廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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知らない島、見慣れた身体

私はいつも通り眠りにつく。 その前に、いつものように最後の確認をした。

明かりは消えていないか。 食べ物は足りているか。 扉は閉まっているか。 あの子たちは、ちゃんとそこにいるか。

何度も確かめたはずなのに、まだ何かを忘れている気がした。 いや、確認したつもりだった、と言うべきか。 眠りに落ちる直前、ほんの一瞬だけ、奇妙な感覚があったのだ。

夢に落ちる時の浮遊感とは違う。身体が沈むのでも、意識が薄れるのでもない。むしろ、逆だった。 何かに見つけられた。そう、直感した。

誰かに名前を呼ばれたわけではないし、声が聞こえたわけでもない。 けれど、遠くのどこかから、私という存在の輪郭をなぞられたような気がして、背中の奥がぞわりと冷えた。 同時に、目の前にあったはずの景色がほんの少しだけずれる。指先も、肩も、頭の奥も、泥の中に沈んでいくみたいに鈍い。

最後に何をしていたのか、少し曖昧だった。 何かを切らさないように見て回り、誰かが腹を空かせないように補充していた。そこまでは覚えている。 けれど、それが本当に昨夜のことだったのか、夢の中の続きだったのか、うまく思い出せない。

ただ、意識が途切れる直前、妙に強い風の音を聞いた。 窓を閉め忘れたのかと思ったが、そんなはずはない。 それなのに、風が吹いている。 頬に触れ、髪を揺らし、耳元で草の擦れる音がする。

――草?

私は、そこで薄く目を開けた。

最初に見えたのは、見慣れた天井ではなく、暗い空だった。 雲の切れ間から覗く星が、やけに近い。やけに明るい。 まるで画面越しではなく、本当に頭上に広がっているみたいだった。

「……ん?」

漏れ出た自分の声は、少し高く、少し軽かった。 寝起きだからかと思ったが、それにしては違和感が強すぎる。 身体を起こそうとして、背中が痛んだ。ベッドもやけに硬いなとぼやきかけ、私は手をつく。 手の下にあったのは、布団ではなかった。 少し湿った草と、固い土の地面。

「……は?」

そこで、ようやく完全に目が覚めた。 反射的に上体を起こすと、視界いっぱいに夜の草原が広がっている。 遠くには深い森。その向こうには黒い山影。そして反対側からは、ザザーッと波の音が聞こえていた。

潮の匂い。冷たい風。虫の声。 何か大きな生き物が、遠くで低く鳴く声。 全部が近い。近すぎる。

「え、なに……?」

夢かと思った。 でも、頬を撫でる風は冷たく、草の青臭い匂いが鼻をつく。地面についた手のひらには、小石のチクチクとした感触がある。 これは夢にしては、あまりにも情報が多すぎた。

私は自分の手を見た。 白く、細い手。見覚えのない革手袋をしている。 いや、見覚えはある。ありすぎるほどに。

「……いや」

嫌な予感がして、ゆっくりと髪に触れる。 指に絡んだのは、肩よりずっと下まで落ちる、さらさらとした長い髪。暗がりの中でも分かる、白銀色。 私の髪ではない。でも、知っている。 何度も見て、何度も動かして、何度も装備を着せて戦わせた。

「……サバイバー?」

その名前が口から漏れた瞬間、胸の奥が変にざわついた。 自分で呼んだはずなのに、自分を呼ばれたような気がしたのだ。

震える手で、自分の服を見下ろす。 見慣れた金属装備、腰のポーチ、手首の革紐、擦り切れたブーツ。 間違いない。私がいつも使っていた、あの姿だ。 けれど、今は画面の中ではない。私が、その身体になっている。

「……いやいやいや」

思わず立ち上がろうとして、足がもつれた。 身体の重心も、手足の長さも、目線の高さも、何もかも違う。 それなのに、妙に馴染む。初めて動かす身体のはずなのに、どう動けばいいのか『分かってしまう』。

