廃人サバイバー、異世界へ行く   作:ドレットノータス

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大海の先

港の朝は、いつもより静かだった。

 

船乗り達の声がないわけではない。荷を運ぶ音も、帆を確認する音も、縄を引く音もある。港に停泊した他の船からは、いつものように怒鳴り声や笑い声も聞こえていた。

 

けれど、今日出る一隻の周りだけ、空気が決定的に違っていた。

 

王国の調査船。

 

大艦隊ではない。軍船を何隻も連ねた威圧的な遠征でもない。だが、ただの調査航海と呼ぶには、あまりにも準備が厳重だった。

 

船体は中型。外海へ出られるだけの強度があり、甲板には観測用の器具や記録用の箱が頑丈に固定されている。船倉には食料、水、予備の帆、医療品のほか、神聖術用の簡易祭具、魔力測定器、非常用の信号具が隙間なく積み込まれていた。

 

護衛兵の数は多くない。しかし、一目で選りすぐりの精鋭だと分かる。

 

鎧は軽装で、動きを妨げない程度に抑えられている。剣や弓は携行しているが、戦いに行くというより、生きて戻るための備えに見えた。

 

学術院からは、教授と若い研究者が数名。記録係が一人。

 

王国支部からは、神官と治癒術に長けた聖職者が一人ずつ。

 

船長、航海士、船員達は、国直属の経験豊かな者たちが選ばれている。

 

正式に全権を握り、指揮を執っていた。

 

港に集まった者達の顔には、興奮よりも緊張が濃い。

 

禁忌海域へ向かう――その目的は、正式には広く告げられていない。だが、関係者の間ではもう隠しようもなかった。

 

船員達の何人かは、古い漁師の禁忌を知っているのだろう。船体を確認する手つきは確かだが、時折、怯えるように海の向こうへ視線を向けていた。

 

そこへ、歩みを進める。

 

ルミナリア聖教会王国支部の聖女。奇跡の生還者。竜に乗って帰ってきた女。

 

そして今回、禁忌の島への案内役。

 

――それが、今の私だ。

 

胃は痛かった。それはもう、当然のように痛かった。

 

昨日までは王国が動き出したことに胃が痛かった。今朝は、その王国の動きに自分が完全に組み込まれていることに胃が痛い。

 

港の風には、塩の匂いがあった。あの島の海を、嫌というほど思い出させる匂いだった。

 

船を見上げる。これに乗って、もう一度あの島へ向かうのだ。

 

ただし、今度は一人ではない。王国の「目」を連れていく。

 

王国軍の現実的な判断を。学術院の逃げ場のない記録を。教会の祈りと解釈を。船員達の根源的な恐怖を。兵士達の過剰な警戒を。

 

それら全部を、ライラのいるあの静かな家へ連れていくことになる。

 

胸が引き裂かれそうなほど重かった。

 

それでも、乗らないという選択肢はなかった。私が同行しなければ、調査団は現地でもっと過激で危険な判断をするかもしれない。王国はもう止まらない。ならばせめて、最初の一歩を間違えさせないようにするしかない。

 

「リィナ・エルシア殿」

 

将官が近づいてきた。相変わらず、礼儀正しく、隙がない。

 

その礼儀正しさの奥に、有無を言わせない実務の硬さがある。

 

「体調は」

 

「問題ありません」

 

そう答えた。問題は大いにある。主に胃に。

 

けれど、歩ける。話せる。神聖術も通常魔法も使える。ならば、案内役としての務めに支障はない。

 

「無理はしないでいただきたい」

 

「承知しています」

 

将官は一度頷き、甲板の方へ視線を向けた。

 

「出航前に、全員へ命令を確認します」

 

甲板には、調査団の主要な者達が集められていた。

 

空気が張り詰めている。将官は、その全員を見渡した。

 

「これより、我々は禁忌海域へ向かう」

 

その言葉に、数人の船員がわずかに肩を硬くした。研究者の一人は目を輝かせかけ、隣の記録係に肘で軽く止められている。護衛兵達は表情を変えない。教授は落ち着いていたが、その目には深い関心があった。

 

「目的は調査であり、討伐ではない」

 

将官の声は、港の風の中でもよく通った。

 

