廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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記録にない事象たち

帰ってきた、という実感はすぐには湧かなかった。

 

王国の土を踏んだ。王国の空気を吸った。王国の人々の声を聞いた。 それでも、私の身体は、まだ遥か雲の上に置き去りにされているようだった。

 

耳の奥が少し痛い。指先は冷え、背中にはシルヴィアの鱗にしがみついていた時の強張りが残っている。肺の奥には、高高度の冷たい空気の名残がまだ刺さっている気がした。

 

通常魔法で気圧と寒さ、呼吸を補っていたとはいえ、あれは本来、長時間続けるものではない。まして、激しく揺れる竜の背の上で維持するような術ではなかった。

 

けれど、それでも帰ってきたのだ。

 

シルヴィアは、ライラのいるあの家へ戻っていった。ライラのいる、あの家へ。 私は一人、王国側に残された。そこから先は、驚くほど慌ただしかった。

 

「聖女様、本当にリィナ様なのですか」 「お怪我は」 「どこから」 「先ほどの竜は」 「すぐに王国支部へ連絡を」 「施療院へ運べ、いや、まず教会だ」

 

声がいくつも重なる。 誰かが支えようとしてくれる。誰かが外套を持ってくる。誰かが祈りの言葉を唱え始める。兵士らしき者は周囲を見回し、緊張した面持ちで空を警戒していた。

 

その警戒が、少し胸に刺さる。彼らにとって、シルヴィアは空から現れた竜だ。恐れるなという方が無理だった。

 

それでも、反射的に言いそうになった。 ――違います。あの方は、私を送ってくださっただけです。怖がらせないよう、ずっと気をつけて飛んでくださいました。

 

けれど、言えなかった。言えば、次の質問が来る。 では、何者なのか。どこから来たのか。誰に従っているのか。なぜ聖女を運んだのか。どこへ帰ったのか。

 

その一つ一つが、あの島へ続いている。ライラへ。ファミリア達へ。あの、大きな大きな家へ。

 

だから、唇を結んだ。代わりに、最低限だけを告げる。

 

「王国支部へ……連絡をお願いします。私は、保護を必要としています」

 

声は自分でも驚くほど掠れていた。けれど、聖女としての言葉は届いたらしい。周囲が動き出す。

 

近くの教会へ運ばれることになった。歩けないほどではなかったが、足元は揺れていた。シルヴィアの背から降りた後、地面がちゃんと地面であることに、身体がまだ追いついていない。

 

教会へ向かう途中も、無数の視線が刺さった。 恐怖 驚愕 安堵 信仰 好奇心 その全てが、私に向けられている。

 

行方不明だった聖女が帰ってきた。竜に乗って。 それだけで、人々の中にどれほどの想像が生まれるのか、考えるだけで胃の奥が重くなった。

 

近くの教会に入ると、ようやく少しだけ騒ぎが遠のいた。 石造りの小さな礼拝堂。清められた水の匂い。蝋燭の灯り。壁に刻まれたルミナリア聖教会の紋章。

 

見慣れたものばかりだった。その見慣れたものに囲まれて初めて、本当に王国へ戻ってきたのだと感じることができた。

 

治癒師と神官が慌ただしく体調を確認する。脈、呼吸、体温、怪我の有無、魔力の消耗、脱水、疲労。質問に答えながら、何度も礼を言った。

 

「申し訳ありません。ご迷惑を」

 

「何をおっしゃいます、聖女様。ご無事で何よりです」

 

「ですが、詳しいことは……少し、休んでからでもよろしいでしょうか」

 

「もちろんです。今はお身体を」

 

その言葉に、少しだけ救われた。今すぐすべてを話せと言われたら、きっと耐えられなかった。

 

体調を確認され、乾いた布を渡され、温かい飲み物を飲まされた。火の近くへ座らされると、ようやく指先に感覚が戻ってくる。 それでも、周囲の視線は途切れない。誰もが聞きたがっている。何があったのか。あの竜は何なのか。

 

両手で器を包みながら、口にする言葉を選んだ。

 

「……海難に遭いました」

 

最初の言葉は、それだった。それは事実だった。

 

「船が嵐に巻き込まれ、私は海へ投げ出されました。その後、とある島に流れ着きました」

 

とある島。その言葉を口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。 禁忌の島とも言わない。アポカリプスとも言わない。ただ、とある島。

 

「そこで、親切な方に助けていただきました。体調が戻るまで、世話になりました」

 

