聖女とは、祈る者である。
神の前に膝をつき、人々の痛みに手を重ね、涙を拭い、病と傷に光を灯す者。少なくとも、神学校の教本にはそう書かれていた。
けれど、ルミナリア聖教会王国支部の執務室で、私は朝から書類の山に埋もれていた。
「……祈る前に、まず分類ですね」
小さく呟き、机の上に積まれた書類を種類ごとに分けていく。
地方教会からの定期報告。施療院の神聖術運用相談。王宮への提出資料。王国立学術院との共同研究資料。他国研究機関からの照会。地方教会の寄付金記録。巡回視察の予定表。そして、海路移動の許可証。
聖印の横に置かれたインク壺と筆は、すでに朝から酷使されている。まだ日が高くなる前だというのに、目の前には今日中に確認しなければならない紙が山になっていた。
聖女とは祈る者である。そして時に、書類に埋もれる者でもあった。
◆
私は十九歳。ルミナリア聖教会アルヴェリア大司教区の聖女である。
孤児として育ち、幼いころから努力して神学校へ通い、十七歳で卒業した。そして卒業と同時に、聖女の称号を授与された。
普通なら、あり得ないことだった。
聖女とは本来、長年シスターとして地域や国に奉仕し、民衆からの信望と功績を認められた者だけが得る称号だ。神学校を出たばかりの少女に与えられるようなものではない。
だが、私は在学中から複数の神聖術を開発し、既存術式の改良にも関わっていた。施療院での奉仕実績も、地方教会での支援記録も、神学校生としては異例の量だった。
私に贈られた聖女という称号は、信仰上の名誉であると同時に、高度な研究実績への評価でもあった。
人々は時折、私を天才と呼ぶ。けれど私は、その言葉が少し苦手だった。
積み上げてきたものは、ただの閃きではない。祈り、記録し、失敗し、検証し、修正し、もう一度試す。何度も何度も繰り返した結果として、ようやく形になったものだ。
奇跡と呼ぶには、あまりに地道だった。
それでも、祈りであることは変わらない。祈りを、誰かを救うための形に変える。そのための努力もまた、私にとっては神聖術の一部だった。
「リィナ様」
扉が控えめに叩かれ、同僚の神官が顔を出した。
「少しよろしいでしょうか」
「内容によります」
筆を止めずに答えた。神官は、明らかに言いにくそうな顔をした。
「地方教会の件ですが、やはり一度見ていただいた方がよいかと」
「寄付金記録に不一致が出ている教会ですね」
「はい。それと、施療記録の方も」
「分かりました。今日中に確認します」
「あ、あと王宮からも照会が来ています。沿岸部の施療院運用について、リィナ様の所見が欲しいと。できれば午前中に、とのことです」
一瞬だけ筆を止めた。そして、ゆっくり顔を上げる。
「午前中に、ですか」
「はい」
「今、私の机の上にあるものが見えますか」
「見えます」
「では、次からは一度に三件までにしてください」
静かに告げると、神官は慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません」
「受けます。ただし、順番です。地方教会の記録を先に見ます。その後、王宮照会。それから学術院への返答。施療院相談は昼食後です」
「昼食は」
「食べます」
即答した。そのあまりの速さに、神官が少し笑う。
「リィナ様、最近よく言われるのですか」
「食べ忘れるなと、施療院の方々に激しく叱られましたから」
「では、こちらで昼食を手配しておきます」
「ありがとうございます」
神官が退出すると、再び書類へ目を落とした。
王国支部では、私はかなり頼られている。地方教会の視察、監査、施療院での神聖術指導、王国立学術院との共同研究、王宮への報告、他国研究機関との文書のやり取り。どれも、本来なら複数の者で分担すべき仕事だった。
けれど、私は読める。
書類が読める。術式が読める。人の嘘が、記録のズレから読める。そして現場に出ても、人々の前で聖女として祈ることができる。
