翌朝、私の胃は、仕事を始める前から痛かった。
原因は分かっている。 昨日の講義だ。
国が全力を挙げるレベルの海の怪物が、何者かに食われた死骸として複数打ち上がっている。漁船の行方不明が、ある時期から不自然に減っている。聖女の守護竜は、文献に存在しない。
教授は、穏やかな声でそう語っていた。 そして講義後には、さらに穏やかな顔で聞いてきたのだ。 ――何か、お心当たりは。
その声が、今朝になっても耳から離れない。
王国支部の執務室で、私は書類の山を前にしていた。机の上には、相変わらず紙が積み上がっている。昨日より減っているはずなのに、なぜか見た目はほとんど変わらない。
地方教会からの報告書。施療院の神聖術運用相談。王宮提出用の確認書。聖竜関連の問い合わせ。学術院からの追加照会。沿岸教会からの慰問日程案。帰還後の体調確認書。
そして、なぜか祝祭係からまた届いた封書。
私は封書の宛名を見て、そっとそれを机の端へ置いた。今は見ない。今見たら、きっと胃痛が倍増する。
そう思って別の書類を手に取るが、文字がまったく頭に入ってこなかった。 視線は紙の上を滑っているのに、頭の中には昨日の地図が浮かんでいる。教授が講義室で広げた、危険海域をぼかした地図。明確な座標は示されていなかったが、私にははっきりと分かってしまった。
あの島の周辺だ。 海の下に、ライラの大切な子達がいる、あの海。
私は、海のファミリア達の全貌を見ていない。けれど、ライラから聞いていた。海の子達もいて、自分達で食料を確保しているのだと。 そして今、それが最悪の形で外側から観測されてしまった。
大型海棲魔獣の死骸。捕食痕。漁船消失の減少。
王国は、ライラを知らない。ファミリア達を知らない。あの温かい家を知らない。 けれど、彼らの残した圧倒的な生命の痕跡だけが、着実にこちらへ近づいてきている。
「……胃が痛い」
思わず小さく呟くと、扉の近くで補佐役の神官が心配そうに顔を上げた。
「リィナ様、やはりお休みになられた方が」
「いえ、大丈夫です。少し、考えごとをしていただけです」
「昨日も学術院へ行かれていましたし、まだご無理は」
「大丈夫です」
そう答えながら、心の中ではまったく大丈夫ではないと毒づいていた。 だが、休んだところで書類は減らないし、聖竜の噂も消えない。学術院の照会も止まらなければ、海域の異変がなかったことになるわけでもない。
結局、机に向かうしかなかった。 私が筆を取り、王宮提出用の確認書に目を通そうとした、その時だった。
扉の外が、わずかに騒がしくなった。 足音がする。 神官のものではない。文官のものでもない。もっと統率された、硬く重い足音。
私は筆を止めた。 強烈な嫌な予感がした。昨日からずっと胃の奥に沈んでいた澱(おり)が、ゆっくりと形を持ち始める。
扉が鋭く叩かれた。
「失礼いたします」
補佐役の神官が扉を開ける。 そこに立っていたのは、王国軍の制服を厳格に着込んだ男だった。
年は四十代ほどだろうか。背筋がまっすぐに伸び、顔立ちは厳しいが、威圧を目的とした表情ではない。ただ、余計な感情をすべて削ぎ落としたような静けさがあった。その後ろには、数名の兵士が控えている。
将官。そう判断するまでに、時間はかからなかった。 男は室内へ一歩入ると、私へ丁寧に一礼した。
「リィナ・エルシア殿」
「はい」
「ご同行願いたい」
来た。そう思った。 心臓がドクリと嫌な音を立てる。けれど、聖女としての表情だけは崩さないよう必死に努めた。
「……どういったご用件でしょうか」
「場所を改めてお話しします」
「こちらでは難しい内容ですか」
「はい」
短い答えだった。丁寧だが、反論を許さない重みがある。 補佐役の神官が困惑したように将官を見た。
