シルヴィアを名前で呼んだ日から、リィナの中で何かが変わった。
恐怖が消えたわけではない。あの紫がかった鱗も、雷を宿したような青白い光も、石床を叩く爪の音も、思い出すだけで背筋が強張る。
カイザーは、なおさらだった。遠くの正門に伏せているだけで、黒い山が呼吸しているように見えた。
けれど、それでも見てよかったと思った。
エクウス達の温かい鼻先。小型の子達の日向ぼっこ。採取組が戻ってくる通路。主任が無言で素材を分ける姿。名前を呼ばれて胸を張ったシルヴィア。遠くのカイザーが、ライラの声に応えた瞬間。
そこには、恐怖だけでは説明できないものがあった。
ファミリア。リィナ自身が選んだその言葉に、少しずつ景色が重なっていく。
魔物では足りない。従魔でも違う。眷属と呼ぶには、あまりに生活の匂いが強すぎる。彼らは食べ、眠り、遊び、働き、戻り、待つ。ライラの声を聞き、ライラと共に暮らしている。
それを見たからこそ、リィナはもう、この場所を恐怖だけで語るわけにはいかないと思った。
同時に、分かっていた。いつまでも、ここにいるわけにはいかない。
身体はまだ完全ではない。けれど、目覚めたばかりの頃とは違う。部屋の中だけでなく、短い距離なら外も歩ける。テラスにも行ける。食事も少しずつ取れるようになった。
回復している。ならば、考えなければならない。帰ることを。
◆
海の見える小さなテラスで、リィナはしばらく波を見ていた。
空は晴れている。あの嵐の夜が嘘のように、海面は穏やかに光っていた。けれど、リィナには分かる。あの海は優しいだけのものではない。船を砕き、人を呑み込み、ここへ運ぶ力を持っている。
その向こうに、王国がある。王国支部がある。教会がある。施療院がある。神学校がある。彼女を知る人達がいる。そして、あの船に乗っていた人達の安否を確かめなければならない。
彼女一人だけが助かったのだろうか。そう考えるたびに、胸の奥がひどく重くなる。助けられた命だからこそ、戻らなければならなかった。
隣にはライラがいた。いつものように、少し距離を空けて座っている。近すぎず、遠すぎず。リィナが怖がらない距離を、ライラはもう自然に覚え始めているようだった。
「ライラさん」
「はい」
「そろそろ、帰ることについて考えなければならないと思います」
ライラは驚かなかった。いつか言われると分かっていたのかもしれない。海を見たまま、静かに頷いた。
「はい。リィナさんには、帰る場所があるので」
その声に、引き止める響きはなかった。胸が少し痛んだ。引き止められたいと思ったわけではない。けれど、あまりにも静かに受け止められたことで、かえってライラの考えが分かった気がした。
帰る場所がある人を、閉じ込めるのは違う。ライラは、そう思っているのだろう。
「ですが、簡単には帰れません」
「はい」
リィナは海へ視線を戻す。
「船はありません。方角も、私には正確には分かりません。この海域は、王国でも危険視されています。普通の船で越えられる場所ではないはずです」
「海は危ないです」
ライラが言った。それは、ただ聞きかじった知識ではなかった。この島で、海棲の子達を見てきた者の言葉だった。ライラは海を見て、少し黙った。
「船を作るなら、海流と距離を知らないといけません。水と食べ物も要ります。途中で壊れたら、リィナさんは海に落ちます」
淡々と並べられる言葉に、リィナは小さく息を呑んだ。怖がらせるための言葉ではない。ライラはただ、条件を一つずつ確認しているのだ。助けたいからこそ、危ないものを危ないと言っている。
「海の子達に護衛してもらうことはできると思います。でも……」
ライラはそこで言葉を切った。リィナにも、続きは分かる。
