廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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まだ怖いけれど

海の見えるテラスで話してから、さらに数日が経っていた。

 

リィナの身体は、少しずつ戻ってきている。 まだ完全に元通り、というわけではない。長く歩けば足が重くなる。階段を上れば息が上がる。食事も、出されたものをすべて食べ切れるほどには戻っていなかった。

 

それでも、寝台の上で目を開けることしかできなかった頃と比べれば、ずいぶんましになっている。

 

朝になれば自分で起き上がれる。水を飲むのに手伝いはいらない。部屋の中をゆっくり歩くこともできる。テラスまでなら、途中で休めば行ける。

 

そして、この場所の『音』にも、少しずつ慣れてきた。

 

遠くの石床を踏む重い足音。高い場所で、翼を持つ何かが動く音。水場を流れる水音。小さな鳴き声。 時折、正門の方から響く、地面を震わせるような低い呼吸。

 

最初は、そのすべてが恐怖だった。 今でも、怖くないわけではない。

 

シルヴィアの影が窓の向こうを横切るだけで、心臓は跳ねる。正門近くにいるというカイザーの気配は、遠くにあっても重すぎる。高所で翼が動く音を聞けば、理屈より先に身体が固くなる。

 

それでも、数日過ごして分かったことがある。 彼らは、勝手に襲ってこない。

 

ライラが「まだ駄目」と言えば、近づきたがっていたシルヴィアも窓の外から離れる。小さな子達が好奇心で部屋の前に来ても、声をかけられればすっと下がる。大きな足音が近づきすぎることもない。

 

この場所には、秩序があった。 それは、軍隊のような威圧的な号令ではない。もっと柔らかく、もっと生活に近いものだ。

 

ライラが声をかける。それを、彼らが聞く。 必要なら離れる。待つ。戻る。遊ぶ。眠る。

 

その気配を、部屋の中から少しずつ聞いていた。 そして、気づいた。

 

自分はまだ、何も見ていない。 怖いからといって、目を閉じたままでいれば、結局この場所のことを何も知らないままだ。

 

自分は彼らを「ファミリア」と呼んだ。 魔物でも、従魔でも、眷属でもなく。ライラにとって家族に近く、けれど外の者が呼ぶための言葉として。 その言葉を選んだのは、自分だった。

 

ならば。 自分がそう呼んだ存在達が、実際にどう暮らしているのか。それを、怖いから見ないままでいていいのだろうか。

 

恐怖が消えたわけではない。 シルヴィアは怖い。カイザーは遠くの気配だけでも恐ろしい。海の下にいるという大きな存在達など、想像するだけで背筋が冷える。

 

けれど、怖くなくなったから見るのではない。 怖いままでも、見る。 そうしなければ、恐怖以外のものに決して気づけない。

 

その日、ライラが水と軽い食事を持ってきた時、少し迷ってから口を開いた。

 

「ライラさん」

 

「はい」

 

「お願いがあります」

 

ライラはすぐに表情を引き締めた。何か体調の変化でもあったと思ったのかもしれない。

 

「どこか痛いですか」

 

「いえ。身体は大丈夫です」

 

「無理はしてませんか」

 

「していません。……たぶん」

 

最後にそう付け加えると、ライラは少し困った顔をした。

 

「たぶんは、少し怖いです」

 

「気をつけます」

 

小さく息を整える。それから、はっきり言った。

 

「私がファミリアと呼んだ方々の様子を、少し見せていただけませんか」

 

ライラの目が、わずかに大きくなった。

 

「ファミリア達を、ですか」

 

「はい。もちろん、無理のない範囲で。大きな方々へ近づきたいという意味ではありません。ただ……私がそう呼んだ存在達が、どう暮らしているのか、もう少し自分の目で見たいのです」

 

言ってから、自分の手が少し震えていることに気づいた。 怖い。言葉にしただけで、身体は正直に反応している。

 

ライラはそれを見逃さなかった。

 

