外に出ると、宴の音が少し遠くなった。
扉の向こうからは、まだ調査団の声が聞こえていた。船員達の低い笑い声や兵士達の抑えた話し声、何かを聞きたくて仕方がない若い研究者達の囁きと、それをたしなめる教授の声。けれどバルコニーへ一歩出ただけで、それらはすっと薄くなり、代わりに島の夜の音が戻ってきた。森の奥で葉が揺れる音と、遠くの岩場に波が当たる音、高いところで翼が風を切る音。それから、海の下から響いてくるような、低い水音。
ライラにとっては、どれも聞き慣れた家の音だった。
手すりのそばまで歩いたところで、ライラは足を止め、門の方へ目をやった。暗がりの中に、大きな影が二つ並んでいる。カイザーとシルヴィアだった。言われたとおり、離れたところから、ちゃんとこちらを見てくれている。
それを確かめてから、ライラは振り返った。
扉を背にして立つ将官の腰には、剣が下がっていた。手を伸ばしても届かず、二歩踏み込んでようやく届く距離。気がつくとライラは、自分と相手のあいだに、ちょうどそれだけの間を空けて立っていた。どうしてそこで足が止まったのかは、自分でもよく分からなかった。
バルコニーからは、家の一部と、その向こうに広がる暗い森が見えた。月明かりに照らされた外壁は、城のようにも大きな屋敷のようにも見えるけれど、王国の城とはきっと根本から違うのだろう。大きすぎる門に、大きさのばらばらな出入口、高い足場、地面に残る巨大な足跡。人間だけのために作られた場所ではないことは、この人にも分かっているはずだった。
ライラは手すりに軽く触れたまま、首を傾げた。
「それで、話って何ですか?」
声だけは、いつもどおりに出せた。
将官は、しばらくライラの顔を見つめていた。何を見られているのか分からなくて、ライラは指先で、手すりの木目をなぞった。
「率直に伺います」
「はい」
ライラが頷くと、将官は遠回しにせずに言った。
「貴女は、王国を征服する意思をお持ちですか」
思ってもみなかった問いに、ライラは何度か瞬きをした。
「……はい?」
「あるいは、人類そのものを敵と見なすお考えはありますか」
夜風が、二人のあいだを流れていった。
ライラは、しばらく言葉が出てこなかった。王国を征服することも、人類を敵と見なすことも、自分の中のどこを探してもない言葉だった。考えたことがない、の一言で終わる話のはずなのに、問いが大きすぎて、かえってすぐには答えられなかった。
ライラが考えていたのは、もっとずっと小さくて、近いことだった。今日の食べ物は足りているか、採取組は無理をしていないか。海の子達が変なものを食べていないか、小型の子達が大きい子の足元に入り込んでいないか。シルヴィアがリィナに近づきすぎていないか、カイザーが門の前でまた動かなくなっていないか。お客さんのご飯は足りたか、ビールを出しすぎていないか、それから、リィナが疲れていないか。考えていたのは、そのくらいのことだった。
「……世界征服、ですか?」
困ったように聞き返すと、将官は頷いた。
「はい」
「考えたこと、ないです」
将官が黙ったままなので、ライラはもう少しだけ言葉を探した。
「人類を滅ぼす、というのも……どうしてですか?」
「貴女にその意思があるかを、確認しています」
「ないです」
今度は、自分でも驚くほどはっきりと答えられた。
「たぶん、じゃなくて、ないです。私は、ファミリア達とここで暮らせれば、それでいいので」
夜の海から、低い波の音が届いた。
「ここが安全で、みんなが食べられて、眠れて、外に出たい子は出られて、家にいたい子は家にいられて、帰ってこられれば、それでいいです」
それから、ライラは正直に付け加えた。
「王国とか、人類とかは……よく分からないです」
