夜の海は、荒れていた。
家の周りに大きな被害はなかった。 外壁が壊れたわけでもない。門が外れたわけでもない。小型組の寝床に雨が吹き込んだわけでもない。 けれど、遠くの海で何かが暴れていることだけは、夜の間ずっと伝わってきていた。
風がいつもより湿っていた。潮の匂いが濃かった。 夜中に一度だけ、窓の外でシルヴィアが顔を上げた気配があった。正門の方では、カイザーが低く息を吐いた。 私はその音を、半分眠ったまま聞いていた。
遠い。まだ、ここではない。 そう思った。
けれど翌朝、海岸はいつもとは違っていた。
波はまだ高かった。 黒に近い青の水面が、朝の光を受けても重たく見える。岩場にぶつかる波は白く砕け、普段よりずっと大きな飛沫を上げていた。
砂浜には、いろいろなものが打ち上げられていた。 海藻。折れた枝。白く削れた流木。割れた貝殻。どこかの岩場から剥がれたらしい黒い石。 それだけなら、嵐の後の海岸として不思議ではなかった。
けれど、その中には明らかに『自然物ではないもの』も混じっていた。
裂けた布。絡まったロープ。板のようなもの。角が壊れた木箱。何かを留めていた金具。
この島には、人の気配がなかった。少なくとも、私がこれまで見た範囲には、道も家も畑も港もなかった。 だから、それらはきっと島のものではない。 海の向こうから来たものだ。
波の下では、海棲組がそれを見ていた。 巨大な影が、少し沖をゆっくり移動している。 モササウルスの影。メガロドンの影。さらに深いところで、もっと大きなものが水を動かす気配。
彼らは、漂着物に気づいていた。 ただ、それを食べ物とは思わなかった。脅威とも思わなかった。 『波に流されて、陸へ向かったもの』。たぶん、その程度の認識だったのだと思う。だから、すぐに私へ知らせには来なかった。
それがただの板や布なら、たしかに大きな問題ではなかった。
けれど、波が運んできたものは、それだけではなかった。
◆
その人影は、砂浜に打ち上げられていた。
波が引くたびに、濡れた布が砂に張りつく。また波が寄せるたびに、冷たい海水が足元をさらっていく。 まだかろうじて意識を保っていた。
息を吸おうとすると、喉が焼けるように痛い。口の中に、塩の味が残っている。 肺の奥まで海水が入り込んだようで、咳をしたくても、その力すらほとんど残っていなかった。
寒い。 まず、そう思った。 身体が芯から冷えている。指先の感覚が薄い。濡れた衣服が肌に張りつき、風が吹くたびに体温を奪っていく。
何が起きたのか、うまく思い出せない。
黒い雲。割れるような雷鳴。船の床が大きく傾く感覚。 誰かの叫び声。木が砕ける音。祈り。冷たい波。 上も下も分からなくなる暗い水。
最後に見たのは、星ではなかった。 真っ黒な波だった。
「……ここ、は」
声は、ほとんど音にならなかった。 目を開けても、視界はぼやけている。
白い砂。黒い岩。灰色の空。遠くに広がる濃い森。 人の気配はない。浜辺に船はない。灯りもない。道もない。 ここがどこなのか分からない。
ただ、普通の場所ではないことだけは、すぐに分かった。 背後にある森が、あまりにも濃すぎる。木々は太く、葉は重く、奥は朝の光を拒むように暗い。
波音の向こうから、聞いたことのない鳴き声がした。 獣の声。いや、獣と呼んでいいのかも分からない。
打ち上げられた身体は、震える腕で身を起こそうとした。 腕に力が入らない。砂を掴む。指が震える。爪の間に冷たい砂が入る。 それでも、少しでも海から離れなければならないと思った。また波が来れば、今度こそ動けなくなる。
「神よ……」
祈ろうとして、ひどく咳き込んだ。 喉が痛い。胸が苦しい。視界の端が暗くなる。