「あの、リィナ様はまだご療養明けで」
「承知しています。必要な配慮は行います」
将官は神官へも礼を失わなかった。
「これは王国軍、および王宮側の正式な要請です。王国支部にも既に連絡は入っています」
神官はそれ以上、言葉を続けられなかった。王国支部にも話が通っている。つまり、ここで私を引き留める盾はもうどこにもない。
私は静かに筆を置いた。
「分かりました」
「感謝します」
将官はそう言って、少し横へ退いた。まるで客人を案内するような見事な仕草だった。 それなのに、私にはそれが「連行」の合図にしか感じられなかった。
実際、そう大きく間違ってはいないのだろう。 私の胃は、さらに深く悲鳴を上げた。
◆
移動中、将官はほとんど何も話さなかった。私もあえて尋ねなかった。尋ねたところで「場所を改めて」と返されることは分かっていたからだ。
連れていかれたのは、王宮が管理する施設だった。王宮本体からは少し離れた、軍と文官が共同で使う建物の一角。重い石造りで、窓は細く、装飾はほとんどない。 地下ではないし、暗くもない。だが、決して明るい光が差し込む場所でもなかった。
通された部屋は、拷問部屋などではなかった。血の匂いも、鎖も、鉄格子もない。机と椅子、記録用の紙、水差し、壁際の棚、小さな窓。必要なものだけが整えられた、公式な事情聴取のための部屋。 しかし、それがかえって逃げ場のなさを際立たせていた。
余計なものが何もない。つまり、ただ「話す」ためだけの檻だ。
私は部屋へ入った瞬間、椅子に座っている人物を見て、一瞬だけ足を止めてしまった。
昨日の教授だった。 白髪混じりの髪を後ろへ撫でつけ、落ち着いた姿勢で座っている。目の前には資料が置かれていたが、その上に手が静かに重ねられているだけだった。
教授は、何も言わなかった。挨拶もしない。問いかけもしない。ただ、私を見ていた。 その沈黙だけで、昨日の講義も、講義後の世間話も、すべてがこの瞬間に繋がっていたのだと理解させられた。
私の胃が、今朝とは別の種類の痛みを訴え始める。
将官が椅子を示した。
「お座りください」
「……はい」
私は腰を下ろした。 机に置かれた水差し。必要なら飲めるように、という最低限の配慮だろう。だが、その配慮すら、これから始まる対話が長く過酷なものになるという予告のように思えてならなかった。
将官が私の向かいに座る。教授は斜め横。 記録官の姿はない。少なくとも、見える位置にはいない。 この場にいるのは、将官、教授、そして私。それだけだった。
将官が静かに口を開いた。
「まず確認します。これは、あなたを罰するための場ではありません」
その静かな言葉は、むしろ容赦のない脅迫のように怖かった。
「ですが、王国として見過ごせない事実があります」
私は黙って聞くしかなかった。教授は、やはり何も言わない。
「あなたは帰還後の聞き取りで、海難に遭い、とある島に流れ着き、親切な人物に助けられ、体調が戻るまで世話になり、帰還手段を用意された、と証言しました」
「はい」
「あなたの証言は、嘘とは断定できません」
嘘とは断定できない。そう言われることが、こんなにも重く心を潰しにかかるとは思わなかった。
「ですが、圧倒的に情報が不足しています」
将官の声は終始平坦だった。責めているのではない。事実を淡々と述べているだけ。だからこそ、逃げ道が塞がれていく。
「島の位置、規模、住人、危険度、帰還手段の詳細。いずれも不明確です。あなたが体調不良であり、精神的負担も大きかったことは承知しています。その上で、王国としてはこれ以上の沈黙を見過ごすわけにはいかない」
私は答えない。いや、答えられなかった。将官は続けた。
