廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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みんなの一日

夜明け前の家は、静かだった。

 

けれど、眠ってはいなかった。

 

空はまだ暗い。

 

東の端に、ほんの少しだけ青が混じり始めている程度で、森の影も、外壁の輪郭も、夜の黒に沈んでいる。

 

それでも、家の中には確かな音があった。

 

遠くの高所で、翼を畳み直す音。石床の上を、硬い爪が軽く擦る音。水場の方から聞こえる、細い水音。小型組の寝床で、誰かが小さく寝返りを打つ気配。

 

門は開いている。

 

外門は、夜の間も大きく開いたままだった。

 

その奥に作った玄関のような空間を挟んで、感圧板で開く内門がある。通る子がいれば開き、しばらくすると閉じる。まだ調整中の仕組みだが、今のところ大きな問題は起きていない。

 

家の外では、重い足音がゆっくりと移動していた。

 

外周を歩く大型の子の音だ。

 

夜に動く子もいる。夜明け前に戻ってくる子もいる。逆に、朝日が昇る前の冷たい空気を好んで外へ出る子もいる。

 

全員が同じ時間に眠っているわけではない。

 

高所の足場では、ワイバーンの何体かが翼を休めていた。

 

けれど、そのうち一体は首を上げ、まだ暗い外を見ている。見張りなのか、ただ夜風を浴びているのかは分からない。

 

正門の近くには、カイザーがいた。

 

黒い巨体はいつもの場所に伏せている。眠っているようにも見えるが、外周から戻ってきた影が門の近くを通ると、片目がゆっくりと開いた。

 

低く息を吐く。それだけで、門の周りの空気が少し締まる。

 

海の方からは、遠く波の音が届いていた。

 

ここから海は見えない。けれど、風に潮の匂いが混じると、波の下にも確かにうちの子達がいるのだと思い出せる。

 

家は、完全には眠らない。

 

誰かが眠っている間に、誰かが歩いている。誰かが外から戻る頃、別の誰かが起き出す。それぞれの時間が、家の中と外で少しずつ重なっていた。

 

私は、その音で目を覚ました。

 

はっきりとした何かに起こされたわけではない。ただ、遠くの足音や、水の音や、誰かの小さな鳴き声が、眠りの底にゆっくり染み込んできたのだと思う。

 

目を開けると、部屋の中はまだ薄暗かった。窓の外が、少しだけ青い。

 

夜ではない。けれど、朝とも言い切れない時間。

 

私はしばらく天井を見上げたまま、深く息をする。

 

この部屋の光景も、少しずつ見慣れてきた。

 

最初に目を覚ました時は、知っているはずなのに知らない部屋だった。自分のもののようで、自分のものではない。記憶にある配置、記憶にある家具、記憶にあるはずの寝床。

 

けれど、今は少し違う。

 

昨日置いた板がある。外の生活圏を確認した時の印が残っている。畳んだ布がある。主任がいつの間にか用意してくれていた小さな道具が、机の端にまとめてある。

 

私が使ったものが、ここにある。

 

その分だけ、この部屋は少しずつ『私の部屋』になっている気がした。

 

「……朝、かな」

 

呟く。

 

返事のように、窓の外で翼がばさりと鳴った。見なくても分かる。シルヴィアだ。

 

私はベッドから身を起こし、窓の方を見る。

 

案の定、紫がかった大きな顔が、窓枠の向こうからこちらを覗き込んでいた。

 

格好いい竜の顔。鋭い角。青白い光が、身体の内側をゆっくり流れている。

 

でも、目が合った瞬間、どこか得意げに喉を鳴らした。どうやら、私が起きるのを待っていたらしい。

 

「おはよう、シルヴィア」

 

声をかけると、シルヴィアはさらに得意げになった。見張りをしていたのか、ただ近くにいたかったのか。たぶん、両方だと思う。

 

「ちゃんと寝た?」

 

シルヴィアは少し首を傾げる。寝たような、寝ていないような顔。

 

ワイバーンの生活リズムがどうなっているのか、まだきちんとは把握できていない。ただ、彼女は私が起きる頃には、だいたい近くにいる。

 

「無理はしないでね」

 

そう言うと、シルヴィアは短く鼻を鳴らした。

 

『大丈夫』という意味に聞こえる。あるいは、『私が言うまでもない』という意味かもしれない。

 