それが、本当のところだった。敵意も野心もなく、誰かを従えたいとも思わない。ただ、外の世界のことは、まだ遠かった。ライラの真ん中にあるのはファミリア達とこの家で、海の向こうは、リィナが帰っていく場所であり、今日来た人達が戻っていく場所だった。人がいて、国があって、教会があって、いろいろな決まりがあるらしいけれど、そこをどうこうしたいと思ったことは一度もなかった。
将官は、じっとその答えを聞いていた。その顔が少しずつ硬くなっていくのを、ライラは見ていた。怒っているのではなさそうだった。何かを、ものすごく真剣に考えている顔だった。
やがて将官は、静かに姿勢を正した。
「承知しました」
何を承知されたのか分からなくて、ライラは少し困った顔になった。
「王国軍を代表し、ここに申し上げます。我ら王国は、貴女およびこの島に敵対する意思を持ちません。貴女がこの地に在ることを望む限り、王国はその平穏を侵さぬよう努めます」
「ええと……」
「必要とあらば、王国は貴女に恭順し、忠誠を示す用意があります」
ライラは、完全に固まった。
「……忠誠?」
「はい」
「いや、あの、そういうのは……私は王様じゃないです」
慌てて首を振ると、将官はなぜか、さらに深く頷いた。王を名乗るつもりもなく、肩書きにも興味がない。そういう相手だからこそ、なおのこと慎重に扱わなければならない、とでも言いたげな顔だった。
違う、と言いたかったけれど、何が違うのかをどう説明すればいいのか分からない。ライラは思わず、門の方へ目をやった。暗がりの二つの影は、さっきと同じ場所から少しも動かずに、こちらを見ていた。
◆
ライラが将官と出ていってから、私は広間で、ほとんど何も手につかなかった。
教授に話しかけられても上の空で、研究者達に釘を刺すのも、二度目からは声に力が入らなかった。気がつくと私は、バルコニーに近い窓の前に立っていた。
窓の外に見える門の脇の暗がりに、大きな影が二つ並んでいた。カイザーとシルヴィアで、二頭とも、まっすぐにバルコニーの方を向いていた。
離れて見てて、とライラは言ったのだ。
その言葉の意味が、そのとき急に分かった気がした。将官を怖がらせないために、竜を下げたのではない。少なくとも、それだけではなかった。剣を下げた見知らぬ大人と二人きりになるあいだ、ライラは自分の家族に、見ていてほしかったのだ。浜で初めて王国の人達を前にしたとき、あの子が私の後ろで小さくなっていたのと、同じ理由で。
外を選んだのも、きっと風のためだけではない。あの場所なら、門からよく見える。
窓越しに、将官の背中と、手すりのそばに立つライラの姿が見えた。ちょうど二人のあいだの距離が分かる角度で、ライラは、将官の方へ一歩も近づいていなかった。
私は、扉の方へ歩き出していた。
扉の手前まで来たところで、向こうから将官の声が聞こえた。
「――恭順し、忠誠を示す用意があります」
私は、バルコニーの扉を開けた。
「将官閣下」
声は静かに出せたけれど、焦りまでは隠せていなかったと思う。
「何をなさっているのですか」
ライラが、助かったという顔で振り向いた。
「リィナ」
私は一瞬だけライラへ目を向けてから、将官を見据えた。それに対して、将官はどこまでも真顔で答えた。
「王国の生存に関わる確認をしています」
頭を抱えたくなったけれど、本当にそうなのだろうとも思った。この人はふざけてもいなければ、錯乱してもいない。この島を見て、ファミリア達を見て、ライラを見て、王国が生き残るためにいちばん現実的な対応を考えた結果が、これなのだ。だからこそ、なおさら厄介だった。
「確認の結果、王国が忠誠を誓う方向へ進むのは、かなりおかしいと思います」
「しかし、聖女殿」
「ライラさんは、王国の忠誠など求めていません」