「怖いですよね」

 

「……はい」

 

誤魔化さなかった。

 

「怖くない、とは言えません。ですが、怖いから見ないままでは、私は何も分からないままです」

 

ライラは黙って見ていた。

 

「私は、あの方達をファミリアと呼びました。でも、まだその言葉の意味を、きちんと見てはいません。だから……少しだけ、見たいのです」

 

ライラの目が少しだけ明るくなった。 けれど、すぐに心配そうに顔色を見てくる。

 

リィナがファミリア達を知ろうとしていることは、きっと嬉しいのだろう。だが、それより先に、無理をさせたくないという気持ちが出ている。 それが分かった。

 

「怖かったら、すぐ戻りましょう」

 

ライラは言った。

 

「大きい子は遠くからだけにします。近づけません。シルヴィアも……えっと、たぶん近づきたがりますけど、止めます」

 

「シルヴィアさんも、ですか」

 

名前を出した瞬間、窓の外で何かが反応した気配があった。 低く、嬉しそうな喉の音。肩が跳ねる。

 

ライラがすぐ窓の方を向いた。

 

「シルヴィア、まだ」

 

窓の外の気配が、しぶしぶ下がる。 その様子に、少しだけ目を瞬かせた。

 

名前を呼んだだけで、反応した。 それも、威嚇ではなく、まるで自分の話をされたと気づいた子供のように。 恐ろしい竜の気配と、その反応の幼さが、頭の中でうまく繋がらない。

 

ライラは向き直った。

 

「まずは、エクウス達からにしましょう。リィナさんも、あの子達なら少し安心できると思うので」

 

静かに頷く。

 

「はい。お願いします」

 

そうして初めて、自分の意志でファミリア達の暮らす場所へ足を向けることになった。

 

 

ライラは急がなかった。

 

通路を歩く時も、リィナの歩幅に合わせる。角を曲がる前には、先に周囲を確認する。遠くに大きな足音が聞こえると、少し待ってから進む。 大げさなくらい慎重だった。

 

けれど、その慎重さがありがたかった。 恐怖は、理屈だけでは消えない。相手が襲ってこないと分かっていても、大きな影が近づけば身体は固まる。重い足音が響けば呼吸が浅くなる。見たこともない爪や牙を想像すれば、足が止まりそうになる。 だから、そのたびに待ってくれることが必要だった。

 

通路を抜けると、外の草地に出た。 そこは、拠点の門に近い、日当たりのいい場所だった。

 

背の低い草が広がり、いくつかの白い花が咲いている。遠くには森が見えるが、ここからは距離がある。風は穏やかで、草の匂いがした。

 

そして、そこにエクウス達がいた。

 

数頭の馬が、草を食んでいる。 いや、エクウスと呼ぶべきなのだろう。けれど、やはり馬に見えた。

 

異形の角もない。炎も吐かない。牙もない。魔獣のような威圧感もない。毛並みは柔らかそうで、耳が時折ぴくりと動く。

 

一頭がライラに気づいて顔を上げた。 次に、こちらを見る。耳が立つ。好奇心。そう分かる程度には、仕草が普通の馬に近かった。

 

「おはよう」

 

ライラが声をかけると、エクウスの一頭が鼻を鳴らした。 他の数頭も顔を上げる。そのうち一頭が、ゆっくり近づいてきた。

 

身体が少し強張る。怖い、というより緊張だった。 あの海岸で見た時の記憶がよみがえる。冷たい砂。濡れた髪。温かい鼻息。そして、安心して途切れた意識。

 

エクウスは少し手前で止まった。ライラを見る。

 

「大丈夫。ゆっくりね」

 

ライラが言うと、エクウスはもう一歩だけ近づいた。 鼻先が、手元に伸びてくる。息を止めかけた。

 

けれど、逃げなかった。

 

鼻先が、そっと手の甲に触れる。 温かい。湿った鼻先が、匂いを確かめるように動く。 手は震えていた。それでも、引かなかった。

 

