廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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門の上の竜

眠れたのか、気を失っていたのか、自分でも分からなかった。

 

ただ、次に目を開けた時、空の色は変わっていた。 夜の黒は薄まり、東の端から淡い青がにじむように広がり始めている。 星はまだ残っていたが、さっきよりもずっと遠く、白く霞んで見えた。

 

森の黒も、ただの闇ではなくなっていた。 太い木の幹。幾重にも重なる分厚い葉。複雑に絡み合う枝のシルエット。 それらが、朝靄の中から少しずつ浮かび上がってくる。

 

私は岩に背を預けたまま、しばらく動けなかった。 身体が痛い。

 

硬く冷たい岩にずっと寄りかかっていたせいで、背中も腰もひどくきしむ。 警戒から膝を抱えた姿勢のまま固まっていたらしく、足先から太ももにかけては、血が通っていないような鈍い痺れがあった。

 

指先も冷たい。 手袋越しでも、朝の湿気が染み込んでいるような気がする。 それでも、不思議と身体の奥底には、強靭なバネのような妙な力強さが残っていた。

 

疲れている。怖い。喉も乾いている。 なのに、身体だけはまだ動けると告げている。 そのちぐはぐさが、相変わらず気持ち悪かった。

 

「……生きてる」

 

乾いた唇から、最初に出た言葉がそれだった。 安心した、というより、ただの事実確認だった。 私はまだここにいる。誰も知らない土地の、誰も知らない朝の中に。

 

ざわ、と風が吹いた。 夜風よりも少しだけ暖かく、草の青臭さと微かな土の匂いを運んでくる。そこに、かすかな潮の匂いも混じっていた。 けれど、深呼吸をして安心できるほど、この場所は優しくない。

 

私は痺れる足を叩いて感覚を呼び戻し、ゆっくりと顔を上げた。 朝になったことで、昨夜の暗闇では見えなかったものが見えてくる。

 

まず、草原。

 

夜にはただ黒く沈んでいた草地が、実際には見渡す限りかなり広大であることが分かった。 足首ほどの背の低い草。腰まで隠れるほどに伸びた深い草むら。それらが波のようにまだらに広がっている。 ところどころに咲く白や黄色の小さな花が、夜の間に降りた露を乗せて、朝の光をきらきらと反射していた。

 

綺麗だ。 そう思った。けれど、それを素直に美しいと眺める余裕は私にはない。

 

深い草むらは、身を隠すには最適だ。けれど同時に、自分以外の得体の知れない何かが隠れていても、直前まで絶対に気づけない。 昨夜、茂みの中で何かががさりと動いた音を思い出し、私は無意識に腰のナイフの柄へ手を伸ばしていた。

 

次に、森。

 

夜の間はただの巨大な黒い壁だった森が、朝の光の中でその圧倒的な威容を現していた。 幹が太い。木が異常に高い。 見上げるほどの高さまで分厚い葉が茂り、太い蔓が幹から幹へ絡み合っている。 奥はやはり光を拒絶するように薄暗く、簡単には見通せない。

 

人が管理した、整然とした森ではない。 切り開かれた道など存在しない。獣道らしきものも、少なくともこの距離からは判別できなかった。 ただ、木々の間にぽっかりと空いた暗い隙間があり、その奥から時々、風もないのに葉が大きく揺れる音がする。

 

ばさ、ばさ、と。 重いものが葉を押し分けるような音。 何かがいる。それだけは確実に分かった。

 

そして、海。

 

私は岩陰からそっと身を乗り出し、斜面の向こうを見た。 朝の海は、夜に見た時よりもさらに広く、そして残酷に見えた。

 

水平線の彼方まで薄い光が伸び、うねる波が白く砕けている。 沖の方には、刃物のように尖った黒い岩礁がいくつも突き出し、その間を恐ろしく速く複雑な潮の流れが渦を巻くように走っていた。

 

近づきたくない。 本能がそう警鐘を鳴らした。

 

水は必要だ。けれど、あの海は命を繋ぐ水場というより、命を簡単に飲み込む別の危険地帯にしか見えない。 もし足を滑らせて、あの渦に落ちたら。一瞬で終わる。 泳げるかどうかの問題ではない。人間がどうにかできる自然ではない気がした。

 