その言葉が、自分の耳にもあまりにも小さく聞こえた。

 

親切。たった一語で済ませていい相手ではない。

 

ライラは、ただ親切だったのではない。私を拾い、怖がらせないよう気を遣い、ファミリア達を遠ざけ、話を聞き、帰る方法を考え、シルヴィアとの練習に付き合い続けてくれた。

 

あの場所には、私が見たものがある。 エクウス達の温かい鼻先。シルヴィアの背。遠くのカイザー。主任の無言の返事。小型の子達の日向ぼっこ。ライラの不器用な配慮。

 

それらを、親切という言葉に押し込める。苦しかった。けれど、それ以上を言えば、話は必ず島そのものへ向かう。だから、その小さな言葉を選ぶしかなかった。

 

「親切な方……?」

 

神官の一人が聞き返す。静かに頷いた。

 

「はい」

 

「その方は、どなたなのですか」

 

「……今は、詳しく申し上げられるほど整理できていません」

 

嘘ではない。本当に整理できていない。ライラを何と説明すればいいのか、今の私には分からなかった。

 

島の主。少女。ファミリア達と暮らす人。自分を助けてくれた人。外の世界のことをほとんど知らない、けれど家族を大切にする人。どの言葉も、一部だけしか伝えない。

 

「帰還の手段も、その方に用意していただきました」

 

神官達の視線が揺れる。用意された帰還手段。つまり、あの竜のことだと誰もが思ったはずだ。けれど、それ以上は言わなかった。

 

聞き手は戸惑っている。説明が少なすぎる。けれど、私が明らかに疲労しているため、今ここで詰問することはできない。その空気が分かった。

 

器の温かさを指先に感じながら、静かに目を伏せた。 語らない。今は、語らない。 それが、あの場所を守るための選択だった。

 

 

正式な聞き取り調査が行われたのは、帰還から数日後だった。

 

短い療養の後、私は王都へ移された。 王国支部の者達はもう少し休ませたがったし、施療院の治癒師も、魔力の消耗がまだ残っていると診断した。

 

だが、状況が状況だった。行方不明だった聖女の帰還。海難。不明な島。そして、竜に乗って戻ったという多数の目撃証言。王宮も、ルミナリア聖教会王国支部も、無視できるはずがなかった。

 

聞き取りの場は、尋問室ではなかった。王国支部の一室。重い木の机。整えられた椅子。壁には教会の紋章と王国の紋章が並んでいる。

 

出席者は、王国支部の上級神官、王宮側の文官、王国軍の連絡役、記録官、そして施療院の治癒師だった。治癒師が同席しているのは、私の体調に配慮してのことだろう。

 

それでも、部屋に入った瞬間、胃のあたりが重くなる。全員が丁寧だったが、丁寧であることと、聞かれないことは同じではない。

 

王宮の文官は、記録として破綻がないかを見ている。 王国軍の連絡役は、竜の危険度を測っている。 王国支部の上級神官は、奇跡と教義の距離を測っている。 記録官は、私の言葉を一語も落とすまいと筆を構えている。

 

それぞれが違うものを見ていた。そして、その全部が私の言葉を待っていた。

 

「リィナ・エルシア殿」

 

王宮側の文官が静かに口を開いた。

 

「お身体に負担をかけることは本意ではありません。しかし、王国としても、王国支部としても、あなたの帰還に関する事実確認を行う必要があります」

 

「承知しております」

 

姿勢を正す。

 

「答えられる範囲で、お答えいたします」

 

答えられる範囲で。その言い方に、上級神官がわずかに目を細めた。記録官の筆が動き始める。

 

質問は、最初は基本的なものだった。乗船していた理由、航路、嵐に遭った時刻、船の状況、記憶している限りの同乗者、海へ投げ出された後の記憶。 私は、分かる範囲で答えた。分からないところは、分からないと言った。それは本当だった。嵐の記憶はあまりにも断片的だった。

 

問題は、その先だった。

 

「あなたは、とある島に流れ着いたと報告しています」

 

「はい」

 

「その島の位置は分かりますか」

 

「正確には、分かりません」

 

これは本当だ。シルヴィアに乗って帰ってきたとはいえ、上空から正確な海図を作ったわけではない。方角と距離の感覚はあるが、ここで安易に言えば地図に点が打たれる。打たれた点は、やがて船と兵を呼ぶのだ。

 

「島の規模は」

 

「私が把握している範囲では、お答えできるほど調査しておりません」

 