「禁忌の島の実在確認。周辺海域の異変の調査。大型海棲魔獣を捕食する存在の有無の確認。聖女リィナ殿を帰還させた飛行生物に関する痕跡の確認。および、リィナ殿を救助した人物との接触」

 

人物――ライラのことだ。その言葉に、胸が小さく痛む。だが、まだ名前を出すわけにはいかない。

 

「全員に命じる」

 

将官は続けた。

 

「未知の存在を確認しても、勝ために攻撃するな。武器は携行するが、命令なく抜くな。構えるな。大声を上げるな。恐怖で動くな。リィナ殿の忠告を軽視するな」

 

甲板に、重い沈黙が落ちる。

 

「我々は何がいるか分からない場所へ向かう。だからこそ、最初の行動を誤ってはならない。繰り返す、これは調査だ。誰かが勝手に戦端を開いた時点で、調査団全体を危険に晒す。以上だ」

 

短い命令だった。だが、必要なことはすべて入っていた。

 

船長が深く頷き、護衛兵達も姿勢を正す。この将官は、分かっている。少なくとも彼は恐怖だけで動いていない。自分が知らないものの前に立つのだと、正しく理解している。

 

それでも、安心はできなかった。理解していることと、無事に済むことは全くの別問題だからだ。

 

教授が、静かに私を見た。

 

尋問室では一言も喋らなかった人だ。今日は、喋るだろう。それが少し怖い。

 

だが、同時にありがたくもあった。この人は少なくとも「記録する者」だ。見たものを見たまま記録しようとする。恐怖だけで断じる者ではない――たぶん。そうであってほしいと願うしかなかった。

 

「乗船を」

 

将官の声で、調査団が動き出した。

 

私も甲板へ上がる。

 

足元が揺れた。まだ港に繋がれている船の緩やかな揺れだ。けれど、海難の記憶が一瞬だけ胸の奥をかすめ、視界がブレる。

 

黒い波。砕ける船。冷たい水。届かない祈り。

 

小さく息を整える。大丈夫、今回は違う。私は漂流者ではない。案内役だ。

 

船が、ゆっくりと港を離れた。

 

 

王国の港が遠ざかっていく。

 

教会の尖塔が小さくなり、石造りの倉庫群が線のようになり、行き交う人々の姿が点に消えた。

 

風を受けて帆が大きく膨らむ。船員達が手際よく動き、航海士が方角を確認する。まだ沿岸に近い海は穏やかだった。波は規則正しく、空には海鳥が優雅に飛んでいる。

 

甲板の端に立ち、遠ざかる大陸を見つめる。

 

前にこの海を越えた時は、雲の上だった。シルヴィアの背に乗って、冷たい空気を吸い、白い雲海を見下ろしながら、王国へ帰るための道を飛んでいた。

 

今は逆だ。船で、あの島へ向かっている。

 

帰還時は私とシルヴィアだけだった。けれど今回は、王国がいる。

 

「聖女殿」

 

将官が声をかけてきた。

 

「少し、話を聞かせていただきたい」

 

「はい」

 

船室の一つが、簡易の会議室として使われることになっていた。大きな机があり、その上には海図、記録紙、魔力測定器の小型盤、航海士の道具が整然と置かれている。

 

集まったのは、将官、教授、航海士、王国支部の神官、そして私。若い記録係も隅に座っている。船が外海へ向かう前に、情報を整理するためだ。

 

私は椅子に座り、手元の水に視線を落とした。どこまで話すべきか、慎重に思考を巡らせながら口を開く。

 

「まず、前提としてお伝えします。私は、正確な海図上の位置を知っているわけではありません」

 

航海士が頷いた。「漂流でしたな」

 

「はい。私は海難で流され、気づいた時には島にいました。帰還時は……空からでした」

 

シルヴィアの名は伏せる。

 

「そのため、船で向かう場合の正確な航路を案内することはできません。ただ、方角と、島に近づいた時の空気や海の変化については、多少は分かります」

 

「それで十分です」

 

将官が言った。

 

「航海は我々が行います。あなたには、異常の兆候と、現地での判断について助言をいただきたい」

 

「分かりました」

 

静かに頷く。そして、最も重要な、言わなければならないことを口にする。

 

