第1話 知らない場所、見慣れた身体
いつもと同じように眠るはずだった。その前に、いつものように最後の見回りをした。明かりは消してあるか、食べ物は足りているか、扉はちゃんと閉まっているか、あの子たちはみんな、いつもの場所にいるか。
何度も確かめたはずなのに、まだ何かを忘れている気がして、布団の中で寝返りを打ったのを覚えている。
――覚えている、と思う。眠りに落ちる直前、ほんの一瞬だけ、変な感覚があったからだ。夢に沈んでいくときのふわっとした浮遊感とは違う。体が沈むのでも意識が遠のくのでもなく、どこか遠いところから、私という存在ごと引っぱられていくような感覚だった。
――見つかった。
なぜかそう思った。名前を呼ばれたわけでも、声が聞こえたわけでもない。それなのに、知らない誰かの指で自分の輪郭をなぞられたような気がして、背中の奥がぞわりと冷えた。
景色の軸がわずかにずれて、指先も肩も頭の奥も、泥に沈んでいくように重たくなっていく。最後に何をしていたのかは、もうはっきりしなかった。何かを切らさないように見て回って、誰かがお腹を空かせないように餌を足していた。そこまでは覚えているのに、それが本当に昨夜のことだったのか、夢の続きだったのかが、どうしても思い出せない。
ただ、意識が途切れる直前に、妙に強い風の音を聞いた。窓を開けっぱなしにした覚えはないのに、風は確かに吹いていて、頬を撫で、髪を揺らし、耳元では草がさらさらと擦れ合っている。
――草?
薄く目を開けると、見えたのはいつもの天井ではなく、暗い空だった。雲の切れ間からのぞく星がやけに近くて明るく、手を伸ばせば届きそうなくらい、頭の真上いっぱいに広がっている。
「……ん?」
漏れた声は、自分の声にしては高くて軽かった。寝起きのせいかと思ったが、それにしては違和感が強すぎる。起き上がろうとすると背中に硬いものが当たり、反射的についた手の下にあったのは、柔らかい布団ではなく、夜露に湿った草と冷たい土だった。
「……え?」
慌てて上体を起こす。目の前には夜の草原が広がっていて、遠くには深い森があり、そのさらに向こうに黒い山の影が見えた。反対側からは波の音が聞こえてくる。潮の匂いがして、冷たい風が吹きつけ、どこかで何か大きな生き物が、地鳴りのような低い声で鳴いていた。どれもこれも、近すぎる。
「ちょっと待って……ここ、どこ?」
夢だと思いたかった。でも、頬に当たる風はちゃんと冷たいし、草の青臭い匂いははっきり鼻に届くし、地面についた手のひらには小石のちくちくした感触まで残っている。夢にしては、感じることが多すぎた。吐いた息はうっすらと白く、冬の夜の寒さが首もとから入りこんでくる。
無意識に枕元へ手を伸ばして、スマホを探していた。指先が触れたのは、もちろん草だけだった。
自分の手を見下ろす。白くて細い指に、見覚えのない革の手袋。――いや、見覚えはある。ありすぎるくらいに。
「……うそでしょ」
嫌な予感がして、そっと髪に触れた。指に絡んだのは、肩よりずっと下まで落ちる、さらさらの長い髪だった。暗がりでも分かる、きれいな白銀色。何度も見て、何度も動かしてきたはずの、あの姿の髪だ。
「……ライラ」
名前を口にした瞬間、胸の奥が変にざわついた。ライラは、もちろん私自身の名前だ。ゲームのキャラクターにも同じ名前をつけていた。でも、今その名前を口にすると、自分を呼んだのか、画面の向こうにいた彼女を呼んだのか、妙に分からなくなってしまう。自分で呼んだはずなのに、誰かに呼ばれたような気がしたのだ。
震える手で自分の服を確かめる。使い込んだ装備に、腰のポーチ、手首の革紐、擦り切れたブーツ。間違いなく、私がずっと遊んできたゲーム『ARK』の、ライラの格好だった。ただ、今は画面の中ではなく、私自身がその体で、冷たい空気を吸って吐いている。
