廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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空を渡る準備

シルヴィアを名前で呼んだ日から、リィナの中で何かが少しだけ変わった。

 

恐怖が消えたわけではない。 あの紫がかった鱗も、雷を宿したような青白い光も、石床を叩く爪の音も、思い出すだけで背筋が強張る。

 

カイザーは、なおさらだった。 遠くの正門に伏せているだけで、黒い山が呼吸しているように見えた。

 

けれど、それでも見てよかったと思った。

 

エクウス達の温かい鼻先。小型の子達の日向ぼっこ。採取組が戻ってくる通路。主任が無言で素材を分ける姿。名前を呼ばれて得意げになったシルヴィア。遠くのカイザーが、ライラの声に応えた瞬間。

 

そこには、恐怖だけでは説明できないものがあった。

 

ファミリア。 リィナ自身が選んだその言葉に、少しずつ景色が重なっていく。

 

魔物では足りない。従魔でも違う。眷属と呼ぶには、あまりに生活の匂いが強すぎる。 彼らは食べ、眠り、遊び、働き、戻り、待つ。ライラの声を聞き、ライラと共に暮らしている。

 

それを見たからこそ、リィナはもう、この場所を恐怖だけで語るわけにはいかないと思った。

 

同時に、分かっていた。 いつまでも、ここにいるわけにはいかない。

 

身体はまだ完全ではない。けれど、目覚めたばかりの頃とは違う。部屋の中だけでなく、短い距離なら外も歩ける。テラスにも行ける。食事も少しずつ取れるようになった。

 

回復している。 ならば、考えなければならない。帰ることを。

 

 

海の見える小さなテラスで、リィナはしばらく波を見ていた。

 

空は晴れている。あの嵐の夜が嘘のように、海面は穏やかに光っていた。けれど、リィナには分かる。あの海は優しいだけのものではない。船を砕き、人を呑み込み、ここへ運ぶ力を持っている。

 

その向こうに、王国がある。 王国支部がある。教会がある。施療院がある。神学校がある。彼女を知る人達がいる。 そして、あの船に乗っていた人達の安否を確かめなければならない。

 

彼女一人だけが助かったのだろうか。 そう考えるたびに、胸の奥がひどく重くなる。助けられた命だからこそ、戻らなければならなかった。

 

隣にはライラがいた。 いつものように、少し距離を空けて座っている。近すぎず、遠すぎず。リィナが怖がらない距離を、ライラはもう自然に覚え始めているようだった。

 

「ライラさん」

 

「はい」

 

「そろそろ、帰ることについて考えなければならないと思います」

 

ライラは驚かなかった。いつか言われると分かっていたのかもしれない。海を見たまま、静かに頷いた。

 

「はい。リィナさんには、帰る場所があるので」

 

その声に、引き止める響きはなかった。 少し胸が痛んだ。引き止められたいと思ったわけではない。けれど、あまりにも静かに受け止められたことで、かえってライラの考えが分かった気がした。

 

帰る場所がある人を、閉じ込めるのは違う。 ライラは、そう思っているのだろう。

 

「ですが、簡単には帰れません」

 

「はい」

 

リィナは海へ視線を戻す。

 

「船はありません。方角も、私には正確には分かりません。この海域は、王国でも危険視されています。普通の船で越えられる場所ではないはずです」

 

「海は危ないです」

 

ライラが言った。それは、ただ聞きかじった知識ではなかった。この島で、海棲の子達を見てきた者の言葉だった。 ライラは少し黙って、海を見た。

 

「船を作るなら、材料だけじゃなくて、海流と距離を知らないといけません。水と食べ物も要ります。途中で壊れたら、リィナさんは海に落ちます」

 

淡々と並べられる言葉に、リィナは小さく息を呑んだ。 怖がらせるための言葉ではない。ライラはただ、条件を一つずつ確認しているのだ。助けたいからこそ、危ないものを危ないと言っている。

 

「海の子達に護衛してもらうことはできると思います。でも……」

 

