廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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海の向こう側の話

あの日から、数日が経っていた。

 

リィナはまだ、完全に回復したわけではない。

 

長く立っていれば足元がふらつくし、少し話し続けるだけでも喉が掠れる。胸の奥には、海水を飲み込んだ時の痛みがまだ薄く残っていた。

 

けれど、最初に目覚めた時と比べれば、ずいぶんましになっている。

 

水は飲める。食事も少しなら取れる。部屋の中を歩く程度なら、誰かに支えられなくても動けるようになった。

 

それに、何より。

 

この場所の『音』に、少しだけ慣れてきた。

 

遠くの石床を踏む大きな足音。高所で翼が動く音。水場の流れる音。正門の方から時折響く、地面を震わせるような低い呼吸。

 

初めて目覚めた時、それらはすべて恐怖でしかなかった。

 

今でも怖くないわけではない。

 

特に、竜のようなシルヴィアの影が窓の向こうを横切ると、反射的に身体が固まる。正門の方にいるというカイザーの気配は、姿を見なくても重すぎた。もし正面から見たら、リィナは立っていられるのだろうかと何度も思った。

 

けれど、彼らが勝手に部屋へ入ってくることはなかった。

 

扉の向こうで小さな足音が近づくことはあっても、ライラが声をかければ離れていく。窓の外にシルヴィアの気配が近づくことはあっても、ライラが「まだ駄目」と言えば、しぶしぶ遠ざかる。

 

彼らは恐ろしい。しかし、無差別に襲ってくる存在ではない。

 

少なくとも、この家の中では、ライラの言葉を聞いている。

 

そして、ライラはリィナが怖がることを決して責めなかった。

 

「今日は、少し外の空気を吸ってみますか」

 

そう言われたのは、朝の確認が一段落した頃だった。

 

リィナは寝台の上で、ゆっくり瞬きをした。

 

「外、ですか」

 

「はい。外と言っても、遠くには行きません。海が見える場所があって……えっと、静かです。大きい子達は近づけないので」

 

ライラは少し言葉を探しながらそう言った。

 

流暢な説明ではない。だが、リィナには分かった。ライラは、リィナが怖がらない場所を選ぼうとしてくれている。

 

完全な密室ではない場所。けれど、巨獣達の気配が近すぎない場所。海と空が見えて、圧迫感の少ない場所。

 

その不器用な配慮が、リィナにはありがたかった。

 

「……はい。少しなら」

 

答えると、ライラはほっとしたように頷いた。

 

「無理だったら、すぐ戻りましょう」

 

「ありがとうございます」

 

「水、持っていきますね」

 

ライラはそう言って、小さな水の容器と布を用意した。

 

リィナが立ち上がる時も、すぐに手を伸ばすのではなく、まず様子を見る。ふらついた時だけ支えられる距離にいる。

 

その距離感が、リィナには少し不思議だった。

 

助けたいのに、近づきすぎない。守ろうとしているのに、押しつけない。

 

ライラは、外の人間との付き合いに慣れていないのだろう。だが、相手が怯えていることを理解した上で、どうすれば怖がらせずに済むかを真剣に考えている。

 

それが、言葉よりも確かに伝わってきた。

 

部屋の外へ出ると、リィナは一瞬だけ足を止めた。

 

通路は広い。

 

人間の屋敷としては広すぎる。天井も高く、扉も大きい。床には、明らかに人間ではない足跡や爪の擦れた跡が残っている。

 

ここは、人だけのために作られた場所ではない。

 

だが、荒れてはいなかった。

 

石床は綺麗に掃除されている。水場から伸びる溝には澄んだ水が流れ、壁際には布や木材が整理されていた。通路の端には、小さな生き物達用なのか、低い出入り口も見えた。

 

恐ろしい場所。それは変わらない。

 

しかし同時に、ここは『暮らしの場所』でもあるのだと、リィナは少しずつ理解し始めていた。

 

遠くで、小さな鳴き声がした。

 

リィナの肩がわずかに揺れる。

 

「大丈夫です。小さい子です」

 

ライラがそっと言った。

 

「近づかないように言ってあります」

 

「……はい」

 

小さい子。

 

ライラは、あの見知らぬ生き物達をそう呼ぶ。リィナにはまだ、その感覚は分からない。

 

