夜の海は、荒れていた。
家に被害はなかった。外壁も門も無事で、小型組の寝床に雨が吹き込むこともなかったけれど、遠くの海で何かが暴れていることだけは、夜のあいだずっと伝わってきていた。
風は湿っていて、潮の匂いがいつもより濃かった。夜中に一度、窓の外でシルヴィアが顔を上げる気配がして、正門の方ではカイザーが低く息を吐いた。私はその音を半分眠ったまま聞きながら、まだ遠い、ここではない、と思っていた。
翌朝の海岸は、いつもと違っていた。
波はまだ高く、黒に近い青の水面は、朝の光を受けても重たく見えた。岩場では、普段よりずっと高く白い飛沫が上がっている。
砂浜には、嵐が置いていったものが散らばっていた。海藻や流木、割れた貝殻くらいなら、嵐の後にはよくあることだ。けれどその中に、自然のものではないものが混じっていた。裂けた布に絡まったロープ、角の壊れた木箱、何かを留めていたらしい金具。
この島で、私は道も家も港も見たことがない。だからこれは島のものではなく、海の向こうから流れてきたものだ。
沖では、海棲組の影がゆっくりと動いていた。彼らは漂着物に気づいていたけれど、食べ物でも脅威でもない、ただ波に流されていくものだと思ったのだろう。私に知らせには来なかった。
ただの板や布なら、それで問題はなかった。けれど波が運んできたものは、それだけではなかった。
◆
その人は、砂浜に打ち上げられていた。
波が寄せるたびに、冷たい海水が足をさらっていく。それでも意識は、まだかろうじて残っていた。
息を吸おうとすると喉が焼けるように痛み、口の中には塩の味がこびりついている。咳をしようにも、もうその力さえ残っていなかった。
寒い、とまず思った。身体は芯から冷えきって、濡れた服が肌に張りつき、風が吹くたびに残った体温を奪っていく。
何があったのか、うまく思い出せなかった。黒い雲と、割れるような雷鳴。大きく傾いていく船の床に、誰かの叫び声と、木が砕ける音。それから、上も下も分からない暗い水。最後に見たのは、真っ黒な波だった。
「……ここ、は」
声は、ほとんど音にならなかった。
ぼやけた視界に映るのは、白い砂と黒い岩と、灰色の空だけだった。船も灯りも道もなく、背後の森だけが異様なほどに濃い。木々は太く、葉は重く、その奥は朝の光さえ通さないほど暗かった。森のどこかで、聞いたことのない鳴き声がした。
震える腕で、身体を起こそうとした。力は入らなかったけれど、それでも砂を掴んだ。少しでも海から離れなければ、次の波で今度こそ動けなくなる。
「神よ……」
祈りの言葉は咳に呑まれ、視界の端が暗くなっていく。
その時、砂を踏む音がした。ざく、ざく、と一定の間隔で近づいてくるのは、蹄の音だった。
身体が強張った。こんな場所で近づいてくるものが、優しいものであるはずがない。逃げなければと思っても、身体は少しも動いてくれなかった。
蹄の音が、すぐそばで止まった。霞む視界に、細い脚と長い顔、柔らかそうな毛並みが映る。大きな瞳が、こちらを覗き込んでいた。
「……馬?」
角も牙もなく、炎を吐くわけでも、鱗に覆われているわけでもない。彼女の知っている馬と、ほとんど変わらない姿だった。
一頭だけではなく、数頭の馬が漂着した木片の匂いを嗅いだり、耳を動かしたりしながら浜を歩いていた。そのうちの一頭が近づいてきて、濡れた髪に鼻先を寄せる。温かい息が、冷えきった頬にかかった。
この恐ろしい海岸で初めて見た、知っている形の生き物だった。ただそれだけのことで、泣きたくなるほど心細さが和らいだ。
「よかっ……」
言葉は、最後まで続かなかった。
安心した途端に、身体が限界を思い出したのだ。砂を掴んでいた指がほどけ、視界が白く霞んでいく。怖くて気を失ったのではなかった。少しだけ、安心してしまったからだった。