ライラはそこで少し言葉を切った。リィナにも、続きは分かる。

 

海棲のファミリア達。リィナはまだ、彼らを直接見ていない。波の下に巨大な影があることは知っている。ライラの話から、モササウルスやメガロドン、さらに大きな存在達が海にいることも聞いた。

 

彼らに護衛されて海を渡る。 安全なのかもしれない。けれど、想像しただけで血の気が引いた。

 

「……私が、耐えられないかもしれません」

 

正直に言った。ライラは頷く。

 

「それもあります。あと、王国の近くで見つかったら、たぶん大変です」

 

「はい。大変だと思います」

 

海の怪物の群れに守られて聖女が帰還する。そんな光景を王国の港で見せたら、何が起きるか分からない。恐怖。混乱。誤解。すぐに説明できる気がしなかった。

 

「救援を待つのも、難しいと思います」

 

「いつ来るか分かりませんから」

 

「はい。そもそも、ここへ来られるかも分かりません」

 

船は難しい。海を行くのも難しい。助けを待つのも不確実。 選択肢が、ひとつずつ消えていく。

 

ライラは、それを感情ではなく、条件で見ているようだった。 船を作るなら、海を知らなければならない。救援を待つなら、いつ来るか分からないものに食料と時間を預けることになる。海を行くなら、海の子達は強い。けれど、リィナの心が耐えられるとは限らない。

 

ひとつずつ消した先に残るもの。 それは、空だった。

 

リィナは、自分でもその答えが分かっている気がした。けれど、すぐには口にできなかった。

 

空。シルヴィア。あの竜の背。 自分は、あれに乗って海を越えることになるのか。考えただけで、手のひらにじわっと汗が滲む。

 

ライラも同じ結論に至っているらしかった。 少しだけ迷った後、テラスの外へ視線を向ける。そこには、遠くでこちらを気にしているシルヴィアがいた。 距離はある。けれど、話題に上がっていることを何となく察しているのか、首をこちらへ向けている。

 

「シルヴィアなら、空を越えられます」

 

ライラが言った。 それは、帰る道が見つかったということだった。同時に、リィナにとっては、あの竜の背に命を預けるという意味でもあった。

 

シルヴィアが、ぱっと顔を上げた。明らかに聞いていた。長大な翼が広がりかける。 リィナの顔から血の気が引いた。

 

「シルヴィア, 待って」

 

ライラが即座に止める。翼が途中で止まった。

 

「まだ何も決まってない。あと、広げない。怖がるから」

 

シルヴィアは少ししょんぼりした。 そして、すぐまた得意げに胸を張った。役に立てる、と思っているのだろう。

 

その様子に、怖いのに少しだけ困ってしまう。あの巨体で、あの翼で、あの雷の気配を持ちながら、分かりやすく褒められ待ちをしている。

 

「……本当に、シルヴィアさんに乗るのですね」

 

声が震えた。ライラはこちらを見る。

 

「無理なら、別の方法を考えます」

 

「いいえ。無理と決めてしまうには、まだ早いです」

 

自分で言いながら、胸の奥がきゅっと縮む。 怖い。けれど、帰るための方法として、これが最も現実的なのだ。海の潮流を避けられる。海中の危険も避けられる。船を作る必要もない。

 

問題は、自分が竜の背に乗れるか。そして、王国側でどれほど混乱が起きるか。 聖女が竜に乗って戻る。それだけで、人々は奇跡とも災厄とも受け取るだろう。

 

「いきなり飛ぶのは無理です」

 

ライラが言った。

 

「はい」

 

「まず、練習しましょう。乗れるかどうか、少しずつ。怖かったらすぐやめます。飛ぶのは最後です」

 

リィナはシルヴィアを見る。シルヴィアはすでにやる気だった。とてもやる気だった。だから余計に怖かった。

 

「怖いです。ですが、帰るために必要なら……お願いします」

 

ライラは真剣な顔で頷いた。

 

「絶対に無理はさせません」

 

