廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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第2話 門の上の竜

眠れたのか、気を失っていたのか、自分でも分からなかった。 ただ、次に目を開けた時、空の色は変わっていた。夜の黒は薄まり、東の端から淡い青がにじむように広がり始めている。星はまだ残っていたが、さっきよりもずっと遠く、白く霞んで見えた。

 

朝靄の中から、森の輪郭が少しずつ浮かび上がってくる。太い木の幹、幾重にも重なる分厚い葉、複雑に絡み合う枝のシルエット。それらはただの闇ではなく、明確な実体を持ってそこにあった。

 

私は岩に背を預けたまま、しばらく動けなかった。 硬く冷たい岩に一晩中寄りかかっていたせいで、背中も腰もひどくきしむ。膝を抱えた姿勢のまま固まっていたらしく、足先から太ももにかけて、血が通っていないような鈍い痺れがあった。手袋越しでも、朝の湿気が芯まで染み込んでくる。

 

それでも不思議と、身体の奥底には、強靭なバネのような妙な力強さが残っていた。 疲れている。怖い。喉も乾いている。なのに、身体だけは「まだ動ける」と告げている。そのちぐはぐさが、相変わらず気持ち悪かった。

 

「……生きてる」

 

乾いた唇から漏れたのは、安心ではなく、ただの事実確認だった。私はまだここにいる。誰も知らない土地の、誰も知らない朝の中に。

 

ざわ、と風が吹いた。夜風よりも少しだけ暖かく、草の青臭さと微かな土の匂い、そして確かな潮の香りを運んでくる。けれど、深呼吸をして安心できるほど、この場所は優しくない。 私は痺れる足を叩いて感覚を呼び戻し、ゆっくりと立ち上がった。

 

朝の光は、昨夜の暗闇では見えなかった世界の解像度を上げていく。 まず、草原。夜にはただ黒く沈んでいた草地は、実際にはかなり広大だった。足首ほどの背の低い草と、腰まで隠れる深い草むらが、波のようにまだらに広がっている。露を乗せた小さな花々が朝の光をきらきらと反射しているのは綺麗だったが、素直に眺める余裕はなかった。深い草むらは、自分以外の得体の知れない何かが潜んでいても、直前まで気づけない危険地帯だ。

 

次に、森。朝の光の中で、その圧倒的な威容を現していた。幹が太く、木が異常に高い。見上げるほどの高さまで分厚い葉が茂り、太い蔓が絡み合っている。人が管理した整然とした道など存在しない。木々の間にぽっかりと空いた暗い隙間の奥から、時折、風もないのに「ばさ、ばさ」と重いものが葉を押し分けるような音がする。何かがいる。それだけは、確実に分かった。

 

そして、海。斜面の向こうに広がる朝の海は、残酷なほど広く見えた。水平線の彼方まで薄い光が伸び、うねる波が白く砕けている。沖の方には、刃物のように尖った黒い岩礁がいくつも突き出し、その間を恐ろしく速い潮の流れが渦を巻いていた。 近づきたくない。本能がそう警鐘を鳴らす。人間がどうにかできる自然ではなかった。

 

私は自分の喉に手を当てる。砂を飲み込んだみたいにざらざらしていた。 「水……探さないと」

 

海では駄目だ。川か、湧き水か、せめて葉の上の雨水でもいい。そう考えた瞬間、自分があまりにも当たり前に、生き延びるための手順を処理していることに気づいた。 水、安全な場所、視界の確保、食料、襲われた時の逃げ道――。 パニックになりそうなほど怖いのに、極めて合理的に組み立てられていく思考。この身体のせいなのか、それとも、生き延びることばかり考える時間を、いつの間にか日常のように積み重ねていたからなのか。

 

「……行くしかない」

 

自分に言い聞かせ、ゆっくりと歩き始める。 まず、周囲を広く見渡せる高い場所を目指す。幸い、草原を横切った向こう側に、小さな丘が見えていた。あそこなら危険な森へ入る必要も、海へ近づく必要もない。 私は短い刃を右手に握り直し、姿勢を低くして進んだ。

 

足元を見る。周囲を見る。音を聞く。緊張で吐き気がするのに、身体は驚くほど軽かった。足は泥に取られることもなく的確な場所を踏み、よく動く。そのバランス感覚も筋力も、明らかに元の自分のものではなかった。強くて、反応が早すぎる。それが状況の異常さを突きつけてくるようで、ひどく落ち着かなかった。