「……あなた達が、見つけてくれたのですね」

 

声にすると、エクウスは耳を動かした。 理解しているのかは分からない。だが、逃げることも、怯えることもない。ただ、興味深そうに手の匂いを嗅いでいる。

 

ライラが少しだけ笑った。

 

「この子達、たぶんリィナさんのこと気に入ってます」

 

「そう、なのでしょうか」

 

「はい。嫌だったら、もう少し離れると思います」

 

エクウスが、もう一度鼻を鳴らした。 ほんの少し、表情が緩む。

 

「あの時、私はこの子達に救われました」

 

「見つけたのは本当に偶然だと思います」

 

「それでもです」

 

エクウスの鼻先を見る。

 

「恐ろしい海岸で、初めて見た、知っている形の生き物でした。この子達がいてくれたから、私は安心して意識を失えたのだと思います」

 

ライラは黙って聞いていた。そして、エクウスの首元を軽く撫でた。

 

「よかったね」

 

エクウスは、褒められているのか分かっていないような顔をしていた。 それが、いかにも普通の馬らしくて、少しだけ笑ってしまった。

 

その笑みは、まだ弱い。けれど、確かに笑みだった。

 

エクウス達と再び向き合えたことで、胸の中に小さな足場ができた。 ここには、怖くないとは言わないまでも、理解できる存在もいる。そう思えたからだ。

 

 

次に案内されたのは、小型の子達がいる草地だった。 少し離れた場所から見ることになった。

 

「近づけすぎないようにします」

 

ライラが小型組のいる方へ声をかける。

 

「みんな、今日は少し離れててね。見るだけ」

 

ぴ、と小さな鳴き声が返った。 思わず瞬きをする。

 

そこには、小さな生き物達がいた。 丸い鳥のような子。小さく首を動かす子。草の上で丸くなっている子。水場の近くで眠そうにしている子。

 

中には、こちらを見て興味を示すものもいた。 だが、ライラが手を上げると、近づきかけた子はすっと戻る。別の子は首を傾げ、また草をつつき始めた。 命令というより、生活上の合図のようだった。

 

視察の時の癖で、周囲を見る。

 

草地は日当たりがいい。水場が近い。 けれど、深すぎない。小さな子が落ちても危険が少ないように、浅い場所が作られている。 少し離れたところには日陰があり、休む場所もある。 大型の足跡は、この付近にはほとんどない。

 

動線が明確に分けられている。 小型の子達が過ごす場所と、大きな子達が通る場所が重ならないようにしているのだ。

 

「ここは、小さい子達がよくいる場所ですか」

 

「はい。日向が好きな子が多いので」

 

「水場も近いのですね」

 

「でも、深いところは危ないので、こっちは浅くしてます。大きい子用は別です」

 

ライラは自然に答えた。 その言葉を聞きながら、改めて周囲を見る。

 

寝床。水場。日向。日陰。通路。安全な距離。 ここは、ただ生き物達を飼い殺している場所ではない。暮らすために整えられている。

 

もちろん、知っている教会や施療院とはまったく違う。使われている素材も、規模も、住んでいる存在も違いすぎる。 それでも、生活環境を整えるという根底の考えは同じだった。

 

誰がどこで眠るのか。どこで水を飲むのか。どうすれば弱い子が踏まれないのか。どうすれば危険な場所へ迷い込まないのか。そういう細やかな配慮がある。

 

思わず、小さく呟いた。

 

「……魔物の巣、ではないのですね」

 

ライラがこちらを見る。はっとする。

 

「すみません。悪い意味では」

 

「大丈夫です」

 

ライラは首を横に振った。

 

「外の人から見たら、そう見えると思います」

 

その言い方に、胸が少し痛んだ。 この少女は、自分の家が外からどう見えるのか、少しずつ理解し始めている。だからこそ、言葉を選ばなければならない。

 

「でも、今見えているのは、生活の場です」

 