その時だった。
砂を踏む音がした。 ざく、ざく、と。 一定の間隔で近づいてくる。
蹄の音。
少女は身体を強張らせた。 この島にいるものが、ただの獣であるはずがない。人のいない海岸。得体の知れない森。嵐の後に流れ着いた、どこかも分からない場所。 そんな場所で近づいてくるものが、優しいものであるはずがない。
逃げなければ。 そう思った。でも、身体は動かない。
砂の上で、蹄の音が止まった。 霞む視界の中に、細い脚が見えた。 次に、長い顔。柔らかそうな毛並み。こちらを覗き込む、大きな瞳。
「……馬?」
声が、かすかに漏れた。
それは、馬に見えた。 少なくとも、彼女の知っている馬にとても近かった。
角はない。牙もない。身体から炎を噴いているわけでも、異形の鱗に覆われているわけでもない。不気味な瘴気をまとっているわけでもない。 ただの馬に見える。
一頭だけではなかった。 数頭の馬が、海岸を歩いていた。砂浜の匂いを嗅ぎ、漂着した木片をつつき、時折耳を動かしている。
そのうち一頭が、少女に近づいた。 警戒している。けれど、襲ってくる様子はない。
鼻先が、濡れた髪に触れる。 温かい息が、冷えきった頬にかかった。
それだけで、少女の中で張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
知っている形。この恐ろしい海岸で、初めて見た、理解できる生き物。 馬。
ただそれだけのことが、泣きたくなるほど心細さを和らげた。
「よかっ……」
言葉は最後まで続かなかった。 安心した瞬間、身体が限界を思い出した。
指先から力が抜ける。砂を掴んでいた手がほどける。視界が白く霞む。 恐怖で意識を失ったのではない。少しだけ安心してしまったから。それで、張り詰めていた糸が切れた。
少女の意識は、静かに沈んでいった。
◆
エクウス達は、倒れた少女を見ていた。
一頭が鼻先で軽くつつく。反応はない。 別の一頭が、濡れた布の匂いを嗅ぐ。塩と、血の薄い匂いと、知らない人間の匂い。
エクウス達は、少し困ったように耳を動かした。 彼らは救助隊ではない。何をすべきか、はっきり分かっていたわけではない。
ただ、知らないものを見つけた。倒れた。動かない。気になる。 だから、その場を離れなかった。
一頭は少女の近くに立つ。一頭は波が寄せるたびに少し後ろへ下がる。一頭は漂着した木箱を鼻先でつついている。別の一頭は、海の方をじっと見ていた。
食べ物ではない。敵でもない。でも、気になる。 それくらいの、素直な好奇心だった。
その結果、エクウス達はいつもの朝ごはんの時間になっても、家へ戻らなかった。
◆
その頃、家の中ではいつもの一日が始まっていた。
嵐は遠かった。夜の間、海の方で風が荒れていた気配はあったが、拠点周辺に大きな被害はない。 門はいつも通り開いている。外周の見回りも続いている。高所ではワイバーン達が翼を休め、正門にはカイザーがいる。
けれど、空気は少し湿っていた。 潮の匂いがいつもより強い。風の中に、海藻のような匂いが混じっている。 私は朝から、その匂いが少し気になっていた。
とはいえ、すぐに大きな異常だとは思わなかった。 海は荒れることがある。風が強い日もある。波が高い日もある。この島の天気について、私はまだほとんど知らない。
だから、まずはいつもの確認をする。 餌場。水場。小型組の出入り口。採取組の搬入口。玄関の泥落とし。外周の気配。 それぞれの子達は、だいたいいつも通りに動いていた。
ビーバー達は木材置き場の近くにいる。アンキロは黒い岩場へ向かう準備をしている。ドードー達は日向に出ている。モスコプスは草地の匂いを嗅いでいた。 シルヴィアは私の近くにいる。近すぎる。いつも通りだ。
