廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

12 / 65
第12話 漂着者

夜の海は、荒れていた。

 

家の周りに大きな被害はなかった。外壁が壊れたわけでもない。門が外れたわけでもない。小型組の寝床に雨が吹き込んだわけでもない。けれど、遠くの海で何かが暴れていることだけは、夜の間ずっと伝わってきていた。

 

風がいつもより湿っていた。潮の匂いが濃かった。夜中に一度だけ、窓の外でシルヴィアが顔を上げた気配があった。正門の方では、カイザーが低く息を吐いた。私はその音を、半分眠ったまま聞いていた。

 

遠い。まだ、ここではない。そう思った。

 

けれど翌朝、海岸はいつもとは違っていた。

 

波はまだ高かった。黒に近い青の水面が、朝の光を受けても重たく見える。岩場にぶつかる波は白く砕け、普段よりずっと大きな飛沫を上げていた。

 

砂浜には、いろいろなものが打ち上げられていた。海藻。折れた枝。白く削れた流木。割れた貝殻。どこかの岩場から剥がれたらしい黒い石。それだけなら、嵐の後の海岸として不思議ではなかった。

 

けれど、その中には明らかに自然物ではないものも混じっていた。裂けた布。絡まったロープ。板のようなもの。角が壊れた木箱。何かを留めていた金具。

 

この島には、人の気配がなかった。少なくとも、私がこれまで見た範囲には、道も家も畑も港もなかった。だから、それらはきっと島のものではない。海の向こうから来たものだ。

 

波の下では、海棲組がそれを見ていた。巨大な影が、少し沖をゆっくり移動している。モササウルスの影。メガロドンの影。さらに深いところで、もっと大きなものが水を動かす気配。

 

彼らは、漂着物に気づいていた。ただ、それを食べ物とは思わなかった。脅威とも思わなかった。波に流されて、陸へ向かったもの。たぶん、その程度の認識だったのだと思う。だから、すぐに私へ知らせには来なかった。

 

それがただの板や布なら、たしかに大きな問題ではなかった。けれど、波が運んできたものは、それだけではなかった。

 

 

その人影は、砂浜に打ち上げられていた。

 

波が引くたびに、濡れた布が砂に張りつく。また波が寄せるたびに、冷たい海水が足元をさらっていく。まだかろうじて意識を保っていた。

 

息を吸おうとすると、喉が焼けるように痛い。口の中に、塩の味が残っている。肺の奥まで海水が入り込んだようで、咳をしたくても、その力すらほとんど残っていなかった。

 

寒い。まず、そう思った。身体が芯から冷えている。指先の感覚が薄い。濡れた衣服が肌に張りつき、風が吹くたびに体温を奪っていく。

 

何が起きたのか、うまく思い出せない。

 

黒い雲。割れるような雷鳴。船の床が大きく傾く感覚。誰かの叫び声。木が砕ける音。祈り。冷たい波。上も下も分からなくなる暗い水。

 

最後に見たのは、星ではなかった。真っ黒な波だった。

 

「……ここ、は」

 

声は、ほとんど音にならなかった。目を開けても、視界はぼやけている。

 

白い砂。黒い岩。灰色の空。遠くに広がる濃い森。人の気配はない。浜辺に船はない。灯りもない。道もない。ここがどこなのか分からない。

 

ただ、普通の場所ではないことだけは、すぐに分かった。背後にある森が、あまりにも濃すぎる。木々は太く、葉は重く、奥は朝の光を拒むように暗い。

 

波音の向こうから、聞いたことのない鳴き声がした。獣の声。いや、獣と呼んでいいのかも分からない。

 

打ち上げられた身体は、震える腕で身を起こそうとした。腕に力が入らない。砂を掴む。指が震える。爪の間に冷たい砂が入る。それでも、少しでも海から離れなければならないと思った。また波が来れば、今度こそ動けなくなる。

 

「神よ……」

 

祈ろうとして、ひどく咳き込んだ。喉が痛い。胸が苦しい。視界の端が暗くなる。

 

その時だった。砂を踏む音がした。ざく、ざく、と。一定の間隔で近づいてくる。

 

蹄の音。

 

少女は身体を強張らせた。この島にいるものが、ただの獣であるはずがない。人のいない海岸。得体の知れない森。嵐の後に流れ着いた、どこかも分からない場所。そんな場所で近づいてくるものが、優しいものであるはずがない。

