## 第十七話 雲の上の帰り道
帰還の日の朝は、驚くほど静かだった。
海風は穏やかで、空は薄く青い。夜明けの光が外壁を照らし、まだ名前のない家の通路に、長い影を落としている。
いつもの朝と、何一つ変わらないようにも見えた。
ドードー達の小さな鳴き声が聞こえる。遠くで採取組が動き始める気配がある。高所ではワイバーン達が翼を畳み直している。正門の方では、カイザーが低く息を吐いた。
けれど、空気はいつもと決定的に違っていた。
今日は、リィナが帰る日だった。
中央広場の近くでは、主任が無言で荷物を並べていた。
水。軽い食料。乾いた布。防寒用の外套。リィナが身につけていた聖印。
そして、海岸で回収された船板の欠片、裂けた布と金具のついた小さな破片。
王国へ戻った時、説明の手がかりになるかもしれないもの。旅の途中で必要になるかもしれないもの。余計な重さにならないもの。それらが、美しく整然と分けられている。
主任は相変わらず何も言わない。ヘルメットの下で静かにこちらを見て、必要なものを一つずつ確認するように手元へ置いていく。
「主任さん、ありがとうございます」
リィナが礼を言うと、主任は無言で片手を上げた。
それだけだった。けれど、もう分かる。これは、確かな返事だ。
少し離れた草地には、エクウス達がいた。
好奇心の強い一頭が、こちらへ歩いてくる。リィナの荷物の匂いを嗅ぎ、それから手元へ鼻先を寄せた。
温かい息が指先にかかる。
あの日、海岸で冷えきった頬に触れた温かさが、鮮やかによみがえった。
「あなた達にも、助けられました」
リィナは、その首元にそっと声をかけた。
「ありがとうございました」
エクウスは耳を動かした。言葉を理解しているかは分からない。けれど、鼻先が軽く手に触れた。それだけで十分だった。
小型の子達は、遠巻きに騒いでいる。今日は何かが違うと感じているのかもしれないし、ただ荷物や人の動きが気になっているだけかもしれない。
ライラが手を上げると、近づきかけた子達は少し下がった。
「今日は、遠くからね」
小さな鳴き声が返る。その柔らかな秩序を見ながら、リィナは改めて思う。
ここは、ただ恐ろしい生き物達が集まる場所ではない。暮らしがある場所だ。
正門の方では、カイザーが伏せていた。
遠い。今日も、近づくことはない。
それでも、その黒い巨体が門のそばにあるだけで、この家全体を守っているように見えた。
最初に見た時は、呼吸する山のようだと思った。今も、その圧倒的な質量に対する感覚は変わらない。
恐ろしい。けれど、リィナの中で、そこに別の言葉も重なっていた。
門のところが好きな、ライラのファミリア。
恐怖だけでは、もうこの場所を測るには足りなかった。
そして、シルヴィアは広場の外で待っていた。
朝の光を受けた紫がかった鱗が、静かに輝いている。身体の内側を流れる青白い光が、呼吸に合わせてゆっくり脈打つ。翼は畳まれているが、その一枚だけで小さな屋根になりそうなほど大きい。
見た目だけなら、今でも空を支配する美しく恐ろしい竜そのものだった。
けれど、こちらを見ている顔はどこか得意げだ。今日は自分の役目だと、はっきり分かっているのだろう。
ライラはその前に立ち、真剣な顔で念を押していた。
「シルヴィア、ゆっくり」
シルヴィアが喉を鳴らす。
「絶対に、ゆっくり」
また喉を鳴らす。
「リィナを怖がらせすぎない」
今度は少し不満そうに鼻を鳴らした。怖がらせるつもりなどない、とでも言いたげだった。
「無理しない。速く飛ばない。勝手に格好つけない。王国の近くでは目立ちすぎない」
シルヴィアは、途中までは真面目に頷いていた。
けれど、「目立ちすぎない」のところで少しだけ首を傾げた。目立つことの何が悪いのか、よく分かっていない顔だった。
