廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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白雲の帰路

## 第十七話 雲の上の帰り道

 

 帰還の日の朝は、驚くほど静かだった。

 

 海風は穏やかで、空は薄く青い。夜明けの光が外壁を照らし、まだ名前のない家の通路に、長い影を落としている。

 いつもの朝と、何一つ変わらないようにも見えた。

 

 ドードー達の小さな鳴き声が聞こえる。遠くで採取組が動き始める気配がある。高所ではワイバーン達が翼を畳み直している。正門の方では、カイザーが低く息を吐いた。

 

 けれど、空気はいつもと決定的に違っていた。

 今日は、リィナが帰る日だった。

 

 中央広場の近くでは、主任が無言で荷物を並べていた。

 

 水。軽い食料。乾いた布。防寒用の外套。リィナが身につけていた聖印。

 そして、海岸で回収された船板の欠片、裂けた布と金具のついた小さな破片。

 

 王国へ戻った時、説明の手がかりになるかもしれないもの。旅の途中で必要になるかもしれないもの。余計な重さにならないもの。それらが、美しく整然と分けられている。

 

 主任は相変わらず何も言わない。ヘルメットの下で静かにこちらを見て、必要なものを一つずつ確認するように手元へ置いていく。

 

「主任さん、ありがとうございます」

 

 リィナが礼を言うと、主任は無言で片手を上げた。

 それだけだった。けれど、もう分かる。これは、確かな返事だ。

 

 少し離れた草地には、エクウス達がいた。

 好奇心の強い一頭が、こちらへ歩いてくる。リィナの荷物の匂いを嗅ぎ、それから手元へ鼻先を寄せた。

 

 温かい息が指先にかかる。

 あの日、海岸で冷えきった頬に触れた温かさが、鮮やかによみがえった。

 

「あなた達にも、助けられました」

 

 リィナは、その首元にそっと声をかけた。

 

「ありがとうございました」

 

 エクウスは耳を動かした。言葉を理解しているかは分からない。けれど、鼻先が軽く手に触れた。それだけで十分だった。

 

 小型の子達は、遠巻きに騒いでいる。今日は何かが違うと感じているのかもしれないし、ただ荷物や人の動きが気になっているだけかもしれない。

 ライラが手を上げると、近づきかけた子達は少し下がった。

 

「今日は、遠くからね」

 

 小さな鳴き声が返る。その柔らかな秩序を見ながら、リィナは改めて思う。

 ここは、ただ恐ろしい生き物達が集まる場所ではない。暮らしがある場所だ。

 

 正門の方では、カイザーが伏せていた。

 遠い。今日も、近づくことはない。

 それでも、その黒い巨体が門のそばにあるだけで、この家全体を守っているように見えた。

 

 最初に見た時は、呼吸する山のようだと思った。今も、その圧倒的な質量に対する感覚は変わらない。

 恐ろしい。けれど、リィナの中で、そこに別の言葉も重なっていた。

 

 門のところが好きな、ライラのファミリア。

 恐怖だけでは、もうこの場所を測るには足りなかった。

 

 そして、シルヴィアは広場の外で待っていた。

 朝の光を受けた紫がかった鱗が、静かに輝いている。身体の内側を流れる青白い光が、呼吸に合わせてゆっくり脈打つ。翼は畳まれているが、その一枚だけで小さな屋根になりそうなほど大きい。

 

 見た目だけなら、今でも空を支配する美しく恐ろしい竜そのものだった。

 けれど、こちらを見ている顔はどこか得意げだ。今日は自分の役目だと、はっきり分かっているのだろう。

 

 ライラはその前に立ち、真剣な顔で念を押していた。

 

「シルヴィア、ゆっくり」

 

 シルヴィアが喉を鳴らす。

 

「絶対に、ゆっくり」

 

 また喉を鳴らす。

 

「リィナを怖がらせすぎない」

 

 今度は少し不満そうに鼻を鳴らした。怖がらせるつもりなどない、とでも言いたげだった。

 

「無理しない。速く飛ばない。勝手に格好つけない。王国の近くでは目立ちすぎない」

 

 シルヴィアは、途中までは真面目に頷いていた。

 けれど、「目立ちすぎない」のところで少しだけ首を傾げた。目立つことの何が悪いのか、よく分かっていない顔だった。

 

「目立たない方がいいの」

 