海棲のファミリア達。リィナはまだ、彼らを直接見ていない。波の下に巨大な影があることは知っている。ライラの話から、モササウルスやメガロドン、さらに大きな存在達が海にいることも聞いた。
彼らに護衛されて海を渡る。安全なのかもしれない。けれど、想像しただけで血の気が引いた。
「……私が、耐えられないかもしれません」
正直に言った。ライラは頷く。
「それもあります。あと、王国の近くで見つかったら、たぶん大変です」
「はい。大変だと思います」
海の怪物の群れに守られて聖女が帰還する。そんな光景を王国の港で見せたら、何が起きるか分からない。恐怖。混乱。誤解。すぐに説明できる気がしなかった。
「救援を待つのも、難しいと思います」
「いつ来るか分かりませんから」
「はい。そもそも、ここへ来られるかも分かりません」
船は難しい。海を行くのも難しい。助けを待つのも不確実。選択肢が、ひとつずつ消えていく。
ライラは、それを感情ではなく、条件で見ているようだった。
ひとつずつ消した先に残るもの。それは、空だった。
リィナは、自分でもその答えが分かっている気がした。けれど、すぐには口にできなかった。
空。シルヴィア。あの竜の背。自分は、あれに乗って海を越えることになるのか。考えただけで、手のひらにじわっと汗が滲む。
ライラも同じ結論に至っているらしかった。少し迷った後、テラスの外へ視線を向ける。そこには、遠くでこちらを気にしているシルヴィアがいた。距離はある。けれど、話題に上がっていることを何となく察しているのか、首をこちらへ向けている。
「シルヴィアなら、空を越えられます」
ライラが言った。それは、帰る道が見つかったということだった。同時に、リィナにとっては、あの竜の背に命を預けるという意味でもあった。
シルヴィアが、ぱっと顔を上げた。明らかに聞いていた。長大な翼が広がりかける。リィナの顔から血の気が引いた。
「シルヴィア、待って」
ライラが即座に止める。翼が途中で止まった。
「まだ何も決まってない。あと、広げない。怖がるから」
シルヴィアは少ししょんぼりした。そして、すぐまた首を持ち上げた。役に立てると思っているのだろう。
「……本当に、シルヴィアさんに乗るのですね」
声が震えた。ライラはこちらを見る。
「無理なら、別の方法を考えます」
「いいえ。無理と決めてしまうには、まだ早いです」
自分で言いながら、胸の奥がきゅっと縮む。帰るための方法として、これが最も現実的なのだ。海の潮流を避けられる。海中の危険も避けられる。船を作る必要もない。
問題は、自分が竜の背に乗れるか。そして、王国側でどれほど混乱が起きるか。聖女が竜に乗って戻る。それだけで、人々は奇跡とも災厄とも受け取るだろう。
「いきなり飛ぶのは無理です」
ライラが言った。
「はい」
「まず、練習しましょう。乗れるかどうか、少しずつ。怖かったらすぐやめます。飛ぶのは最後です」
リィナはシルヴィアを見る。シルヴィアはすでにやる気だった。とてもやる気だった。だから余計に怖かった。
「怖いです。ですが、帰るために必要なら……お願いします」
ライラは真剣な顔で頷いた。
「絶対に無理はさせません」
そしてシルヴィアを見る。
「シルヴィア。ゆっくり。絶対に、ゆっくり」
シルヴィアは少しだけ不満そうに目を細めた。それから、胸を張る。分かっている、とそう言いたいのだろう。ライラは少し疑わしそうだった。
「本当に、ゆっくりだからね」
シルヴィアは今度こそしっかり頷いた。
◆
最初の練習は、乗ることですらなかった。ただ、近くに立つだけ。
シルヴィアは草地の上に伏せ、翼を畳み、首を低くしていた。それでも大きい。近づくほど、鱗の一枚一枚が見える。青白い光が体の内側を流れ、呼吸のたびに胸が大きく動く。鼻先からは、微かな雷の匂いがした。足が止まりそうになる。
