1:一九九六ー二〇〇三年
一九九六年。カケル・レイメイは、十六歳になっていた。
マサチューセッツ工科大学を飛び級の末に首席で卒業した彼は、世間から「今世紀最大の神童」「ハワード・スタークの再来」と騒がれていた。だが、彼にとって大学という組織は、自らの脳内にある未来の技術をこの時代の論文形式に落とし込むための、ただの『翻訳作業の場』に過ぎなかった。
卒業と同時に、カケルは自身が設立した医療ベンチャー『レイメイ・メディカル』の最高経営責任者(CEO)に就任する。
表の顔は、若き天才実業家。しかし裏の顔は、電子の海の深淵に潜み、世界中の闇市場を技術で支配する「タカシ・サイトウ」。そして、シールドの最高幹部すら手出しできない謎の超人「ライトニング」。
カケルは幾重もの仮面を使い分けながら、世界という巨大なシステムの構造をハッキングし続けていた。
「カケル、今日はお祝いよ。あなたの好きな、チェリーパイを焼いたの」
ニューヨークの田舎町にある実家。
リビングの食卓には、カケルの十六歳の誕生日を祝うために、不格好だが温かい湯気を立てた手作りのパイが置かれていた。会計士の父親は自慢げに息子の肩を叩き、スーパーのパートを続ける母親は、嬉し涙を浮かべてカケルの成長を喜んでいる。
カケルは、フォークを手に持って、その赤い果実を見つめた。
彼の冷徹な知性は、瞬時にこの状況を分析する。
(チェリーパイの糖分と酸味は、脳の疲労回復において極めて一般的な効率を持つ。この二人の男女は、私が前世の記憶と神の力を隠し持っていることも知らず、ただ『自分の子供が天才だった』という偶然の幸運に狂喜しているだけだ。彼らは私にとって、社会的な隠蔽(カモフラージュ)を維持するための機能に過ぎない……)
そう、頭では理解している。
理論的には、彼らが明日死のうが、別の「親」という記号を戸籍上に用意すれば、カケルの活動に何ら支障はないはずだった。
「……美味しいよ、ママ。焼き加減が、去年のものより三パーセントほど改善されている」
「もう、あなたって子は。お料理を科学の実験みたいに言うんだから」
母親が困ったように笑い、カケルの頭を優しく撫でる。
その温かい手のひらが触れた瞬間、カケルの高度な脳細胞の片隅で、微弱な「バグ」が発生した。
胸の奥が、ほんの少しだけ、締め付けられるように熱い。
(……おかしいな。心拍数に異常はない。血流量も正常だ。なのに、なぜ私はこの不条理なほど甘いパイを、これほど『愛おしい』と感じている? 完全に論理の破綻だ。私はこの二人に、不必要な愛着を抱き始めているというのか)
カケルは小さく息を吐き、感情の揺らぎを無理やり脳の奥底へ押し込めた。
彼は、自分がただの冷徹な観測者でありたいと願っていた。しかし、十六年という歳月は、彼の肉体と精神に「人間としての温かみ」を、本人の意志を無視して刻み込みつつあった。
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その「人間的なバグ」は、彼の裏の活動において、より顕著な形で現れ始める。
一九九五年の「外宇宙からの来訪者(キャプテン・マーベルの事件)」を観測したカケルは、世界中の居場所を失った精鋭を集め、防衛専用の私設軍隊『イージス・ディフェンス・システムズ』を組織していた。
二〇〇二年の冬。カケルは、タカシ・サイトウのホログラム(顔をノイズで隠した偶像)として、大西洋に浮かぶ秘密訓練施設の格納庫に立っていた。
彼の前には、シールドの内部告発に巻き込まれて使い潰されかけた元工作員や、戦場で四肢を失いかけてレイメイ・メディカルのナノ医療技術で命を救われた退役軍人など、約五百人の兵士たちが整列している。
彼らの装備は、カケルが開発した最新鋭の電磁加速銃(コイルガン)と、衝撃を分子レベルで分散する防弾スーツだ。
「報告を」
カケルの冷たい声が、スピーカーを通じて響く。
「はっ。先月、中東の局地紛争地域において、テロ組織の爆撃から民間人居住区を完全に防衛しました。我が隊の犠牲者はゼロ。市民の死傷者も、最低限に抑え込みました」
元デルタフォースの隊長であり、現在はイージスの前線指揮官を務める男――ジョンが、直立不動の姿勢で誇らしげに言った。