私は軽く笑って、身支度を始めた。

 

部屋を出ると、家の生活音はさらに近くなった。

 

通路の奥から、小型組の鳴き声が聞こえる。高所では翼が動く音。遠くの工房の方からは、何か硬いものを置くような音。正門側からは、カイザーの低い呼吸。

 

目覚まし時計はない。けれど、この家には『家が起きる音』がある。

 

いや、正確には違う。家は、私が起きてから動き始めるわけではない。

 

私が目を覚ます前から、誰かの一日はもう始まっている。

 

通路を歩きながら、その事実を少し不思議に思った。

 

全員を同じ時間に起こして、同じ時間に食べさせて、同じ時間に動かす必要はない。そんなことをしたら、たぶんこの家はすぐに息苦しくなる。

 

それぞれの子に、それぞれの時間がある。

 

私は、その流れを見落とさないように歩くだけだ。

 

まず、小型組の区画へ向かった。

 

そこでは、まだ寝ている子と、すでに起きている子が混ざっていた。

 

ドードーの何羽かは、丸くなったまま眠っている。別の一羽はすでに起きていて、寝床の端をつついていた。オヴィラプトルは落ち着かなさそうに出入り口の方を見ている。モスコプスは、まだ半分寝ているような顔で、ゆっくり身体を起こしていた。

 

「おはよう」

 

声をかけると、小さな鳴き声がいくつか返ってくる。

 

餌場を見る。水場を見る。床に変なものが落ちていないか確認する。

 

特に異常はない。

 

昨日持ち帰った草や木の実のうち、まだ確認していないものは分けてある。

 

食べていいものは、いつもの場所。まだ不明なものは、蓋つきの容器。怪しいものは、さらに離した場所。そこはかなり気をつけている。食べ物に関しては、慎重すぎるくらいでいい。

 

「外に行く子は、いつもの範囲までね。深い草の方はまだ駄目」

 

人間の言葉がどこまで伝わっているかは分からない。けれど、言っておく。私が言葉にすることで、私自身のルールの再確認にもなる。

 

ドードーの一羽が、ぴ、と鳴いた。分かったのか、ただ鳴いただけか。どちらにしても、返事として受け取っておく。

 

次に水場へ向かう。

 

家の中の水場は、朝のうちから使われていた。

 

小さい子達用の浅い場所。中型の子達用。汚れを落とすための場所。

 

先日から作り始めた玄関周りの排水も、少しずつ機能している。まだ完璧ではないが、泥を落としてから居住区へ入る動線はでき始めていた。

 

水の流れを確認していると、後ろから重い足音が近づいてきた。振り返ると、主任がいた。

 

手には、布と木の板と、よく分からない道具。朝から動いている。たぶん、私よりずっと前に起きていた。

 

「おはよう、主任」

 

主任は無言で片手を上げた。

 

ゆるい。いつも通りだ。けれど、その手に持っているものは、今日も妙に的確だった。

 

水場の周りに置く滑り止め用の板。小型組が足を取られないようにするための低い段差。それから、採取物を一時的に置くための浅い箱。

 

「……主任、もしかして昨日のメモ見た?」

 

主任は答えない。ただ、ヘルメットを少し直した。

 

そのヘルメットには、かすれた文字で「主任」と書かれている。

 

昔は、ただの冗談だった。みんなでふざけて、ヘルメットを作って、色を塗って。それが妙に似合ったから、そう呼び始めただけ。

 

なのに今は、本当に立派な現場監督のように動いている。

 

「……やっぱり、分かってるよね」

 

私が呟くと、主任はまた片手を上げた。

 

分かっているのか。分かっていないのか。やっぱり分からない。

 

でも、恐ろしく助かるのは確かだった。

 

「ありがとう。そこ、後で一緒に見る」

 

主任は小さく頷いたように見えた。

 

朝の門へ向かうと、すでに外へ出る子達が動き始めていた。

 

門の近くの日当たりのいい草地には、ドードー達がぽつぽつ集まり始めている。まだ朝日が柔らかく、草には露が残っていた。パラサウロロフスが鼻先で草を分け、気に入った場所に腰を下ろす。

 

採取組の一部は、森の浅い場所へ向かっていた。

 

ビーバー達が木材の方へ。アンキロサウルスが黒い岩場の方へ。ドエディクルスが石の多い斜面へ。

 