私は自分の喉に手を当てる。 ひどく乾いている。砂を飲み込んだみたいにざらざらしていた。 昨日から何も飲んでいない。いや、そもそも昨日という言い方が正しいのかすら、もう分からない。

 

でも、心とは無関係に、この肉体は強制的に水を欲しがっている。

 

「水……探さないと」

 

海では駄目だ。塩水は飲めないし、何より危なすぎる。 川か、湧き水か、せめて葉の上に溜まった雨水でもいい。

 

そう考えた瞬間、自分があまりにも当たり前に、かつ冷静に「生存のための手順」を処理していることに気づいた。

 

水。安全な場所。視界の確保。食料。襲われた時の逃げ道。 それらが、順番に頭の中へ並んでいく。

 

怖い。 パニックになりそうなほど怖いのに、極めて合理的に考えられている自分がいる。 この身体のせいなのか。それとも、私がそういうことばかり考える癖をつけてしまっていたからなのか。 分からない。

 

私は細く息を吐き、岩を支えにして立ち上がった。 足の痺れがまだ残っている。一歩踏み出すと、爪先にじんじんとした痛みが走った。 それでも立てる。歩ける。

 

まず、高い場所だ。 周囲を広く見渡せる場所。人の気配があれば助けを求める。なければ、地形全体を把握しなければならない。

 

幸い、草原を横切った向こう側に、小さな丘が見えていた。 あそこなら、危険な森へ入る必要も、海へ近づく必要もない。草原を進めばたどり着ける。 問題は、あの広大な草原に何が潜んでいるか分からないことだった。

 

私は短い刃を右手に握り直し、左手で腰のポーチを押さえた。 少しでも身軽に。音を立てずに。すぐ動けるように。

 

「……行くしかない」

 

自分に言い聞かせるように声に出し、ゆっくりと歩き始める。

 

朝の草原は、夜よりもずっと音が多かった。 目に見えない虫の羽音。風に草が擦れる音。遠くで鳴く、聞いたことのない鳥の声。 そして時折、森の奥から地響きのように伝わってくる、何か重いものが地面を踏みしめる低い音。

 

ずしん、と響くたびに、足がすくんで止まりそうになる。 けれど、ここで立ち止まっていても事態は何も好転しない。

 

私はできるだけ草の背が低い場所を選び、姿勢を低くして進んだ。 足元を見る。周囲を見る。音を聞く。同じ方向だけを注視しない。

 

緊張で吐き気がするのに、身体は驚くほど軽かった。 寝不足と恐怖で頭はぼんやりしているのに、足は泥に取られることもなく的確な場所を踏み、よく動く。 斜面を登り降りする筋力も、バランス感覚も、明らかに私の知っている元の自分のものではない。 強くて、反応が早すぎる。

 

頼もしいとは思えなかった。 むしろ、状況の異常さを突きつけられているようで、ひどく落ち着かなかった。

 

草原の途中で、私はそれを見つけた。 地面が、すり鉢のように大きくへこんでいる。最初は、ただの水たまりの跡かと思った。

 

けれど、違う。足跡だ。

 

深く、丸く、そして前方に、地面をえぐるような鋭い爪の痕が三本残っている。 私は息を止めた。

 

「……なに、これ」

 

片足の跡だけで、私の身体がすっぽり入って余るほどのサイズ。 冗談みたいな。いや、悪夢のような大きさだった。

 

足跡は一つではない。 大人の腰ほどある草を無残に押し潰しながら、森の方向から草原を横切り、ずっと先の岩場の方へと点々と続いている。 跡は古いのか新しいのか、私の知識では判断がつかない。 けれど、少なくとも雨風で風化して消えるほど昔のものではない。輪郭がはっきりしている。

 

私は無意識に膝をつき、その足跡の縁に触れようとして、慌てて手を引っ込めた。

 

触ったところで、何か情報が分かるわけではない。 それよりも、この巨大なクレーターのような足跡をつけた何かが、まだこの近くをうろついている可能性を第一に考えるべきだ。

 

昨夜、暗闇の中で聞いた、腹の底を震わせる咆哮の主か。あるいは、まったく別の何かか。 この島には、人間を虫けらのように踏み潰せる規格外の存在が、ごく当たり前に闊歩している。

 

その事実を突きつけられただけで、強烈なストレスでさらに喉が乾いた。

 