「目立たない方がいいの」
ライラが言うと、シルヴィアは少ししょんぼりした。
その様子に、リィナは小さく笑ってしまった。
怖い。今でも、シルヴィアの姿を見ると身体の奥が緊張する。
けれど、この一ヶ月で分かったことがある。シルヴィアは、自分を怖がらせたいわけではない。むしろ、怖がらせないために必死に我慢している。
そして、褒められるとすぐ得意げになるのだ。
「シルヴィアさん」
名前を呼ぶと、シルヴィアがすぐに顔を上げた。大きな瞳がこちらを見る。
「今日は、よろしくお願いします」
シルヴィアは誇らしげに喉を鳴らした。その音はまだ大きい。胸の奥が少し震える。
それでも、もう逃げようとは思わなかった。
ライラがこちらへ歩み寄る。その手には、最後に確認した荷物があった。
「水と食べ物。外套。布。あと、リィナの持ち物です」
「ありがとうございます」
「重かったら、途中で捨ててもいいです」
「それは……なるべく避けます」
「でも、リィナの方が大事です」
まっすぐ言われて、少し言葉に詰まった。
ライラは、いつもそうだった。大事なものの順番を、決して迷わない。
ファミリア達が一番大事。けれど、助けると決めた相手も、雑には扱わない。この一ヶ月で、何度も見てきた彼女の強さだった。
「……はい。無理はしません」
「お願いします」
それから、少しだけ沈黙が落ちた。
別れの時間だった。
けれど、長く泣くような空気ではなかった。ここで泣き崩れてしまえば、きっとシルヴィアが慌てる。エクウス達も集まってくる。小型の子達も騒ぐ。何より、リィナ自身が、そういう別れ方をしたくなかった。
ここは、自分を助けてくれた場所だ。
恐ろしい場所だった。優しい場所でもあった。知らないものだらけで、何度も怖くて、けれど今は、帰る前に心から礼を言える場所になっている。
リィナは、ライラへ向き直った。
「助けてくださって、本当にありがとうございました」
ライラは静かに見ていた。
「ここで見たものを、恐怖だけで語らないようにします」
「うん」
ライラは頷いた。短い返事だった。
けれど、その声には、確かに届いたという響きがあった。
「気をつけて、リィナ」
名前を呼ばれて、胸の奥が温かくなる。昨日よりも、ずっと自然な響きだった。
リィナは少しだけ微笑んだ。
「はい。行ってきます、ライラ」
さようなら、ではなかった。そう言いたくなかった。
ここは、もう二度と戻らない場所ではない気がした。帰る場所は王国にある。けれど、海の向こうに、自分が見たものを忘れてはいけない場所もできたのだ。
だから、行ってきます。それが一番しっくりときた。
ライラは一瞬だけ目を丸くしたあと、少し笑った。
「うん。行ってらっしゃい」
その言葉で、リィナはシルヴィアの背へ向かった。
シルヴィアは地面に伏せている。この一ヶ月で、何度も繰り返した姿勢だった。乗りやすいように身体を低くし、翼を邪魔にならないよう畳み、首を少し横へ流している。
最初の日なら、それだけで足が止まっていた。今も怖い。けれど、手順はもう身体が覚えている。
左足をかける。鱗の出っ張りを掴む。体重を預けすぎず、ゆっくり上がる。背の窪みに腰を落とす。荷物の位置を確認する。外套が翼の付け根に触れていないか確かめる。呼吸を整える。
シルヴィアは動かない。リィナの呼吸が落ち着くのを、じっと待っている。
そのことが分かるだけで、少し安心できた。
「大丈夫です」
リィナが言うと、シルヴィアが小さく喉を鳴らした。
ライラが下から見上げる。
「怖かったら、シルヴィアに言って。シルヴィア、ちゃんと聞くから」
「はい」
「シルヴィア」
ライラが、もう一度言う。
「ちゃんと聞いて」
シルヴィアは真剣に頷いた。その顔があまりにも真面目だったので、リィナは少しだけ笑いそうになった。