改めて言った。

 

「少なくとも、私にはそう見えます」

 

ライラは、少しだけ目を細めた。嬉しそうにも、ほっとしたようにも見えた。

 

「ありがとうございます」

 

短い言葉だった。けれど、その意味は温かく伝わった。

 

 

次の場所へ向かう途中、採取組が戻ってきた。

 

最初に見えたのは、木材を抱えたビーバーのような子達だった。 彼らは決められた通路を通り、泥落としのような場所で一度止まる。足元や持ち込んだものについた土や葉が、そこで少し落ちる。それから、素材置き場へ向かった。

 

別の方向からは、硬い石を運んできた子がいる。さらに、繊維や葉のようなものを持ち帰った子もいた。

 

その流れをじっと見る。 採取。搬入。泥落とし。仮置き場。分類。 驚くほど、手順がある。

 

もちろん、人間の施設のように書類や帳簿があるわけではない。だが、使う場所が決まっている。通る場所が分かれている。持ち込まれたものが散らかりっぱなしになるわけではない。

 

それを、整理している存在がいた。

 

大きな猿のような姿。いや、猿と言ってよいのだろうか。 二本の足で立ち、黄色のヘルメットを被り、作業場の前で素材を見ている。手には木片のようなものを持っていた。

 

思わず足を止めた。

 

「……あの方は」

 

「主任です」

 

ライラは自然に答えた。 何も解決していない。内心で、そう思った。

 

主任。 名前なのか。役職なのか。呼び名なのか。 そもそも、あの巨体の獣に対して『主任』という言葉が出てくること自体が、リィナの常識にはなかった。

 

主任は、こちらに気づいたらしい。じっと見る。

 

背筋が伸びた。 怖い、というほどではない。シルヴィアやカイザーのような圧倒的な恐怖ではない。だが、どう接すればよいのか分からない強烈な戸惑いがあった。

 

主任は無言で片手を上げた。 挨拶。たぶん、挨拶だった。

 

反射的に頭を下げる。

 

「……リィナ・エルシアと申します」

 

主任は何も言わない。ただ、もう一度だけ片手を上げた。 それから、背を向けて素材の分類に戻る。

 

木材は木材の場所へ。石は石の場所へ。繊維は繊維の場所へ。食べられるか分からない植物は、別の箱へ。よく分からないものは、さらに別へ。

 

動きは静かだった。派手ではない。 神聖術の術式を使っている様子もない。ただ静かに、熟練の職人のような手つきで作業場の流れを支えていた。

 

「主任は、あの整理をいつも?」

 

「最近は、かなり手伝ってくれてます」

 

「最近は?」

 

「前は……えっと、もっと、みんなでふざけて乗ったりしてた子だったので」

 

主任を見る。 ヘルメットを被り、無言で素材を分類する大きな存在。それに、みんなでふざけて乗っていた。 想像しようとして、うまくいかなかった。

 

ライラは少し懐かしそうに言う。

 

「ヘルメットも、その時に作ったんです。似合ったので、主任って呼んで」

 

「そう、なのですか」

 

「でも、今はなんだか本当に主任っぽいです」

 

ライラは少し不思議そうだった。

 

主任の周囲を見る。 片付いた作業台。分類された素材。使いやすい位置に置かれた箱。泥を落とす場所。通路を塞がないように積まれた木材。

 

確かに、ここには整理する存在がいる。 それが主任なのか、ライラなのか、あるいは他の子達も含めた自然な流れなのかは分からない。だが、この家の生活の流れが、そうやって強固に保たれていることは分かった。

 

また一つ、理解を改める。

 

ここは、ただ強大な生き物が集まっている場所ではない。 採取する者がいる。運ぶ者がいる。分類する者がいる。それを見て、調整するライラがいる。 ここには、確かな暮らしがある。

 

 

その後も、ライラはゆっくり案内した。

 

水場。小型用の出入り口。採取組の搬入口。玄関のような二重の門。泥を落とす場所。休む場所。外へ出る道。中へ戻る道。

 

