廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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第11話 みんなの一日

夜明け前の家は、静かだった。

 

けれど、眠ってはいなかった。

 

空はまだ暗い。東の端に、ほんの少しだけ青が混じり始めている程度で、森の影も、外壁の輪郭も、夜の黒に沈んでいる。

 

それでも、家の中には確かな音があった。遠くの高所で、翼を畳み直す音。石床の上を、硬い爪が軽く擦る音。水場の方から聞こえる、細い水音。小型組の寝床で、誰かが小さく寝返りを打つ気配。

 

門は開いている。外門は、夜の間も大きく開いたままだった。その奥に作った玄関のような空間を挟んで、感圧板で開く内門がある。通る子がいれば開き、しばらくすると閉じる。まだ調整中の仕組みだが、今のところ大きな問題は起きていない。

 

家の外では、重い足音がゆっくりと移動していた。外周を歩く大型の子の音だ。夜に動く子もいる。夜明け前に戻ってくる子もいる。逆に、朝日が昇る前の冷たい空気を好んで外へ出る子もいる。

 

正門の近くには、カイザーがいた。黒い巨体はいつもの場所に伏せている。眠っているようにも見えるが、外周から戻ってきた影が門の近くを通ると、片目がゆっくりと開いた。低く息を吐く。それだけで、門の周りの空気が少し締まる。

 

家は、完全には眠らない。誰かが眠っている間に、誰かが歩いている。誰かが外から戻る頃、別の誰かが起き出す。それぞれの時間が、家の中と外で少しずつ重なっていた。

 

私は、その音で目を覚ました。

 

はっきりとした何かに起こされたわけではない。ただ、遠くの足音や、水の音や、誰かの小さな鳴き声が、眠りの底にゆっくり染み込んできたのだと思う。

 

目を開けると、部屋の中はまだ薄暗かった。窓の外が、少しだけ青い。

 

夜ではない。けれど、朝とも言い切れない時間。

 

私はしばらく天井を見上げたまま、深く息をする。

 

この部屋の光景も、少しずつ見慣れてきた。最初に目を覚ました時は、知っているはずなのに知らない部屋だった。記憶にある配置、記憶にある家具。今は少し違う。昨日置いた板がある。外の生活圏を確認した時の印が残っている。主任がいつの間にか用意してくれていた小さな道具が、机の端にまとめてある。私が使ったものが、ここにある。その分だけ、この部屋は少しずつ『私の部屋』になっている気がした。

 

「……朝、かな」

 

呟く。返事のように、窓の外で翼がばさりと鳴った。見なくても分かる。シルヴィアだ。

 

私はベッドから身を起こし、窓の方を見る。案の定、紫がかった大きな顔が、窓枠の向こうからこちらを覗き込んでいた。格好いい竜の顔。鋭い角。青白い光が、身体の内側をゆっくり流れている。でも、目が合った瞬間、どこか得意げに喉を鳴らした。どうやら、私が起きるのを待っていたらしい。

 

「おはよう、シルヴィア」

 

声をかけると、シルヴィアはさらに得意げになった。見張りをしていたのか、ただ近くにいたかったのか。たぶん、両方だと思う。

 

「ちゃんと寝た?」

 

シルヴィアは少し首を傾げる。寝たような、寝ていないような顔。私は軽く笑って、身支度を始めた。

 

 

部屋を出ると、家の生活音はさらに近くなった。通路の奥から、小型組の鳴き声が聞こえる。高所では翼が動く音。遠くの工房の方からは、何か硬いものを置くような音。正門側からは、カイザーの低い呼吸。

 

私が目を覚ます前から、誰かの一日はもう始まっている。

 

まず、小型組の区画へ向かった。そこでは、まだ寝ている子と、すでに起きている子が混ざっていた。ドードーの何羽かは、丸くなったまま眠っている。別の一羽はすでに起きていて、寝床の端をつついていた。オヴィラプトルは落ち着かなさそうに出入り口の方を見ている。モスコプスは、まだ半分寝ているような顔で、ゆっくり身体を起こしていた。

 

「おはよう」

 

声をかけると、小さな鳴き声がいくつか返ってくる。餌場を見る。水場を見る。床に変なものが落ちていないか確認する。特に異常はない。

 

「外に行く子は、いつもの範囲までね。深い草の方はまだ駄目」

 

人間の言葉がどこまで伝わっているかは分からない。けれど、言っておく。私が言葉にすることで、私自身のルールの再確認にもなる。

 

ドードーの一羽が、ぴ、と鳴いた。返事として受け取っておく。

 

 

水場を確認していると、後ろから重い足音が近づいてきた。振り返ると、主任がいた。手には、布と木の板と、よく分からない道具。朝から動いている。たぶん、私よりずっと前に起きていた。

 

「おはよう、主任」

 