次の瞬間、シルヴィアが翼を広げる。
空気が爆発したように動いた。広場の草が倒れ、リィナの外套が大きく揺れる。小型の子達が遠くで鳴いた。エクウス達が耳を立てる。
正門の方で、カイザーが低く息を吐いた。見送りの声のようにも聞こえた。
シルヴィアが、ゆっくり地面を蹴る。
浮く。
リィナは反射的に指へ力を入れかけ、すぐに抜いた。
練習通り。
肩に力を入れすぎない。膝で締めすぎない。背の動きに逆らわない。呼吸を止めない。
シルヴィアは急加速しなかった。ライラに言われた通り、慎重に、慎重に高度を上げていく。
地面が離れる。広場が小さくなる。外壁の形が見えてくる。高所の足場、ワイバーン達のいる場所、増築された通路、採取組の搬入口、正門。
ライラが見上げている。エクウス達が草地にいる。小型の子達が遠くから見ている。
カイザーは正門のそばで伏せたまま、こちらをじっと見つめていた。
リィナは、深く息を吸った。
この場所を、すべて覚えておく。
恐ろしい島。けれど、それだけではない。ライラとファミリア達の暮らしがある場所。
シルヴィアが大きく翼を動かす。
アルカノアが、少しずつ遠ざかっていった。
◆
海の上に出た瞬間、胸の奥がひやりと冷たくなった。
下には、どこまでも広い海がある。あの日、自分を無慈悲に呑み込んだ海だ。
黒い波。砕ける船。冷たい水。何度も上下が分からなくなった暗闇。
記憶が一瞬、喉元までせり上がる。指が強く鱗を掴みそうになった。
だが、シルヴィアが少しだけ速度を落とした。
何も言われていないのに、リィナの呼吸が変わったことに気づいたのだ。
「……ありがとうございます、シルヴィアさん」
風の中で言うと、シルヴィアは得意げに喉を鳴らした。
けれど、速度は上げなかった。褒められても、調子に乗らないように自制している。それが分かって、リィナはまた少しだけ安心した。
シルヴィアの背は驚くほど安定していた。
海風が強くても、その大きな翼は乱れない。波の上を滑るように進みながら、高度を一定に保っている。リィナが怖がるほど高すぎず、海面に近すぎもしない、練習で覚えた通りの飛び方だった。
それでも、実際の海は違う。島の近くを飛ぶ練習とは、圧倒的な広さが違う。
見渡す限りの水。逃げ場のない空。下にあるのは、確かな足場ではなく、深い海。
恐怖は消えない。
けれど、扱える。
リィナは自分にそう言い聞かせる。怖さを消す必要はない。息をして、姿勢を保ち、シルヴィアの動きに合わせる。必要な時に、必要なことをする。それこそが、この一ヶ月で身につけたことだった。
しばらく進んだ頃、空の様子が変わり始めた。
最初に気づいたのは、海面だった。
遠くの水面に白波が立っている。波の向きが一定ではない。風がいくつもの方向から激しくぶつかり合っているように見えた。
次に、雲。流れが速い。空の低いところで、雲が引き裂かれるように形を変えている。
シルヴィアの首がわずかに動いた。リィナにも分かる。何かを警戒している。
次の瞬間、横から烈風がぶつかった。
シルヴィアの巨躯が大きく揺れる。
「っ」
声が漏れた。だが、悲鳴にはならなかった。
身体を低くし、背に沿う。手に力を入れすぎず、揺れに逆らわない。練習通りに。
シルヴィアはすぐに体勢を立て直した。翼を広げ直し、風の向きを読むように首を上げる。
また揺れた。今度は下から押し上げるような風。
普通の飛行ではない。空気そのものが乱れている。
リィナは唇を固く結ぶ。風の流れだけではない、魔力の流れも乱れているように感じた。海から立ち上る湿った空気と、上空の冷たい層がぶつかり、見えない渦を作っている。
この高度のまま進むのは危険だ。
そう思った時、シルヴィアが上を見上げた。
雲の上。リィナにも、その意図が分かった。