これも本当だ。私が見たのは、ライラの家の周辺と、生活圏の一部だけだ。

 

「人はいましたか」

 

来た。一瞬だけ呼吸を整える。

 

「私を助けてくださった方がいました」

 

「複数ですか」

 

「……少なくとも、私が直接お話ししたのはお一人です」

 

記録官の筆が止まりかける。お一人。その言葉が何を意味するのか、聞き手は測っているようだった。

 

「その方の名は」

 

「申し訳ありません。本人の許可なく、ここでお伝えすることは控えたいと思います」

 

部屋の空気が少し変わった。嘘ではないが、強い拒否だった。 王国軍の連絡役が眉を動かす。王宮文官は表情を変えない。上級神官は、私をじっと見ていた。

 

「理由を伺っても?」

 

「その方は、私を助けてくださいました」

 

言葉を慎重に置く。

 

「海難で流れ着いた私を保護し、体調が戻るまで世話をし、帰還の手段を用意してくださいました。少なくとも、私に対して敵意はありませんでした。その方の素性や住まいについて、私の判断だけで軽々しく話すことは、礼を欠くと考えます」

 

それは、表向きの理由だった。そして、本心の一部でもあった。 軽々しく話すことは、礼を欠く。それ以上に、危険を呼ぶ。

 

ライラのことを話せば、必ず聞かれる。なぜそのような存在が島にいるのか、どれほどの力を持つのか、周囲の巨獣達は何なのか、王国にとって脅威なのか、利用できるのか、討伐すべきなのか。

 

一研究者として、私には分かっていた。 未知のものは、恐れられる。恐れられるものは、調べられる。調べられたものは、分類される。分類されたものは、利用か排除の議論に乗る。

 

あの場所は、そんなふうに扱われていい場所ではない。少なくとも、軽々しくそうされていい場所ではなかった。

 

ライラがいた。シルヴィアがいた。カイザーがいた。海の下には、私が直接見ていない巨大な影達がいた。小さな子達が日向ぼっこをしていた。主任が荷物を整理していた。エクウス達が鼻先を寄せてくれた。 それを全部、「危険生物群」や「未知戦力」として紙の上に並べることはできなかった。

 

文官は少しだけ沈黙した。

 

「では、帰還時に目撃された竜について伺います」

 

やはり来た。胸の奥で小さく息を吐く。

 

「複数の目撃者が、あなたが竜のような存在に騎乗して帰還したと証言しています」

 

「はい」

 

否定はできない。実際に、シルヴィアに乗って帰ってきたのだから。

 

「あれは、あなたを助けた者が用意したものですか」

 

用意したもの。その言い方に、心が少し引っかかる。シルヴィアは物ではない。乗り物でもない。兵器でもない。ライラのファミリアだ。けれど、その言葉をここで出すことはできない。

 

「私を王国まで送り届けてくださった存在です」

 

慎重に言った。

 

『それ』と呼ぶことだけはできなかった。『魔物』と呼ぶこともできなかった。

 

シルヴィアは、自分の名前を呼ばれると得意げに喉を鳴らす竜だった。私の呼吸を読んで、速度を落としてくれる存在だった。だから、せめて乱暴な言葉では呼びたくなかった。

 

王国軍の連絡役がわずかに眉を上げる。

 

「存在、ですか」

 

「はい」

 

「竜ではないのですか」

 

「竜に似た姿をしていました」

 

「あなたに危害を加えなかった」

 

「はい。少なくとも、私に敵意はありませんでした」

 

「意思疎通は可能でしたか」

 

少し迷う。シルヴィアは、こちらの言葉を聞いていた。私の呼吸を読んだ。速度を落とし、怖がらせないよう飛んでくれた。意思疎通が不可能だったとは言えない。

 

「完全に言葉を交わしたわけではありません。ですが、私の声には反応していました」

 

「聖女殿の声に反応した竜……」

 

誰かが小さく呟いた。その瞬間、部屋の空気に別の色が混じった気がした。 聖女。竜。敵意がない。王国まで送り届けた。声に反応した。それらが、聞き手の中で勝手に繋がっていく。

 

まずい、と思った時にはもう遅かった。

 

「まるで、守護者のようですな」

 

上級神官が、低く呟く。私の胃が、きゅっと縮んだ。

 

守護者。その言葉は、半分だけ正しかった。

 

シルヴィアは確かに守ってくれた。乱気流を避け、速度を抑え、私の声を聞き、王国まで送り届けてくれた。 けれど、その言葉が教会の机の上に置かれた瞬間、シルヴィアは私を助けた一個の存在ではなく、教義に組み込まれる記号になってしまう。