その感覚が、ひどく気持ち悪かった。

「……落ち着け。まず、状況確認」

そう口にしてみたものの、声は情けないくらい震えていた。 それでも、言葉にしたことで少しだけ頭が動き始める。 私はその場に膝をついたまま、ゆっくりと周囲を見回した。

夜だった。 けれど、真っ暗ではない。空には月があり、星があった。 見慣れた街の夜空とは違う。光を吸い込んだような深い黒の中に、数えきれないほどの星が散っている。 その星明かりだけで、草の輪郭が見えた。

足元には、背の低い草が広がっている。その先には、腰ほどの高さまで伸びた草むら。 さらに向こうには、黒々とした森がある。 夜のせいで、森の奥はまったく見通せなかった。 ただ、「そこに何かがいる」ことだけは分かる。

木々の間を風が抜ける音。葉が擦れる音。太い枝が軋む音。 それに混じって、時折、巨大な何かが動くような気配がした。

私は息を呑んだ。 知らない。ここを、私は知らない。

見渡す限り、人工物はなかった。 灯りも、家も、道も、柵さえもない。人が歩いた痕跡すら見当たらない。 ただ、無機質な草と森と夜があるだけだ。

そして、ずっと遠くからはザバーンと波の音が聞こえていた。 潮の匂いがする。海が近い。それだけは分かった。 でも、それが安心材料にはならなかった。むしろ、余計に心細くなった。 海が近いのなら、ここは孤島かもしれない。いや、大陸の海沿いなのかもしれないが、確認する術すらない。

周囲に人の気配は一切ない。ただ、むき出しの自然だけがある。 しかも、私が知っているような穏やかな自然ではなかった。

暗がりの奥に、何かが潜んでいる。 深い草むらの下を、何かが這っている。 森の漆黒の中から、得体の知れない視線がこちらを値踏みしているかもしれない。 そんな想像ばかりが頭をよぎる。

「……ここ、どこ」

小さく呟いた声は、冷たい風にさらわれてすぐに消えた。 返事はない。 あるのは、虫の声と、波の音と、遠くの森が不気味に鳴る音だけ。

私は、震える足に力を込め、慎重に立ち上がった。

身体が少しふらつく。けれど、思ったよりも真っ直ぐに立てた。 足元の土は湿っていて、踏み込むとわずかに沈む。ブーツの裏から伝わってくる、草と泥の感触。 それがひどく生々しくて、吐き気に似た感覚が喉までせり上がってきた。

夢じゃない。少なくとも、私の知っている夢とは違う。 夢なら、もっと曖昧でいいはずだ。痛みも、寒さも、匂いも、ここまではっきりしていなくていい。 けれど、頬を打つ風は冷たく、むせ返るような草の匂いが強い。地面についた手のひらには、小石を踏んだ鋭い痛みがまだ残っている。

私は両手を握り、開いた。 白い指。革の手袋。自分のものではないはずの身体。 それなのに、動かし方は『知っている』。

一歩踏み出す。 膝を少し曲げ、重心を落とし、周囲を警戒する。 意識するより先に、身体が勝手にそう動いていた。

そのことが、少し怖い。 思考は恐怖で固まっているのに、身体のどこかはまだ動ける準備をしている。 そのちぐはぐさが、たまらなく不気味だった。

――遠くで、何かが鳴いた。

私は反射的に身を低くする。 低く、長く、腹の底を震わせるような重い声。 犬や狼などではない。もっとずっと巨大な何かの咆哮だ。 その声に応えるように、別の方向から短い鳴き声が返る。

一つではない。複数いる。 少なくとも、この暗闇の中で確実に活動している『何か』がいる。

私は思わず口元を両手で塞いだ。 声を出してはいけない。ここで叫べば誰かに助けてもらえるかもしれないという希望よりも、人ではないものを呼び寄せてしまうという確信の方が強かった。

ゆっくりと周囲を確認する。 草むら。斜面。森。海の方角。岩場らしき黒い影。 身を隠せそうな場所はある。けれど、そこが安全だという保証はどこにもない。 岩陰には何かが潜み、森に近づけば奥から襲われ、開けた草地にいれば遠くから見つかるかもしれない。