◆
エクウス達は、倒れた人間を見下ろしていた。
一頭が鼻先でつついても、反応はない。別の一頭が濡れた布の匂いを嗅ぐと、塩と薄い血と、知らない人間の匂いがした。
彼らは困ったように耳を動かした。どうすればいいのかは分からなかったけれど、気になったから、その場を離れなかった。おかげで朝ごはんの時間になっても、家には戻らなかった。
◆
家の朝は、いつも通りに始まっていた。
嵐は遠くを通り過ぎたらしく、門は開いていて、外周の見回りも続いている。高い場所ではワイバーン達が翼を休め、正門にはカイザーがいた。ただ、潮の匂いがいつもより強くて、私は朝から、そのことが少し気になっていた。
シルヴィアは今日も、私のすぐ隣にいる。近すぎるけれど、いつも通りだ。
「今日は、海の方が荒れてるね」
そう言うと、シルヴィアは海の方へ顔を向けて目を細めた。
餌場へ向かったところで、私は足を止めた。数が足りなかった。
エクウス達がいない。好奇心が強くて、よく海岸の方まで出かける子達だけれど、食事の頃には戻ってくる。一頭だけの寄り道ならともかく、群れごと戻らないのは珍しかった。
周りに危険な気配はなく、カイザーも落ち着いているから、大事件だとは思わなかった。それでも、怪我をしていないか、変なものを食べていないかは気になった。
「探しに行こう」
シルヴィアがすぐに顔を上げた。行く気満々だ。
「今日は歩いていくよ。いきなり飛んだら、驚かせるかもしれないから」
空から探した方が早い、という顔をされた。けれど海岸に何があるか分からないし、エクウス達が何かを見つけているなら、大きな竜が上から降りていくのはよくない。
正門の前を通ると、カイザーが片目を開けた。
「エクウス達を見てくるね。たぶん海岸」
カイザーは低く息を吐いただけで、ついてこようとはしなかった。それでいい。カイザーが歩けば、浜の足跡も漂着物も全部踏み潰してしまう。
「何かあったら呼ぶから」
カイザーは、静かに目を細めた。
海岸へ続く道は、いつもより湿っていた。草には水気が残り、ところどころで枝が折れている。足元には、海の方へ向かう蹄の跡がいくつも続いていた。
「やっぱり、こっちだ」
波の音が近づくにつれて、沖で動く海棲組の影も見えてきた。騒いでいる様子はないから、海から何かが来ているわけではなさそうだった。
砂浜に出ると、エクウス達はすぐに見つかった。木箱をつついている子もいれば、波が寄せるたびに後ずさっている子もいて、一頭はこちらに気づいて耳を立てた。どの子も、怪我をしている様子はない。
「もう、こんなところにいたの」
肩の力が抜けた、その時に気づいた。
エクウス達の真ん中に、何かがある。最初は濡れた布の塊だと思ったけれど、違った。布の間から白い手が見えて、髪と肩と、人の形が見えた。
「……人?」
駆け寄ろうとした。
その前に、足が止まった。
止めたのではない。止まった。膝から下が砂に縫いつけられたように、一歩も前に出なかった。
気がつくと、右手が腰のナイフの柄にかかっていた。いつ手を伸ばしたのか、自分でも覚えていない。
――倒れた人間は、罠のことがある。
考えたのではなかった。もっと前から、そこにあった言葉のようだった。倒れたふりをして、近づいてくる相手を待つ。駆け寄った者から、先にいなくなる。そういうやり方を、私はどこかで知っていた。どこで覚えたのかは、分からない。
目が勝手に、周りを確かめていた。森の縁に岩の陰、木箱の裏、それから人が伏せられそうな窪み。砂の上には、エクウス達の蹄の跡しか残っていなかった。
シルヴィアが私の肩越しに首を伸ばし、鼻先で空気を探ってから、低く喉を鳴らした。警戒の音ではなかった。この浜にいるのは、この人だけだ。
それでも、指はナイフから離れなかった。