将官の言葉を待たずに、私はすぐにそう言った。
「この方が望んでいるのは、この島とファミリア達の平穏です。王国を臣下にしたいわけでも、人類を滅ぼしたいわけでもありません」
隣で、ライラも何度も強く頷いた。
「はい。そういうのは、よく分からないです」
私は少しだけ息を整えながら、考えた。ここで言葉を間違えれば、王国とライラの関係がおかしな方向へ進んでしまう。忠誠も恭順も臣下も、ライラにとっては重すぎるし、そもそも間違っている。
「ライラさん、ライラさんがいちばん困ることは何ですか。王国や外の人達が何をしたら、困りますか」
今度の問いは分かりやすかったようで、ライラは少し考えてから答えた。
「ファミリア達を傷つけられたら、嫌です。勝手に入ってきて、みんなを攻撃したり、連れていこうとしたり、変なことをされたら困ります」
その答えに、私は小さく頷いてみせた。
「では、それをしなければ?」
「普通に来るなら、お客さんだと思います」
「忠誠は必要ですか」
「いらないです」
「王国を支配したいですか」
「したくないです」
「人類を滅ぼしたいですか」
「どうしてそうなるんですか」
ライラは、本気で分からないという顔をした。
その顔を見て、胸が痛くなった。この少女は本当に、心の底からそう思っているのだ。
世界はこれから彼女を禁忌の島の主人として見て、王国は得体の知れない戦力を背負った存在として扱うだろう。学者達は未知の生き物の中心として見て、教会はそこに神学の意味を与えようとするかもしれない。それなのにライラ本人は、今この瞬間も、ただ困っている。自分は王様ではないし、忠誠もいらない。ファミリア達を傷つけないでほしいし、普通に来るならお客さんだと思う。ライラが考えているのは、本当にそれだけなのだ。
だから私は、将官へまっすぐ向き直った。
「将官閣下。必要なのは忠誠ではありません。相互不可侵です」
一語ずつ、丁寧に置くように言った。
「そして、礼節です。ライラさんの家を侵さないこと、ファミリア達を傷つけないこと、王国側が不用意な敵意を向けないこと。そして、ライラさんの側も王国へ敵意を向けないこと。今必要なのは、その確認です」
「はい。それなら分かります」
ライラが頷くのを見てから、私は続けた。
「王国が忠誠を誓うと言えば、ライラさんは困ります。おそらく、その意味も扱い方も分からないでしょう。ですが、攻撃しない、傷つけない、礼をもって接する。そういう話なら通じます」
将官は、しばらく黙っていた。この少女に征服の意思はなく、人類への憎しみもない。けれど、ファミリアを傷つければ敵になる。それなら忠誠ではなく、相互不可侵と礼節の方がふさわしいと、この人なら分かるはずだった。
将官は、深く息を吐き出した。
「理解しました。では、先ほどの言を改めます」
ライラが、少し緊張した顔になった。
「王国は、貴女とこの島に対し、敵対の意思を持ちません。貴女の家と、ファミリア達の平穏を侵さぬよう、最大限努めます」
ライラは少し考えてから、短く答えた。
「はい。お願いします」
将官が深く頭を下げるのを見て、私はようやく息を吐いた。
胃の痛みは消えないどころか、別の形で増えた気もする。それでも、最悪の誤解だけは避けられた。王国がこの場でライラに忠誠を誓い、ライラがよく分からないままそれを受け取ってしまう、という事態だけは。
ライラは、まだ少し困ったように言った。
「えっと、話は終わりですか? じゃあ、戻ります? まだご飯あります」
将官が一瞬だけ黙り、私は少し笑いそうになった。この少女は、本当に変わらない。王国の存亡に関わる確認をされた直後でも、お客さんのご飯を気にしているのだ。
将官は、少しの間を置いてから深く頷いた。
「戻りましょう」