けれど、ライラの声は自然だった。

 

まるで本当に、家の中にいる幼い子を案じるような、温かい声音だった。

 

通路を抜けると、小さなテラスに出た。

 

そこは、拠点の入り口近くから少し脇へ伸びた場所だった。高所というほどではないが、周囲より少し開けていて、海が見える。

 

広すぎない。けれど、閉じ込められた感じもない。

 

石の床は乾いていて、低い壁の向こうには草地と海岸線が見えた。さらにその向こうに、青く広がる海がある。

 

風が吹く。潮の匂いがした。

 

リィナの指が、思わず服の布を握った。

 

あの海だ。

 

彼女を呑み込み、船を砕き、ここへ運んだ海。

 

波は今、穏やかに見える。

 

けれど、リィナの耳にはまだ、嵐の夜の音が残っていた。

 

黒い雲。割れるような雷鳴。傾く船。叫び声。砕ける木材。冷たい水。

 

海は、帰るための道でもある。けれど同時に、彼女を殺しかけたものでもあった。

 

「大丈夫ですか」

 

ライラが聞いた。

 

リィナはゆっくり息を吸い、吐いた。

 

「……はい。少し、思い出しただけです」

 

「戻りますか」

 

「いえ。ここで、大丈夫です」

 

そう答えると、ライラは頷き、テラスに置かれた椅子を少し引いた。

 

リィナが座るまで、ライラは急かさなかった。

 

二人きりだった。

 

遠くには、確かにファミリア達の気配がある。高所の方で翼が畳まれる音。正門の方の低い呼吸。さらに奥のどこかから聞こえる、小さな鳴き声。

 

だが、このテラスには近づいてこない。シルヴィアもいない。

 

それが、ライラの配慮なのだとリィナには分かった。

 

「改めて」

 

リィナは、海を一度見てからライラへ向き直った。

 

「助けてくださり、ありがとうございました」

 

頭を下げようとすると、ライラが少し慌てた。

 

「あ、無理しなくていいです」

 

「もう、少しは動けますから」

 

「でも、まだ顔色がよくないです」

 

そう言われて、リィナは小さく苦笑した。

 

自分より年下に見える少女に心配されている。けれど、不思議と嫌ではなかった。

 

「ライラさんは、いつも体調のことを先に気にしてくださいますね」

 

「えっと……倒れていたので」

 

ライラは少し困ったように答えた。

 

「それに、リィナさんは人間なので」

 

「人間、ですか」

 

「はい。軽いし、細いし、冷えていたので。ちゃんと見ないと危ないと思って」

 

その言い方は少し独特だった。

 

リィナは一瞬戸惑い、それから納得する。

 

ライラの周りにいるのは、竜や巨獣や、見たこともない生き物達だ。彼女にとって、人間の身体はあまりにも脆く見えるのだろう。

 

見下しているのではない。

 

本当に、壊れやすいものを扱うように気をつけているのだ。

 

「海岸で私を見つけてくださったのは、あのお馬さん達でしたね」

 

リィナが言うと、ライラの表情が少し和らいだ。

 

「はい。ご飯の時間に戻ってこなくて、探しに行ったら、リィナさんがいました」

 

「初めて会ったファミリアがあの子たちでよかったです。私は、あの子達を見て安心してしまいました」

 

リィナは少しだけ海岸の方を見る。

 

意識を失う直前、温かい鼻息が頬に触れたことを覚えている。

 

あの魔境のような海岸で、初めて見た、理解できる形。

 

それだけで、張り詰めていた心が緩んだのだ。

 

「あの子達にも、お礼を言わなければなりませんね」

 

ライラは少し困ったように笑った。

 

「たぶん、助けようと思ってたわけじゃないと思います」

 

「そうなのですか」

 

「知らないものを見つけて、気になって、帰るのを忘れてた感じです」

 

リィナは思わず瞬きをした。そして、少しだけ笑った。

 

「……そうですか」

 

「でも、そのおかげで見つけられたので。あとで褒めました。ご飯の時間には戻ってきてほしいですけど」

 

その言葉には、本当に日常の響きがあった。

 

危険な島。謎の巨獣達。竜の気配。

 