ジョンの胸元には、かつて戦場で負った深い傷跡がある。それを救ったのは、カケルが自ら夜通し執刀した、ナノマシンによる神経再生手術だった。
「結構だ。君たちの目的は、戦争の勝敗ではない。あくまで『盤面の維持』だ。外宇宙からの脅威がこの星に降るその日まで、一般市民という基盤を失うわけにはいかない。君たちは、そのための強固な壁として機能していればいい」
カケルは、彼らをただの「効率的な防壁(パーツ)」として突き放す言葉を投げかけた。
だが、ジョンをはじめとする兵士たちの瞳に宿っているのは、恐怖や従属ではなかった。それは、言葉にできないほどの、深い「信頼」と「狂信」だった。
「タカシ。俺たちはあんたに命を拾われた。国家も、シールドも、俺たちをゴミのように捨てたが、あんただけは違った。あんたがどんなに冷てえ言葉を使おうが、俺たちにはわかる。あんたは、この世界の誰も見ようとしない『本当の危機』から、人類を、名もなき市民を本気で守ろうとしてるんだ。……俺たちは、あんたの盾だ。命の使い所をくれて、感謝してる」
ジョンが胸に拳を当て、敬礼する。それに呼応するように、五百人の兵士が一斉に動いた。
(……チッ、これだから人間は面倒だ)
カケルはホログラムの向こうで、不機嫌そうに顔を歪めていた。
彼は、彼らを「使い捨ての防壁」として集めたはずだった。誰が死んでも、新しい退役軍人を補充すれば済む。それが彼の合理的な計算だった。
しかし、自分の与えた武器を手に、泥に塗れながら「誰かを守るために」命を懸ける彼らの姿を見ていると、カケルの脳内の数式が、どうしても冷徹な結論を導き出せなくなる。
(パーツの破損を恐れているのではない。私は、こいつらを『失いたくない』と思っているのか? ……馬鹿馬鹿しい。正義の味方ごっこをするつもりなど、毛頭ないというのに)
カケルは無言で通信を切った。
照明を落とした薄暗いCEO執務室で、カケルは自らの手を見つめる。
彼の中に宿る「ソロモンの知恵」は、世界のすべてを数字と記号で説明しようとする。だが、彼の内側にある「人間の心」は、その記号化された世界に、どうしても熱を与えてしまうのだった。
2:二〇〇四ー二〇〇七年
二〇〇五年。カケルは二十五歳になり、『レイメイ・メディカル』は世界トップクラスの巨大複合企業へと躍進していた。
最先端の再生医療、ナノテクノロジーを用いた特効薬の数々は、世界の医療バランスを完全に塗り替えていた。カケルは「若き天才富豪」として、毎日のように経済誌の表紙を飾っている。
そしてこの時期、世界のトップに君臨していたもう一人の天才がいた。
――トニー・スターク。
スターク・インダストリーズのCEOであり、圧倒的な知性で世界最強の兵器を次々と生み出す、傲慢無比な武器商人。
カケルは、ニューヨークで開催されたチャリティ・ガラパーティーの会場で、初めてトニー・スタークの実物と対面することになった。
「いやあ、君が噂のレイメイ・メディカルの神童か。医療ナノマシンの論文、読んだよ。発想は悪くないが、分子の結合効率が少し保守的(コンサバ)だな。僕なら、あと十二パーセントは出力を引き上げられる」
高級なタキシードを身に纏い、片手にシャンパングラスを持ったトニーが、自信満々の笑みを浮かべてカケルを見下ろしてきた。周囲には、彼の言葉に群がる美女や実業家たちが取り囲んでいる。
二十五歳のカケルは、グラスの水を静かに口に含み、トニーの目を正面から見つめ返した。
「スターク氏、医療と兵器は違います。我々が扱っているのは、人間の命という極めて繊細なシステムだ。あなたの設計するミサイルのように、ただ最大出力を求めて周囲を焼き尽くせばいいというものではない」
「ハハッ! 言うねえ。だが、世界を動かしているのは、いつの時代も圧倒的な『力』だよ、レイメイ。君の高潔な医療も、僕の兵器が作る平穏の裏側でしか機能しない」
トニーはニヤリと笑い、カケルの肩を軽く叩いて、美女たちの群れへと戻っていった。
(……傲慢で、自己顕示欲の塊で、自分の知性が世界を救っていると盲信している。典型的な、物語の『主役』の器だ)
カケルは、去っていくトニーの背中を、冷ややかな瞳で観察していた。