歩きながら観察する。地方教会を視察していた頃の癖だった。

 

どこに水があるか。食べ物はどう管理しているか。誰がどこを通るか。弱い者が危険な場所へ行かないようになっているか。休む場所と働く場所が分かれているか。

 

対象は、人間ではない。だが、見るべきものは似ていた。 生活がある場所には、必ず流れがある。その流れが滞れば、どこかに負担が出る。

 

仕事の癖で目は動く。けれど、心が追いついているわけではなかった。

 

遠くで翼の音がすると、すぐに身体は強張る。大きな足音が響けば、観察していた意識が一瞬で恐怖に引き戻される。 この家はまだ未完成だった。ライラも、それを自覚しているようだった。

 

「あ、そこはまだ直してる途中です」

 

「こちらの箱は?」

 

「食べられるか分からないものです。まだ調べてないので、食べないように分けてます」

 

「あちらの通路は」

 

「大きい子用です。小さい子は行かないようにしてます。踏まれると危ないので」

 

ライラは、何でも分かっているわけではないらしい。

 

時々、迷う。 採取物を見て「これはまだ保留」と言う。小さい子が近づきすぎると少し慌てる。水場の周りを見て、あとで直さなければと呟く。

 

完璧な支配者ではない。 むしろ、分からないことだらけの中で、必死に整えようとしている年下の少女だった。

 

この島は危険だ。この家にいるファミリア達は恐ろしい。 しかし、ライラはその恐ろしい存在達を武力で従えて玉座に座っているわけではない。 食べ物を心配し、水場を直し、小さい子が危なくないように通路を分け、外へ行った子が帰ってくるか気にしている。

 

ライラが見ているのは、支配ではなく生活なのだ。

 

そう感じ始めた頃。 遠くから、熱心すぎる視線を感じた。海風とは違う、ぴりりとした気配。

 

身体が固まる。 ライラも気づいたらしい。少し離れた高所の影へ目を向ける。

 

そこに、シルヴィアがいた。

 

紫がかった鱗。青白い光が、身体の内側をゆっくり流れている。翼は畳んでいるが、それでも途方もなく大きい。 首を少し低くして、こちらを見ている。

 

竜。 何度見ても、そうとしか思えなかった。

 

ただ、最初に窓の外で見た時より、少しだけ違うものも見えた。 シルヴィアは、近づきたそうだった。けれど、近づいてこない。ライラに止められているからだろう。

 

その姿は、獲物を狙う魔獣というより、遊びに混ざりたいのに「待て」と言われている大きな犬のようにも見えた。

 

そう見えてしまった自分に、少し驚く。 もちろん、怖い。シルヴィアの爪も、翼も、長い首も、青白く走る雷のような光も、すべてが恐ろしい。 それでも、恐怖だけでは説明できないものがあった。

 

「シルヴィア、今日はそこまで」

 

ライラが言った。 シルヴィアは不満そうに喉を鳴らした。低い音だった。心臓が跳ねる。

 

ライラはすぐにこちらを見る。

 

「戻りますか」

 

その問いに、すぐ答えられなかった。 戻りたい。安全な部屋に戻って、扉を閉めて、少し深呼吸したい。それも本心だった。

 

けれど、同時に、ここで目を逸らしたくないと思った。

 

シルヴィアはファミリアだ。自分が、そう呼ぶことを提案した存在だ。ライラにとって大切な子。そして、今こちらを怖がらせないように、距離を取って待っている存在。 恐怖だけで見ないと決めたなら、見るべきだ。

 

「……少しだけ」

 

声が震えていた。

 

「少しだけ、近くで見てもよろしいでしょうか」

 

ライラの表情が真剣になる。

 

「本当に大丈夫ですか」

 

「怖くない、とは言えません」

 

正直に言った。

 

「怖いです。ですが……逃げたくはありません」

 

ライラはしばらく見ていた。それから頷く。

 