王国支部にとって、それは便利すぎる能力だった。私自身、それは分かっている。分かっていて、頼まれれば手を伸ばしてしまう。
記録の向こうに、助けを待つ誰かがいるかもしれないからだ。
◆
数日後、私は王都から少し離れた地方教会を訪れていた。
白い壁と小さな鐘楼を持つ、穏やかな教会である。見た目だけなら、何の問題もない地方教会だった。
教会の責任者である神父は、私を丁重に迎えた。
「ようこそお越しくださいました、聖女様。このような田舎の教会まで、誠に恐縮でございます」
「こちらこそ、お忙しい中ありがとうございます」
穏やかに微笑み、礼を返した。笑顔は柔らかい。しかし、視線はすでに教会の棚と、机の上に置かれた記録簿へ向いていた。
視察という名目だった。だが、実際には監査だった。
この教会では、ここ半年ほど不自然な点が見つかっていた。施療院へ送られるべき薬品の購入記録があるのに、使用報告が少ない。貧しい患者への無償施療数が極端に少なく、治療失敗の理由に「信仰心の不足」と記された件数が多すぎる。
どれも、ひとつだけなら言い逃れできる。だが、積み重なれば黒い足跡になる。
机に置かれた記録簿を静かに開いた。
「神父様。こちらの寄付金記録ですが、月の初めに薬品購入費として大きな支出があります」
「はい。最近は怪我人も多く、備えとして」
「備えは必要です。では、購入した薬品の保管記録を見せていただけますか」
「もちろんです」
神父は笑顔を保ったまま、別の帳簿を差し出す。それを受け取り、数行目で手を止めた。
「購入量と保管量が合いませんね」
「施療で使った分がございます」
「では使用記録を」
神父の笑顔が、わずかに固まった。
「使用記録は、現場の者が簡略に……」
「簡略で構いません。見せてください」
「聖女様、このような細かな記録まで確認なさるのですか」
「はい」
穏やかに、しかし真っ直ぐに見つめた。
「助けられるはずだった人を、帳簿の外へ追いやらないためです」
神父は黙った。逃げ道が少しずつ、冷徹に塞がれていく。続いて、施療記録を確認した。
「こちらの患者欄。無償施療対象の方が、祈祷のみで帰されています」
「本人の信仰心が足りず、術の通りが悪かったと報告を受けております」
「診察記録は」
「地方教会ですので、そこまで詳細には……」
「信仰を理由に、記録を曖昧にしてはいけません」
静かな声だった。しかし、部屋の空気が一瞬で変わった。
「祈りは大切です。ですが、祈りを隠れ蓑にしてはなりません。治療がうまくいかなかったなら、その理由を記録する必要があります。術者の魔力不足か。術式選択の誤りか。患者側の体力低下か。薬品の不足か。分からないなら、分からないと書くべきです」
帳簿を閉じた。
「信仰心の不足という言葉は、最後に使うべきものです。最初に置けば、それ以上検証しなくてよくなってしまいますから」
神父は反論しようとした。だが、その前に別の紙を差し出す。
「同規模教区の施療数、薬品使用量、無償施療件数の比較です。こちらと比べて、この教会では無償施療が少なすぎます。貧しい患者を、祈祷のみで帰している可能性がありますね。断定はしません。だから確認に来ました」
神父を見つめた。
「今日中に、薬品保管場所、寄付金管理者、施療担当者、無償施療を断られた可能性のある患者の名簿を確認します。よろしいですね」
丁寧な姿勢。だが、それは拒否権のない命令だった。神父は小さく息を呑み、頭を下げた。
「……承知しました」
静かに頷く。私は優しい。けれど、甘くはない。
弱い人に手を差し伸べるためには、弱い人の上に積まれた怠慢や慣例を退けなければならない時があると、知っていた。
◆
監査が一段落した後、教会の裏手にある小さな施療室を訪れた。そこには、近隣の村から来た者達が数人待っていた。
貧しい母子。足を痛めた年老いた漁師。農具で腕を切った労働者。そして、咳が止まらない小さな子供。