 

聖女を守る竜。神の遣い。聖なる奇跡。ルミナリアの加護。それは美しい言葉かもしれない。けれど、シルヴィアの本当の居場所ではない。

 

「守護者と断じるのは、早計かと」

 

すぐに返した。けれど、完全否定はできない。シルヴィアは守ってくれた。乱気流を避け、雲の上へ上がり、私の声に従って速度を抑え、王国まで届けてくれた。あれを守護ではないと言い切るのも、違う。

 

だが、宗教的な意味での守護竜ではない。神の遣いではない。聖教会の奇跡でもない。ライラのファミリアだ。

 

手元の指をそっと握った。

 

「少なくとも、私を助けてくださった存在であることは事実です。ただし、それを教義的・伝承的な意味でどう解釈するかは、慎重であるべきだと思います」

 

言い切った。上級神官はしばらく私を見ていた。王宮文官が記録官へ視線を向ける。筆が走る。

 

王国軍の連絡役は、別の意味で考え込んでいるようだった。軍にとって、あの存在は信仰上の問題だけではない。空を飛び、人を運び、高高度を越え、海を渡る竜。それがもし敵対すればどうなるのか。逆に、味方にできるならどうなるのか。

 

外側からの、軍事的な計算が始まる前に、話を閉じなければならなかった。

 

「私から申し上げられるのは、以上です」

 

静かに頭を下げる。

 

「助けていただいたこと。王国へ送り届けていただいたこと。それは事実です。ですが、それ以上を軽々しく断じることは、私にはできません」

 

嘘は言っていない。ただ、真実の大部分を伏せている。その苦さを噛みしめながら、聞き取りの終わりを待った。

 

 

噂は、思っていたより早く広がった。

 

最初は沿岸都市だった。竜が降りた。その背に聖女様が乗っていた。竜は聖女様を丁寧に降ろし、空へ帰っていった。 次に、王都へ届いた。行方不明だった聖女リィナ・エルシアが帰還した。嵐の海から奇跡的に生還した。竜に守られていた。雷を帯びた翼を持つ聖竜だった。

 

そして、数日もしないうちに、噂は形を変え始めた。

 

「神の遣わした竜が、聖女様を嵐の海から救ったらしい」 「いいや、聖女様には元々守護竜がついていたのだ」 「雷をまとった竜だったそうだ。ルミナリアの光を宿していたのでは」 「あの竜は聖女様を送り届けると、天へ帰ったと聞いたぞ」 「聖女様の祈りに応えて現れた聖竜だ」

 

どれも違う。違うのに、どれも完全には否定できない。 シルヴィアは本当に雷を宿していたし、私を王国まで送り届け、私の声を聞き、怖がらせないように飛んでくれた。飛び去る時、空へ帰っていったように見えただろう。

 

半分事実。それが、一番困る。 まったくの作り話なら否定できた。完全な真実なら説明できた。けれど、半分だけ事実で、半分だけ誤解。 否定すれば、「ではあれは何だったのか」と聞かれる。肯定すれば、シルヴィアが聖教会の奇跡に組み込まれる。

 

王国支部の廊下で噂話を耳にするたびに、私は胃の奥を押さえた。

 

「リィナ様、顔色が」

 

「少し、書類が立て込んでいて」

 

嘘ではない。実際、書類は立て込んでいた。短い療養を終えた私を待っていたのは、休暇ではなかった。書類だった。

 

一枚目は王宮から。二枚目は王国支部から。三枚目は沿岸教会から。四枚目は、なぜか祝祭係からだった。 そこで一度、筆を置いた。

 

なぜ祝祭係から。疑問に思いながら封を開けると、そこには帰還記念の祈祷式について、長々と書かれていた。静かに封書を閉じた。見なかったことにはできないが、少しだけ後回しにした。

 

机の上には、他にも幾らでも積み上がっている。報告書、王宮への追加説明書、王国支部への所見、沿岸教会への慰問予定、海難関係の遺族対応、行方不明者リストの確認、聖竜の噂に関する問い合わせ、学術院からの照会、各国研究機関からの手紙、地方教会の視察予定の遅延処理、施療院からの神聖術運用相談。

 