「分かりました。でも、怖かったらすぐ止めます。無理はしないでください」

 

「はい」

 

ライラがシルヴィアへ向き直る。

 

「シルヴィア」

 

すぐに顔が上がった。待ってました、と言わんばかりだった。

 

「ゆっくり。翼は広げない。顔は低くして。近づきすぎない。リィナさんが怖がったら止まる」

 

シルヴィアは少しだけ首を傾げた。

 

「ゆっくり」

 

ライラがもう一度強く言う。シルヴィアは喉を鳴らした。 そして、動き始めた。

 

一歩。 大きな爪が、石床に触れる。爪が石を叩く音が、一歩ごとに近づいてくる。

 

二歩。 翼は畳まれているのに、動くたびに空気が押された。自分を大きく見せないようにしているのだと分かる。それでも、十分すぎるほど大きい。

 

三歩。 近い。近づくほど、硬い鱗の一枚一枚が見える。淡く光る線が、身体の内側を脈打つように流れている。鼻先からは、微かに焦げた空気のような匂いがした。

 

雷。 そう思った。この竜は、雷を宿している。

 

怖い。どうしようもなく怖い。身体は固まっている。指先は冷たい。喉が細くなる。

 

シルヴィアが止まった。 震えたことに気づいたのだろう。 シルヴィアはライラを見る。ライラもこちらを見た。

 

「大丈夫ですか」

 

すぐには答えられなかった。 大丈夫。そう簡単に言えるほど、心は落ち着いていない。

 

けれど、シルヴィアが止まったことは分かった。 この竜は、リィナが怖がったから止まったのだ。ライラの言葉を聞き、自分を大きく見せないよう翼を畳み、首を低くし、震えたら止まった。

 

その事実が、恐怖の中に小さな穴を開けた。 ただ怖いだけではない。この存在は、怖がらせないようにしている。

 

ゆっくり息を吸った。

 

「……大丈夫、です」

 

声は震えていた。けれど、逃げなかった。 シルヴィアは少しだけ首を傾げる。

 

その名前を思い出す。 シルヴィア。ライラが何度も呼んでいた名前。 この竜のような存在を、竜でも魔物でもなく、名前で呼ぶなら。まず、その名を呼ぶべきだと思った。

 

竜、と呼びそうになった。けれど、その言葉を飲み込む。

 

「シルヴィア……さん」

 

その瞬間だった。 シルヴィアが、はっきり反応した。

 

大きな瞳がわずかに開く。首が少し上がりかける。翼がばさりと動きそうになって、ライラの鋭い視線で止まる。

 

名前で呼ばれた。それが分かったのだろう。 シルヴィアは、ライラを見る。次に、こちらを見る。

 

それから、喉の奥で低く音を鳴らした。 先ほどまでの不満げな音とは違う。どこか嬉しそうな、得意げな音だった。

 

ライラの表情が少しだけ明るくなる。

 

「シルヴィア、名前で呼んでもらえてよかったね」

 

シルヴィアはさらに得意げになった。

 

驚いた。 名前を呼んだ。ただそれだけで、態度が変わった。竜でも、魔物でもなく。リィナは、その名を呼んだ。

 

その事実が、胸に静かに落ちる。

 

シルヴィアは、もう一歩だけ近づいた。 身体がまた強張る。 ライラがすぐに言う。

 

「そこまで」

 

シルヴィアが止まる。少し不満そうだった。

 

「そこまで」

 

ライラが繰り返す。 シルヴィアは、明らかにしょんぼりした。

 

巨大な竜が。雷を宿した翼を持つ、恐ろしい存在が。年下の少女に注意されて、しょんぼりしたのだ。 どう受け止めればいいのか分からなかった。

 

怖い。怖いのに。少しだけ、困惑が勝った。

 

「……シルヴィアさん」

 

もう一度名前を呼ぶ。シルヴィアがすぐ顔を上げる。

 

