最初に目に入ったのは、見覚えのない天井だった。
木と石で組まれた部屋に、暖かい空気がこもっている。身体には柔らかい布がかけられていて、私は一瞬だけ、助かったのだと思った。
ここは海の中でも、砂浜でもない。冷たい波が足をさらっていくこともなかった。それでも身体はひどく重く、喉は焼けたように痛んで、指先にはまるで力が入らない。胸の奥には、海水を飲んだあとのような苦しさがまだ残っていた。
寒さだけは、少し和らいでいた。濡れた服の冷たさは遠ざかり、代わりに乾いた布が肌を包んでいる。髪にはまだ潮の匂いが残っていたけれど、頬に張りつくほどには濡れていなかった。
誰かが助けてくれたのだ。そう理解しかけたところで、視界の端に人影が映った。
寝床から一歩ほど離れたところに、白銀の髪の少女が座っていた。私より年下に見える、まだ幼さの残る顔立ちだったけれど、その瞳には不思議な落ち着きがあった。両手は膝の上にそろえて置かれていて、何も持っていないことが、こちらからでもはっきりと見えた。
心配そうに、こちらを見ている。少なくとも、そこに敵意はなかった。
人だ、と思いかけたその直後に、別の気配が押し寄せてきた。
窓の外に、何か巨大なものがいる。扉の向こうからは低い呼吸が聞こえ、遠くの石床を重い足音が踏み、高い場所では翼が空気を打っていた。どれも、普通の獣ではありえないほど大きな気配だった。
布の上で、指先が震えて止まらなかった。ここはどこで、私はいったい何に囲まれているのだろう。
窓の外で影がわずかに動き、竜としか思えない輪郭が一瞬だけ見えた。さらに遠くからは、腹の底に響くような息遣いが届いてくる。竜と巨獣に囲まれているのだと分かって、私は息を呑んだ。
目の前の少女は小柄で、声を荒げてもいなければ、手を上げてもいない。むしろ、私を助けてくれた人なのかもしれなかった。けれど、この少女の周りにいるものが、あまりにも異常すぎた。
しかもその気配は、少女を襲おうとはしていない。むしろ少女の周りに控えているように感じられた。この少女が、それらを従えているのだろうか。
そう思った瞬間、恐怖が胸を締めつけた。叫びそうになり、後ずさろうとしても身体は動かず、喉だけが震えた。
それでも、私は罵らなかった。魔物とも、化け物とも、悪しきものとも、口にはしなかった。
怖いのは本当で、身体は震え、涙が滲むほどだった。それでも、恐怖だけで目の前の相手を断じる言葉に逃げてはいけないと思った。
この少女は、私を助けてくれたのかもしれない。冷えた身体を温め、乾いた布をかけ、水を用意して、近づくものを部屋の外に留めてくれているのかもしれない。それなら最初に見るべきなのは、恐怖だけではないはずだ。救われたという事実を、見失ってはいけない。
震える手を胸元へ伸ばすと、そこにはまだ聖印があった。失くしていなかったことに、ほんの少しだけ息ができた。
「どうか……」
声は掠れていて、祈りの形を取ろうとしても、指が言うことを聞かなかった。
「どうか、私が……恐怖で、過ちを犯しませんように」
目の前の少女が、わずかに息を止めた気配がした。
「どうか……この方が、悪しきものではありませんように」
それは、ただの命乞いではなかった。助けてほしい、怖い、帰りたいという気持ちは確かにある。けれどそれ以上に、恐怖で目を曇らせたくなかった。救われた事実を恐怖で塗り潰したくなかったし、私を害していない相手を、最初から悪しきものと決めつけたくなかった。
少女は困ったように私を見ていた。膝の上の手がほんの少しだけ握られて、それから、ゆっくりと唇が開いた。
「大丈夫」
落とした声は、思っていたよりもずっと柔らかかった。
「助けただけ。怖がらせるつもりはないよ」
恐る恐る少女の顔をうかがってみても、その声に、今すぐ危害を加えるような響きはなかった。けれど扉の向こうには理解できない気配があり、窓の外でも巨大な影が動いているのだから、怖くないはずがなかった。
少女は少し迷うように、次の言葉を探した。
「ここは……私の家。外の子達も、襲わせない。だから、今は休んで」
窓の外で、また何かが動いた。私の身体が強張ったのに気づいたのだろう、少女はすぐに窓の方へ目を向けた。
「シルヴィア、下がって」
名前を呼ばれた何かが、少し遅れて窓から離れていく。巨大な気配が遠ざかっただけで、呼吸がわずかに楽になった。