どこにいても危ない。 そう気づいた瞬間、急に足元が頼りなくなった。

私は、知らない場所にいる。 知識も地図も、方角すら分からない。自分が何を持っているのかも、まだ確認できていない。 画面越しに、これまで何度も危険な場所を歩き抜いてきた記憶はある。 けれど、それは結局、私の頭の中にある知識でしかない。

目の前のこの土地は、私を知らない。 私は、この土地を知らない。

それだけが、はっきりしていた。

私は震える手を腰へと伸ばす。 そこにある革のポーチ。留め具を外し、祈るような気持ちで中を探った。

手が震えている。 それでも、指は思ったより正確に動いた。

干し肉。包帯らしき布。小さな道具類。獣の皮か繊維か、よく分からない素材。 それから――ナイフ。

私はその刃に触れた。冷たい。 柄の感触は、恐ろしいほど手になじんだ。 けれど、抜くのはためらった。 持っていれば安心する。でも、こんな短い刃物を持ったところで、あの森の奥にいる何かに勝てるとは到底思えない。

それでも、ないよりはましだった。 私は短い刃を取り出し、右手に握った。不思議と、握り方は分かった。構え方も、なんとなく分かる。

ただ、それが余計に怖かった。 この身体は、戦うことを知っている。私は、知らないのに。

私は刃を下ろし、深く息を吐いた。 まずは、動くしかない。ここで膝を抱えていても何も解決しない。 だが、森の奥へ入るのは危険すぎる。だから、見晴らしのいい場所を探す。周囲を確認できて、背後を取られにくい場所。できれば岩場。水辺には近づきすぎず、草の深い場所も避ける。

考えが、少しずつ形になる。 次にやるべき「タスク」ができると、恐怖がほんの少しだけ薄くなった。 私は斜面の方へ歩き始める。

一歩。 草が足に触れる。

二歩。 湿った土が、ブーツの底に絡みつく。

三歩。 茂みの中で、小さな何かが逃げる音がした。

私は反射的に足を止め、息を殺す。 何も飛び出してこない。ただ、風で草が揺れているだけだ。

「……びっくりした」

自分の声が思ったより小さくて、少し安心した。 大丈夫。まだ、大丈夫。 そう言い聞かせて、また歩く。

斜面を上るにつれて草は少しずつ低くなり、代わりに足元には石が増えていく。滑らないように注意しながら進む。 夜風が強くなった。海の匂いも濃くなる。

斜面の上に出た瞬間――視界が一気に開けた。 私は、息を止めた。

海があった。 月明かりに照らされた海が、視界いっぱいに広がっている。 黒い水面に銀色の光が伸び、波が白く砕けている。沖の方は暗く、どこまで続いているのか分からない。海中からは、岩礁らしき黒い影がいくつも突き出していた。 穏やかな海岸ではない。砂浜はあるものの、周囲には黒い岩場が多く、波も荒い。もしあの海に落ちたら、簡単には戻れない気がした。

綺麗だ。でも、怖い。 あの海の下にも、きっと何かがいる。そう思ったら、月明かりに光る波さえ、こちらを誘い込む罠のように見えた。

視線を右へ向ける。 森が続いている。夜の森は、巨大な黒い壁のようだった。 木々の背が高く、葉が重なっているせいで内側がまったく見えない。風が吹くたびに、木々全体がざわめく。 そこには道がない。少なくとも、私に見える範囲には。人が通るための道でも、人が暮らすための森でもない。何か巨大なものが練り歩くための、原始の森。そんな威圧感があった。

私は左を見る。 草原が緩やかに広がっている。その先には低い丘と岩場。さらに遠くには、黒い山影。 山はかなり遠い。けれど、夜のせいで距離感がひどく曖昧だった。近くに見えて、実際は辿り着くのに何日もかかる場所かもしれない。

私は周囲をぐるりと見渡した。

人工物は見えない。光も、煙も、何かの塔や壁のようなものもない。 完全に、知らない土地だった。

「……詰んでない?」

思わずそう呟いた。冗談のつもりだった。けれど、笑えなかった。 私は本当に、何もない場所にいる。 正確には、何もないわけではない。草も森も、海も山もある。生き物の気配もある。けれど、人に繋がるものが何一つない。それが怖かった。