「今日は海の方、少し風が強そうだね」
私が言うと、シルヴィアは海の方へ顔を向けた。 少しだけ目を細める。警戒しているのか、ただ潮風が気になるのか。どちらとも取れる顔だった。
「後で海岸も見に行こうかな」
そう呟いて、私は餌場へ向かった。 そこで、ふと違和感に気づいた。
数が足りない。
最初は気のせいかと思った。 朝の行動時間は、子によって違う。外に出ている子もいる。まだ寝ている子もいる。先に水場へ行っている子もいる。
けれど、エクウス達はわりと分かりやすい。 好奇心は強い。外にもよく出る。海岸近くまで歩いていくこともある。でも、食事の頃合いには戻ってくることが多かった。特に、群れで出ている時はそうだ。
一頭が寄り道することはある。でも、複数戻ってこないのは少し珍しい。
「……エクウス達、まだ?」
私は餌場の周りを見る。 やはりいない。いつもなら、食べ物の気配に釣られて何頭か顔を出すはずなのに。
慌ててはいない。 周囲に危険な気配もない。カイザーも正門で落ち着いている。シルヴィアも、今のところ強く警戒している様子はない。 だから、すぐに大事件だとは思わなかった。
でも、気になる。
「みんな、どこ行ったのかな」
呟く。海岸かもしれない。 嵐の後だから、何か珍しいものが流れ着いて、それを見に行ったのかもしれない。エクウス達なら、そういうことはありそうだった。
けれど、帰ってこない理由が気になる。 怪我をしていないだろうか。足を取られていないだろうか。変なものを食べていないだろうか。 私の心配は、まずそこだった。
「探しに行こう」
そう決めた。 シルヴィアがすぐ顔を上げる。行く気満々だ。
「今日は低めで。いきなり飛んで驚かせないようにね」
シルヴィアは少し不満そうに鼻を鳴らした。空から探す方が早い。たぶん、そう思っている。 でも、海岸に何があるか分からない。エクウス達が何かを見つけているなら、いきなり大きな竜が上から降りてくるのはよくない。
「まず歩いて行く。必要なら飛んで」
そう言うと、シルヴィアはしぶしぶといった様子で喉を鳴らした。
正門の方へ向かうと、カイザーが片目を開けた。
「エクウス達を見てくるね。たぶん海岸」
カイザーは低く息を吐いた。同行する様子はない。 それでいい。カイザーを連れていくと、海岸そのものが大きく変わってしまう。足跡も、砂地も、漂着物も、全部踏み潰してしまうかもしれない。 今回は、私とシルヴィアで十分だ。
「何かあったら呼ぶから」
そう言うと、カイザーは静かに目を細めた。
私はシルヴィアと一緒に門を出た。 海岸へ向かう道は、いつもより湿っていた。草に水気が残っている。ところどころ枝が折れている。海から流れてきた匂いが、風に乗って奥まで入り込んでいた。
足元には、エクウス達の蹄の跡があった。 複数。海岸の方へ向かっている。
「やっぱり、こっち」
私は足跡を追う。 シルヴィアが隣で首を低くしている。彼女も匂いを追っているのかもしれないし、私に合わせて慎重に歩いているだけかもしれない。
森の方から危険な気配はしない。 拠点周辺の危険生物は、ここ最近かなり遠ざかっている。外周を歩く戦闘組や、空のワイバーン達の影響だろう。 そのおかげで、海岸へ向かう道自体は危険ではなかった。
ただ、普段より海の音が大きい。 近づくにつれて、波の音がはっきりして
近づくにつれて、波の音がはっきりしてくる。 ざあ、ざあ、と。 岩に当たって砕ける音。砂を引いていく音。重い水がうねる音。潮の匂いが強くなる。