その中で、馬達が好奇心に負けて食事の時間を忘れ、ライラが少し困りながら褒める。

 

恐ろしいはずの場所に、そんな普通の生活がある。そのことが、リィナにはまだ少し不思議だった。

 

穏やかな沈黙が落ちる。

 

風が二人の間を抜け、海の匂いを運んできた。

 

リィナは、話さなければならないと思った。

 

彼女は助けられた。名も告げた。けれど、まだ自身がどこから来た何者なのか、きちんとは話していない。

 

「ライラさん」

 

「はい」

 

「少し、私のことをお話ししてもよろしいでしょうか」

 

ライラはすぐには頷かなかった。まず、リィナの顔色を見る。

 

「疲れたら、途中でやめましょう」

 

「はい」

 

「水、飲みますか」

 

「少しだけ」

 

ライラが水を差し出す。

 

リィナはゆっくり飲み、喉を湿らせた。それから、改めて姿勢を正す。

 

「私は、リィナ・エルシアと申します」

 

ライラは静かに聞いていた。

 

「ルミナリア聖教会の、王国支部に属しています」

 

「ルミナリア聖教会……王国支部」

 

ライラが聞き慣れない言葉を確かめるように繰り返す。

 

リィナは頷いた。

 

「大陸各地に支部を持つ、大きな教会組織です。私が所属しているのは、その中の王国支部になります」

 

「王国支部、ということは……海の向こうに王国があるんですね」

 

「はい」

 

ライラの問いは実務的だった。

 

信仰の意味や組織の力関係ではなく、まず場所を確認している。リィナはそれが少しライラらしいと思った。

 

「海の向こうには、人が暮らす国があります。町があり、港があり、教会があり、神学校があり、施療院や孤児院もあります」

 

ライラは海を見た。

 

その向こうに、まだ見ぬ人間社会を思い描こうとしているようだった。

 

「人が、いるんですね」

 

「はい。たくさん」

 

ライラは少し黙った。

 

この島が全ての少女にとって、それはどんな響きを持つのだろう。リィナには分からない。

 

ただ、ライラがすぐに喜んだり、怖がったりしなかったことだけは分かった。情報として受け止め、静かに考えている。

 

「それから……私は、聖女と呼ばれています」

 

リィナがそう言うと、ライラは目を向けた。

 

「聖女」

 

「はい。ただ、少し説明が必要かもしれません」

 

リィナは小さく息を整えた。

 

この称号について話すのは、いつも少し難しい。自慢に聞こえてはいけない。けれど、軽く扱ってもいけない。

 

それは一人の名誉ではなく、多くの者の信頼と責任が乗った称号だからだ。

 

「聖女とは本来、長年シスターとして地域や国に奉仕し、多くの人々から功績を認められ、さらに教会から正式に認定された者が得る称号です」

 

ライラは黙って聞いている。

 

「治癒、救護、祈り、民衆への奉仕。それらを長く積み重ねた者に贈られる、とても重い称号です」

 

「リィナさんは、若いですよね」

 

「はい。ですから、私のように若くして認定されるのは珍しいことです。過去に前例がないわけではありませんが、多くはありません」

 

リィナは視線を少し落とした。

 

「私はまだ、その名に追いつこうとしている途中なのだと思います」

 

ライラは少し首を傾げた。

 

「途中」

 

「はい。称号をいただいたからといって、突然立派になるわけではありません。むしろ、いただいたからこそ、そこに恥じないように生きなければならないのだと思っています」

 

ライラはその言葉を、ゆっくり飲み込むように聞いていた。

 

「リィナさんは、どうして聖女になったんですか」

 

問いはまっすぐだった。責めるものでも、疑うものでもない。ただ知りたいという問いだった。

 

「私は、孤児でした」

 

リィナは静かに答えた。ライラの表情が少しだけ変わった。

 

「幼い頃から教会に育てられ、神学校へ通いました。もちろん、最初から何でもできたわけではありません。学ぶことは多く、覚えることも多く、何度もつまずきました」

 

思い出す。

 

薄暗い教室。祈りの声。古い書物。夜遅くまで灯した小さな明かり。傷を負った人々の手。うまく術が働かず、何度も悔しさを噛みしめた日々。

 