「次に、帰還時の目撃証言です。沿岸の見張り、巡回兵、近隣住民、教会関係者。複数の証言があります。細部には揺れがある。竜だった、飛竜だった、雷を帯びていた、紫に光っていた、翼の内側が青白く輝いていた。表現は様々です」
シルヴィア。私は心の中で、その名を縋るように呼んだ。
「しかし、大筋では一致しています。大型の飛行生物が、あなたを乗せて王国沿岸部へ到達した。あなたを降ろした後、その飛行生物は海の方角へ飛び去った」
「……はい」
「民はそれを『聖竜』と呼び始めています」
将官はそこで、ほんの少しだけ間を置いた。
「ですが、王国軍としては『未確認飛行戦力』と見なします」
胸が痛んだ。 未確認飛行戦力。その言葉の響きは、あまりにも私の記憶とかけ離れていた。
シルヴィアは、名前を呼ぶと得意げに喉を鳴らす。褒められるとこれ以上ないほど胸を張る。ライラに「ゆっくり」と注意されれば途端にしょんぼりする。私の呼吸が乱れれば、必死に速度を落としてくれる優しい子だ。 そのシルヴィアが、王国の記録上では、ただの「戦力」として処理される。 間違ってはいない。王国軍から見れば、そう判断するしかないのだ。だからこそ、たまらなく苦しかった。
「さらに、聖女の守護竜について」
将官は教授の方へ一度視線を向けた。教授は、やはり何も言わなかった。ただ、私をじっと見つめている。
「ルミナリア聖教会の正典、王国支部の記録、聖女列伝、既存の竜伝承。いずれにも、聖女個人に雷を帯びた飛竜のような守護者が随伴した記録は確認されていません」
昨日の講義が、そのまま容赦のない刃になって私に突き刺さる。 教授は喋らない。喋らないことで、昨日語った学術的事実のすべてが既に資料としてここにあるのだと無言で示していた。
「つまり、あなたの帰還は既知の聖女伝承では説明できません」
私は、唇を固く結んだ。 シルヴィアは伝承ではないし、文献でもない。今この瞬間も、海の向こうのあの島で確かに生きている、ライラの大切なファミリアだ。
将官は次の資料へ目を落とした。
「次に、とある海域の異変です」
私の背筋が冷たくなった。
「とある海域において、国が全力を挙げて対応すべき規模の海棲魔獣が、複数、死骸として打ち上げられています。損傷には明確な捕食痕があり、既知の大型海棲魔獣によるものとは一致しない点が多い。また、同海域では、これまで漁船の行方不明が後を絶ちませんでした。しかし、ある時期を境に、消失報告が減少しています」
私は教授の講義を思い出す。 危険が消えたのではない。危険の性質が変わったのだ。 既存の海棲魔獣を圧倒し、捕食する、より上位の存在。海域全体の危険度は、むしろ跳ね上がっている可能性がある。
私は、海の下のファミリア達を思い出した。 全貌は見ていない。けれど、ライラは確かに言っていた。海の子達もいる、と。 波の下からの返事。自力で食べていたという話。ライラが困ったように「知らないものは食べる前に知らせて」と彼らに言っていたこと。
あの海にいる巨大な子達が、王国にとってどう映っているのか。。今、最も残酷な形で突きつけられている。
「そして、時期です」
将官が顔を上げた。
「これらの異変が目立ち始めた時期と、あなたの漂流、空白期間、帰還の時期は極めて近い」
私は黙るしかなかった。
「あなたは海難後、とある島に流れ着いた。そこには、あなたを助ける人物がいた。あなたは竜に似た未確認飛行生物に乗って帰還した。同時期、周辺海域では大型海棲魔獣の捕食死骸が確認され、漁船消失の傾向が変化している。さらに、聖女の守護竜は文献に存在しない。――偶然と見るには、材料が揃いすぎています」
何も言えなかった。 昨日、教授が言った通りだ。偶然が重なると、線が引きたくなる。 今、王国軍がその線を引いている。そしてその線の先は、間違いなくあの島へ真っ直ぐに向かっていた。
