ライラが歩き出すと、ファミリア達はゆっくり道を開けた。
それは、彼女にとってはいつものことだった。少し通るから、道を空けてほしい。近づきすぎると客人が怖がるから、少しだけ距離を取ってほしい。ただ、それだけ。
「みんな、ちょっと通るから空けてね」
声をかけると、小型の子達が顔を見合わせながら左右へ分かれた。採取組は、咥えていた木材や繊維の束を持ったまま、少し横へ避ける。上空を旋回していたワイバーン達は、さらに高度を上げた。
カイザーは少し離れた場所で立ち止まっている。 シルヴィアだけは、私の近くを離れたくなさそうに首を低くしていた。
「シルヴィアも、近づきすぎないでね」
ライラが言うと、シルヴィアは不満そうに喉を鳴らした。それでも、少し下がる。本当に、少しだけ。 そのわずかな距離に、心から感謝した。
「ありがとうございます、シルヴィアさん」
礼を言うと、シルヴィアは少しだけ得意げになった。
調査団は、その一連のやり取りを言葉もなく見ていた。 巨大な飛竜が少女の言葉に従う。災厄のような巨獣が道を譲る。見慣れない生物達が、こちらを見ながらも攻撃してこない。 それは、王国側にとってはあまりにも異常な光景だった。
道が開いた。たしかに開いた。 しかし、囲まれていないわけではない。
遠巻きに、小型の子達がこちらを見ている。採取組は荷物を持ったまま立ち止まっている。上空にはワイバーンの影がある。森の奥には、さらに大きな影が見え隠れしている。海側からは、時折、低い水音が聞こえた。
まるで、島全体がこちらを凝視しているようだった。
将官はその光景を見て、表情を変えなかった。変えなかっただけだった。だが、その内心では、すでにいくつもの現実的な判断が積み重なっているはずだ。
この少女の言葉で、包囲が緩んだ。飛竜が下がった。巨大生物達が道を開けた。 統制された軍隊ではない。号令に従って整列しているわけでもない。だが、彼女の声を聞き、間違いなく反応している。 それは軍人にとって、単なる友好関係以上に恐ろしい情報だった。
「こちらです」
ライラは振り返り、ぎこちなくそう言った。 来客を案内することに慣れていないのが、誰の目にも分かった。声も少し迷っている。どう振る舞うべきか分からないまま、なんとか客人らしく扱おうとしている。
それでも、その後ろに続かないという選択肢はなかった。 将官は短く頷いた。
「ご案内、感謝します」
調査団は、静かに歩き出した。
◆
拠点へ向かう道中は、それだけで洗礼だった。
まず、足跡があった。 砂地から草地へ移るあたりに、巨大な足跡が深く残っている。人間の足跡など、その中にいくつも入りそうな大きさだった。護衛兵の一人がそれを見て、無意識に息を呑む。
カイザーのものだろう。私はそう思ったが、あえて口には出さなかった。言わなくても、調査団は理解している。あれが通った跡だ、と。そして、それがこの場所の日常の中にある。
少し進むと、日当たりの良い草地に小型の子達がいた。ドードーが数羽、地面をつついている。別の小さな生き物は、互いにじゃれ合いながら草の上を転がっていた。
人間から見れば、可愛らしいと言えなくもない。だが、その背後を、見上げるほど大きな影がのそりと通り過ぎる。
採取組だった。 木材らしきものを運んでいる個体。石を抱えるようにして動く個体。繊維の束を咥えている個体。彼らは私達をちらりと見たが、ライラに「通るから、ちょっと待ってね」と言われると、その場で素直に止まった。
ただ止まっただけ。それだけなのに、教授の目が見開かれる。
「採取物を……運搬している」
若い研究者の一人が、小声で呟いた。
「訓練されているのか? いや、荷の種類が個体ごとに違う。役割が……」
「声を抑えなさい」
教授が静かに制した。しかし、教授自身も視線を外せていない。
その先では、黄色いヘルメットを被った大きな猿のような存在が、作業場の前で何かを分類していた。 木材。石。繊維。金属片らしきもの。布。壊れた道具。それらを無言で、恐ろしいほどの手際で分けている。