海岸に出る少し手前で、沖の方に大きな影が見えた。海棲組だ。 水面の下を、黒い影がゆっくり動いている。焦っている様子はない。騒いでいる様子もない。大きな脅威ではなさそうだ。 少なくとも、海から何かが襲ってきているようには見えない。
「海の子達は落ち着いてる……」
そう呟き、私はさらに進んだ。 砂浜が見えた。そして、すぐにエクウス達を見つけた。
「あ、いた」
まず、安心した。数頭のエクウスが砂浜にいる。 一頭は波打ち際より少し上に立っている。一頭は漂着した木箱らしきものをつついている。一頭は波が寄せるたびに少し後ろへ下がっている。別の一頭は、こちらに気づいて耳を立てた。
みんな無事そうだ。怪我をしている様子はない。足を引きずってもいない。何かに怯えているわけでもない。
「もう、こんなところにいたの」
少しだけ力が抜ける。 けれど、次の瞬間、違和感に気づいた。
エクウス達の中心に、何かがある。 最初は、濡れた布の塊かと思った。嵐で流れ着いた漂着物のひとつ。
けれど、違った。 布の間から、白い手が見えた。 髪。肩。人の輪郭。
「……人?」
声が漏れた。 私はすぐに駆け出した。
シルヴィアが後ろで翼を広げかける。
「待って。下がって」
振り返らずに言うと、シルヴィアの気配がピタリと止まった。不満そうな気配はある。けれど、従ってくれた。
エクウス達は私が近づくと、少しだけ道を空けた。 ただし、完全には離れない。まだ気になるらしい。
倒れていたのは、少女だった。 いや、私より年上に見える。十九歳くらいだろうか。 濡れた髪が頬に張りついている。服はずぶ濡れで、砂と海藻が絡み、ところどころ破れていた。白を基調にした衣服だったのだと思う。けれど今は、泥と塩でひどく汚れている。
それでも、普通の旅服とは少し違った。 胸元には、何かの飾りが見えた。それが何かは分からない。ただ、とても大事なものかもしれないと思った。
周囲には、壊れた木箱やロープ、船板のようなものが散らばっている。 島のものではない。海の向こうから流れてきたものだ。 そして、その中に人間がいる。
考えることは多かった。でも、今は後回しだ。
まず、生きているか。 私は膝をつき、彼女の顔の近くへ耳を寄せた。
呼吸。浅い。でも、ある。
「生きてる」
言葉にした瞬間、少しだけ息が詰まった。
生きている。けれど、状態はよくない。 身体が芯まで冷えている。濡れた服が急速に体温を奪っている。 手首が細い。軽く触れただけで、ひどく弱っているのが分かる。
みんなとは違う。シルヴィアやカイザーと比べるまでもない。ドードーやエクウス達と比べても、この人間の身体はあまりにも脆く感じた。 濡れて冷えているだけで危ない。呼吸が浅いだけで危ない。意識がないだけで、一刻も急がなければならない。
「早く連れて帰らないと」
顔を上げると、エクウス達がこちらを見ていた。
「見つけてくれたんだね」
一頭が鼻を鳴らした。 たぶん、そういうつもりではない。報告に来たわけではないし、助けを呼びに走ったわけでもない。 見つけた。気になった。帰るのを忘れた。きっと、それくらいだ。
でも、その好奇心のおかげでこの人は見つかった。
「ありがとう。でも、ご飯の時間には帰ってきてほしかったかな」
エクウスは耳を動かした。反省しているのか、していないのか。たぶん、していない。 私は小さく息を吐いた。怒る気にはなれなかった。
次に、海を見る。 沖の水面に、大きな影がある。
「……気づいてた?」
波が揺れた。返事のようにも見える。 私は少しだけ目を細めた。
たぶん、気づいていたのだと思う。漂着物も、この人も。 でも、食べ物ではない。脅威でもない。波に運ばれて陸へ行った。だから、知らせなかった。 そういうことなのかもしれない。