 

逃げなければ。そう思った。でも、身体は動かない。

 

砂の上で、蹄の音が止まった。霞む視界の中に、細い脚が見えた。次に、長い顔。柔らかそうな毛並み。こちらを覗き込む、大きな瞳。

 

「……馬?」

 

声が、かすかに漏れた。

 

それは、馬に見えた。少なくとも、彼女の知っている馬にとても近かった。角はない。牙もない。身体から炎を噴いているわけでも、異形の鱗に覆われているわけでもない。ただの馬に見える。

 

一頭だけではなかった。数頭の馬が、海岸を歩いていた。砂浜の匂いを嗅ぎ、漂着した木片をつつき、時折耳を動かしている。

 

そのうち一頭が、少女に近づいた。警戒している。けれど、襲ってくる様子はない。

 

鼻先が、濡れた髪に触れる。温かい息が、冷えきった頬にかかった。

 

それだけで、少女の中で張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。知っている形。この恐ろしい海岸で、初めて見た、理解できる生き物。馬。

 

ただそれだけのことが、泣きたくなるほど心細さを和らげた。

 

「よかっ……」

 

言葉は最後まで続かなかった。安心した瞬間、身体が限界を思い出した。

 

指先から力が抜ける。砂を掴んでいた手がほどける。視界が白く霞む。恐怖で意識を失ったのではない。少しだけ安心してしまったから。それで、張り詰めていた糸が切れた。

 

少女の意識は、静かに沈んでいった。

 

 

エクウス達は、倒れた少女を見ていた。

 

一頭が鼻先で軽くつつく。反応はない。別の一頭が、濡れた布の匂いを嗅ぐ。塩と、血の薄い匂いと、知らない人間の匂い。

 

エクウス達は少し困ったように耳を動かした。彼らは救助隊ではない。何をすべきか、はっきり分かっていたわけではない。気になった。だから、その場を離れなかった。

 

その結果、エクウス達はいつもの朝ごはんの時間になっても、家へ戻らなかった。

 

 

その頃、家の中ではいつもの一日が始まっていた。

 

嵐は遠かった。夜の間、海の方で風が荒れていた気配はあったが、拠点周辺に大きな被害はない。門はいつも通り開いている。外周の見回りも続いている。高所ではワイバーン達が翼を休め、正門にはカイザーがいる。

 

空気は少し湿っていた。潮の匂いがいつもより強い。風の中に、海藻のような匂いが混じっている。私は朝から、その匂いが少し気になっていた。

 

まずはいつもの確認をする。餌場。水場。小型組の出入り口。採取組の搬入口。玄関の泥落とし。外周の気配。それぞれの子達は、だいたいいつも通りに動いていた。

 

シルヴィアは私の近くにいる。近すぎる。いつも通りだ。

 

「今日は海の方、少し風が強そうだね」

 

私が言うと、シルヴィアは海の方へ顔を向けた。少しだけ目を細める。警戒しているのか、ただ潮風が気になるのか。どちらとも取れる顔だった。

 

「後で海岸も見に行こうかな」

 

そう呟いて、私は餌場へ向かった。そこで、ふと違和感に気づいた。

 

数が足りない。

 

最初は気のせいかと思った。朝の行動時間は、子によって違う。外に出ている子もいる。まだ寝ている子もいる。先に水場へ行っている子もいる。

 

けれど、エクウス達はわりと分かりやすい。好奇心は強い。外にもよく出る。海岸近くまで歩いていくこともある。食事の頃合いには戻ってくることが多かった。特に、群れで出ている時はそうだ。

 

一頭が寄り道することはある。複数戻ってこないのは少し珍しい。

 

「……エクウス達、まだ?」

 

私は餌場の周りを見る。やはりいない。いつもなら、食べ物の気配に釣られて何頭か顔を出すはずなのに。

 

慌ててはいない。周囲に危険な気配もない。カイザーも正門で落ち着いている。シルヴィアも、今のところ強く警戒している様子はない。だから、すぐに大事件だとは思わなかった。

 

「みんな、どこ行ったのかな」

 

呟く。海岸かもしれない。嵐の後だから、何か珍しいものが流れ着いて、それを見に行ったのかもしれない。エクウス達なら、そういうことはありそうだった。帰ってこない理由が気になる。怪我をしていないだろうか。変なものを食べていないだろうか。