主任だった。
調査団が近づくと、主任は手を止めた。ヘルメットの下から、じっとこちらを見る。 王国支部の神官が、思わず足を止めかけた。 獣なのか、人に近い何かなのか、作業者なのか、守衛なのか、判断がつかないのだ。
「主任、来客だから、あとでお願い」
ライラがそう言うと、主任は無言で片手を上げた。ゆるい返事だった。 それを見て、私は少しだけ懐かしくなる。だが、調査団はまたしても固まった。
「……今のは、返事か?」
若い研究者が震える声で言う。
「見た通りです」
教授が答えた。記録帳を持つ手と、筆の先が細かく震えている。
さらに進む。 高い屋根や岩棚のような場所には、ワイバーン達がいた。翼を畳み、こちらを見下ろしている。大きな身体は動かない。だが、その巨大な影と視線だけで、人間達の背筋を凍らせるには十分だった。
ライラは上を見上げて言った。
「そこから見てるだけにしてね。降りてこないで」
一体が不満そうに翼を少し動かした。
「だめ。怖がってるから」
ワイバーンは、しぶしぶといった様子で翼を畳み直した。 将官は、その光景を見逃さなかった。
飛行戦力。一体ではない、複数。しかも、少女の言葉一つで行動を抑えられている。王国の空防衛の前提が、音を立てて崩れていく。
兵士達は無言だった。彼らには、未知のものに興奮する余裕などない。見れば見るほど、自分達がどれだけ危険な場所にいるか理解してしまうからだ。
ここにいる存在は、単体でも王国軍が総力を挙げて対処する級の脅威になり得る。それが、何体もいる。しかも戦場に集められた兵力ではなく、生活圏の中に、当たり前のようにいるのだ。
眠っている。食べている。採取している。見回っている。休んでいる。 つまり、常時ここにいる。
将官は、征服や討伐という言葉がどれほど現実離れしているかを理解し始めていた。これは攻め落とせるかどうかの問題ではない。敵対した時点で、王国の存続が危うい。
その一方で、ライラ本人には微塵の敵意も見えなかった。 そのことが、さらに彼らの判断を難しくしていた。
◆
「少し、いいですか」
道中、若い研究者の一人が、つい小声で言った。
「あの従魔達は――」
「その言葉は、できれば避けてください」
私は即座に遮った。声は小さいが、はっきりとした拒絶だった。 研究者は驚いたように振り向く。
私は、前を行くライラの背中を見た。彼女は気づいていないのか、少し前を歩きながら、小型の子達に近づきすぎないよう声をかけている。
「ライラさんは、彼らをそういう風には見ていません」
「失礼、ではなんと?」
「ファミリアです」
その言葉に、教授が筆を止めた。将官もわずかに視線を向ける。
「私が、そう呼ぶことを提案しました。魔物でも、従魔でも、下僕でもなく。恐怖だけで分類しないための言葉です」
研究者は戸惑った顔をした。軍人達は黙っている。神官もまた、簡単には飲み込めない様子だった。
「ライラさんにとっては、家族に近い存在です。私達が同じように呼ぶのは違うかもしれません。ですが、少なくとも従魔や下僕という言葉は、ここでは致命的な誤解を生みます」
将官は何も言わなかった。だが、その言葉を重く覚えたのは分かった。教授も静かに記録している。
軍人から見れば戦力。研究者から見れば未知生物。教会から見れば判断保留の存在。ライラにとっては家族。私にとっては、恐怖だけで呼ばないための名前。
同じ存在を見ているはずなのに、立場によって言葉が違う。 その決定的なズレが、この島の危うさそのものだった。
◆
やがて、拠点が見えてきた。 王国調査団は、そこでまた言葉を完全に失った。
遠目には城のようにも見える。だが、近づくにつれて、それだけではないことが分かった。
巨大な外壁。分厚い門。増築を重ねた通路。高所の足場。広い居住区。作業場。水場。寝床。倉庫らしき建物。大小さまざまな出入口。 軍事施設のようで、屋敷のようでもあり、牧場のようでもあり、工房のようでもある。