その後ろを、ティラノサウルスが一体、少し距離を取って歩いている。護衛役だ。別の方向では、カルカロドントサウルスが森の奥を睨んでいた。空にはワイバーンの影がある。

 

誰かが号令をかけたわけではない。でも、それぞれが自然に動いている。

 

採取する子。見張る子。外周を歩く子。日向で丸くなる子。まだ家の中に残る子。

 

軍隊ではない。隊列も号令もない。

 

それでも、家の一日は力強く回り始めていた。

 

カイザーは、今日も正門の近くにいた。

 

黒い巨体を伏せ、外へ出ていく子達と、家の中に残る子達の境界にいる。昨日一緒に散歩した後も、やはりここが落ち着くらしい。

 

ただ、少しだけ変化があった。

 

カイザーは時々、外の方を見る。門前の草地。森の入り口。昨日歩いた大きな道。あの高台の方向。

 

正門を離れたいというほどではない。けれど、外に道があることは、もう知っている。

 

私はカイザーの前で足を止めた。

 

「おはよう、カイザー」

 

片目が開く。低く、地面に響くような音が返ってきた。

 

「また散歩しようね。今日は……たぶん、いつもの確認で終わりだけど」

 

カイザーは少しだけ鼻を鳴らした。返事なのか、ただの呼吸なのかは分からない。でも、穏やかだった。

 

私はその首元を軽く撫でる。

 

カイザーは門番ではある。けれど、ただの門番ではない。

 

一緒に外を歩いた子。正門を選んでいる子。うちの、大切な子。それでいい。

 

私は門の外へ目を向けた。

 

朝の小さな出来事は、すぐに起きた。

 

ドードーの一羽が、日向の草地から少し外れ、まだ範囲外にしている深い草の方へ向かいかけたのだ。

 

本人に悪気はない。少し先の花が気になったのかもしれないし、ただ歩いていただけかもしれない。けれど、そこから先はまだ安全確認が済んでいない。

 

「あ、そっちはまだ」

 

私が声を出すより少し早く、近くにいたモスコプスが顔を上げた。

 

さらに、その奥にいたティラノが一歩だけ動く。

 

威嚇するほどではない。ただ、大きな影が進路を塞ぐように立っただけだ。

 

ドードーはぴ、と鳴いて足を止めた。

 

「こっち」

 

私が手を振ると、ドードーは何事もなかったようにぽてぽてと戻ってくる。私はしゃがみ、軽く頭を撫でた。

 

「そこから先はまだ。もう少し確認してからね」

 

ドードーは小さく鳴いた。分かっているのかは分からない。でも、戻ってきた。それでいい。

 

ティラノはもう興味を失ったように、元の場所へ戻る。モスコプスは再び草を食み始める。

 

小さな出来事だった。でも、こういう積み重ねが『生活』になるのだと思う。

 

少し離れたところで、シルヴィアが上空から降りてきた。

 

早い。さっき飛んでいったばかりのはずだ。

 

「シルヴィア、見張りは?」

 

聞くと、シルヴィアは一瞬だけ固まった。

 

それから、ばさりと翼を広げ、上空へ飛び上がる。

 

大きく一周。かなり大げさに旋回。そして、すぐ戻ってきた。

 

『仕事をした』という顔だった。

 

「……うん。ありがとう」

 

褒めると、シルヴィアは満足そうに喉を鳴らした。

 

見た目は本当に格好いい。空を飛ぶ姿も、間違いなく綺麗だ。でも、こういうところが少し駄犬っぽい。

 

言わないけれど。

 

午前中は、日々の確認作業で過ぎていった。

 

採取組の出発を見送り、小型組の行動範囲を確認し、水場の板を置き直し、主任が用意した箱の位置を決める。

 

大きな事件はない。ただ、細かいタスクは多い。

 

餌場の残り。水場の流れ。玄関の泥落とし。仮置き場の分類。外に出ている子達の戻る時間。夜に出ていた子達の休む場所。

 

全部を完璧に管理しようとすると、たぶん頭の処理が追いつかない。

 

でも、全部を私が一人で動かしているわけではないのだ。

 

ファミリア達は、それぞれ考えている。動いている。戻ってくる。休んでいる。

 

私は、その生活の動線が詰まらないようにサポートするだけでいい。

 