 

草原の途中で、私はそれを見つけた。 地面が、すり鉢のように大きくへこんでいる。最初はただの水たまりの跡かと思ったが、違った。 足跡だ。深く、丸く、前方には地面をえぐるような鋭い爪の痕が三本。

 

「……なに、これ」

 

片足の跡だけで、私の身体がすっぽり入って余るほどの大きさ。悪夢のようなサイズだった。足跡は大人の腰ほどある草を無残に押し潰しながら、森の方から草原を横切り、ずっと先の岩場の方へ点々と続いている。輪郭がまだはっきりしている以上、昔のものではない。 ここには、人間を虫けらのように踏み潰せる規格外の存在が、ごく当たり前に闊歩している。その事実を突きつけられただけで、さらに喉が乾いた。

 

私は足跡から逃げるように離れ、足音を殺しながら丘へと急いだ。 途中、草むらの奥で「がさっ」と音がして反射的に刃を構えたが、飛び出してきたのは後ろ脚が異様に発達した灰色の小動物だった。私と目が合うと、鼻をひくつかせて一瞬だけ立ち止まり、信じられない距離を跳ねて草原の向こうへ消えていく。それだけのことなのに、冷や汗で服が背中に張り付いた。すべてが未知で、すべてが命取りになる。

 

ふと、空を見上げた時、太陽の光を遮る巨大な影が頭上をさっと横切った。 私は咄嗟に近くの岩陰へ飛び込み、頭を抱えて息を殺した。 直後、突風のような風圧が草をなぎ倒し、「ばさり、ばさり」と空気を重く叩きつける羽音が響く。

 

岩の隙間から恐る恐る顔を上げると、空のずっと高い場所を、長大な皮膜の翼としなる長い首を持つ、巨大なシルエットが悠然と旋回していた。朝日を受けた表面は、羽毛ではなく、鈍く光る硬質な皮膚。 あれは、空を飛ぶ爬虫類。

現実に存在してはいけない、ワイバーンとしか呼びようのない生き物だった。 その巨大な影が山の向こうへ消えていくのを待ち、ようやく息を吐き出す。膝が笑えないほど震えていた。

 

再び歩き出し、丘の斜面を登る途中で、岩の亀裂から湧き出る細い水を見つけた。 透明で、触れると痛いくらいに冷たい。寄生虫や毒の危険すら頭をよぎったが、限界を迎えていた喉の渇きがすべての理性を上回った。両手ですくい、顔を近づけて一気に飲む。

 

冷たい水が喉を通って身体の奥深くへ落ちていく。少しだけ土の匂いがしたが、甘露のように感じた。ただ水を飲んだだけなのに、涙が出そうだった。

 

何度か夢中で水を飲み、顔を洗う。ふと、足元の小さな水たまりに映った自分の顔を見て、私は濡れた手を止めた。 やはり、見慣れているのに、自分のものとしては知らない顔だった。元の私よりも少し幼く、輪郭も整っている。白銀の髪が頬に張りつき、淡い色の目がこちらを見返している。 けれど、今にも泣き出しそうな精神状態のはずなのに、水面に映るその目だけは妙に鋭く、どこか獣みたいな冷たい光を宿していた。

 

私は逃げるように視線を逸らし、水辺を離れて最後の急な斜面を登り切った。 朝日が完全に顔を出し、強烈な眩しさに目を細める。

 

そして、そのまま固まった。

 

丘の上からは、この土地の全貌が部分的に見渡せた。荒れた海、原始の森、広大な草原、そして頂上を雲に隠した巨大な山。 だが、それら大自然のスケールすら霞むほどに、私の目を強烈に惹きつけて離さないものがあった。

 

森が途切れた先、見晴らしの良い崖の上に、巨大な人工物があった。 自然界には絶対に存在しない、まっすぐな直線。天を突くように高く組まれた防壁。崖の地形に沿うように伸びる、平らな金属の足場。そして、その中央に鎮座する、巨大な門のような影。

 

「……建物?」

 

人がいるのか、と期待しかけて、すぐに強烈な違和感が湧き上がってきた。あれは人間が暮らすための尺度を完全に無視している。まるで、見上げるような巨大な生物を出し入れすることだけを前提に作られたような造り。 それに、どこか歪だった。最初から綺麗に設計された城ではなく、資材が集まるたびに後から足して、壊された部分を直し、手狭になれば広げたような、生々しい増改築の跡。