一つの目的で整えられた建物ではない。増えていったのだ。必要に応じて、何度も何度も広げられた場所。ファミリア達のために。 調査団にはそれが分かった。そして、それがまた異常だった。
この場所は、ただの魔物の巣ではない。確かな生活の場だ。
ライラは入り口近くの広い空間へ私達を案内した。そこは、明らかに少し片づけられていた。
大きな机がいくつか置かれている。人間用に使えそうな椅子もある。水を入れた容器。布。簡単に休めそうな長椅子。荷物を置ける場所。 広さは十分だった。大きなファミリア達が近づきすぎないよう、少し離れたところに待機できる空間もある。
「ここなら、座れると思います」
ライラは少し不安そうに言った。
「ちゃんとした客間みたいなのは、まだあんまり用意できてないんですけど」
「いえ、十分です」
将官が答えた。十分どころではない。禁忌の島の中心で、人間を座らせる場所が用意されている、それだけで異常だった。
そっとライラを見る。
「準備してくださっていたんですか」
「うん」
ライラは頷いた。
「リィナが、また誰かと来るかもしれないと思って。そうなったら 座るところと、ご飯がいるかなって」
その言葉に、胸が痛んだ。 ライラは本当に、来客を想定していた。敵ではなく、調査団でもなく、王国の目でもなく。ただ、私が誰かを連れてくるかもしれないから。座る場所と食事が必要だと思っていたのだ。
その純粋な善意が、今は少しだけ苦しかった。
「ありがとうございます」
言うと、ライラは少し安心したように笑った。
「大丈夫そうなら、食事を出します」
その言葉で、調査団の空気がまた変わった。 食事。本当に食事を出すらしい。禁忌の島で、国家滅亡級の存在達に囲まれたまま。
私は、今日何度目か分からない胃痛を覚えた。
◆
食事は、思っていたよりもずっと普通だった。 いや、普通という言葉が正しいかは分からない。少なくとも、人間が普通に食べられそうな形をしていた。
焼いた肉。温かいスープ。果物。野菜に似たもの。干し肉。焼き魚。パンに近いもの。保存食らしい塊。 匂いは良かった。むしろ、良すぎた。
調査団は最初、誰もすぐには手をつけなかった。当然だった。未知の島の食材、未知の生物が採取したかもしれない食べ物。宗教的に問題がないかも、毒がないかも分からないのだ。
ライラはその沈黙を見て、少し首を傾げた。
「食べられないもの、ありますか?」
私は慌てて口を開く。
「いえ。皆さん、少し緊張しているだけです」
「あ、そっか」
納得したように頷いた。
「無理しなくていいです。水だけでも」
その言葉もまた、普通だった。何の圧もない、善意の食事。 私は、まず自分の皿を取った。
「私が先にいただきます」
将官が一瞬こちらを見る。私は頷いてみせた。
「大丈夫です。私はここで食事をいただいていました」
肉を一口食べる。温かい。柔らかい。懐かしい味だった。
それを見て、神官が少し安心したように息を吐いた。護衛兵の一人が慎重にスープを口に運ぶ。船員が焼き魚を少しだけ齧る。 そして、数秒後。
「……うまい」
誰かが呟いた。それが合図だったように、調査団の食器が動き始める。
「これ、何の肉だ?」 「聞かない方がいいかもしれん」 「だが、うまい」 「スープも……何だ、このコクは」 「保存食まで普通に食えるぞ」 「普通どころじゃないだろ」
船員達の表情が、少しずつ、確実に緩んでいく。兵士達も完全に警戒を解いたわけではないが、緊張で固まっていた肩がわずかに落ちた。
研究者達は、食材に異常な興味を示し始める。
「これは島の植物か?」 「この肉の繊維、既知の家畜と違うような」 「調理法も気になるな」 「保存状態が良すぎないか?」
教授は彼らを見て、静かに言った。
「今は食べなさい。記録は後でもできます」