そしてシルヴィアを見る。

 

「シルヴィア。ゆっくり。絶対に、ゆっくり」

 

もう一度言われ、シルヴィアは少しだけ不満そうに目を細めた。それから、胸を張る。分かっている、とそう言いたいのだろう。 ライラは少し疑わしそうだった。

 

「本当に、ゆっくりだからね」

 

シルヴィアは今度こそしっかり頷いた。

 

 

最初の練習は、乗ることですらなかった。ただ、近くに立つだけ。

 

シルヴィアは草地の上に伏せ、翼を畳み、首を低くしていた。 それでも大きい。近づくほど、鱗の一枚一枚が見える。青白い光が体の内側を流れ、呼吸のたびに胸が大きく動く。鼻先からは、微かな雷の匂いがした。 足が止まりそうになる。

 

シルヴィアは動かなかった。こちらを見ている。大きな瞳が、じっとリィナの動きを追っていた。

 

怖い。だが、その瞳に敵意はない。 むしろ、我慢している。近づきたいのを我慢している。顔を寄せたいのを我慢している。褒められたいのを我慢している。

 

「シルヴィアさん」

 

名前を呼ぶと、すぐに反応した。首が少し上がりかける。

 

「シルヴィア、動かない」

 

ライラの声で止まった。しょんぼりする。 リィナは、怖いまま少しだけ息を吐いた。

 

「……ありがとうございます。待ってくださって」

 

シルヴィアは、喉を小さく鳴らした。それだけで、胸の緊張がまた跳ねる。けれど、逃げなかった。

 

次の練習は、触れることだった。

 

「無理なら、今日はここまででいいです」

 

ライラが言う。シルヴィアは伏せたまま動かない。 触れるなら、首元か肩のあたりがいいと教えられた。翼や顔の近くは、まだリィナには怖すぎるだろうという配慮だった。

 

ゆっくり手を伸ばす。指先が震える。 鱗に触れた。硬い。

 

そして、想像より温かかった。 金属のように冷たいのかと思っていた。けれど違う。硬質な鱗の下には、確かに生き物の力強い熱と脈動がある。

 

シルヴィアが、嬉しそうに動きかけた。

 

「動かない」

 

ライラが止める。シルヴィアがまたしょんぼりした。 リィナは思わず小さく笑ってしまった。

 

触れている今も怖い。けれど、目の前の竜は、触れられたことを喜んでいる。リィナを怖がらせないように必死に我慢している。そのことは分かった。

 

「シルヴィアさんは、分かりやすいですね」

 

そう言うと、シルヴィアは得意げに喉を鳴らした。

 

「褒められてるわけじゃないかも」

 

ライラが小さく言う。その声には、微かな笑いが混じっていた。

 

 

背に乗る練習は、それからさらに少し後だった。 シルヴィアは地面に伏せ、できるだけ低くなっている。それでも、背中は高い。普通の馬とは違う。

 

リィナはエクウスにも乗ったことがあった。王国で各地を巡る時、乗馬は必要だった。馬の背の揺れ、手綱の感覚、体重のかけ方はある程度分かる。

 

しかし、竜の背はまったく別物だった。鞍はない。 ワイバーンは、鞍なしでも乗れるのだとライラは言った。リィナにはその意味がよく分からなかったが、シルヴィアの首元から背にかけての棘や鱗の並びが、自然と身体を安定させられる窪みを作っているらしい。

 

「ここを持ってください。強く掴みすぎなくて大丈夫です。シルヴィアも分かるので」

 

「分かる、のですか」

 

「たぶん。かなり」

 

ライラの答えは少し曖昧だった。けれど、シルヴィアは得意げだった。

 

ライラに支えられながら、シルヴィアの背にまたがる。 高さが違う。視界が変わる。ただ伏せているだけなのに、地面がひどく遠く感じた。

 

身体に力が入る。シルヴィアは動かない。息をしているだけだ。 その呼吸のたび、背中がゆっくり上下する。生きた竜の上にいる。その事実が、じわじわと本能的な恐怖を呼び起こす。