「救護や奉仕の功績も、認めていただきました。ですが、私の場合、もう一つ大きな理由があります」

 

「もう一つ」

 

「神学校にいた頃、いくつかの神聖術を開発し、既存の術を改良しました」

 

ライラが少しだけ反応した。

 

「神聖術」

 

「治癒や浄化、祈り、鎮静、慰霊などに関わる魔法を、私達は神聖術と呼んでいます。回復魔法も、その一つです」

 

「魔法」

 

ライラは、今度はその言葉を繰り返した。

 

知らない言葉というより、予想していたものが形になったような反応だった。

 

リィナは少し不思議に思ったが、続ける。

 

「はい、魔法です。その中でも、命や魂、祈りに深く関わる術を、広い意味で神聖術と呼びます。ルミナリア聖教会の術だけではありません。他の信仰や地域に由来するものも、広く見れば神聖術に含まれることがあります」

 

「リィナさんは、それを研究していたんですか」

 

「はい。現場で使いやすい形に整えたり、術式の負担を減らしたり、治癒の安定性を上げたり。そういった研究に関わっていました」

 

リィナは少しだけ苦笑した。

 

「もちろん、私一人の力ではありません。先生方や同級生、現場のシスター達、施療院の方々、多くの人に支えられました」

 

「でも、認められたんですね」

 

「はい。長年の奉仕とは少し違う形ですが、研究者としての功績も含めて、教会が認定したのだと思います」

 

自らそう言うのは、少しくすぐったかった。

 

リィナは天才ではない。少なくとも、自身ではそう思っていない。

 

才能がまったくなかったとは言わない。けれど、それだけで辿り着いたわけではない。

 

学び、失敗し、現場を見て、何度も直して、ようやく形にしたものがあった。

 

だから、聖女という称号は奇跡の証ではなく、積み重ねへの評価でもあるのだと、リィナは思っている。

 

「卒業と同時に聖女になったんですか」

 

「はい」

 

「すごいことなんですね」

 

「……重いことです」

 

リィナはそう答えた。

 

ライラは静かにこちらを見ていた。

 

「すごい、よりも、重い」

 

「はい。多くの人に期待されます。救えるはずだと思われます。正しくあるべきだと見られます。もちろん、それはありがたいことでもありますが……時々、己がその名にふさわしいのか、分からなくなることもあります」

 

海風が吹いた。

 

リィナは自らの手を見る。

 

この手で、どれだけ救えただろう。そして、どれだけ救えなかっただろう。

 

「でも、リィナさんは祈ってました」

 

ライラがぽつりと言った。

 

リィナは顔を上げる。

 

「怖かったのに、私のこと、悪いものって言わなかった」

 

リィナは少し息を止めた。ライラは、言葉を選ぶように続ける。

 

「だから、聖女って、そういう人なのかなって思いました」

 

リィナはすぐに返事ができなかった。胸の奥が、少し痛む。

 

「……私は、怖かっただけです」

 

「はい」

 

「今も、怖いです」

 

「はい」

 

「それでも、恐怖で間違えたくなかっただけです」

 

「それが、すごいと思います」

 

ライラの声は静かだった。飾り気がない。

 

だからこそ、リィナは少し困った。

 

「ありがとうございます」

 

小さく礼を言う。それ以上は、うまく返せなかった。

 

話を続けるために、リィナは水を少し飲んだ。喉はまだ少し痛む。けれど、話せないほどではない。

 

「卒業後は、王国支部の聖女として活動していました」

 

「何をするんですか」

 

「色々です。地方の教会を訪れて、視察や調査、指導を行います。神聖術の運用だけではなく、施療院や孤児院、地方教会の方針を見ることもあります」

 

「教会の方針も?」

 

「はい。人々のためにあるはずの場所が、きちんとその役目を果たしているかを確認する必要があります。時には、正さなければならないこともあります」

 

リィナはそこまで言って、少し言葉を止めた。

 

不正や権限の話を深くするには、まだ早い。ライラも、今聞いたところで困るだろう。

 

「それから、各国の研究機関や学校で、神聖術の専門家と共同研究をすることもありました。各地の神聖術を比べたり、現場で使いやすい形に整えたり」

 

「王国だけじゃないんですね」

 

「はい。王国内だけでなく、他国へ行くこともありました」

 