扉をくぐる前に、ライラが一度だけ門の方を振り返った。暗がりの二つの影に向かって小さく手を上げると、影の片方が、ゆっくりと身を起こした。
◆
三人で広間へ戻ると、場の空気はまだにぎやかだった。
船員達は名残惜しそうにビールを飲み、兵士達は緊張を残しながらも、食事の温かさに表情を緩めている。若い研究者達は教授に止められながらも、ファミリア達や食器や倉庫の作りに目を向けていた。
しばらくして、門の方からシルヴィアが戻ってきた。私を見つけるとすぐに顔を上げて近づこうとしたけれど、ライラに「待って」と言われて、少ししょんぼりしている。その姿を見て、私は少しだけ安心した。
将官の態度は、さっきよりもさらに丁重になっていた。それに気づいた教授が目を細め、何があったのかを察したように私を見たけれど、私は目を逸らした。説明したくなかったし、本当に、どう説明すればいいのかも分からなかった。
将官は広間を見渡して、すぐに判断したようだった。ここに長居をすべきではない、と。この話は一刻も早く国王陛下へ報告しなければならないし、滞在が長引けば、それだけ事故が起きる恐れも、研究者達が好奇心に負ける恐れも増える。王国としての正式な方針が決まる前に、ここに居続けるべきではないのだ。
将官は、ライラの前へ進み出た。
「ライラ殿。本来ならば、さらに確認すべきことは多くあります。ですが、本件は早急に国王陛下へ報告すべきものです。本日は、これにて帰還させていただきたく存じます」
ライラは、きょとんとした顔で目を瞬かせた。
「もう帰るんですか?」
その声には、はっきりと残念そうな響きがあった。
「ご飯、まだあります。泊まれる場所も、少し用意してたんですけど……」
調査団の空気が、また変わった。禁忌の島の主人が、本気で泊まっていけばいいのにと思っている。それがありがたいことなのか恐ろしいことなのか、誰にもすぐには判断がつかなかった。
その声を聞いて、私の胸は痛んだ。ライラは、本当に来客を楽しみにしていたのだ。私が誰かと来るかもしれないと思って、座る場所と食事と、泊まる場所まで準備していた。その善意を、王国の事情で、すぐに終わらせなければならない。
「すみません、ライラさん。王国へ報告しなければならないことが、多すぎるんです」
頭を下げると、ライラは少し寂しそうに頷いた。
「そっか。リィナも帰る?」
「はい。今回は」
「また来ますか?」
私は、答えに詰まった。来ることになるのは、おそらく間違いない。王国はこの島を知り、禁忌の島は、もうただの伝承ではなくなった。この先、何度も会う機会は生まれるはずだ。ただ、それがよい形になるかどうかは、まだ分からなかった。
「……来ると思います。ただ、次はもう少し、ちゃんと話してから来ます」
「じゃあ、また準備しておきます」
ライラのその言葉が、胸に刺さった。
この島は世界から禁忌と呼ばれ、王国は最重要の機密として扱い、軍は敵に回してはならない戦力として見ている。学術院はどの分類にも収まらない未知として記録し、教会は揺れている。それなのにライラは、次の来客のために、また準備をしようとしているのだ。その温度の違いが、どうしようもなく大きかった。
◆
調査団の帰り支度は、慌ただしかった。
研究者達は、明らかに名残惜しそうだった。「まだほとんど見ていません」「せめて採取組の作業だけでも」と口々に言うのを、「今は帰還が優先です」と教授が制したけれど、その教授自身も、名残惜しさを隠しきれていなかった。
船員達は、早く船へ戻りたがる者と、ビールの樽を名残惜しそうに見る者に分かれた。兵士達は、無言で荷物を整えている。一刻も早く帰りたいだろうけれど、ここで気を抜けば最後に事故が起きると分かっているのだ。