「怖くない、とは言えません」

 

正直に言った。シルヴィアの瞳が、じっとこちらを見る。

 

「ですが……あなたが、私を怖がらせないようにしてくださっているのは、分かります」

 

シルヴィアは、少しの間動かなかった。言葉の意味をどこまで理解しているのかは分からない。 けれど、拒絶していないことは伝わったのだと思う。

 

シルヴィアは、ゆっくり喉を鳴らした。 低い音。けれど、先ほどよりも穏やかだった。

 

その音に身体を震わせながらも、逃げなかった。 手を伸ばすことはしない。まだ、できない。触れるには怖すぎる。

 

けれど、名前で呼ぶことはできた。 怖いまま、向き合うことはできた。 それで、今は十分だった。

 

ライラがそっと言う。

 

「無理しなくていいです。今日は、ここまでにしましょう」

 

その声には、少しだけ嬉しさが混じっていた。それに気づく。 ライラは、シルヴィアを大切にしている。リィナがシルヴィアを名前で呼んだことを、喜んでいる。 けれど、その嬉しさを押しつけない。もっと近づいてほしいとも、撫でてほしいとも言わない。怖いことを、そのまま受け止めている。

 

「ありがとうございます」

 

小さく言った。ライラは首を傾げる。

 

「私が言うことではないかもしれませんが……待ってくださって」

 

ライラは少し考えたあと、シルヴィアを見た。

 

「シルヴィア、待てたね」

 

シルヴィアは得意げに喉を鳴らした。褒められたらしい。 その様子に、また戸惑う。 本当に、恐怖だけでは説明できない。

 

 

その後、ライラは少し休ませてくれた。 水を飲ませ、近くの椅子に座らせ、顔色を確認する。

 

「もう戻りますか」

 

「もう少しだけ……大丈夫です」

 

「本当ですか」

 

「本当です。無理はしていません」

 

ライラはまだ少し疑わしそうだったが、頷いた。

 

帰り道、遠くの正門を見た。 そこに、巨大な影があった。

 

最初、岩かと思った。だが、岩は呼吸しない。 黒い山のような巨体。地面に沈むような爪。遠目でも分かる、圧倒的な質量。 伏せているだけなのに、その周囲の空気が重く淀んで見える。

 

足が止まった。声が出ない。 あれが、カイザー。 そう言われなくても、分かった気がした。この家の正門にいる、最も重い気配。

 

ライラは視線を追って、自然に言った。

 

「カイザーです」

 

あまりにも自然だった。庭先で寝ている大型犬を紹介するような声音だった。 だが、リィナには山が呼吸しているように見えた。

 

「門のところが好きみたいです」

 

内心で思う。 好き、で済む存在なのだろうか。あれが門のところにいるだけで、城門どころか城そのものが意思を持っているように見える。 普通の人間なら、遠目に見るだけで逃げ出すだろう。自分自身も、足が固まっている。

 

ライラはカイザーへ軽く手を振った。

 

「カイザー」

 

遠くの巨体が、わずかに反応した。片目が開いたように見える。 次に、低い音が空気を震わせた。

 

喉を鳴らしたのか。息を吐いたのか。それだけで、心臓が大きく跳ねる。

 

だが、カイザーは動かなかった。近づいてこない。ただ、遠くでライラに反応しただけ。 ゆっくり息を吐いた。

 

あれほど恐ろしい存在にも、名前がある。 ライラはその名を自然に呼ぶ。カイザーは、その声に反応する。

 

それだけで、また一つ理解する。 ライラにとって、カイザーもまた、ただの巨獣ではない。 名前のある存在。帰る場所を選び、門の近くにいて、ライラの声を聞くファミリアなのだ。

 

もちろん、怖い。近づきたいとは、まだ思えない。 だが、恐怖だけで塗りつぶすには、もう見てしまったものが多すぎた。

 

 

部屋へ戻る頃には、かなり疲れていた。 足は重く、肩にも力が入っている。シルヴィアと向き合った緊張が、今になって身体に残っていた。

 