「いやいやいや……」
自分のキャラクターが現実にいたら、なんて想像したことはある。大好きな恐竜たちに本当に会えたら、どんなに楽しいだろうと思ったことだってある。でも、だからといって自分までゲームの中の姿になるなんて、そんな話は聞いていない。
立ち上がろうとして、足がもつれた。重心の位置も、手足の長さも、目線の高さも、何もかもが自分の知っている体と違う。それなのに体のほうは妙にしっくりきていて、初めて動かすはずなのに、どう動けばいいのかが感覚で分かってしまう。その感じが、たまらなく気持ち悪かった。
「お、落ち着こう。まず、落ち着こう……」
口に出してはみたものの、声は情けないくらい震えていた。それでも、言葉にしたことで頭が少しずつ回り始める。膝をついたまま、ゆっくり周りを見回した。
夜ではあったが、真っ暗ではなかった。空には月と星があって、見慣れた街の夜空よりずっと深い黒の中に、数えきれないほどの星が散らばっている。その明かりだけで、草の輪郭くらいは見分けられた。足もとには背の低い草が生え、その先には腰の高さまで伸びた草むらが続き、さらに向こうに森が黒々と横たわっている。
森の奥は、夜のせいでまったく見通せない。それでも、そこに何かがいることだけは肌で分かった。木々のあいだを抜ける風の音や、葉の擦れる音、太い枝のきしむ音に混じって、ときどき、とても大きな何かが体の向きを変えるような気配がする。
息を呑んだ。似た景色なら、知っている気がする。草原も森も海も、夜がどれだけ危ないかも、『ARK』で何度も見てきたような感覚だけはあった。けれど、この場所そのものを、私は知らない。少なくとも、私が知っているマップのどこなのかは分からなかった。
見える範囲には、灯りも家も道も、柵すらなかった。人が歩いた跡さえ見当たらず、あるのは人を寄せつけないような草と森と夜だけで、遠くでは途切れることなく波の音がしている。海が近いのだ、ということだけは分かった。
それで安心できるかといえば、そんなことはなかった。ここが島なのか、それとも大陸の海岸なのかさえ分からない。周りに人の気配はなく、むき出しの自然があるだけで、その自然もまったく穏やかではなかった。暗がりの奥に何かが潜んでいて、深い草むらの下を何かが這っていて、森の闇の中からこちらをじっと見ている――そんな想像ばかりが頭に浮かんでくる。
「……どうしよう」
小さく呟いた声は、冷たい風にさらわれてすぐに消えてしまった。返ってくるのは波の音と遠くの森のざわめきだけで、冬の夜のせいか、虫の声ひとつしない。
震える足に力を入れて、そろそろと立ち上がった。ふらつきはしたものの、思っていたよりはまっすぐ立てた。湿った土は踏むとわずかに沈み、ブーツの底から伝わってくる草と泥の感触が、いやに生々しい。
夢じゃない。少なくとも、私の知っている夢とは違う。手を握って、開いてみる。白くて細い指と革の手袋。自分のものではないはずの体なのに、動かし方だけは知っている。
――遠くで、何かが鳴いた。
気づいたときには、もう膝を曲げて身を低くしていた。考えるより先に体が勝手にそう動いていて、頭のほうは真っ白なままなのに、体のどこかだけが、いつでも動けるように身構えている。そのちぐはぐさが、ひどく不気味だった。
低く長く、お腹の底まで震わせるような重たい声だった。犬や狼の声ではない。家で動物たちと暮らしてきたからこそ、鳴き声だけで体の大きさを決めつけるのは危ないと分かる。それでも、私が今まで本当に聞いたことのあるどんな動物の声とも違っていた。その声に応えるように、別の方角から短い声がいくつか返ってきた。一頭ではない。何頭もいる。