私は足跡から逃げるように離れ、足音を殺しながら丘へと急いだ。

 

途中、草むらの奥で、がさっ、と何かが跳ねる音がした。 反射的に身を低くし、刃を構える。 草が揺れる。心臓が、肋骨を突き破りそうなほど嫌な跳ね方をした。

 

だが、茂みから飛び出してきたのは、灰色の毛をした小動物だった。 犬ほどの大きさで、耳が長く、後ろ脚だけが異様に発達している。 私と目が合うと、鼻をひくつかせて一瞬だけ立ち止まり、次の瞬間、ぴょん、と信じられない距離を跳ねて草原の向こうへ消えていった。

 

私は構えを解き、しばらく動けなかった。 ただの小動物。それだけなのに、冷や汗で服が背中に張り付いている。

 

この場所では、何がただの動物で、何が化け物なのかすら基準が分からない。 すべてが未知で、すべてが命取りになる。

 

ふと、空を見上げた。 朝日はさらに高くなり、空の青色が鮮やかに濃くなっていた。

 

その時、遠くで甲高い鳴き声が響いた。 鳥だと思った。だが次の瞬間、太陽の光を遮る巨大な影が、私の頭上をさっと横切った。

 

私は咄嗟に、近くの岩陰へ飛び込んだ。息を殺し、頭を抱える。

 

直後、突風のような風圧が草をなぎ倒し、ばさり、ばさり、と空気を重く叩きつける羽音が響いた。 岩の隙間から恐る恐る顔を上げると、空のずっと高い場所を、巨大なシルエットが悠然と旋回していた。

 

翼がある。だが、絶対に鳥ではない。 皮膜の張った長大な翼。蛇のようにしなる長い首。後方に伸びる特徴的な頭部の輪郭。 朝日を受けた表面が、鳥の羽毛ではなく、鈍く光る硬質な皮膚であることを示している。

 

遠い。それでも分かる。

 

あれは、空を飛ぶ爬虫類。現実に存在してはいけない生き物だった。

 

私は息を潜めたまま、岩と同化するように、その巨大な影が遠ざかるのを待った。 やがて姿が豆粒ほどに小さくなり、山の向こうへ消えていく。 その瞬間、全身に張り詰めていた力が一気に抜け、笑えないほど膝が震えた。

 

「……なんなの、ここ」

 

弱音を吐いても、答えるものはいない。 ただ、冷たい風だけが、何事もなかったように草を揺らしていくだけだ。

 

再び歩き出す。 丘に近づくにつれ、地面は次第に固くなり、小石や岩肌が目立つようになってきた。 足場は悪い。けれど、代わりに視界は少しずつ開けていく。

 

登る途中で、岩の亀裂から細い水が流れ出しているのを見つけた。 私は刃をポーチにしまい、ほとんど転がるように駆け寄った。

 

岩肌を伝う、細い湧き水。透明で、触れると痛いくらいに冷たい。

 

飲んでいいのか分からない。寄生虫や毒の危険があるかもしれないという考えが頭をよぎった。 けれど、限界を迎えていた喉の渇きが、すべての理性を上回った。

 

両手ですくい、顔を近づけて一気に飲む。 冷たい水が砂漠のような喉を通り、身体の奥深くへ落ちていく。 少しだけ土の匂いがした。それでも、甘露のように感じた。

 

ただ水を飲んだだけ。それだけで、涙が出そうになった。 生き返る、という言葉の本当の意味を、生まれて初めて理解した気がした。

 

何度か夢中で水を飲み、顔も洗う。 冷たさで、少しだけ頭がはっきりした。

 

ふと、足元の小さな水たまりに映った自分の顔を見て、私は濡れた手を止めた。

 

やはり、まったく知らない顔だった。

 

元の私よりも少し幼く、輪郭も整っている。 白銀の髪が頬に張りつき、淡い色の目がこちらを見返している。 けれど、その目だけは妙に見覚えがあった。

 

疲労困憊で、今にも泣き出しそうな精神状態のはずなのに、水面に映るその目は妙に鋭く、どこか獣みたいな冷たい光を宿している。

 

私は逃げるように視線を逸らし、水辺を離れた。 考えても答えは出ない。この身体のことも。この島にいる理由も。あの空を飛んでいた生き物のことも。 今はただ、生き延びるために動くしかない。