「あの島には、私を助けてくださった方がいます。少なくとも、私に敵意はありませんでした。ですが、あの場所は王国の常識で測れる場所ではありません」

 

「具体的には」

 

教授が口を開いた。尋問室以来、初めて聞く声だった。落ち着いているが、学術的な興味を隠していない。

 

私は教授に視線を向ける。

 

「教授」

 

「失礼。急かす意図はありません。ただ、言葉の範囲を確認したいのです。王国の常識で測れない、というのは、魔力環境、生態系、文明形態、あるいは住民の性質、どれに関わる話ですかな」

 

「……おそらく、すべてです」

 

室内の空気が、ピリッと張り詰めた。

 

「私が見た範囲だけでも、あの島は普通ではありません。非常に危険な場所です。ですが、ただ『危険』という言葉だけで扱えば、必ず判断を誤ります」

 

「危険ではある。しかし、敵とは限らない」

 

将官が確認するように言う。

 

「はい」

 

まっすぐに見つめ返す。

 

「恐怖を覚えることはあると思います。おそらく、必ずあります。けれど、恐怖を敵意に変えないでください。お願いします」

 

その言葉だけは、明確に、強く訴えた。将官は沈黙し、教授も筆を止めて私を見つめる。

 

「武器を構えないでください。大声を出さないでください。近づいてくるものがいても、先に攻撃しないでください。魔物、討伐対象、敵性存在と即断しないでください」

 

王国支部の神官が、少し息を呑んだ。魔物と即断しない――それは、聖職者にとって信仰の常識を揺るがす言葉だ。だが、私は引かなかった。

 

「私を助けてくださった方は、そこにいる存在達を、道具や兵器として見ていませんでした」

 

「存在達」

 

教授がその言葉を繰り返した。しまった、と思ったが、言ってしまったものは戻らない。

 

「複数、いるのですな」

 

教授の声は静かだった。責めてはいない、確認しているだけだ。私は少しだけ考え、答えた。

 

「はい」

 

「その存在達は、あなたの言う親切な人物に従っているのですか」

 

「従っている、という言葉は少し違うと思います」

 

「では、支配関係ではない?」

 

「少なくとも、私にはそう見えませんでした」

 

教授の筆が走る。

 

「では、社会性がある?」

 

「……生活がありました」

 

言葉を選んで置く。

 

「食べ、眠り、戻り、待ち、互いの場所を持っているように見えました。命令で動く軍勢というより、共に暮らしているもの達です」

 

将官の目がわずかに細くなった。軍勢ではない――だが、戦力にならないとは言っていない。おそらく、そう受け取ったのだろう。

 

「あなたは、以前の聞き取りで『ファミリア』という語を使いました」

 

教授が言った。

 

「その言葉は、どういう意味ですかな」

 

水差しの横に置かれた、自分の手を見つめる。

 

ファミリア。私が提案した言葉。魔物でも、従魔でも、眷属でもなく。ライラにとっての家族に近く、外の者が恐怖だけで呼ばないための言葉。

 

「私が、恐怖だけで分類しないために選んだ言葉です」

 

教授の筆が止まった。

 

「恐怖だけで」

 

「はい。私は、あの島で怖いものを見ました。理解できないものもありました。けれど、それらをただ『魔物』『敵』『討伐対象』と呼ぶことは、正しくないと思いました。あの方にとって、彼らは道具ではありません。兵器でもありません。おそらく、家族に近いものです」

 

家族――その言葉を出した瞬間、神官の顔に困惑が走った。

 

「ですが、私が彼らを家族と呼ぶのは違います。私は外の者です。だから、ファミリアという言葉を選びました」

 

「なるほど。恐怖を否定するためではなく、恐怖だけで分類しないための語ですか」

 

「はい」

 

教授はそれを記録し、将官はその記録をじっと見つめていた。

 

「聖女殿。あなたは、彼らが危険ではないと言いたいのですか」

 

「いいえ」

 

将官の問いに、即座に答えた。

 

「危険です。王国の常識では測れないほどに。しかし、無差別な敵ではありません。そこを間違えないでください」

 

将官はしばらく私を見つめ、そして重々しく頷いた。

 

「全員に徹底します」

 