 

「大丈夫ですか」

 

ライラが下から見上げていた。

 

「……まだ、大丈夫です」

 

そう答えながら、どこを掴めばいいのか、どう体重を乗せればいいのか、必死に探った。馬なら分かる。けれどシルヴィアは馬ではない。背の幅も、動き方も、筋肉の動きも違う。鱗は滑るわけではないが、布や革とは違う硬さがある。

 

怖がって固まると、余計に不安定になる。それだけは分かった。

 

「少し、力を抜いた方がいいかもしれません」

 

「できますか」

 

「努力します」

 

ライラは少しだけ笑った。シルヴィアも喉を鳴らした。

 

「シルヴィアは動かない」

 

また注意され、シルヴィアはぴたりと止まった。

 

数歩だけ歩く練習では、情けないほど固まった。 シルヴィアが一歩動く。背が揺れる。 その瞬間、全身に力が入った。肩が固まり、膝に力が入り、指が鱗を強く掴む。

 

シルヴィアがすぐ止まった。ライラも止めた。

 

「一回、休みましょう」

 

「……はい」

 

降りると、足が少し震えていた。情けないと思ったが、ライラは責めなかった。「最初なので」と、それだけ言った。

 

リィナは深く息を吸う。 恐怖で固まってしまうのは仕方がない。けれど、固まれば余計に不安定になる。ならば、次は何を変えればよいか。自分の身体の反応を、頭の中で整理する。

 

動き出しの瞬間に肩へ力が入った。膝を締めすぎた。手で支えようとしすぎた。背の揺れに逆らった。

 

馬でも、動きに逆らえば揺れは大きくなる。シルヴィアも同じなのかもしれない。いや、まったく同じではない。けれど、逆らわず、呼吸を合わせるという考え方は使える。

 

怖い、という感情は消せない。 けれど、怖くなる瞬間なら覚えられる。

 

浮き上がる直前。動き出す瞬間。シルヴィアの首が急に動いた時。高さが変わった時。 原因が分かれば、備え方を考えられる。それは神聖術の研究でも、救護の現場でも、何度も繰り返してきたことだった。

 

「もう一度、お願いします」

 

ライラが少し驚いた。

 

「休まなくて大丈夫ですか」

 

「少し休んだら。今、何が駄目だったのか、覚えているうちに試したいです」

 

ライラはしばらく見ていた。それから、頷いた。

 

「じゃあ、少しだけ」

 

シルヴィアが嬉しそうに喉を鳴らす。

 

「シルヴィアは、ゆっくり」

 

嬉しそうな音が少し小さくなった。 次は、一歩目で息を止めないようにした。それでも怖い。身体は固まる。だが、先ほどより少しましだった。

 

シルヴィアの背が動く前に、胸の奥で息を吐く。背の揺れに逆らわず、少し遅れてついていく。

 

一歩。二歩。三歩。 それだけで、冷たい汗が出た。

 

シルヴィアが止まる。ライラが下から見ていた。

 

「今の方がよかったです」

 

「……私も、そう思います」

 

声は震えていた。けれど、先ほどよりも呼吸はできていた。

 

 

初めて地面から浮いた日は、今でも忘れられない。

 

シルヴィアは翼を広げなかった。まずは、本当に少しだけ。地面から、人の膝ほどもない高さに浮く。それだけだった。 それだけだったのに、リィナの身体は一瞬で冷たくなった。

 

地面が離れる。足が届かない。重力が、一瞬消えたような感覚。 馬ではありえない。船でもない。空だ。身体が、勝手に震えた。

 

「降りて」

 

ライラがすぐ言った。シルヴィアは即座に降りた。

 

地面に戻った瞬間、息が詰まっていたことに気づいた。 リィナは真っ青になっていたらしい。シルヴィアが心配そうに首を回しかける。

 

「近い」

 

ライラが止める。シルヴィアはその場で固まった。 降りた後、しばらく声が出なかった。ライラが水を持ってくる。

 