シルヴィアは動かなかった。こちらを見ている。大きな瞳が、じっとリィナの動きを追っていた。
手のひらが冷える。だが、その瞳に敵意はない。むしろ、我慢している。近づきたいのを我慢している。顔を寄せたいのを我慢している。
「シルヴィアさん」
名前を呼ぶと、すぐに反応した。首が少し上がりかける。
「シルヴィア、動かない」
ライラの声で止まった。しょんぼりする。リィナは、怖いまま少しだけ息を吐いた。
「……ありがとうございます。待ってくださって」
シルヴィアは、喉を小さく鳴らした。それだけで、胸の緊張がまた跳ねる。けれど、逃げなかった。
次の練習は、触れることだった。
「無理なら、今日はここまででいいです」
ライラが言う。シルヴィアは伏せたまま動かない。触れるなら、首元か肩のあたりがいいと教えられた。翼や顔の近くは、まだリィナには怖すぎるだろうという配慮だった。
ゆっくり手を伸ばす。指先が震える。鱗に触れた。硬い。
そして、想像より温かかった。金属のように冷たいのかと思っていた。けれど違う。硬質な鱗の下には、確かに生き物の力強い熱と脈動がある。
シルヴィアが、嬉しそうに動きかけた。
「動かない」
ライラが止める。シルヴィアがまたしょんぼりした。リィナは思わず小さく笑ってしまった。
触れている今も怖い。けれど、目の前の竜は、触れられたことを喜んでいる。リィナを怖がらせないように必死に我慢している。そのことは分かった。
「シルヴィアさんは、分かりやすいですね」
そう言うと、シルヴィアは喉を鳴らして首を持ち上げた。
「褒められてるわけじゃないかも」
ライラが小さく言う。その声には、微かな笑いが混じっていた。
◆
背に乗る練習は、それからさらに少し後だった。シルヴィアは地面に伏せ、できるだけ低くなっている。それでも、背中は高い。普通の馬とは違う。
リィナはエクウスにも乗ったことがあった。王国で各地を巡る時、乗馬は必要だった。馬の背の揺れ、手綱の感覚、体重のかけ方はある程度分かる。
しかし、竜の背はまったく別物だった。鞍はない。ワイバーンは、鞍なしでも乗れるのだとライラは言った。リィナにはその意味がよく分からなかったが、シルヴィアの首元から背にかけての棘や鱗の並びが、自然と身体を安定させられる窪みを作っているらしい。
「ここを持ってください。強く掴みすぎなくて大丈夫です。シルヴィアも分かるので」
「分かる、のですか」
「たぶん。かなり」
ライラの答えは少し曖昧だった。けれど、シルヴィアは胸を張っていた。
ライラに支えられながら、シルヴィアの背にまたがる。高さが違う。視界が変わる。ただ伏せているだけなのに、地面がひどく遠く感じた。
身体に力が入る。シルヴィアは動かない。息をしているだけだ。その呼吸のたび、背中がゆっくり上下する。生きた竜の上にいる。その事実が、じわじわと本能的な恐怖を呼び起こす。
「大丈夫ですか」
ライラが下から見上げていた。
「……まだ、大丈夫です」
そう答えながら、どこを掴めばいいのか、どう体重を乗せればいいのか、必死に探った。馬なら分かる。けれどシルヴィアは馬ではない。背の幅も、動き方も、筋肉の動きも違う。
「少し、力を抜いた方がいいかもしれません」
「できますか」
「努力します」
ライラは小さく笑った。シルヴィアも喉を鳴らした。
「シルヴィアは動かない」
また注意され、シルヴィアはぴたりと止まった。
数歩だけ歩く練習では、情けないほど固まった。シルヴィアが一歩動く。背が揺れる。その瞬間、全身に力が入った。肩が固まり、膝に力が入り、指が鱗を強く掴む。
シルヴィアがすぐ止まった。ライラも止めた。
「一回、休みましょう」
「……はい」