 

私はそのいびつな輪郭を見つめ、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。 完全に知らない場所のはずなのに、あの建物だけは、知らないとは言い切れなかった。 名前をつけた覚えはない。けれど、何度も何度も手を加えた。土台を広げ、壊された壁を直し、防壁を足し、巨大な何かが出入りしやすいように門をさらに大きくした。数え切れないほどの時間を費やした、その執念のような記憶が、曖昧な霧の向こうから津波のように押し寄せてくる。

 

「……私の、拠点?」

 

無意識に言葉にした瞬間、足が勝手に崖の方へ向かって動き出していた。 落ち着け、と自分にブレーキをかける。中に何が棲みついているか分からないし、なぜ画面の中にしかなかった建築物がここにあるのかも分からない。 でも、行かないという選択肢はなかった。

 

深い草むらを避け、岩場の影を回り込みながら崖へと近づいていく。 距離が縮まるにつれ、建物の異様さがよりはっきりと伝わってきた。壁が高すぎる。門が、見上げるほどに大きい。そして門の前の地面には、無数の足跡が残されていた。 深く土をえぐった三本指の爪の跡。重い尾を何度も引きずったような深い溝。人間ではない重い何かが幾度となく行き来したことで、土が岩のように硬くなっている。

 

巨大な門の前で立ち尽くす。 見上げるような門の表面には、何か巨大な獣が引っ掻いたような爪痕や、鈍器で殴られたような凹み、それを塞いだ別の金属板の補修跡が無数に刻まれていた。決して美しくはない。けれど、そこには確かに、幾度もの防衛戦を生き延びてきた確かな息遣いがあった。

 

震える片手を伸ばし、門の表面にそっと触れた。冷たい金属と石のざらついた感触。幻でも夢でもない、絶対的な質量を持つ現実。

 

「……なんで」

 

自分が、何度も見慣れたあの姿になっていることも、 巨大な生き物が闊歩する土地にいることもおかしい。なのに、自分の記憶の中にしかなかった拠点までがここにある。 だったら、この重い門の向こうには――あの子たちがいるのか?

 

そう考えかけた瞬間、門の奥から「ずしん」と地面を踏む重い音と、硬い爪が石の床をかりかりと擦る音が響いた。 中に、巨大な何かがいる。 心臓が耳元で鳴っているようにうるさい。逃げるべきか、隠れるべきか。でも、もし中にいるものが、私が手塩にかけて育てたあの子たちだったら。

 

その葛藤を破るように、巨大な門のはるか上部で、何かが動いた。 太陽の光を遮る巨大な影が落ち、私は反射的に顔を上げた。

 

門の上、高い防壁の縁に、それはいた。 最初は装飾用の巨大な石像かと思った。だが、石像は呼吸などしない。朝日を受けて、その表面の鱗がぎらりと鈍く煌めいた。

 

ばさり、と周囲の空気を震わせるほどの風圧を伴って、巨大な皮膜の翼がゆっくりと広がる。 深みのある、紫がかった硬質な鱗。首筋から腹部にかけて、皮膚の内側を脈打つように走る淡い青白い光。しなやかで長い首の先には、王冠のようにせり出した鋭角的な角。そして、眼下のちっぽけな人間を静かに見下ろす、知性を感じさせる大きな瞳。

 

竜――ライトニングワイバーンが、門の上から私を覗き込んでいた。

 

微かに、空気が焦げたような匂いがした。吐き出される息のせいなのか、周囲の空気が静電気を帯びたみたいに、びりびりと肌を刺す。 あの大顎が少しでも開かれれば、私は雷に貫かれて終わる。人間としての本能が警報を鳴らし続けているのに、恐怖より先に、別の感情が胸を突き上げた。

 

何度も名前を呼んだ。何度も背に乗った。何度も危ない場所を越えた。 けれど、こんな距離で、こんな大きさで、こんな温度でその姿を見るのは、初めてだった。

 

渇いた喉の奥から、その名前が勝手にこぼれ落ちた。

 

「……シルヴィア?」

 

巨大な竜は、じっと私を見た。一秒、二秒。永遠にも似た、長く張り詰めた沈黙。 やがてその子は、まるで私の声を確かめるように、

 

ごろごろと、低く優しい音で喉を鳴らした。

 

 

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