私が部屋に入ると、彼らは慌てて立ち上がろうとした。
「そのままで大丈夫です」
すぐに制した。
「今日は確認も兼ねていますが、診られる方は診ます。順番に」
神父達への厳しい姿とは違う。患者へ向ける声は、自然と穏やかになった。
年老いた漁師の足に手を当て、腫れの程度を確認する。すぐに神聖術をかけるのではなく、熱、痛み、動く範囲を確かめる。
「無理に歩きましたね」
「漁に出ねえと食えませんから」
「今無理をして悪化すれば、もっと長く休むことになりますよ」
「聖女様に言われちゃあ、返す言葉もねえな」
老人が困ったように笑う。小さく微笑み、必要なだけ術を施した。
淡い光が足首を包む。劇的な奇跡ではない。痛みを和らげ、炎症を抑え、自然治癒を助けるための術だ。
「完全に治ったわけではありません。三日は無理をしないでください」
「三日もか」
「三日です」
「……はい」
老人は聖女に叱られた子供のように頷いた。次に、母親に抱かれた子供を診る。子供は私を見上げ、小さな声で言った。
「聖女様?」
「はい。リィナです」
「聖女様って、光るの?」
母親が慌てて謝ろうとしたが、首を振って子供の胸に手を当てる。呼吸の乱れを整えるために、淡い光をほんのりと掌から漏らしてみせた。
子供が目を丸くする。
「ほんとに光った」
「内緒ですよ」
言うと、子供は嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、施療室の空気が柔らかく緩む。
私が民衆から慕われる理由は、奇跡の大きさだけではない。記録だけではなく、人をちゃんと見る。だからこそ、祈りが届く場所を間違えないのだ。
◆
また別の日。王都近くの施療院で、若い神聖術師達が集められていた。教壇の前に立つ私は、聖女というより講師だった。
「もう一度、同じ術式を組んでみてください。ただし、今回は第三節の祈祷句を少し短くします」
若い術者が頷き、患者役の人形へ向けて術を発動する。淡い光が走るが、すぐに揺れて細く散ってしまった。
術者は顔を青ざめさせた。
「すみません、信仰心が……」
「違います」
静かに止めた。周囲の年配術者が何か言いかけたが、それより早く声を届ける。
「信仰心だけで片づけてはいけません。祈りは大切です。神聖術が祈りを基盤とすることは変わりません。ですが、術式が乱れた理由を見つければ、次は救える命が増えます」
板に術式を書き直した。
「今の失敗は、祈祷句を短くしたことで補助式との接続が弱くなったためです。魔力の流れが第三節の終わりで途切れ、患者側へ届く前に散りました。信仰心の不足ではありません」
「では、どうすれば」
「補助式を前に置きます。祈祷句を短くするなら、術者側の負荷を下げる代わりに、術式の固定点を増やす必要があります。祈りを否定するのではありません。祈りに、技術を添えるのです」
その言葉に、教室が静かになった。
「現場では、完璧な条件で術を使えることの方が少ないです。術者が疲れている時もあります。患者の体力が落ちきっている時もあります。だからこそ、再現性が必要です」
神聖術は祈りであり、同時に命を救うための技術だ。その二つを切り離さなかった。祈りが心を支え、術式が現場を支える。その両方があって初めて、人は人を救える。
私が神学校在学中に行った改良の多くは、この現場運用に関わるものだった。
術者の魔力消費を抑える補助式。魔力負担を分散する共同詠唱。緊急用の止血術式。術後の痛みを軽減する鎮静術。
それらは派手な奇跡ではない。だが、救える命を確実に増やしたからこそ、私は若くして聖女と認められたのだ。
神への祈りと、人の手で積み上げた技術、その両方を持つ者として。
◆
数日後、私は王国立学術院にいた。
高い書架が並び、研究者達が資料を抱えて廊下を行き交うそこでは、私は聖女というより、一人の研究者として扱われていた。
「リィナ殿。先日の共同詠唱式ですが、術者三名までは安定します。しかし四名になると魔力干渉が増えます」