主任は無言で片手を上げた。ゆるい。いつも通りだ。その手に持っているものは、今日も妙に的確だった。水場の周りに置く滑り止め用の板。小型組が足を取られないようにするための低い段差。採取物を一時的に置くための浅い箱。

 

「……主任、もしかして昨日のメモ見た?」

 

主任は答えない。ただ、ヘルメットを少し直した。そのヘルメットには、かすれた文字で「主任」と書かれている。昔は、ただの冗談だった。みんなでふざけて、ヘルメットを作って、色を塗って。それが妙に似合ったから、そう呼び始めただけ。なのに今は、本当に立派な現場監督のように動いている。懐かしい。今は今で頼もしい。

 

「ありがとう。そこ、後で一緒に見る」

 

主任は小さく頷いたように見えた。

 

 

朝の門へ向かうと、すでに外へ出る子達が動き始めていた。門の近くの日当たりのいい草地には、ドードー達がぽつぽつ集まり始めている。草食の大型組の一体が鼻先で草を分け、気に入った場所に腰を下ろす。

 

採取組の一部は、森の浅い場所へ向かっていた。ビーバー達が木材の方へ。アンキロサウルスが黒い岩場の方へ。ドエディクルスが石の多い斜面へ。その後ろを、ティラノサウルスが一体、少し距離を取って歩いている。護衛役だ。

 

誰かが号令をかけたわけではない。それでも、家の一日は力強く回り始めていた。

 

カイザーは、今日も正門の近くにいた。昨日一緒に散歩した後も、やはりここが落ち着くらしい。ただ、少しだけ変化があった。カイザーは時々、外の方を見る。門前の草地。昨日歩いた大きな道。あの高台の方向。正門を離れたいというほどではない。けれど、外に道があることは、もう知っている。

 

「おはよう、カイザー」

 

片目が開く。低く、地面に響くような音が返ってきた。その首元を軽く撫でる。カイザーは門番ではある。けれど、ただの門番ではない。一緒に外を歩いた子。正門を選んでいる子。うちの、大切な子。それでいい。

 

 

朝の小さな出来事は、すぐに起きた。ドードーの一羽が、日向の草地から少し外れ、まだ範囲外にしている深い草の方へ向かいかけたのだ。本人に悪気はない。ただ、そこから先はまだ安全確認が済んでいない。

 

私が声を出すより少し早く、近くにいたモスコプスが顔を上げた。さらに、その奥にいたティラノが一歩だけ動く。威嚇するほどではない。ただ、大きな影が進路を塞ぐように立っただけだ。ドードーはぴ、と鳴いて足を止めた。

 

「こっち」

 

私が手を振ると、ドードーは何事もなかったようにぽてぽてと戻ってくる。私はしゃがみ、軽く頭を撫でた。ティラノはもう興味を失ったように、元の場所へ戻る。モスコプスは再び草を食み始める。

 

小さな出来事だった。こういう積み重ねが『生活』になるのだと思う。

 

少し離れたところで、シルヴィアが上空から降りてきた。さっき飛んでいったばかりのはずだ。

 

「シルヴィア、見張りは?」

 

聞くと、シルヴィアは一瞬だけ固まった。それから、ばさりと翼を広げ、上空へ飛び上がる。大きく一周。かなり大げさに旋回。そして、すぐ戻ってきた。『仕事をした』という顔だった。

 

「……うん。ありがとう」

 

褒めると、シルヴィアは満足そうに喉を鳴らした。見た目は本当に格好いい。空を飛ぶ姿も、間違いなく綺麗だ。でも、こういうところがどうしても抜けている。言わないけれど。

 

 

午前中は、日々の確認作業で過ぎていった。採取組の出発を見送り、小型組の行動範囲を確認し、水場の板を置き直し、主任が用意した箱の位置を決める。大きな事件はない。ただ、細かいタスクは多い。

 

昼前になると、採取組の一部が戻ってきた。最初に戻ってきたのはビーバー達だった。仮置き場の使い方が上手くなっていた。きちんと採取組用の搬入口を通り、玄関の石床で少し止まる。木くずと泥がそこで落ちる。それから仮置き場へ向かい、木材を下ろす。

 

続いて、アンキロ達が戻ってくる。採取したものを出すと、黒っぽい鉱石らしき塊が現れた。それから、森へ行っていた別の子が持ち帰ったもの。繊維。ベリーのようなもの。見たことのない葉。薬草っぽい匂いのする草。よく分からないキノコ。

 

「キノコは分ける」

 

私は即座に言った。食べられるかもしれないし、薬になるかもしれない。でも、毒かもしれない。分からないものは、絶対に食べさせない。

 

主任は、いつの間にか隣にいた。何も言わない。ただ、浅い箱をいくつか並べる。木材。石材。繊維。食料候補。用途不明。触らない方がよさそうなもの。並べ方が見やすい。作業場の動線も、少しずつ整理されている。

 

「食べ物候補は少量ずつ確認。怪しいものは保留。キノコは触る時も布越し」

 