 

最後の急な斜面を登り切った時、朝日が完全に顔を出した。 強烈な眩しさに目を細め、私はそのまま固まった。

 

丘の上から、私が今いる島の全貌の一部が見えた。

 

背後には、荒れた海。 左右には、巨大な木々が鬱蒼と生い茂る原始の森。 内陸側には起伏のある広大な草原と岩場が続き、そのずっと向こうには、頂上を雲に隠した巨大な山がそびえている。

 

山の中腹からは霧か煙のようなものが立ち上り、さらに遠くの空には、先ほど見たような巨大な飛行生物の影がいくつも舞っていた。

 

私は一度だけ強く瞬きをして、遠くの景色は今は見なかったことにした。 無理だ。あれだけの巨大生物や未知の地形を、今の頭で処理している余裕はない。

 

それよりも、私の目を強烈に惹きつけて離さないものがあった。

 

森が途切れた先。見晴らしの良い崖の上。 そこに、巨大な人工物があった。

 

自然界には絶対に存在しない、まっすぐな直線。 天を突くように高く組まれた防壁。 崖の地形に沿うように伸びる、平らな金属の足場。 そして、その中央に鎮座する、巨大な門のような影。

 

石材の鈍い灰色と、金属特有の冷たい光沢が混ざり合った、異様な建造物。 私は息を忘れた。

 

「……建物?」

 

人がいるのか。助けてもらえるのか。 そう思いかけ、すぐに強烈な違和感が湧き上がってきた。

 

あれは、人間が暮らすための建物にしては、すべてが大きすぎる。 門も、壁も、通路らしきものも、普通の家や砦の尺度を完全に無視している。 まるで、見上げるような巨大な生物を出し入れすることだけを前提に作られたような造りだ。

 

それに、どこか歪だった。

 

最初から綺麗に設計図を引いて建てられた城や街ではない。 資材が集まるたびに後から足して、壊された部分を直し、手狭になれば広げ、その時々の必要に迫られて無骨に形を変え続けたような、生々しい増改築の跡。

 

私はそのいびつな輪郭を見つめ、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 

完全に、知らない場所のはずだ。私は昨日まで、別の場所にいたのだから。 なのに、あの建物だけは、知らないとは言い切れなかった。

 

名前をつけた覚えはない。少なくとも、ちゃんとした呼び名を決めた記憶はない。 ただ、何度も何度も手を加えた。

 

土台を広げた。壊された壁を直した。巨大な防壁を足した。 大きな何かが出入りしやすいように、門をさらに大きくした。 数え切れないほどの時間を費やした。

 

その執念のような記憶が、曖昧な霧の向こうから津波のように押し寄せてくる。 私は強く唇を噛んだ。血の味がした。

 

「……私の、拠点?」

 

無意識に言葉にした瞬間、足が勝手に崖の方へ向かって動きそうになる。 私は必死に自分にブレーキをかけた。

 

落ち着け。

 

あれが仮に、私の知っているあの拠点だったとしても、今あそこが安全だという保証はどこにもない。 中に何が棲みついているか分からない。 そもそも、なぜ画面の中にしかなかったはずの建築物が、現実の質量を持ってここにあるのかも不明だ。

 

でも。

 

人工物だ。しかも、私がこの手で作ったかもしれない場所。 行かない、という選択肢はなかった。

 

明確な目標ができると、足取りはさらに速くなった。 深い草むらを避け、岩場の影を回り込み、森の境界線から距離を取りながら崖へと近づいていく。

 

距離が縮まるにつれ、建物の異様さがよりはっきりと肌に伝わってきた。

 

壁が高すぎる。門が、見上げるほどに大きい。 そして、門の前に広がる踏み固められた平らな地面には、無数の跡が残されていた。

 

さっき草原で見た巨大な足跡よりも小さいものもあれば、さらに何倍も巨大なものもある。 深く土をえぐった三本指の爪の跡。重い尾を何度も引きずったような、轍に似た深い溝。 人間ではない重い何かが、幾度となく行き来し、大地を踏みしめたことで、土が岩のように硬くなっている。

 

私は、巨大な門の前で立ち尽くした。

 

ここは、人間だけのために作られた場所ではない。 強大な牙や爪を持つ彼らと共に生き抜くための、最前線の要塞。 私が作ったかもしれない場所。

 