昼前になると、採取組の一部が戻ってきた。

 

最初に戻ってきたのはビーバー達だった。

 

木材を抱えている。昨日よりも、仮置き場の使い方が上手くなっていた。

 

きちんと採取組用の搬入口を通り、玄関の石床で少し止まる。木くずと泥がそこで落ちる。それから仮置き場へ向かい、木材を下ろす。

 

「うん。いい感じ」

 

私が言うと、ビーバーの一体が短く鳴いた。

 

続いて、アンキロ達が戻ってくる。

 

身体に土がついていた。けれど、通る場所は覚えているらしい。

 

作業場側へ回り、採取したものを出す。目の前に、黒っぽい鉱石らしき塊が現れた。

 

やはり、採取物は見えない場所に収まり、必要な時に出せるらしい。便利だ。でも、まだ仕組みは分からない。

 

次にドエディクルス。石材。

 

それから、森へ行っていた別の子が持ち帰ったもの。

 

繊維。ベリーのようなもの。見たことのない葉。薬草っぽい匂いのする草。よく分からないキノコ。

 

「キノコは分ける」

 

私は即座に言った。

 

食べられるかもしれないし、薬になるかもしれない。でも、毒かもしれない。分からないものは、絶対に食べさせない。

 

食べ物候補。薬草候補。危険物候補。用途不明。

 

分類していく。

 

主任は、いつの間にか隣にいた。

 

何も言わない。ただ、浅い箱をいくつか並べる。

 

木材。石材。繊維。食料候補。用途不明。触らない方がよさそうなもの。

 

「主任、分類うまいね」

 

主任は片手を上げる。褒められているのか、ただの返事なのか。相変わらずよく分からない。でも、箱の並べ方は見やすい。作業場の動線も、少しずつ整理されている。

 

「本当に、そういう子だったっけ……」

 

呟くと、主任はヘルメットを少し直した。

 

その仕草が、昔と同じようにも見えて、今の妙に落ち着いた姿とは少し違って見える。懐かしい。けれど、今は今で頼もしい。

 

私は分類した採取物を見て、頷いた。

 

「食べ物候補は少量ずつ確認。怪しいものは保留。キノコは触る時も布越し」

 

主任がまた片手を上げた。

 

昼になって、ようやく自分の空腹に気づいた。

 

最初は、何か変な音がしたのかと思った。自分のお腹が鳴っただけだった。

 

シルヴィアが、じっとこちらを見る。

 

「……聞こえた?」

 

シルヴィアは首を傾げる。たぶん、聞こえていた。私は少しだけ顔を背ける。

 

「うちの子達の食べ物ばっかり見てたけど、私も食べないと駄目だよね」

 

当たり前のことだ。でも、つい後回しになる。

 

みんなの餌、水、安全確認、食べていいものの分類。それを見ているうちに、自分の食事を忘れていた。

 

よくない。私が倒れたら、世話も確認もできなくなる。

 

私は保存してあった干し肉と、安全確認済みのベリーを少し取り出し、簡単な昼食にした。豪華ではない。けれど、今は十分だ。

 

座って食べ始めると、シルヴィアが横からじっと見てくる。

 

「これは私の分」

 

シルヴィアは鼻を鳴らした。

 

「あなた用の量じゃないでしょ」

 

不満そうな顔。仕方なく、別に用意していたシルヴィア用の肉を出す。

 

「少しだけね。あとでちゃんと食べる分は別」

 

シルヴィアはそれで満足したらしく、得意げに喉を鳴らした。なぜ得意げなのかは分からない。食べ物をもらっただけなのに。

 

でも、その様子を見ていると、こちらも少し心が落ち着く。

 

食事をする。隣でシルヴィアが肉を食べる。少し離れたところでドードー達が日向に丸くなる。遠くでカイザーが静かに息を吐く。

 

ただそれだけの昼だった。

 

それだけで、今は十分満たされていた。

 

午後は、のんびりした時間になった。

 

朝から動いていた小型組の何羽かは、日向でそのまま眠っている。イグアノドンは水場の近くで身体を休めていた。ダエオドンは日陰に移動し、見事に寝ている。

 

採取組の一部は二便目へ向かった。別の子達は家の中に残り、採取物の近くで休んでいる。

 

大型組は、外周で交代するように動いていた。一体が戻ると、別の子が外へ出る。明確な号令があるわけではない。でも、家の周囲の気配は途切れない。

 