神官は最後まで、祈りの言葉を選びかねているようだった。この場所を、何と呼べばいいのか。聖なるものか、禁忌か、魔の巣か、それともただの家なのか。その答えは、まだ出ていないようだった。
ライラは残った料理を見て、少し考えた。
「持って帰りますか?」
船員達の顔が少し明るくなった。将官は一瞬迷ったけれど、丁重に受けた。
「可能であれば、少量を」
研究者達の目が輝き、教授が咳払いをした。
「食用として、です。分析用ではありません」
「教授」
「分かっています。半分は食用、半分は記録用に……」
「教授」
私が低く言うと、教授は少しだけ目を逸らした。
ライラはよく分からないまま、日持ちしそうな食べ物を少し包み、主任が無言で布と箱を用意した。その手際のよさに、調査団はまた固まった。どこまでも手際がよく、どこまでも暮らしの匂いがする。禁忌の島の恐ろしさは、怪物がいることそのものではなく、怪物と呼ばれる存在達が暮らしの中にいることなのだと、私は思った。
やがて調査団が家を出ると、ファミリア達がまた道を開けてくれた。小型の子達は遠巻きに見ていて、採取組は荷物を運びながら、時折こちらを振り返った。上空にはワイバーンが巡り、シルヴィアは私の近くにいたがっては、何度もライラに注意されている。カイザーは門の脇から静かに見送っていて、海の方からは、モサ達の気配がした。
調査団は、来たときよりも落ち着いていた。けれど、恐怖が消えたわけではない。むしろ、分かってしまったからこそ怖くなった部分もあった。この島は、ただ危険なだけではない。暮らし、言葉を交わし、客をもてなしながら、世界を滅ぼしかねない力を抱えたまま、毎日を送っている。それが恐ろしく、だからこそ、敵に回してはならないのだ。
海岸まで戻ると、小舟の支度ができていた。
ライラは、波打ち際まで見送りに来てくれた。
「気をつけて帰ってください。また来るなら、先にリィナに言ってください。準備するので」
将官は、波打ち際で深く礼をした。
「ご厚意、感謝します。次に伺う際は、必ず正式な手順を踏みます」
ライラは、少し安心したように頷いた。
私は最後に、ライラへ向き直った。
「ライラさん」
「うん」
「今日は、本当にありがとうございました」
「こっちこそ、来てくれてありがとう」
その言葉もまた胸に刺さって、私は少しだけ笑った。
「また、来ます」
シルヴィアが顔を寄せてきたので、私はその鼻先に軽く触れた。
「シルヴィアさん、また」
シルヴィアは、名残惜しそうに喉を鳴らした。カイザーも小型の子達も、採取組もワイバーン達も、それぞれの距離から見送ってくれていた。
私が小舟に乗り、調査団もそれに続いて、小舟がゆっくりと岸を離れていく。ライラは、ずっと手を振っていた。
その表情を見て、私は改めて思った。あの人は、本当に王国をどうこうするつもりなどない。ただ、家に来たお客さんが早く帰ってしまうのを、寂しがっているだけなのだ。
◆
帰りの航海は、静かだった。
行きと同じように、何も起きなかった。けれど調査団の誰もが、もう分かっていた。何も起きないことは、安全という意味ではない。見逃され、許されているだけなのだ。海の下にも空の上にも何かがいて、私がいるから通してもらえている。その事実を、今度は多くの者が肌で分かっていた。
船員達は無駄口を叩かず、兵士達も気を張ったままだった。研究者達は記録をまとめようとしては、何度も手を止めていた。記録係の若い文官だけは、揺れる甲板の隅で、島で見たものを順番どおりに書き起こし続けていた。
教授は甲板で、じっと海を見ていた。
「紙に書くには、あまりにも大きすぎる」
小さくそう呟くのを、私は隣で聞いていたけれど、何も言わなかった。