 

「探しに行こう」

 

そう決めた。シルヴィアがすぐ顔を上げる。行く気満々だ。

 

「今日は低めで。いきなり飛んで驚かせないようにね」

 

シルヴィアは少し不満そうに鼻を鳴らした。空から探す方が早い。たぶん、そう思っている。でも、海岸に何があるか分からない。エクウス達が何かを見つけているなら、いきなり大きな竜が上から降りてくるのはよくない。

 

「まず歩いて行く。必要なら飛んで」

 

そう言うと、シルヴィアはしぶしぶといった様子で喉を鳴らした。

 

正門の方へ向かうと、カイザーが片目を開けた。

 

「エクウス達を見てくるね。たぶん海岸」

 

カイザーは低く息を吐いた。同行する様子はない。それでいい。カイザーを連れていくと、海岸そのものが大きく変わってしまう。足跡も、砂地も、漂着物も、全部踏み潰してしまうかもしれない。今回は、私とシルヴィアで十分だ。

 

「何かあったら呼ぶから」

 

カイザーは静かに目を細めた。

 

私はシルヴィアと一緒に門を出た。海岸へ向かう道は、いつもより湿っていた。草に水気が残っている。ところどころ枝が折れている。海から流れてきた匂いが、風に乗って奥まで入り込んでいた。

 

足元には、エクウス達の蹄の跡があった。複数。海岸の方へ向かっている。

 

「やっぱり、こっち」

 

私は足跡を追う。シルヴィアが隣で首を低くしている。

 

森の方から危険な気配はしない。拠点周辺の危険生物は、ここ最近かなり遠ざかっている。外周を歩く戦闘組や、空のワイバーン達の影響だろう。そのおかげで、海岸へ向かう道自体は危険ではなかった。

 

近づくにつれて、波の音がはっきりしてくる。ざあ、ざあ、と。岩に当たって砕ける音。砂を引いていく音。重い水がうねる音。潮の匂いが強くなる。

 

海岸に出る少し手前で、沖の方に大きな影が見えた。海棲組だ。水面の下を、黒い影がゆっくり動いている。焦っている様子はない。騒いでいる様子もない。少なくとも、海から何かが襲ってきているようには見えない。

 

「海の子達は落ち着いてる……」

 

そう呟き、私はさらに進んだ。砂浜が見えた。そして、すぐにエクウス達を見つけた。

 

「あ、いた」

 

まず、安心した。数頭のエクウスが砂浜にいる。一頭は波打ち際より少し上に立っている。一頭は漂着した木箱らしきものをつついている。一頭は波が寄せるたびに少し後ろへ下がっている。別の一頭は、こちらに気づいて耳を立てた。

 

みんな無事そうだ。怪我をしている様子はない。足を引きずってもいない。何かに怯えているわけでもない。

 

「もう、こんなところにいたの」

 

少しだけ力が抜ける。けれど、次の瞬間、違和感に気づいた。

 

エクウス達の中心に、何かがある。最初は、濡れた布の塊かと思った。嵐で流れ着いた漂着物のひとつ。

 

けれど、違った。布の間から、白い手が見えた。髪。肩。人の輪郭。

 

「……人?」

 

声が漏れた。私はすぐに駆け出した。

 

シルヴィアが後ろで翼を広げかける。

 

「待って。下がって」

 

振り返らずに言うと、シルヴィアの気配がピタリと止まった。不満そうな気配はある。けれど、従ってくれた。

 

エクウス達は私が近づくと、少しだけ道を空けた。ただし、完全には離れない。まだ気になるらしい。

 

倒れていたのは、自分より年上に見える女性だった。濡れた髪が頬に張りついている。服はずぶ濡れで、砂と海藻が絡み、ところどころ破れていた。白を基調にした衣服だったのだと思う。けれど今は、泥と塩でひどく汚れている。

 

普通の旅服とは少し違った。胸元には、何かの印が見えた。邪魔にならない限り外さない。彼女にとって大事なものかもしれないから。

 

周囲には、壊れた木箱やロープ、船板のようなものが散らばっている。島のものではない。海の向こうから流れてきたものだ。そして、その中に人間がいる。

 

考えることは多かった。今は後回しだ。

 

まず、生きているか。私は膝をつき、彼女の顔の近くへ耳を寄せた。

 