「食べなかったからセーフ、じゃないんだよ」
思わず呟く。 けれど、今はそれ以上言っている場合ではない。海棲組を責めるつもりもなかった。この子達にとっては、本当にそういう認識だったのだろう。 『食べる前に知らせて』と言ったのは私だ。次からは『食べないものでも、変なものは知らせて』と言わなければならない。
それは後でいい。今は救助だ。
「シルヴィア、少し離れて。怖がらせちゃうかもしれない」
シルヴィアが不満そうに喉を鳴らした。でも、すっと距離を取る。 見た目が格好いいとか、私にとって大切とか、そういう問題ではない。目を覚ました時、いきなり巨大な竜が覗き込んでいたら、たぶん恐怖で死んでしまう。
私だって最初にシルヴィアを見た時、知っているはずなのに息が止まったのだ。何も知らない人間なら、もっと怖いはずだ。
「エクウス達も、少し下がって」
エクウス達は完全には離れたがらなかった。気になるらしい。でも、私が手で示すと、少しずつ後ろへ下がる。一頭だけ、倒れているお姉さんの髪をもう一度匂いで確認してから離れた。
「うん。ありがとう」
私はお姉さんの状態を見る。 ここで長く処置するより、温かい場所へ運んだ方がいい。ただし、揺らしすぎるのもよくない。
シルヴィアで運べば早い。でも、竜の背や爪で運ぶのは、この人にとって負担も恐怖も大きすぎる。 エクウスなら、少なくとも見た目は馬だ。この人が途中で目を覚ましても、馬に近い存在ならまだ受け入れやすいかもしれない。
私は一頭のエクウスを見る。
「手伝ってくれる?」
エクウスは耳を動かした。分かっているのかは微妙だ。けれど、逃げない。
私は彼女を慎重に抱き起こした。 軽い。人間は、こんなに軽かっただろうか。 力を入れすぎると壊してしまいそうで、少し怖い。
持ってきていた布をかける。濡れた身体を少しでも風から守るためだ。 それから、エクウスの背に慎重に乗せる。落ちないように支え、布で軽く固定する。強く縛りすぎない。呼吸の邪魔にならないように。
「ゆっくりね。走らないで」
エクウスが鼻を鳴らす。 シルヴィアが横から見ている。自分が運んだ方が早い、と思っている顔だった。
「早さより、揺れないこと」
そう言うと、シルヴィアは少しだけ不満そうに顔を背けた。でも、黙ってついてくる。
帰り道は、慎重だった。 エクウスの歩みに合わせて進む。 シルヴィアは少し離れた位置。上空ではなく、低く、こちらを見ながら歩いている。威圧感を抑えているつもりなのだと思う。それでも十分大きいが、彼女なりに努力はしてくれている。
私はお姉さんの呼吸を何度も確認した。 浅い。けれど、途切れてはいない。
途中で彼女の手が少し動いた。意識が戻ったのかと思ったが、すぐにまた力が抜ける。
「もう少しだから」
聞こえているか分からない。でも、声をかける。
家に近づくと、正門のカイザーが顔を上げた。 私はすぐに声を出す。
「カイザー、少しそのまま。近づかないで」
カイザーは動かなかった。ただ、片目でこちらを見る。 その瞳が彼女へ向いた時、私は改めて思った。
外の人間にとって、この光景は怖い。
正門にギガノトサウルスがいる。高所にはワイバーン。少し離れた場所に大型の戦闘組。家の中には、見たこともない生き物達。 私にとっては大切うちの子達だ。けれど、事情を知らない人間から見たらどうだろう。
たぶん、ここは『怪物の巣』にしか見えない。 私はそのことを、今までよりはっきり意識した。
「みんな、少し離れてね。怖がらせるかもしれないから」
小型組が興味を持って近づきかける。私は手で止めた。ドードーがぴ、と鳴く。
「あとで。今は駄目」