もっとも、教授自身もスープを一口飲んだあと、しばらく器を見つめていた。味に、あるいはその調理技術に驚いたのだろう。
ライラは、彼らの反応を見て少しほっとしたようだった。
「足りなかったら言ってください。おかわりあります」
その普通すぎる言葉に、調査団はまた少し戸惑う。ここは禁忌の島。なのに、出てきたのは温かい食事とおかわりだった。
◆
食事が進み、少し空気が緩んできた頃。 ライラが、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、飲み物もあります」
水のことかと思った。だが違った。ライラは倉庫の方へ向かい、少ししてからいくつもの容器を運ばせてきた。
主任が手伝っていた。ヘルメットを被ったまま、無言で樽のようなものを並べていく。 それを見た船員の一人が、目を丸くした。
「酒か?」
「たぶん、ビールです」
ライラは言った。
「私は飲まないので、ずっと残ってたんですけど。大人の人が多いなら、飲むかなって」
私は樽の数を見た。一つや二つではない。明らかに多い。
「これほどの量を……?」
「昔、誰かがたくさん作ってたので」
ライラの答えは曖昧だった。 かつて聞いた、彼女の曖昧な記憶の話を思い出す。ライラには、この世界のものではないような記憶があり、その中には仲間のような人達もいたらしい。悪ふざけで大量に作った、そういうことなのだろう。今は深く聞くべきではない。
ビール自体は、この世界にもある。王都の酒場にもあるし、地方の祭りでも飲まれる。 だから最初の反応は、少し気が紛れるかもしれない、という程度だった。
船員が一杯を受け取り、匂いを嗅ぎ、少し目を細めて、飲んだ。 次の瞬間、彼は動きを止めた。
「……何だ、これは」
隣の兵士が警戒する。「何か入っているのか」
「違う」
船員はもう一口飲んだ。「うまい」
その一言に、周囲の目が集まる。
「ビール、だよな?」 「ビールだ。だが、俺の知ってるビールじゃない」
別の船員も飲む。目を見開く。
「雑味がない」 「香りが違う」 「保存してあったんだよな? これで?」 「冷えてる……のか? いや、温度がちょうどいい」 「もう一杯、もらえるのか?」
ライラは普通に頷いた。「たくさんあるので」 その言葉で、船員達の表情が一段明るくなった。兵士達も少しずつ杯を受け取る。神官は迷った末に少量だけ飲み、目を丸くした。若い研究者は発酵技術について何か言おうとして、教授に視線で止められた。
調査団の空気が、目に見えて緩んでいく。
「禁忌の島で飲む酒が、人生で一番うまいとは思わなかったな」
船員の一人がぽつりと言った。近くにいた兵士が、思わず吹き出しかける。 緊張で張り詰めていた空気に、初めて人間らしい笑いが混じった。
その光景に、私は少しだけ安堵した。 戦闘になっていない。調査団は食事をしている。笑い声もある。ライラは敵意を持っていないし、ファミリア達も攻撃していない。 最悪ではない。むしろ、考え得る中ではかなり良い流れだった。
ただし、胃は痛い。 なぜなら、ライラは何も狙っていないのに、結果として調査団の警戒を少しづつ緩めているからだ。 食事、水、酒、座れる場所、ファミリア達への配慮。それらすべてが、無自覚に強固な信頼を作っている。
複雑な気持ちでライラを見た。彼女はただ、足りているかを気にしているだけだった。
「おかわり、あります。ビールもまだあります」
その言葉に、何人かの船員が小さく歓声を上げた。私は心の中で額を押さえたくなった。
◆
将官は、ビールを一口だけ飲んだ。 美味い。それは認めざるを得なかった。王都の酒場で出るものより、明らかに質が高い。貴族向けの高級酒と比べても、劣らないどころか、種類が違うとすら思える。
しかし、将官の警戒は緩まなかった。むしろ別の意味で強くなる。 この食事と酒で、兵士達の緊張が緩んでいる。船員達の顔にも笑みが戻りつつある。研究者達は完全に目を輝かせている。