少女は、扉の外にも声をかけた。
「みんな、静かに。近づかないで」
小さな足音が遠ざかっていき、高い場所の翼の音も、少しだけ静かになった気がした。
それでも、気配が消えたわけではない。遠くにはまだ重い呼吸があり、石床を踏む足音があり、水場の音と、外壁を撫でる風の音が続いている。少女にとっては、きっとそれが当たり前の音なのだろう。けれど私にとっては、知らない場所の、理解できない巨獣達の音だった。同じ部屋にいても、見えている世界がまるで違っていた。
少女は、寝床のそばに置いてあった器を、少しだけこちらへ寄せた。
「水。飲めそうなら」
喉はひどく渇いていたのに、すぐには動けなかった。
「あ……りがとう、ございます」
掠れた声でそう言って器に手を伸ばそうとしたけれど、腕がうまく上がらない。
少女が、腰を浮かせかけた。それだけで、私の身体は反射的に強張った。
その一瞬、少女の肩もかすかに跳ねたように見えた。膝の上にあった右手が腰の方へ動きかけ、そこに短い刃物の柄がのぞいている。けれどその手は、柄に触れる前に膝の上へ戻った。指が一度だけ開かれて、何も持っていないことを見せるように、静かにそろえられる。
当然のことだ、と私は思った。見知らぬ人間が浜に流れ着いたのだから、警戒されない方がおかしい。
少女は浮かせかけた腰を下ろして、それから、おずおずと口を開いた。
「あ、えっと……ごめんなさい。手伝っても大丈夫ですか」
その問いに、私は一瞬言葉を失った。無理に近づくのではなく、許可を求めている。この少女は私が怯えていることを分かっていて、そのうえで、慎重に距離を測ろうとしているのだ。
私は少し迷ってから、ゆっくりと頷いた。
「……お願い、します」
少女は器を手に取り、慎重に近づけてきた。動きは少しぎこちなく、慣れていないのだと思った。人を看病することにか、人と話すことにか、あるいは怯えた相手との接し方にか。どれなのかは分からなかったけれど、その手は決して乱暴ではなかった。
少しずつ口に含んだ水は喉にしみて痛かったけれど、清らかな冷たさが、身体の奥へ落ちていく感覚があった。
少女は器を下ろすと、また一歩ぶんの距離に戻った。
「まだ動かない方がいいです。冷えてたし、倒れてたので」
丁寧なようで、どこか不慣れな言い方だった。私は少しだけ呼吸を整えて、考えた。
恐怖は消えていないけれど、会話はできる。この少女に、少なくとも今すぐ私を害するつもりはない。それなら、礼を失ってはいけなかった。
助けられたのなら、せめて名乗って礼を言わなければならない。そう思って身体を起こそうとしたけれど、肩に力を入れた途端に、視界が激しく揺れた。
「動かないで」
命令ではなく、焦りと心配の混じった、慌てた声だった。
「まだ、たぶん無理です」
私は情けなく息を吐いた。上体を起こそうとしただけで胸の奥がずきずきと痛むのだから、確かに無理だった。
せめて、この痛みだけでも和らげられたら。そう思って、いつものように身体の内側へ意識を向けた。治癒の術を組むときの、指先に温かいものが集まってくる感覚を待つ。
けれど、何も起こらなかった。
どれだけ内側を探っても、汲み上げられるものが残っていない。代わりにこめかみの奥が鈍く痛み、身体の芯に、海の冷たさとは違う寒気が広がっていった。術力を使い切ったときの、あの感覚だった。
それで、ようやく思い出した。暗い水の中で、私は何度も自分に術をかけ続けていたのだ。凍えて止まりそうになる身体を温め、水を吸った胸を少しでも楽にして、意識が途切れそうになるたびに、もう一度だけと術を重ねた。そうしていなければ、この島に流れ着く前に、私は冷たい海の中で息絶えていただろう。
最後の一滴まで使い果たして、私は浜に打ち上げられたのだ。だから今の私には、自分の傷ひとつ癒す力も残っていなかった。
「……失礼しました」
「いえ。えっと、寝ててください」
少女は、少し困ったようにそう言った。
布の中で指を握りながら、私は考えた。術は使えなくても、名乗ることはできる。自分が誰なのかを示して、助けられたことに礼を言うのは、今の私にできる最低限の礼儀だった。
「私は……リィナ、と申します」
少女の目が、少しだけ動いた。
「助けて、くださったのですね」
「えっと……はい。海岸に倒れていたので」
「ありがとうございます」