怖いのに、ほんの一瞬だけ「どんな子なんだろう」と思ってしまった自分に気づいて、慌てて首を振った。
両手で口を押さえる。声を出しちゃだめだ。叫べば誰かが助けに来てくれるかもしれない、という期待よりも、人じゃない何かを呼んでしまう、という確信のほうがずっと強かった。
そっと辺りを見回す。草むらに斜面、森、海のほう、岩場らしい黒い影。隠れられそうな場所はいくつかあるが、どこなら安全かなんて分からない。岩陰には何かがいるかもしれないし、森に近づけば奥から襲われるかもしれないし、開けた草地にいれば遠くから丸見えになる。
どこにいても危ない。そう気づいた途端、足もとがぐらりと頼りなくなった。
「……大丈夫、大丈夫」
自分に言い聞かせる。知らない場所にいて、地図もなくて、方角すら分からない。自分が何を持っているのかも、まだ確かめていない。この体には、危ない場所を歩いてきた感覚のようなものが残っている気がするけれど、それを頼りにしていいのかも分からなかった。この土地は私を知らないし、私もこの土地を知らない。はっきりしているのは、それだけだった。
震える手を腰へ伸ばし、革のポーチの留め具を外して、祈るような気持ちで中を探る。干し肉と、包帯らしい布と、小さな道具がいくつか。それから、ナイフが一本出てきた。
刃に触れると冷たく、柄は怖いくらい手になじんだ。こんな短い刃物で森の奥にいる何かに勝てるとは思えないが、何も持っていないよりはずっとましだ。握り方も構え方も、なぜか分かってしまう。この体は戦い方を知っているのに、私は知らない。その差が、また怖かった。
刃を下ろして、長く息を吐く。とにかく、ここで膝を抱えていても何も変わらない。森の奥に入るのは怖すぎるから、周りが見渡せて、後ろから何かに来られにくい場所を探そう。できれば岩場がいい。海にはあまり近づかないで、草の深いところも避けて。
次にやることが決まると、怖さがほんのわずかだけ引いた。
斜面のほうへ歩き出す。足に触れる草や、ブーツの底にまとわりつく湿った土をひとつひとつ確かめるように進んでいると、茂みの中で小さな何かが逃げていく音がして、思わず足が止まった。息を殺して待ってみたが、何も飛び出してはこず、風に揺れた草がまたさらさらと鳴っただけだった。
「……び、びっくりした」
自分の声が思ったより小さかったことに、なぜだかほっとした。まだ大丈夫、と言い聞かせてまた歩き出す。斜面を上るにつれて草は低くなり、代わりに足もとの石が増えていく。滑らないように気をつけて進むうちに、夜風が強くなり、潮の匂いも濃くなってきた。
そして斜面の上に出た瞬間、視界が一気に開けた。
海だった。月明かりに照らされた海が、目の前いっぱいに広がっている。黒い水面に銀色の光の筋が伸び、波打ち際では白い波が砕けていて、沖のほうは暗く、どこまで続いているのかも分からない。
穏やかな海岸ではなかった。砂浜はあるものの、周りには黒い岩場が多く、波も荒い。きれいだ、と素直に思った。こんな状況でなければ、もう少しゆっくり眺めていたかったくらいだ。けれど、あの暗い水の下にもきっと何かがいて、月の光にきらめく波さえ、こちらを誘いこもうとしているように見えてしまう。
右を向くと、夜の森が巨大な黒い壁のようにそびえていた。木々は背が高く、葉が何重にも重なっているせいで中がまったく見えず、風が吹くたびに森全体がざわめく。そこには道がなかった。人が通るための森でも、人が暮らすための森でもない。何かとても大きなものが歩き回るための、太古の森――そんなふうに思えるほどの威圧感があった。
左には草原がゆるやかに広がり、その先に低い丘と岩場が見えた。さらにずっと遠くに、黒い山の影がある。
ぐるりと一周見渡してみても、光も煙も、塔や壁のようなものも、人が作ったものは何ひとつ見つからなかった。本当に、まるで知らない土地だった。