行方不明になって戻ってきたら、仕事が減るのではないか。一瞬でもそんな甘いことを考えた自分を、机の前で静かに反省した。 現実は逆だった。いなかった間の仕事は溜まっているし、帰ってきたことで新しい仕事が一気に増えている。しかも、その多くが私の帰還に関係しているのだ。

 

奇跡の生還者を待っていたのは、花束と休暇ではない。山積みの書類だった。

 

「……これも、神の試練でしょうか」

 

思わず呟くが、返事はない。机の上の書類だけが、沈黙して積み上がっている。 特に胃に悪いのは、聖竜関連の問い合わせだった。

 

『聖女リィナ様の守護竜について、王国支部としての公式見解を伺いたく』 『雷を帯びた竜は、ルミナリア聖教会の象徴体系に存在するのでしょうか』 『聖竜を祀るための簡易祭壇を沿岸教会に設置すべきか、ご判断を』

 

しばらくその一文を見つめた。

 

祭壇。シルヴィアがそれを見たら、きっと意味を理解するより先に、得意げに胸を張る気がした。そしてライラに「違うよ」と言われて、しょんぼりするところまで想像できた。

 

額に手を当てた。設置しないでください、とそう書きたい。非常に書きたい。けれど、公文書にそのまま書くわけにはいかない。深く息を吸い、次の文面を考える。

 

『現時点で、当該存在を礼拝・祭祀対象として扱う根拠は確認されておりません。よって、特定の祭壇設置等については慎重な判断が必要と考えます』

 

書いてから、もう一度読み返す。硬いが、仕方ない。次の書類へ移る。

 

『守護竜に関する古記録の照会』 『竜の加護を受けた聖女の儀礼上の扱いについて』 『帰還記念の祈祷式において、聖竜への感謝を含めるべきか』

 

一枚読むたびに、こめかみを押さえた。 違う。違うのだ。

 

シルヴィアさんは、確かに私を運んでくださいました。怖がらせないように、速度を抑えてくださいました。高高度で私が術式を維持できるよう、揺れも抑えてくださいました。 けれど、聖竜ではない。少なくとも、あなた方が言う意味ではない。

 

返答文を書き始める。 『現時点で、王国支部として当該存在を聖教会の正式な聖竜として認定する根拠は確認されておりません』

 

書いて、止まる。これでは冷たすぎるだろうか。シルヴィアが助けてくれた事実まで否定しているように読まれないだろうか。少し考え、続きを書く。 『一方で、帰還時に当該存在が私を王国沿岸部まで送り届けたことは事実であり、少なくとも当時、私に対して敵意を示すものではありませんでした』

 

さらに胃が痛くなる。 当該存在。シルヴィアさんを、当該存在。

 

文書上は仕方ない。仕方ないが、申し訳ない。心の中で、シルヴィアへ深く謝った。 きっと本人なら、難しいことは分からず、とりあえず名前を呼ばれたら得意げにするだろう。そう思うと、少しだけ胸が和らぐ。

 

そして次の書類を見て、また胃が痛くなった。

 

 

そんな生活がしばらく続いたある日、私は王国立学術院を訪れることになった。 用件は、神聖術研究の共同資料確認と、沿岸部で報告されている異変に関する神聖術的所見の提出だった。

 

もともと、学術院との共同研究には何度も関わっている。神聖術の運用改善、施療院での実用化、異常魔力環境下での治癒術式の安定性。そのあたりは、私の専門に近い。 だから、学術院へ行くこと自体は珍しくないはずだったが、今回は胃が重かった。「沿岸部」「異変」「学術院からの照会」「聖竜の噂」。その単語が並ぶだけで、嫌な予感しかしない。

 

それでも、仕事は仕事だった。資料を提出し、担当研究者と意見を交換し、いくつかの神聖術的観点からの所見を述べた。体調を気遣われるたびに、微笑んで礼を言う。

 

「少し疲れは残っていますが、仕事に支障はありません」

 

何度そう言ったか分からない。実際、支障はあった。主に胃に。だが、それを理由に仕事を止めるわけにはいかなかった。

 

一通りの用件が終わった頃、学術院の廊下に人の流れができていることに気づいた。

 

「この後、沿岸海域の異変に関する公開講義があるそうですよ」

 

担当研究者が教えてくれた。最近、問い合わせが多いので、教授がまとめて話されるのだという。

 

「沿岸海域の異変……」

 

――聞かない方がいい。 直感がそう告げた。しかし、研究者としての自分が言う。聞いておくべきだ。関係があるかもしれない。いや、きっとある。知らないまま目を背けるのは、あまりにも危うい。

 