「上へ、行くのですね」
シルヴィアが短く喉を鳴らす。
言葉ではない。けれど、この一ヶ月で、少しだけ分かるようになった。シルヴィアは、乱れた空の中を突っ切るのではなく、その上へ逃げるつもりなのだ。
上。さらに高く。
リィナの手が冷たくなる。高度が上がれば、寒くなる。空気も薄くなる。気圧も変わる。普通の人間が長く耐えられる場所ではない。
だが、この乱気流の中を進むよりは、はるかにいい。
リィナは深く息を吸った。
「分かりました」
声は震えていた。
「行ってください。私も、準備します」
シルヴィアが翼を力強く動かした。
高度が上がる。海が遠ざかり、空気が冷たくなっていく。雲が近づく。
白い壁のような雲の中へ、シルヴィアは突入した。
視界が完全に白く染まった。
水滴が顔に当たり、外套が濡れていく。風が横から、下から、斜め上から容赦なく叩きつけてくる。翼が大きく動くたび、背が激しく揺れた。
最初の頃なら、悲鳴を上げて目を閉じていただろう。
今でも怖い。怖いに決まっている。
だが、リィナは慌てなかった。
身体を低くする。呼吸を整える。シルヴィアの動きに逆らわない。
そして、脳内で素早く術式を組む。
祈りではない。神聖術でもない。治癒でも、浄化でも、鎮静でもない。
基礎的な防護魔法。神学校で学び、各地を巡る中で何度も使ってきた、環境に身体を合わせるための術だった。
リィナは片手でシルヴィアの鱗を押さえ、もう片方の手を胸元へ寄せた。聖印には触れない。今使うのは祈りの術ではないからだ。
風を遮りすぎてはいけない。完全な壁を作れば、シルヴィアの飛行を邪魔してしまう。必要なのは、自分の周囲だけ。
薄い空気の層を整える。
呼吸しやすいよう、吸い込む空気を少しだけ保つ。
冷たい空気が喉を刺す感覚が、わずかに和らいだ。
冷気が直接肺を刺さないように、温度を整える。
気圧差で耳や胸が痛まないよう、身体の周囲の圧を調整する。
風が外套を剥がし、体温を奪いすぎないよう、防護膜を薄く張る。
完璧ではない。そもそも、激しく揺れる竜の背の上で細かな術式を維持すること自体、至難の業だった。
少しでも集中が乱れれば、冷たい空気が喉へ入り込む。耳の奥が痛む。指先がかじかむ。
それでも、できる。
怖さを消すことはできない。けれど、必要な術式は組める。研究も救護も、すべて同じだった。
不安があっても、手を動かす。怖くても、確認する。分からないなら、分かるところから整える。
シルヴィアの背が大きく傾いた。リィナは身体を伏せる。防護の膜が一瞬薄くなり、冷たい空気が肺に刺さって喉が震えた。
それでも、術式を崩さない。
「大丈夫、です」
自分に言い聞かせる。シルヴィアにも言う。
「続けてください、シルヴィアさん」
シルヴィアが力強く、応えるように喉を鳴らした。
雲の中を抜ける時間は、ひどく長く感じた。
白い。冷たい。揺れる。何も見えない。ただ、シルヴィアの背の熱だけが確かだった。その熱にしがみつくように、リィナは術式を保ち続ける。
やがて、白の向こうが急激に明るくなった。
シルヴィアが、最後に大きく翼を打つ。
視界が開けた。雲を抜けたのだ。
リィナは息を呑んだ。
下には、見渡す限りの白い雲海が広がっていた。果てのない雪原のように、雲が優美に波打っている。その下に、さっきまでの荒れた海と乱れた風があるのだと思うと、不思議な感覚だった。
上には、深い青空。海から見上げる空よりも、ずっと濃く、吸い込まれそうな青。
陽光が眩しい。雲の白が光を鮮やかに跳ね返し、シルヴィアの紫がかった鱗を淡く輝かせている。
寒い。息はまだ少し苦しい。身体も強張っている。
それでも、美しかった。
船では、絶対に、一生見られなかった景色。
恐ろしい竜の背だと思っていた場所が、今は雲の上の確かな帰り道になっている。