教授は、やはり何も言わない。ただ見ている。その冷徹な理性の視線が、声を荒らげられるよりも何倍もきつかった。
将官は、さらに言葉を重ねた。
「ここからは、伝承の話になります」
伝承、という言葉に私の胸が激しくざわついた。
「『禁忌の島』という言葉を聞いたことはありますか」
すぐには答えられなかった。 聞いたことはある。教会の古い記録で、沿岸部の昔話で、船乗りの戒めとして。 けれど、それは私にとって、ずっと伝承の中だけの言葉だった。船乗りが恐怖を語るための記号、子どもを海へ近づけないための脅し。古い聖職者が、神の光の届かない場所を表現する時に使った比喩。 そう思っていたのだ。実際に自分がそこへ流れ着き、あの温かい日々に触れるまでは。
「禁忌の島の伝承は、教会の古い記録だけに残るものではありません。王国の沿岸地方にも伝わっています。他国の小さな漁村にも、似た話がある。呼び名や細部は地域ごとに違います。ですが、共通点は多い。」
将官は資料をめくった。
「教会記録では『神の光が届かぬ島』『祈りが帰ってこない海』『災厄が眠る場所』。そのように語られることがあります」
私は、思わず胸元の聖印に触れそうになった。 祈りが帰ってこない海。あの島で私の祈りが届かなかったとは思わない。けれど、外の世界の記録では、そう恐れられている。
「王国沿岸部での伝承は、もっと実用的です。あの海域へ行くな、霧が出たら帆を畳め、海が静かすぎる日は近づくな、帰ってきた船はない」
将官の声はどこまでも淡々としていた。
「小さな漁村では『船を食う島』、夜に海が鳴いたらその方角へ網を投げるな、そこでは魚ではなく船が釣られる、大きすぎる影が海の下を通る、といった怪談として残っています」
大きすぎる影が海の下を通る。私の脳裏に、あの海の下にいる巨大な影達が浮かんだ。 それだけではないかもしれない。あの島は、私が見た範囲ですら常識外の場所だった。見ていない場所に、一体何が潜んでいるのかなど分かるはずもない。
「学術院では長らく、これらを民間伝承や海難事故の誇張と見ていました。しかし、近年の海域異変とあなたの帰還により、その伝承が恐るべき現実味を帯びています」
部屋が静まり返る。聞こえるのは、自分の少し浅い呼吸の音だけだった。
「王国として、これを無視することはできません」
将官は、そこで初めて少しだけ声を低くした。
「民衆がそれを聖竜と呼ぶか、神の加護と呼ぶかは政治の問題です。しかし王国にとっては、未確認飛行戦力と未確認海域戦力の問題なのです」
私は目を伏せた。冷たい言葉。けれど、国家を背負う者としては、あまりにも正しい。
「大型海棲魔獣を捕食できる存在が王国沿岸近くにいるなら、沿岸防衛の前提がすべて崩れます。飛行生物が人を乗せて海を越え、大陸まで到達できるなら、空の防衛も変わる。禁忌の島の伝承が現実であるならば、海上交通、民間船舶、漁業、教会、学術院、すべてに関わる国家の危機です」
将官は、私を責めていないし、怒ってもいない。ただ、国として動く正当性を説明している。それが、たまらなく苦しかった。
王国は間違っていない。もし私が何も知らない立場なら、全く同じことを考えただろう。調べるべきだ、当然だと。 けれど、その「当然の調査」の先には、ライラがいる。シルヴィアが、カイザーが、海の子達が、小型の子達が、あの静かな家があるのだ。
「……私を助けてくださった方々に、敵意はありませんでした」
私は、ようやく掠れた声を出した。 『方々』。その一言でさえ、情報を与えすぎたかもしれない。けれど、黙っていられなかった。
「少なくとも、私が見た限りでは、無差別に人を襲うような存在ではありません。軽率な調査は危険です。相手を刺激すれば、取り返しがつかないことになるかもしれません」
