廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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第14話 海の向こう側の話

あの日から、数日が経っていた。

 

リィナはまだ、完全に回復したわけではない。

 

長く立っていれば足元がふらつくし、少し話し続けるだけでも喉が掠れる。胸の奥には、海水を飲み込んだ時の痛みがまだ薄く残っていた。

 

けれど、最初に目覚めた時と比べれば、ずいぶんましになっている。水は飲める。食事も少しなら取れる。部屋の中を歩く程度なら、誰かに支えられなくても動けるようになった。

 

それに、何より。

 

この場所の『音』に、少しだけ慣れてきた。

 

遠くの石床を踏む大きな足音。高所で翼が動く音。水場の流れる音。正門の方から時折響く、地面を震わせるような低い呼吸。

 

初めて目覚めた時、それらはすべて恐怖でしかなかった。

 

今でも怖くないわけではない。特に、竜のようなシルヴィアの影が窓の向こうを横切ると、反射的に身体が固まる。正門の方にいるというカイザーの気配は、姿を見なくても重すぎた。もし正面から見たら、リィナは立っていられるのだろうかと何度も思った。

 

けれど、彼らが勝手に部屋へ入ってくることはなかった。扉の向こうで小さな足音が近づくことはあっても、ライラが声をかければ離れていく。窓の外にシルヴィアの気配が近づくことはあっても、ライラが「まだ駄目」と言えば、しぶしぶ遠ざかる。

 

彼らは恐ろしい。しかし、無差別に襲ってくる存在ではない。少なくとも、この家の中では、ライラの言葉を聞いている。

 

そして、ライラはリィナが怖がることを決して責めなかった。

 

「今日は、少し外の空気を吸ってみますか」

 

そう言われたのは、朝の確認が一段落した頃だった。

 

リィナは寝台の上で、ゆっくり瞬きをした。

 

「外、ですか」

 

「はい。外と言っても、遠くには行きません。海が見える場所があって……えっと、静かです。大きい子達は近づけないので」

 

ライラは言葉を探しながらそう言った。流暢な説明ではない。だがリィナには分かった。ライラは、リィナが怖がらない場所を選ぼうとしてくれている。

 

完全な密室ではない場所。巨獣達の気配が近すぎない場所。海と空が見えて、圧迫感の少ない場所。

 

その気遣いが、リィナには静かに伝わってきた。

 

「……はい。少しなら」

 

答えると、ライラはほっとしたように頷いた。

 

「無理だったら、すぐ戻りましょう」

 

「ありがとうございます」

 

「水、持っていきますね」

 

ライラはそう言って、小さな水の容器と布を用意した。リィナが立ち上がる時も、すぐに手を伸ばすのではなく、まず様子を見る。ふらついた時だけ支えられる距離にいる。

 

その距離感が、リィナには少し不思議だった。助けたいのに、近づきすぎない。守ろうとしているのに、押しつけない。

 

ライラは、外の人間との付き合いに慣れていないのだろう。だが、相手が怯えていることを理解した上で、どうすれば怖がらせずに済むかを真剣に考えている。それが、言葉よりも確かに伝わってきた。

 

部屋の外へ出ると、リィナは一瞬だけ足を止めた。

 

通路は広い。人間の屋敷としては広すぎる。天井も高く、扉も大きい。床には、明らかに人間ではない足跡や爪の擦れた跡が残っている。

 

ここは、人だけのために作られた場所ではない。

 

だが、荒れてはいなかった。石床は綺麗に掃除されている。水場から伸びる溝には澄んだ水が流れ、壁際には布や木材が整理されていた。通路の端には、小さな生き物達用なのか、低い出入り口も見えた。

 

恐ろしい場所。それは変わらない。しかし同時に、ここは暮らしの場所でもあるのだと、リィナは少しずつ理解し始めていた。

 

遠くで、小さな鳴き声がした。

 

リィナの肩がわずかに揺れた。

 

「大丈夫です。小さい子です」

 

ライラがそっと言った。「近づかないように言ってあります」

 

「……はい」

 

小さい子。ライラは、あの見知らぬ生き物達をそう呼ぶ。リィナにはまだ、その感覚は分からない。けれど、ライラの声は自然だった。まるで本当に、家の中にいる幼い子を案じるような、温かい声音だった。

 

通路を抜けると、小さなテラスに出た。

 