「今日はここまでにしましょう」

 

その言葉に、頷きかけて、首を横に振った。

 

「今日は、ここまでで大丈夫です」

 

「はい」

 

「でも……次もお願いします」

 

ライラの目が少し揺れた。シルヴィアもこちらを見る。

 

「怖いです。今も、怖いです。でも、帰るために必要なら、慣れます。少しずつ」

 

ライラは、静かに頷いた。

 

「分かりました。でも、少しずつです」

 

「はい」

絶対に、少しずつ」

 

シルヴィアに向けて、もう一度言った。シルヴィアは、今度は妙に真剣に頷いた。

 

 

それからの日々は、少しずつ空に近づいていく時間だった。

 

最初の一週目は、シルヴィアの背に乗るだけで精一杯だった。 近くに立つ。触れる。背に乗る。数歩歩く。少し浮く。すぐ降りる。それだけを何度も繰り返した。

 

低く浮いただけで顔色が悪くなることもあった。足が震えて降りられなくなり、ライラに支えられたこともある。シルヴィアが心配して顔を覗き込もうとし、そのたびに「近い」と止められてしょんぼりした。

 

最初の頃、シルヴィアはリィナが怖がるたびに、心配して顔を寄せようとした。けれど、それが余計に怖がらせるのだと覚えたらしい。 日が経つにつれて、リィナの呼吸が乱れると、顔を近づけるのではなく、まず動きを止めるようになった。

 

ライラが教えたわけではない。シルヴィアが、自分で覚えたのだ。

 

リィナも、その都度覚えていった。 どこで息を止めたのか。どこで肩に力が入ったのか。どこを掴めば安定するのか。シルヴィアが浮く前に、どんなふうに身体が沈むのか。翼を動かす前、背中の筋肉がどう変わるのか。

 

怖さは消えない。けれど、怖さの形が少しずつ分かってくる。分かれば、備えられる。

 

二週目に入る頃には、低空で短い距離を移動できるようになった。地面から少しだけ浮き、草地の端から端まで進む。 最初は、たったそれだけで目が回った。

 

けれど、何度も繰り返すうちに、シルヴィアの動きに前触れがあることが分かってきた。 浮き上がる前、背中がわずかに沈む。速度を変える時、首の角度が変わる。曲がる前、翼の付け根が動く。止まる前、呼吸が少しだけ深くなる。 それを覚えると、少しだけ先に身体を合わせられるようになった。

 

二週目の終わり頃、シルヴィアが止まる前に、リィナの身体が先に揺れを受け止めた。

 

「あ」

 

思わず声が漏れる。今、少しだけ分かった。 止まる前、シルヴィアの背はほんのわずかに沈む。その沈みに逆らわなければ、身体は置いていかれない。

 

「今の、楽でした」

 

そう言うと、シルヴィアは得意げに喉を鳴らした。ライラも少し嬉しそうに頷く。

 

「今のは、よかったと思います」

 

「はい。少し、分かりました」

 

その「少し」が積み重なっていく。 シルヴィアも覚えていた。リィナが怖がる角度。力が入りすぎる速度。息が浅くなる高さ。急に首を動かすと驚くこと。

 

ライラが言わなくても、速度を落とすことが増えた。止まる時も、以前より柔らかくなった。背中の揺れを抑えるように飛ぶこともあった。

 

「ありがとうございます、シルヴィアさん」

 

そう言うと、シルヴィアは得意げに喉を鳴らす。

 

「褒められると調子に乗るから、ほどほどに」

 

ライラがそう言う。けれど、その顔も少し嬉しそうだった。

 

三週目には、海岸線の上を少しだけ飛んだ。 海を見ると、身体が強張った。どうしても、嵐の夜を思い出す。黒い波。砕ける船。冷たい水。呼吸のない暗闇。 眼下に広がる海が、あの日と同じものに見えた。

 

指に力が入る。息が浅くなる。

 