「だからこそ、調査が必要なのです」
将官は即座に返した。怒鳴らない。ただ、冷徹な論理を重ねてくる。
「相手が何者か分からないまま恐れれば、民は噂に流され、軍は最悪を想定せざるを得なくなる。教会は奇跡か災厄かの判断を迫られ、学術院は推測だけで動くことになる。それは避けねばならない」
正しい。正しいからこそ、何も言えなくなる。
「王国は、現時点で討伐を決定しているわけではありません。ですが、調査しないという選択肢もありません」
「調査団を出せば、危険です」
「承知しています」
「本当に危険なのです! 安易に近づけば、調査団が全滅してもおかしくありません」
「そのために、万全の準備をします」
将官は、少しも揺らがなかった。 王国という巨大な機構が、静かに、しかし確実に動き始めたのだ。これはもう、私の沈黙ごときで止められる流れではない。
私が黙っていれば、王国は自分を置いて勝手に動くだけだ。それは、最も避けるべき最悪の事態だった。 ライラは外の国を知らない。王国の礼法も、軍の冷徹な考え方も、教会が奇跡や災厄として受け止めてしまう危うさも知らない。ファミリア達は、ライラにとっては大切な家族だ。だが、王国から見れば「未確認の巨大生物群」でしかない。
もし何も知らない調査団が、不用意にあの島に近づけば。 もし海の子達が警戒して船を沈めれば。もしシルヴィアが私を探して防衛行動に出たら。もしカイザーが正門の前で立ち上がったら。
想像するだけで、胃の痛みが一瞬で消え去り、代わりに総毛立つような恐怖が背筋を這い上がってきた。
将官は、静かに最後の資料を置いた。
「リィナ・エルシア殿。あなたが流れ着いた島は、既知の海図に記された島ではありません。しかし、古い記録と沿岸伝承には、該当海域に合致する、近づいてはならない場所がある」
教授が、ただ私を見ている。何も言わない。それなのに、その視線は「答えは分かっているのだろう」と告げていた。
将官が、その名を明確に口にした。
「禁忌の島です。――リィナ・エルシア殿。あなたが流れ着いたのは、禁忌の島ですね」
逃げ場は、もうどこにもなかった。 質問の形を取ってはいるが、彼らの中でもう結論は出ている。
私は、膝の上の指先に限界まで力を込めた。 ここで否定すれば単なる嘘になり、曖昧にすれば王国はさらに警戒を強める。黙れば、私は完全に蚊帳の外に置かれ、軍が独断で島を蹂躙するだろう。
ライラの名前は出せない。ファミリア達の詳細も、シルヴィアの正体も、カイザーの存在も、海の下の子達の規模も、あの家の構造も話せない。けれど、ここだけは、もう隠しきれない。
私は、静かに目を閉じた。 ライラの顔を思い出す。不器用に、けれど確かに私を気遣ってくれた少女。ファミリア達を大切にしていた、あの島で出会った優しい少女。私を帰すため、シルヴィアとの練習に付き合い続けてくれたあの子。
恐怖だけで語らないと約束した。詳しく語らないことも選んだ。 けれど今は、ただ口を閉ざしているだけでは、あの場所を守りきれない。
私は目を開けた。
「……はい」
声は小さかった。けれど、静まり返った部屋にはっきりと言い放った。
「私が漂着したのは、おそらく、皆様が『禁忌の島』と呼ぶ場所でした」
部屋の空気が、微かに、けれど決定的に変わった。 将官は驚かなかった。ある程度、確信していたのだろう。教授も喋らなかった。ただ、その視線が少しだけ深くなった気がした。
私はそれ以上、言葉を続けなかった。これ以上は何も言わない。ライラの名前も、ファミリア達のことも、あの家のことも。認めたのは、あの島にいたという事実だけだ。
将官は静かに頷いた。
「確認しました」