人間だ、と思うだけで背中が冷たくなる。どうしてこんなに身体が固くなるのか、自分でも分からなかった。人間なんて、元の私の周りにはいくらでもいたはずなのに。
倒れている人の肩が、小さく動いた。浅く、今にも途切れそうな息をしている。砂の上で、濡れた指先が一度だけ震えた。
このままにしたら、この人は死ぬ。それは、さっきの言葉よりずっとはっきりしていた。
「シルヴィア」
声が、少しかすれた。
「待って。下がって」
シルヴィアの気配がぴたりと止まる。不満そうではあったけれど、従ってくれた。
私はナイフの柄から指を一本ずつ剥がして、それから砂を蹴った。
倒れていたのは、私より少し年上に見える女の人だった。濡れた髪が頬に張りついていて、もとは白かったらしい服は、砂と海藻にまみれてところどころ破れている。
膝をつくより先に、私の目は彼女の手元と腰を確かめていた。刃物も弓もなく、何かを隠せそうなところもない。胸元に、印のようなものが下がっているだけだった。そこまで見てようやく息を吐いて、私はずっと息を止めていたことに気づいた。
胸元の印には、触らないでおくことにした。きっと、この人にとって大事なものだから。
顔のそばに耳を寄せると、浅いけれど、息はあった。
「……生きてる」
声にした途端、喉が詰まった。
けれど、状態はよくなかった。身体は芯まで冷えきっていて、手首は驚くほど細い。濡れて冷えているだけで、浅い息をしているだけで、人間はこんなにも危うくなるのだ。
ついさっきまで、こんなに弱っている人を、私は怖いと思っていた。その怖さはまだ背中に貼りついていたけれど、手は止めなかった。
「早く連れて帰らないと」
顔を上げると、エクウス達がこちらを見ていた。
「見つけてくれたんだね」
一頭が鼻を鳴らした。たぶん、そんなつもりはなかったのだと思う。見つけて、気になって、帰るのを忘れただけだ。それでも、そのおかげでこの人は見つかった。
「ありがとう。でも、ご飯の時間には帰ってきてほしかったな」
耳を動かすエクウスは、反省しているようには見えなかった。
沖の水面に目を向けると、大きな影がゆっくりと揺れた。
「……気づいてたでしょ」
返事をするように、波が揺れる。
「食べ物じゃなくても、人間がいたら教えてほしかった」
責めるつもりはなかった。伝え方は、次から決めればいい。今はこの人を運ぶ方が先だった。
運び方には、少しだけ迷った。シルヴィアなら早いけれど、竜の背中で目を覚ましたら、この人はきっと怖いだろう。見た目がほとんど馬のエクウスなら、途中で目を覚ましても、まだ受け入れやすいかもしれない。
「手伝ってくれる?」
声をかけた一頭が、耳を動かした。分かっているのかは怪しいけれど、逃げはしなかった。
彼女をそっと抱き起こすと、驚くほど軽かった。人間はこんなに軽かっただろうか。力を入れたら壊してしまいそうで、少し怖かった。
持ってきた布で身体を包んでエクウスの背に乗せ、落ちないように支えながら、呼吸の邪魔にならない程度に布で留める。
「ゆっくりね。走らないで」
横からシルヴィアが、自分が運んだ方が早いという顔でじっと見ていた。
「早さより、揺れないことが大事なの」
シルヴィアは少しだけ顔を背けて、黙ってついてきた。
帰り道は、ゆっくりだった。私は何度も、彼女の息を確かめた。浅いけれど、途切れてはいない。
途中で一度、彼女の指が動いた。目を覚ましたのかと思って、私の手はまた腰の方へ動きかけた。けれどその指はすぐに力をなくして垂れ、私も自分の手を下ろした。
「もう少しだから」
聞こえているかは分からなかった。もしかしたら、自分に言い聞かせていたのかもしれない。
家が見えてくると、正門のカイザーが顔を上げた。
「カイザー、そのまま。近づかないで」