「……これ、詰んでない?」
思わずそう呟いて、笑おうとしたけれど、笑えなかった。
何もない、というのは正しくない。草も森も海も山もあるし、生き物の気配だっていくらでもある。ただ、人につながるものがひとつもない。知らない街で迷子になったのとはわけが違って、誰かに道を聞けば済む話ではないのだ。ここでは、間違えたら死ぬかもしれない。その実感が、ゆっくりと体の芯まで染みこんでくる。
ナイフを握り直すと、汗で柄がわずかに滑った。
「とりあえず、朝まで」
声に出してみる。「朝まで、安全そうな場所でじっとしてる。明るくなったら周りを見て、水を探す。でも海には近づきすぎないし、森の奥にも入らない。高いところから、人が住んでる跡がないか見てみる」
並べてみると、気持ちがいくらか落ち着いた。やることがあるというだけで、怖さの輪郭が小さくなっていく気がした。
斜面の下に見えていた岩場へ向かう。草地と森の境目にある、小さく張り出した岩で、背中を預けられるし、前もいくらか開けている。完璧な場所ではないけれど、今の私には十分だった。
そこへ着くまでに、何度も立ち止まった。草むらが鳴るたびにびくりとし、森の影に目を凝らし、自分が小石を踏む音にまで肩を跳ねさせた。それでも、結局何も起きなかった。
岩場に着くと、まず後ろを確かめる。穴も大きな隙間もなく、何かが潜んでいる気配も、今のところはない。表面の苔はひんやりと冷たかったが、構わずに岩陰へ腰を下ろした。
ようやく、背中を預けられた。たったそれだけのことで、本当に少しだけ安心できた。
膝を抱える。目の前には暗い草原が広がり、その向こうで海が光り、さらに奥では森が黒く沈んでいる。知らない土地の、知らない空の、知らない夜の中に、私だけがいた。
座りこんだ途端、考えないようにしていたことが一気に押し寄せてきた。ここはどこなのか。帰れるのか。この体はいったい何なのか。私は本当に私なのか。――家は、どうなっているんだろう。
お母さんは、朝になって私の部屋が空っぽなのを見たら、どんな顔をするんだろう。お父さんは。家の子たちのごはんは、ちゃんと誰かがあげてくれるだろうか。
鼻の奥がつんとして、慌てて息を吸いこんだ。だめだ、今泣いたら、たぶん止まらなくなる。
吸って、吐いて、もう一度吸って、吐く。潮の匂いと、草の匂いと、土の匂いがした。その全部が、どうしようもなく本物だった。
もう一度、自分の手を見る。白い指と、革の手袋と、無骨なナイフ。指先は、まだ震えていた。
「……大丈夫」
大丈夫なんかじゃないことは分かっている。それでも、そう言っておかないと、本当に崩れてしまいそうだった。
「朝になれば、分かることもあるよね」
これもたぶん、ただの願望だ。それでも、何もないよりはいい。夜のままでは、どっちへ行けばいいのかも、この土地がどうなっているのかも分からない。だから朝を待つことにして、それまではここでじっとしていようと決めた。
ナイフを握ったまま、岩に背中を預ける。眠るつもりはなかったし、こんな場所で眠れるはずもない――そう思っていたのに、瞼はひどく重かった。
必死に目を開けていようとしても、ゆっくり繰り返す波の音や、一定の間隔で耳に届く草の擦れる音が、遠い森の気配まで少しずつぼやけさせていく。
だめ、寝たら危ない。柄を強く握りしめて、その痛みで意識をつなぎとめようとしたが、眠気は引いてくれなかった。
最後に、空を見上げた。星はまだ見えている。けれど、東の端がほんのわずかに白み始めているような気がした。夜明けは、もう近いのかもしれない。
それだけを頼りに、岩陰で膝を抱える。知らない土地の、知らない夜の底で、私は静かに朝を待つことにした。