そこは、拠点の入り口近くから少し脇へ伸びた場所だった。高所というほどではないが、周囲より少し開けていて、海が見える。広すぎない。けれど、閉じ込められた感じもない。

 

石の床は乾いていて、低い壁の向こうには草地と海岸線が見えた。さらにその向こうに、青く広がる海がある。

 

風が吹く。潮の匂いがした。

 

リィナの指が、思わず服の布を握った。

 

あの海だ。彼女を呑み込み、船を砕き、ここへ運んだ海。

 

波は今、穏やかに見える。けれど、リィナの耳にはまだ、嵐の夜の音が残っていた。黒い雲。割れるような雷鳴。傾く船。叫び声。砕ける木材。冷たい水。

 

「大丈夫ですか」

 

ライラが聞いた。

 

リィナはゆっくり息を吸い、吐いた。

 

「……はい。少し、思い出しただけです」

 

「戻りますか」

 

「いえ。ここで、大丈夫です」

 

そう答えると、ライラは頷き、テラスに置かれた椅子を少し引いた。リィナが座るまで、ライラは急かさなかった。

 

二人きりだった。

 

遠くには、確かにファミリア達の気配がある。高所の方で翼が畳まれる音。正門の方の低い呼吸。さらに奥のどこかから聞こえる、小さな鳴き声。だが、このテラスには近づいてこない。シルヴィアもいない。それが、ライラの配慮なのだとリィナには分かった。

 

「改めて」

 

リィナは、海を一度見てからライラへ向き直った。

 

「助けてくださり、ありがとうございました」

 

頭を下げようとすると、ライラが少し慌てた。

 

「あ、無理しなくていいです」

 

「もう、少しは動けますから」

 

「でも、まだ顔色がよくないです」

 

そう言われて、リィナは小さく苦笑した。自分より年下に見える少女に心配されている。けれど、不思議と嫌ではなかった。

 

「ライラさんは、いつも体調のことを先に気にしてくださいますね」

 

「えっと……倒れていたので」

 

ライラは少し困ったように答えた。「それに、リィナさんは人間なので」

 

「人間、ですか」

 

「はい。軽いし、細いし、冷えていたので。ちゃんと見ないと危ないと思って」

 

その言い方は少し独特だった。リィナは一瞬戸惑い、それから納得する。ライラの周りにいるのは、竜や巨獣や、見たこともない生き物達だ。彼女にとって、人間の身体はあまりにも脆く見えるのだろう。見下しているのではない。本当に、壊れやすいものを扱うように気をつけているのだ。

 

「海岸で私を見つけてくださったのは、あのお馬さん達でしたね」

 

リィナが言うと、ライラの表情が和らいだ。

 

「はい。ご飯の時間に戻ってこなくて、探しに行ったら、リィナさんがいました」

 

「初めて会ったファミリアがあの子たちでよかったです。私は、あの子達を見て安心してしまいました」

 

リィナは海岸の方を見る。意識を失う直前、温かい鼻息が頬に触れたことを覚えている。あの場所で、初めて見た、理解できる形。それだけで、張り詰めていた心が緩んだのだ。

 

「あの子達にも、お礼を言わなければなりませんね」

 

ライラは首を横に振った。

 

「たぶん、助けようと思ってたわけじゃないと思います」

 

「そうなのですか」

 

「知らないものを見つけて、気になって、帰るのを忘れてた感じです」

 

リィナは思わず瞬きをした。そして、小さく笑った。

 

「……そうですか」

 

「でも、そのおかげで見つけられたので。あとで褒めました。ご飯の時間には戻ってきてほしいですけど」

 

その言葉には、本当に日常の響きがあった。危険な島。謎の巨獣達。竜の気配。その中で、馬達が好奇心に負けて食事の時間を忘れ、ライラが少し困りながら褒める。そのずれ方が、ライラと彼女のファミリア達の関係をそのまま表しているようだった。

 

穏やかな沈黙が落ちる。風が二人の間を抜け、海の匂いを運んできた。

 

リィナは、話さなければならないと思った。彼女は助けられた。名も告げた。けれど、まだ自身がどこから来た何者なのか、きちんとは話していない。

 

「ライラさん」

 

「はい」

 

「少し、私のことをお話ししてもよろしいでしょうか」

 

ライラはまず、リィナの顔色を見た。

 

「疲れたら、途中でやめましょう」

 

「はい」

 

「水、飲みますか」

 