 ライラが言うと、シルヴィアは少ししょんぼりした。

 その様子に、リィナは小さく笑ってしまった。

 

 怖い。今でも、シルヴィアの姿を見ると身体の奥が緊張する。

 けれど、この一ヶ月で分かったことがある。シルヴィアは、自分を怖がらせたいわけではない。むしろ、怖がらせないために必死に我慢している。

 そして、褒められるとすぐ得意げになるのだ。

 

「シルヴィアさん」

 

 名前を呼ぶと、シルヴィアがすぐに顔を上げた。大きな瞳がこちらを見る。

 

「今日は、よろしくお願いします」

 

 シルヴィアは誇らしげに喉を鳴らした。その音はまだ大きい。胸の奥が少し震える。

 それでも、もう逃げようとは思わなかった。

 

 ライラがこちらへ歩み寄る。その手には、最後に確認した荷物があった。

 

「水と食べ物。外套。布。あと、リィナの持ち物です」

 

「ありがとうございます」

 

「重かったら、途中で捨ててもいいです」

 

「それは……なるべく避けます」

 

「でも、リィナの方が大事です」

 

 まっすぐ言われて、少し言葉に詰まった。

 ライラは、いつもそうだった。大事なものの順番を、決して迷わない。

 ファミリア達が一番大事。けれど、助けると決めた相手も、雑には扱わない。この一ヶ月で、何度も見てきた彼女の強さだった。

 

「……はい。無理はしません」

 

「お願いします」

 

 それから、少しだけ沈黙が落ちた。

 別れの時間だった。

 

 けれど、長く泣くような空気ではなかった。ここで泣き崩れてしまえば、きっとシルヴィアが慌てる。エクウス達も集まってくる。小型の子達も騒ぐ。何より、リィナ自身が、そういう別れ方をしたくなかった。

 

 ここは、自分を助けてくれた場所だ。

 恐ろしい場所だった。優しい場所でもあった。知らないものだらけで、何度も怖くて、けれど今は、帰る前に心から礼を言える場所になっている。

 

 リィナは、ライラへ向き直った。

 

「助けてくださって、本当にありがとうございました」

 

 ライラは静かに見ていた。

 

「ここで見たものを、恐怖だけで語らないようにします」

 

「うん」

 

 ライラは頷いた。短い返事だった。

 けれど、その声には、確かに届いたという響きがあった。

 

「気をつけて、リィナ」

 

 名前を呼ばれて、胸の奥が温かくなる。昨日よりも、ずっと自然な響きだった。

 リィナは少しだけ微笑んだ。

 

「はい。行ってきます、ライラ」

 

 さようなら、ではなかった。そう言いたくなかった。

 ここは、もう二度と戻らない場所ではない気がした。帰る場所は王国にある。けれど、海の向こうに、自分が見たものを忘れてはいけない場所もできたのだ。

 

 だから、行ってきます。それが一番しっくりときた。

 

 ライラは一瞬だけ目を丸くしたあと、少し笑った。

 

「うん。行ってらっしゃい」

 

 その言葉で、リィナはシルヴィアの背へ向かった。

 

 シルヴィアは地面に伏せている。この一ヶ月で、何度も繰り返した姿勢だった。乗りやすいように身体を低くし、翼を邪魔にならないよう畳み、首を少し横へ流している。

 

 最初の日なら、それだけで足が止まっていた。今も怖い。けれど、手順はもう身体が覚えている。

 

 左足をかける。鱗の出っ張りを掴む。体重を預けすぎず、ゆっくり上がる。背の窪みに腰を落とす。荷物の位置を確認する。外套が翼の付け根に触れていないか確かめる。呼吸を整える。

 

 シルヴィアは動かない。リィナの呼吸が落ち着くのを、じっと待っている。

 そのことが分かるだけで、少し安心できた。

 

「大丈夫です」

 

 リィナが言うと、シルヴィアが小さく喉を鳴らした。

 ライラが下から見上げる。

 

「怖かったら、シルヴィアに言って。シルヴィア、ちゃんと聞くから」

 

「はい」

 

「シルヴィア」

 

 ライラが、もう一度言う。

 

「ちゃんと聞いて」

 

 シルヴィアは真剣に頷いた。その顔があまりにも真面目だったので、リィナは少しだけ笑いそうになった。

 