ライラは少し考えているようだった。

 

王国。教会。学校。研究機関。他国。

 

リィナの言葉から、海の向こうの輪郭を少しずつ組み立てているのだろう。

 

「海の向こうには、たくさんあるんですね」

 

「はい。町も、人も、国も。もちろん、良いことばかりではありませんが」

 

リィナは海を見た。自身が流れ着いた海。

 

あの向こうに、帰るべき場所がある。

 

「私は、沿岸の教会と施療院を訪ねる予定でした。慰問と、神聖術の運用確認、それからいくつかの調査を兼ねて」

 

「船に乗っていたのは、そのためですか」

 

「はい」

 

リィナは唇を軽く押さえた。まだ記憶は断片的だった。

 

「嵐に遭いました。そこから先は、あまりはっきりしません」

 

黒い雲。叫び声。砕ける音。傾く船。冷たい水。

 

思い出すだけで、胸が苦しくなる。

 

「船にいた他の方々がどうなったのかも、分かりません」

 

声が少し震えた。

 

ライラは、すぐに何かを言わなかった。大丈夫とも、きっと助かっているとも言わなかった。

 

それが簡単に言えることではないと、分かっているようだった。

 

「海岸に流れてきたものは、あとで確認します」

 

ライラは静かに言った。

 

「他に誰かいないかも、海の子達に見てもらいます」

 

海の子達。

 

リィナはその言葉に少しだけ身体を強張らせた。海の下にも、ライラのファミリアがいる。それを思い出したからだ。

 

しかし、同時に考える。彼女は、あの海から流れ着いたのだ。

 

もし他に誰かが海にいるのなら、人間の目よりも、海にいる彼らの方が見つけられるのかもしれない。

 

怖い。けれど、恐怖だけでは測れない。

 

「……お願いします」

 

リィナは小さく頭を下げた。

 

ライラは頷く。

 

「あとで伝えます。食べないものでも、変なものを見つけたら知らせてって」

 

リィナは一瞬意味が分からなかった。

 

ライラが少し目を逸らす。

 

「前に、食べる前に知らせてって言ったので。食べないものは知らせなくていいと思ったみたいで」

 

リィナは数秒考えた。それから、ようやく理解した。

 

海のファミリア達は、リィナを食べ物とも脅威とも思わなかった。だから知らせなかったのだ。

 

「……そういう、解釈だったのですね」

 

「たぶん」

 

ライラは少し困った顔をしていた。

 

リィナは思わず、ほんの少しだけ笑った。

 

恐ろしい話のはずなのに、どこかずれている。そのずれ方が、ライラと彼女のファミリア達の距離を表しているようでもあった。

 

笑ったことで、少し疲れが出た。

 

リィナは息を整える。ライラはすぐに気づいた。

 

「休みますか」

 

「いえ、もう少しだけ」

 

「無理しないでください」

 

「はい」

 

リィナは頷き、話を続ける。

 

「この海域については、私も詳しいわけではありません。ただ、船乗り達の間では避けられている場所だと聞いたことがあります」

 

ライラは海を見る。

 

「近づかない方がいい場所?」

 

「はい。少なくとも、普通の船が簡単に通る場所ではありません。古い記録に、似たような海域の話があったかもしれません。ですが、実際にこの島を見たのは私も初めてです」

 

「外の人から見ても、危ない場所なんですね」

 

「おそらく」

 

リィナは言葉を選ぶ。

 

ここが何と呼ばれているのか。どれほど恐れられているのか。

 

それを今、強く言うべきではないと思った。この場所はライラの家だ。リィナにとっては恐ろしい島でも、ライラにとってはファミリア達と暮らす場所。

 

その事実を忘れてはいけない。

 

ライラは黙っていた。

 

リィナの言葉を、ひとつずつ内側に並べているようだった。

 

王国。教会。聖女。魔法。神聖術。船。海の向こうの人間社会。

 

ライラの知っている何かとは、明らかに噛み合わないのだろう。

 

彼女は、少しだけ遠くを見る目をした。

 

リィナには、その内心までは分からない。だが、ライラは何かを静かに受け止めているようだった。

 

ライラの中で、薄々感じていたことが、確かな形を持ち始めていた。

 