将官もまた、ずっと黙っていた。帰ってからの報告をまとめているのだろう。禁忌の島は実在し、島には主人がいた。主人には今のところ外への敵意はないが、その周りにいる戦力は王国の想定をはるかに超える。敵に回すことは避け、接触は慎重に行い、詳しいことは厳重に伏せる。そして求めるのは、忠誠ではなく、相互不可侵と礼節。
私は船の縁から、遠ざかっていく島を見つめた。もう見えなくなっても、あそこにはライラがいて、ファミリア達がいて、あの家がある。
王国へ帰れば、すぐに報告が始まり、世界が動き出す。そう思うと胃が痛んだけれど、もう止めることはできなかった。
◆
王国へ戻ると、調査団はその足で王宮へ向かった。
将官はその日のうちに緊急の報告を上げ、私も同行を求められた。教授も、学術院の代表として呼ばれた。
報告の場には、国王陛下がいた。宰相と軍の上層部、王国支部の高位聖職者、学術院の代表、記録官。限られた者だけが入ることを許された部屋だった。扉が閉ざされると、外の音が消えた。
将官は、陛下の前で深く頭を下げた。
「報告いたします。禁忌の島は、実在しました。島には主人がいます。聖女リィナ・エルシア殿を救助した人物と、同一と見てよいでしょう。その周囲には、既知の分類と戦力評価を大きく超える存在群がいます。地上、空、海中のいずれにも、確認された、あるいは強く推定される脅威があります。敵対は避けるべきです。王国軍単独での制圧は現実的ではなく、仮に大規模な戦力を投じても、失敗した場合に王国本土への報復を防げる保証はありません」
宰相が静かに息を吸い、高位聖職者は唇を引き結んだ。
続いて、教授が補足のために立った。
「学術院としても報告いたします。島で確認された存在群には、生活圏がありました。役割の分担が見られ、採取や整理、見回り、食事といった行動をとっています。単純な魔物の群れではありません。島の主人とのあいだには意思疎通らしきものが確認されており、支配でも野生でもない関係が見られます。現時点では、聖女リィナ殿が用いた『ファミリア』という語が、最も誤解が少ないと考えます」
その言葉に、私は少しだけ胸を押さえた。恐怖だけで呼ばないためのあの言葉を、教授が使ってくれたのだ。
それから、陛下の視線が私へ向いた。
「聖女リィナ」
「はい」
「あなたの所見を」
私は小さく息を吸ってから、一歩前へ出た。
「島の主人に、現時点で外への敵意はありません。少なくとも私が見た限りでは、王国を征服する意思も、人類を滅ぼす意思もありません。ですが、ファミリア達を傷つけることは、絶対に避けるべきです。あの方にとって彼らは戦力ではなく、家族に近い存在です。あの島に必要なのは、忠誠ではありません。相互不可侵と礼節です」
将官が、隣で静かに頷いて言い添えた。
「島の主人は、ご自分の家とファミリア達の平穏を望んでいます。そこを侵さない限り、対話はできると思います」
陛下はしばらく黙っていて、部屋の誰もが、その沈黙が終わるのを待っていた。
やがて、陛下が短く問うた。
「名は」
私は一瞬だけ目を伏せてから、答えた。
「ライラ、と」
その名が、王宮の最も奥で、初めて記録された。
「ただし」
私は、言葉を切らずにすぐに続けた。
「その名も、姿も、年齢も、性質も、ファミリア達の詳細も、決して外へ出すべきではありません」
将官もそれに同意した。民衆に流せば信仰や恐怖が暴走しかねず、他国へ漏れれば、あらゆる不穏な動きを招くからだ。教授も頷き、不用意に明かすことは島への無礼であり、王国にとっても危険だと述べた。
陛下は、静かに目を閉じた。