「少しだけ」

 

ライラが水を差し出す。リィナはゆっくり飲み、喉を湿らせた。それから、改めて姿勢を正す。

 

「私は、リィナ・エルシアと申します」

 

ライラは静かに聞いていた。

 

「ルミナリア聖教会の、王国支部に属しています」

 

「ルミナリア聖教会……王国支部」

 

ライラが聞き慣れない言葉を確かめるように繰り返す。

 

「大陸各地に支部を持つ、大きな教会組織です。私が所属しているのは、その中の王国支部になります」

 

「王国支部、ということは……海の向こうに王国があるんですね」

 

「はい」

 

ライラの問いは実務的だった。信仰の意味や組織の力関係ではなく、まず場所を確認している。リィナはそれが少しライラらしいと思った。

 

「海の向こうには、人が暮らす国があります。町があり、港があり、教会があり、神学校があり、施療院や孤児院もあります」

 

ライラは海を見た。その向こうに、まだ見ぬ人間社会を思い描こうとしているようだった。

 

「人が、いるんですね」

 

「はい。たくさん」

 

ライラは少し黙った。この島が全ての少女にとって、それはどんな響きを持つのだろう。リィナには分からない。ただ、ライラがすぐに喜んだり、怖がったりしなかったことだけは分かった。情報として受け止め、静かに考えている。

 

「それから……私は、聖女と呼ばれています」

 

リィナがそう言うと、ライラは目を向けた。

 

「聖女」

 

「はい。ただ、少し説明が必要かもしれません」

 

リィナは小さく息を整えた。

 

「聖女とは本来、長年シスターとして地域や国に奉仕し、多くの人々から功績を認められ、さらに教会から正式に認定された者が得る称号です。治癒、救護、祈り、民衆への奉仕。それらを長く積み重ねた者に贈られる、とても重い称号です」

 

「リィナさんは、若いですよね」

 

ライラの問いは、批判ではなく、純粋な確認だった。

 

「はい。ですから、私のように若くして認定されるのは珍しいことです」

 

リィナは視線を少し落とした。

 

「称号をいただいたからといって、突然立派になるわけではありません。むしろ、いただいたからこそ、そこに恥じないように生きなければならないのだと思っています。私はまだ、その名に追いつこうとしている途中なのだと思います」

 

ライラはその言葉を、ゆっくり飲み込むように聞いていた。

 

「リィナさんは、どうして聖女になったんですか」

 

問いはまっすぐだった。責めるものでも、疑うものでもない。ただ知りたいという問いだった。

 

「私は、孤児でした」

 

リィナは静かに答えた。ライラの表情がわずかに変わった。

 

「幼い頃から教会に育てられ、神学校へ通いました。学ぶことは多く、何度もつまずきました。救護や奉仕の功績も認めていただきましたが、私の場合、もう一つ大きな理由があります」

 

「もう一つ」

 

「神学校にいた頃、いくつかの神聖術を開発し、既存の術を改良しました」

 

ライラが少し首を傾げた。

 

「神聖術というのは、治癒や浄化、祈り、鎮静などに関わる魔法のことです。回復魔法も、その一つです。それを、現場で使いやすい形に整えたり、術式の負担を減らしたりする研究に関わっていました」

 

「一人でやったんですか」

 

「いいえ」

 

リィナは首を振った。

 

「先生方や同級生、現場のシスター達、施療院の方々、多くの人に支えられました。学び、失敗し、現場を見て、何度も直して、ようやく形にしたものがあった。だから、聖女という称号は奇跡の証ではなく、積み重ねへの評価でもあるのだと思っています」

 

「でも、認められたんですね」

 

「はい。長年の奉仕とは少し違う形ですが、研究者としての功績も含めて、教会が認定したのだと思います」

 

リィナは少しくすぐったかった。自らそう言うのは、いつも難しい。

 

「すごいことなんですね」

 

「……重いことです」

 

リィナはそう答えた。ライラは静かにこちらを見ていた。

 

「すごい、よりも、重い」

 

「はい。多くの人に期待されます。救えるはずだと思われます。正しくあるべきだと見られます。もちろん、それはありがたいことでもありますが……時々、己がその名にふさわしいのか、分からなくなることもあります」

 

海風が吹いた。リィナは自らの手を見る。この手で、どれだけ救えただろう。そして、どれだけ救えなかっただろう。

 