シルヴィアも扉の近くまで来ようとする。
「シルヴィアは外」
不満そうな鳴き声。
「外」
もう一度強く言うと、しぶしぶ扉の外で止まった。
主任はすでに動いていた。 入り口近くの静かな部屋。そこに布が敷かれている。水の入った容器。乾いた布。火を入れるための準備。着替え代わりに使えそうな布。
私は少しだけ目を見開く。
「主任……準備早い」
主任は片手を上げた。相変わらず、何も言わない。でも、恐ろしく助かる。
私はエクウスから下ろし、部屋の中へ運んだ。 この部屋なら、大型組の気配から少し離れている。外にも出やすい。私も様子を見に来やすい。窓の外にはシルヴィアが顔を出せるが、今は出させない。
寝床へ横たえる。 濡れた布を外せる範囲で外し、乾いた布で包む。必要以上に触らない。首元の飾りは、できるだけそのままにする。何の印かは分からないけれど、彼女にとって大事なものかもしれない。だから、邪魔にならない限り外さない。
冷えた手を布で包む。濡れた髪を軽く拭く。 呼吸を見る。目立つ怪我がないか確認する。 腕に擦り傷。肩に打ち身らしき跡。足にも小さな傷。ただ、大きく出血している場所は見当たらない。一番の危険は、冷えと衰弱だと思う。
水を少しだけ口元へ運ぶ。飲ませすぎない。むせないように。 喉が小さく動いた。
「よし……」
少しだけ安心する。 部屋の外では、色々な気配が集まっていた。心配しているのか、興味があるのか。たぶん両方だ。 私は扉の方を見る。
「静かに。近づきすぎないで」
外で小さな足音が下がる。 シルヴィアの気配だけは窓の外に残っていた。近い。でも、顔を出さないだけ我慢している。
「シルヴィアも、ありがとう」
窓の外で喉を鳴らす音がした。
私は視線を戻す。 人間だ。この島で、初めて見た外の人間。
海の向こうには人がいる。船があり、布があり、ロープがあり、首飾りのようなものを身につけた人がいる。 この島には文明の跡が見えなかった。けれど、世界に人がいないわけではない。それを、目の前のお姉さんが示していた。
考えたいことは山ほどある。 どこから来たのか。なぜ流れ着いたのか。嵐に巻き込まれたのか。他にも誰かいるのか。海にまだ何か残っているのか。
でも、今は違う。 この人を死なせないことが先だ。
私は布を整え、火の位置を確認し、部屋の空気を温める。 彼女の呼吸は、少しだけ落ち着いてきたように見えた。
しばらくして、そのまぶたがかすかに震えた。 彼女は、薄く目を開けた。
◆
最初に見えたのは、知らない天井だった。
木と石で作られた部屋。柔らかい布。暖かい空気。 一瞬、助かったのだと思った。海ではない。砂浜でもない。冷たい波もない。
身体はまだ重い。喉も痛い。けれど、寒さは少し和らいでいる。
次に、人影が見えた。 白銀の髪。自分より年下に見える少女。知らない服装。こちらを覗き込む、少し心配そうな顔。
人だ。 そう思いかけた。
けれど、その直後に、別の気配が押し寄せてきた。
窓の外。何か巨大なものがいる。 扉の向こう。低い呼吸。遠くの石床を踏む、重い足音。翼が動く音。 普通の獣ではありえないほど、圧倒的に大きな気配。
指が震えた。 ここはどこなのか。自分は何に囲まれているのか。
窓の外で、影が動いた。 竜。そうとしか思えない輪郭が、一瞬だけ見えた。 さらに遠くから、腹の底に響くような低い息遣いが届く。 巨獣。
彼女は、息を呑んだ。
目の前の少女は、自分より年下に見える。小柄で、声を荒げてもいない。手を上げてもいない。むしろ、自分を助けようとしてくれたのかもしれない。
けれど、この少女の周囲にいるものが異常すぎた。 竜。巨獣。見知らぬ魔物達の気配。