シルヴィアが気づいた。速度が落ちる。翼の動きが、ゆっくりになる。海岸線から離れすぎず、けれど波の上へ落ちるような角度にはしない。ライラに言われる前に、シルヴィア自身がそうしているのだと分かった。

 

「……大丈夫です」

 

そう言うと、シルヴィアは小さく喉を鳴らした。大丈夫か、と聞かれたような気がした。

 

「海は、まだ怖いです。でも、シルヴィアさんの背は……海に落ちる場所ではないのですね」

 

シルヴィアの背が、わずかに安定した気がした。海を越える場所。そう思えたのは、その日が初めてだった。

 

四週目には、本番を想定した練習に入った。 少し長く飛ぶ。寒さ対策をする。外套を羽織り、布を巻き、風で体温を奪われないようにする。手の位置を確認し、長く乗る時の姿勢を整える。途中で休む場所があるか、海岸線をどこまで辿れるか、どの高さならリィナが耐えられるかを確かめる。

 

完全に怖くなくなったわけではない。高く上がれば、まだ足元が冷える。速度が出れば、胸が縮む。急に風が変われば、思わず声が漏れる。

 

それでも、乗っていられる。シルヴィアの背で、呼吸ができる。

 

シルヴィアも、リィナを乗せる時は普段と違う飛び方をするようになっていた。ライラを乗せる時より、ずっと慎重だ。 たまに得意になって速度を上げかける。

 

「シルヴィア」

 

ライラに呼ばれると、すぐに戻る。しょんぼりしながら。 リィナは、それを見て少し笑えるようになっていた。

 

 

騎乗練習だけではなく、日々の過ごし方も変わっていった。

 

朝、エクウス達に挨拶をする。最初に近づいてきた一頭は、すっかりリィナの匂いを覚えたらしい。手を出すと、鼻先で軽く触れてくる。 小型の子達も、少し離れた場所からなら落ち着いて見られるようになった。まだ急に近づかれると驚くが、ライラが声をかければ止まる。

 

主任は、相変わらず黙々と作業をしている。リィナが礼を言うと、無言で片手を上げる。何度見ても、それが挨拶なのか返事なのかは分からない。けれど、たぶん両方なのだろうと思うようになった。

 

シルヴィアは、窓の外やテラスの近くに顔を出すことが増えた。最初はそのたびに身体が固まったが、だんだん分かってきた。シルヴィアは、覗き込んでいる。様子を見ている。そして、名前を呼ばれるのを待っている。

 

「シルヴィアさん、近いです」

 

ある日そう言うと、シルヴィアはしょんぼりした。ライラが横で笑いを堪えていた。

 

「近いって」

 

シルヴィアはさらにしょんぼりした。

 

「でも、見に来てくださったのですね。ありがとうございます」

 

続けてそう言うと、今度はすぐに得意げになった。切り替えが早い。本当に早い。恐ろしい竜なのに、そういうところがある。

 

カイザーは、相変わらず遠くの正門にいた。リィナはまだ近づかない。それでよかった。無理に近づく必要はない。

 

ただ、遠くで低い呼吸が聞こえた時、以前ほどすぐに震えなくなった。あそこにいるのはカイザー。門のところが好きらしい、ライラのファミリア。 恐ろしい巨獣であることは変わらない。けれど、名前は覚えた。それだけでも、最初とは違った。

 

ライラとの距離も、少しずつ変わっていった。 最初は、互いにずっと「さん」を付けていた。リィナさん。ライラさん。 それは自然だった。リィナの方が年上で、ライラは外の人間との会話に慣れていない。丁寧に呼び合うことで、お互いに距離を測っていたのだと思う。

 

けれど、ひと月近く一緒に過ごせば、少しずつ変わる。

 

練習後、リィナが疲れきって座り込むと、ライラは水を渡しながら言った。

 

「リィナさん、今日はもう休んでください」

 

「ライラさん」

 

「はい」

 

「無理に丁寧にしなくても、大丈夫ですよ」

 

ライラは瞬きをした。

 