知らない街に迷い込んだのとは違う。誰かに道を尋ねれば済む状況ではない。 ここでは、間違えれば死ぬ。 その実感が、ゆっくりと身体に染み込んでくる。

私は手の中のナイフを握り直した。少しだけ汗で滑る。

「とりあえず、夜明けまで」

声に出す。

「夜明けまで、安全そうな場所を探す。朝になったら周囲を確認して、水を探す。でも海には近づきすぎない。森の奥にも入らない。高い場所を探して、人工物がないか見る」

言葉を並べると、少しだけ落ち着いた。 やるべきことがある。それだけで、恐怖は少し薄くなる。

私は、斜面の下に見えた岩場へ向かった。 草地と森の境目にある、小さな岩の張り出し。背後を岩に預けられ、正面は少し開けている。森からは近いが、すぐ奥へ入り込む場所ではない。 完璧ではない。でも、今の私には十分だった。

近づく途中、何度も立ち止まった。草むらの音に怯え、森の奥の影に目を凝らし、足元の小石を踏む音にまで肩を跳ねさせた。 けれど、何も出てこなかった。

岩場にたどり着くと、すぐに背後を確認する。 穴はない。大きな隙間もない。何かが潜んでいる気配も、少なくとも今は感じない。 表面の苔に触れると冷たかった。私はその冷たさに少し顔をしかめながら、岩陰に腰を下ろした。

ようやく、背中を預けられる。 それだけで、少しだけ安心した。本当に少しだけ。

私は膝を抱えた。 視線の先には、暗い草原が広がっている。その向こうで海が光り、さらに奥では森が黒く沈んでいる。

知らない土地。知らない空。知らない夜。 その中に、自分だけがいる。

そう思った瞬間――急に胸が苦しくなった。

さっきまでは、状況確認で無理やり頭を動かしていた。でも、腰を下ろした途端、考えたくなかったことが一気に押し寄せてきた。 帰れるのか。ここはどこなのか。私は本当に私なのか。この身体は何なのか。 元の場所はどうなったのか。誰かが私を探しているのか。それとも、私は最初からいなかったことになるのか。

考えても答えは出ない。 だから、私は無理やり呼吸を整えた。

吸って、吐く。もう一度。吸って、吐く。

潮の匂いがした。草の匂いがした。土の匂いがした。 その全部が、現実だった。

私はもう一度、自分の手を見た。 白い指。革の手袋。無骨なナイフ。震える手。

「……大丈夫」

大丈夫ではない。分かっている。でも、そう言わないと本当に崩れそうだった。

「朝になれば、分かることもある」

これも、たぶん願望だ。でも、何もないよりはいい。 夜のままでは、どちらへ行くべきかも、この土地がどうなっているのかも、危険なものがどこにいるのかも分からない。 だから、朝を待つ。それまでは、ここでじっとしている。

私は短い刃を握ったまま、岩に背を預けた。 眠るつもりはなかった。こんな場所で眠れるはずがない。

そう思っていたのに、瞼はひどく重かった。 身体の奥に、妙な疲労が残っている。さっきまでの違和感の名残なのか、頭の中に薄い霧がかかっているみたいだった。 必死に目を開けようとする。けれど、波の音がゆっくりと繰り返される。草の擦れる音が、一定のリズムで耳に届く。 遠くの森の気配さえ、少しずつぼやけていく。

駄目だ。寝たら危ない。 そう思っても、意識は深い底へと沈みかける。 私は刃の柄を強く握り、痛みで意識を繋ぎ止めようとした。

それでも、眠気は消えなかった。

最後に、空を見た。 星がまだ見える。けれど、東の端がほんの少しだけ薄くなっている気がした。 夜明けは、近いのかもしれない。

それだけを頼りに、私は岩陰で膝を抱える。

知らない土地の、知らない夜。 私はそこで、朝を待つことにした。

 

 

 

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