「少しだけ、拝聴していきます」

 

そう答えた時点で、私の胃はすでに抗議を始めていた。

 

講義室には、学生だけでなく研究者や軍関係者らしき者もいた。沿岸防衛や航路管理に関わる内容なのだろう。席はほとんど埋まっている。私は目立たないよう後方に座った。

 

目立たないようにしたつもりだった。だが、聖女であり、最近竜に乗って帰還したばかりの人間が本当に目立たずに済むはずもなかった。何人かがこちらに気づき、小さく頭を下げる。静かに会釈を返した。

 

やがて、教授が壇上に立った。年配の男性だった。白髪混じりの髪を後ろへ撫でつけ、手元には分厚い資料束を持っている。声は落ち着いていて、講義慣れしていることがすぐに分かった。 教授は挨拶を済ませ、すぐに本題へ入った。

 

「本日の主題は、ここ最近、とある海域において立て続けに確認されている複数の異変についてです」

 

私の指先が、わずかに強張った。教授は地図を広げる。具体的な場所はぼかされていたが、私には分かってしまった。 あの海域だ。あの島の周辺。島と王国の間に広がる、あの荒れた海。

 

教授は、一度も私の方を見なかった。少なくとも、表面上は。 だからこそ、余計に分かった。この講義は、誰か一人に向けたものではない。けれど、自分を外しているわけでもない。

 

「第一の異変」

 

教授が資料を一枚掲げる。

 

「本来、国が全力を挙げて対応すべき規模の海棲魔獣が、複数、死骸として打ち上げられています。単に死んでいた、という話ではありません。死骸には明確な捕食痕がありました。大型海棲魔獣の噛み跡、裂傷、圧壊痕。いずれも既知の損傷記録とは一致しない箇所が多い」

 

手元のメモが止まった。 国が全力を挙げて対応すべき規模の海棲魔獣。それを、何者かが食べた。

 

私はあの海を思い出す。私は、海のファミリア達を直接見ていない。けれど、ライラから聞いていた。海の下にも、彼女の大切な子達がいると。 波の下の巨大な影。食料を自分達で確保していたという話。

 

『知らないものを見つけたら、食べる前に知らせる』 ライラはそう言っていた。

 

なら、彼らは知っているものを食べていたのだろうか。それとも、知らせる前に終わってしまったのだろうか。あるいは、彼らにとっては、周囲の海棲魔獣さえ食料の一つでしかなかったのだろうか。 分からない。分からないが、冷や汗が背中を伝った。

 

「第二の異変」

 

教授は次の資料を示す。

 

「当該海域では、これまで漁船の行方不明が後を絶ちませんでした。潮流の複雑さ、海棲魔獣の多さ、気象条件。理由はいくつか挙げられていました。ところが、ある時期を境に、漁船の消失報告が減少しています」

 

講義室の空気が少し変わる。それは良いことではないのか。そう思った者が多いのだろう。教授は、すぐに続けた。

 

「もちろん、人命被害が減ったならば喜ばしいことです。しかし、問題はその原因です。既存の危険が自然に消えたのか。それとも、既存の危険を排除する、より上位の危険が現れたのか」

 

私は、唇を結んだ。教授の言葉は、正確だった。恐ろしいほどに。

 

「従来の海棲魔獣が減れば、漁船の被害も減るでしょう。しかし、その理由が、さらに上位の捕食者の出現であるならば、海域全体の危険度は下がったのではありません。むしろ、前提が変わったと見るべきです」

 

視界の端が少し揺れた。隣に座っていた若い研究者が、小声で尋ねる。

 

「リィナ様、お加減が?」

 

「……少し、疲れが残っているだけです」

 

何とか微笑む。研究者は心配そうにしながらも、それ以上は聞かなかった。

 

メモに視線を落とす。文字が少し滲んで見える。 王国側は、外側から観測している。大型海棲魔獣の死骸。捕食痕。漁船消失の減少。 彼らはまだ、あの島を知らない。ライラを知らない。ファミリア達を知らない。 けれど、観測事実だけで確実に近づいてきている。私が隠しているものへ。

 

教授は、淡々と講義を進めた。

 

「現時点で断定はできません。しかし王国沿岸防衛、航路管理、漁業組合、学術院、軍のすべてにおいて、当該海域の危険評価を見直す必要があります」

 

その言葉は、私の胸に重く落ちた。見直す。つまり、調査が始まる。いずれ誰かが、もっと詳しく調べようとする。そして、いずれあの楽園へ近づく。

 