 次の瞬間、シルヴィアが翼を広げる。

 空気が爆発したように動いた。広場の草が倒れ、リィナの外套が大きく揺れる。小型の子達が遠くで鳴いた。エクウス達が耳を立てる。

 

 正門の方で、カイザーが低く息を吐いた。見送りの声のようにも聞こえた。

 

 シルヴィアが、ゆっくり地面を蹴る。

 

 浮く。

 リィナは反射的に指へ力を入れかけ、すぐに抜いた。

 

 練習通り。

 肩に力を入れすぎない。膝で締めすぎない。背の動きに逆らわない。呼吸を止めない。

 

 シルヴィアは急加速しなかった。ライラに言われた通り、慎重に、慎重に高度を上げていく。

 

 地面が離れる。広場が小さくなる。外壁の形が見えてくる。高所の足場、ワイバーン達のいる場所、増築された通路、採取組の搬入口、正門。

 ライラが見上げている。エクウス達が草地にいる。小型の子達が遠くから見ている。

 

 カイザーは正門のそばで伏せたまま、こちらをじっと見つめていた。

 

 リィナは、深く息を吸った。

 この場所を、すべて覚えておく。

 恐ろしい島。けれど、それだけではない。ライラとファミリア達の暮らしがある場所。

 

 シルヴィアが大きく翼を動かす。

 アルカノアが、少しずつ遠ざかっていった。

 

 ◆

 

 海の上に出た瞬間、胸の奥がひやりと冷たくなった。

 

 下には、どこまでも広い海がある。あの日、自分を無慈悲に呑み込んだ海だ。

 黒い波。砕ける船。冷たい水。何度も上下が分からなくなった暗闇。

 記憶が一瞬、喉元までせり上がる。指が強く鱗を掴みそうになった。

 

 だが、シルヴィアが少しだけ速度を落とした。

 何も言われていないのに、リィナの呼吸が変わったことに気づいたのだ。

 

「……ありがとうございます、シルヴィアさん」

 

 風の中で言うと、シルヴィアは得意げに喉を鳴らした。

 けれど、速度は上げなかった。褒められても、調子に乗らないように自制している。それが分かって、リィナはまた少しだけ安心した。

 

 シルヴィアの背は驚くほど安定していた。

 海風が強くても、その大きな翼は乱れない。波の上を滑るように進みながら、高度を一定に保っている。リィナが怖がるほど高すぎず、海面に近すぎもしない、練習で覚えた通りの飛び方だった。

 

 それでも、実際の海は違う。島の近くを飛ぶ練習とは、圧倒的な広さが違う。

 見渡す限りの水。逃げ場のない空。下にあるのは、確かな足場ではなく、深い海。

 

 恐怖は消えない。

 けれど、扱える。

 リィナは自分にそう言い聞かせる。怖さを消す必要はない。息をして、姿勢を保ち、シルヴィアの動きに合わせる。必要な時に、必要なことをする。それこそが、この一ヶ月で身につけたことだった。

 

 しばらく進んだ頃、空の様子が変わり始めた。

 

 最初に気づいたのは、海面だった。

 遠くの水面に白波が立っている。波の向きが一定ではない。風がいくつもの方向から激しくぶつかり合っているように見えた。

 次に、雲。流れが速い。空の低いところで、雲が引き裂かれるように形を変えている。

 

 シルヴィアの首がわずかに動いた。リィナにも分かる。何かを警戒している。

 

 次の瞬間、横から烈風がぶつかった。

 シルヴィアの巨躯が大きく揺れる。

 

「っ」

 

 声が漏れた。だが、悲鳴にはならなかった。

 身体を低くし、背に沿う。手に力を入れすぎず、揺れに逆らわない。練習通りに。

 

 シルヴィアはすぐに体勢を立て直した。翼を広げ直し、風の向きを読むように首を上げる。

 

 また揺れた。今度は下から押し上げるような風。

 普通の飛行ではない。空気そのものが乱れている。

 

 リィナは唇を固く結ぶ。風の流れだけではない、魔力の流れも乱れているように感じた。海から立ち上る湿った空気と、上空の冷たい層がぶつかり、見えない渦を作っている。

 この高度のまま進むのは危険だ。

 

 そう思った時、シルヴィアが上を見上げた。

 雲の上。リィナにも、その意図が分かった。

 

「上へ、行くのですね」

 