呼吸。浅い。でも、ある。

 

「生きてる」

 

言葉にした瞬間、少しだけ息が詰まった。

 

生きている。けれど、状態はよくない。身体が芯まで冷えている。濡れた服が急速に体温を奪っている。手首が細い。軽く触れただけで、ひどく弱っているのが分かる。

 

この人間の身体は、あまりにも壊れやすく感じた。濡れて冷えているだけで危ない。呼吸が浅いだけで危ない。意識がないだけで、一刻も急がなければならない。

 

「早く連れて帰らないと」

 

顔を上げると、エクウス達がこちらを見ていた。

 

「見つけてくれたんだね」

 

一頭が鼻を鳴らした。たぶん、そういうつもりではない。報告に来たわけではないし、助けを呼びに走ったわけでもない。見つけた。気になった。帰るのを忘れた。きっと、それくらいだ。

 

でも、その好奇心のおかげでこの人は見つかった。

 

「ありがとう。でも、ご飯の時間には帰ってきてほしかったかな」

 

エクウスは耳を動かした。反省しているのか、していないのか。たぶん、していない。私は小さく息を吐いた。怒る気にはなれなかった。

 

次に、海を見る。沖の水面に、大きな影がある。

 

「……気づいてた?」

 

波が揺れた。返事のようにも見える。

 

たぶん、気づいていたのだと思う。漂着物も、この人も。でも、食べ物ではない。脅威でもない。波に運ばれて陸へ行った。だから、知らせなかった。そういうことなのかもしれない。

 

「食べなくても、人間は知らせてほしかった」

 

思わず呟く。けれど、今はそれ以上言っている場合ではない。海棲組を責めるつもりもなかった。次からは伝え方を変えればいい。今は救助だ。

 

「シルヴィア、少し離れて。怖がらせちゃうかもしれない」

 

シルヴィアが不満そうに喉を鳴らした。でも、すっと距離を取る。

 

「エクウス達も、少し下がって」

 

エクウス達は完全には離れたがらなかった。気になるらしい。でも、私が手で示すと、少しずつ後ろへ下がる。一頭だけ、彼女の髪をもう一度匂いで確認してから離れた。

 

私は彼女の状態を見る。ここで長く処置するより、温かい場所へ運んだ方がいい。ただし、揺らしすぎるのもよくない。

 

シルヴィアで運べば早い。でも、竜の背や爪で運ぶのは、この人にとって負担も恐怖も大きすぎる。エクウスなら、少なくとも見た目は馬だ。この人が途中で目を覚ましても、馬に近い存在ならまだ受け入れやすいかもしれない。

 

私は一頭のエクウスを見る。

 

「手伝ってくれる?」

 

エクウスは耳を動かした。分かっているのかは微妙だ。けれど、逃げない。

 

私は彼女を慎重に抱き起こした。軽い。人間は、こんなに軽かっただろうか。力を入れすぎると壊してしまいそうで、少し怖い。

 

持ってきていた布をかける。濡れた身体を少しでも風から守るためだ。それから、エクウスの背に慎重に乗せる。落ちないように支え、布で軽く固定する。強く縛りすぎない。呼吸の邪魔にならないように。

 

「ゆっくりね。走らないで」

 

エクウスが鼻を鳴らす。シルヴィアが横から見ている。自分が運んだ方が早い、と思っている顔だった。

 

「早さより、揺れないこと」

 

そう言うと、シルヴィアは少しだけ顔を背けた。でも、黙ってついてくる。

 

帰り道は、慎重だった。エクウスの歩みに合わせて進む。シルヴィアは少し離れた位置で、低く、こちらを見ながら歩いている。威圧感を抑えているつもりなのだと思う。それでも十分大きいが、彼女なりに努力はしてくれている。

 

私は彼女の呼吸を何度も確認した。浅い。けれど、途切れてはいない。

 

途中で彼女の手が少し動いた。意識が戻ったのかと思ったが、すぐにまた力が抜ける。

 

「もう少しだから」

 

聞こえているか分からない。でも、声をかける。

 

家に近づくと、正門のカイザーが顔を上げた。私はすぐに声を出す。

 

「カイザー、少しそのまま。近づかないで」

 

カイザーは動かなかった。ただ、片目でこちらを見る。その瞳が彼女へ向いた時、私は改めて思った。

 

外の人間にとって、この光景は怖い。

 