そして、その気配は目の前の少女を襲っていない。むしろ、少女の周りに控えているように感じる。 この少女が、それらを従えているのだろうか。
そう思った瞬間、恐怖が胸を締めつけた。 叫びそうになる。後ずさろうとして、身体が動かない。喉が震える。
けれど、彼女は罵らなかった。 魔物、とも。化け物、とも。悪しきもの、とも。言わなかった。
恐怖はある。身体は震えている。涙が滲むほど怖い。 それでも、恐怖だけで目の前の相手を断じる言葉に逃げなかった。
震える手を胸元へ伸ばした。そこにある聖印を固く握る。
「どうか……」
声はひどく掠れていた。それでも、必死に祈りの形を取ろうとする。
「どうか、私が……恐怖で、過ちを犯しませんように」
◆
私は、言葉を失った。
目の前のお姉さんは、震えている。明らかに怯えている。 それでも、こちらを罵らない。拒絶の言葉を投げつけない。ただ、何かに祈っている。
「どうか……この方が、悪しきものではありませんように」
彼女の指が、聖印を強く握る。その声は弱い。 けれど、ただ自分を助けてほしいだけの祈りではなかった。
恐怖で間違えないように。目の前の相手を、恐怖だけで傷つけないように。 そんな祈りに聞こえた。
私は、少しだけ息を止めた。
怖がられている。当然だ。 知らない場所で目覚めたら、竜の影があり、巨獣の足音があり、よく分からない少女がそばにいる。怖くないはずがない。
私は、ゆっくり一歩下がった。できるだけ、急に動かないように。
「大丈夫」
声を落として言う。瞳が激しく揺れながらこちらを見る。
「助けただけ。怖がらせるつもりはないよ」
そう言ってから、自分の言葉が足りないことに気づく。 相手がどこまで理解できるのかも分からない。言葉が通じているのかも、まだ確かめていない。 それでも、強い声は出したくなかった。
「ここは……私の家。外の子達も、襲わせない。だから、今は休んで」
窓の外で、シルヴィアがわずかに動いた気配がした。私はそちらへ視線だけ向ける。
「シルヴィア、下がって」
少し遅れて、巨大な気配が窓から離れる。 彼女の呼吸が、ほんの少しだけ変わった。
まだ怖がっている。当然だ。すぐに落ち着けという方が無理だと思う。 私はさらに少し距離を取った。扉の外の気配にも声をかける。
「みんな、静かに。近づかないで」
小さな足音が遠ざかる。高所の翼の音も、少し静かになった気がした。
それでも、この家の音は消えない。 遠くのカイザーの呼吸。外周を歩く重い足音。水場の音。窓の外の風。海の方から届く波の音。
私にとっては、温かい家の音だった。 けれど、目の前の彼女にとっては、理解できない巨獣達の気配なのだろう。 同じ場所にいるのに、見えているものがまるで違う。 私は、そのことを初めて痛烈に意識した。
お姉さんは聖印を握ったまま、まだ震えていた。 けれど、こちらから目を逸らさなかった。 怯えながら。祈りながら。それでも、恐怖だけで私を断じようとはしていなかった。
私はゆっくり息を吐く。
「大丈夫。今は、何もしなくていい」
そう言って、寝床のそばに置いた水を少しだけ近づける。
「水。飲めそうなら」
すぐには動かなかった。祈る指が、まだ震えている。 私はそれ以上近づかなかった。
外では、まだ家族達の生活音が続いている。 私にとっては、いつもの音。彼女にとっては、恐ろしい音。
波が運んできたものは、ただの漂着物ではなかった。 この島の外に、人がいるという事実。 そして、この家が外の人間にはどう見えるのかという、初めての視線。
漂着者は震えながら、もう一度小さく祈った。
「どうか……」
私はその祈りを、黙って聞いていた。