主任がまた片手を上げた。

 

 

昼になって、ようやく自分の空腹に気づいた。みんなの餌のことばかり考えていたせいだ。よくない。私が倒れたら、世話も確認もできなくなる。

 

私は保存してあった干し肉と、安全確認済みのベリーを少し取り出し、簡単な昼食にした。豪華ではない。今は十分だ。

 

座って食べ始めると、シルヴィアが横からじっと見てくる。

 

「これは私の分」

 

シルヴィアは鼻を鳴らした。仕方なく、別に用意していたシルヴィア用の肉を出す。

 

「少しだけね。あとでちゃんと食べる分は別」

 

シルヴィアはそれで満足したらしく、得意げに喉を鳴らした。なぜ得意げなのかは分からない。食べ物をもらっただけなのに。

 

食事をする。隣でシルヴィアが肉を食べる。少し離れたところでドードー達が日向に丸くなる。遠くでカイザーが静かに息を吐く。ただそれだけの昼だった。それだけで、今は十分満たされていた。

 

 

午後は、のんびりした時間になった。朝から動いていた小型組の何羽かは、日向でそのまま眠っている。採取組の一部は二便目へ向かった。大型組は外周で交代するように動いていた。ワイバーン達も同じだった。高所で翼を畳んでいる子もいれば、空をゆっくり旋回している子もいる。

 

シルヴィアは、しばらく見張り役のふりをしていたが、結局私の近くで寝そべった。目は外へ向いているし、耳も動いている。ただ、距離が近い。

 

「近いよ」

 

そう言うと、シルヴィアは少しだけ身体をずらした。ほんの数センチだけ。私は諦めて、その首元を撫でた。

 

海の方から、低い波音が届く。時折、胸の奥に響くようなかすかな振動があった。海棲組だろうか。波の下から返事はあった。あの子達は、自分達で食べていた。今は、それを信じる。

 

午後の空は、穏やかだった。ただ、遠くの海側だけは少し暗い。この前見た、あの黒い雲の方向。今日も、空の端が重く見える。

 

シルヴィアが一瞬だけ顔を上げ、遠くを見る。私も同じ方向を見る。

 

「……まだ遠いね」

 

シルヴィアは短く喉を鳴らした。今日は、みんなの一日を見ていたい。そう思って、私は視線を戻した。

 

 

夕方に近づくにつれて、家の動きはまた変わっていった。朝から動いていた子達が休み始める。夕方の涼しい空気を待っていたように、別の子が外へ出る。

 

外へ出ていた子達が戻り始めた。採取組が、素材を持って帰ってくる。ワイバーン達は高所へ戻る。翼の音が、夕方の空気を押し流す。小型組は眠そうに戻ってきた。

 

シルヴィアが私の隣で、なぜか得意げにしている。

 

「見ててくれたのは助かったよ」

 

そう言うと、満足そうに喉を鳴らした。

 

出ていく場所があって、残る場所があって、戻ってくる場所がある。ここはすでに家だった。出ていっても戻ってこられる場所に、少しずつなっている。

 

 

夜になる前に、私はもう一度、家の中を見て回った。今は怯えながら扉を開けるわけではない。ただ、気配を見るだけだ。

 

高所のワイバーン達、正門のカイザー、工房の主任、すぐ近くのシルヴィア。それぞれの場所に、それぞれの子がいる。

 

「あなたは本当に近いね」

 

シルヴィアは何でもないような顔をした。近いのが当然だと思っている。

 

「おやすみ」

 

私は通路で、小さく声をかけた。寝ている子にも。これから動く子にも。外にいる子にも。返事は、色々だった。小さな鳴き声。翼の音。遠くの足音。カイザーの低い息。シルヴィアの喉を鳴らす音。その全部が、この家の夜の音だった。

 

 

自室へ戻ると、窓の外はもう暗かった。遠くから波の音が聞こえる。風が外壁を撫でる音がする。どこかで、夜に活動する子の足音がした。

 

ベッドに腰を下ろす。それぞれの子に、それぞれの時間がある。私の一日が終わっても、家族達の一日は終わらない。全員が同じ時間に眠る必要はないし、同じ場所にいる必要もない。出たい時に出て、戻りたい時に戻る。そのための場所を、少しずつ作っていけばいい。

 

私は布団に潜り込んだ。窓の外で、シルヴィアの気配がする。正門の方にはカイザーがいる。遠くには外周を歩く大きな影。さらに遠くには、波の下の子達。

 

みんなが同時に眠っているわけではない。それでも、ここは家だった。

 

目を閉じる。今日は、不思議とすぐに眠れそうだった。家の中には、家族達の寝息がある。門の外には、今日も誰かが歩いた道がある。その全部を聞きながら、私はゆっくりと眠りに落ちていった。

 

そして、さらに遠い海の上で。黒い雲が、誰にも気づかれないほど静かに、不気味に形を変えていた。

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