ライラはそれを見て、すぐに休ませようとした。

 

「今日はここまでです」

 

「はい。……少し、疲れました」

 

「少しじゃないと思います」

 

ライラの言い方が真面目だったので、小さく笑った。

 

「そうかもしれません」

 

部屋の椅子に座ると、身体から力が抜けた。けれど、悪い疲れではなかった。

 

今日見たものを思い出す。 エクウス達の温かい鼻先。小型の子達の日向ぼっこ。水場と通路。採取組の帰還。主任の無言の分類。ライラの慌てた声。 シルヴィアの拗ねた様子。名前で呼ばれた時の反応。 遠くのカイザーの圧倒的な影。

 

怖いものは、怖い。その事実は変わらない。 シルヴィアは美しく恐ろしい竜だった。カイザーは遠目でも息が詰まるほどの巨獣だった。海の下にいるというファミリア達のことは、まだ想像するだけで怖い。

 

けれど、今日見たものは、ただの魔物の群れではなかった。

 

食べる。眠る。遊ぶ。採取する。運ぶ。分類する。見回る。待つ。 名前に反応する。ライラの言葉を聞く。 そこには生活があった。関係があった。

 

私が選んだ言葉を思い出す。 ファミリア。

 

あの時は、恐怖だけで呼ばないための言葉として選んだ。 今は、少しだけ違う。その言葉に、見たものが重なり始めている。

 

魔物では足りない。従魔でも少し違う。眷属という響きでは、ライラの不器用な優しさや、彼らの生活がこぼれ落ちてしまう。

 

家族。 それはライラの言葉だ。自分自身がそう呼ぶには、まだ早い。まだ外の人間で、まだ怖くて、彼らのことをほとんど知らない。

 

けれど、ファミリアなら。 恐怖を認めたまま、それでも彼らをただの恐ろしいものとして終わらせずに呼べる。

 

静かに口を開いた。

 

「ライラさん」

 

「はい」

 

「少しだけ、分かった気がします」

 

ライラがこちらを見る。

 

「怖くなくなったわけではありません。シルヴィアさんも、カイザーと呼ばれていたあの方も、まだ怖いです」

 

窓の外で、何かが小さく反応した気配があった。シルヴィアだろう。 ライラは一瞬そちらを見てから、またこちらを見る。

 

「それでも……今日見たものは、ただの魔物の群れではありませんでした」

 

言葉を選ぶ。

 

「そこには、暮らしがありました。役割がありました。名前がありました。ライラさんとの関係がありました」

 

ライラは黙って聞いていた。

 

「だから」

 

少しだけ微笑んだ。

 

「……あの言葉を、選べてよかったと思います」

 

ライラの表情が、ふっと柔らかくなった。

 

「ありがとうございます」

 

短い言葉だった。けれど、その声はとても嬉しそうだった。

 

窓の外で、シルヴィアが得意げに喉を鳴らした。 少し肩を跳ねさせたが、すぐに小さく息を吐く。

 

まだ怖い。けれど、今の音が何なのかは分かる。 たぶん、褒められたと思っている。

 

「……シルヴィアさんも、喜んでいるのでしょうか」

 

「たぶん、すごく」

 

ライラが言うと、窓の外でまた喉の音がした。今度は、少しだけ得意げすぎる音だった。 怖さを残したまま、それでもほんの少し笑った。

 

怖いまま見る。 怖いまま、名前を呼ぶ。 怖いまま、恐怖だけではないものを探す。

 

それは、簡単なことではない。 けれど今日、リィナはその最初の一歩を踏み出した。

 

窓の外には、まだ気配がある。 リィナにとって、それはまだ恐ろしい。 けれど、恐怖だけのものではなくなり始めていた。

 

ライラの家で、名前を持つ者達が暮らしている音。 ファミリア達の音だった。




エクウス(Equus ギリシャ語で”馬”)
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