その声に、私は本能的な寒気を覚えた。次に来る言葉が、分かってしまったからだ。
「では、公式に調査団を編成します」
「待ってください!」
思わず立ち上がりかけ、声を荒らげていた。
「まだ、何も――」
「王国として、この情報を得てなお動かないという選択肢はありません」
将官は私の言葉を遮らなかった。ただ、圧倒的な正論を重ねてきた。
「禁忌の島が実在する以上、沿岸防衛、海上交通、民間船舶、教会、学術院、すべてに関わる問題です。調査は必ず行います」
「危険です」
「承知しています」
「本当に危険なのです! 安易に近づけば、どのような災厄が降りかかるか分かりません」
「そのために、軍が動き、準備をするのです」
将官の瞳は、少しも揺らがなかった。王国という巨大な意志が、完全に牙を剥いて回り始めたのだ。 止めるには、私の手元にあるカードが少なすぎた。だが、情報を渡せば渡すほど、王国の関心と戦力は強くなる。
完全に、逃げ道がなくなっていた。
「リィナ・エルシア殿」
将官が、有無を言わさぬ口調で告げた。
「あなたには、調査団に同行していただきます」
私は息を呑んだ。
「私は、案内など――」
「あなた以外に、禁忌の島から生還し、その帰還経路を知る者はいません」
「ですが、私は島全体を知っているわけではありません!」
「それでも、何も知らない者だけで向かうよりはるかによい」
「私は……」
行きたくない、と。あの平穏を壊す片棒を担ぎたくないと言いかけた。 だが、言葉を飲み込んだ。
私が行かない場合、王国が独断で行う調査は、より容赦のない、より危険なものになる。将官は、私のその危惧すらすべて見透かしているようだった。
「あなたが同行しない場合、調査団は現地でより過激な防衛・攻撃判断をする可能性があります。――あなたが守りたいものがあるなら、なおさら同行すべきだ」
何も言えなくなった。 守りたいもの。それを将官が具体的に知っているわけではない。けれど、私が何かを必死に庇おうとしていることには気づいている。そして、その上で利用しにきているのだ。 王国が勝手に行くより、お前が同行して手綱を握った方がいい、と。
その通りだった。あまりにも、悔しいほどにその通りだった。 私は王国を悪だとは思えなかった。大型魔獣の死骸、漁船消失の変化、竜による帰還、禁忌の島の伝承。国家として調査するのは当然の義務だ。 けれど、その当然の義務が、ライラ達の家を壊しに向かっている。
私は、ようやく理解した。 私は、外の世界と禁忌の島を、繋いでしまったのだ。 隠していたつもりだった。話さないようにしていた。けれど、外側の観測事実が、勝手に道を作ってしまった。そして今、私はその道の案内役にされようとしている。
いや。されようとしている、ではない。もう、拒否権などないのだ。
私は、深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……調査団の目的を、明確に確認させてください」
将官が目を細める。
「討伐ではありませんね」
「現時点では、あくまで調査です」
「島の住人、あるいはそこにいる存在を、最初から敵と見なすものではありませんね」
「現時点では、敵対の判断は下していません」
「調査団には、こちらから不用意に攻撃行動を起こさないよう、絶対に徹底させてください」
「必要な規定は設けます」
「現地での判断に、私の意見を反映できる立場をください」
将官は少しだけ沈黙した。今日初めて、すぐには返答しなかった。 私はその目を真っ直ぐに見返す。ここで引くわけにはいかない。同行を拒めないなら、ただの操り人形の案内役で終わるわけにはいかない。 ライラ達を守るためには、最低限、現場の指揮に声が届く位置にいなければならないのだ。