ここは、彼女が知っている世界そのものではないのかもしれない。海の向こうには王国があり、教会があり、魔法があり、神聖術があり、人々が暮らしている。それは、彼女の曖昧な記憶の中にある世界とは違う。

 

いわゆる異世界というものなのかもしれない。

 

けれど、ライラはそれを口には出さなかった。

 

ただ、海を見て、それから家の方を振り返った。

 

シルヴィア達はシルヴィア達だ。

 

カイザーも、エクウス達も、海の子達も、小さい子達も、採取する子達も。

 

ここが何という世界でも、そのことは変わらない。

 

そんなふうに考えているように、リィナには見えた。

 

「リィナさんには、帰る場所があるんですよね」

 

ライラが言った。

 

リィナは、少しだけ息を止める。

 

「はい」

 

帰る場所。王国。教会。神学校。施療院。彼女を待っているかもしれない人々。そして、船に乗っていた人達。

 

胸の奥が重くなる。

 

「帰らなければならない場所があります」

 

ライラは頷いた。

 

「分かりました」

 

短い返事だった。必ず帰します、と軽くは言わない。けれど、覚えたというように、しっかり頷いた。

 

「海は危ないです。船もないです。リィナさんの体も、まだ無理です」

 

「はい」

 

「だから、すぐには難しいと思います。でも、帰る場所があるなら、考えます」

 

リィナはライラを見る。

 

年下の少女。外の世界のことを、ほとんど知らない少女。自らの家とファミリア達を何より大切にしている少女。

 

その少女が、リィナの帰る場所のことも、考えると言った。

 

「ありがとうございます」

 

リィナはそう言うしかなかった。

 

同時に、リィナは気づいていた。

 

彼女が帰るということは、外の世界とこの場所が繋がるということだ。

 

王国に戻れば、必ず聞かれる。

 

どこに流れ着いたのか。誰に助けられたのか。何を見たのか。

 

その時、彼女は何をどう話すべきなのか。ライラの家を、ファミリア達を、外の人々はどう見るのか。

 

考えると、胸の奥が少し冷えた。

 

リィナはまだ、この場所を正しく理解しているとは言えない。

 

けれど、少なくとも一つだけ分かる。恐怖だけで語れば、この場所は大きく歪んで伝わる。

 

だから、彼女は慎重でなければならない。

 

そこまで考えたところで、喉が痛んだ。咳が漏れる。

 

「リィナさん」

 

ライラがすぐに立ち上がる。

 

「今日はここまでにしましょう」

 

「ですが、まだ……」

 

「続きは、元気になってからでいいです」

 

ライラの声は柔らかいが、はっきりしていた。

 

「無理しないでください」

 

リィナは少し申し訳なく思った。

 

「すみません。話すと言ったのに」

 

「話してくれました。たくさん」

 

ライラは水を差し出す。

 

「今は休む方が大事です」

 

リィナは水を受け取り、ゆっくり飲んだ。

 

情報より、体調。ライラはまた、それを選んだ。それがリィナには静かに沁みた。

 

テラスから見える海は、穏やかだった。波が光を受けて揺れている。

 

あの海の向こうに、リィナの帰るべき場所がある。

 

同じ海を、ライラも見ていた。

 

リィナにとっては、帰るべき世界への道。ライラにとっては、まだ知らない外界への境界。

 

二人は同じ海を見ていた。けれど、見ている意味は違っていた。

 

背後には、ファミリア達のいる家がある。

 

遠くで、小さな鳴き声が聞こえた。

 

高所で翼が動く音がした。

 

正門の方で、低い息がゆっくり吐き出された。

 

リィナの身体は、まだ少し強張る。

 

けれど、それらの音に、もう一つの意味が加わっていた。

 

恐怖だけではない。ライラの家の音。ファミリア達のいる場所の音。

 

ライラは海を見つめたまま、小さく息を吐いた。

 

外の世界がある。

 

王国がある。教会がある。魔法がある。神聖術がある。リィナには帰る場所がある。

 

考えることは増えた。知らなければならないことも、たぶん増えた。

 

けれど、最初にすることは変わらない。

 

リィナを休ませること。そして、ファミリア達を守ること。

 

ここが何という世界でも、それだけは変わらなかった。

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