「でも、はリィナさんは年上なので」

 

「確かに年上ですが、私は助けられてばかりですし、もうかなりお世話になっています」

 

「それとこれは、違う気がします」

 

「そうですか?」

 

「はい。たぶん」

 

ライラは真剣に悩んでいた。その様子が少しおかしくて、リィナは小さく笑った。

 

「では、呼びやすいように呼んでください。無理に変えなくても構いません」

 

「……考えます」

 

ライラはそう言った。その日から、時々、呼び方に迷っている気配があった。

 

「リィナさ……」

 

ライラが途中で止まる。

 

「……なんでもないです」

 

「今、呼び方で迷いましたね」

 

「迷ってません」

 

「そうですか」

 

「少しだけ」

 

そんなやり取りをすることもあった。リィナさん、と呼びかけてから少し止まることがある。リィナ、と言いかけて飲み込むことがある。それが少しだけ微笑ましかった。

 

 

帰還前日。約ひと月が過ぎていた。

 

リィナはもう、シルヴィアの背に乗れる。完全に怖くないわけではない。今でも飛び立つ瞬間は胸が縮む。風が強いと手に力が入る。海の上を通ると、嵐の記憶が遠くでざわめく。 けれど、乗れる。シルヴィアの背なら、帰れると思える。

 

その日は朝から準備が始まっていた。 主任が、いつものヘルメットを被ったまま、無言で荷物を並べている。

 

水。保存食。乾いた布。防寒用の外套。リィナの身につけていた聖印。海岸で回収された、船の破片や布切れの一部。王国側で説明の手がかりになるかもしれないもの。 どれも、必要なものだけが選ばれていた。

 

「主任さん、ありがとうございます」

 

リィナが礼を言うと、主任は片手を上げた。相変わらず無言だった。けれど、もう少しだけ分かる。これは返事だ。

 

エクウス達も様子を見に来ていた。一頭が荷物の匂いを嗅ぎ、別の一頭がリィナの手に鼻先を寄せる。

 

「明日、帰ります」

 

そう言うと、エクウスは耳を動かした。理解しているかは分からない。ただ、温かい鼻先が手に触れた。 小型の子達は少し遠くで騒いでいる。何か特別な日だと分かっているのかもしれないし、ただ荷物が珍しいだけかもしれない。

 

高所では、ワイバーン達の気配がある。正門にはカイザーがいる。

 

相変わらず、遠い。けれど、遠くから低く息を吐いた音が聞こえた時、リィナは自然にそちらを見た。

 

「カイザーさんにも、お世話になりました」

 

声は届かない距離だったかもしれない。それでも言った。 遠くの黒い巨体が、わずかに動いた気がした。気のせいかもしれない。しかし、そうではない気もした。

 

シルヴィアは、帰還用の確認を受けていた。といっても、特別な装備をつけるわけではない。ワイバーンにサドルはない。 リィナが掴む位置、座る位置、外套が翼の動きを邪魔しないこと、荷物がずれないこと。それらを何度も確認する。 シルヴィアは得意げだった。とても得意げだった。

 

「シルヴィア、明日は本当にゆっくり」

 

ライラが何度も言う。シルヴィアは頷く。

 

「いつもの練習より、もっと慎重に」

 

また頷く。

 

「王国の近くに着いたら、勝手に近づきすぎない」

 

シルヴィアは少し首を傾げた。「目立つから」 シルヴィアは、なぜか胸を張った。

 

「目立たない方がいいの」

 

しょんぼりした。リィナは思わず笑った。

 

「シルヴィアさんは、目立つのがお嫌ではなさそうですね」

 

「たぶん、格好いいと思われたいんだと思います」

 

「実際、とても格好いいです」

 

シルヴィアが一気に得意げになる。

 

「リィナさん、褒めすぎると」

 

ライラが言いかける。そこで少し止まった。リィナを見る。迷っているのが分かった。 それから、小さく言い直した。

 

「リィナ、褒めすぎると調子に乗る」

 