「あなたの意見は、極めて重要な現地情報として扱います」
「それだけでは足りません」
声は震えなかった。自分でも驚くほど、冷徹な理性が戻っていた。
「私は、禁忌の島から帰還した唯一の証言者です。私が同行するなら、危険判断だけでなく、現地での接触判断そのものにも関与させてください」
将官は私を見た。教授も私を見ている。重い沈黙が部屋に落ちる。 やがて、将官が言った。
「検討します」
確約ではない。だが、即座の拒絶でもない。今は、それで十分だった。
「詳細は後日伝えます。調査団の編成には、王国軍、学術院、王国支部の人員が含まれる予定です。あなたには、その案内役、および現地情報提供者として同行していただく」
私は小さく頷いた。
「……承知しました」
その言葉を口にした瞬間、胃の痛みが限界を突破した。昨日までは書類が怖かった。けれど今日は、王国そのものが動き出した。
調査団。禁忌の島。案内役。 それはつまり、もう一度あの島へ行くということ。そして今度は、私一人ではない。王国の人間と、その目を連れていくのだ。
将官が立ち上がった。
「本日は以上です。体調に配慮し、正式な通達は後日行います」
私も立ち上がる。足元が鉛のように重かった。 将官は扉の方へ向かう。教授はまだ座ったまま、最後まで何も喋らなかった。
私は一度だけ教授を見た。目が合う。 教授は、何も言わなかった。責めず、慰めず、問いかけもしない。ただ、見ている。 その沈黙の中に、昨日の講義と今日の冷徹な資料のすべてが詰まっているようだった。
私は一礼して、部屋を出た。扉が閉まる直前、教授が資料を一枚だけ整える静かな音が聞こえた。 それだけだった。最後まで、教授の声は聞こえなかった。
◆
部屋を出た後、廊下の空気がやけに冷たく感じた。 胃痛どころではなくなっている。いや、胃は痛い。激しく痛む。けれど、それを気にしている場合では完全になくなっていた。
調査団が編成される。王国軍が、学術院が、王国支部が動く。 禁忌の島は、もう伝承ではなくなった。私が、それを実在すると認めてしまったからだ。
全部は話していない。ライラの名前も言っていないし、ファミリア達の詳細も、シルヴィアの正体も、カイザーの存在も、あの家の構造も何も話していない。 それでも、外の世界とあの島は、最悪の形で繋がってしまった。
私は廊下の途中で立ち止まった。窓の外には、王都の広大な空が見える。竜の影などどこにもない。 けれど、私は自然と、海の向こうを思った。
ライラ。シルヴィア。エクウス達。主任。カイザー。小型の子達。海の下の子達。あの、まだ名前のない家。
私はそこへ戻ることになる。今度は、王国の人間を連れて。
恐怖だけで語らない。そう約束した。 そして今度は、王国に「恐怖だけで見させない」ようにしなければならない。
私は胸元の聖印に触れた。祈りたい気持ちはあった。けれど、祈るだけではもう足りない。 言葉を選び、判断し、介入しなければならない。王国が動き出すことを止めることはできない。ならば、せめて間違った最初の一歩を踏ませないように、私が盾になるしかない。
私は、小さく息を吐いた。
「ライラさん」
声は、誰にも聞こえないほど小さかった。
「私は、たぶん、あなたの家へ王国を連れていくことになります」
胸が引き裂かれるように痛む。けれど、ここで思考を放棄してはいけない。
「でも、できる限り守ります」
王国も。ライラ達も。ファミリア達も。 そして、恐怖だけではない、あの場所の本当の姿も。
廊下の先で、将官が待っている。遠くでは、王都の鐘が静かに鳴り響いた。
調査隊出発の朝、私の胃は痛かった。 けれど今は、胃痛だけで済む話では完全になくなっていた。
禁忌の島へ向かう道は、もう静かに開き始めていた。