「第三術者と第四術者の接続位置が近すぎます」
資料を見ながら即座に答えた。
「祈祷句の節を分けるなら、第二節と終節に補助式を移してください。中心術者へ魔力負荷が偏らなくなります」
研究者が目を細める。
「試しましたか」
「施療院で二例。ただし条件が違うので、再現確認が必要です」
「さすがですな」
「まだ仮説です。仮説の段階で運用しないでください。特に重症患者には」
「耳が痛い」
研究者が苦笑する。机の上には、複数の術式図が広げられていた。
回復術式の安定化。魔力消費の分散。私はそのどれにも意見を出し、改善案を書き込んでいく。
その時、ひとつの補助式を紙の端に書いた。隣にいた若い研究者が、ふと目を留める。
「今の補助式、王国式ではありませんね。法国式でもない。東方系の記録に似ていますが、少し違う」
「……記録には残さないでください」
静かに言った。
「理論上、有効だっただけです」
「扱えるのですか」
「検証しただけです」
「検証しただけで書けるものではありませんよ」
感心されたが、困ったように視線をそらした。
「神聖術は、祈りに由来します。ですが、祈りの形は地域によって違います。違う形の術式にも、学ぶべき点はありますから」
「それを、聖座の保守的な方々が聞いたら卒倒しそうですな」
「ですから、記録には残さないでください」
苦笑した。
王国式、法国式、地方教会に残る古い祈祷、他宗教由来の治癒術式。研究のために、それらを広く読んでいた。信仰を軽んじているわけではない。むしろ、人々が祈りの中で積み上げてきたものを、どれも軽んじたくなかった。
だが、その姿勢は保守的な者達から見れば危うい。
信仰の境界を曖昧にする者。神聖術を理論化しすぎる者。
私は聖女でありながら、教会の曖昧さを記録と実態で確かめてしまう人物だった。だから、煙たがられる。
◆
その日の夕方、王国支部に戻った私の机には、法国方面から届いた書簡が置かれていた。見覚えのある封蝋を見ただけで、同僚の神官が少し顔をしかめる。
「また法国からですか」
「そのようです」
封を切り、文面を目で追った。書かれている言葉は丁寧だったが、要するにこういうことだった。
若年での聖女称号について、改めて慎重な振る舞いを求める。王宮との距離が近すぎるのではないかという懸念。地方教会監査において、信仰共同体の慣例を軽んじぬようにという忠告。神聖術研究において、祈りの本義を見失わぬようにという注意。他流派の術式に関心を持つことへの遠回しな苦言。
若すぎる聖女。
王宮に近すぎる聖女。
教会内部の不正を記録で暴く聖女。
神聖術を理論化しすぎる聖女。
それが、法国や保守的な教会関係者から見た私だった。
「リィナ様も、大変ですね」
同僚が小さく言う。書簡を丁寧に畳んだ。
「慣れています」
「慣れていいことではないと思います」
「そうですね」
苦笑した。
「ですが、書かれていることが全て間違っているわけでもありません。私が若いことは事実ですし、王宮との距離が近いことも事実です。他流派の術式に関心があることも、否定できませんから」
「それでも、リィナ様がいなければ見過ごされていたこともあります」
「だからこそ、余計に煙たがられるのでしょう」
静かな言葉だった。怒りでも諦めでもない。ただ、そういう世界なのだと理解している声だった。
書簡を資料箱に入れ、別の書類へ手を伸ばす。煙たがられても、仕事は減らない。むしろ、増えるのだ。
◆
さらに数日後、私は王宮付属の小会議室に呼ばれていた。
王宮側の担当官は、中年の落ち着いた男だった。彼は私を一人の聖職者としてだけではなく、実務担当者として扱う。
「地方教会の監査報告、確認しました。寄付金と薬品記録の件は、王宮としても動きます。あなたの報告があると、王国としては非常に動きやすい」