 シルヴィアが短く喉を鳴らす。

 言葉ではない。けれど、この一ヶ月で、少しだけ分かるようになった。シルヴィアは、乱れた空の中を突っ切るのではなく、その上へ逃げるつもりなのだ。

 

 上。さらに高く。

 リィナの手が冷たくなる。高度が上がれば、寒くなる。空気も薄くなる。気圧も変わる。普通の人間が長く耐えられる場所ではない。

 だが、この乱気流の中を進むよりは、はるかにいい。

 

 リィナは深く息を吸った。

 

「分かりました」

 

 声は震えていた。

 

「行ってください。私も、準備します」

 

 シルヴィアが翼を力強く動かした。

 高度が上がる。海が遠ざかり、空気が冷たくなっていく。雲が近づく。

 白い壁のような雲の中へ、シルヴィアは突入した。

 

 視界が完全に白く染まった。

 水滴が顔に当たり、外套が濡れていく。風が横から、下から、斜め上から容赦なく叩きつけてくる。翼が大きく動くたび、背が激しく揺れた。

 

 最初の頃なら、悲鳴を上げて目を閉じていただろう。

 今でも怖い。怖いに決まっている。

 だが、リィナは慌てなかった。

 

 身体を低くする。呼吸を整える。シルヴィアの動きに逆らわない。

 そして、脳内で素早く術式を組む。

 

 祈りではない。神聖術でもない。治癒でも、浄化でも、鎮静でもない。

 基礎的な防護魔法。神学校で学び、各地を巡る中で何度も使ってきた、環境に身体を合わせるための術だった。

 

 リィナは片手でシルヴィアの鱗を押さえ、もう片方の手を胸元へ寄せた。聖印には触れない。今使うのは祈りの術ではないからだ。

 風を遮りすぎてはいけない。完全な壁を作れば、シルヴィアの飛行を邪魔してしまう。必要なのは、自分の周囲だけ。

 

 薄い空気の層を整える。

 呼吸しやすいよう、吸い込む空気を少しだけ保つ。

 

 冷たい空気が喉を刺す感覚が、わずかに和らいだ。

 

 冷気が直接肺を刺さないように、温度を整える。

 気圧差で耳や胸が痛まないよう、身体の周囲の圧を調整する。

 風が外套を剥がし、体温を奪いすぎないよう、防護膜を薄く張る。

 

 完璧ではない。そもそも、激しく揺れる竜の背の上で細かな術式を維持すること自体、至難の業だった。

 少しでも集中が乱れれば、冷たい空気が喉へ入り込む。耳の奥が痛む。指先がかじかむ。

 

 それでも、できる。

 怖さを消すことはできない。けれど、必要な術式は組める。研究も救護も、すべて同じだった。

 不安があっても、手を動かす。怖くても、確認する。分からないなら、分かるところから整える。

 

 シルヴィアの背が大きく傾いた。リィナは身体を伏せる。防護の膜が一瞬薄くなり、冷たい空気が肺に刺さって喉が震えた。

 それでも、術式を崩さない。

 

「大丈夫、です」

 

 自分に言い聞かせる。シルヴィアにも言う。

 

「続けてください、シルヴィアさん」

 

 シルヴィアが力強く、応えるように喉を鳴らした。

 

 雲の中を抜ける時間は、ひどく長く感じた。

 白い。冷たい。揺れる。何も見えない。ただ、シルヴィアの背の熱だけが確かだった。その熱にしがみつくように、リィナは術式を保ち続ける。

 

 やがて、白の向こうが急激に明るくなった。

 シルヴィアが、最後に大きく翼を打つ。

 

 視界が開けた。雲を抜けたのだ。

 

 リィナは息を呑んだ。

 下には、見渡す限りの白い雲海が広がっていた。果てのない雪原のように、雲が優美に波打っている。その下に、さっきまでの荒れた海と乱れた風があるのだと思うと、不思議な感覚だった。

 

 上には、深い青空。海から見上げる空よりも、ずっと濃く、吸い込まれそうな青。

 陽光が眩しい。雲の白が光を鮮やかに跳ね返し、シルヴィアの紫がかった鱗を淡く輝かせている。

 

 寒い。息はまだ少し苦しい。身体も強張っている。

 それでも、美しかった。

 

 船では、絶対に、一生見られなかった景色。

 恐ろしい竜の背だと思っていた場所が、今は雲の上の確かな帰り道になっている。

 