「でも、リィナさんは祈ってました」

 

ライラがぽつりと言った。

 

リィナは顔を上げる。

 

「怖かったのに、私のこと、悪いものって言わなかった」

 

リィナは少し息を止めた。ライラは、言葉を選ぶように続ける。

 

「だから、聖女って、そういう人なのかなって思いました」

 

リィナはすぐに返事ができなかった。胸の奥が、少し痛む。

 

「……私は、怖かっただけです」

 

「はい」

 

「今も、怖いです」

 

「はい」

 

「それでも、恐怖で間違えたくなかっただけです」

 

「それが、すごいと思います」

 

ライラの声は静かだった。飾り気がない。だからこそ、リィナは少し困った。

 

「ありがとうございます」

 

小さく礼を言う。それ以上は、うまく返せなかった。

 

話を続けるために、リィナは水を飲んだ。喉はまだ少し痛む。けれど、話せないほどではない。

 

「卒業後は、王国支部の聖女として活動していました。地方の教会を訪れて、視察や調査、指導を行います。神聖術の運用だけではなく、施療院や孤児院、地方教会の方針を見ることもあります」

 

「色々なんですね」

 

「はい。それから、各国の研究機関や学校で、神聖術の専門家と共同研究をすることもありました。各地の神聖術を比べたり、現場で使いやすい形に整えたり」

 

「王国だけじゃないんですね」

 

「はい。王国内だけでなく、他国へ行くこともありました」

 

ライラは静かに聞いていた。王国。教会。学校。研究機関。他国。リィナの言葉から、海の向こうの輪郭を少しずつ組み立てているのだろう。

 

「海の向こうには、たくさんあるんですね」

 

「はい。町も、人も、国も。もちろん、良いことばかりではありませんが」

 

リィナは海を見た。あの向こうに、帰るべき場所がある。

 

「私は、沿岸の教会と施療院を訪ねる予定でした。慰問と、神聖術の運用確認、それからいくつかの調査を兼ねて」

 

「船に乗っていたのは、そのためですか」

 

「はい」

 

リィナは唇を軽く押さえた。まだ記憶は断片的だった。

 

「嵐に遭いました。そこから先は、あまりはっきりしません」

 

黒い雲。叫び声。砕ける音。傾く船。冷たい水。思い出すだけで、胸が苦しくなる。

 

「船にいた他の方々がどうなったのかも、分かりません」

 

声が少し震えた。

 

ライラは、すぐに何かを言わなかった。大丈夫とも、きっと助かっているとも言わなかった。それが簡単に言えることではないと、分かっているようだった。

 

「海岸に流れてきたものは、あとで確認します」

 

ライラは静かに言った。「他に誰かいないかも、海の子達に見てもらいます」

 

海の子達。リィナはその言葉に身体を強張らせた。海の下にも、ライラのファミリアがいる。それを思い出したからだ。

 

しかし、同時に考える。彼女は、あの海から流れ着いたのだ。もし他に誰かが海にいるのなら、人間の目よりも、海にいる彼らの方が見つけられるのかもしれない。

 

「……お願いします」

 

リィナは小さく頭を下げた。

 

ライラは頷く。「あとで伝えます。食べないものでも、変なものを見つけたら知らせてって」

 

リィナは一瞬意味が分からなかった。

 

ライラが目を逸らす。

 

「前に、食べる前に知らせてって言ったので。食べないものは知らせなくていいと思ったみたいで」

 

リィナは数秒考えた。それから、ようやく理解した。海のファミリア達は、リィナを食べ物とも脅威とも思わなかった。だから知らせなかったのだ。

 

「……そういう、解釈だったのですね」

 

「たぶん」

 

ライラは少し困った顔をしていた。リィナは思わず、ほんの少しだけ笑った。恐ろしい話のはずなのに、どこかずれている。そのずれ方が、ライラと彼女のファミリア達の関係をそのまま表しているようだった。

 

笑ったことで、少し疲れが出た。リィナは息を整える。ライラはすぐに気づいた。

 

「休みますか」

 

「いえ、もう少しだけ」

 

「無理しないでください」

 

「はい」

 

リィナは頷き、話を続ける。

 

「この海域については、私も詳しいわけではありません。ただ、船乗り達の間では避けられている場所だと聞いたことがあります」

 

ライラは海を見る。

 

「近づかない方がいい場所?」

 