正門にギガノトサウルスがいる。高所にはワイバーン。少し離れた場所に大型の戦闘組。家の中には、見たこともない生き物達。私にとっては大切なうちの子達だ。けれど、事情を知らない人間から見たらどうだろう。

 

たぶん、ここは怪物の巣にしか見えない。私はそのことを、今までよりはっきり意識した。

 

「みんな、少し離れてね。怖がらせるかもしれないから」

 

小型組が興味を持って近づきかける。私は手で止めた。ドードーがぴ、と鳴く。

 

「あとで。今は駄目」

 

シルヴィアも扉の近くまで来ようとする。

 

「シルヴィアは外」

 

不満そうな鳴き声。

 

「外」

 

もう一度強く言うと、しぶしぶ扉の外で止まった。

 

主任はすでに動いていた。入り口近くの静かな部屋。そこに布が敷かれている。水の入った容器。乾いた布。火を入れるための準備。着替え代わりに使えそうな布。

 

私は少しだけ目を見開く。

 

「主任……準備早い」

 

主任は片手を上げた。相変わらず、何も言わない。でも、恐ろしく助かる。

 

私はエクウスから下ろし、部屋の中へ運んだ。この部屋なら、大型組の気配から少し離れている。外にも出やすい。私も様子を見に来やすい。

 

寝床へ横たえる。濡れた布を外せる範囲で外し、乾いた布で包む。必要以上に触らない。首元の印は、そのままにする。

 

冷えた手を布で包む。濡れた髪を軽く拭く。呼吸を見る。目立つ怪我がないか確認する。腕に擦り傷。肩に打ち身らしき跡。足にも小さな傷。ただ、大きく出血している場所は見当たらない。一番の危険は、冷えと衰弱だと思う。

 

水を少しだけ口元へ運ぶ。飲ませすぎない。むせないように。喉が小さく動いた。

 

「よし……」

 

少しだけ安心する。部屋の外では、色々な気配が集まっていた。心配しているのか、興味があるのか。たぶん両方だ。

 

「静かに。近づきすぎないで」

 

外で小さな足音が下がる。シルヴィアの気配だけは窓の外に残っていた。近い。でも、顔を出さないだけ我慢している。

 

「シルヴィアも、ありがとう」

 

窓の外で喉を鳴らす音がした。

 

私は視線を戻す。人間だ。この島で、初めて見た外の人間。海の向こうには人がいる。船があり、布があり、首に印をつけた人がいる。

 

でも今は、この人を死なせないことが先だ。

 

私は布を整え、火の位置を確認し、部屋の空気を温める。彼女の呼吸は、少しだけ落ち着いてきたように見えた。

 

しばらくして、そのまぶたがかすかに震えた。彼女は、薄く目を開けた。

 

 

最初に見えたのは、知らない天井だった。

 

木と石で作られた部屋。柔らかい布。暖かい空気。一瞬、助かったのだと思った。海ではない。砂浜でもない。冷たい波もない。

 

身体はまだ重い。喉も痛い。けれど、寒さは少し和らいでいる。

 

次に、人影が見えた。白銀の髪。自分より年下に見える少女。知らない服装。こちらを覗き込む、少し心配そうな顔。

 

人だ。そう思いかけた。

 

けれど、その直後に、別の気配が押し寄せてきた。

 

窓の外。何か巨大なものがいる。扉の向こう。低い呼吸。遠くの石床を踏む、重い足音。翼が動く音。普通の獣ではありえないほど、圧倒的に大きな気配。

 

指が震えた。ここはどこなのか。自分は何に囲まれているのか。

 

窓の外で、影が動いた。竜。そうとしか思えない輪郭が、一瞬だけ見えた。さらに遠くから、腹の底に響くような低い息遣いが届く。巨獣。

 

彼女は、息を呑んだ。

 

目の前の少女は、自分より年下に見える。小柄で、声を荒げてもいない。手を上げてもいない。むしろ、自分を助けようとしてくれたのかもしれない。

 

けれど、この少女の周囲にいるものが異常すぎた。竜。巨獣。見知らぬ魔物達の気配。そして、その気配は目の前の子を襲っていない。むしろ、少女の周りに控えているように感じる。この少女が、それらを従えているのだろうか。

 

そう思った瞬間、恐怖が胸を締めつけた。叫びそうになる。後ずさろうとして、身体が動かない。喉が震える。

 