一瞬、言葉が止まった。呼び捨て。それは、とても自然に聞こえた。 ライラ自身は少し緊張したような顔をしている。リィナは、ゆっくり微笑んだ。

 

「はい。気をつけます」

 

あえて何も言わなかった。ただ、受け入れる。それだけで十分だと思った。 ライラは少し安心したように息を吐いた。

 

 

その日の夕方、二人は海の見えるテラスにいた。

 

明日、帰る。その事実が、静かに空気の中にあった。 海の向こうには、王国がある。リィナの帰る場所がある。 背後には、ライラとファミリア達の家がある。

 

ひと月前、自分はここへ流れ着いた。 エクウス達に見つけられ、ライラに助けられ、ファミリアという言葉を選び、怖いまま見て、竜の背に慣れた。 長いようで、短い時間だった。

 

「明日、帰ります」

 

リィナは静かに言った。ライラは頷く。「はい」

 

「王国へ戻れば、必ず聞かれると思います。どこにいたのか。誰に助けられたのか。何を見たのか」

 

「そうですよね」

 

「私は、ここを恐怖だけで語りません」

 

ライラがこちらを見る。リィナは海を見つめたまま続けた。

 

「恐ろしかったことも、助けられたことも、どちらも正しく話せるようにします。シルヴィアさんが怖かったことも、私を怖がらせないようにしてくださったことも。カイザーさんが恐ろしいほど大きかったことも、ライラの声に応えていたことも。ここが危険な場所であることも、同時に、あなた達の家であることも」

 

声は少し震えていた。けれど、言わなければならないと思った。

 

「私は、まだすべてを理解しているわけではありません。恐怖もあります。けれど、恐怖だけで語れば、きっと間違えます」

 

海風が吹く。リィナは聖印に軽く触れた。

 

「だから、覚えて帰ります。見たものを。助けられたことを。ファミリア達が暮らしていたことを」

 

ライラはしばらく黙っていた。 その言葉の重さを、どこまで理解しているのかは分からない。 王国に戻った後、リィナが何を話すかで、この場所の見られ方は変わるかもしれない。そのことを、ライラがどれほど想像できているかは分からない。 けれど、リィナが真剣だということは伝わったのだと思う。

 

ライラは、静かに言った。

 

「お願いします」

 

それから、少しだけ迷い。

 

「ありがとう、リィナ」

 

今度は、はっきり呼び捨てだった。胸の奥が温かくなる。

 

「はい、ライラ」

 

そう返すと、ライラは少しだけ驚いた顔をした。そして、ほんの少し笑った。

 

テラスの外で、シルヴィアが気配を動かした。 近づいてはこない。けれど、聞いている。明日、自分がリィナを乗せて海を越えるのだと分かっているのだろう。いつもより少しだけ誇らしげな気配だった。

 

遠くの正門で、カイザーが低く息を吐く。小型の子達の鳴き声が、家の奥から聞こえる。 主任は、きっとまだ荷物の最終確認をしている。 エクウス達は、草地で夜の風に耳を揺らしている頃だろう。

 

リィナは目を閉じる。この音にも、いつの間にか意味ができていた。

 

最初は恐怖だけだった。今も、怖さは残っている。 それでも、もう恐怖だけではない。 ライラの家の音。ファミリア達の音。彼女を助け、見送り、明日海の向こうへ送り届けてくれる場所の音。

 

明日、シルヴィアが空を飛ぶ。 リィナは竜の背に乗って、海を越える。

 

怖い。それは変わらない。 けれど、その背はもう、ただ恐怖の場所ではなかった。 シルヴィアの背は、帰るための場所だった。

 

夜の海の向こうに、王国がある。 背後には、ライラとファミリア達の家がある。 その二つを繋ぐために、明日、竜は空へ上がる。

 

リィナは静かに息を吸い、潮の匂いを胸に入れた。

 

もう、あの背に乗れる。 怖いままでも。 震えたままでも。

 

竜の背の呼吸を、覚えたのだから。

 

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