 シルヴィアが少し得意げに首を上げた。速度を上げたそうな気配が伝わる。

 

「シルヴィアさん、ゆっくりでお願いします」

 

 シルヴィアは、ほんの少しだけ残念そうにした。けれど、ちゃんと速度を抑えた。

 リィナの声を聞いている。ライラがそばにいなくても、シルヴィアは聞いてくれる。そのことが、雲の上でひどく心強かった。

 

 リィナは、防護魔法を保ったまま、雲海の向こうを見つめる。

 この下に海がある。そのさらに向こうに、アルカノアがある。

 海岸でエクウス達に見つけられた時のことを思い出した。

 

 冷えた身体。温かい鼻先。知らない部屋で目覚めた時の恐怖。扉の外の巨獣達の気配。ライラの不器用な配慮。ファミリアという言葉。海の見えるテラス。小型の子達の日向ぼっこ。主任の無言の返事。遠くのカイザー。シルヴィアの背に乗る練習。帰還前夜の約束。

 

 王国へ戻れば、必ず問われる。

 どこにいたのか。誰に助けられたのか。何を見たのか。あの島には何があったのか。

 

 恐ろしかった。それは本当だ。あの島は危険だった。ファミリア達は、普通の人間から見れば脅威そのものだ。シルヴィアも、カイザーも、海の下の子達も、恐ろしい存在であることは否定できない。

 

 けれど、助けられた。それも本当だ。

 ライラはリィナを救った。怖がらせないよう距離を取り、水をくれた。休ませ、話を聞き、帰る方法を全力で考えてくれた。

 

 ファミリア達は確かに暮らしていた。ただ命令される群れではなかった。遊び、眠り、働き、見送り、名前に反応した。

 

 魔物という言葉だけでは足りない。従魔という言葉でも違う。家族と呼ぶのは、リィナ自身にはまだ違う。

 けれど、ファミリア。

 その言葉を、決して忘れてはいけない。

 

 雲の上で、リィナは胸元に手を寄せた。祈るためではない。誓いを、もう一度確かめるために。

 

 恐怖だけで語らない。

 助けられた事実を、見失わない。

 

 その時、雲の切れ間から、遠くに巨大な影が見えた。

 大陸だった。海の向こうにあった、帰る場所。

 

 リィナは息を止めかけた。

 帰れる。そう思った瞬間、胸の奥が熱くなる。

 けれど、同時に分かっていた。帰れば終わりではない。むしろ、ここから始まるのだ。

 

 王国へ戻れば、報告しなければならない。行方不明になっていた間のことを話さなければならない。シルヴィアが人目につけば、大きな騒ぎになるかもしれない。

 それでも、戻らなければならない。

 

「シルヴィアさん」

 

 声をかける。シルヴィアが、少しだけ首を動かした。

 

「帰りましょう。私の国へ」

 

 シルヴィアが短く鳴いた。次に、ゆっくり高度を下げ始める。

 

 ◆

 

 雲の上から、雲の中へ。再び視界が白くなる。

 今度は、上がる時よりもずっと慎重だった。シルヴィアは急降下しない。リィナの魔法が乱れない速度で、ゆっくり高度を落としていく。

 

 気圧が変わる。耳の奥が痛みかける。リィナは防護魔法を細かく調整した。

 圧を少しずつ外へ逃がし、冷気を和らげていた層を薄くする。呼吸の補助を、地上の空気に合わせて弱めていく。

 

 集中が重い。高高度の緊張と長い飛行で、身体は思ったより消耗していた。手足が冷え、背中に力が入り、術式を保つ指先が少し震える。

 それでも、絶対に崩さない。ここまで来たのだ。最後まで、役目を果たす。

 

 雲を抜けた。

 下に、王国の沿岸部が見えた。

 

 緑の田畑。細い街道。白い壁の建物。遠くに港らしきもの。小さく並ぶ船影。教会の尖塔。

 人の世界だった。リィナの知っている世界。

 胸が熱く詰まる。帰ってきた、そう思った。

 

 シルヴィアは王都の中心へ向かわなかった。リィナが事前に頼んでいたからだ。いきなり人の多い場所へ降りれば、大混乱になる。王都の上空を竜が飛べば、それだけで警鐘が鳴るだろう。

 だから着地点は、沿岸都市から少し離れた静かな丘に決めていた。

 