シルヴィアが少し得意げに首を上げた。速度を上げたそうな気配が伝わる。
「シルヴィアさん、ゆっくりでお願いします」
シルヴィアは、ほんの少しだけ残念そうにした。けれど、ちゃんと速度を抑えた。
リィナの声を聞いている。ライラがそばにいなくても、シルヴィアは聞いてくれる。そのことが、雲の上でひどく心強かった。
リィナは、防護魔法を保ったまま、雲海の向こうを見つめる。
この下に海がある。そのさらに向こうに、アルカノアがある。
海岸でエクウス達に見つけられた時のことを思い出した。
冷えた身体。温かい鼻先。知らない部屋で目覚めた時の恐怖。扉の外の巨獣達の気配。ライラの不器用な配慮。ファミリアという言葉。海の見えるテラス。小型の子達の日向ぼっこ。主任の無言の返事。遠くのカイザー。シルヴィアの背に乗る練習。帰還前夜の約束。
王国へ戻れば、必ず問われる。
どこにいたのか。誰に助けられたのか。何を見たのか。あの島には何があったのか。
恐ろしかった。それは本当だ。あの島は危険だった。ファミリア達は、普通の人間から見れば脅威そのものだ。シルヴィアも、カイザーも、海の下の子達も、恐ろしい存在であることは否定できない。
けれど、助けられた。それも本当だ。
ライラはリィナを救った。怖がらせないよう距離を取り、水をくれた。休ませ、話を聞き、帰る方法を全力で考えてくれた。
ファミリア達は確かに暮らしていた。ただ命令される群れではなかった。遊び、眠り、働き、見送り、名前に反応した。
魔物という言葉だけでは足りない。従魔という言葉でも違う。家族と呼ぶのは、リィナ自身にはまだ違う。
けれど、ファミリア。
その言葉を、決して忘れてはいけない。
雲の上で、リィナは胸元に手を寄せた。祈るためではない。誓いを、もう一度確かめるために。
恐怖だけで語らない。
助けられた事実を、見失わない。
その時、雲の切れ間から、遠くに巨大な影が見えた。
大陸だった。海の向こうにあった、帰る場所。
リィナは息を止めかけた。
帰れる。そう思った瞬間、胸の奥が熱くなる。
けれど、同時に分かっていた。帰れば終わりではない。むしろ、ここから始まるのだ。
王国へ戻れば、報告しなければならない。行方不明になっていた間のことを話さなければならない。シルヴィアが人目につけば、大きな騒ぎになるかもしれない。
それでも、戻らなければならない。
「シルヴィアさん」
声をかける。シルヴィアが、少しだけ首を動かした。
「帰りましょう。私の国へ」
シルヴィアが短く鳴いた。次に、ゆっくり高度を下げ始める。
◆
雲の上から、雲の中へ。再び視界が白くなる。
今度は、上がる時よりもずっと慎重だった。シルヴィアは急降下しない。リィナの魔法が乱れない速度で、ゆっくり高度を落としていく。
気圧が変わる。耳の奥が痛みかける。リィナは防護魔法を細かく調整した。
圧を少しずつ外へ逃がし、冷気を和らげていた層を薄くする。呼吸の補助を、地上の空気に合わせて弱めていく。
集中が重い。高高度の緊張と長い飛行で、身体は思ったより消耗していた。手足が冷え、背中に力が入り、術式を保つ指先が少し震える。
それでも、絶対に崩さない。ここまで来たのだ。最後まで、役目を果たす。
雲を抜けた。
下に、王国の沿岸部が見えた。
緑の田畑。細い街道。白い壁の建物。遠くに港らしきもの。小さく並ぶ船影。教会の尖塔。
人の世界だった。リィナの知っている世界。
胸が熱く詰まる。帰ってきた、そう思った。
シルヴィアは王都の中心へ向かわなかった。リィナが事前に頼んでいたからだ。いきなり人の多い場所へ降りれば、大混乱になる。王都の上空を竜が飛べば、それだけで警鐘が鳴るだろう。
だから着地点は、沿岸都市から少し離れた静かな丘に決めていた。