陛下が何を量っているのかは、私にも想像がついた。禁忌の島は実在し、そこには主人がいる。その主人は敵意を見せていないが、敵に回せば王国の存続が危うい。けれど、隠しきるには、事はすでに大きくなりすぎていた。聖女の帰還に聖竜の噂、海域の異変、調査団の出航、沿岸に残る伝承。他国や教会がいずれ嗅ぎつけることを思えば、王国が先に公式の見解を出さなければ、噂と憶測の方が先に世界を動かしてしまう。
「発表する」
陛下は、目を開けて言った。
「禁忌の島の実在と、島に主人がいることのみを。詳細は最重要機密とする。島の主人の名、姿、能力、ファミリアの詳細、戦力の規模、聖女リィナとの関係、帰還時の飛竜、海域にいる存在、拠点の構造。すべて伏せよ。王国としての基本方針は、接近の禁止と、許可のない航行の禁止、そして敵対の回避とする。接触は、王国の管理の下でのみ行う」
将官が深く頭を下げ、私も胸の奥で、小さく息を吐いた。
世界はこれから、禁忌の島が実在したことも、そこに主人がいることも知るのだ。けれど、その主人が来客がすぐに帰ってしまったことを残念がるような少女であることは、まだ誰も知らない。
◆
王国の発表は、数日のうちに整えられた。
文面は慎重に練られ、余計な情報は徹底して削られた。信仰からの解釈も、軍事的な脅威の誇張も避け、事実だけが示された。
――王国は、古くより禁忌海域として伝承されてきた海域に、島の実在を確認した。当該島には明確な意思を持つ主人が存在する。王国は当該存在と接触済みであり、現時点で王国に対する敵対意思は確認されていない。ただし、当該海域は極めて危険であり、許可なき接近を固く禁ずる。詳細は厳重に管理する。
その発表は、王国中を揺らした。沿岸の人々は震え、漁師達は禁忌の言い伝えを改めて語り合った。王都では噂に尾ひれがついて広がり、教会は慎重な声明を出した。学術院には問い合わせが殺到し、軍は沿岸の守りの見直しを始めた。当然のように、他国にもその知らせは届いた。
世界は、その事実を知った。
◆
同じ頃、禁忌の島では、ライラが宴の後片づけをしていた。
皿をまとめ、余った料理を確かめ、ビールの樽を倉庫へ戻して、使った布を分けていく。主任が黙々と手伝ってくれて、小型の子達は足元をうろうろしては、ときどき邪魔になった。
シルヴィアはリィナがいないことに不満そうに鳴き、カイザーはいつもの門の脇へ戻っていた。海からはモサ達の気配がして、空にはワイバーン達が飛んでいる。採取組は、もう普段の仕事に戻り始めていた。いつもの毎日が、戻ってきていた。
お客さんは、すぐに帰ってしまった。
空になった皿を見て、ライラは少しだけ頬を膨らませた。
「もう少し、ゆっくりしていけばよかったのに」
それから、皿を重ねる手を止めずに続けた。
「また来るって言ってたから、その時は、もう少しちゃんと準備しようね」
主任が片手を上げたので、ライラは少し笑った。
「うん。主任も手伝ってね」
足元で小型の子が鳴き、遠くでカイザーが低く息を吐いた。海の方からは、ゆっくりと波の音が届いてくる。
世界がこの島の実在を知り、禁忌の島に主人がいると王国が告げたその日、その主人は、初めてのお客さんがすぐに帰ってしまったことを、ただ残念がっていた。
世界は、禁忌の島の実在を知り、そこに主人がいることも知った。けれど、その主人が何を望み、何を大切にしているのかを、世界はまだ誰も知らなかった。
ここで第一部完結です。
一つの区切りということで、質問や短編リクエストなどもあれば受け付けています。
「このキャラのここが気になる」
「ファミリア達の日常を見たい」
「リィナ視点であの場面を読みたい」
「シルヴィアやカイザーの小話が見たい」
など、気軽に書いていただけると嬉しいです。
第二部の合間や番外編として、書けそうなものがあれば拾っていきたいと思います。
質問に関しては、なんでも受け付けてますが、以降のネタバレに関するものは反応しないのでよろしくお願いします。