「買いかぶりです。ですが、報告を使うなら、現場改善を第一にしてください。責任追及だけが先に立てば、患者や貧しい人々が置き去りになります」
「承知しています」
担当官は頷き、次の資料を差し出した。
「それで、今回お願いしたいのは沿岸地方への出張です。陸路では時間がかかりすぎます。沿岸教会の一部は、船で回った方が早い」
「分かりました。準備します」
即答した。担当官は少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「あなたにばかり頼む形になっている自覚はあります」
「困っている人がいるなら、行きます」
「それを言うと思っていました」
「なら、聞かないでください」
少しだけ苦笑すると、担当官も小さく笑った。
その時点では、何も特別な依頼ではなかった。沿岸地方へ向かい、教会を見て、施療院を指導し、症状を調査し、必要なら神聖術を使う。
いつもの仕事の延長だった。
誰も知らなかった。その海路の先に、戻らない船と、禁忌の島が待っていることを。
◆
出発前夜、私は自室で荷物を整えていた。
机の上には、旅に必要なものが丁寧に並べられている。
聖印。神聖術の記録帳。研究ノート。薬品。包帯。旅装。王宮からの紹介状。教会支部からの文書。学術院への資料。船旅用の簡易防護具。祈るための小さな聖句集。そして、予備の筆とインク。
荷物だけ見れば、自分がどういう人間なのか分かる。祈る者、記録する者、調べる者、治す者、現場へ向かう者。どれも欠けてはいけなかった。
窓の外には、夜の王都が広がっている。
私には帰る場所がある。仕事がある。待っている人がいる。注意する上司がいて、書類を持ってくる同僚がいて、続きを教えてほしいと言う若い術者がいて、共同研究の返答を待つ研究者がいる。
そのすべてが、私の確かな日常だった。
聖印を手に取り、短く祈った。
「どうか、この旅路が必要な場所へ届きますように」
祈りを終えると、聖印を布に包み、荷物の一番取り出しやすい場所へ入れる。疲れていた。けれど、行くことに迷いはない。
誰かが待っているなら、そこへ行く。
それが、私という聖女だった。
◆
出航当日の港は、よく晴れていた。
空は高く、海は穏やかだった。
私は旅装で船の前に立っていた。見送りに来たのは、王国支部の同僚、施療院の若い術者、王宮の担当官、そして以前私が治療した子供とその母親だった。
「リィナ様、どうかお気をつけて」
「戻られたら、術式の続きを教えてください」
若い術者が緊張した声で言った。
「次は補助式の位置ですね。帰ってきたら、続きをしましょう」
微笑むと、術者はほっとしたように頷いた。
王宮担当官は、紹介状の入った封筒を改めて差し出す。
「現地で何かあれば、この書状を使ってください。無理はなさらないでくださいよ」
「できる範囲で」
「それは無理をする人の返答です」
少しだけ目をそらした。母親に手を引かれた子供が、私を見上げる。
「聖女様、また光る?」
「必要な時だけです」
「じゃあ、帰ってきたら?」
「必要ですか?」
「見たい!」
困ったように笑った。
「では、少しだけね」
子供が嬉しそうに頷く。そのやり取りを見て、周囲の大人達も少し笑った。
穏やかな朝だった。
何事もなく、いつものように帰ってくるはずの旅だった。
船に乗り、甲板から港を見下ろすと、見送りの人々が手を振っていた。
「行ってまいります」
船が、ゆっくりと岸を離れる。王国の港が少しずつ遠ざかっていく。
教会の尖塔、施療院の屋根、遠くの王宮、学術院の塔。
そこには、私の帰る場所があった。私を待つ仕事があった。人々がいた。
だから、後に禁忌の島で目覚めた時、私は「帰らなければならない」と強く思うことになる。確かな帰る場所があったからだ。
船は青い海へ進んでいく。
私はその日もいつも通り、誰かを助けるために旅へ出た。
その海の向こうに、祈りも記録も届かなかった島が、私の運命を変える場所が待っていることを、まだ何も知らないまま。