ゆっくりと、門へ近づく。 見上げるような門の表面には、無数の生々しい傷跡が刻まれていた。

 

何か巨大な獣が引っ掻いたような爪痕。 鈍器で殴られたような大きな凹み。 ひび割れた部分を、後から別の金属板で塞いだ補修跡。 リベットの留め具。

 

決して美しくはない。 けれど、そこには確かに、幾度もの防衛戦を生き延び、使い込まれてきた確かな息遣いがあった。

 

私は震える片手を伸ばし、門の表面にそっと触れた。

 

冷たい。 朝の空気で芯まで冷え切った分厚い金属と、補強に使われた石のざらついた感触。 幻でも夢でもない。絶対的な質量を持つ現実だった。

 

「……なんで」

 

声がひどく掠れた。

 

自分がサバイバーの姿になっていることもおかしい。 見たこともない巨大な生き物が闊歩する島にいることもおかしい。 なのに、自分の記憶の中にしかなかった拠点までが、ここにある。

 

だったら。 この重い門の向こうには――。

 

あの子たちがいるのか?

 

そう考えかけた瞬間、門の奥から、低く重い音が響いた。 私は全身を硬直させた。ひとつではない。

 

遠くで何かが、しゅう、と空気を吸い込むような大きな呼吸の音。 ずしん、と地面を踏む重い音。 硬い爪が、石の床をかりかりと擦る音。

 

中にいる。巨大な何かが。

 

私は反射的に短い刃を握り直すが、すぐに自分の無力さに絶望した。 この頑丈な門を揺らすような相手に、こんな果物ナイフに毛が生えた程度の刃物でどうにかできるわけがない。

 

それでも、手放すことはできなかった。 心臓が、耳元で鳴っているようにうるさい。

 

逃げるべきか。見つかる前に、森の奥へ隠れるべきか。

 

――でも、もし中にいるものが、私が手塩にかけて育てたあの子たちだったら。

 

そう葛藤した瞬間。 巨大な門のはるか上部で、何かが動いた。

 

太陽の光を遮る、巨大な影が落ちる。 私は反射的に顔を上げた。

 

門の上。高い防壁の縁に、何かがいた。

 

最初は、装飾用の巨大な岩か石像かと思った。 だが、石像は深く呼吸などしない。 朝日を受けて、その表面の鱗がぎらりと鈍く煌めいた。

 

ばさり、と。 周囲の空気を震わせるほどの風圧を伴って、巨大な皮膜の翼がゆっくりと広がった。

 

深みのある、紫がかった硬質な鱗。 首筋から腹部にかけて、皮膚の内側を脈打つように走る、淡い青白い光。 しなやかで長い首の先には、王冠のようにせり出した鋭角的な角。

 

そして、眼下のちっぽけな人間を静かに見下ろす、知性を感じさせる大きな瞳。

 

竜。

 

そう呼ぶしかない、圧倒的で絶対的な捕食者が、門の上から私を覗き込んでいた。

 

微かに、空気が焦げたような匂いがした。 吐き出される息のせいなのか、周囲の空気が静電気を帯びたみたいに、びりびりと肌を刺す。

 

怖い。 人間としての本能が、警報を鳴らし続けている。 あんな規格外の巨大生物が現実に存在していいはずがない。 あの青白い光を帯びた顎が少しでも開かれれば、私は骨すら残らず消し炭になる。

 

それなのに。 恐怖より先に、別の感情が胸を突き上げた。

 

何度も名前を呼んだ。 何度も背に乗った。 何度も危ない場所を越えた。 何度も、その子が傷つかないように祈った。

 

けれど、こんな距離で。 こんな大きさで。 こんな温度で。 その姿を見るのは、初めてだった。

 

渇いた喉の奥から、その名前が勝手にこぼれ落ちた。

 

「……シルヴィア?」

 

ライトニングワイバーン。 雷を宿す空の頂点。 その名が、雷に打たれたように脳裏に閃く。

 

巨大な竜は、じっと私を見た。

 

一秒。 二秒。 永遠にも似た、長く張り詰めた沈黙。

 

やがて、その子は。 まるで、私の声を確かめるように。

 

ごろごろと、低く優しい音で喉を鳴らした。

 

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