港と街道が見える。近くに小さな教会がある。人目を完全に避けるわけではない。けれど、群衆の真ん中ではない。説明を始めるには、ぎりぎりの、けれど最善の場所だった。
シルヴィアが高度を下げる。
地上の人々がこちらに気づき始めた。
農道にいた人影が空を見上げる。港の見張り台で誰かが動く。教会の前にいた者が、手にしていた籠を落とした。無理もない。空から本物の竜が降りてくるのだ。しかも、その背には人が乗っている。
シルヴィアは、最後まで慎重だった。巨大な翼を大きく広げ、草地へ風を逃がし、衝撃を抑えながら降りる。
地面に足が着いた。
リィナは、深く息を吐いた。
着いた。本当に。王国に。
身体の力が一気に抜けそうになる。けれど、まだ終わりではない。
シルヴィアが身体を低くしてくれる。リィナは荷物を確認し、ゆっくり背から降りた。
足が地面に触れる。揺れた。長時間の飛行と魔法維持で、膝に力が入りにくい。それでも、倒れなかった。
少しよろめいたところで、シルヴィアが心配そうに顔を寄せようとする。
近い。本能的に身体が固まりかけた。けれど、逃げなかった。
「大丈夫です、シルヴィアさん」
リィナは声をかけた。
「ちゃんと、立てます」
シルヴィアは、安心したように喉を鳴らした。それから、どこか得意げに胸を張る。無事に送り届けた、そう思っているのだろう。
リィナは少し笑った。
怖い。今でも近くで見れば、本当に怖い。けれど、その恐怖の奥に、別の確かな感情もあった。
「ありがとうございました、シルヴィアさん」
深く頭を下げる。
「あなたのおかげで、帰ってこられました」
シルヴィアは、最高に得意げになった。もっと褒めてほしそうな顔だった。
だが、遠くから人の声が聞こえた。
「竜だ……!」
「人が乗っているぞ!」
「兵を呼べ!」
「待て、あれは……」
騒ぎが広がり始めている。長居はできない。シルヴィアがここにいればいるほど、恐怖と混乱は大きくなる。
リィナは顔を上げた。
「シルヴィアさん」
名前を呼ぶと、シルヴィアがこちらを見る。
「ライラのところへ、帰ってください」
シルヴィアは少しだけ動きを止めた。名残惜しそうに見えた。それが分かって、胸の奥が温かくなる。この竜は、自分を見送ってくれているのだ。
けれど、シルヴィアの帰る場所はここではない。アルカノアだ。ライラのいる、あの家だ。
「私は大丈夫です」
リィナは言った。完全に大丈夫なわけではない。足は震えている。魔法の疲労も残っている。これから何を聞かれるかも分からない。けれど、ここから先は自分の役目だった。
「届けてくださって、ありがとうございました」
シルヴィアは低く喉を鳴らした。リィナを一度見て、空を見る。
そして、大きな翼を広げた。
周囲の人々が息を呑む。巨大な翼が陽光を遮り、草地に大きな影を落とした。
シルヴィアは一度だけ、リィナへ顔を向けた。
「シルヴィアさん」
リィナはもう一度名前を呼んだ。
「また、いつか」
その言葉が届いたのかどうか。シルヴィアは短く鳴いた。
次の瞬間、地面を力強く蹴る。
猛烈な風が吹き、リィナの外套が大きく揺れた。
シルヴィアは空へ上がる。長く旋回はしなかった。王国の空に長く留まれば、それだけ人々を怯えさせると分かっているのかもしれないし、あるいは、ライラのところへ早く帰りたかっただけかもしれない。
どちらにせよ、シルヴィアはすぐに高度を上げた。
紫がかった竜の姿が、青空へ遠ざかっていく。
やがて、雲の向こうへ完全に消えた。
◆
リィナは、その空をしばらく見上げていた。
シルヴィアが去ったことで、地上の音が一気に戻ってくる。
人の声。走る足音。遠くで鳴る警鐘。馬のいななき。誰かが祈る声。
王国の音。人の世界の音。
近づいてくる者達がいる。巡回兵らしき男達、港の見張り、近くの教会から出てきたらしい修道服の人影、農道にいた人々。