 港と街道が見える。近くに小さな教会がある。人目を完全に避けるわけではない。けれど、群衆の真ん中ではない。説明を始めるには、ぎりぎりの、けれど最善の場所だった。

 

 シルヴィアが高度を下げる。

 地上の人々がこちらに気づき始めた。

 

 農道にいた人影が空を見上げる。港の見張り台で誰かが動く。教会の前にいた者が、手にしていた籠を落とした。無理もない。空から本物の竜が降りてくるのだ。しかも、その背には人が乗っている。

 

 シルヴィアは、最後まで慎重だった。巨大な翼を大きく広げ、草地へ風を逃がし、衝撃を抑えながら降りる。

 

 地面に足が着いた。

 リィナは、深く息を吐いた。

 

 着いた。本当に。王国に。

 身体の力が一気に抜けそうになる。けれど、まだ終わりではない。

 

 シルヴィアが身体を低くしてくれる。リィナは荷物を確認し、ゆっくり背から降りた。

 足が地面に触れる。揺れた。長時間の飛行と魔法維持で、膝に力が入りにくい。それでも、倒れなかった。

 

 少しよろめいたところで、シルヴィアが心配そうに顔を寄せようとする。

 近い。本能的に身体が固まりかけた。けれど、逃げなかった。

 

「大丈夫です、シルヴィアさん」

 

 リィナは声をかけた。

 

「ちゃんと、立てます」

 

 シルヴィアは、安心したように喉を鳴らした。それから、どこか得意げに胸を張る。無事に送り届けた、そう思っているのだろう。

 リィナは少し笑った。

 怖い。今でも近くで見れば、本当に怖い。けれど、その恐怖の奥に、別の確かな感情もあった。

 

「ありがとうございました、シルヴィアさん」

 

 深く頭を下げる。

 

「あなたのおかげで、帰ってこられました」

 

 シルヴィアは、最高に得意げになった。もっと褒めてほしそうな顔だった。

 

 だが、遠くから人の声が聞こえた。

 

「竜だ……!」

「人が乗っているぞ!」

「兵を呼べ!」

「待て、あれは……」

 

 騒ぎが広がり始めている。長居はできない。シルヴィアがここにいればいるほど、恐怖と混乱は大きくなる。

 

 リィナは顔を上げた。

 

「シルヴィアさん」

 

 名前を呼ぶと、シルヴィアがこちらを見る。

 

「ライラのところへ、帰ってください」

 

 シルヴィアは少しだけ動きを止めた。名残惜しそうに見えた。それが分かって、胸の奥が温かくなる。この竜は、自分を見送ってくれているのだ。

 けれど、シルヴィアの帰る場所はここではない。アルカノアだ。ライラのいる、あの家だ。

 

「私は大丈夫です」

 

 リィナは言った。完全に大丈夫なわけではない。足は震えている。魔法の疲労も残っている。これから何を聞かれるかも分からない。けれど、ここから先は自分の役目だった。

 

「届けてくださって、ありがとうございました」

 

 シルヴィアは低く喉を鳴らした。リィナを一度見て、空を見る。

 そして、大きな翼を広げた。

 

 周囲の人々が息を呑む。巨大な翼が陽光を遮り、草地に大きな影を落とした。

 シルヴィアは一度だけ、リィナへ顔を向けた。

 

「シルヴィアさん」

 

 リィナはもう一度名前を呼んだ。

 

「また、いつか」

 

 その言葉が届いたのかどうか。シルヴィアは短く鳴いた。

 次の瞬間、地面を力強く蹴る。

 猛烈な風が吹き、リィナの外套が大きく揺れた。

 

 シルヴィアは空へ上がる。長く旋回はしなかった。王国の空に長く留まれば、それだけ人々を怯えさせると分かっているのかもしれないし、あるいは、ライラのところへ早く帰りたかっただけかもしれない。

 どちらにせよ、シルヴィアはすぐに高度を上げた。

 

 紫がかった竜の姿が、青空へ遠ざかっていく。

 やがて、雲の向こうへ完全に消えた。

 

 ◆

 

 リィナは、その空をしばらく見上げていた。

 

 シルヴィアが去ったことで、地上の音が一気に戻ってくる。

 人の声。走る足音。遠くで鳴る警鐘。馬のいななき。誰かが祈る声。

 王国の音。人の世界の音。

 