降りると、足が少し震えていた。情けないと思ったが、ライラは責めなかった。「最初なので」と、それだけ言った。
リィナは深く息を吸う。怖くなる瞬間なら覚えられる。
動き出しの瞬間に肩へ力が入った。膝を締めすぎた。手で支えようとしすぎた。背の揺れに逆らった。
馬でも、動きに逆らえば揺れは大きくなる。シルヴィアも同じなのかもしれない。逆らわず、呼吸を合わせるという考え方は使える。
「もう一度、お願いします」
ライラが少し驚いた。
「休まなくて大丈夫ですか」
「今、何が駄目だったのか、覚えているうちに試したいです」
ライラはしばらく見ていた。それから、頷いた。
「じゃあ、少しだけ」
シルヴィアが翼をわずかに広げかける。
「シルヴィアは、ゆっくり」
翼がすぐ戻った。次は、一歩目で息を止めないようにした。それでも身体は固まる。だが、先ほどより少しましだった。
シルヴィアの背が動く前に、胸の奥で息を吐く。背の揺れに逆らわず、少し遅れてついていく。
一歩。二歩。三歩。それだけで、冷たい汗が出た。
シルヴィアが止まる。ライラが下から見ていた。
「今の方がよかったです」
「……私も、そう思います」
声は震えていた。けれど、先ほどよりも呼吸はできていた。
◆
初めて地面から浮いた日は、今でも忘れられない。
シルヴィアは翼を広げなかった。まずは、本当に少しだけ。地面から、人の膝ほどもない高さに浮く。それだけだった。それだけだったのに、リィナの身体は一瞬で冷たくなった。
地面が離れる。足が届かない。重力が、一瞬消えたような感覚。馬ではありえない。船でもない。空だ。身体が、勝手に震えた。
「降りて」
ライラがすぐ言った。シルヴィアは即座に降りた。
地面に戻った瞬間、息が詰まっていたことに気づいた。リィナは真っ青になっていたらしい。シルヴィアが心配そうに首を回しかける。
「近い」
ライラが止める。シルヴィアはその場で固まった。降りた後、しばらく声が出なかった。ライラが水を持ってくる。
「今日はここまでにしましょう」
その言葉に、頷きかけて、首を横に振った。
「今日は、ここまでで大丈夫です」
「はい」
「でも……次もお願いします」
ライラの目が少し揺れた。シルヴィアもこちらを見る。
「怖いです。今も、怖いです。でも、帰るために必要なら、慣れます。少しずつ」
ライラは、静かに頷いた。
「分かりました。少しずつです」
シルヴィアに向けて、もう一度言った。
「「絶対に、少しずつ」」
シルヴィアは、今度は妙に真剣に頷いた。
◆
それからの日々は、少しずつ空に近づいていく時間だった。
最初の一週目は、シルヴィアの背に乗るだけで精一杯だった。近くに立つ。触れる。背に乗る。数歩歩く。少し浮く。すぐ降りる。それだけを何度も繰り返した。
低く浮いただけで顔色が悪くなることもあった。足が震えて降りられなくなり、ライラに支えられたこともある。シルヴィアが心配して顔を覗き込もうとし、そのたびに「近い」と止められてしょんぼりした。
最初の頃、シルヴィアはリィナが怖がるたびに、顔を寄せようとした。けれど、それが余計に怖がらせるのだと身についたらしい。日が経つにつれて、リィナの呼吸が乱れると、顔を近づけるのではなく、まず動きを止めるようになった。
ライラが教えたわけではない。シルヴィアが、自分でそうするようになったのだ。
リィナも、その都度整理していった。どこで息を止めたのか。どこで肩に力が入ったのか。どこを掴めば安定するのか。シルヴィアが浮く前に、どんなふうに身体が沈むのか。翼を動かす前、背中の筋肉がどう変わるのか。
怖さは消えない。けれど、怖さの形が少しずつ分かってくる。分かれば、備えられる。
二週目に入る頃には、低空で短い距離を移動できるようになった。地面から少しだけ浮き、草地の端から端まで進む。最初は、たったそれだけで目が回った。