誰もが混乱していた。当然だ。行方不明だった聖女が、竜の背に乗って空から帰ってきたのだから。
リィナの身体は疲れ切っている。足は震える。今すぐ横になりたい。
それでも、ここで倒れるわけにはいかなかった。シルヴィアは帰った。ここから先は、自分が言葉を使わなければならない。
リィナは深く息を吸う。防護魔法はもう解いている。冷たい高空の空気ではなく、王国沿岸の湿った風が肺に入った。懐かしい空気だった。
最初に駆け寄ってきた巡回兵が、途中で足を止めた。信じられないものを見る目をしている。
「まさか……」
別の者が震える声で呟く。
「聖女、様……?」
その呼び方に、リィナは自分の立場を思い出した。
アルカノアでは、ただの漂着者だった。ライラに助けられた、ただのリィナだった。けれど、ここでは違う。王国支部に所属する、聖女。
戻ってきた者として、まず名乗らなければならない。
リィナは、震える足に力を込めた。背筋を伸ばす。
声は疲れていた。それでも、はっきり届くように言った。
「リィナ・エルシアです」
ざわめきが瞬時に広がる。誰かが息を呑み、誰かが膝をつきかけ、誰かが空を見上げたまま固まっている。
「ルミナリア聖教会王国支部へ、至急連絡をお願いします」
そこまで言うと、喉が少し痛んだ。魔法と飛行の疲労が、今になって重くのしかかってくる。けれど、続ける。
「私は……保護を必要としています。ですが、意識はあります。後ほど、事情を説明します」
「聖女様、本当に……」
「よくご無事で……」
「今の竜は、いったい……」
いくつもの声が重なる。答えなければならないことは山ほどあった。
どこにいたのか。誰に助けられたのか。なぜ竜に乗っていたのか。あの竜は何なのか。船はどうなったのか。
けれど、今ここで全てを話すことはできない。話してはいけない。
疲れ切った身体で、恐怖と驚きに包まれた人々へ中途半端に語れば、言葉だけが歪んで先に走ってしまう。
リィナは、シルヴィアが消えた空をもう一度見上げた。
雲の向こう。海の向こう。
そこには、ライラとファミリア達の家がある。
恐ろしい島。けれど、確かに助けられた場所。ファミリア達の暮らしがあった場所。
自分は帰ってきた。けれど、あの場所を恐怖だけで語ってはいけない。その約束は、ここから始まるのだ。
「まずは、王国支部へ」
リィナはもう一度言った。声は弱っていたが、決して揺らがなかった。
「正確に、報告しなければならないことがあります」
周囲の人々が動き始める。兵が走り、教会関係者らしい女性が慌てて支えに来る。誰かが港の方へ叫ぶ。
ざわめきの中で、いくつもの言葉が耳に届いた。
「聖女様が戻られた」
「竜に乗っていたぞ」
「空から……」
「あの海の向こうから?」
「奇跡だ」
「いや、あれは……」
その言葉達は、やがて大きな波になるだろう。リィナには分かっていた。
今日、自分は帰ってきた。けれど、ただ帰ってきただけではない。
竜の背で帰ってきた聖女。その事実は、きっと瞬く間に人々の間へ広がっていく。
奇跡として。恐怖として。噂として。誤解として。
だからこそ、言葉を間違えてはいけない。
リィナは空を見上げた。シルヴィアの姿は、もう見えない。
けれど、あの背の感覚は確かに残っている。
雲の上の青。白い雲海。冷たい空気。鱗の熱。帰るための場所になった、竜の背。
リィナは胸元の聖印に触れた。祈るように。
けれど今は、祈りだけではなく、固い決意として。
恐怖だけで語らない。
助けられたことを忘れない。
ファミリアという言葉を、忘れない。
その誓いを胸に、リィナ・エルシアは王国へ帰還した。
竜が去った空の下で。
これから始まる大きな波紋の前に、アルカノアで得た言葉を守るために。