その返事に、私は胸の中で少しだけ息を吐き出した。まだ何もかも足りない。けれど、最初の一歩としては必要だった。

 

 

外海へ出ると、海の色が完全に変わった。

 

港の近くの明るい青ではない。深く、重く、底の知れない青。

 

波は高くなり、船体が大きく上下する。船員達は慣れた様子で動いているが、研究者達の中には顔色を悪くする者も出始めていた。

 

私も船酔いしないよう、甲板で風に当たることにした。横に立つ神官が、心配そうに声をかけてくる。

 

「リィナ様、お身体は」

 

「大丈夫です」

 

何度目か分からない答えを返す。身体は大丈夫。心と胃は、全く大丈夫ではない。

 

甲板の反対側では、教授が若い研究者と共に魔力測定器を見つめていた。海面の色、風向き、波の周期、空の雲の流れ。記録係が忙しく筆を動かしている。

 

将官は船長と短く言葉を交わし、航海士は羅針盤と海図を何度も見比べていた。

 

まだ、普通の航海に見える。少し緊張しているだけの調査航海。

 

だが、時間が経つにつれ、変化は少しずつ、確実に現れた。

 

まず、海鳥の姿が完全に消えた。

 

最初は誰も気にしなかった。外海へ出れば、鳥の数が減ることは珍しくない。

 

次に、波の音が変わった。

 

ただ高いだけではない。船体にぶつかる音の底に、低く響くような、地鳴りに似た音が混じる。遠い雷のようでもあり、海そのものが深い場所で唸っているようにも聞こえた。

 

航海士が眉を寄せ、羅針盤を見る回数が明らかに増える。魔力測定器の針が、微細に、しかし狂ったように震え始めた。

 

若い研究者が興奮しかけたが、教授が手でそれを静かに制した。

 

「記録だけにしなさい。判断はまだ早い」

 

船員の一人が、怯えたように小さく呟いた。

 

「……霧が出たら帆を畳め」

 

別の船員がそれを鋭く睨む。

 

「縁起でもねえ」

 

「言い伝えだろ」

 

「ここで言うな!」

 

そのやり取りを、私は甲板の端で聞いていた。

 

霧が出たら帆を畳め。海が静かすぎる日は近づくな。帰ってきた船はない。夜に海が鳴いたら、その方角へ網を投げるな。船を食う島。

 

すべてが、今向かっている場所へ集まっていく。

 

胃が痛い。けれど、それでも甲板から海を見つめ続けた。

 

何かが変わっている。あの島に近づいている。空路しか知らない私でも、空気が、潮の匂いが、風の重さが、あの島の気配を告げているのが分かった。

 

「聖女殿」

 

将官が隣に来た。

 

「何か感じますか」

 

「……近づいています。おそらく」

 

「根拠は」

 

「感覚です」

 

軍人に向かって、あまりに曖昧な答えだった。けれど、将官は笑わなかった。

 

「感覚も、唯一の帰還者の証言なら情報です」

 

そう言って、航海士へ鋭い視線を向ける。

 

「現在の方角を維持。ただし速度は落とせ」

 

調査船の速度がわずかに落ちた、その瞬間だった。

 

指先が、すっと冷たくなっていくのを感じた。

 

視線――そう言ってしまえば簡単だが、人間のそれではない。広く、深く、遠い、海と空の両方から、何かがこちらを「凝視」しているような、圧倒的な感覚。

 

気づかれた。

 

けれど、私には分かってしまった。あの島側が、こちらに気づいたのだ。

 

「聖女殿」

 

将官が私の顔色の変化を見逃さなかった。「どうしました」

 

少し迷った。詳細を言えば、彼らの恐怖を煽るだけだ。けれど、何も言わないわけにはいかない。

 

「……おそらく、もう気づかれています。この海と空を見ている、彼らに」

 

将官の表情が、一瞬で硬質になった。

 

「全員、警戒姿勢を維持。ただし、武器を構えるな。抜くな。周囲を確認するだけに留めろ」

 

命令は冷静だった。よかった、ここで兵士達が一斉に弓を構えるような最悪の事態は防げた。小さく息を吐き出す。

 

だが、安心はできなかった。なぜなら、調査団はまだ、何も「見ていない」のだから。

 