けれど、何度も繰り返すうちに、シルヴィアの動きに前触れがあることが分かってきた。浮き上がる前、背中がわずかに沈む。速度を変える時、首の角度が変わる。曲がる前、翼の付け根が動く。止まる前、呼吸が少しだけ深くなる。それを掴むと、少しだけ先に身体を合わせられるようになった。
二週目の終わり頃、シルヴィアが止まる前に、リィナの身体が先に揺れを受け止めた。
「あ」
思わず声が漏れる。今、少しだけ分かった。止まる前、シルヴィアの背はほんのわずかに沈む。その沈みに逆らわなければ、身体は置いていかれない。
「今の、楽でした」
そう言うと、シルヴィアは喉を鳴らして首を持ち上げた。ライラも少し嬉しそうに頷く。
「今のは、よかったと思います」
「はい。少し、分かりました」
その「少し」が積み重なっていく。シルヴィアも、リィナが怖がる角度、力が入りすぎる速度、息が浅くなる高さを身につけていた。急に首を動かすと驚くことも知っていた。
ライラが言わなくても、速度を落とすことが増えた。止まる時も、以前より柔らかくなった。背中の揺れを抑えるように飛ぶこともあった。
「ありがとうございます、シルヴィアさん」
そう言うと、シルヴィアは翼をわずかに広げた。
「褒められると調子に乗るから、ほどほどに」
ライラがそう言う。けれど、その顔も少し嬉しそうだった。
三週目には、海岸線の上を少しだけ飛んだ。海を見ると、身体が強張った。どうしても、嵐の夜を思い出す。黒い波。砕ける船。冷たい水。呼吸のない暗闇。眼下に広がる海が、あの日と同じものに見えた。
指に力が入る。息が浅くなる。
シルヴィアが気づいた。速度が落ちる。翼の動きが、ゆっくりになる。海岸線から離れすぎず、けれど波の上へ落ちるような角度にはしない。ライラに言われる前に、シルヴィア自身がそうしているのだと分かった。
「……大丈夫です」
そう言うと、シルヴィアは小さく喉を鳴らした。大丈夫か、と聞かれたような気がした。
「海は、まだ怖いです。でも、シルヴィアさんの背は……海に落ちる場所ではないのですね」
シルヴィアの背が、わずかに安定した気がした。海を越える場所。そう思えたのは、その日が初めてだった。
四週目には、本番を想定した練習に入った。少し長く飛ぶ。寒さ対策をする。外套を羽織り、布を巻き、風で体温を奪われないようにする。手の位置を確認し、長く乗る時の姿勢を整える。途中で休む場所があるか、海岸線をどこまで辿れるか、どの高さならリィナが耐えられるかを確かめる。
高く上がれば、まだ足元が冷える。速度が出れば、胸が縮む。急に風が変われば、思わず声が漏れる。
それでも、乗っていられる。シルヴィアの背で、呼吸ができる。
シルヴィアも、リィナを乗せる時は普段と違う飛び方をするようになっていた。ライラを乗せる時より、ずっと慎重だ。たまに得意になって速度を上げかける。
「シルヴィア」
ライラに呼ばれると、すぐに戻る。しょんぼりしながら。リィナは、それを見て少し笑えるようになっていた。
◆
騎乗練習だけではなく、日々の過ごし方も変わっていった。
朝、エクウス達に挨拶をする。最初に近づいてきた一頭は、すっかりリィナの匂いを覚えたらしい。手を出すと、鼻先で軽く触れてくる。小型の子達も、少し離れた場所からなら落ち着いて見られるようになった。まだ急に近づかれると驚くが、ライラが声をかければ止まる。
主任は、相変わらず黙々と作業をしている。リィナが礼を言うと、無言で片手を上げる。何度見ても、それが挨拶なのか返事なのかは分からない。けれど、たぶん両方なのだろうと思うようになった。
シルヴィアは、窓の外やテラスの近くに顔を出すことが増えた。最初はそのたびに身体が固まったが、だんだん分かってきた。シルヴィアは、覗き込んでいる。様子を見ている。そして、名前を呼ばれるのを待っている。