前世の記憶を持たないカケルにとって、トニー・スタークはただの「鼻持ちならない天才武器商人」でしかなかった。だが、その胸の奥で、かつてないほどの『苛立ち』と、同時に『奇妙な高揚感』がパチパチと音を立てて弾けた。
(私の『ソロモンの知恵』が弾き出す数式からすれば、彼の兵器理論など、穴だらけの原始的な玩具に過ぎない。……だが、彼はそれを、自身の生身の脳細胞だけで組み上げている)
カケルは、自分が「与えられた知識と、神々の力」を使って世界をハッキングしていることに、かすかな、しかし決定的なコンプレックスを抱いていた。
もし、自分に『シャザム』の力がなければ。前世の超未来科学の知識がなければ。自分はトニー・スタークという本物の天才の前に、ただの凡人として敗北していたのではないか。
その夜。秘密基地に戻ったカケルは、猛烈な勢いでキーボードを叩いていた。
彼は「タカシ・サイトウ」の名義を使い、スターク・インダストリーズの最高機密サーバーへと侵入した。そして、トニーが現在設計している次世代スマートミサイルの基本設計図のデータを開く。
「……ここが美しくない。熱力学の効率を完全に無視している。ここをこう書き換えれば、出力は二倍になる」
カケルは、トニーの数式に対し、痛烈かつ完璧な「修正(赤ペン)」をデータとして書き残した。それは、この時代の地球の科学レベルを絶妙に超えない範囲での、しかしトニー・スタークという天才のプライドを完璧に粉砕するための、悪意に満ちた『解答』だった。
翌朝、その修正データを見たトニー・スタークが、自社の下層研究室で「どこのどいつだ、僕の数式を弄ったのは! サイトウ!? 誰だその男は!」と、髪を振り乱して激怒したという報告をハッキング経由で聞いたとき、カケルはベッドの上で、十代の少年のようにクスクスと笑声を漏らした。
「楽しいな、トニー・スターク。君という存在は、私にとって最高の『おもちゃ』だ」
それは、冷徹な世界の観測者としては、あまりにも子供じみた、年相応の「負けず嫌いな嫉妬と憧れ」が混ざり合った、極めて人間的な感情の爆発だった。
3:二〇〇八年
二〇〇八年、春。世界という盤面に、誰も予測できなかった巨大な「地殻変動」が起きる。
トニー・スタークが、アフガニスタンの僻地でテロ組織『テン・リングス』に拉致されたというニュースが世界を駆け巡った。
レイメイ・メディカルの社内もその話題でもちきりだったが、カケルは一人、秘密基地のモニターの前で、アフガニスタン上空の軍事衛星データを凝縮して解析していた。
(シールドも軍も、彼の居場所を特定できていない。……いや、シールドの内部にいるヒドラの残党が、意図的に捜索を遅らせているな。私が仕込んだナノマシンのバグが、彼らの情報網を微妙に狂わせているせいもあるが)
カケルは、イージスの部隊を現地に派遣してトニーを救出するべきか、数秒間思考した。
だが、彼の「ソロモンの知恵」が、奇妙な静止命令を下した。
――動くな。そこには、観測すべき『特異点』がある。
拉致から数ヶ月が経過した、ある日の深夜。
アフガニスタンの荒涼とした砂漠の一角で、カケルの電磁波監視網が、未知の『莫大な熱エネルギーの暴発』を感知した。
「……何だ、このエネルギー波形は」
カケルは、モニターに映し出されるグラフを見て、目を見開いた。
それは、彼がこれまで地球上で観測してきた、いかなる石油エネルギーでも、原子力でもない。極めて小型の、しかし太陽の核融合に匹敵するほどの、純粋で、洗練された「クリーンエネルギー」の脈動だった。
人工衛星の超高解像度カメラが、砂漠の洞窟から飛び出してくる『鉄の怪物(マーク1)』の姿を捉える。
鉄クズを無理やり繋ぎ合わせたような不格好なアーマー。その胸元で、周囲の闇を切り裂くように青白く輝く、小さな光の輪。
「――アーク・リアクター」
カケルは、その光を見た瞬間、全身の毛穴が逆立つような強烈な衝撃(エレキ)を覚えた。
(彼は……トニー・スタークは、魔術の力も、神々の加護も、未来の知識も持たないはずだ。ただの二十一世紀の人間が、あの劣悪な環境の洞窟の中で、既存の物理法則をハッキングして『無から無限のエネルギー』を引き出す心臓を作り上げたというのか!?)