けれど、彼女は罵らなかった。魔物、とも。化け物、とも。悪しきもの、とも。言わなかった。

 

恐怖はある。身体は震えている。目の端に涙が光るほど怖い。それでも、恐怖だけで目の前の相手を断じる言葉に逃げなかった。

 

震える手を胸元へ伸ばした。そこにある聖印を固く握る。

 

「どうか……」

 

声はひどく掠れていた。それでも、必死に祈りの形を取ろうとする。

 

「どうか、私が……恐怖で、過ちを犯しませんように」

 

 

言葉は、なんとか聞き取れた。

 

私は、少しだけ息を止めた。

 

目の前のお姉さんは、震えている。明らかに怯えている。それでも、こちらを罵らない。拒絶の言葉を投げつけない。ただ、何かに祈っている。

 

「どうか……この方が、悪しきものではありませんように」

 

彼女の指が、聖印を強く握る。その声は弱い。けれど、ただ自分を助けてほしいだけの祈りではなかった。

 

恐怖で間違えないように。目の前の相手を、恐怖だけで傷つけないように。そんな祈りに聞こえた。

 

怖がられている。当然だ。知らない場所で目覚めたら、竜の影があり、巨獣の足音があり、よく分からない少女がそばにいる。怖くないはずがない。

 

私は、ゆっくり一歩下がった。できるだけ、急に動かないように。

 

「大丈夫」

 

声を落として言う。目の端に涙が光りながらも、こちらから目を逸らさない。

 

「助けただけ。怖がらせるつもりはないよ」

 

そう言ってから、自分の言葉が足りないことに気づく。相手がどこまで理解できるのかも分からない。それでも、強い声は出したくなかった。

 

「ここは……私の家。外の子達も、襲わせない。だから、今は休んで」

 

窓の外で、シルヴィアがわずかに動いた気配がした。私はそちらへ視線だけ向ける。

 

「シルヴィア、下がって」

 

少し遅れて、巨大な気配が窓から離れる。彼女の呼吸が、ほんの少しだけ変わった。

 

私はさらに少し距離を取った。扉の外の気配にも声をかける。

 

「みんな、静かに。近づかないで」

 

小さな足音が遠ざかる。高所の翼の音も、少し静かになった気がした。

 

それでも、この家の音は消えない。遠くのカイザーの呼吸。外周を歩く重い足音。水場の音。窓の外の風。海の方から届く波の音。

 

私にとっては、温かい家の音だった。けれど、目の前の彼女にとっては、理解できない巨獣達の気配なのだろう。同じ場所にいるのに、見えているものがまるで違う。私は、そのことを初めて痛烈に意識した。

 

彼女は聖印を握ったまま、まだ震えていた。けれど、こちらから目を逸らさなかった。怯えながら。祈りながら。それでも、恐怖だけで私を断じようとはしていなかった。

 

私はゆっくり息を吐く。

 

「大丈夫。今は、何もしなくていい」

 

そう言って、寝床のそばに置いた水を少しだけ近づける。

 

「水。飲めそうなら」

 

すぐには動かなかった。祈る指が、まだ震えている。私はそれ以上近づかなかった。

 

外では、まだ家族達の生活音が続いている。私にとっては、いつもの音。彼女にとっては、恐ろしい音。

 

この家が外の人間にはどう見えるのか。初めて、その視線の重さを感じた。

 

彼女は震えながら、もう一度小さく祈った。

 

「どうか……」

 

私はその祈りを、黙って聞いていた。




**エクウス**
ARKに登場する馬です。

「エクウス」という名前は、現実の馬の仲間を含む分類名でもあります。
学名では、馬・ロバ・シマウマなどを含むグループが **Equus** と呼ばれます。家畜馬は分類によって **Equus caballus**、または **Equus ferus caballus** と表記されることがあります。

ARKのエクウスは、簡単に言えば馬そのものです。見た目は一般的なサラブレットより現存する唯一のウマの野生種のモウコノウマに近いです。
移動速度とスタミナに優れ、背中に乗って移動できるほか、蹴りで相手を気絶させることもできます。専用サドルを使うと、移動しながら薬品などを作れる簡易作業台のような役割も持ちます。

まとめると、ARKにおけるエクウスは、
**移動・運搬・簡易クラフトに役立つ、馬型の実用生物**
です。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。