もしこれが意図的な懐柔なら、恐ろしく巧みだ。だが、少女を見れば見るほど、そうは見えない。あの少女は、本当に来客に食事を出しているだけだ。
それが、逆に厄介だった。計算された外交なら、意図を読める。だが、無自覚な善意でこれほど場を動かされると、読みようがない。
将官は杯を置き、周囲を見やる。 カイザー、飛ばれた呼ばれてたあの個体は離れた場所にいるが、存在感は消えない。シルヴィアは私の近くにいたがり、時折ライラや私に注意されている。上空にはワイバーン、遠くには大型の影、海側にも、おそらく何かがいる。
そして、この場所には食料があり、水があり、倉庫があり、作業場がある。採取組が資材を運び、主任と呼ばれた存在がそれを手際よく整理している。
これは、単なる魔物の群れではない。生活基盤を持った、長期滞在可能な戦力集団だ。しかも、その戦力の上限が見えない。
将官は、胸の奥が冷えるのを感じていた。 この島と敵対してはならない――それはもう、判断ではなく結論に近かった。
問題は、向こうに敵対意思があるかどうかだ。ライラに外界を侵す意思はあるのか。人類を敵と見なすつもりはあるのか。ファミリアを傷つけられた時、どこまでやるのか。 確認しなければならない。この場で、できる限り早く。
教授もまた、将官とは違う角度から警戒を解いていなかった。ビールの味には驚いたが、それ以上に気になっているのは、発酵技術、保存状態、温度管理、原材料、そして倉庫に大量に残っていたという事実だった。
「保存方法が分からない」
教授は小さく呟いた。
「この湿度、この気温、この環境で、品質がここまで安定している。樽の材質も見たことがない。発酵の管理が雑ならこうはならない。いや、そもそも原料は何だ……?」
若い研究者が聞きつけ、身を乗り出しかける。教授はすぐに手で制した。
「今は近づきすぎないように。見られる側でもあることを忘れてはいけません」
そう言いつつ、教授自身の目も輝いていた。生物だけではない。食文化、保存技術、倉庫、生活水準、意思疎通、作業分担。調べたいものが多すぎる。だが、ここで軽率に動けば、すべてが終わる。教授はそれを痛いほど理解していた。理解しているからこそ、筆を握る手だけが忙しかった。
◆
食事の場は、少しずつ宴会のような空気へ変わっていった。もちろん、本当の意味で安心した者はいない。
周囲にはファミリア達がいる。カイザーは少し離れているだけで、いなくなったわけではない。シルヴィアは私の近くにいる。上空にも影がある。 それでも、人間は温かい食事と美味い酒に弱い。
船員達の声が少し大きくなった。兵士達も、互いに小声で感想を言い合うようになった。若い研究者達は、食べながらも周囲を見て目を輝かせている。
「あの小型個体は家畜に近いのか?」 「いや、家畜というより自由に動いている」 「採取物を運んでいる個体は、訓練されているようにも見えるが」 「ライラ殿の声で動いた。だが、命令というより会話に近い」 「個体名はあるのだろうか」 「シルヴィアという名は確認した。カイザーも個体名か?」 「聞きたいことが多すぎる」
「今は食べなさい」
教授が何度目か分からない注意をする。
私は、シルヴィアの鼻先を横目で押し返しながら、王国側とライラ側の間を行き来していた。
「シルヴィアさん、近いです」
シルヴィアが少し下がる。
「ライラさん、神官の方はお酒を少なめに」
「あ、分かった」
「そちらの肉は、たぶん大丈夫です。私も食べたことがあります」
「大丈夫です」
「教授、その子には近づかないでください。好奇心で寄ってくるだけですが、向こうも驚くかもしれません」
「承知しています」
「研究者の方々、今は記録より食事を優先してください。いえ、記録するなとは言っていません。ただ、立ち上がらないでください」
やることが多すぎる。胃が痛い。 だが、最悪よりはずっといい。誰も死んでいないし、誰も武器を抜いていない。ライラも困っていないし、ファミリア達も落ち着いている。王国調査団も、少しずつこの場所が即座に自分達を殺すつもりではないと理解し始めている。それだけで十分だと思うことにした。