ワイバーン達も同じだった。高所で翼を畳んでいる子もいれば、空をゆっくり旋回している子もいる。

 

シルヴィアは、しばらく見張り役のふりをしていたが、結局私の近くで寝そべった。

 

ふり、というのは失礼かもしれない。一応、目は外へ向いているし、耳も動いている。ただ、距離が近い。

 

「近いよ」

 

そう言うと、シルヴィアは少しだけ身体をずらした。ほんの数センチだけ。

 

私は諦めて、その首元を撫でた。

 

カイザーは正門前でうたた寝をしている。

 

眠っているように見える。けれど、外周から何かが戻ると片目が開く。それだけ確認すると、また目を閉じる。

 

主任は作業場で何かを直していた。

 

何を直しているのかは分からない。でも、道具の置き方が昨日より整っている。木材の仮置き場も、石材の場所も、少しずつ使いやすくなっていた。

 

海の方から、低い波音が届く。

 

時折、胸の奥に響くようなかすかな振動があった。海棲組だろうか。姿は見えない。でも、そこにいる気配がある。

 

私は少しだけ海の方を見た。

 

今日も食べているだろうか。怪我をしていないだろうか。変なものを食べていないだろうか。

 

心配は尽きない。けれど、不思議とすぐに不安へは変わらなかった。

 

波の下から返事はあった。あの子達は、自分達で食べていた。

 

遠くへ行きすぎないこと、怪我をしたら戻ること、変なものは食べる前に知らせること。約束した。

 

今は、それを信じる。

 

午後の空は、穏やかだった。

 

ただ、遠くの海側だけは少し暗い。この前見た、あの黒い雲の方向。

 

今日も、空の端が重く見える。風に湿った匂いが混じっている。

 

普通の雲かもしれないし、ただの嵐かもしれない。

 

シルヴィアが一瞬だけ顔を上げ、遠くを見る。私も同じ方向を見る。

 

「……まだ遠いね」

 

シルヴィアは短く喉を鳴らした。

 

すぐにどうにかする必要はない。今のところ、拠点周辺は穏やかだ。外周の気配も途切れていないし、海からの返事もある。

 

今日は、みんなの一日を見ていたい。

 

そう思って、私は視線を戻した。

 

夕方に近づくにつれて、家の動きはまた変わっていった。

 

朝から動いていた子達が休み始める。昼まで寝ていた子が起きてくる。夕方の涼しい空気を待っていたように、別の子が外へ出る。

 

門の前で、オヴィラプトルがそわそわしている。朝は外へ出たり戻ったりしていたが、夕方になってまた気になり始めたらしい。

 

ワイバーンの何体かは高所から飛び立った。逆に、昼の間ずっと飛んでいた子は翼を畳んで戻ってくる。

 

外周の見回りも交代しているようだった。朝に見た影とは違う、大きな影が門の外を歩いている。

 

家の中では、朝動いていた採取組が眠り、別の子が目を覚ます。

 

最初は、少しだけ管理しきれない気がした。

 

誰が出ているのか。誰が戻っているのか。誰が寝ているのか。誰がこれから動くのか。全部を一度に把握しようとすると、頭の中がぐちゃぐちゃになる。

 

けれど、すぐに思い直す。

 

全部を同じ時間に揃える必要はないのだ。

 

それぞれの子に、それぞれの時間がある。

 

大事なのは、危険な場所へ行かないこと。変なものを食べないこと。怪我をしたら戻ること。帰る場所があること。

 

それだけ守れれば、全員が同じ時間に眠る必要はない。

 

夕暮れ時。

 

外へ出ていた子達が戻り始めた。

 

採取組が、素材を持って帰ってくる。

 

ワイバーン達は高所へ戻る。翼の音が、夕方の空気を押し流す。

 

シルヴィアは私の隣で、なぜか得意げにしている。

 

「あなたが全部連れて帰ってきたわけじゃないでしょ」

 

そう言うと、シルヴィアは不満そうに鼻を鳴らした。でも、何体かを上から見ていたのは確かだろう。

 

「見ててくれたのは助かったよ」

 

そう言い直すと、満足そうに喉を鳴らした。

 

戦闘組も戻ってくる。

 