それは、カケルが魂に宿している「ゼウスの神雷」という超常のシステムを、ただの『人間の科学』で代替してみせた瞬間だった。
カケルは、笑っていた。
だが、その目からは大粒の、自分でも理由のわからない涙が零れ落ちていた。
悔しさ、敗北感、そして、言葉にできないほどの圧倒的な「歓喜」。
「素晴らしいよ、トニー・スターク……! 君は本物だ。神の領域にあるエネルギーを、その歪んだ情熱と、生身の知性だけで人間の道具(テクノロジー)に引きずり下ろした。君こそが、この世界という退屈なシステムに風穴を開ける、最高のバグだ!」
カケルは、モニターに向かって狂ったように拍手を送った。
この時、彼は完全に「観測者」という安全な檻から引きずり出されていた。トニー・スタークという男の圧倒的な人間力が、カケルの虚無的な精神を、激しく、残酷に叩き起こしたのだ。
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数週間後。
アフガニスタンから奇跡の生還を果たし、「武器製造からの撤退」を宣言したトニー・スタークの帰還パーティー。
ニューヨークの超高級ホテルの会場は、メディアと政財界の重鎮たちで埋め尽くされていた。
カケルは、レイメイ・メディカルのCEOとして、その会場の壁際に立っていた。
彼の視線の先には、胸元に青い光を不自然に膨らませたシャツを着て、記者たちに囲まれながらも、どこか哀愁と、そして狂気的な決意を瞳に宿したトニー・スタークの姿があった。
トニーが人混みをかき分け、バーカウンターへ向かう。カケルは静かにその隣へと歩み寄った。
「スターク氏。生還、おめでとうございます」
トニーは、グラスのウイスキーを煽り、カケルの顔を見て、少しだけ驚いたように眉を上げた。
「ああ、レイメイ。君か。……医療ナノマシンの君のアドバイス、あれは最高に頭にきたよ。おかげで入院中、退屈せずに済んだ」
「それは光栄です。胸の怪我……大変でしたね。我が社の再生医療技術を使えば、その胸の破片をすべて取り除き、元の健康な肉体に戻すことも可能ですが?」
カケルは、トニーの胸のアーク・リアクターをじっと見つめながら、あえてそう提案した。
トニーは、一瞬だけ自らの胸の光に手を当て、それからフッと自嘲気味に笑った。
「いや、いいさ。この光(おもちゃ)は、僕の『罪の象徴』であり、同時に、これから僕が始める『新しい仕事』の心臓だからな。手放すわけにはいかない」
トニーの目は、かつての傲慢な武器商人のものではなかった。自らが世界に撒き散らした暴力の責任を、その両肩に背負い、たった一人で世界と対峙しようとする「ヒーロー」の目だった。
カケルは、そのトニーの瞳の奥にある非合理的な精神(エゴ)を覗き込み、深い吐息を漏らした。
「……そうですか。あなたは、自らの知性で世界をハッキングするだけでなく、その命を使って『物語の主役』になることを選んだわけだ。実につまらない、そして、最高に美しい選択だ」
「何だって?」
「いえ、こちらの独り言です。これからのあなたの『仕事』、特等席で観測させてもらいますよ」
カケルはグラスを軽く掲げ、トニーの前から立ち去った。
彼の脳内では、すでに次のチェス(計算)が始まっていた。
トニーがアイアンマンとして世界に羽ばたく裏で、彼の技術を盗もうとするオバディア・スタインの動向。そして、中学生編でカケルがヒドラに流した「毒(ナノマシンのバグ)」が、このスターク社の内紛と連動して、世界中のシールドの通信網に微細な不具合を起こし始めている。
「私は神ではない。世界を救う救世主にもなれない」
カケルは、ホテルのバルコニーから、ニューヨークの夜景を見下ろした。
彼の携帯端末には、イージスのジョンから『いつでも動ける』という暗号通信が入っている。実家では、今も母親が彼の帰りを待っているだろう。
「だが、トニー。君がその青い心臓で世界を照らすというのなら、私はその影にあるすべての『歪み』を、私の冷徹なロジックで叩き潰してあげよう。君の舞台(世界)が、雑な悪党たちに壊されないようにね」
二十八歳になった黎明駆は、夜風に髪を揺らしながら、自らの胸の奥で暴れる「人間としての熱さ」を、今度は拒絶することなく、静かに受け入れていた。
世界が急速に「超人の時代」へと変革していく足音が聞こえる。
完璧な冷徹さを失い、しかし、あまりにも強大な『人間のエゴ』を手に入れた少年(天才)は、濁流の中心へと、不敵な笑みを浮かべて歩み出すのだった。