ライラは、そんな私の忙しさを少し心配そうに見ていた。
「リィナ、疲れてない?」
「疲れていないと言えば嘘になりますが、大丈夫です」
「座る?」
「座ると、たぶん別の問題が起きます」
「別の問題?」
ライラは首を傾げるが、説明している時間はなかった。私が座った瞬間、シルヴィアがさらに近づく可能性が高い。研究者達が質問を始めるかもしれない。神官が聖竜について聞き始めるかもしれない。将官が真顔で何かを確認しに来るかもしれない。どれも胃に悪い。
「もう少し、このままで」
「そっか。無理しないでね」
ライラの声は本気で心配してくれていた。少しだけ笑う。
「ありがとうございます」
やはり、この少女は何も狙っていない。ただ、気遣っているだけだ。それが、どうしようもなく危うくて、どうしようもなく救いだった。
◆
宴会のような空気が広がる中、将官だけは静かに杯を置いた。
周囲の声は少しずつ大きくなっている。船員達はビールの味について話している。兵士達はまだ緊張を残しながらも、少しだけ表情が緩んでいる。研究者達は教授に止められながらも、記録帳へ次々と何かを書き込んでいる。 ライラは、食事が足りているかを確認している。私は、シルヴィアと研究者達の間で忙しそうにしている。
この場だけを見れば、奇妙な歓迎の席だった。だが、将官には別のものが見えていた。
もしライラが命じれば、カイザーは動くのか。シルヴィアは飛ぶのか。上空のワイバーン達は降りてくるのか。海中の何かは船を沈めるのか。 ファミリア達は、どこまで彼女の言葉を聞くのか。そして、彼女自身は何を望んでいるのか。
将官は、ライラの表情を見た。警戒されていることに、どこまで気づいているのか分からない。自分達がどれほど恐怖しているのかも、おそらく完全には分かっていないのだろう。今の彼女が気にしているのは、食事が足りているか、私が疲れていないか、ファミリア達が近づきすぎていないか、そのくらいなのだろう。
だが、それだけでは済まない。王国として、確認しなければならないことがある。 この少女に、征服の意思はあるのか。人類を敵と見なす可能性はあるのか。もしファミリア達を傷つけられた時、どこまで報復するのか。この島が、王国にとってどのような存在になるのか。
将官は、静かに立ち上がった。 私がそれに気づいた。嫌な予感がした。今日何度目か分からない胃痛が、また胸の下を締めつける。
将官はライラのもとへ歩み寄った。姿勢は丁寧だった。声も礼を失っていない。
「ライラ殿」
ライラが振り向く。「はい?」
「少し、二人でお話をしてもよろしいでしょうか」
ライラは首を傾げた。その言葉に含まれる重さを、たぶん理解していない。
「えっと、ここじゃなくて?」
「できれば、静かな場所で。長くは取りません」
私は思わず一歩踏み出しかけた。教授が、ちらりとこちらを見る。彼も何かを察しているようだった。
宴会場は、まだ騒がしい。船員達の声、兵士達の小さな笑い、研究者達の抑えきれない興奮、シルヴィアの低い喉鳴り、遠くのファミリア達の気配。その中で、将官だけが異様に静かだった。
ライラは少し考え、頷いた。
「分かりました。外でいいですか? 風、気持ちいいので」
「構いません」
私の胃が、さらに痛くなった。
ライラは何も分かっていない。将官は何かを確かめようとしている。そして、その確認は、おそらく王国の命運に関わる。
外のバルコニーへ続く扉が開く。夜風が入り込んだ。 遠くには森の気配があり、空にはワイバーンの影が巡っている。海側からは、低い水音がかすかに聞こえた。
ライラは不思議そうな顔のまま、将官と共に外へ向かう。 私はその背中を見送りながら、心の中でただ祈った。
どうか。どうか、次の会話が、取り返しのつかないものになりませんように。