 

海の下で、巨大な影が向きを変えた。

 

人間の船など、海面を削る小さな木片にすぎない。

 

深い青の中を、船体よりも遥かに大きな質量がゆっくりと泳ぐ。水を切る尾が、音もなく海流を変えた。

 

一体ではない。距離を取りながら、いくつもの影が船を囲むように、密やかに動いていた。

 

近づきすぎない。しかし、決して離れもしない。

 

船底の響き。人間の匂い。神聖術の微かな気配。

 

そして、その中に、確かに知った気配があった。

 

――リィナ。

 

ライラが受け入れた人間。シルヴィアが背に乗せて海を越えた、あの人間だ。

 

だから、影達は船を砕かなかった。

 

ただ、じっと見ていた。海の下から、静かに。

 

 

空の高い場所でも、翼ある影が旋回していた。

 

雲の縁。陽光の反射。船上の人間達の目では到底追えない、高い空。

 

彼らは、互いに距離を取りながら船を見下ろしていた。大きな翼を広げて風に乗り、時折ゆっくりと大きな円を描く。

 

見慣れない船。見慣れない人間達。

 

けれど、そこにも知った気配がある。

 

――リィナ。

 

ライラの家にいた人間。シルヴィアが、気にかけていた人間。

 

だから、翼ある影達も降りてはこなかった。

 

ただ、じっと見ていた。空の上から、静かに。

 

 

調査船の上では、何も起きていなかった。それが、何よりも恐ろしかった。

 

「……妙だな」

 

船長が呟き、航海士も頷いた。

 

「この海域まで来て、何も出ないとは」

 

普通なら、大型の海棲魔獣や異常な潮流が襲ってくるはずの海。それなのに、海は静かだった。いや、静かすぎた。

 

生命の気配が不自然に薄い。まるで、周囲の生き物達が、もっと巨大な何かを避けて姿を消しているかのように。

 

船員達はその不気味な静けさに怯え、若い研究者は測定器の数値の揺れに顔を引きつらせている。教授は黙って記録を続けていたが、その目はいつもより鋭かった。

 

将官は、甲板の中央で微動だにせず立っている。

 

手すりを握る手に、じわりと汗が滲む。

 

何も起きていないのではない。見逃されているのだ。通してもらっている。――私という存在が、この船に乗っているから。

 

もし、この船に私乗っていなかったら、この静けさは果たして同じだっただろうか。答えを考えるだけで、血の気が引いた。

 

海の下から見られている。空の上から見られている。

 

それなのに、調査団には何も見えていない。王国側から見れば、ただ何事もなく順調に進んでいるだけ。その認識の決定的な差が、あまりにも恐ろしかった。

 

「聖女殿」

 

教授が近づいてきた。いつの間にか、記録帳を閉じている。

 

「先ほど、気づかれている、と仰いましたな。姿は見えませんが……この船は、監視されていると?」

 

「私は、そう確信しています。見える場所にいるとは限りません」

 

「攻撃されない理由は」

 

答えに詰まった。理由は、たぶん私がいるから。けれど、それをそのまま報告すれば、あの島の存在達には「記憶や高度な判断能力がある」という事実を渡すことになる。それは王国にとって、さらなる恐怖の種になりかねない。

 

「……私が以前、あの島にいたからだと思います。最小限ですが、彼らは私を覚えているのだと」

 

「個体識別が可能で、敵味方の判断をしている、と」

 

教授が呟き、すぐに書こうとして、私の顔を見て手を止めた。

 

「失礼。今は記録より、状況判断が先ですな」

 

少し意外だった。この人は、単なる好奇心だけで動く無謀な学者ではない。

 

「教授。記録は必要です。でも、言葉の選び方には気をつけてください」

 

「承知しています。恐怖だけで記録するな、ということでしょう」

 

静かに頷く教授を見て、少しだけ驚いた。

 

「昨日から今日にかけて、あなたが何度も繰り返していることです。努力しましょう。もっとも、私自身も恐怖を覚えないわけではありませんがね」

 

その正直な言葉に、私も小さく頷く。恐怖はあって当然だ。私にだって今もある。

 

ただ、恐怖だけで見てはいけない。それだけだった。

 