 近づいてくる者達がいる。巡回兵らしき男達、港の見張り、近くの教会から出てきたらしい修道服の人影、農道にいた人々。

 誰もが混乱していた。当然だ。行方不明だった聖女が、竜の背に乗って空から帰ってきたのだから。

 

 リィナの身体は疲れ切っている。足は震える。今すぐ横になりたい。

 それでも、ここで倒れるわけにはいかなかった。シルヴィアは帰った。ここから先は、自分が言葉を使わなければならない。

 

 リィナは深く息を吸う。防護魔法はもう解いている。冷たい高空の空気ではなく、王国沿岸の湿った風が肺に入った。懐かしい空気だった。

 

 最初に駆け寄ってきた巡回兵が、途中で足を止めた。信じられないものを見る目をしている。

 

「まさか……」

 

 別の者が震える声で呟く。

 

「聖女、様……?」

 

 その呼び方に、リィナは自分の立場を思い出した。

 アルカノアでは、ただの漂着者だった。ライラに助けられた、ただのリィナだった。けれど、ここでは違う。王国支部に所属する、聖女。

 戻ってきた者として、まず名乗らなければならない。

 

 リィナは、震える足に力を込めた。背筋を伸ばす。

 声は疲れていた。それでも、はっきり届くように言った。

 

「リィナ・エルシアです」

 

 ざわめきが瞬時に広がる。誰かが息を呑み、誰かが膝をつきかけ、誰かが空を見上げたまま固まっている。

 

「ルミナリア聖教会王国支部へ、至急連絡をお願いします」

 

 そこまで言うと、喉が少し痛んだ。魔法と飛行の疲労が、今になって重くのしかかってくる。けれど、続ける。

 

「私は……保護を必要としています。ですが、意識はあります。後ほど、事情を説明します」

 

「聖女様、本当に……」

「よくご無事で……」

「今の竜は、いったい……」

 

 いくつもの声が重なる。答えなければならないことは山ほどあった。

 どこにいたのか。誰に助けられたのか。なぜ竜に乗っていたのか。あの竜は何なのか。船はどうなったのか。

 

 けれど、今ここで全てを話すことはできない。話してはいけない。

 疲れ切った身体で、恐怖と驚きに包まれた人々へ中途半端に語れば、言葉だけが歪んで先に走ってしまう。

 

 リィナは、シルヴィアが消えた空をもう一度見上げた。

 雲の向こう。海の向こう。

 そこには、ライラとファミリア達の家がある。

 恐ろしい島。けれど、確かに助けられた場所。ファミリア達の暮らしがあった場所。

 

 自分は帰ってきた。けれど、あの場所を恐怖だけで語ってはいけない。その約束は、ここから始まるのだ。

 

「まずは、王国支部へ」

 

 リィナはもう一度言った。声は弱っていたが、決して揺らがなかった。

 

「正確に、報告しなければならないことがあります」

 

 周囲の人々が動き始める。兵が走り、教会関係者らしい女性が慌てて支えに来る。誰かが港の方へ叫ぶ。

 ざわめきの中で、いくつもの言葉が耳に届いた。

 

「聖女様が戻られた」

「竜に乗っていたぞ」

「空から……」

「あの海の向こうから?」

「奇跡だ」

「いや、あれは……」

 

 その言葉達は、やがて大きな波になるだろう。リィナには分かっていた。

 今日、自分は帰ってきた。けれど、ただ帰ってきただけではない。

 

 竜の背で帰ってきた聖女。その事実は、きっと瞬く間に人々の間へ広がっていく。

 奇跡として。恐怖として。噂として。誤解として。

 だからこそ、言葉を間違えてはいけない。

 

 リィナは空を見上げた。シルヴィアの姿は、もう見えない。

 けれど、あの背の感覚は確かに残っている。

 

 雲の上の青。白い雲海。冷たい空気。鱗の熱。帰るための場所になった、竜の背。

 

 リィナは胸元の聖印に触れた。祈るように。

 けれど今は、祈りだけではなく、固い決意として。

 

 恐怖だけで語らない。

 助けられたことを忘れない。

 ファミリアという言葉を、忘れない。

 

 その誓いを胸に、リィナ・エルシアは王国へ帰還した。

 

 竜が去った空の下で。

 これから始まる大きな波紋の前に、アルカノアで得た言葉を守るために。

 

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