「はい。少なくとも、普通の船が簡単に通る場所ではありません。古い記録に、似たような海域の話があったかもしれません。ですが、実際にこの島を見たのは私も初めてです」

 

「外の人から見ても、危ない場所なんですね」

 

「おそらく」

 

リィナは言葉を選ぶ。ここが何と呼ばれているのか。どれほど恐れられているのか。それを今、強く言うべきではないと思った。この場所はライラの家だ。リィナにとっては恐ろしい島でも、ライラにとってはファミリア達と暮らす場所。その事実を忘れてはいけない。

 

ライラは黙っていた。リィナの言葉を、ひとつずつ内側に並べているようだった。

 

王国。教会。聖女。魔法。神聖術。船。海の向こうの人間社会。

 

ライラの表情は静かだった。何かを受け止め、考え、そして視線を家の方へ向ける。その横顔は、リィナには内心までは読めなかった。

 

ただ一つ分かるのは、ライラがすぐには動じなかったということだ。海の向こうに人がいると知っても、この場所が誰かに恐れられていると聞いても、彼女はまず家を振り返った。

 

「リィナさんには、帰る場所があるんですよね」

 

ライラが言った。

 

リィナは、少しだけ息を止める。

 

「はい」

 

王国。教会。神学校。施療院。彼女を待っているかもしれない人々。そして、船に乗っていた人達。胸の奥が重くなる。

 

「帰らなければならない場所があります」

 

ライラは頷いた。

 

「分かりました」

 

短い返事だった。必ず帰します、と軽くは言わない。けれど、覚えたというように、しっかり頷いた。

 

「海は危ないです。船もないです。リィナさんの体も、まだ無理です」

 

「はい」

 

「だから、すぐには難しいと思います。でも、考えます」

 

リィナはライラを見る。年下の少女。外の世界のことを、ほとんど知らない少女。自らの家とファミリア達を何より大切にしている少女。

 

その少女が、リィナのことも、考えると言った。

 

「ありがとうございます」

 

リィナは静かに答えた。

 

同時に、リィナは気づいていた。彼女が帰るということは、外の世界とこの場所が繋がるということだ。王国に戻れば、必ず聞かれる。どこに流れ着いたのか。誰に助けられたのか。何を見たのか。

 

その時、彼女は何をどう話すべきなのか。ライラの家を、ファミリア達を、外の人々はどう見るのか。

 

考えると、胸の奥が少し冷えた。リィナはまだ、この場所を正しく理解しているとは言えない。けれど、少なくとも一つだけ分かる。恐怖だけで語れば、この場所は大きく歪んで伝わる。だから、彼女は慎重でなければならない。

 

そこまで考えたところで、喉が痛んだ。咳が漏れる。

 

「リィナさん」

 

ライラがすぐに立ち上がる。

 

「今日はここまでにしましょう」

 

「ですが、まだ……」

 

「続きは、元気になってからでいいです」

 

ライラの声は柔らかいが、はっきりしていた。「無理しないでください」

 

リィナは少し申し訳なく思った。

 

「すみません。話すと言ったのに」

 

「話してくれました。たくさん」

 

ライラは水を差し出す。「今は休む方が大事です」

 

リィナは水を受け取り、ゆっくり飲んだ。情報より、体調。ライラはまた、それを選んだ。それがリィナには静かに沁みた。

 

テラスから見える海は、穏やかだった。波が光を受けて揺れている。

 

ライラも、同じ海を見ていた。

 

リィナにとっては、帰るべき世界への道。ライラにとっては、今日初めてその向こうの輪郭が見えた境界。

 

二人は同じ海を見ていた。けれど、見ている意味は違っていた。

 

背後には、ファミリア達のいる家がある。遠くで、小さな鳴き声が聞こえた。高所で翼が動く音がした。正門の方で、低い息がゆっくり吐き出された。

 

リィナの身体は、まだ少し強張る。けれど、それらの音に、もう一つの意味が加わっていた。

 

恐怖だけではない。ライラの家の音。ファミリア達のいる場所の音。

 

ライラは海を見つめたまま、小さく息を吐いた。

 

外の世界がある。王国がある。教会がある。リィナには帰る場所がある。考えることは増えた。知らなければならないことも、たぶん増えた。

 

けれど、最初にすることは変わらない。

 

リィナを休ませること。そして、ファミリア達を守ること。

 

ここが何という世界でも、それだけは変わらなかった。

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