 

やがて、遠くに島影が見えた。

 

「前方、島影!」

 

見張りの船員の声に、甲板上の全員が総立ちになった。

 

研究者達は言葉を失い、兵士達は表情を硬くする。教授は深く息を吸ってから、改めて記録帳を開いた。

 

私は、手すりを握ったまま動けなかった。

 

島が見える。黒に近い緑の塊。濃い森。荒い岩場。高い場所にかかる不気味な雲。海岸線を囲む白い波。

 

禁忌の島。船を食う島。祈りが帰ってこない海。

 

けれど、そこにはライラがいる。シルヴィアが、エクウス達が、主任が、カイザーが、みんなが暮らしている場所だ。

 

戻ってきてしまった。王国の「目」を連れて。

 

胸が激しく締めつけられる。

 

隣で神官が祈りを呟き、若い研究者は震える手で島影を記録している。

 

教授は、一言だけ呟いた。

 

「実在、していたのか」

 

将官は島を見つめたまま、表情を険しくしている。禁忌の島が実在した。それだけで、王国の海図も、沿岸防衛も、すべてが見直しになるのだ。

 

「接岸地点を探す」

 

船長の言葉に、私はかつてシルヴィアの背から見た海岸の記憶を呼び起こした。

 

「あちら側に、少し開けた浜があります。ただ、岩場が多いので船を近づけすぎない方がいいと思います。小舟で慎重に」

 

将官が私を見た。「その場所は、あなたが漂着した場所ですか」

 

「近いと思います」

 

「採用する」

 

船は慎重に進路を変えた。

 

海は静かだった。静かすぎるほどに。船を拒むような異常な潮流も、大型海棲魔獣も現れない。調査団の多くは、少しずつ安堵し始めていた。

 

けれど、その安堵が恐ろしい。安全だったのではない、許されたのだ。

 

その意味が、私には重すぎるほどに分かっていた。

 

沖合に船が停まり、小舟の準備が始まった。荷物は最小限。兵士達は装備を確認するが、将官の命令通り武器は抜かない。

 

上陸準備に入る調査団を、私は一歩引いた場所で見回した。ここから先が、本当の戦だ。距離がなくなる。ライラの家に近づき、ファミリア達の生活圏に入る。

 

「将官」

 

声をかけた。将官が振り返る。

 

「上陸前に、もう一度だけ言わせてください。」

 

小舟に乗る予定の者達が、一斉に私を見た。

 

「ここから先は、特にお願いします。驚いても、叫ばないでください。怖くても、武器を構えないでください。近づいてくるものがいても、先に敵意を見せないでください」

 

何人かの喉が動いた。恐怖を必死に呑み込んでいる。

 

「恐怖と敵意を、混ぜないでください。怖いと思うことは、悪いことではありません。私怖かったです。今も怖いです。けれど、その怖さをそのまま攻撃に変えたら、取り返しがつかないことになります」

 

誰も笑わなかったし、誰も否定しなかった。私の声が、本気だと伝わったのだろう。

 

将官が、低く通る声で後に続いた。

 

「全員、改めて命令する。武器は携行。抜くな。構えるな。未知の存在が現れても、私の指示なく動くな。聖女殿の警告を軽視するな」

 

教授は静かに言った。「恐怖と敵意を混ぜない。記録しておきます」

 

「記録より先に、実行してください」

 

思わず言うと、教授はほんの少しだけ笑った。「承知しました」

 

小舟が降ろされ、海面に触れて揺れる。

 

一歩、そこへ足をかける。

 

海風が吹いた。島の匂いがした。湿った土。濃い緑。潮。遠い獣の気配。

 

――懐かしい、と思ってしまった自分に、少し驚く。

 

怖い。けれど、懐かしい。あの島に、ライラがいる。みんながいる。私が守りたいと思った場所が、そこにある。

 

だが今、私は王国を連れてきてしまった。

 

小舟が船を離れ、ゆっくりと、禁忌の島の岸へ向かう。

 

海は静かだった。空も静かだった。

 

けれど私には分かる。静かなのは、何もいないからではない。

 

すべて、見られているからだ。

 

船は、一度も襲われなかった。

 

けれど、それこそが何よりも異常だった。

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