頭を下げようとしたけれど、やはり身体はうまく動かなかった。それを見て、少女がまた少し慌てる。
「そのままで。無理しないでください」
情けないと思いながらも、私は言われるまま力を抜いた。今は、その言葉に従うしかなかった。
少女は少し遅れて、自分の胸元に手を当てた。
「ライラ、です」
それだけの、短い名乗りだった。ライラ、と私はその名を心の中で繰り返した。巨獣達の気配に囲まれていながら、怯える私を責めず、水を差し出して、距離を取ってくれる少女の名前だった。
「ライラさん……」
そう呼ぶと、ライラは少しだけ瞬きをした。そう呼ばれることに慣れていないのかもしれない。そして、ほんの少し遅れて言った。
「リィナさん」
さん付けで返されて、少し意外に思った。年下に見えるのだから自然なことなのかもしれないけれど、この場所の異常さを考えれば、彼女がどんな立場の人なのかは分からない。それでもライラは、当たり前のようにそう呼んだ。
私は、慎重に彼女を観察した。白銀の髪に、少女らしい細い身体と、見慣れない服。目は穏やかだけれど、弱々しくはない。動きにはどこか鋭さがあって、私が少し身じろぎするたびに、その目が先に私の手元を確かめているような気がした。そして何より、扉の外にいる存在達を、少しも恐れていなかった。
不思議なことに、ライラは冷酷な支配者には見えなかったし、誰かを見下すような目もしていなかった。怯える私を笑うこともなく、むしろどうすれば怖がらせずに済むのか分からなくて、困っているように見えた。
それなのに、周りの気配はあまりにも恐ろしい。竜と巨獣と見知らぬ生き物達の、その中心に、この少女がいるのだ。
私は、恐怖と感謝の間で揺れていた。
この人は、私を助けてくれた。恐ろしい場所なのに、この部屋は温められていて、布も水も用意されている。扉の外の気配は今も怖いけれど、ライラはそれを遠ざけてくれている。その矛盾を、私はすぐには飲み込めなかった。
二人の間に、沈黙が落ちた。ライラも、何を話せばいいのか分からないようだった。普通なら、助けた側が状況を説明するのだろう。ここはどこで、自分は誰で、あなたはどうして倒れていたのか、と。けれどライラはそういう整った話し方をせず、ただ私の顔色を見て、体調を気にしていた。
その不器用さが、かえって少しだけ私を落ち着かせた。この人は、嘘の説明を用意しているわけではない。本当に、どう話せばいいのか分からないのだ。
それなら、私の方から尋ねるべきだろう。私は聖印を握ったまま、慎重に言葉を選んだ。
「あの……外にいらっしゃる方々は」
言いかけて、私は迷った。「方々」という言い方が正しいのかどうか、分からなかったからだ。魔物と呼ぶのは簡単だったけれど、それは今ここで使うべき言葉ではなかった。彼女は私を助けてくれた。その彼女が大切にしているものを、恐怖だけで悪しきものと呼ぶべきではない。
「あの方達は、ライラさんに……従っているのですか」
ライラは、少し困った顔をした。
「従ってる……」
その言葉を口の中で確かめるように繰り返してから、首を横に振る。
「たぶん、それとは違います」
「違う、のですか」
「はい」
ライラは、説明する順番を探すように少し考えた。
「一緒にいます」
「一緒に……」
「一緒に暮らしてます。ここに、寝る場所もあって、食べる場所もあって。外に出る子もいるし、中が好きな子もいます。海の子達は海にいて、カイザーは門のところが好きみたいで、シルヴィアは……近いです」
最後だけ、少し言い方が変わった。窓の外で何かが小さく喉を鳴らした気配がして、私の身体がびくりと震える。
ライラは、すぐに窓を見た。
「シルヴィア、まだ駄目」
外の気配が少しだけ遠ざかり、彼女は私へ視線を戻した。
「ごめんなさい。気にしてるだけだと思います」
「……シルヴィア、というのは」
「外にいる子です。竜……みたいに見えるかも」
竜みたい、どころではなかった。私には本物の竜にしか見えなかったし、それも滅多に人の目に触れない、希少な竜に近い何かのように感じられた。けれど私は返事に詰まりながら、その言葉を飲み込んだ。
「大切な……存在なのですね」
そう言うと、ライラは迷わず頷いた。
「はい」
今までで一番はっきりしたその返事に、私は思わず息を呑んだ。
恐怖が消えたわけではないけれど、ライラの表情を見れば分かった。外にいる竜のような存在は、彼女にとって恐怖の対象でも、道具でも、ただの戦力でもなく、大切な存在なのだ。