講義はそこで終わらなかった。教授は資料を閉じず、少しだけ間を置いた。

 

「さて、ここで近頃の巷間の噂についても触れておく必要があります。皆様も耳にしているでしょう。行方不明となっていた聖女様が、竜に似た存在に乗って帰還したという話です」

 

講義室の空気が一気にざわめいた。私は表情を変えないように努める。教授は私を名指ししなかった。しかし、誰のことか分からない者などいない。

 

「世間では、聖女を守護する聖竜、神の遣わした竜、ルミナリアの加護など、様々な解釈がなされています」

 

教授の声はあくまで冷静だった。

 

「では、文献上、そのような存在は確認できるのか」

 

教授は一冊の分厚い資料を開く。

 

「まず、ルミナリア聖教会の正典には、聖女個人に雷を帯びた飛竜が随伴するという記述は確認できません。次に、王国支部に保管されている聖女列伝。少なくとも現行で参照可能な範囲では、聖女の守護者として竜が恒常的に随伴した記録はありません。各地の聖女伝承にも、竜、飛竜、翼ある聖獣の類が登場する例はあります。ただし、それらは象徴的幻視、紋章、詩的表現、または後世の付加であることが多く、今回目撃されたような、雷を帯びた飛行個体が実際に人を運んだという記録とは一致しません」

 

教授は一拍置く。

 

「つまり、少なくとも文献上、現在語られている『聖女の守護竜』に直接対応する記録は存在しない」

 

講義室が静まり返る。

 

記録にない聖竜。それは、半分だけ正しい。記録にない。それは正しい。 聖竜。それは、違う。

 

けれど完全には否定できない。シルヴィアは本当に私を守るように飛んでくれた。あの背は、雲の上の帰り道だった。手元のメモに、何も書けなかった。

 

教授は最後にこう締めた。

 

「噂とは、観測された事実に人々の願望や恐怖が重なったものです。ゆえに、噂を笑うべきではありません。しかし、記録にないものを記録にあるかのように扱うことは、学術としても信仰としても危うい」

 

その言葉に、胸を突かれた。 恐怖だけで語らない。けれど、願望だけで飾ってもいけない。それは、私自身が最も分かっていることだった。

 

 

講義が終わると、周囲の者達はざわめきながら立ち上がった。沿岸海域の異変、巨大魔獣の死骸、捕食痕、漁船消失の減少、聖女の守護竜、文献に存在しない聖竜。話題には事欠かない。

 

私は、できればそのまま静かに帰りたかった。書類がある。体調もまだ万全ではない。王国支部へ戻れば、また返答待ちの文書が山ほどある。何より、今は一人で胃を押さえたい。

 

しかし、席を立ったところで、壇上から声がかかった。

 

「リィナ殿」

 

逃げられなかった。声の主は、先ほどの教授だった。深く息を吸い、穏やかな表情を作る。

 

「教授。興味深い講義をありがとうございました」

 

「こちらこそ。お疲れのところ、拝聴いただき恐縮です」

 

教授は穏やかに微笑んだ。柔らかな物腰、落ち着いた声。長年学術院で教えてきた者の余裕。だが、目は鋭かった。

 

「お加減はもうよろしいのですかな」

 

「まだ完全ではありませんが、仕事に支障はありません」

 

「奇跡の生還者を休ませないとは、王国支部もなかなか厳しい」

 

軽い冗談のように言われ、私は苦笑した。

 

「戻った分、遅れた仕事も多くありますので」

 

「それはそれは。聖女という役職も大変ですな」

 

「教授方ほどではありません」

 

「いや、我々は書類に埋もれるだけで済みます。竜に乗って帰ってくることは、そうありません」

 

胃が痛い。私は微笑みを保つ。

 

「私も、そう何度も経験したいことではありません」

 

「でしょうな」

 

教授は軽く笑った。その笑いのまま、自然に話題を変える。

 

「ところで、先ほどの海域について。何か、お心当たりは?」

 

言い方は穏やかだった。詰問ではない。命令でもない。講義後の世間話、そう見える程度の問いかけ。けれど、教授の目は笑っていなかった。半ば確信している、そう感じた。

 

「海域については、私も詳しい調査資料を持っているわけではありませんので」

 

「もちろん。ですが、あなたは最近、その周辺と思われる海域から帰還された」

 

「そう断定できるほど、私は正確な位置を把握しておりません」

 

「なるほど」

 