「シルヴィアさん、近いです」
ある日そう言うと、シルヴィアはしょんぼりした。ライラが横で笑いを堪えていた。
「でも、見に来てくださったのですね。ありがとうございます」
続けてそう言うと、今度はすぐに胸を張った。切り替えが早い。本当に早い。恐ろしい竜なのに、そういうところがある。
カイザーは、相変わらず遠くの正門にいた。リィナはまだ近づかない。それでよかった。無理に近づく必要はない。
ただ、遠くで低い呼吸が聞こえた時、以前ほどすぐに震えなくなった。あそこにいるのはカイザー。門のところが好きらしい、ライラのファミリア。恐ろしい巨獣であることは変わらない。けれど、名前は覚えた。それだけでも、最初とは違った。
ライラとの距離も、少しずつ変わっていった。最初は、互いにずっと「さん」を付けていた。リィナさん。ライラさん。
それは自然だった。リィナの方が年上で、ライラは外の人間との会話に慣れていない。丁寧に呼び合うことで、お互いに距離を測っていたのだと思う。
けれど、ひと月近く一緒に過ごせば、少しずつ変わる。練習後、リィナが疲れきって座り込むと、ライラは水を渡しながら言った。
「リィナさん、今日はもう休んでください」
「ライラさん」
「はい」
「無理に丁寧にしなくても、大丈夫ですよ」
ライラは瞬きをした。
「でも、リィナさんは年上なので」
「確かに年上ですが、私は助けられてばかりですし、もうかなりお世話になっています」
「それとこれは、違う気がします」
「そうですか?」
「はい。たぶん」
ライラは真剣に悩んでいた。その様子が少しおかしくて、リィナは口元を緩めた。
「では、呼びやすいように呼んでください。無理に変えなくても構いません」
「……考えます」
ライラはそう言った。
◆
帰還前日。約ひと月が過ぎていた。
その日は朝から準備が始まっていた。主任が、いつものヘルメットを被ったまま、無言で荷物を並べている。
水。保存食。乾いた布。防寒用の外套。リィナの身につけていた聖印。王国側で説明の手がかりになるかもしれない、船の破片や布切れの一部。どれも、必要なものだけが選ばれていた。
「主任さん、ありがとうございます」
リィナが礼を言うと、主任は片手を上げた。相変わらず無言だった。けれど、もう少しだけ分かる。これは返事だ。
エクウス達も様子を見に来ていた。一頭が荷物の匂いを嗅ぎ、別の一頭がリィナの手に鼻先を寄せる。
「明日、帰ります」
そう言うと、エクウスは耳を動かした。理解しているかは分からない。ただ、温かい鼻先が手に触れた。小型の子達は少し遠くで騒いでいる。何か特別な日だと分かっているのかもしれないし、ただ荷物が珍しいだけかもしれない。
高所では、ワイバーン達の気配がある。翼の音が静かに重なり、一体がこちらを見下ろしていた。声をかけられる距離ではない。それでも、視線は感じた。
正門にはカイザーがいる。相変わらず、遠い。けれど、遠くから低く息を吐いた音が聞こえた時、リィナは自然にそちらを見た。
「カイザーさんにも、お世話になりました」
声は届かない距離だったかもしれない。それでも言った。遠くの黒い巨体が、わずかに動いた気がした。気のせいかもしれない。それでも、そうであってほしかった。
シルヴィアは、帰還用の確認を受けていた。といっても、特別な装備をつけるわけではない。ワイバーンにサドルはない。リィナが掴む位置、座る位置、外套が翼の動きを邪魔しないこと、荷物がずれないこと。それらを何度も確認する。シルヴィアは得意げだった。とても得意げだった。
「シルヴィア、明日は本当にゆっくり。いつもの練習より、もっと慎重に。王国の近くに着いたら、勝手に近づきすぎない」