私は、少しずつ質問を重ねることにした。この少女は、自分から長く説明するのは得意ではないようだけれど、聞けばちゃんと答えてくれる。怖くても、聞かなければ分からない。そして分からないものを、恐怖だけで断じてはいけない。
「あの方達は……戦うための存在、なのですか」
ライラは、また少し考えた。
「戦える子はいます」
「戦える子」
「はい。カイザーとか、シルヴィアとか、ティラノ達とか。強いです。でも、戦うためだけではないです」
その視線が、少しだけ扉の方へ向いた。
「採取する子もいます。木を集める子とか、石を集める子とか。日向ぼっこする子も、寝てる子もいます。外に遊びに行く子も、家の中が好きな子もいます」
黙って聞きながら、私は気づいた。巨獣達の話をしているはずなのに、ライラの言葉は、軍勢を語るものではなかった。戦力や兵や配下といった言葉は一つも出てこない。出てくるのは寝床や日向ぼっこ、外に出る子と中が好きな子のことばかりで、それは、暮らしの話だった。
「では……この場所は」
私は思わず、部屋の中を見回した。
「ライラさんの、住まいなのですか」
「はい。まだ、名前はないですけど」
「名前がない」
「拠点、みたいな場所でした。でも、今は……家、だと思います」
家、という言葉に、胸の奥が少し揺れた。
竜の気配があり、巨獣の足音があり、外には理解できない生き物達がいる。私にとっては、まだ恐ろしい場所だ。それでもライラにとってここは家で、その家には、彼女の大切な存在達が暮らしているのだ。
私は、少しだけ視線を落とした。
「ライラさんは、あの方達を……何と呼んでいるのですか」
ライラは不思議そうに瞬きをして、何の迷いもなく答えた。
「うちの子達です」
あまりにも自然な言い方だった。
うちの子達、というその言葉は、支配者が配下を呼ぶ言葉でも、軍を率いる者が兵を呼ぶ言葉でもない。もっと近くて、暮らしに根ざした言葉だった。愛情と責任と、当たり前の親しさが、その中に混じっていた。
ライラは少し考えてから、付け加えた。
「家族、みたいなものです」
その声は、さっきよりもさらに静かだった。
「たぶん。私にとっては」
扉の方へ目を向けると、その向こうには、まだ恐ろしい気配があった。今すぐ扉を開けたら、きっと足がすくむだろう。窓の外にいたシルヴィアという竜を正面から見れば、声も出なくなるかもしれないし、遠くにいるカイザーの姿など、想像するだけで背筋が冷えた。
それでも、ライラの言葉は嘘には聞こえなかった。
彼女は、彼らを支配しているのではない。少なくとも、自分ではそう思っていない。一緒に暮らし、食べるものを気にかけ、寝る場所を用意して、外へ出た子が帰ってこなければ探しに行く。怖がらせるかもしれないからと部屋には近づかせず、それぞれの好きな場所を覚えている。それは確かに、家族という言葉の似合う関係なのかもしれなかった。
けれど、私はその言葉をそのまま口にはしなかった。
ライラにとっては家族でも、私にとってはまだそうではない。まだ怖くて、まだ何も知らなくて、扉の外の呼吸だけで身体が強張る。そんな私が彼らを「家族」と呼ぶのは、軽すぎる気がした。ライラの大切な言葉を、外の人間が勝手に借りるべきではないと思った。
だから私は、慎重に別の言葉を探した。
魔物は、恐怖で相手を断じるための言葉だから違う。従魔も、従っているのではないとライラが言った以上、やはり少し違う。眷属では支配や従属の響きが強すぎて、目の前の少女の不器用な優しさには似合わない。そして家族は、ライラの言葉だった。外の私が使うには、まだ近すぎる。
「でしたら……」
私は、ゆっくりと語りかけるように言った。
「魔物でも、従魔でも、眷属でもなく」
ライラが顔を上げて、こちらを見る。
「ファミリア、と呼ぶのが近いのかもしれません」
「ファミリア」
初めて聞く言葉を口の中で確かめるように、ライラはそれを繰り返した。
「家族に近く、共に在るもの。けれど、私のような外の者が呼ぶための言葉としては……その方が、ライラさんの想いを傷つけずに済む気がします」
言ってから、少し不安になった。この場所のことを何も知らない私が、彼女と彼らの関係に名前をつけるなど、傲慢だっただろうか。
黙っていられなくなって、私はすぐに付け加えた。