教授は頷く。納得した顔ではない。ただ、言葉を受け取っただけだった。

 

「では、聖女の守護竜については? 私の知る限り、文献にはありません。先ほども申し上げた通りです。リィナ殿は、どうお考えですかな」

 

どう考えるか。考えなら、いくらでもある。 シルヴィアは聖竜ではない。けれど私を助けた。雷を帯びていた。竜のようだった。私の声を聞いた。ライラのファミリアだった。

 

最後だけは、言えない。

 

「……助けていただいたことは事実です」

 

静かに答えた。

 

「ただ、それを聖竜、守護竜と断じることには慎重であるべきだと思います。噂が大きくなりすぎています。私自身、まだ整理できていないことが多くあります。あの存在を、教義や伝承へ軽々しく結びつけることは避けるべきかと」

 

「では、竜ではないと?」

 

「竜に似た存在でした」

 

「聖なるものではないと?」

 

「私が断じるべきではありません」

 

「危険なものでは?」

 

少しだけ沈黙した。ここで安全と言えば嘘になる。シルヴィアは危険だ。あの力は、普通の人間にとって脅威そのものだ。けれど、私に敵意はなかった。

 

「少なくとも、私に対して敵意はありませんでした」

 

「それは、あなた個人に対して?」

 

「……そこまでは分かりません」

 

「なるほど」

 

教授はまた頷いた。やはり、納得した顔ではない。

 

「あなたは、非常に言葉を選んでおられる」

 

背筋が冷えた。

 

「疲れているせいかもしれません」

 

「かもしれませんな」

 

教授は穏やかに笑う。

 

「ですが、言葉を選ぶ者は、たいてい選ばなかった言葉を持っている」

 

返す言葉がなかった。教授はそれ以上追及しなかった。ただ、資料を整えながら、世間話のように言った。

 

「海域の異変、記録にない聖竜、そして奇跡的な帰還。偶然が三つ重なると、学者はどうしても線を引きたくなるものです」

 

「線を引くには、まだ点が不足しているのではありませんか」

 

何とか返す。

 

「ええ。ですから、点を探すのです」

 

教授は微笑んだ。穏やかに。とても穏やかに。

 

「リィナ殿。お身体にはお気をつけください。近いうちに、また詳しくお話を伺う機会があるかもしれません」

 

「……私に分かることでしたら」

 

「ええ。分かることを」

 

その言い方が、妙に重かった。礼をして、その場を離れた。背中に、教授の視線が残っている気がした。

 

 

学術院を出た時、空は夕方に傾き始めていた。王都の建物が夕日に染まり、石畳に長い影が伸びている。いつもの王都だった。 人が歩き、馬車が通り、学生達が資料を抱えて走っている。遠くの鐘が時を告げ、街路樹の葉が風に揺れていた。

 

その光景を見ながら、ゆっくり息を吐く。 今日は、何とか誤魔化した。少なくとも、この場では。だが、逃げ切れた気はしなかった。

 

教授の講義。大型海棲魔獣の死骸。捕食痕。漁船消失の減少。記録にない聖女の守護竜。世間に広がる聖竜の噂。 それらが、一本の線で繋がり始めている。私が伏せているものへ向かって。

 

ライラ シルヴィア カイザー 海の下のファミリア達 海の向こうの、ライラ達のいる場所。

 

恐怖だけで語らないと約束した。けれど、詳しく語らないことも選んだ。 恐怖だけで語れば歪む。詳しく語れば危険を呼ぶ。語らなければ、外側の観測事実が勝手に近づいてくる。どれを選んでも、胃に悪い。

 

「……明日も、胃が痛そうですね」

 

小さく呟く。それは、少しだけ冗談のつもりだった。けれど、不思議と笑えなかった。

 

王国支部に戻れば、また書類が待っている。聖竜関連の問い合わせも増えているだろう。学術院からの追加照会も来るかもしれない。 教授の言葉が耳に残っている。――近いうちに、また詳しくお話を伺う機会があるかもしれません。

 

その「近いうち」が、どうか少しでも遠いことを祈りながら、私は王国支部へ戻る道を歩いた。

 

夕暮れの空には、竜の影などない。 それでも、一度だけ空を見上げた。

 

雲の向こう、海の向こう。そこには、記録にない聖竜などではない、名前を呼ぶと得意げに喉を鳴らす竜がいる。そして、その竜が帰る家がある。

 

その事実だけは、まだ記録にも、噂にも、誰かの解釈にも渡せなかった。

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