カイザーは動かずに、片目だけでこちらを見た。その目が彼女に向いた時、私は改めて思った。外の人から見たら、ここは怖い場所なのだと。
正門にはギガノトサウルスがいて、高いところにはワイバーンがいる。少し離れれば大型の子達がいて、家の中には見たこともない生き物が暮らしている。私にとっては大切なうちの子達でも、知らない人から見れば、怪物の巣にしか見えないだろう。
怖いのは、きっとこの人の方だ。そう思うのに、私の背中はまだ冷たいままだった。
「みんな、少し離れてて」
近づいてこようとした小型組を手で止めると、ドードーが、ぴ、と鳴いた。
「あとでね。今は駄目」
扉までついてきたシルヴィアにも言う。
「シルヴィアは外」
不満そうな声が返ってきた。
「外」
もう一度言うと、シルヴィアはしぶしぶ扉の手前で止まった。
主任は、もう準備を始めてくれていた。入り口近くの静かな部屋に布が敷かれ、水と乾いた布と、火を起こす支度まで整っている。
「主任……早いね」
主任は片手を上げただけで、何も言わなかった。本当に助かる。その部屋なら大きな子達の気配から少し離れているし、私も様子を見に来やすい。
寝床に彼女を寝かせて、濡れた服を外せるところだけ外し、乾いた布で包んだ。胸元の印は、そのままにしておく。冷えた手を布でくるみ、濡れた髪を拭いてから、怪我を確かめた。腕に擦り傷、肩に打ち身、足にも小さな傷があったけれど、大きく血が出ているところはない。一番危ないのは、冷えと、弱りきった身体だった。
水を少しだけ、口元へ運ぶ。むせないように、ほんの少しずつ流し込むと、喉が小さく動いた。
「……よし」
扉の外には、いろんな気配が集まっていた。心配しているのか、興味があるのか、たぶん両方だ。
「静かにね。近づきすぎないで」
小さな足音が遠ざかっていく中で、窓の外にだけ、シルヴィアの気配が残っていた。顔を出さないのは、彼女なりに我慢しているのだろう。
「シルヴィアも、ありがとう」
窓の外で、喉を鳴らす音がした。
私は、寝床の上の人に目を戻した。この島で初めて会った、外の人間だった。海の向こうには人がいて、船があって、胸に印を下げた人がいる。考えたいことはたくさんあったけれど、今はこの人を死なせないことが先だった。
火の具合を見て、布を整える。彼女の呼吸は、少しずつ落ち着いてきたように見えた。
しばらくして、そのまぶたがかすかに震え、彼女が薄く目を開けた。
その瞬間、私の手はまた、腰のナイフに向かっていた。目を開けた人間がすぐそこにいる。ただそれだけで、肩が固くなる。
……違う。
この人は、さっき私が抱き上げた人だ。あんなに軽くて、冷たくて、浅い息しかしていなかった人だ。
私は手を下ろして、何も持っていないその手を、相手から見えるように膝の上に置いた。
彼女の目が、ゆっくりとこちらを探している。私は一歩だけ、寝床から離れた。
**エクウス**
ARKに登場する馬です。
「エクウス」という名前は、現実の馬の仲間を含む分類名でもあります。
学名では、馬・ロバ・シマウマなどを含むグループが **Equus** と呼ばれます。家畜馬は分類によって **Equus caballus**、または **Equus ferus caballus** と表記されることがあります。
ARKのエクウスは、簡単に言えば馬そのものです。見た目は一般的なサラブレットより現存する唯一のウマの野生種のモウコノウマに近いです。
移動速度とスタミナに優れ、背中に乗って移動できるほか、蹴りで相手を気絶させることもできます。専用サドルを使うと、移動しながら薬品などを作れる簡易作業台のような役割も持ちます。
まとめると、ARKにおけるエクウスは、
**移動・運搬・簡易クラフトに役立つ、馬型の実用生物**
です。