「もちろん、私が勝手に決めることではありません。ただ……恐怖だけで呼ぶ名ではなく、あなたの言葉に近い呼び方を探すなら、そういう言葉もあるのではないかと」
ライラは、しばらく黙っていた。その間に扉の外で何かが小さく動く気配がして、私は息を詰めた。
ライラは、もう一度その言葉を呟いた。
「ファミリア」
少し長い沈黙のあとで、ライラは小さく頷いた。
「……うん」
その声に、嫌がるような響きはなかった。
「嫌じゃないです。それなら、いいと思います」
胸の奥の緊張が、少しだけ緩んだ。その瞬間、扉の外の気配までもが、ほんの少し違って感じられた。
恐怖が消えたわけではない。シルヴィアという竜の気配はまだ怖いし、カイザーという巨獣の呼吸も、理解できないほど重い。この家に暮らす多くの生き物達のことを、私はまだ何も知らなかった。
けれど、それらを呼ぶ言葉ができた。名前をつけることは恐怖を消すことではないけれど、恐怖だけで塗り潰さないための一歩にはなる。魔物でも従魔でも眷属でもなく、ライラの家族に近くて、けれど外から呼ぶための言葉。
ファミリア。
私はその言葉を、心の中でそっと繰り返した。
部屋の空気が、少しだけ緩んだ気がした。もちろん、状況がよくなったわけではない。身体はまだ重く、外は恐ろしく、ここがどこなのかも、自分が帰れるのかどうかも分からない。それでも名を伝えて、名を聞いて、扉の外の存在達を恐怖だけで呼ばないための言葉を得た。それだけで、呼吸は少ししやすくなった。
私は、自分のことを説明しようとした。どこから来たのか、なぜ海にいたのか、何が起きたのか。助けられたのなら、話さなければならないことはいくつもある。
「私は……」
声を出した瞬間に喉がひどく痛んで、咳が出た。胸の奥が軋み、私は布を握りしめて、何とか続けようとした。
「すみません。私は、外の……」
「今はいいです」
遮るようにすぐそう言われて、私は目を瞬かせた。
「でも……説明、しなければ」
「詳しい話は、あとでいいです」
少しぎこちないけれど、はっきりとした声だった。
「今は休んでください。リィナさんが倒れたら困るので」
その言葉に、私はしばらく何も言えなかった。
ここがどこか、私が何者か、海の向こうに何があるのか。そうしたことを問い詰められるのだと思っていた。けれど彼女はそれより先に、私の体調を選んだのだ。自分の知らない外の話よりも、目の前で弱っている人間を休ませることを選んだ。
それが、少し不思議だった。この少女は、きっと客人を迎えることに慣れていないのだろう。言葉は少し足りなくて、説明も整っていない。けれど最初に見るのは体調で、恐怖を責めず、無理に話を引き出そうともしない。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ありがとうございます」
「はい」
ライラは短く頷いて、扉の方を見た。
「みんな、もう少し静かに」
外の気配が、さらに少し下がった。窓の外の大きな影も離れていったのだろう、部屋の中の圧がほんの少し薄くなる。
恐ろしいことは変わらない。竜の気配も、巨獣の足音も、理解できない生き物達の存在も、まだ怖かった。けれどライラは、その恐ろしさが私に向かないようにしてくれている。部屋に入れず、近づけず、静かにさせて、怖がる私を責めることもしない。
私は聖印を握って、恐怖だけでこの人を測ってはいけないと、もう一度自分に言い聞かせた。
もちろん、すぐに信じきることはできなかった。ここは危険な場所で、外の存在達は恐ろしく、衰弱した私には逃げることもできない。それでも、救われた事実を見失ってはいけないと思った。
眠気が戻ってきて、まぶたが重くなっていく。身体の方が、もう限界だと訴えていた。
「眠れそうなら、寝てください」
すぐ近くで、ライラの静かな声がした。
「……はい」
小さく答えて目を閉じても、扉の外では、まだ家の音が続いていた。遠くの重い呼吸と、高い場所の翼の音と、水場の音と、風の音。ライラにとってはきっといつもの音で、私にとっては、まだ恐ろしい音だった。
けれどその恐ろしい音には、ひとつの名前がついた。
ファミリア。
それは恐怖を消す名前ではなかったけれど、恐怖だけで塗り潰さないための、最初の言葉だった。
その言葉を胸の中で繰り返しながら、私は再び、浅い眠りへ落ちていった。