外周を歩いていた大きな影が、ゆっくり家の近くへ戻る。ただし、全員が中に入るわけではない。外周に残る子もいる。正門の近くに落ち着く子もいる。自分の区画へ戻る子もいる。

 

小型組は、眠そうに戻ってきた。

 

日向で遊んでいたドードー達が、小型用の出入口から帰ってくる。ステゴサウルスは少し名残惜しそうに草地を見てから、中へ入る。メガテリウムはもうほとんど寝ているような顔で、水場の近くを通っていった。

 

カイザーは正門で、その光景を見ていた。

 

出ていく子。帰ってくる子。中に残る子。これから外へ出る子。

 

全部が、同じ門の周りで混ざっている。でも、乱れてはいなかった。

 

それぞれの入り口があり、通る場所があり、戻る場所がある。

 

まだ未完成だけれど、家の形が少しずつ暮らしを支えている。

 

私はその光景を見て、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 

家は、全員を中に閉じ込めておく場所ではない。

 

出ていく場所がある。帰ってくる場所がある。残っていてもいい場所がある。

 

既に、私はここを『家のような場所』だと思い始めた。

 

けれど今は、少しだけ違う。

 

ここは、出ていっても戻ってこられる場所になり始めている。

 

それが、たぶん本当の『家』なのだと思った。

 

夜になる前に、私はもう一度、家の中を見て回った。

 

点呼ではない。あの時のように、返事がなかったらどうしようと怯えながら扉を開けるわけではない。ただ、気配を見るだけだ。

 

寝床で丸くなっている小型組。

 

採取から戻って疲れたのか、早めに眠っている採取組。

 

高所で翼を畳むワイバーン達。

 

正門近くのカイザー。

 

工房の前でまだ何かを片付けている主任。

 

そして、すぐ近くにいるシルヴィア。

 

「あなたは本当に近いね」

 

シルヴィアは何でもないような顔をした。近いのが当然だと思っている。

 

夜に活動する子達は、まだ外にいる。

 

外周を歩く影もある。遠くの草地で、小さく走る気配もある。高所から飛び立つ翼の音も聞こえた。

 

家は夜になっても、完全には眠らない。

 

それでも、不安にはならなかった。

 

門は開いている。出入り口は分かれている。外周には気配がある。戻る場所がある。そして、みんなはちゃんと帰ってくる。

 

「おやすみ」

 

私は通路で、小さく声をかけた。

 

寝ている子にも。これから動く子にも。外にいる子にも。

 

返事は、色々だった。

 

小さな鳴き声。翼の音。遠くの足音。カイザーの低い息。シルヴィアの喉を鳴らす音。

 

その全部が、この家の夜の音だった。

 

自室へ戻ると、窓の外はもう暗かった。

 

遠くから波の音が聞こえる。風が外壁を撫でる音がする。どこかで、夜に活動する子の足音がした。

 

ベッドに腰を下ろす。

 

朝、私が起きた時には、家はもう動いていた。

 

昼には採取物が戻ってきた。

 

夕方には、外へ出ていた子達が帰ってきた。

 

夜になっても、まだ誰かの一日は続いている。

 

私の一日が終わっても、家族達の一日は終わらない。

 

それが少し不思議で、そして、深く安心できた。

 

最初の頃なら、全員が寝るまで確認していたかもしれない。誰がどこにいるのか、自分の目で見ていないと不安だったかもしれない。

 

でも、今は違う。

 

全員が同じ時間に眠る必要はない。全員が同じ場所にいる必要もない。

 

出たい時に出て、戻りたい時に戻る。眠りたい時に眠り、動きたい時に動く。

 

そのための場所を、少しずつ作っていけばいい。

 

私は布団に潜り込んだ。

 

窓の外で、シルヴィアの気配がする。正門の方にはカイザーがいる。遠くには外周を歩く大きな影。さらに遠くには、波の下の子達。

 

みんなが同時に眠っているわけではない。それでも、ここは家だった。

 

目を閉じる。

 

今日は、不思議とすぐに眠れそうだった。

 

家の中には、家族達の寝息がある。門の外には、今日も誰かが歩いた道がある。夜に遊ぶ子達の気配も、まだどこかで続いている。

 

その全部を聞きながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。

 

そして、さらに遠い海の上で。

 

黒い雲が、誰にも気づかれないほど静かに、不気味に形を変えていた。

 

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