シルヴィアは少し首を傾げた。「目立つから」シルヴィアは、なぜか胸を張った。
「目立たない方がいいの」
しょんぼりした。リィナは思わず笑った。
「シルヴィアさんは、目立つのがお嫌ではなさそうですね」
「たぶん、格好いいと思われたいんだと思います」
「実際、とても格好いいです」
シルヴィアが一気に翼を広げかけた。
「リィナ、褒めすぎると調子に乗る」
一瞬、言葉が止まった。呼び捨て。それは、とても自然に聞こえた。ライラ自身は少し緊張したような顔をしている。リィナは、ゆっくり微笑んだ。
「はい。気をつけます」
あえて何も言わなかった。ただ、受け入れる。それだけで十分だと思った。ライラは少し安心したように息を吐いた。
◆
その日の夕方、二人は海の見えるテラスにいた。
明日、帰る。その事実が、静かに空気の中にあった。海の向こうには、王国がある。リィナの帰る場所がある。背後には、ライラとファミリア達の家がある。
ひと月前、自分はここへ流れ着いた。エクウス達に見つけられ、ライラに助けられ、ファミリアという言葉を選び、怖いまま見て、竜の背に慣れた。長いようで、短い時間だった。
「明日、帰ります」
リィナは静かに言った。ライラは頷く。「はい」
「王国へ戻れば、必ず聞かれると思います。どこにいたのか。誰に助けられたのか。何を見たのか」
「そうですよね」
「私は、ここを恐怖だけで語りません」
ライラがこちらを見る。リィナは海を見つめたまま続けた。
「恐ろしかったことも、助けられたことも、どちらも正しく話せるようにします。シルヴィアさんが怖かったことも、私を怖がらせないようにしてくださったことも。カイザーさんが恐ろしいほど大きかったことも、ライラの声に応えていたことも。ここが危険な場所であることも、同時に、あなた達の家であることも」
声は少し震えていた。けれど、言わなければならないと思った。
ライラはしばらく黙っていた。「……ありがとう」と、小さく言った。
「私は、まだすべてを理解しているわけではありません。恐怖もあります。けれど、恐怖だけで語れば、きっと間違えます」
海風が吹く。リィナは聖印に軽く触れた。
「だから、覚えて帰ります。見たものを。助けられたことを。ファミリア達が暮らしていたことを」
ライラはその言葉の重さを受け止めるように、もう一度静かに頷いた。
ライラは、静かに言った。
「お願いします」
それから、少しだけ迷い。
「ありがとう、リィナ」
今度は、はっきり呼び捨てだった。胸の奥が温かくなる。
「はい、ライラ」
そう返すと、ライラは少しだけ驚いた顔をした。そして、ほんの少し笑った。
テラスの外で、シルヴィアが気配を動かした。近づいてはこない。けれど、聞いている。明日、自分がリィナを乗せて海を越えるのだと分かっているのだろう。いつもより少しだけ誇らしげな気配だった。
遠くの正門で、カイザーが低く息を吐く。小型の子達の鳴き声が、家の奥から聞こえる。主任は、きっとまだ荷物の最終確認をしている。エクウス達は、草地で夜の風に耳を揺らしている頃だろう。
リィナは目を閉じる。この音にも、いつの間にか意味ができていた。
最初は恐怖だけだった。今も、怖さは残っている。それでも、もう恐怖だけではない。ライラの家の音。ファミリア達の音。彼女を助け、見送り、明日海の向こうへ送り届けてくれる場所の音。
怖い。それは変わらない。けれど、その背はもう、ただ恐怖の場所ではなかった。シルヴィアの背は、帰るための場所だった。
夜の海の向こうに、王国がある。背後には、ライラとファミリア達の家がある。
リィナは静かに息を吸い、潮の匂いを胸に入れた。
もう、あの背に乗れる。怖いままでも。震えたままでも。
竜の背の呼吸を、覚えたのだから。