
「……宇宙の、神の目を欺くというのか? そんなことが……可能だと?」
ストレンジの声が震える。カケルは振り返り、ストレンジの目を真っ向から見据えた。
「可能か不可能かではない。私が、そうすると決めた。これより仕様書――『プロジェクト・エンドゲーム』を構築する。魔術師、お前は私の書いたコード通りに動く『歯車』になれ」
4:仕様書『プロジェクト・エンドゲーム』の調印
サンクタムの窓から差し込む、血のような夕暮れの赤い光。それが瞑想の間の幾何学的な床に長い影を落としていた。まるで、これから始まる宇宙規模のチェス盤の境界線のようだった。
カケルは空中に、新たなホログラムの仕様書を展開した。それは、地球と宇宙の双方で同時に実行される、完璧な並列処理(マルチタスク)の構造図だった。
「役割分担を確定させる。まずは、トニー・スターク(最高資産)だ」
カケルの指がホログラムの【外宇宙(タイタン星)】という項目を叩く。
「サノスが地球に来る前に、スタークを宇宙へ行かせろ。お前もタイム・ストーンを持って同行するんだ。スタークの知性と、私がバックアップしているマーク50の攻性ナノテクアーマーなら、サノスにストーンの力を無駄遣いさせ、奴の処理速度(スペック)を限界まで落とすための最高に贅沢な『遅滞戦闘(ハッキング)』の役割を果たせる。スタークが外宇宙でサノスを釘付けにしている時間が、そのまま地球の生存確率に直結する」
「トニーを宇宙へ……。しかし、私たちがタイタンで戦っている間、地球(ワカンダ)はどうなる?」
ストレンジが鋭く問いかける。サノスの大軍は、ヴィジョンの持つマインド・ストーンを狙って必ず地球へ押し寄せるはずだった。
「地球(ここ)は、私が完全に統治(コントロール)する」
カケルは白衣のポケットに手を突き戻したまま、当然だと言わんばかりに冷淡に言い放った。
「スタークという脳が不在の地球において、システムを正常稼働させられるパーツは私しかいない。ワカンダの草原をチェス盤に変え、イージス重工業の『ブレイク・スルー(タイタン)』重機連隊を解き放ってサノスの軍勢を物理質量で圧殺する。その間に、私が編み出した『神殺しの計算式』の制御プログラムを用いて、ヴィジョンの生命人格を100%維持したまま、マインド・ストーンを安全に『抽出・隔離』する。サノスが地球へワープしてきた瞬間には、すでにすべてのストーンのハッキング準備が整っている状態を作る」
「……だが、黎明。お前の言う『バックノズル』が絶対なら、すべてのストーンが揃ったサノスは、最終的に指を鳴らす。世界は半分になってしまうのだろう?」
ストレンジの言葉には、まだ拭いきれない不安があった。サノスに指を鳴らさせれば、それはアベンジャーズの敗北を意味するのではないか。
しかし、カケルの答えは、ストレンジの想像の斜め上を行くものだった。
「鳴らさせればいい」
「何……!?」
「言ったはずだ、魔術師。宇宙の減少プログラム(引き算)自体は、サノスを殺そうが何しようが、どのみち数年かけて別の形で執行される。大災害やウイルスで無秩序に世界が崩壊するより、サノスの指パッチンという『一瞬で、建物を破壊せずに生命だけを消去する関数』を利用する方が、地球のインフラへのダメージが最も少ない。サノスという便利な『使い捨ての実行キー(ジェイルオルタナティブ)』をお前たちが宇宙で磨き上げ、地球で私がそれを利用してやるんだよ」
カケルの瞳に、冷徹な青い光が凝縮されていく。
「ただし。サノスが実行キーを押した瞬間、私のマーク63『ゴッドキラー』の全出力をアース(地球全域の防衛)に回し、消去される地球の半分を、**私が事前に指定した『世界の稼働に影響のないパーティション(ダミーデータ)』だけ**にトリアージ(制限)する。地球の全ての発電所、通信網、物流インフラ、そしてスタークの命……世界を維持するための必要な歯車は、サノスには1ミリも触れさせない。生命が半分になった後の5年間、地球に世紀末の荒廃など起こさない。私の『イージス自動統治システム』が、100%完璧に社会の稼働率を維持したまま、世界を無傷で『凍結(アーカイブ)』してみせる」
ストレンジは言葉を失った。カケルは、サノスの全宇宙規模の虐殺を、ただの「システムの一時的なデータ退避(アーカイブ)」へとダウングレードしようとしていたのだ。
「そして5年後だ」
カケルの指が、仕様書の最終フェーズ【プロジェクト・エンドゲーム:復元(マージ)】を指し示した。
「宇宙のバックノズル通り、自動的に『足し算(復元)』のフェーズが訪れる。その瞬間に向けて、私とスタークは5年間、完璧な受け皿(防衛インフラと都市計画)を設計し続ける。スタークが完成させた安全なエネルギー還流デバイス(マーク85)で足し算のキーを叩けば、隔離されていた半数の生命は、5年前と全く同じ健康状態で、安全に世界へ書き戻される。一瞬で人口が倍になろうとも、私のインフラがあれば世界は1秒の混乱もなく日常を継続する。これが、私の書いた完全デバッグのコードだ」
カケルはホログラムを消去し、ストレンジに向かって一歩歩み寄った。
「魔術師。お前が未来のタイタン星で、サノスにタイム・ストーンを引き渡す瞬間が訪れる。それは敗北の命乞いではない。地球のインフラ準備を完璧に整え、スタークの命を確実に保護した上で、私のこの仕様書(エンドゲーム)を起動するための、確定エンターキーだ。タイミングを絶対に間違えるなよ。お前のその手にかかっている」
ストレンジは、目の前に立つ若きの最高経営責任者を見つめた。神の定めた絶対の運命、宇宙の冷徹な決算ルール。そのすべてを「お粗末な仕様」と切り捨て、人間の知性と堤防(イージス)の内部に飼い慣らそうとする、圧倒的なまでの傲慢さと、それを可能にする冷徹な理性。
ストレンジの唇が、自然と小さな、しかし確かな微笑みの形を結んだ。
「……狂っているな、黎明駆。だが、神の理不尽に従うよりは、お前の傲慢なコードに従う方が、遥かにエンジニアとして、いや、魔術師として寝覚めが良い。ソーサラー・スプリームの名に懸けて、お前の仕様書通りに時間を進めてみせよう」
「当然だ。計算ミスは一分一秒たりとも許されない」
カケルは振り返りもせず、サンクタムの出口へと歩き出した。彼の脳内OS(ソロモン)には、すでに2年後に迫る『インフィニティ・ウォー』の全アルゴリズムが、完璧にコンイルされ、起動の瞬間を待っていた。
煤けたサンクタムの扉を開け、ニューヨークの喧騒へと足を踏み出すカケル。その背中に、沈みゆく夕日の赤い光が、まるで新しい世界の夜明けのように付き従っていた。
「――来るなら来い、未知の不具合(サノス)。私のシステム(地球)に触れた瞬間に、お前の存在ごと、完璧に管理(デバッグ)してやる」
世界という檻(ジェイル)のルールを、人間の知性が完全に上書きするためのカウントダウンが、今、静かに始まった。